「歴史認識」の難しさ

このブログでは、たびたび「犬」の話を書いている。
昨日もそうだった。

人間と万年単位で付き合いのある「犬」だけど、どうして他の動物と比較してこんなに相性がよいのか?といえば、「犬」には「感情を理解する能力が長けている」という特徴があるからだ。

群れで暮らして群れで猟をする野生の犬は、そのむかしオオカミだったというけれど、この動物がつねに「序列」を気にする性質がDNAに埋めこまれている原因に、序列による「狩りのフォーメーション」があって、さらに序列によって獲物を食べる順番が決まるからだ。

つまり、序列が上位にないと個体としての生存が危うい。
この生存をかけた序列へのこだわりを、人間が利用した。
また、序列を決める「心理」が、群れの中のボスの感情をいち早く理解することにつながった。

こうして、「感情の動物」になったのである。

また、犬には思考力を司る「前頭葉」が、人間ほど発達しないので、彼らの思考力は人間に比して著しく低い。
むしろ、ほとんど「ない」のだ。

ただし、「条件反射」についての有名なパブロフの実験にあるように、定型的な刺戟に対する行動は訓練で教えこむことができる。
それで、人間の猟の相棒としてやってきたのだ。

ところが、いわゆる「洋犬」と「和犬」は、おなじ「猟犬」として人間と生きてきたのに、ぜんぜんちがう「性質」になった。
「洋犬」は、いちいち人間が指示することで命令に従うようにつくられた。

一方、「和犬」はこの逆で、犬が「狩りをする」のを人間が最後のトドメを刺すように仕向けてくるのである。
なので、和犬の飼育は専門家でも困難という。

それで、さいきんのDNA分析で、和犬の「柴犬」がもっともオオカミに近い犬種だとわかった。
比較的小型ゆえに家庭犬として一定の人気がある「柴」は、じつは洋犬と比較して愛玩犬としての飼育がもっとも困難なのである。

されども、突出したプロの調教師は、感情によって行動する犬の心理を利用した訓練方法で、どんな犬種でもたちまちに「愛玩犬」にしてしまう。
「所詮、犬は犬である」というのが、このひとの結論なのだ。

犬のもつ、序列の意識を人間からの愛情を受けとめさせることで、「従順化=人間への依存」させるのである。
だから、一切の暴力的なやり方はとらないで、「本能」を制御させる。

しかし一方で、「猟犬として育てる」場合は、むしろ、犬の本来もっている「本能を表に出す」訓練をする。
闘争心を磨く、ともいえるし、飼育目的に愛玩の要素はまったくなく、使役犬として徹底することが重要なのである。

とはいえ、犬は犬として、「今を生きる動物」であることにかわりはない。

思考能力がほとんどないために、日常の記憶も不完全なのである。
それと忍耐力でも、はるかに人間に劣るから、「時間をかけた」場合には、かならず人間が勝利する。
犬は、根負けする。

よって、トラウマになるような「恐怖の記憶」は別として、一般に犬は過去10分程度しか記憶できない。
一生の出来事をぜんぶ記憶しているという「象」と、決定的にちがうのである。

余談だが、それで、ぜんぶ記録する、という謳い文句の「Evernote」のロゴが「象」なのだ。

さてそれで、現代人間社会を観たときに、人間が犬化していないか?と疑うのである。
そこで参考になるのが、「歴史認識」なのである。

あたかも「歴史認識」というと、政治的で他国と自国の歴史認識のちがいが、外交問題にまでなるイメージがあるけれど、ここでいう「歴史認識」とは、個々人がいま生きているこの時代、この瞬間の認識をいう。

つまり、「この瞬間」の積分が歴史になるという認識のことだ。

たとえば、シーザーがルビコン川を渡った、という歴史とか、黒船がやってきた、という歴史とか、みんないまとはちがう次元の過去の出来事としての「知識」として「記憶」している。
受験生なら、年号もいえるだろう。

もちろん、ふつうにいう「歴史認識」ならば、その解釈と、それで現在にどんな影響があるのか?が議論になるものだ。
けれども、ここでいいたいのは、その当時のひとたちには、「日常の一部」だったという「認識」のことなのである。

すると、いま起きていること、たとえば、ウクライナ紛争が戦争になったこととか、イタリアの新政権やら英国の新・新政権の発足(なんと「インド系」=大英帝国のいよいよ終末の歴史的できごと)とか、はたまた、よくわからない宗教問題でのわが国経産大臣の更迭とか、これらが「歴史」になることの「認識の欠如」があることをいいたいのである。

なんと、大局的にみれば、「犬」とかわらない。
ただなんとなく今を生きる動物に人間が成り下がったといえないか?

べつに身分社会を礼賛するわけではないけど、むかしなら、高貴な身分のひとには、ここでいう「歴史認識」があった。
そうでない身分のひとたちには「歴史認識」なんか関係ない暮らしがあったのだ。

それでバランスをとっていた。

「平等社会」のいまは、社会構成員の全員に歴史認識がなくなった(全員が低い身分になる平等)から、為政者の行動に責任が薄まって、ひどいことになっている。

つまり、ちゃんとした平等社会にするには、全員が「高貴なる」ちゃんとした「歴史認識」をもっていないといけないのである。

ところが、こんなことになったら困るひとたちがいる。

それこそが、現代社会の「大病」で、不治の病かもしれない。
だとすると、歴史認識の欠如がもたらす破局の到来は、「時間の問題」になっている。

犬と人間の区別がつかない

犬に向かって話しかけるひとをみかける。

むかしのひとは、「犬畜生」という常識があったので、犬に話しかけるのは「命令」だけであったけど、いまは「赤ちゃん言葉」や「幼児語」だったりする。

もしや、「幼児回帰願望」だろうか?
それとも、自身を「いいひと」に見せたいがゆえのことなのか?
どちらにしても、かなり「病んでいる」ことはまちがいない。

それはそうで、わが国の飼育状況は、とっくに人間の子供の数より愛玩犬としての数の方が多い。
とくに、猟師の高齢化で、猟犬の数はかなり減っているはずだし、室内飼育が当然になったので、番犬の数も減っていることだろう。

ただし、躾ができないことによる残念な「番犬化」はよくある。
これは超小型犬を中心にみるけれど、玄関先に気配を感じると、とにかく「吠える」のである。

そういえば、うるさい犬の代名詞が「スピッツ」だった。
いまはあんまり見かけないのは、「吠えない犬」がつくられているからだ。
なので、「吠えない犬」を買ったのに、「吠える」といって「返品」するひとがいる。

それでもって、「売れ残った」らどうするのか?をかんがえることはない。
にもかかわらず、こういうひとほど「動物愛護」とか口ではいうから、人間とはげに恐ろしき動物である。

ぜひとも、「aibo」で我慢するくらいの精神力を持って欲しい。

さて、犬は、「自身の大きさ」の認識力がどれほどあるのか?
大型犬が超小型犬より序列が下、という現象をみかけるからだ。
これは、小型犬の方が「防衛本能」が強く出て、「気性」が荒いのが特徴であるからだろう。

