子どもとおとなの区別ができない

ばかばかしいはなしだから,みんなの話題になる.
それが他人の不幸だと,たまらなく楽しいとかんじるのが世間というものだ.
これを提供するのは,むかしは「文屋」といってさげすんだ.
売文家業である.横文字にすれば「ゴシップ」だ.

金で動くきたならしい怪しげな雑誌記者というのは,あいかわらずいろんな作品に登場するが,大新聞の記者が別物だというひともいない.
ただし,大新聞の記者はいまだに社旗をひるがえしたハイヤーに乗ってあらわれる.
JALの搭乗員がそうだったように,大新聞の経営が傾いて「経費削減」になったら,さぞやハイヤー業界はこまるだろう.

べつに三田佳子にはなんのうらみもないが,その息子である高橋某という38歳になる「おとな」が,今月4度目の逮捕をされたという.
日本では「逮捕」が事件になるが,刑事裁判での結果が重要なのだ.その刑事裁判も,起訴されれば99%有罪になる国だから,捜査が優秀なのか裁判所が仕事をサボっているのかはわからない.

それで,このひとの場合は,一回目が高校生で保護観察処分に,二回目は執行猶予つきだが有罪判決で,三回目は実刑判決で収監されている.そして、今回だが,容疑はすべて覚醒剤だから,みごとな常習犯である.当然だが二回目以降は「成人」である.
なお,三回目には薬物依存治療を受けてからの収監となっている.

この「事件」が興味深いのは,親の子離れと子の親離れという双方からのバランスが狂っているからであると同時に,世間が「おとな」を子ども扱いすることの違和感があるからだ.
前者は親子間のことなので,他人が介在するはなしではない.小遣いが月額で70万円だの日額15万円だのだと騒いでいるが,おなじく母親から月額で1000万円もらっていた元総理大臣だっている.
だから,報道の義務としては,贈与税の課税状況が適正かどうかだけだろう.

母から見れば子どもは何歳になろうが,一生「子ども」である.
今回の逮捕で三田がだしたコメント「自らの責任と覚悟をもって受け止め,そして罪を償って,生き抜いてもらいたい」というのは,おとなになった子どもに対する母からのことばとして違和感はない.逆に,二度目のときに言えなかったのが悔やまれる.

似たようなはなしが,高畑淳子親子にもあったのは記憶にあたらしい.
このときは,母親が成人の息子の不祥事を全面謝罪していた.
「業界」で活躍する先輩でもある母が,おおきな傘になっていたのは,三田の一回目,二回目にみられた現象とおなじである.

なんのための子育て教育か?と問えば,「自立」につきるとおもうが,それができていない.
また,この二例では,父親が不在なのも共通している.
さいきんのCMで,あんがい父親がでてこないものがあるのは,いつからかトモダチのような親子が理想とされるようになったからか?

それも,成人した子とのトモダチのような,ではなく,幼児からである.
つまり,子どもがおとなになれないというよりも,おとなが子どものままなのだ.
大学の入学式や卒業式,果ては,入社式に親がついて来るようになった.
ちょっと前ならかんがえられない.

2022年4月1日から,この国では18歳から民法上の成人になる.

あるときは子ども扱い,あるときはおとな扱いの「法的」なはじまりでもある.
飲酒や喫煙,ギャンブルなどは,18歳ではいけないことになっている.
企業でも,18歳から20歳までの扱いがいろいろ面倒になるはずだ.

はっきりしない国である.
おとなが「覚悟をもって生き抜く」ことを放棄しだしているからではないのか.
国や自治体が助けてくれる.
ファンタジー国民の夢は覚めない.

「敬老」をかんがえる

重陽の節句とのかさなりもあって,敬老の日が9月であるのは,農閑期でもあるからだという.
わが国は,農業国であった.
五節句のなかでも重陽はなぜか地味である.
1月7日,3月3日,5月5日,7月7日、そして9月9日.

暦について以前書いたが,なぜか「観光」にもあまり利用されていないのが重陽である.
この時期,菊人形ぐらいで,優雅に菊酒をたしなむことをしたことがない不思議がある.
ただし,旧暦の9月9日は,ことし10月17日になる.

戦後,敬老を記念日とする運動は兵庫県に起きた.このときの「敬老」の対象は「55歳以上」だった.
当時の寿命にちかく,企業の定年も55歳で,いまでも自衛官は55歳で定年する.
もっとも,戦争で若年から壮年がおおく亡くなったから「寿命」といっても自然死だけではない.

欧米で軍が就職先として人気なのには,定年が早いから,という理由も重要だという.
つまり,はやく現役からはなれて,余生が自由になるという魅力がつよいのだから,やはり「勤労観」も「人生観」もちがう.
自衛官でこんな理由をおもいつくひとがどのくらいいるのか?

