意外と「日本」が影響している

文化にはいろんなパターンのきっかけと、三つの発達がある。
・自国で独自に発展する。
・外国からの影響を受ける。
・自国から外国へ影響させている。

たまたまではなくて、確信的に「鎖国令」をだして島国のなかに閉じこもったのが、300年弱もあったから、自国で独自に発展するのは必然的でもあるし、意図的でもある。

もちろん、むかしの交通手段・技術をかんがえれば、「島国」とはそういうものだ。
だから、世界で大陸に近い島国は、かならず大陸側と仲が悪いことになっている。

イギリスとフランス、インドとスリランカ、台湾と大陸、日本と大陸といった具合である。
巨大な大陸に、文化的にも「呑み込まれる恐怖」は、かならず「拒絶」になるからである。

しかも、拒絶感が「防衛本能」を呼び起こして団結するから、たいがい「島国」のほうが、文化的・軍事的優位性を保持する傾向が高い。

日本が鎖国できたのは、極東という地の利のラッキーもあるけれど、武士集団による強大な軍事力と、農業国家としての食糧自給があった。
いま、鎖国「できない」のは、これらの条件が希薄になったからでもある。

薩・長(アメリカなら「州」)ともに、外国艦隊との戦に「負けた」ことになっているけど、連邦政府たる幕府(アメリカなら「ホワイトハウス」や「国防総省」)の許可なく、勝手に外国と戦争をした「罪」のほうが強く問われることが重要なのだ。

そして、罪を問われて「征伐」されるはずの薩・長が、逆に連邦政府軍を打ち負かしたのが明治維新だ。
これを、アメリカの「南部」の州は研究している。
それでいま、南部各州が連邦政府に、むき出しの「対抗」をはじめた。

すると、もしや、アメリカで「維新」が起きるやもしれぬ。
その「徴候」として眺めると、なかなかに興味深いことがもう起きている。

現連邦政府・民主党の大票田、東部ニューヨーク州における知事罷免に対する超党派の動き、西部カリフォルニア州では、知事リコール請求署名が、必要150万筆に対して、すでに200万筆を突破した。
それで、トランプ氏の長男が、次期ニューヨーク州知事選への立候補を表明している。

これらの動きさえ、わが国の「民主党政権」の崩壊過程とその後の第二次安倍政権誕生のシナリオに酷似しているのである。
トランプ氏の「戦略的作戦」は、選挙に負けても政治で勝つ、であったろう。

極左的かつ強引な幹部たちに嫌気をさして、民主党員たちの共和党への「移籍」も、ジワジワと広がって、「運動」になりつつある。

しかし、肝心のわが国は、真似されたオリジナルのはずなのに、どういうわけか、アメリカ民主党化してしまった。
「産軍複合体」を支持基盤にすることの、「カネの魔力」に脳が冒されてしまったようだ。

話は変わって、昨日の「春雷」による豪雨もあって、各地で被害があることにお見舞いを申し上げながら、避難所における「感染予防」という「愚挙」が、相変わらずである。
とっくに、データは、ふつうの風邪を示している。

今日3月14日は、「ホワイトデー」であるとされている。
だれが決めたかといえば、日本のキャンデーメーカーの組合である。
前月、2月14日の「バレンタインデー」に対する、「返礼」という「需要を創造した」のである。

正確にいえば、1978年(昭和53年)に、全国飴菓子工業協同組合(全飴協)が、「創設」したのである。
もちろん、ターゲットは当時の「ティーン・エイジャー」だ。
二十歳になる1958年頃の生まれから若い層を狙ったので、それ以前の層には「なにそれ?」だったはずである。

見よ、この「商魂」。

しかし、「なにそれ?」が、すぐに「はは~ん」になったのは、「バレンタインデー」があったからである。
初見は、1936年(昭和11年)、神戸の「モロゾフ」だという。
戦後の「高度成長」まっさかり、昭和30年代になって、大手製菓メーカーが「キャンペーン」を連発する。

こうして、ローマ帝国のキリスト教聖人(殉教)のはずで、チョコレートとは縁のないひとの逸話を利用した、わが国「独自の文化」となった。
だから、キリスト教国に、チョコレートを恋人に送る習慣はなく、ましてや、女性からの「告白」という意味もない。

まことに、外国の宗教を、「効く」なら利用するとする、「機能だけ」を重視する奈良・平安の文化がいまに至る、おそるべき日本人の宗教観が背景にある。
むしろ、外国由来の宗教は「宗教とはみなさない」というわが国独自の宗教文化そのものなのである。

そんなわけで、昨今の「まんが輸出」が、各国の若者にこうした宗教観を伝播させていて、とうとうヨーロッパでも、女子によるドキドキの告白が、「チョコレート」を介して行われるようになってきた。

じつは、女性が主導するという文化も、あんがいと「日本独自」なのである。
異論もあるけど、なにしろ「最高神」は、女性とされる「天照大神」なのである。

女性を最高神にしている国は、日本以外に「ない」のだ。
これが、わが国における「フェミニズム」の胡散臭さの原因なのである。

外国製の「フェミニズム」が、日本では採用・普及されないのは、「効かない」からであって、その理由は、「フェミニズム」がいう「女性」より、もっと偉大な女性がとっくにいるからである。

天孫降臨後、男性の天皇が「最高位の祭主」なのは、主神たる女性を「崇めるため」である。
だから、天皇は男系でなければならぬ。
かくも、女性を絶対上位におく制度を、「男尊女卑」という専門家とは、なにを学んでどんな意図があるのかとうたがうのである。

世界を救うのは、天照大神だと気がついた外国の「まんがオタク」たちが増えると、ホワイトデーも世界に普及するにちがいない。
「白無垢」の「白」だから、外国では絶対に新郎が着ない、「白づくしのスーツ」さえ、文化輸出の対象になるのである。

還暦記念に

ガソリン値上げと首相の謝罪

ガソリン値上げが続いている。
「15週連続値上げ」がニュースになった。
カレンダーで数えれば、昨年の12月はじめから、ということである。

その辺りでなにかなかったか?
11月30日にOPECは定時総会を開催していて、翌年(つまり今年)の「協調減産」をテーマにしている。
これまでの減産幅を「縮小(つまり増産)」する案が、通りそうもない、という報道をみつけることができる。

それで、従来レベルの減産を2月から3月まで続ける、ということなので、結局、「これ」が主たる要因である。
しかも、アメリカの政権交代した日(1月20日)に、新大統領は、早速に「反・シェール革命」を実行した。

これで、アメリカが「産油国・純石油輸出国」から、「輸入国」へと転じてしまった。
より中東原油の「需要が高まった」のである。
もちろん、アメリカ国内のガソリン価格も急騰している。