なので、家庭内の序列形成に失敗した人間との生活で、犬の方が「上」、あるいは、自分が「ボス」だと思いこんだ場合、番犬化するのである。

つまり、小型犬が飼い主たち人間のボスとして、よそからの攻撃に警戒・対抗している姿なのである。
これは犬にとっては、たいへんしんどい。
24時間。気を抜いていられないからである。

このストレスが、飼い主たち人間に向けられると、典型的ダメ犬になる。
しかし、ダメ犬だと思っているのは躾ができなかった人間なので、これを「因果応報」というのだけれど、そうはいっていられないほどに犬が君臨すると、もはや「同居」が不可能になる。

食事と排泄の世話をすることも、飼い主には恐怖を伴う面倒になるからだ。

そんなわけで、わが国における「殺処分」の実績は、世界から非難されるレベルになっているけど、例によって「産業優先」という戦時体制が継続しているので、「動物愛護法」の改正もままならない。

ペット業界優先という悪政の結果なのだ。

そこで、姑息なことをする自治体は、殺処分数をごまかすために、自治体が殺処分するのではなくて、「ボランティア団体への譲渡」という方法をおもいついた。

もちろん、ごく真面目な団体の方がおおいだろうが、なかには怪しいものもある。
それでいまでは、一部の「引き取り専門業者」が、極悪の環境下で「飼い殺し」するという方法までやっている。

近代の生活は、「文化住宅」の普及にはじまった。
むかし、「家庭科」で、文化住宅の典型的構造を習ったものだ。
その特徴は、便所と台所が共用ではなくて、各戸ごとに独立させたのを「文化的」といったのだった。

いまではとっくに、「死語」だろうけど、日本人が文化的になったわけではない。

しかしまだ、文化住宅の普及がはじまったころでも「くみ取り便所」がふつうだった。
なので、街中を「バキューム・カー」が走っていたし、路地にはホースが転がっていたものだ。

もちろん、わが家もそうだったので、汲み取りの現場をふつうにみていた。

これが大変革を遂げたのが、下水管の敷設による「水洗化」だったのである。
タンクのレバーをひねれば、たちまちにして流れ去って、どこにもなかったことになる。

よって、ついいましがたまで、自分の体内にあった物の「その後」について、いちいちかんがえることをしない。
たまに、大型下水処理場の近くを通ると、ここにくるのかな?とおもうのである。

そんなわけで、飼育放棄した場合の「愛犬だった犬」のゆくえも、元飼い主たち人間は気にとめないのだろう。
けれども、こんな具合だから、人間の子供についての教育も怪しくなるのである。

ここでいう、「教育」とは、「生き方」とかのまさに、「躾」をいう。

日本人は、「教育」を、「学校教育」とか「受験教育=勉強」だと思いこまされた。
しかし、教育の根幹には、「人間として生きていくための学び」があるし、これがない教育はただの「プログラミング」だ。

法律は最低限のルールを書いたものなので、教育基本法も「最低限」のことだし、むしろ、「人間として生きていくための学び」については、守備範囲にしていない。

この理由はかんたんで、「人間として生きていくための学び」は、家庭教育が基本になるからである。

しかしながら、その家庭教育が崩壊しているのである。
なぜかといえば、さいきんの母親の言動をみていると、自分の子供を子供として扱っていないのでわかる。

ではなにとして扱っているか?といえば、「もう完成された人間として」、なのである。
この「倒錯」は、学校教育からのものなのか?なんなのか?

ひとりふたりのことではないから、なにか組織的な「母親教育」でもあるのだろうか?
しかも、こうした場にいる「祖母たち」の同様な態度が気になる。

なるほど、こうやって犬と人間の区別がつかないのだ、と気づいた。

まったくもって、人間側の劣化なのだ。
そうやって、水洗便所の汚物のように、時間が流れていって気がつけば、「成人」するのである。

成人とは、脳の発達が止まるので「成人」なのである。
だから、「人間として生きていくための学び」を成人にさせる「再教育」は、もはや「刑務所内」でしかやらない。
その効果と成果は、再犯率にあらわれる。

「人間の親の責任」は、「飼い主」としての「犬への責任」とかわりがないばかりか、人間相手なら重大なのは当然なのである。
それでもって、社会に出たら今度は、企業が「育成」責任を負わされることになったから、そのコスト分、給料が増えないのだ。

しかして、若手の部下は上司を真似るものである。

なので、もし、上司が情けなくて、自分の子供ばかりか新人の躾ができないでいるなら、いまは居心地が良くとも、将来は危ないとかんがえた方がいい。

自分が「猟犬」や「警察犬」のようなむげなる扱いを上司から受けているとしたら、それはあんあがい「ラッキー」なことなのかもしれない。
そんな環境で時間が経てば、人間なら、自分でかんがえることも「強要」されるから、「成長」する可能性が高まるのである。

これが、命令だけの刑務所に期待できない、「娑婆」にいる有り難さなのだ。

犬は飼い主の鏡なので、ダメ犬とは、飼い主のダメを表現して歩いている。
同様に、子供は親の鏡だ。
子供への「人間として生きていくための学び」を教えない親は、おそらく「老後」にとんでもない扱いを受けることだろう。

これも、因果応報で、それがいま、負のスパイラルになりはじめて、「相続」されているのである。
このことは、意図された「教育制度・システム」になって「文化破壊」しているので、文部科学省こそまっ先に廃止すべき「廃棄物」なのである。

習氏は天に逆らっているのか?

日本でもNHKが放送して大人気をえたのが、『宮廷女官 チャングムの誓い』(2004年10月7日から2005年10月27日)だった。
本国の放送から、約1年遅れで放送された、NHKとしては初の「韓流時代劇」であった。

このドラマの歴史的事実は、王朝の記録に残る「たった数文字」の、「王の身体はひとりの女医がしっている」である。
この記述の発見から、1年にわたる「大河ドラマ」をつくりだした、そのファンタジー創出力には感心するしかない。

また、その「時代考証」のめちゃくちゃも、研究者が目をむくファンタジーで、およそ日本が舞台では通用しないともいわれた。

わたしが子供だった時代には、さまざまなファンタジードラマが次々とできてきて、なにも『ウルトラマン』だけではなかった。
時代物なら、『河童の三平』とか、『仮面の忍者赤影』とかが忘れられない。

 

これら作品にも「時代背景」はあって、あんがいとちゃんとつじつまは合わせていたから、『チャングム』のハチャメチャは、やはり日本人にはやれといってもできないのかもしれない。

おなじハチャメチャでも、歌舞伎ともちがう。

「幕」と「場」の展開のなかでのドラマ作りは、たとえ七変化であろうともいきなり「近代」に化けることはない。
観客すら、劇中の時代における想定を共有しているからである。

