夏休み 城崎まで その2

「略奪」が成立しないのは,「法」と「自由」を前提とする資本主義の原則である.
「法」とはあらかじめ決めたルールのことで,「自由」とは他人から命令や強制されない,つまり自分で決めることの自由である.だから,自由は法によって制限されるから,これはよくいわれる「自由放任」の「自由」ではない.

ところが,わが国ではこの大原則が歪んでいることが散見されるから,この国の「資本主義」をうたがうのである.それに,「自由」を「自由放任」の「自由」としか解さないから,ことはあんがい深刻である.

資本主義以前の経済体制を,「前資本」とか「前期資本」という.
わが国では,明治からはじまる「文明開化」が,資本主義導入のはじまりだから,いわゆる「江戸時代」は「前資本」の経済体制であった.

幕藩体制下における「法」は資本主義をささえるものではないし,身分制のもとでの「自由」は,資本主義の「自由」でもない.
大商人が存在しても,それは財力はあれど資本というかんがえ方があったわけでもなかった.

「前資本」の時代には,いまでいう「正統に稼ぐ」概念がなかった.
つまり,お互いの「自由」意志にもとづく同意による取り引きよりも,詐欺や略奪が一般的で,これに冒険がくわわった.もちろん今様の「正統」もあったろうが,ときにそれは「正直者が馬鹿を見る」といわれた.
初期のオランダ海軍もイギリス海軍も,海賊との区別がつかないのはそのためである.他国の商船を勝手に拿捕,略奪して戦費を調達したからで,「国際海事法」の基礎は,これらの行為の自主規制が原点にある.

東京にいると,あたかもわが国は資本主義国にみえてうたがうことが少なくて済むが,地方を旅すると,その仮面が剥げて透けていることがある.
これをみつけることが国内旅行の醍醐味だとすると気分が滅入るが,一方で,どうしてわが国の観光業や人的サービス業が,世界的に見て生産性が低いのかの理由をしることにもなる.

長浜から城崎を目指すコースはいろいろあるが,鯖街道の朽木宿の鯖ずしが食べたくて,いったん逆行した.おととしの旅でしった「味」がわすれられないから予約したのである.
ところで,わが国の漁業の実態はこのブログでも書いたからここでは重複をさけるが,「鯖」もおおくは獲れない魚になったのは,その略奪的な漁業に原因があると専門家が指摘してひさしい.それなのにいっこうに改まらないのは,漁業の発想が資本主義的でなく「前資本」のままだからである.

その鯖を獲るための基地が小浜港だ.
港よりも,商店街をみればその衰退ぶりがわかる.
漁業が成長産業になった北欧の国々と,なにがちがうのか?は,人口減少が問題なのだという前に,「成長産業」だったらどうなったのかをかんがえたい.

小浜から日本海沿岸を走って舞鶴を通過すれば,天橋立があらわれる.
ここの駐車場料金の略奪ぶりは,民業圧迫の批判をあびたくない「市営」をもってしておなじ料金で,一回600円でほぼ統一されていた.
小浜にある鯖街道起点の商店街は,30分無料だったから,生活感としていかがな価格設定か?

需要と供給で決まるのが価格の原則だとは承知しているが,きれいな景色がそこにあるだけ,という理由で略奪的な料金をつければ,そのほかの買い物をしたくないという理由が芽ばえて,かえって地元は衰退しないか?
おそらく,ここも「日本三景」にあぐらをかいて,長浜城より質の悪い「景色」だけを勝手に鑑賞せよと,観光客に放置プレーをしているにちがいない.
「観光」とは総合芸術的な「感情産業」であるという認識があるはずもない.

そういうわけで,わが家はここを通過した.
わが国を代表する景色よりも,そこに巣くう人びとを観たくなかったからである.
不景気だから観光客の財布の紐がかたいのではない.
財布の紐をゆるめる工夫が「面(産業)として」みじんもなければ,それは自分たちでつくっている不景気だと認識すべきだ.

こうして,衰退した集落を道々観察しながら,車は城崎温泉に到着した.

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