だから、「自然」の成り行きによる、価格上昇ではなく、すべて、「人為」である。

石油価格があがれば、ほぼすべての商品・サービス価格も上昇する。
輸送コストが上昇するし、発電コストも上昇するからである。
従来からの、「デフレ脱却政策」における、インフレ目標は、石油価格上昇によって達成できそうなところにあった。

しかし、これは、「悪いインフレ」である。
経済の活況による「よいインフレ」ではないからだ。
しかも、政府は一丸となって、経済を悪化させる政策を好んで採用してきた。

もちろん、「コロナ対策」という欺瞞政策のことである。
なので、石油価格の上昇は、今後の日本経済どころか、世界経済に悪影響をあたえることは確実だ。

すると、日米の政府共通になった、経済政策課題である、国民の「貧困化」が達成できるかもしれない。
世界のGDP第1位と3位の貧困化こそ、地球規模での「社会主義革命」達成のための条件なのだ。

そんなわけで、姑息な日本政府は、「レジ袋」でうま味を得たのをいいことに、こんどは「プラスチック製のスプーンやフォーク」を有料化するとぶち上げた。

法改正を「しない」で、レジ袋の有料化に成功したのだから、あとはなんでもできる、とした予測が的中することになった。
まさに「蟻の一穴」的な、「突破」だったのである。

このようにして、政府によって国民の「自由が奪われる」という、物語が現実となっている。
これは、国民政府の崩壊であって、国民と政府の「分離」という現象を観察している、ということだ。

民主主義の終わり、なのである。

ちなみに、レジ袋とスプーンは材質がちがう。
レジ袋は、原料自体が「ゴミ」だった。
石油精製から生まれる「最終廃棄物の再利用」という「エコな発明品」を、なぜか目の敵にしたのである。

これも、国民貧困化のための「人為」なのだ。

すると、緊急事態宣言を延長したことを「詫びた」、首相の意図も理解できる。

ほんとうは、緊急事態宣言もなにもぜんぜん必要性なんかない。
でも、せっかく国民も思い込んだ「コロナパンデミック」が起きているから、これを国民を支配するための政府としては、利用しないでおけない、ということだ。

だから、「ごめんね、ごめんね」。

一国の総理として、本気で国民に「詫びる」なら、また責任ある立場であると自認すればするほど、「総辞職」がふさわしい。
なにしろ、「総理大臣」なのだ。
しかも、戦前の総理大臣とは次元がぜんぜんちがうほど、独裁的で「えらい」のが、日本国憲法下の総理大臣だ。

でも、総辞職なんかできないし、ましてや解散をや。

とはいえ、年内に衆議院総選挙はやらねばならぬ。
にもかかわらず、国民の意識は高まらない。

せいぜい都知事をいじめて、あわよくば失脚させるぐらいだ。
でも、神奈川県知事も、埼玉県知事も千葉県知事も、みんな「テキトー」に、政府に要請したことがばれたし、神奈川県知事にいたっては、それをばらしたことの自分の責任もわからない御仁である。

1989年、在任69日だった宇野宗佑首相のあとを継いだ、海部俊樹に、「シャッポは軽くてパーがいい」といったのは、小沢一郎幹事長。
30年経ったいまでも通じる「迷言」である。

黒岩氏は、このときすでに『FNNスーパータイム』でキャスターをしていたし、90年には「救急医療にメス」という報道キャンペーンで、第16回放送文化基金賞と日本民間放送連盟賞をダブル受賞している。

賞を贈った「放送業界」のレベルもしれるところだけれど、本人はなにを「取材」していたのか?
優秀な後輩の仕事を、横取りしたのか?と疑ってしまうほどの無能ぶりが、現在の体たらくなのである。

さてそれで、「悪いインフレ」がやってくる。
これを、「日銀のインフレ目標達成」と報道するのだろうと予想するのである。

このとき、首相は、「経済政策の成果だ」と胸をはるにちがいない。

ありもしないこと、をあることにする「成果」なのである。

『祇園囃子』の役人接待

わが国独立の翌年、1953年(昭和28年)大映製作の映画である。

川口松太郎の小説を、名匠、溝口健二監督が映画にした。
主演は、木暮実千代。
デビュー2年目の、若尾文子が眩しい。

また、この作品は、ブルーリボン賞で、助演賞を男女それぞれダブルで受賞している。
進藤英太郎と、浪花千栄子である。

いま話題の「役人接待」が、あまりにもちんけで小さいので、この映画にでてくる人間模様でも観て、すこしは頭を冷やしたがいい。

学歴エリートなのに、薄給の役人なんぞになってしまった。
ならば、権限を利用して、ちょいといい思いの少しぐらいしたってどうでもいいではないか。
もちろん、接待する側はむき出しの利益が欲しくてやっているのだ。
しかも、命をかけて接待している。

双方の下心がストレートすぎて、なんだか「すがすがしい」のである。

なぜか?
この接待を「きれい事」にする気が、毛頭ないのだ。
接待を受ける側も、差し出す側も、それぞれがそれぞれに欲がある。
またそれを、恥ずかしいともおもわない。

戦争と占領の相反する価値観が、一種のカタルシスとなって、「小事」と割切るこの感覚こそが、高度成長のエネルギーなのである。
むしろ、カネはもちろん食べものさえもろくにない敗戦国の「ないないづくし」が、役所とはいえ大規模予算を組めるはずもないから、所詮「そんなもん」であった。

こうした、「下心」は、年代がすこし進むと、『社長シリーズ』(1956年~70年)に変化して、こんどは「陽気」になるのである。
主演は、森繁久彌にいつものメンバーで、『駅前シリーズ』と並行制作された。

 

あらためて、役所の体制が、いまのように整備されていない、よき時代こそが、「高度成長期」なのである。
これは、明治の『坂の上の雲』の時代(国づくり)とおなじことを意味しているのである。

なんだかわからない、ちょっと秩序が甘い時代こそが、自由経済の「成長期」だと、歴史が証明している。
70年代、役所の体制が整うと、とたんに「中折れ」して、高度成長の季節もおわり、もう「二度とこなかった」のである。

何度も書くが、「月次統計」をみれば、オイルショックの「前」には、成長が急速に落ち込んでいた。
田中角栄内閣のラッキーは、「年度」で示して「オイルショック」が原因だと「言い張れた」ことにある。

それを、「経済の福田」が、「狂乱物価」といって煽ったのだ。
まことに、大蔵官僚の血は争えない。
戦後の大宰相は、まちがいなく池田勇人に相違ないけど、その「偉大さ」も、所得倍増「だけ」で誤魔化すのである。

