二度目の緊急事態に思うこと

日本人は宗教を、現代医療的な視点で感じる傾向を持つ民族だ。

これが、「世界的に珍しい」から、日本文化が世界の中で突出するとみられることの原因ではないか?と指摘したのは、『逆説の日本史』シリーズの井沢元彦氏である。

 

「現代医療的」というのは、祈祷が病気治癒に「効く」か「効かない」かで、その「宗教の有用性」を判断することをいう。
その原点にある思想が、「穢(けが)れ」であり、「怨霊(おんりょう)」から逃れるための、「禊(みそ)ぎ」だという。

そしてこれらを取り持つのが、「言霊(ことだま)」信仰なのであると前に書いた。

だから、日本のオリジナル宗教は、神道「ではない」のだ。
もっといえば、神社=神道ではないということだ。
むしろ、目に見えない、言霊信仰にこそ原点がある「神秘の感情」だとかんがえた方が「合理的」なのだ。

よって、外国から輸入した宗教が、これらをベースにふるいに掛けられる。
仏教も、儒教も、道教も、キリスト教も、ぜんぶ、「穢れ」を払って、「怨霊」を退治し、自らの清浄化で潔白にする「禊ぎ」に効くか効かないか?が採用の判断基準になるのである。

つまり、日本人は外来宗教を「機能」としてみていた。
これは、宗教心がないからではなくて、深層の奥深くに、「神秘」の言霊を基盤とした他民族に類をみない「弱い」宗教心があることを意味する。

このときの「弱さ」とは、現代物理学でいう「弱い力」のイメージと合致していることに注意がいる。
原子が原子のままでいるのは、原子核をとりまく「電子雲」のおかげであって、原子核(+電荷)が電子雲(-電荷)とバランスする力を「弱い力」というのだ。

もしも、原子が勝手にばらけたら、われわれの肉体もなにもかも、すべての物質は雲散霧消する。
これを原子1個1個のレベルで阻止しているから、「弱い力」というだけだ。

そして、原子を無理やり分裂させるには、強大なエネルギーを外から与えないといけない。
この典型が、原子爆弾(このとき発散されるエネルギーを「強い力」という)だから、「弱い力」を「弱さ」でもってバカにできない。

すると、上述の「弱い」宗教心がなくなったら、日本人は日本人でなくなって雲散霧消することになるのだ。
じつは、日本人とは心の奥底に、「原始」ではなくて、「原子」の物理的特性をもった、稀有な民族なのである。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」は、孫子の兵法の重要な一節だ。
日本人は、古代中国語という外国語を、そのまま「読み下す」という、荒技を開発して自国語にしてしまった。
途中翻訳を必要としない画期がここにある。

しかし、外国人には日本語習得は困難だということが、「できっこない」に変容したので、この言葉を外国人が知っているとはかんがえなかった。
英語では、「If you know your enemy and you know yourself, there is no danger of a hundred battles」という。

しかも、戦争中に「敵性語」として、外国語の使用を禁じる、という愚挙がまかり通ったのは、孫子を暗誦していても、「門前の小僧習わぬ経を読む」がごとく、意味を解しなかったのだ。
よくもこんな国を、「軍国主義」といえたものだ。

軍国主義は、戦争における絶対的勝利なくして存在できない「主義」だから、孫子を無視する態度を当然とした国を軍国主義というのは、論理矛盾もはなはだしい。

この意味で、民主党政権のアメリカ合衆国は、まごうことなき「軍国主義」である。
そんなわけで、戦争前から、「仮想敵国」としての日本研究に力を注いだ。
その成果が、たとえば帰化した、コロンビア大学のドナルド・キーン氏の存在だ。

このひとの素晴らしい研究成果は、その前の世代の日本文化研究を土台にしている。
それこそが、「孫子の兵法」を真剣にやった、アメリカ合衆国の「軍国主義」の成果なのである。

そして、それが、そのまま占領政策の基礎になったのだ。

すなわち、千載一遇の日本人の弱体化戦略である。
そこで、日本人の稀有な宗教心を攻撃する、「無宗教化」作戦を用意周到に実施した。
「弱い力」の中心核にある「日本教=天皇」に、人間宣言をさせたのだった。

独立しても、こうした占領政策を引き継いで「自粛」したのが自民党であったし、NHKだった。
もちろん、官僚もこれに加わるのは、東京大学を「曲学阿世」そのものの占領政策の思想で染めあげて、これを、「東大神話」というオブラートに包んでいまにいたっている。

大統領選挙の混乱の合間、1984年に放送された人気ドラマ、『オレゴンから愛』で日本人には好印象が刻印されたけれど、そのオレゴン州で、元旦に民主党知事の自宅が怒った群衆に包囲された。
じつは、昨年暮れには、武装した民衆がオレゴン州議会を包囲して警察と対峙している。

ことの発端は、昨年11月に州知事が出した声明にある。
それは、「感謝祭のお祝いで近隣者がパーティーなどを開いたら、警察に通報すべき」、といったことにある。
つまり、コロナを材料にした、信仰の自由への妨害と密告奨励だ。

人間にとっての自由の最深部は、信仰心であって、なにを信じるかの自由の保障こそが核心なのである。

これで、すさまじいリコール運動となっているのだ。
ニューヨーク州では、教会で密集するのを禁じた州政府に、宗教弾圧として憲法違反を告げたのは州最高裁判所だった。
コロナ感染よりも、はるかに信仰の自由を保障することが優先なのである。

さて、日本では、昨年から夏や秋の祭礼も、年末からの初詣と新年のさまざまな伝統行事があいついで「中止」となっている。
しかし、日本人の心の最深部にある「信仰の自由=神秘への畏敬」が失われたことへの反発すら、もはやだれも感じない国民になったのである。

神社仏閣が、率先して無意味な感染症対策をやっている。
神前でもマスク着用とは、脱帽のマナーを失わせ、手袋をしたままの柏手と同様に、手水場の水を止めてアルコール噴霧器を置いたり、鈴や鐘を鳴らさせないのではなく、綱に触らせない。

宗教者自身の信仰心が、エビデンス無き対策に負けているのである。

自粛を強制させて「自粛」ということに、最高裁は無反応だということも知っておくべきことではあるが、日本の場合は優先事項がちがうのである。

「緊急事態宣言」を知事たちが求めるのは、彼らの権力志向だけが理由であって、国民や住民をけっして考慮しているものではない。
この宣言の法的意味は、中央政府=首相権限を知事に委譲することだ。
昨年の宣言では、解除になっても委譲された権限を返上する知事はいなかった。

そんな状態なのに、なにがしたいのか?
やった感をアピールするだけの、飲食店つぶしが「合法化」され、個人の行動の自由をなくしてその権力に陶酔したいだけではないか。

むしろ、コロナは祈祷の効果のごとく、インフルエンザをはじめとした感染症を「激減」させた、「よきもの」である。
「よきもの」を、まるで「敵性語」のように、「あしきもの」として逆転しておそれるのは、つまるところ、われわれは「無宗教=共産化」されてしまったということだ。

そして、コロナが為政者たちの「おもちゃ」になったのである。

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