まさに感覚の相違というか、歴史を創り出す能力というか、その民族性のちがいは計り知れない。

しかし、その朝鮮を実質的に治めていたのは、ずっと大陸の大国だったのである。
一応、『チャングム』では、相手国を「明」としている。
あの大国には、「国名がなかった」ので、王朝名をいう。

朝貢国の悲哀が所々にでてくるけれども、ドラマにあるような「まとも」な生活を一般人がしていたという「記録」はない。

さて、どんな汚い手をつかおうとも、一族の繁栄のために歴代がそうしてきたように、「王の台所」である、スラッカンの責任者たる位につくための悪だくみをして、「正義」のチャングムたちを無実の罪に追い込んだヒール役に、高齢のため引退が間近な現職が放った台詞が、

「そこまでしてお前は天に背くのか?」であった。

習氏が実質的に「終身皇帝」の座についた、この度の共産党大会では、党中央人事を決める最後の最後に、驚くべき「クーデター」が起きて、この瞬間を外国人記者たちが目撃したのだった。

それが、前総書記だった胡錦濤氏の「強制退場の場」だったのである。

このとき、舞台上のひとたちには、「一幕の終わり」での「幕間」での出来事にみえただろう。

なぜならば、外部への秘密大会が終わって、休憩を挟んで「公開」するための準備時間中であったのだ。
つまり、外で待っていた外国人記者たちが入場しているさなかの出来事だった。

しかし、習氏にとっては「本番中の本番」なのだった。

党中央委員から選出される、「常務委員」候補の名簿に、前日までは「李克強氏」ら胡錦濤派の名前があったという。
それが、最終局面で配布された紙に「なかった」のである。

それでもって、胡氏が異議を申し立てようとしたところ、「健康を気遣う」という名目で退場を促し、胡氏がこれを拒否すると、強制的に退去させたのであった。
なお、胡氏の発言は、マイクが切られており広い会場では聞こえなかった、という。

すなわち、会場の音声さんも「加担」した、習氏によるクーデターなのだ。

これが、「前代未聞」というのは、メンツを重んじる彼のひとたちだから、どんなに激しい権力闘争でも、大衆の面前ではさもなにもなかったこととするのが常識なのだ。
しかして、まさか外国人記者たちの目前でやるとは?ということだ。

ここから見えてくるのは、習氏側の焦りともとれる強引さだ。

すると、これからあからさまな権力闘争が起きる可能性が高いし、これを武力で制圧すると宣言したも同然だ。
胡氏からしたら、「そこまでしてお前は天に背くのか?」であろう。

しかしながら、しょせんは共産主義・全体主義者のなかでの話だし、そもそもが共産主義・全体主義を「天」が許すはずもないのだ。

われわれが注目すべきは、習氏の天下が長続きするのか?どうなのか?だ。

少なくとも、英国では、反グローバリズムの旗を掲げた新政権が、レタスより早く腐ってしまった。
習氏が微妙なのは、共産党というグローバリズムにあって、ナショナリストという立場だからである。

彼は、一見、バイデン氏と同じく、自国経済を崩壊に導いているようにみえるのだが、グローバル全体主義を世界にもたらしたいバイデンがやる「ぶっ壊し」とちがって、中国経済をグローバル全体主義にしてきた者たちの「排除」にあることだ。

それで、中国が貧しくなっても、元が共産主義・全体主義だからどうでもいいのである。

しかし、どうでもよくないのは、バイデンや民主党、EUからなにからの「富豪社会主義者たち」なのである。

中国国内だけでなく、強烈な闘いが習氏降ろしとなって炸裂するはずである。
その「流れ弾」が、台湾・尖閣・沖縄に飛んでくるのだろう。

わが国産業界は、自らすすんで「人質」になったけど、どうやって脱出するのか?
駐在している社員を見殺しにするのが、いまのエリート経営者だけど、果たして耐えられるものか?

アップルとダイキンは、もう脱出したけど。

おまけは、この「大会」の参加者たちの「口元」だった。
胡錦濤氏も含めた「ひな壇」のひとたちの口元にマスクは一切ないけれど、他の全員が「おなじデザインのマスク」を着用している。

なるほど、真の支配者は、マスクを必要としない「神世界」だと、全世界に披露したのだった。
わが国の「国会」で、マスクをしない議員に、マスクを強要する与党は、「平等」を最優先する、もっとも進化した共産主義を披露している。

おそらく、このことが、中国共産党に対するわが国与党の唯一の心の拠り所となる「優越感」なのだろう。

石油を求めて何千里

「スタン国」の中央アジアが熱くなってきた。

資源探査技術が進化して、なお、採掘技術も進化したから、かつては誰も見向きもしない「見棄てられた地域」の地位が、急速にあがって注目度が増している。

「SDGs」などと「浮かれた」ことをやっていたヨーロッパが、冬のエネルギー危機を目前にして、こんどはがむしゃらに「炭素」を求めだした。
すなわち、「石油」と「ガス」である。

このひとたちは、ずっとむかしから、「独り占め」する習性があるので、日本人のようにおっとりと「分け与える」という発想はしない。
自分のものは自分のもの、他人のものも自分のもの、なのである。

カスピ海に眠る巨大な資源が発見されて、沿岸諸国の政府は当然に「開発」をして販売利益を得たいと行動している。
しかし、カスピ海自体が「内陸」にあるから、とれた石油やガスをどうやって移送するのか?が問題になる。

まさか、日本のように内陸部の県に、タンクローリーでちまちま運ぶ、ということでは採算にあわない。
なので、やっぱり「パイプライン」という、巨大なホースで液体を送り込むのが効率的だ。

これをどうして山梨県とか、長野県まで引かないのか?はわからない。

もちろん、静岡県も、名古屋港にちかい浜松まではなんとかしているけれども、それ以東の地域にはタンクローリーで運んだり、あるいは地元企業に遠慮してかしらないが、ガソリン価格が相対的に高くなるようにしている。

住民がこれにどんな興味があるのかもわからないのが、また不思議なのである。
地方にいくほど鉄道網やバスなどの公共交通がなくなるのは、人口密度が薄くなることの必然である。

その結果、自家用車がないと買い物にもいけず、生活できない。
なので、密度の濃い都会よりも地方での生活にこそ、燃料は欠かせない。

にもかかわらず製油所がある沿岸部と比較して、どれほど割増料金を負担させられているのか?に興味がないはずはないとおもうのだけど、かんがえるのをやめたのか?