どのくらいいるのか?という点でいえば,55歳から「敬老」にされたことをいまの50代で意識しているひとはどのくらいいるのか?と問えば,まずいないはずだ.
現役最後の仕上げ時期,でもあるだろうが,年金支給開始年齢がズルズル延びて,これに連動して「雇用延長」もズルズル延びているから,年収が激減しても会社にいつまでもいられるようになってしまった.

この年金支給開始年齢の延長は,まるで計画停電のような政府の脅しで,必要もない停電を故意に実行して国民に不便を強いるかのごとく,年金会計が破綻すると脅して払うべきものを払わないもっともらしい理由にしている.

もらう側も,家系における数代前からの支給をわすれて,自分の分をよこせという「権利」を主張するが,掛け金という政府の詐欺で,自分のご先祖が先にもらった分の返済をしただけであることが忘却の彼方となっている.

しかし,忘れたふりをすれば,自分の分がもらえると信じるから,選挙では「社会保障の充実」を要求してはばからない.
つまり,自分の家系収支以上のものをよこせと要求している,おそろしく強欲な老人の姿が出現してしまった.

これらの老人のおおくが,昭和10年生まれからなるナチスドイツに真似た国民学校世代を先頭に,その後は戦後教育世代となるから,いかに「教育」が国家の重要事であるかがわかるというものだ.
つまり,年金制度よりもはるかに早い段階で,教育の破綻があった.
それは,いま学校に通う子どもたちではなく,いま生きている祖父母の世代からの教育の破綻を意味する.

「教え諭す」という方法の利点は,均一化した人材の育成にある.
これは,大量生産大量消費という時代の要請でもあったから,「工員」育成プログラムとしては優れている.
このなかから抜きん出たものが,エリートとして指導層に仲間入りするシステムだった.

ところが,どうやって抜きん出たものを選ぶのか?となったとき,考えついたのが「データ化」であって,それが「偏差値」の利用だった.
ここまでは,学校教育という場でのことだが,企業では別途人材教育が実施されていて,かつ,人材を発掘する仕組みもあった.

それで発掘されるひとと,企業内文化だけに染まるひとに分化させて,発掘されたひとが指導層に仲間入りできた.
残念なことに,企業体力の低下から,かつてのような企業内教育ができなくなって,それが結果的にさらなる企業体力の低下をまねいてしまった.

こうして,意図せざるも未必の故意のごとく,あとから気づけば企業に有利な「社畜」が大量生産された.
「社畜」は,応用力に根本的に欠けるから他社では役に立たない.
それで,転職しようにも需要がないことに気づき,自らの汎用的な可能性を放棄するのである.

こうして,いま,日本の老人は,かつての「社畜」が齢を重ねている.
雇用延長で,おなじ仕事をしているのに,年収を半減させることが企業にできるのは,「社畜」の存在あってである.

だから,若者は汎用的な技能をみにつける努力をしなければならないと,気づくだろう.

こうして,「敬老」というのは反面教師としての意味を重くするだろう.

電子決済が普及しないのは

韓国や中国の利用状況に大きく水をあけられた電子決済.
なぜかこの二国の名前がでてくると,躍起になるのはわるい癖である.
それで,また中央政府がしゃしゃり出て,あれこれ命令して電子決済の普及と利用率の向上を図るという.
ちなみに,現金主義をつらぬいているのは,ロシアと日本になっている.また,韓国はクレジットカードが圧倒的という特徴がある.

自由主義経済への移行に失敗したロシアと,自由主義経済のまね事をしている日本で,現金ばかりが使われているのは,なかなか興味深いテーマである.
その筋の専門家による深い分析を期待したい.

アフリカ諸国やインドでの普及は,一種の「ワープ」であるから,これに中国も加えてよいだろう.
アナログ時代に,発明や開発の投資をコツコツやってきた先進国と,デジタル時代の恩恵をいきなり受けた後発国が,一気にアナログ時代を飛び越えてしまったのだ.

しかしそうはいっても,日本以外の先進国も一斉に現金主義をやめて,なんらかの決済手段が日常になっているから,わが国の「遅れ」を周回遅れというひともいる.
これらのひとたちは,店舗側に負担を強いる「端末」設置と,利用「手数料」,入金までの「日数」が普及の足かせになっていると分析している.

けれども,一定以上の売上高があるなら,現金を取り扱うことに関する「手間」がもっと議論されてよいはずである.
「手間」がかかるだけでなく,盗難や事故の「危険」もある.
これらは,ぜんぶ「コスト」だから,どちらが得かの損得勘定をすれば,なるべく現金以外が望ましい,になるはずである.にもかかわらず,普及しないのは何故か?