一種の「歴史修正」がおこなわれている。
いわゆる、「歴史修正主義」を批判するけど、あんがい批判しているひとたちが、じつは「歴史」を修正どころか「捏造」するから注意がいる。

そんなわけで、『祇園囃子』である。
まじめに筋を通そうとするのが、浪花千栄子扮するお茶屋の女将である。
主人公からすれば理不尽この上ない態度だけれど、彼女の筋の通し方はちょっと、フローレンス・ナイチンゲールに似ている。

クリミア戦争(1853年~56年)での、「白衣の天使」は、権謀術数にすぐれた、わるくいえば手段を選ばない冷酷さがある。
ぴったり、『祇園囃子』の100年前のことである。
それに、彼女は統計学者だったから、いまようにいえば、データ・サイエンティストという側面もある。

つまり、データをあつかう彼女を味方につければ心強いが、いざ敵に回すと容赦ない報復を受けるのである。
現存している彼女の肖像写真に、笑顔がない(むしろ機嫌が悪い)理由。

それは、傷病兵のため、という一点を目的とした、徹底的な戦闘行動がつくった「顔」だった。
こうして、彼女は、母国イギリスの政界をも牛耳る、おそるべき「フィクサー」になるのである。

さて、花街(物語の設定は「上七軒」)のお茶屋の女将が守ろうとしたものは、ただ一点、「顧客からの信用」なのであった。
そのためなら、できることはなんでもやる。
他人から「狭量」といわれようがなんといわれようが、女将本人にとってはこれしかない、「業務範囲」に、まったく忠実一途な行動を「正義」としているのである。

この気概を失ったのが、現代の「甘え」の社会なのである。

接待をする側も、受ける側も、一途なる「矜持」がどこにもない。
非難されるべきは、これである。
「公務員倫理法」に抵触している、という「つまらない」話ではない。

しかし、なにが「独立直後」とちがうのか?
それこそが、戦争で失った役所の体制が、ほんらいの自由と責任を国民に意識させたのに対して、整備され巨大化ならぬ肥大化した役所が、余りある予算を好き勝手に差配して、従順なる国民を支配していることである。

接待される側も、この程度なら「法にふれまい」という判断があったはずだし、接待する側も、この程度ならの論理があったはずである。
だから、接待そのものが「ちんけ」になるし、だれもこれで影響力を行使してもらえるとかんがえなかったのではないか?

ならば、なんのための「接待」だったのか?

する側は、柔らかい雰囲気での「状況の説明」だったかもしれない。
される側は、「情報収集」だ。

なぜなら、「無謬の役人」が世間知らずだからである。

ではどうするのがよいのか?
過去二度の歴史を学べば、「役所の解体」がもっとも望ましい答えである。
優秀な役人を、ビジネスの世界に「解放する」ことでもあるから、日本経済、ひいては日本国民の幸福にひろく寄与すること、確実なのである。

たくさんの「マインド」アプリ

人間は選択肢が多すぎると、選択することができなくなる、という特徴をもった動物だ。

過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。

「心理学」がなかった時代に、よくぞ気がついたものだと感心する。
生活の中での「観察」があって、これを「発見」して周辺に話たら、「あるある」だったということだろう。

いまのように「情報」があふれかえっていなかった時代、「健康」についての知識も曖昧で、医者から「豆腐がいい」と勧められて、豆腐ばかりを食べていたら体調が悪くなって、調べたら「栄養失調」になっていた、という落語のようなことも聞いたことがある。

しかし、こんどは、情報がありすぎて、あれもこれもと試してしまうから、どれがよかったのかもわからないでいる。
ドラッグストアに並ぶ、「サプリメント」の種類の多さに、なんだかなぁとはおもうけど、サプリだけの食事が「未来」だとした映画もたくさんあった。

デカルト的「機械論」のいきつく先でもある。

それで、サプリだけの食事はダメで、食物繊維が大事だとなったら、つぎはそれを摂取するから、やっぱり「機械論」のままなのである。
これを、「思想」として推し進めると、どうしても個体ごとではなくて、集団としてのかたまりでみたくなる。

数万羽を一カ所で飼育して卵を得る、ケージ型の養鶏場がひとつの究極でもある。
これを、人間に当てはめると、それはそれで、「合理的結論」を得ることができる。

しかし、こうした「合理性」が、「狂気」とされたのは、対象が「人間」だからで、じぶんはそんな扱いをされたくない、という「拒絶」の意味が「総意」としてあったからである。

いま、その「総意」が崩れてきているから、「危機」という危険がせまっている。
しかも、「新型コロナ・ワクチン接種」という「具体」が、目のまえの選択肢になってきたのだ。

接種後の異常が報告されている、というニュースに「主語」がない。
「誰が」ということだ。
いま、接種しているのは、「医療従事者たち」だから、一般人よりも、医学的専門知識があるひとたちなのである。

では、医療現場ではどうなっているのか?
「自主的な選択」という「建前」しかなので、じつは「本音」が隠されていないか?
なにせ、ワクチンの「定義」も変わってしまったのだ。

鶏卵をつかって培養した、不活性化させた「抗体」を接種して、あとは自己免疫システムに任せるものだったけど、いまの「mRNA阻害薬」は、人類初のメカニズムを「ワクチン」と呼んでいる。
「抗体」すら、体内合成させる薬なのである。

では、「mRNA」とはなにか?
高校の生物で習う、「メッセンジャーRNA(リボ核酸)」のことである。
だから、この「新薬」のことは、高校時代に生物を履修したものしか理解できないのだけれども、忘れてしまっているひとも多いにちがいない。

ならば、書店の生物の参考書(古書でも)が昨年から特別に売れている、のだろうか?
ぜんぜん聞かないし、まず参考書売り場におとなの客がいない。
大量に「検索」をしている、という話もない。

これはいったいどういうことなのか?

