戦後「日本国」は滅亡した

有名なサンデル教授の『白熱教室』からわかるように、わたしたちは正義そのものが流動化した世の中に住んでいる。
民主主義の行き着く先、「大衆社会」の到来がそうさせている。

民主主義を、それ「だけ」で機能させるのが危険なのは、「法」の介在の有無が決定的要素となっているからである、と先日書いた。
法の介在がある体制を「共和制」といい、法が介在しないで、多数決だけがものをいうのを「民主制」といって区別するのである。

このとき法の介在をするものを「司法」という。

だから、共和制では、司法が先で立法が後なのだ。
ここでいう「法」には、過去からの慣習法も含まれるから、なにも文章化された法典の存在「だけ」が法ではない。
むしろ、明文化されていないけど、人々の心の中にある決めごとのルールが優先されるのは当然なのだ。

単なる民主制は、こうした過去からの慣習法を無視できる。
多数の人々が同意しさえすれば、たちまち「法」になるからである。
すると、民主制では、立法が先で司法が後になる、という特徴をもつ。

こうして、圧倒的に「今」が重要となる。
今がよければ、明日もいいはずだ、という思想は、かならず「進歩主義」と同義になるから、ここに社会は進化するという「唯物論の歴史観」が入り込んで、社会主義との連結が生まれるのである。

すなわち、「現世利益」だけの追求である。

青島幸男作詞、中村八大作曲『明日があるさ』は、1963年発売の坂本九のヒット曲で、いまでも芸人たちが交互に歌う演出がされて人気である。
晩年、都知事となったことで青島の本性が世人にしれることになったけど、この作品でしっかり「自己紹介」をしているのであった。

民主主義の発想には「保守するものがない」ということになるから、エドマンド・バーク流の、いわゆる英国伝統主義的な保守思想も無視するものとなるのも当然だ。

 

戦後のわが国にとって、アメリカ合衆国とは、「宗主国」であった。

いっとき、事実上の51番目の州だという指摘もあったけど、アジアの大国の圧力から、51番目の州に「なりたい」という願望が散見される。
独立心の欠如といえばそれまでの、単なる依存症である。

その宗主国での大統領選挙が「破壊された」から、従来の「アメリカ合衆国」(「株式会社アメリカ」)と、これに反発する「アメリカ共和国」とに分裂したのが、今年1月20日正午(現地時間)であった。
ただし、歴史的分裂の異変のあと、いまだに不可解な状態にある。

・ホワイトハウスの電気が消えたままである
 ⇒ 新大統領はどこで執務しているのか?が不明
・ワシントンD.C.で10日間連続の停電
 ⇒ 原因不明
・州兵による大規模な首都の警備は3月まで継続する
 ⇒ 誰が命じているのか?が不明
 ⇒ 議事堂を囲むフェンスと警備は、内側からの脱出ができない構造
・歴史的に大量の大統領令(すでに40本)が署名された
 ⇒ ほとんどが執行されていない(一部は官報にもでない)

なお、2018年9月の「選挙に関する大統領令」による、不正にかかわった者の全資産没収は、この2月1日から開始されるようになっているので、昨日のアマゾンCEOの突然の辞任も憶測をよんでいる。
一方で、極左過激派による各州民主党本部への攻撃は、「カネよこせ」という要求で、スポンサーのはずの大富豪が行方不明になっていることも、憶測をよんでいる。

なお、この大富豪は、知事リコール請求にまで発展した、「あいちトリエンナーレ」のスポンサーでもあったことが判明している。

こうした、宗主国の異変を受けてのわが国の異変なのだ。

すなわち、コロナ戒厳令下、人々の生活を規制するさまざまな処置が意味するのは、今コロナを撲滅させないと明日がない、という表現でわかるように、典型的な「民主制」が社会主義に転用されたことを意味するのである。

かんたんにいえば、体よく「全体主義社会が成立した」のである。

もちろん、この規制と憲法との整合性は無視される。
つまり、なんのことはない、日本国憲法も葬られた。
それが、国民統合の象徴である天皇の地位の無視にもなっている。
天皇誕生日を「なにもしない」と発表した政府こそ、日本国憲法の無視を宣言した証拠なのだ。

驚くことに、このことを問題視する「保守論客」がいないことである。
つまり、我が国は、共和制でもなく、純粋民主制ゆえの全体主義に到達したのであるから、実態はともかく、概念として間違いなく「滅亡した」のだ。

滅亡したのを、「戦後の日本国」とすれば、現在の日本国は、社会主義の「日本民主主義国」として国柄を変えたことになる。
昔だったら、元号を変えるほどの事態だけど、もはやわが国に制度としての天皇もいないのだ。
「令和」の文字は、もはや単なる記号になった。

我々はもう、過去の日本国には戻れない。
過去の日本国が大日本帝国に戻れなかったように、である。

これから、都道府県知事による中央政府との権限争いが発生する。

都道府県民のための争いではなく、知事たちが「藩主=領主」になるための争いである。
緊急事態宣言の「解除の日」に、これらのことが判明すること間違いないのは、政府から与えられた権限を、ぜったいに返上しないからである。

主権が形の上でも在民だった日本国時代と違って、主権者は領主たる知事にある。
領民である我々は、領主様の生殺与奪の中で生きるしかないことになったのだ。

もちろん、中央政府こそが生殺与奪を握るのだと主張するはずだから、我々は二重の支配を受ける身におとしめられた。
幕藩体制よりもひどい。

さようなら、日本国。
さようなら、日本国憲法。

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