それとも、地域の名士がやっているスタンドでガソリンや軽油を買わないといけない、という「掟」があまりにも強い同調圧力だからなのか?
どちらにせよ、経産省が推測する製油所の廃止が、石油会社の経営権を侵害していることもある。

もちろん、尖閣問題の根底には、このエリアの大陸棚で発見された大油田の採掘をしたいだけでなく、ぜんぶ自分のものにしたい国が隣にあることが原因なのである。

つまり、資源国は、自動的に防衛力を高めないと「奪われる」という状態になるのだ。
このときの「防衛力」には、軍事力だけでない「あらゆること」をいうから、軍事音痴になった日本人は気をつけたい。

そんなわけで、中央アジアも、自動的に「きな臭くなる」のである。

これは、砂漠で見た目なにもなかった中東がずっときな臭くなったのとおなじだし、石油の前の時代に「胡椒」のために東南アジアが奪われたのもおなじなのである。

しかし、これらの「事例」は、「海」でつながっていた。
中央アジアは、「陸」でつながるので、かならず「周辺を巻きこむ」ことになる。

なんだか、ヨーロッパ人が舌なめずりする感じがするのである。

それで、世界最大規模の油田・ガス田がみつかったのは、カスピ海の西岸にある街、バクーである。
国としては、アゼルバイジャンだ。

ここから、パイプラインがあって、トルコまでつながっている。
カスピ海の東岸にある油田からは、タンカーに船積みされてバクー港までやってきて、このパイプランを使うことになっている。

あんがいと日本も頑張っていて、このパイプラインの敷設には、欧米企業だけでなく日本企業も参加しているのである。

今年、EUのフォン・デア・ライエン委員長自らがアゼルバイジャンを訪問して、大統領と契約したのは、従来の倍の石油供給なのである。
今月になって、この契約が履行されている。

それでもまだ「SDGs」の看板をおろさない、じつに「二枚舌」が得意技なのである。
狙いが、「日本潰し」だとはっきりしてきたのは、EV強行による「トヨタ潰し」と似ている。

日本人が「SDGsバッジ」を襟に付けているのをみるにつけ、「あほかいな?」とおもう根拠がここにある。
これも、「役に立つ白痴」の部類なのだ。
本人はぜんぜん自覚していないだろうから、やっぱり「白痴」だ。

もちろん、ヨーロッパは、このパイプラインの「増設」を画策しだしたのも当然の成り行きで、ロシア領内を通さないルートが考慮されていることも当然なのである。

しかして、アゼルバイジャンは、ずっと前の1988年から「カラバフ戦争」を、アルメニアとやっている。
こないだ亡くなった、ゴルバチョフ氏がまだ、ソ連共産党書記長で、調停に失敗してからのことだ。

いわゆる「コーカサス地域」が不安定なのである。

ついこれまで、世界が関心も示さなかった「戦争」だけど、この地域をかすめるように「パイプライン」が通っていて、アルメニア武装勢力は「標的」だと公言している。

ここにもまた、軍産複合体が舌なめずりするタネがある。
けれども、国際石油資本と軍産複合体の利害が対立する。

背に腹はかえられないEUは、先に石油の確保を優先させるだろうけど、世界秩序を破壊したい勢力はどうするのか?が問題なのである。

はるか彼方で、石油を求めても「平和裡に」にはなりそうもない。

過剰スペック高額化のiPad

新型ipadが19日深夜に、こっそりと発表されて話題になっている。

新たに販売されるのは2機種で、最廉価の(無印)iPadと、iPad Proで、日本では26日から発売されるという。

詳しいスペックはアップルのHPをご覧頂ければと思うが、その価格の上がり方に衝撃が走ったのである。
それが、「入門機」ともいえる、(無印)で、4万9800円だったのが、6万8800円~になったのである。

38%の値上げだ。
なので、多くの「記事」には、「約4割の値上げ」と記載されている。

ハイエンド機のiPad Proは、アメリカでの価格は「据え置かれた」けど、日本では「円安」のために、12.9インチが17万2800円~となった。
わたしが愛用している二世代前のが、10万円程度だったから、約7割増しである。

来年には、待望の14インチが出るとの噂があるけれど、はたして購入の決断は、やっぱり現物を見てからだけでなく、懐具合と相談して決めることになるだろう。

ぜんぜん「買い替え需要」にいたってはいないけど、今回の「過剰スペック」と「高価格化」について、例によって穿った見方をしてみようかとおもう。

まず、廉価版の(無印)だが、これは所持したことがない。
初めて購入したのが、中位のiPad Airだったからである。
しかしながら、すぐに12.9インチProの中古を買い増しした。

これには、ちょっとせこい理由があって、アップルペンシルの第一世代が、共通して使えるからであった。

「読書ノートを書く」という遣い勝手がメインなので、Airの画面サイズでは「老眼」に適せずに、強烈な肩こりを発症したからである。
しかしながら、とある出張で、新幹線にての作業中に「システムが落ちる」という致命的な問題が起きてしまった。

そこで、しぶしぶ型落ち(といっても最新といえなくもない)のProを購入し、しかもWi-Fiモデルではなくて、セルラーモデルにして、「SIM契約」までした。

おカネをかければ快適になる、というのは、その通りである。

アップル信者とかの話は、たいがいが「若いひと」の感想なので、iPad Proの12.9インチを使うというのは、もっぱらデザイナーとかのクリエーターが職場で使うもので、重くて大きいから持ち運びなんかしないことを前提にしていることがおおいという不満がある。

これは、わたしが想定している使い方とはまったくちがう。

老眼のロートルには、この大きさが必須であるから、重いのは我慢の対象なのである。
もちろん、長文を作成したいときにどうするか?の問題は、過去に書いたように、アップルのマシンでは困る。

M1Macに「WZエディター」をいれて、下書き環境はできたが、「納品環境」としての「Word」はWindowsマシンに依存している。
「文字フォント」がちがうためである。
しかも、MacBook Airは、ぜんぜん「Air」というほど軽くない。

だから、もっと「重い」MacBook Proを喫茶店に持ち込んでいるひとからしたら、iPad Pro 12.9インチなんて「軽い」だろうに、と思うのである。

とはいえ、iPad Airもお蔵入りしたのではない。
特に、紙の書籍を非破壊撮影してPDF化(同時にOCRも)するときの、撮影マシンになる。
これを、12.9インチでやるのは、やっぱり重い。

アップル社はメーカーでありながらソフトウェア開発会社でもある、いまどき珍しいビジネス・モデルで、自社製の「CPU」開発にも成功した。
それが、主力の「MacBook」のみならず、iPadにも搭載したから、その「高速化」にファンはワクワクしたのだった。

しかし、パソコンならまだしも、ipadはあくまでもタブレットなので、ipad用のアプリが、「M1チップ」のネイティブではなかったので、ぜんぜん高速化の効果は体感できないという。

むしろ、「内蔵メモリ」の増大の方に効果がある。

そんなわけで、自社開発した自慢のCPUをなにがなんでも搭載しないと、「ハイエンド」にならない、という製品ラインナップの矛盾が問題になってしまったのである。

それで、最廉価の(無印)iPadにも、ついこないだまでのハイエンドマシンが搭載していたチップを採用することになったのである。
だから、ふるくからのユーザーにしてみたら、なんだか選択肢の範囲が「縮んだ」ようにみえる。