おそらく、論理を重視しない習慣があるのだろう。
もちろんこれには、日本語の情緒重視も影響しているにちがいない。
さいきんの中学校1年生向けの「英語授業」動画では、英語のもつ言語としての「論理性」が、日本語との「ちがい」としてしっかり説明されている。

また、その理由も、「争いごとが絶えなかった」という、インド・ヨーロッパ語族の「歴史」にも踏み込んで説明しており、「のんびり平和」に暮らしていた、日本人とのちがいなのだと。

すると、論理構成を補助するための、「マインド・マップ」が、インド・ヨーロッパ語族のひとによって「発明」されたのは、論理のための「強化」だったのだろう。

逆に、こうしたものを日本人が「発明しなかった」ことが、「事件」ではないのか?
いや、「KJ法」という誇るべきものがある。
ただし、「KJ法」と「マインド・マップ」は微妙にちがうのではあるけれど。

そんなわけで、紙をつかわない便利さをデジタル機器にもとめれば、「マインドのマップ化」という「アプリ」が、日常生活でも役に立つこと、うけあいなのは、日本人には、「特に」なのである。

さてどれにしようかと選ぼうとすると、あまりにも種類豊富なために、クリックする手先が止まる。
「無料」だけでもたくさんあって、「有料」となると、その支払形式は、流行の「サブスク:サブスクリプション」が「買取」を圧倒している。

ところが、あんがいと、マルチプラットフォームに対応したアプリがすくない。
ブラウザ式ならこれを克服するけれど、サブスクでの課金をどうかんがえるかと悩みどころ満載なのだ。

どのアプリが自分の用途に適しているかを選ぶために、マインドのマップ化をしたいというループができる。

そして、それなりの料金を支払うことになるのである。

幻の「卵サンド」

ふとした場所で、意外なものを売っていることがある。

その意外なものが、驚くべき実力であればあるほど、次は「目的地」に変わるのが「世の常」なのである。
もちろん、「立地」としてみたら、「最悪」の場合もある。
自動車以外の交通手段がほぼないからである。

ところが、地方ほど自動車が普及した。
これゆえに、地元民にとっては、そこにある、という情報さえあれば気軽に買い物できるようになったのである。
すると、情報をしらない地元以外の者にとっては、単にスルーするだけとなる。

どこに何を売っているのか?
加えて、それがどれほどの専門性で、ふつうには入手できないという「もうひと味」が情報に加わると、「最強」に変化するのだ。

神奈川県民であることをふだん意識しない特徴をもつ、横浜市民は、自動車のナンバープレートにある、『横浜』がやっぱり好きな傾向があるらしい。

横浜市からの「脱出」をかんがえて、県央の不動産屋にいったら、唐突に『横浜』ナンバーでなくなりますけどいいですか?といわれたので逆質問したら、たったそれだけで居住を「断念」するお客がいるといって笑っていた。

管轄陸運局の所在地ということの表示にすぎない、という無機質な発想が「法学」役人の矜持でもあったのに、妙な大衆迎合をして、ナンバープレートに「地元愛着」をさせるための「改正」をした。

それで、神奈川県にはあらたに『湘南』という表記ができて話題になったものである。
なぜなら、いわゆる、明治の文人がいった「湘南」と、『湘南』は、エリアがちがうからで、この強引さこそが役人の文化破壊工作でもあった。

じつは『横浜』は、横浜市だけではなくて、三浦半島を網羅する。
横須賀市、三浦市、葉山町、逗子市、鎌倉市もみんな『横浜』をつけている。

それだから、横浜から三浦半島方面にいくと、「地元」に混じってしまうので、土地勘のない狭い道でウロウロ・アタフタしていると、なんだか恥ずかしいのである。
ちなみに、「純血」なのは川崎市「だけ」の『川崎』である。

『横浜』の登録台数は、約140万台。
『相模』は、約61万台(横浜から1964年に分割)。
『川崎』は、約37万台(横浜から1980年に分割)。
『湘南』は、約63万台(相模から1994年に分割)。

ナンバープレートには、番号表記の組合せに限界がある。
それなのに、なぜか巨大な横浜市だけでなく三浦半島も『横浜』で、ポツンと単独の『川崎』がある不思議。
台数分布の標準偏差(42万台)が大きすぎるから、事務量もこれに準じるだろう。

横浜市とそれ以外で分割すると、どういう分布になるのか?
平準化という意味では有効になるはずだけど、役所が増えるのでいかがか?というせめぎ合いなのか?
それとも、『横浜』でいたい、という住民要望の政治利用なのか?

ふと、横須賀の小泉さんの顔が浮かぶ。

さて、もちろんこんなことだけが理由ではないけれど、「半島」という「袋小路」に向かうなら、電車がいい、と発想するので、自家用車での行き先方向は、妙に「西」の『相模』エリアとなるのである。

おなじ「西」でも、『湘南』の海側にならないのは、前にも書いた、神奈川県の名産が、もはや「海産物」ではないからである。
今年もまもなく解禁(11日)の、「しらす」を除くと、ほとんど見る影もなく、他には海藻の「アカモク」だけとなってしまった。

そんなわけで、畜産品が「名産」なのである。
なかでも、特記すべきは、「豚」と「鶏」で、豚は「モツ」、鶏は「卵」だ。
なお、「牛」は、葉山と足柄がそれぞれ産地となっている。

「モツ」は、屠殺場があるから新鮮なのだ。
エージングを要する肉と違って、内臓は新鮮さが重要だ。
『相模』の「シロコロ・ホルモン」は、前に書いた。

卵は、こんなところにという場所に、「卵サンド」の「研究所」がある。

わたしは、卵サンドといえば「京都」を連想していた。
これは、「卵焼きサンド」で、その焼き加減が絶品なのだ。
むろん、京都はパンの街で、古都とはイメージがことなるけれど、米の消費量はすくない。

京都からの帰りはかならず、新幹線口の「志津屋」で卵サンドその他を購入してから切符を買う。
先に直前の切符を買うと、レジの混雑から乗り遅れるリスクがあって、購入をあきらめるはめになるからである。

『相模』の卵サンドは、ゆで卵を潰してつくるタイプである。
しかも、パンもサンドウィッチ用の薄切りではなく6枚切りほどの厚みがあるのに、これでもかと卵がはさんである。
だから、大口を開けないと食べられない。

ネット動画でずいぶん話題になっていたけど、どこぞのテレビが紹介したようである。
神奈川県内ナンバーとはぜんぜんちがうナンバーの自動車が、列をなしていた。

広いはずの駐車場にも入れないのだ。

しばらくの間、「幻」となることが決定した。
おそるべし、テレビの力。
他県ナンバーに敏感なのは勘弁してほしいけど、自動車での行動力は結構なことではある。

なにかに「とんがる」と、大ブレークするのである。

「ろば」は愚かなのか?

「ろば」、「ロバ」は、「驢馬」と書く。

われわれのご先祖は、どういうわけかこの動物を家畜にしなかった。
それで、いまでもわが国に「ろば」はめったにいない。
だから似て非なる、「ポニー」と混同されることもある。

記録としては、『日本書紀』にある、「ウサギウマ」が最古という。
ろばの耳は、身体に比して長くて大きいからである。
ただし、このとき百済からやってきたのは1疋だけだから、「初代」で絶えてしまったのだろう。

それからも、何度も海を越えて運ばれてきたけど、やっぱり日本人は「ろば」を家畜にしなかった。
農耕のための家畜にしたのは、「馬」と「牛」だったのだ。
なぜか?