ニーズがないから.
これがこたえではないのか?
なぜ,日本の消費者は現金決済を優先させて,それ以外を嫌がるのか?
それ以外,とは,クレジットカードとデビットカード,あるいは携帯電話や交通系,流通系電子マネーのことである.

じつは,日本人はこれら「カード」を持っている.
決済手段として持っているのに使わないで,現金を財布からだしている.
その現金は,ほとんどが銀行のCDから「キャッシュカード」をつかって引きだしている.
ならば,デビットカードを使えば手間がはぶけるのにつかわない.
ヨーロッパで普及しているデビットカードが,日本では普及しない.

これは、「信用創造」のしくみがちがうからではないか?とおもう.
そもそも,クレジットカードの概念がちがう.
おなじデザインのカードでも,日本とヨーロッパでは意味がちがう.

ヨーロッパ人は「小切手」をつかう文化があった.
小切手は当座預金(個人普通口座もある)で決済する.
日本の銀行における当座預金も,やはり小切手を振り出せる.
おなじに見えるが,ぜんぜんちがう.

ヨーロッパでは,「信用」がついている.
つまり,個人資産を含めて限度額がきまるから,信用があるひとには当座貸し越しもする.
口座にお金がなくても,小切手が有効につかえるのだ.
日本なら,別の口座から振り替えて当座預金額を確保しないと不渡になる.

この「小切手」がプラスチック・カードに変身したのがヨーロッパのクレジットカードだ.
だから,クレジットカード伝票に「サイン」をする習慣がのこった.
日本のクレジットカードは,信販会社が最初につくったから,「月額限度額」という概念でできている.つまり,小切手という出発点ではない.月額限度額をこえれば,そのカードは当月につかえなくなってしまうから,銀行の残高とリンクしない.

「高級カード」といわれるカード会社のキャッチコピーが,「カード所持があなたの信用の証拠」と宣伝をするのは,ヨーロッパ感覚で言っている.
ヨーロッパ人がクレジットカードをつかうと,自分の信用額がつかった分減ると同時に,ちゃんと引落ができれば,つかった額以上の信用分がふえるとかんがえるのだ.
そして,現実に信用ポイントが増加する.

だから,少額の買い物なら,クレジットカードよりもデビットカードをつかって,自分の「資産信用」には直接の影響がないようにしている.
こうした「便利さ」が,日本人にはわからない.
日本の個人が個人の資産信用を問われるのは,住宅ローンの設定時ぐらいで,あとは口座残高しか気にしない.

「信用創造」という金融にとっての最大機能が「ない」ことが,現金主義にしている.
政府が「命令」しても,うまくいくはずがないけど,通貨危機の韓国のように「宝くじ」でも付与してやれば,普及するかもしれないとかんがえるひとはいるだろう.

野菜を買うとプラゴミがふえる

海洋生物にもプラゴミの悪影響が報告されてきている.
なかでも深刻なのは,「マイクロプラスチック」や「ナノプラスチック」で,食物連鎖からヒトへも影響がでているという.
歯磨き粉の研磨剤にもふくまれていて,それが海洋に流れ出るというから,知らないうちに海を汚している.

ひとは見えないモノを「なかった」ことにする傾向がある.
それで,たまにまじまじと見つめると,妙にがてんするものだ.

「一族郎党」で一緒に住む生活など,とっくに歴史のかなたにおいやって,いつの間にか三代以上の同居すら「大家族」といわれるようになってしまった.
だから,順番どおりなら,同居の祖父母の「死」に直面する経験は,孫にはあんがい希になって,お葬式がイベント化する.

十年前の映画「おくりびと」がヒットし日本アカデミー賞を受賞したのは,むしろ「遅い」感もあった.
おなじ意味で,日本版タイトル「おみおくりの作法」(2013年)は,より突っ込んだ内容になっている.

人糞を堆肥にする,というのは日本の風習で,畜産がさかんだったヨーロッパにはみられない.
彼らは,川に流すのがふつうだった.
日本の田舎にいけばたいがいあった「肥だめ」は,発酵過程をとおして「発熱消毒」もかねたから,おそろしく科学的な設備で,完成したものは水でうすめて使用したが,なんと千年の歴史がある.
納豆や醤油・味噌だけが,わが国の発酵文化ではない.

ところが,「水洗」というヨーロッパ文化に席巻されて,同時に「化学肥料」の普及もあって,「下肥」は絶滅過程に入っている.
それで,レバーを押せば水とともに消えてなくなるから,「なかった」ことになった.
だから,「下水処理場」は,現代文明をささえる重要施設にまちがいなく,小中学校の生徒にはかならず見学させるとよい.
消えてなくなったのではないから,「なかった」ことにはならないことが学べる.