ところが、最廉価の最廉価たるゆえんは、画面の構造とリフレッシュレート、それにメモリの少なさとアップルペンシルの第一世代しか使えないことが「残っている」のだ。
これでまだ、ライトニング方式が残った唯一の機種となったことでもある。

とくに、文字を書く、というニーズの場合には画面の構造が決定的に遣い勝手に影響する。
これが当たり前なので、おおくのレビュアーは、アップルペンシルの第一世代が残ったことにブーイングの声を挙げている。

けれども、「書く」という行為でかんがえたときに、アップルペンシルのオリジナルが「細身」のために、シリコン製のカバーで「太軸化」できるのだ。
これが、マグネット式の充電をやる第二世代のペンではできない。

そんなわけで、わたしは画面の構造で、Air以上を選ぶものの、アップルペンシルの世代にはあまり興味がない。
確かに第二世代のペンの便利さはあるけれど、「決定的」ではない。

結論をいえば、タブレットPCなら、残念ながら、iPad Pro 12.9インチの過去モデルが、わたしには「最高」なのであって、しかも他のメーカーとは比較にならない。

この「一人勝ち」が、アップル社をして、「進化」の罠にはまった、といえるのだろう。

円の3割安は信用崩壊なのか?

昨年末に115円/ドルだったのに、いまは150円/ドルの状況になってきた。
つまり、1年もしないで3割も円は下落したのである。

たとえば、韓国ウォンの下落といって騒ぐけれど、昨年末の終値、1,187.9600/ドルが、18日の終値で、1,425.0200/ドルだから、ほぼ2割の下落にすぎない。
これを対円でみると、昨年末の終値、0.0969/円が、18日の終値で、0.1047/円なので、約1割の下落でしかない。

つまり、韓国ウォンの下落を心配するよりも、日本円の下落の方がよほど深刻なのだ。
それで、円については、他の通過でみても、たとえば、発足したばかりの政権がとうとうコケた「大暴落」の英ポンドに対しても、エネルギー危機のユーロに対しても、「全面安」なのである。

つまり、円の「ひとり負け」状態なのである。

にもかかわらず、韓国経済の崩壊とか何とかというのは、日本の危機をごまかす策略なのか?と疑いたくなる。
気分として、反日の韓国を懲らしめてやりたい、というのはあるのだろうが、事実にもとづかないばかりか、日本の状況を隠そうとする方がよほど反日なのである。

国際政治学者の藤井厳喜氏は、50年間にわたる「円高の時代の終焉」と主張している。

これは、文明論的な視点からだし、ときどき間違えるアメリカの世界戦略の方向転換が背景にあることの結論なのだ。
また、経済学者の野口悠紀雄教授は、9年前のユーチューブ番組で、120円/ドルがひとつの目安と解説している。

この水準を突破した円安になると、日本経済は危険水域に突入すると指摘した。
もちろん、ネット上では「嘘をつけ」という非難囂々もあったけど、教授の丁寧な説明が理解できないひとたちの感情論であるし、また、意図的な誹謗中傷でもあったろう。

このときから、8年が過ぎた、いまから8ヶ月前、やはり教授は「おなじ説明」を、『ABEMAニュース』で発言している。
しかも、「経済学の基本が崩壊している」という指摘は、「業界」に対する勇気ある発言として注目したい。

いま、「名誉教活」たちが「現役」に渇を入れているけど、役人が仕切る、研究費削減がなにより恐ろしいので、見て見ぬ振りをしているのである。

それもあって、政治学と経済学という、ちがった目線からの「分析」が、おなじ「頂点」を示しているのである。

ちなみにわたしは、「政治学」を学問として「わからないもの」として認識している。
社会科学といえるのか?が怪しいからである。

なので、「人文科学」として、もっといえば「哲学」の分野に位置づけた方がよほどすっきりする。
これは、リベラルアーツの観点からのはなしだ。

さて、野口悠紀雄教授は、いわずと知れた「元大蔵官僚」である。

しかしながら、東京大学工学部応用物理学科卒にして修士課程途中で、大蔵省に入ったひとだ。
この点で、いまや「論客」として有名になった、高橋洋一教授(東京大学理学部数学科卒・経済学科卒)と似ている。

要は、本来が「理系」なのだ。

一方で、大蔵省の「王道」は、法学部出身者(文系)だと何度も書いてきた。
今をときめく「財務官」の、神田眞人氏は、法学部から入省して英国オックスフォード大に官費留学し、「経済学修士」となった経歴だ。

日銀の黒田総裁も、「財務官」だった。
けれども、黒田氏は、もっぱら「法律」の専門家で、国際金融と主税畑だったのは「人事」によるところ大ではないかとおもわれる。

もちろん、官僚と学者はちがう。

企業でも、企業内官僚と学者はちがうものだけど、民間であろうが官僚は、実務と学問的知識の「バランス」が求められるのだ。
すなわち、学問的知識が基礎にあって「実務」を構築する。

ただし、官僚にはかならず「上役」としての、政治家や経営者がいるので、このひとたちの「意向」が、先に「結論」となるのである。
なので「優秀な官僚」とは、このひとたちの「扱い方」に長けたひとをいう。

官僚の発案をいかに「通すか?」という目先の問題に長ければ、「優秀」なのである。
だから究極的に、「中身」は関係ない。

一方で、学者は業界内での作法である、「論文」を生産しないといけなくて、さらにこの生産物が、他の業界人から「多数回」引用されることがないと生きていけない。

この「引用回数」という指標をつかっているのが、ノーベル賞に至る道なのである。
だから、論文は「英語」で書かないといけない。

鈴木梅太郎が、世界で最初に「ビタミン」を発見した、という「伝説」は、日本語の論文を根拠にしている。
しかしながら、白人社会はこれを認めず、ポーランド人をビタミン発見者として「歴史」にしている。

何語であろうが「中身」が問われる、という世界ではないことが、学者業界の落とし穴なのだ。

そんなわけで、金融業界という俗人社会は、もっとも単純に「儲かることしかしない」という原則に貫かれていて、そこに「あるべき論」は存在しない。

それがどんなに「汚くても」だ。
この意味には、ハイエナやハゲタカのように、スカベンジャーとしての「掃除役」もしている、がある。

その「スカベンジャー:Scavenger」の原義とは、「税関長」なのである。

なるほど、いまや大蔵省から名を変えた財務省とは、日本経済を屍肉にして、ハイエナたちに与える役目を負っているのである。
それはまた、日本国民の生活破壊、という意味である。

円が信用崩壊を起こしている可能性が高いのは、野口教授がいうところの「円安=麻薬」を、大量の赤字国債で賄ってきた構造にある。
麻薬中毒者に無料で麻薬を与えて、犯罪を犯させないのは、スイスがやった手法であった。
そして、市民に迷惑をかけずに死んでくれ、と。

いま、これを日本経済が世界からやられているのである。

J・バイデンに「恥」はない

連邦上院議員を長年つとめて、なかでも「最重要」な外交委員会の委員長まで経験したひとが、どうしてこんな短期で「失敗」どころか「失態」を演じているのか?