勝手な想像だけれども、「一体感」とか、「信頼関係」あるいは、「主従関係」の構築が困難な動物だからかもしれない。
「ろば」は、あんがい「従順でない」のだ。
気に入らないとなると、なにをしても一歩も動かない。

これが、日本人の気性に合わなかったのではないか?とうたがうのである。

松尾芭蕉の『奥の細道』における傑作のなかに、馬と一緒に人間が住まう家での、こっ酷い経験を詠んだ句がある。

蚤虱馬の尿する枕もと(のみしらみ うまの◯◯する まくらもと)

「尿」をどう読むかが問題の一句でもある。
和歌や連歌ならば、「しと」と読むところだけれども、国語教師の臼井吉見氏によれば、「ばり」だという。

現地奥州の方言を優先させれば「ばり」で、雅な「しと」ではないはずだ、と。
けれども、あえて「しと」と読むのも「おもしろい」風情となる。
粗っぽい現場イメージとのギャップがたのしめるのだ。

はたして、言葉の名人、芭蕉はどちらを選んでいたのか?
漢字で表現したのは、どちらでもよく気分次第という意味か?

はなしを戻すと、人馬が一つ屋根の下に住む奥州人の心根は、おそらく唯一の財産である「馬」を、とにかく大切にしたことにある。
馬がいなければ、生きていけない切実さがみえる。
しかし、馬はひとの心を理解する動物でもある。牛も同様だ。

結局、「飼い犬」とおなじで、「信頼関係の成立」こそが、日本人の気性に合致するのである。

この感覚が、他地域、他国にはない。
他地域、他国は、「機能」を重視するのである。
この価値観が、日本人にはなかった。

「ろば」は、馬や牛に比べれば、体格は小さいがじつはタフである。
それになにより、粗食に耐える。
つまり、維持費がかからないという経済性がある。
ただし前述のように、性質が、「頑固」なのだ。

しかも、基本的に「群れ」すらも嫌う。
だから多頭引きもできないので、ろばさん馬車といえば、1頭引きしかできないのだ。
もっといえば、協調性がないゆえの頑固なのである。

なんだか「嫌な奴」なのだ。

なるほど、われわれ日本人の先祖たちが、「ろば」を家畜にしなかった理由がわかるのである。
このことが、「わかる」とは、現代のわれわれも「日本人だ」ということなのである。

すると、家畜としての「ろば」の分布をみれば、わが国以外の全世界で、ふつうに家畜として役務に励んでいるのがわかる。
とくに、中東・北アフリカでは、小型トラックの代わりになっている。

「燃費」がかからないで、黙々と荷物を引く「ろば」は、自動車よりも利便性があるし、子どもでもあつかえる。
気性が荒いラクダとは一線を画するのは、ラクダが長距離向きなのとの違いだ。

一生のほとんどを使役される「ろば」を、使う側のひとびとはバカにする。
「おまえは、ろばのようだ」というのは、もっとも厳しい罵倒になっている。

だから、いうことをきかない子どもには、「ろばにしちゃうぞ」と脅かすのである。
すると、どんなにやんちゃでも、「ごめんなさい」といって泣き出してしまう。

あるいは、ろばを指さして、誰々はあのろばになった、といって嗤うのである。
中東地域から地中海をはさんで北に広がるヨーロッパでも、「ろば」は嘲笑の対象だ。

高貴な者は馬に乗り、最下層はろばに乗ることも禁じられる。
このことの「裏」を書いたのが、『新約聖書』で、「主」であるイエスのエルサレム入城に、子ろばの背に乗ったとある。
このエピソードは、4つの福音書の3つに記載されている。

それで、「あいつはエルサレム」といって、嫌な奴への「あだ名」をつけることがある。
婉曲に「ろば」をさす、「ばか」という意味である。

こどもの時分に読んで聴かされたり、絵本を読めるようになったりしたら、定番の外国の「童話」には、だいたい「ろば」が登場するけど、みたことがない動物だった。
それで、やっぱりいい役回りはないのだけれど、印象に残らない。

日本人は、心が通わないろばを、物語の題材にもしなかった。
「擬人化」すらできないと判断したのであろう。

それが、日本人の日本人たるゆえんなのだ。
けれども、どんどん「日本」が風化して、これを、「欧米化」と呼んで喜んでいる。

そうしたら、ふつうの人間関係も壊れだして、ろばどおしの関係のようになってしまった。

ろばが愚かなのではなくて、人間が愚かになっているのだ。

「逆恨み」をしてはいけない

6日、小池百合子都知事が緊急事態宣言の延長についての記者会見で言い放った、「いま、緊急事態宣言中なのをみなさんご存じですか?」に憤慨しているひとがいるという。
さらに、彼女は「収束条件」のハードルを異様に高めたから、「オリンピック開催」にかぶるのでは?という意見もでている。

それから、神奈川県知事の黒岩氏(元記者)が、小池知事からの電話で、千葉県知事(元俳優)も同意しているから、緊急事態の延長を一緒に取り組みたいといわれたけれど、その後、森田知事に電話をしたら、黒岩知事本人が同意しているといわれ驚いた、と曝露した。

まったく、いまどきSNSを多用する子どもでもやらない、いったいわないの話で、その稚拙さに呆れるけど、小池氏はすぐに認めて謝罪したという。
根っからの詐欺師ならではの、見事な神経反射といわざるをえない。

現職外務大臣に、彼女の爪の垢を煎じて飲むよう勧めたい。
なるほど、「大臣経験者」が、国政復帰を狙うのも頷ける?
それでも、このひとたちは「延長要請」の当事者になったから、他人のせいにはできない。

こんな話から、「都民をばかにしている」と憤慨するひとたちがいる。
なぜに、このような勘違いをするひとが多いのか?についてかんがえてみる。

結論から先にいえば、「ばか」なのは都民だし、千葉県民それに、神奈川県民もおなじなのだ。

前に「B層」について書いた。

これがぜんぜん改善されていない、ということにすぎない。
いま一度「B層」の定義を確認すれば、それは、比較的知能が低くて、マスコミ報道に影響されやすいひとを指した。

「知能」だから、もう改善しようがないのか?それとも、マスコミ報道を信じなければ改善するのか?という問題になる。

しかし、もう一方で、日本人の人口に占める割合が、B層は「8割」という調査もあるのだ。
これは圧倒的だ。
すると、我が国は、知能が低い人の国、ということになって、よくいわれる日本人の「優秀さ」とは話が合わない。

いったい全体、現代日本人は知能の低さが問題なのか?そうでないのか?

