「勝ち組」、「負け組」論の日和見

ふるくは第二次大戦中から日本の敗戦が決まった戦後となっても、ブラジルの日系移民のなかで、日本の勝利を信じるひとたちを「勝ち組」、敗戦の事実を認めるひとたちを「負け組」と呼んだことが「語源」のようである。

いまでは、社会的地位や収入のあるひとと、ないひと、との格差を表現する用語になっている。

ブラジル移民一世の厳しい生活は、ほとんど日本政府による詐欺的な情報操作からの「棄民」被害者であったとおもわれるが、片道切符で渡航したひとたちが後から気づいて嘆いても現地で暮らせるはずもない。

それで、大和魂を発揮して、緑の地獄を開墾し、いまの生活に落ち着いたのは、これぞ尊敬に値する自助の賜物なのである。

しかし、本土の日本の発展スピードが速すぎた。

ために、あたかも南米日系移民の貧しさが取り上げられることがあるけれど、日本が失ったオリジナルの日本人の残像があるだけでも見事だと感心するばかりなのである。

ときに、負けをあっさりと認めるばかりか、国家資産である軍用品などの物資を私物化して、まさにソ連崩壊後のロシアやウクライナの「オルガルヒ(新興財閥)」のごとく、闇屋を牛耳って巨富を得た人物たちの暗躍を、いまどきの日本人は無かったことにして消し去っている。

「満州ゴロ」とかをはじめとして、政府や軍は利権の構図でコントロールしていたが、コントロールされる側が交換条件として富を得るのは、古今東西の共通である。

そればかりか、勝った連合軍、総じてアメリカ軍に日和りながら、同胞の支配に精を出した輩を英雄視するのはいかがなる精神からのことなのか?
これぞ、いまようの「勝ち組」の元祖ではないか。

その共通は、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」に集約される。

いまこの刹那だけでもカネがあって好きにつかえて贅沢を楽しみ、それを自分だけで興じることができれば、他人なんぞは知ったことではないという精神構造である。

むかしは、エリートといえば、武士道が当然で、あの下賎なヨーロッパにも、ノブレスオブリージュが19世紀のフランス貴族社会から常識になったものだ。

しかし、戦後社会のいま、日本もヨーロッパも、エリートがこぞって「いまだけ、カネだけ、自分だけ」を平然と追求して恥じなくなったのである。

それは、大勢に日和ると得をする、という浅はかな民主主義の蔓延から始まるのである。
これを専門家や学者も真似て、中身は日和るものでも、肩書きだけでものを言えばそれでカネになる。

そうやって、いつの間にか「反骨精神」は世の中から雲散霧消して、個別に反骨精神を言動にすれば、変わり者として損ばかりすることになった。

だから、あたかも予言者のごとく、過去に言ったとおりのことが起きて、「あなたの言った通りになりました」と褒められることがあっても、ぜんぜん嬉しくもなんともない、と福田恒存が『諸君!(昭和55年6月号)』で書いている。

自分が社会を動かしてそうなったなら褒められもしようが、社会の方から勝手に寄ってきたものを、たまたま言い当てただけだからである、と。

こうやってひとに擦り寄ってくる者の浅はかさは、常に目先の損得勘定で日和ることしかないから、結局は信用を失うのだ。

コロナ禍において、21世紀にかかわらず「マスク警察」なる正義の集団が登場したのも、「五人組」を笑えるはなしどころか、ぜんぜん変わりようのない全体主義の価値観が継続していることを示したのである。

つまるところ、「お上=政府」よりも、「勝ち組=正義」だと信じる「負け組」たちの勘違いの上昇志向に翻弄されるのであって、それがまた「監視社会」をつくり、政府がこれを利用することとなるにちがいない。

世知辛い世の中とは、自分たちでつくっているものなのである。

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