マスコミは、「バイデン氏のメンツ丸つぶれ」と書くが、そもそもこのひとに「メンツ」という概念があるのか?からして疑わしい。
わたしは、このひとは「現状破壊の確信犯」だとおもうからである。
つまり、「計画どおり」なのだ。

しかも、この「計画」は、かなり「綿密」だとおもわれる。
決して、行き当たりばったりではない。
でないと、そもそも就任初日にやった50本以上の「大統領令」による、いまの経済破壊の種まきの「成果」がでていることの説明がつかない。

では、誰が計画しているのか?
これが、「不明」なのである。
すくなくとも、バイデン本人の立案とはおもえない。
ここが、まったくの「常識はずれ」なのである。

これまでの「常識」ならば、選挙で選ばれる政治家は、かならず国民のための政治をするものだとおもいこんでいるものだ。
しかし、彼はまったくちがう。

彼は、アメリカだけでなく世界経済を縮小させて、とにかく貧しくさせて、あげくの果てに「富豪による共産化」の実現に走っているのだ。
そして、「同盟国」の政治家はみな、このひとに従っている。

英国のように、まさかの「減税」を打ち出したら、たちまちにして「マーケットを介して」これを阻止し、なお、担当大臣の解任にまで至らしめた。
この「マーケット」とは、リーマン・ショックをやった「マーケット」だとかんがえる。

わたしの経験からいえば、リーマン・ショックの1年4ヶ月前には、「サブプライム問題」が話題になっていた。
最初は笑い話だった記憶がある。
しかし、だんだんと時間がたつにつれて「雪だるま」のように、疑心暗鬼が膨らんだ。

マーケットに参加する「金融エリート」は、たいがいが「金融工学」とか、「MBA」を修めているけど、これらは、流派がすくないあんがいと「一本調子」なのである。

それで、学校を出てからも「横の連絡」はしっかりとっていて、なお、見聞きする情報、たとえば、「専門誌」もおなじであった。
これは、「寄らば大樹の蔭」こそが、「利益」になるからである。

めったに、抜け駆け、一人勝ちはできない。
世界が、電子的な情報網でつながっているからである。

こうして、全員がサブプライム・ローンに疑いがないばかりか、その保険商品というデリバティブのCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)が世界を牽引する金融機関に売れたのだった。

しかし、これらは、「巨大な詐欺商品」であった。

リーマン・ショックとは、単なる事象なのであって、個体のマントルが減圧して液体のマグマに変化して、これが地上に出てくる「火山噴火」に似て、問題は見えない「深部」が、同じ穴のムジナであることなのだ。

しかも、このひとたちは「懲りない」のだ。
その思想背景に、いまだけ、カネだけ、自分だけ、で統一されているからだ。

よって、英国政府すら敵にしても、完全勝利になるのである。

けれども、なぜにトラス女史が党首選挙中に公約した「減税」が、実行するやいなや「ポンド」と「国債」の暴落になったのか?
これは、近年ではトランプ氏の政策だったし、それ以前なら、サッチャー・レーガン時代のやり方だった。

つまり、増税はよいが、減税は禁じ手だということの「デモ」ではないのか?

中東産油国をロシアと組ませるように仕組んでおきながら、減産に「幻滅した」と発言したバイデンは、内心、「よっしゃ!」とおもっていたのではないか?

コントロール不能の、世界スタグフレーション。
これが彼の狙いだろうからである。

OPECが、石油価格カルテルとして、石油価格の決定権を維持してきたのに、ロシア制裁といってG7が価格上限を設けたことは、OPECに対する挑戦だという言い分は、今回の「減産」が、世界需要減という事実をもとにした「正論」で貫いた。

サウジアラビアの来年度国家予算における、想定価格は、なんと64ドルほどだ。
サウジは、今回の減産をしてなお、石油がダブついて安くなると想定している。

つまり、石油製品の製造が、世界で停滞すると予想しているのだ。

これは、SDGsなる「共産思想」からではなくて、単純に「世界不況」という意味である。
それでも、SDGsをいうひとたちには、「歓迎」すべきことになるのは、その本質が「貧困による共産化への道」だからだ。

さては、ベーシックインカムが次の話題になる。
「働かざる者食うべからず」というオリジナルの共産主義はすっ飛んだ。
ゆえに、現在のは「共産主義2.0」と呼んでいい。

そんなわけで、バイデン政権の邪悪は、かつての「恥」を「誇り」に変えるほどのインパクトがある。
ボケ老人を装いながら、しっかりと世界秩序破壊の仕事をしている。

わが国も、自公連立政権が、率先してやっている。
すくなくとも「減税」はない。

「ゼロCHINA」の損得勘定

かつての「満蒙開拓団」の悲惨が、現代の「ゼロCHINA」論になってきた。

ずっと、中国投資を煽っていたわが国を代表する「経済紙」を自称する、プロパガンダ紙は、中国からの輸入停止で「53兆円消失」と恐怖を煽っている。

ついでに、中国から別の地域からの調達に切りかえるにも、年間で13兆円のコスト増になると、脅迫しているのである。
「しかし」と、アップルとかダイキンとかの「中国離れ政策」についても言及して、あとは「読者=経営者の判断」と逃げている。

つまるところ、「リスク管理」のはなしなのだ。

「管理」と書くが、正しくは「コントロール」のことである。
多くの日本企業の経営者は、自己判断力が劣化して鈍っている「偏差値エリート」という木偶の坊が多数となったので、「コントロール」を放棄して、「リスク回避」を志向する。

しかしながら、「リスク」はまた、「利益率」をも意味するので、「回避」ばかりしていると、「利益率」もゼロに接近するのだ。
そうやって、日本企業の利益率が消失したので、「53兆円」どころのはなしではないはずだ。

これを計算した、早稲田大学の先生には、悪気はないだろうから、プロパガンダ紙に「切り取り報道された」ということだとかんがえる。

さてそれで、「リスク・コントロール」のはなしである。

まずは、どうやってコントロールするか?の前に、自社は何がしたいのか?を確認する必要がある。
あんがいと、日本企業はこの「確認」を端折る傾向がある。
「いまさら」というわけだ。

しかし、「常に動いている」のが、「経営環境」というものだから、「常に確認する」ということは、基本中の基本だ。
犬すらも、自身の群れの中の順位を、常に確認しているのであって、常にあわよくば上位を狙っているのである。

つまり、「いまさら」という企業は、犬以下の行動をしていることになる。
上位を狙うなんてできっこない。
いまの業界(群れ)の安定すらないではないか?と。

これで、本気で国際競争のなかで生き残れるとかんがえていたら、はやく「廃業」した方がいい。
従業員の生活や取引先に迷惑をかけずに、計画的に清算するのが、せめてもの経営責任というものだ。