しかも、知能となると、どうしたら改善できるのか?
遺伝的方法での問題解決となると、実行不可能である。
ならば、もはや手の打ちようがない。

だから、せめてもの「努力」として、教育が重要となるのである。
もちろん、学校教育だけでなく、生涯教育という長き人生の広きにわたる。

では、どんな分野が重要なのか?

古来、我が国では「四書五経」をもって基礎としてきた。
四書とは、論語、大学、中庸、孟子。
五経とは、易経、書経、詩経、礼記、春秋をいう。

四書より入門し、五経へと進むから、武士の子が3~4歳で論語の素読をはじめたのも順番どおりなのであって、だいたい7歳の頃に論語は「暗誦」しているものだった。
子どもに対する、イスラムの『コーラン』や、ユダヤの『トゥーラ』の暗誦とおなじで、意味はあとからしぜんにわかるのだ。

中でも、春秋は孔子が書いたとされる歴史書で、編年体である。
のちの司馬遷による史記が有名だけれど、我が国には、江戸末期、頼山陽が書いた『日本外史』が、空前のベストセラーとなった。
なお、水戸光圀がはじめた『大日本史』は、明治になって完成した。

想定読者は、当然武士であって、中でも「志士」を自認したひとたちには、必読だった。
つまり、四書五経を10代までに修めたひとたちの中でのベストセラーだということだ。

その四書五経は、「崎門の学」としてしられた、山崎闇斎を始祖とする「朱子学」の譜系にあって学んだはずである。
しかし、その朱子学を批判したのが「陽明学」で、松下村塾はこれを採用していたから長州閥は陽明学を基にする。

『回天の思想』といわれる陽明学は、帝王に仕えるための思想である朱子学とはちがっていて、いまようにいえば「自己実現の思想」である。
だから、領主がいた時代の「回天」になったのである。

その後、現人神の「日本教」をつくるベースとなった。
ちなみに、戦争末期の特攻兵器「人間魚雷」につけた呼び名も「回天」だった。

戦後の常識は、「国家神道」を全否定することをベースにつくられた。
つくったのは、グローバリズムを信奉するアメリカ民主党の意向を受けた、アメリカの日本研究者たちである。

わが国発展の「アキレス腱」が、日本教だと見抜いたのは見事な研究成果である。
すると、日本教の復活こそが、わが国の復活であり、我が国民の復活の原動力なのである。

この視点から見渡せば、国民大多数の知能の低下とは、日本教が限りなく薄まったことの「副作用」なのであると理解できる。

日本教は「毒」ではなくて、日本人にとっての「必須アミノ酸」なのだ。
この決定的不足が、国民の脳を冒して知能を低下させたとかんがえられる。

であれば、小池氏をはじめとした、おかしな政治家たちや経営者などの言動がどうしてなのかも理解できるのだ。

左翼思想をもったひとたちに、学ぶべき点があるとすれば、これである。
脳を支配する、「思想=意志」がないといけないのである。
人間は、思想をもって行動する「唯一の動物」だからである。

ばかにされたといって、ただ憤慨してもすぐに冷める。
その、冷めた頃に、また選挙の時期がきて、これらのひとたちの「巧言令色」を聞かされて、その気になる。

単に、これを繰り返していれば、ぜんぜん「学習効果」もないので、見切ったひとがいつの間にかに「大政治家」になってしまう。

選んでいるのは、われわれなのに。

日本教を復活させる、いまは最後のチャンスなのかもしれないとすれば、「逆恨み」する前に、やることがあるのである。

『スタフリ』の挑戦

ただしき「競争」は、ただしい世界をつくる。
これが、本来の「資本主義」なのである。
だから、「競争」について、「哲学」することは、実務に哲学が「役立つ」ことを体験できるのである。

その具現化をしたものが、「独占禁止法」となったのだが。

つまり、資本主義も人間がつくりだす「主義」なので、かかわる人間の都合にあわせようとすると、ふつうに「ゆがむ」。
こうして、ゆがんだ資本主義だけを指摘して、ある思惑にもとづいて批判を繰り返せば、もっと「ゆがむ」。

したがって、「資本主義はいけない」というときの資本主義は、人間がよってたかってゆがませた結果なので、短い言葉での反論が困難になる。
それで、気のはやいひとが、「資本主義の終焉」といって、ほくそ笑むのである。

では、「終焉」してどうなるのか?
これをいわないから、ずるいのだ。
結局、ぜんぜん終焉なんてせずに、ゆがんだ資本主義がダラダラとつづくのである。

そこで、ふたつの選択肢がでてくる。
社会主義に向かう努力を「正しい」とするか、ほんらいの資本主義にもどす努力を「正しい」とするかである。

これが、二大政党のアメリカという国での「選択」となって、とりあえず、社会主義に向かう勢力が政権を奪取した。
しかし、そうはさせじとする勢力が、すでに活発な活動をはじめて、味方のなかの敵の排除を開始している。

これも、「競争」の原理のゆえである。

70年代から80年代、スタグフレーションに苦しんだイギリス人とアメリカ人は、後者の「ほんらいの資本主義」にもどす努力を選んだ。
どちらも、「競争」から修正をこころみたのだ。

例としてあげると、その対象は、公立学校だった。
まったくもって「競争」がないと批判の対象になったのは、生徒ではなくて「教師の側」のことである。

住んでいる地域の「学区」が適用されて、自動的に通うべき学校が指定される。
入学すれば、生徒は教師を選択できず、偶然が支配するクラス分け(学級)によって、教師もあてがわれるのである。

こうしたゆがみを修正するための理論が、フリードマンによる「教育クーポン」のはなしである。

教育相として初入閣したサッチャー氏が、これを採用し、その後わずかして首相になったのである。
アメリカでも、レーガン氏が推進したし、日本でも一部の自治体・教育委員会が採用したけど、「大胆さ」は採用されなかった。

そんなわけで、文科省という役所が指定する「学習指導要領」に準拠しないといけない、という「強制」が、じつは教師も縛っている
「わかる授業」が管理職から嫌われることにもなっているのだ。

生徒の「わかる」よりもなによりも「年間時間内準拠」が優先されるからである。
もちろん、これを現場に強制するのは、地元教育委員会という役所・役人だ。

もはや、わが国には教育委員会というえたいの知れない役所がはびこっていて、組織名から想像できる「委員長」はとっくに存在せずに、役人の「教育長」がトップに君臨している。
それで、市長やらの首長も、教育長には妙な遠慮をしたりする。

コロナとは関係なく、「授業がとにかく面白かったら子どもの心に火がつけられるはず」という想いから、中学生向けのオンライン無料塾を2019年に構想し昨年4月に立ち上げたひとたちがいる。
本業は、大学受験予備校だ。

