『人間の条件』と企業経営

ハンナ・アーレントの鋭い考察には定評がある。

大著、『全体主義の起源』をはじめとして、彼女の本は、どれも「ぶ厚い」。そして、「深い」。
大論争を巻き起こした、『イェルサレムのアイヒマン』での彼女を扱った映画、『ハンナ・アーレント』(2012年、ドイツ)は、翌年、岩波ホールを皮切りに各地の小映画館で上映された。

どうしたことか、「全共闘世代」に人気の映画だったように思う。
「反ナチス」や「反ジェノサイド」という、表向きが事前の共感を生んだのだろう。

横浜でも単館上映があって、滅多にない「整理券」が配られる盛況ぶりで、結局断念し、別の日に再度、今度は早めに劇場に足をはこんで無事一ケタの整理券をゲットした。
この回も、立ち見のひとがいた。

このブームはきっと、『アンネの日記』が影響しているかと思われる。

実際に、ポーランド旅行をしたとき、アウシュビッツ(博物館)に、行かなかったのは、40人中わずかに二組の夫婦だった。
そのうちのわが家は、「本体」と合流した昼食で、興奮覚めやらぬ同行者たちから、「ポーランドに来てアウシュビッツに行かないとは、信じられない」と言われたし、別の日本人ツアー客と一緒になったときは、高校生の娘のたっての希望でアウシュビッツを見学にきた、と自慢する母親もいた。

かくして、ヨーロッパにおける「ユダヤ問題」が、あたかもドイツの敗戦で「解決した」と思いこんでいる日本人の浅はかを、とうとう夕食で解説するはめになった。
もちろん、イスラエルを建国したユダヤ人たちが、こんどは、パレスチナのアラブ人をどうしたのか?についても言わざるを得なかった、けど。

それでこんどは、アラブ側に思い切り肩入れしたのが「日本赤軍」だったことを、皆さん忘れていた。
真面目ゆえに、学校教育で「感覚的サヨク」に仕立てられるメカニズムをぜんぜん意識していない無邪気さが、かえって危険なのである。

あの「石油ショック」の原因である「中東戦争」がなんたるかを、すっかり忘れていることに、逆に驚くしかなかった。
「中東のひとたち」は、ただただ「好戦的で恐ろしい」という。
そしてそこにいるのが、典型的「善男善女」なのである。

この驚くべき「無関心」が、一方で「興味」さえあれば、その確認に「聖地」を訪問する。
まさに、「アニメファンの若者」と同じ行動が、「観光」であり、「観光名所」なのである。

では、こんな日本人が「特殊」なのか?といえば、そんなことはない。
ただ、アウシュビッツを訪問したい、という部分だけを切り取れば、『アンネの日記』を追体験したい、という「ファンタジー」が先行しているだけだろう。

この意味で、「日韓」は、まるで兄弟国である。

そんなわけだから、映画『ハンナ・アーレント』は、大きく事前期待を裏切ったのではないのか?
なぜなら、もし「強く共感した」ならば、アイヒマンと東欧のユダヤ社会を同時に批判した彼女の主張を少しだけ応用すれば、「反コロナ対策」になって結実したはずだからである。

それが、わが国ではぜんぜん「ムーブメント」にならないのだ。

『人間の条件』は、法哲学者でドイツ文学者の仲正昌樹による「解説本」がある。
原著原題は、『Vita Activa(活動的生活)』だという指摘から入る。
だがしかし、この「解説本」も約500ページの「大著」になっている。

 

活動的生活とはなにか?
それが、「人間の条件」だということからの日本語版になっている。
大きく3つの要素からなっている。
それは、「労働」、「仕事」、「活動」の三側面という。

なかでも、「労働」が「軽減される」という「変貌」を遂げたのが、20世紀も後半になってからの、「オートメーション」の普及だったのである。
このことは、肉体を酷使するのが「労働だ」という人類共通の概念を「解放した」のではなくて、「仕事」や「活動」に多大なる変化をもたらした。

たとえば、「週末」や「休日」の「楽しみ」を変えた。
肉体を酷使する「労働」の時代、それから「解放する」のは「余暇」だったけど、労働が軽減されると、「余暇」での「活動」の価値も軽減されてしまったのだ。

簡単に言えば、「メリハリのない生活」がふつうになった。

これが、「労働者の団結」を弛緩・緩和させて、その結果、労働組合の組織率が「低減」することになったのである。
そしてまた、「余暇」での「活動」が、逆に肉体を酷使したり、あるいは肉体をもっと使わない方向へと分化してとうとう「分極化」した。

だからそれが、「観光」にも影響するのは、当然なのである。
前者が「体験型」となって、後者が「バーチャル」になった。
「旅」とはなにか?
それが人生にどんな影響を与えるものか?の哲学が改めて問われている。

これが、「旅行会社」という事業が立ち行かなくなった、真の原因となる。
ネットから簡単に、宿や交通手段の予約ができるようになったから、というのは、事業衰退の必然性ではなくて、トリガーにすぎないのだ。

哲学に価値を認めず、ただ現世利益だけを追及することが、社会全体の衰退を招いていることに気づかないなら、歴史は「民族滅亡」のパターンだと教えてくれている。

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