リスク・コントロールの次の手順には、現状把握がある。
自社はこうしたいけど、それで実際はどうなっている?ということだ。
それではじめて、したいことと現実のギャップを確認するのである。

このギャップの「埋め方」のシナリオ作りが、リスク・コントロールの中心部分で、それが「計画」だから、出来上がった計画の複数案から「チョイス」して「実行」するという手順になることは、業界を問わない。

つまり、記事から、アップルやダイキンはこれを愚直にやっている、と読めるのである。
そうでない企業は、トップが犬にも劣るので、組織をあげて「(主君)押込め」をするのが、鎌倉以来の日本的伝統なのである。

さてそうはいっても、というのは、一企業レベルではどうにもならない、たとえば「国家レベル」でのリスク・コントロールが問題になる。
すると、なんのための業界団体なのか?とか、商工会なのか?とかになるのだけれど、これがまた木偶の坊が多数なので動かない。

それでもって、総じて自民党を支持してしまっているから、先見性があるひとほど無力感と絶望感に苛まれることになっている。

そこで、目先を変えてみると、宗主国たるアメリカで、パトリック・J・ブキャナン氏(84歳)の言動がいま注目されている。

このひとは、ニクソンやフォード、レーガンといった歴代大統領のシニア・アドバイザーだったけど、1992年と96年には、自身が大統領選に共和党から立候補もしている「保守」の大物論客でも有名なのだ。

何度も書くが、アメリカで「保守」という概念が生まれたのは、あんがいと新しくて、その原因が民主党の共産化だったのである。
アメリカの「保守」とは、「建国の理念」を守るひとたちのことをいう。

彼が指摘したのは、アメリカの戦略の3つの失敗について、歯に衣着せずにハッキリと言い切ったことで話題になっている。
・ソ連崩壊後のロシア政策の失敗(ロシアをあくまでも敵視したこと)
・中国政策の失敗(経済発展が民主化を促すという幻想)
・中東政策の失敗(エネルギー同盟の崩壊)

著作家として、多数の出版をしているけれど、「日本語」になっているのは、次の二冊である。
『病むアメリカ、滅びゆく西洋』は2002年。
『超大国の自殺――アメリカは、二〇二五年まで生き延びるか?』は2012年。

 

さてそれで、「CHINA」とは何者か?といえば、「国家ではない」ことを意識しないといけない。
いまの「CHINA」とは、「中国共産党」のことである。
この党が、国家を支配しているからだ。

その内部での「抗争」は、習派と江派の死闘になっている。
ブキャナン氏が指摘したのは、鄧小平⇒江派という流れでの、民主党による利権政治と「Republican In Name Only」のブッシュ家からの失敗だ。

「フランケンシュタイン」を作ってしまったのだ。

すると、「ゼロCHINA」とは、ただの損得勘定で表現はできない。
こんどは、こちら側が「襲われる」立場になったからである。
どうやって、フランケンシュタインを倒すのか?が、最大のリスク・コントロールになったのである。

「ガラパゴス化」していてよかった

日本が世界(欧米)と「ちがう」ことが、「遅れている」と発想することの間違いがハッキリしてきた。

むしろ、その「ちがい」は、「日本文明」が「先進」のゆえのことだったか、あるいは、「異なる文明」としての特徴が残っていることだから、ぜんぜん卑下することではない。

けれども、「明治維新」そのものが、当時の「欧州列強」による植民地化の「カモフラージュ」として利用されたものだったので、「維新政府」はこれを隠すための行動をする勢力と、日本文明を活かす勢力とに「分裂」したのである。

これが、当時の支配層だった武士たちが起こした「反乱」で、主に九州で盛んだったのは、外国勢力に「近い」からである。
だから、単なるノスタルジーでの反乱ではない。
最終戦が、「西南戦争」であった。

わたしが注目したいのは、「維新の元勲」を輩出した「長州」である。
そもそも、「当時」長州という呼び名はなく、「萩藩」、「長藩」と呼んでいたのだった。

なんだか、「大東亜戦争」を、戦後になって「太平洋戦争」と呼ばされることになって、大東亜戦争が「禁句(タブー)」になったのと似ている。
「長州」と主張する、ウィキペディアが、信用ならないことの証左でもある。

それで、萩藩では、西南戦争の1年前に「萩の乱」が起きている。

維新の元勲たちにとっては、郷土の「元上司や同僚たち」の反乱で、それでか実質「皆殺し」にしたことが隠されている。

ここにも、「勝てば官軍」の論理があって、郷土愛にあふれる現代萩人たちが、どうして林芳正氏とか、その前までの河村建夫氏とかの、媚中・媚韓の人物を「保守」として選出するのかがわからない。

この意味で、山口県は、故安倍晋三氏と岸信夫氏の兄弟に対して、林氏がいるから、「真っ二つ」の政治風土がいまも続いている。
ちなみに、おそらく年内か年明けぐらいに、安倍晋三氏の「補欠選挙」があるはずだけど、誰が立候補するのだろうか?

さてそれで、初代首相になった伊藤博文は、萩藩の下級武士ではなくて、「撫育(ぶいく)局」という、藩主直属の「少数精鋭秘匿部署」にいて、幕府には絶対内緒の「裏金の運用」をやっていた。

「松下村塾」は、「表」の「藩校」という「普通科」ではなく、撫育局員たちのための「陸軍中野学校」のような存在だった。
なので、撫育局員たちと、「表」の武士団との交流はぜんぜんなかったという。

伊藤ら「長州5(ファイブ)」たちは、極貧の「表財政」から受けた、英国留学資金を出発前に一晩で飲み明かし、「撫育局」からの十倍もの資金でもってロンドンに渡った。

そうやって、シティでの国際金融を学んだのである。

帰国した伊藤は、新政府の「大蔵省」に入ったけれど、最初から「局長」待遇であった。
それで、彼はまっ先に「特別会計」つまり「裏金づくり」をやって、いまに至っている。

現代日本国民も、伊藤博文のつくった「裏金」をしらないで生きているので、「萩藩の表側」とおなじ立場にいる。
これで、もし国民が反乱を起こしたなら、それは「第二次萩の乱」と呼んでもいい。

ただし、皆殺しの目にあう可能性が高い、ということだ。

さて、そんなチャッカリ者の伊藤ではあるけれど、欧州の「小切手」と、江戸時代の商人が発明した、「為替」との「ちがい」をどうするか?に悩んだにちがいない。

小国が乱立する欧州は、各国が独自通貨を発行していたから、日帰りすら可能な近隣との取り引きには、ユダヤ人が経営する「銀行」が発行する「小切手」をつかわないと「決済」できなかった。

だから、商人も一般人も、いまだに銀行の口座開設とは、「当座預金」のことをいう。
対して、わが国の一般人で当座口座をつくるひとは珍しく、「普通預金」がふつうだという「ちがい」が、彼らと決定的なちがいになるのである。