『スタフリ』とは、「STUDY FREAK」の略だという。
塾に行けない、勉強について行けなくなった子、もっと学力を伸ばしたい子を対象とする、学びの場、と定義している。

まったく行政から切り離された「場」だから、たとえバーチャルな「場」でも、その工夫とは熟慮・熟考がされている。

だからこれは、「問題解決」の「プレゼンテーション」なのだ。

どこで「つまずく」のか?なにが「わからない」のか?といった、現状の把握。
どうしたら「わかった」とか、「なるほど」とさせられるのか?とは、改善方法。
そして、ほんとうに「結果」がでるのか?という検証。

これは、「科学的アプローチ(接近法)」そのものだ。

受験であろうが、学習課目の理解を目的にしようが、「塾の経営」には、自由競争の原理がまとわりついている。
利用者が、「効果」があると認めれば需要が高まるし、「割に合わない」となれば、即座に経営が行き詰まる。

わが国では、行政が手を出せない、かなり珍しい産業分野として、学習塾があることをしっていていい。

さてそれで、中学をでてすぐ就職するひとは皆無になった現状がある。
はたして、義務教育の範囲で、人生をまっとうすることができるのか?

「職人」の世界は、かえって早いうちからの訓練が、「五感」を鈍らせない「最良」とわかっている。
理想をいえば、10歳ほどからの訓練が効く。
しかし、いまでは児童労働になるし、本人がこれに耐えられない。

それで、なんだか高校にいくから、高校全入時代になった。
ところが、いがいと「中退」しているのである。
理由は、いじめや経済的やらと多様で、役所の指示をうける学校当局はついていけない。

もちろん、生徒の将来ではなくて、じぶんたちの将来を優先させる。
社会は冷酷だと、学校が教えてくれるのである。
すると、最終学歴は「中卒」になるから、時間のムダにもなっている。

『高等学校卒業程度認定試験(旧大検)』という、文科省が「独占」している試験がある(日本では独占禁止法に抵触しない)けど、これに合格しても学歴はやっぱり「中卒」という罠がある。
名前を変えても、大学受験資格で留まっているのだ。

だから、「高校卒業」と履歴書に書きたいなら、高校を卒業するのが重要なので、『スタフリ』の需要が見えてくる。
中学校の復習こそが、高校には必須の要素なのだ。

「多様性」とか口ではいいながら、本音は「みんなと一緒」が価値観の弊害なのであるけれど、そこがポイントなのである。

「自動車工業会550万人」CM

テレビを「持たない」「観ない」をやっているので、「気づかない」となった。

とつぜん、ネット動画に現れたので驚いたのがこの「CM」である。
しらべたら、正月の「箱根駅伝中継」の合間が最初に放映されたものだという。

それから1月8日に、自動車工業会の豊田会長がおなじ主旨での「年頭メッセージ」を発表した。

この「作品」を観た駅伝の視聴者には、「感動した」というコメントをあげるひともいるなかで、「何をいいたいのかわからない」というひともいる。
おそらく、「情弱」だとおもわれる。

まず、「自動車」について、象徴的なことをメッセージとしている。
これは、トヨタ自動車の「社是」からともおもわれるけど、「ヒトとクルマの生活」がイメージされる。
現代社会の「あたりまえ」のことである。

それから、自動車をつくるひとたちが表現されるけど、さらに、自動車にかかわる仕事をするのは、つくり手だけではなくもっとほかにもいる、というメッセージになっている。
たとえば、サービス分野でいえば、自動車保険とか、自動車ローンとかだ。

こうして、550万人が関与しているのだ、と。
わが国の「総労働人口」は、ざっと6000万人だから、およそ1割ものひとが、自動車にかかわる何らかの仕事で生計を立てている。

これは、まぎれもない「事実」である。

当然ながら、「金額」にすれば、巨額になる。
人数とおなじ自動車関連産業で算出すれば、わが国全体の「2割」となるのだ。
1割弱のひとたちが、倍の数字をたたきだしている。

これも、まぎれもない「事実」だ。

ではいったい、自動車関連産業とは何者か?
かんたんにいえば、わが国産業における「最後の砦」なのである。

第一の砦だった、鉄鋼と造船は、造船から先に陥落して、自動車がこけたら鉄鋼もこけるのは子どもにもわかるだろう。

第二の砦は、家電だった。
エースはテレビ事業で、これを、「白物(冷蔵庫、洗濯機、エアコンなど)」あるいは、「生活家電」が脇を固めていたのだが、ご存じの「陥落」をした。

第三の砦は、パソコンと半導体だ。
「産業のコメ」といわれた半導体は、かつて世界シェアで圧倒したし、それをつかったパソコンも、家電メーカーのほとんどが参入して淘汰された。NECも富士通も東芝も、すでに「日本製」のパソコンメーカーではない。

第四の砦は、携帯電話と後続のスマホである。
携帯電話が、「ガラパゴス化」して、「ガラケー」が一般名詞になったことで、世界市場から完全離脱した。

いわば、わが国産業の盛衰というレベルのはなしではなくて、「死屍累々の敗残状態」なのである。
気がつけば、自動車関連産業「しか」残っていない。
これが、「わが国の現実」だ。

そこにきて、「2030年までにEV化(内燃機関の自動車販売禁止)」を、とつじょ都知事がぶちまけた。
これに、あろうことか、経産省や環境省が大のり気だし、とっくにヨーロッパ(EU)も推進を開始した。

さらには、アメリカの新政権は、「脱石油」を政権公約にしているから、かつての三極(日米欧)の足並みがそろったのである。
そして、中東にちょっかいをだして、石油価格を上昇させている。

自動車関連産業とはちがう産業だから、じぶんのところは関係ない、にはならない。
ピラミッドのような建造物をイメージすれば、土台のようなものだから、それに乗っかる他の産業もみなこける構造なのである。

四つの砦に、自動車関連産業をくわえた「砦の厚み」こそが、わが国経済の「強み」であったから、なんという衰退かと嘆くのがふつうだろう。
家電大メーカーは、学生の採用すらやめて、主な就職先ではなくなった。では、若者はどこに就職するのか?

アメリカでは、大統領令第一号で、万人単位の雇用が失われることになって、民主党を強力に支持した全米労働組合が、いきなり窮地にたたされた、と書いた。
労働者より地球環境を大切にした、という建て付けになっている。

けれども、ヨーロッパもアメリカ大統領も、重要なのは「中国市場」なのである。
とっくに中国政府は、「EV化」を宣言しているからである。

では、どうして「EV」なのか?
もちろん、地球環境は「隠れ蓑」で、本音はそこにはない。
最先端の内燃機関自動車を、つくる技術が「ない」からなのだ。
すなわち、「ワープ戦略」である。

たとえば電話。
かつての三極は、電信の時代から全土に電信・電話のための固定回線を張り巡らせて、莫大な資本投資をしてきたのだ。
新興国はみんな、これを、「ワープ」して、無線電話網を安価に構築した「成功体験」がある。

つまり、「EVへの道」とは、かつての先進国の「自滅の道」なのである。

さらに、わが国の陥落した産業の砦たちをながめれば、その陥落が、政府による政策が致命的だったとわかるのだ。
民間の産業に「介入」して、これをかならず「衰退」させるのが、全部のパターンにあてはまる。

なぜ「ガラケー」が生まれたのか?
なぜ、半導体がダメになったのか?
家電事業を破壊した、「家電リサイクル法」とは何か?
などなど、政府の甘言に乗っかった経営者「だけ」が悪いのか?

まったく、「コロナ災害」とそっくりの、政府による産業破壊工作がある。
これに、反旗をひるがえしたのが、「最後の砦」なのだ。

それにくらべて、外食産業や宿泊産業などの、あくまでも政府への「従順さ」は、記憶にのこしておきたい。
「自滅」を道議とする、「狂気」すら感じるのは、従業員の生活や顧客の需要というリアルがなく、無難かつトップダウンの快感こそが優先だからだろう。

こんな産業に就職しても、「従業員のうち」はいいことはないと、世の中に示している。

自動車工業会の運動は、もちろん政府主導ではないけれど、全産業の労使で「国民運動」にしないといけない。

そんなに遠くない、日本人の生活の将来がかかっている。

営業自粛しない店の混雑

7日で期限がやってくるものを、延長させようとする首都圏の4人の知事は、「権力亡者」である。

こんな者に投票した住民は、どう思っているのだろうか?
念のため、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県のことである。
もちろん、対する政府の大臣と役人も、同じ穴のムジナだから、「人民の敵」といって差し支えない。

かれらに共通している、犯罪的行為は、「データの隠蔽」である。

第一に、わが国の衛生・医療の仕組みでは、現場の診療所に報告義務を課しているのだから、地元保健所を通じて生データは知事のもとに必ず届けられることになっている。
第二に、各知事は、これを国家である「厚生労働省」へ提出する義務がある。

よって、詳細なデータは、かならず知事と厚生労働省が把握しているはずなのである。
しかし、これが、1年経ってもぜんぜん公表されない。
この「病気?」の実態を、国民は知らせられていないのだ。

毎日マスコミがたれ流す、「感染者数」とは、PCR陽性者のことだから、「全体データ」としていえば、ほんの一部にすぎない。
「二種感染症」として、感染経路などのあらゆる詳細情報が収集されているはずなのだ。

上記とは別に、「事務連絡」として、厚生労働省は、「厳密でなくてよい」から、遺体にもPCR検査をして陽性ならば、「死因」として報告せよとした。
これは、データを「改竄せよ」といっているにひとしいけれど、WHOからの「通達」の忠実な実行なのであった。

つまり、21世紀なのに、科学的根拠はどこにもないから、解除基準もないことでえらいひとの気分で延長できるし、これに「議会」も反応しないで、司法は他人事である。
三権ぜんぶが、沈没したのである。

三重県が集めたデータが公表されて、驚きの結果だったことは先月書いた。
わが国で、「まとも」なのは三重県だけだから、目立つのだ。

知事のいうことをきかないと、店名を公表したり、用もないのに警察官を訪問させて店主にあれこれ質問させたりする、営業妨害を「正義」だと強弁して、憲法違反だという言論を封殺する努力がおこなわれている。

このときとばかり、知事権限をフル稼働させて、警察本部長(東京は警視総監)にも指示をしているのだろう。
それともまさか、警察庁が指示しているのだろうか?
ならば、国家公安委員長の命令か?

多くのお店が「おじけづく」なか、悠然と通常営業を貫く店が大繁盛していると聞いたから、行ってみた。

昼食ではなんどか利用したことがある店だけど、「夜」は初めての入店である。
ざわめく雰囲気もないけれど、まったくもっての「通常営業」だ。
やってくるお客さんは、そのほとんどが「常連」だとわかるのは、勝手知ったる行動をしているからである。

それに、飲酒よりも食事がメインで、みなさま「夜の定食」をしこたま食べているのが印象的だ。
この店は、「大盛り」でも有名なのである。
つまりは、庶民の「台所代わり」なのだ。

年齢層はまちまちだけれど、あんがいと高齢者も混じっていて、その「常連」ぶりは、人生の大半の夕食をこの店で済ましてきた感にあふれている。
男性ばかりではなくて、女性もふつうにいるのが特徴だろう。

みなさまの服装は、仕事帰りだ。
このひとたちの生活パターンからすれば、19時半ラストオーダー、20時閉店をされたら、もうコンビニ弁当しか選択肢はないことになる。

20時をまわっても21時を過ぎようが、入店および注文のパターンに変化はなかった。
まったくの「日常風景」が確認できただけだった。

この「日常」の破壊を「新しい日常」という、きもちの悪い用語もつくって強制を正当化する。
じつに、悪辣な「コロナ利用」だ。

店主にインタビューはできなかったけど、おそらく難しいことはかんがえていないにちがいない。
そんなわけで、以下はわたしの「妄想」である。

お客の日常をいつもどおりにしている「だけ」とこたえるはずだ。

こうしてみると、この店の「経営方針」の明確さがわかる。
「だけ」というシンプルさを強調することばに、「意志」があるからである。
しかし、そこに「法的リスク」が生まれた。

では、店主は弁護士に相談したのだろうか?
してはいまい。
なぜなら、いまどきのふつうの弁護士なら、「リスク回避」を最優先させるアドバイス「しか」しないからだ。

それが、弁護士稼業として、もっとも「リスク回避」できるからであるけれど、同時に、相談者の「リスク回避」だと転換できる。
だから、資金豊富な「大手」の飲食店チェーンほど、まっさきに「法的リスクの回避」を決定した。

つまり、政府に従う、という羊のような「従順」さの表明だ。

それが、業界や国民生活にどんな影響になるかは考慮しない、という意味だとも気づかない。
つまり、真の意味での、「企業の社会的責任」の放棄なのだ。

しかも、弁護士に相談したら、それだけで相談料が発生する。
お客の日常をいつもどおりにしている「だけ」なのに、どうして余計な費用をかける必要があるものか。

まともな発想が、あたかもまともではないかのごとくの「世の中がまちがっている」から、まちがっている世の中を弁護する者のアドバイスとは、「有害」なのだ。

店主の心の奥底には、こんなことが言葉にならずに渦巻いているかもしれぬ。

そして、今日も、ふつうの食事を提供する「だけ」、なのである。