詐欺と掠奪がふつうな社会なので、現金を持ち歩く危険は、命の危険に直結する。
これは、いまもまったくおなじなのである。

一方で、日本文明は、中央政府たる幕府が通貨発行権を持っていたので、流通する通貨が、東西で「金と銀」というちがいはあったけど、通貨単位は統一されていた。

それで、「為替」が発明されて、いまでも「郵便為替」だって残っている。
「現金書留」よりも、よっぽど安全な送金方法だ。

外国との交易で、港には「国際銀行」が必須になったのは、「小切手」取り扱いのためであったともいえる。
しかし、国内で一般の日本人をあいてにするなら、「為替」で間に合う。

小切手がプラスチック・カードになったのが、欧米人がもつクレジットカードで、おなじデザインでもわれわれ日本人がもっているクレジットカードは、為替がプラスチック・カードになったのである。

見た目がおなじでも、仕組みがちがう。

欧米人がクレジットカードをつかうと、自身の当座預金からの引き出しとなって、われわれがクレジットカードをつかうのとは意味がちがう。
「信用」が減るのである。

それで、欧米人は生活消費のためにある、普通口座から引き落とされる「デビットカード」を重宝する。
われわれ日本人に、ポイントが付与されないデビットカードの便利さが「ピンとこない」のは、このためだ。

けれども、あたかも電子マネー的な決済が、なんだか「先進的」という勘違いを頭の軽い政治家とか役人が信じ込んでいて、現金をつかうことを「遅れている」と定義した。

「ポイント付与」しかインセンティブがないから、県単位とかで割引ポイント制度を実施して、現金派を差別する「憲法違反」を実施している。
悔しかったら、スマホ決済にしろ、という行政命令に飛びつくのは、これも「乞食化」の一環なのである。

それでも動じない日本国民は、「貨幣の匿名性」という便利さの本質をしっている文明人なのである。

嘘に嘘で答えていたら

自分がいっていることが、自分でわからなくなってしまう。
なぜなら、「嘘」と「本当」の、「区別」がつかなくなるからである。

そのために、人間社会では、「嘘」は嫌われて、いつでも本当のことをいうようにしなさい、と躾けられるのである。
だから、「嘘」と「方便」はちがうのだけれども、おとなになると「方便」と「嘘」の区別が曖昧になるものだ。

ところで、これは言語の世界での話である。
人間が高度な文明社会を築けるのは、「言語」を介した「情報交換」が高度に発達したからである。

パスカルの一言、「人間は考える葦である」は、「考える動物」としての人間の価値を示したものだが、人間は言語(基本的に母語)をもって「考える」から、言葉を失うと思考も止まる。

すると、「言葉の乱れ」とは、すなわち「思考の乱れ」になるのは、当然すぎる。
この原則を心得ていて、悪意があってひとびとの思考の乱れを利用したければ、まずは「言葉の乱れ」を誘発させることが必要なのである。

戦後間もなくの、たとえば、小津安二郎監督の名作映画の数々に残る、日常生活での何気ない「会話」も、いまこれを再現したら、とんだコメディになりかねない。

けれども、演じる俳優よりも、台本を当時の話し言葉で書けるひとが絶滅したにちがいない。

わたしにはまだ、耳の記憶があるけれど、もう50歳ぐらいのひとたちには、これらの会話での日本語の「懐かしさ」はなくて、なんともまどろっこしい話し方に聞こえるかもしれない。
もっと若ければ、なおさらだ。

国語の授業で、「敬語の使い方」が、すっかり「テストの点数」をとるためのテクニックになったのは、敬語をつかう「場の消失」が先にある。
社会的「上下関係」が、「主従関係」だった長い時間で完成したのが「敬語」なので、「平等関係」になったとたんに「破綻」したのである。

こうしてみると、たった半世紀あまりで、日本文化の「核心」は破壊されたことがわかる。
しかし、たった半世紀あまりとはいえ、意図的にかつ、それなりの時間をかけてだったから、一般生活者はこの「犯罪」に気づかないのである。

それでもって、外国人、とくに白人を招いて日本料理を食べさせたり、日本の伝統文化を学ばせる「番組」や「動画」がたくさん配信されているけど、彼らが感心する「日本は伝統と近代が共存している」という共通の褒め言葉に、単細胞的に自慢して気持ちよくなってはいけないのである。

それよりむしろ、彼らが「学びたい」、「体験したい」という要望の方が、よほど「珍しい」ことに注意がいる。
現代日本人の多くが、すっかり忘れ去った伝統工芸の存在を、外国人から教えてもらっているからである。

誤解をおそれずに書けば、「お上」の権威が大好きな日本人の習性を、ある意味「悪用」したのが、「伝統工芸士」という国家資格であるし、「伝統的工芸品」という国家認定制度である。

伝統的工芸品を製作する「職人」に、階級をつくり、伝統的工芸品という「枠」を設けたのだ。
これらの「価値」は、本来、消費者が決めるものである。
それが、「自由競争」というものだ。

なので、国が作るこれらの「制度」は、自由競争に対する国家の介入である。
そうやって、当事者たちを「おだてながら」じつは、衰退させている。
「褒め殺し」ということだ。

それで、地方に行けば行くほど、行政やらが介入して、地場の伝統的工芸品や名産品を「販売」する店舗まで提供していて、その店舗の運営者を「指定業者」として競争入札までしている。

しかし、「製造組合」や「商工会」がこれをやっていることもあって、その店舗の雰囲気は、まったく旧社会主義国のあの時代の雰囲気を残す、化石のような店舗にある「やる気のなさ」が充満している。

わたしは、ウラジオストクの食品売店と、ブルガリアの首都ソフィアの百貨店「グム」で経験した。
ただし、「グム」は、宮殿のような建物に、わずか数店舗しか入居していないただの「空間」という不思議があった。

日本でも、店員のパートさんに商品知識はほとんどないため、学校のバザーが常設されているようなものだ。
自分が何を売っているのか?に興味もない店員さんをみるにつけ、かつて「勤勉」といわれたことが、かくも壊れるのかと確認するのである。

もちろん、本人たちの「せい」よりも、これをやらせる側の「不誠実」こそが問題だけど、それもこれもなによりも「嘘に嘘で答えていたら」こうなったまで、なのである。

つまりは、「やっている感」を出せば、やっていることになる、という嘘をいう。

それで、大半ではない、一部のひとが「その嘘を信じる」風情を演じて、表面をもって「クレーム」をつけるので、「お客様は神様」だという嘘の上塗りで、「クレーム予防」のための「嘘」を考案したら、クレームが減ったので「よし」としているのである。

ところが、大半のひとたちは「なにもいわない」から、結局のところこの大半のひとたちが、無言の「被害者」になったのである。

日本人は、ヒトラーが政権をとった「経緯(いきさつ)」を学ぶべき点が、ここにある。
大半のひとたちの「無関心」が、一部のひとたちの熱狂に負けたのだ。

選挙にいかない日本人が半数いることで、与党が政権を維持できていることとは、まさにこのときのドイツ人とおなじなのである。