「地球環境」などという壮大な環境よりも,身近な生活環境がどのようにして人為的に「作られている」か?は,おとなだって知りたいだろう.
その「下水処理場」すら,電気がなければ稼働しない.
平凡な日常という,現代文明は,強固なようでじつは脆弱だ.

石油という便利な物質は,エネルギー資源であると同時に材料資源でもある.
燃料として燃やせば,電気ができたり自動車が動く.
一方で,さまざまな化学反応から「プラスチック」や「タンパク質」までつくることができる.
燃料としての石油が,ほかの方法に置き換えられても,材料としての石油がほかの物質に置き換えられるかといえば,素人でもそうはいかないとわかる.

現代文明が石油に依存しているのは,以上のことで確認できる.

「現職で将来ある科学者だったら絶対に発言しない」といって「発言した」のは,武田邦彦教授である.研究費の配分を確実にしなければ,科学者としてやりたい研究ができない.その研究費は,国から支給されるので,国にさからったことを発言をしない.つまり,「沈黙は金」なのだ.
自分は研究者としては「引退」し,いまは「教育者」に専念すればよいから,科学をもとに発言するのだ,という意味である.

「リサイクル幻想」(文春新書,2000年)は,記憶に残る武田教授の著書である.
なぜかというと,1975年の「海洋投棄に関するロンドン条約」(日本は80年に批准)の,あたらしい議定書が96年に結ばれて,まさに海洋投棄の全面禁止となった時代背景があったからだ.

当時勤務していたホテルの排水溝にたまった汚物は,海洋投入処分の対象だったから,この議定書による対策を研究していた.それは,陸上処理の方法の模索で,費用負担増の予測が主だった.
そんなこともあって,事務からのふつうゴミ,調理場からの生ゴミについても,対策の検討をしていたのだ.

この本が出版されて18年.
武田教授の発言はとまらないが,なかなか教授のいう「科学」が,浸透していない.
「科学」よりも「制度」を優先させる体質が変わらないからだろう.
その「制度」が「利権」と直結するから,絶望的なのだ.

野菜を買うとプラゴミがふえる.
消費者は,そろそろ声をあげるべきではないか?

鳴り物入りではじまった「民泊」だが,オーナーにとって最大の問題が「ゴミ分別」なのである.
外国人が「分別できない」.
また,都区部でも分別のルールがちがうから,おなじオーナーの「民泊」でも「区」がちがうと,リピートした外国人客が「混乱」するのだ.

そうして,マンションの管理組合や自治会から目の敵にされる.

「科学」を基準に「制度」にしないツケでもある.

国家的詐欺の太陽光発電

FIT(固定価格買い取り制度)という国の制度をご存じだろうか?
太陽光発電や風力,バイオマスなどといった「再生可能エナルギー」(おおくは発電効率がわるいが,なんとなく「クリーン」とされる)を,無理クリに普及させようとして,電力会社に「命令」し国が勝手に決めた金額で買い取らせる仕組みだ.

経済学でいう,典型的な「政府の介入」である.
「政府の介入」が,経済活動に「よい」効果をあたえることは,めったにないことでもしられているから,このはなしにもよいことはない.

このブログで何度も「政府の無能」を指摘してきたが,またまたその「無能」どころか「大迷惑」が報道された.
2020年代なかばまでに,太陽光発電でえた電力の買い取り価格を現在の「半分以下」にする,と勝手に決めたという内容だ.

これは,太陽光発電パネルを設置した家庭にも波及するから,発電業者だけがこまるという問題ではない.
すでに,発電事業は大量倒産の時代になっている.
FITという制度は,かつての全体主義同盟国ドイツではじめたのを真似たもので,2012年からスタートしたものだ.要は,たかだか6年しかもたなかった.

愚民化された国民は,どのくらいこのニュースを鼻で笑っているかしらないが,パネルを設置した家庭が損するから「ざまーみろ」ということではない.
強制的に高く買わされた電力会社が,それでは困るといって泣きついたら,政府が「まぁまかせろ」といって,その高い分を電力料金に乗っけて全国民の負担にした.

今回の決定は,その国民負担の軽減になるから,ありがたいと思え,という意味だ.

この雑なやりかたは,典型的な「プロダクトアウト」の発想だから,まったくもって19世紀・20世紀型である.
政治の貧困が,おそろしくふるい体質の政府を変えることができなどころか,強化している.

これに「反抗」したのか?それとも何なのか?さっぱりわからないが,神奈川県が太陽光発電パネルの普及を後押しするという報道が,ほとんど同時にやってきた.
黒岩知事とは,政治記者からはじめて立候補したとき,全県を太陽光発電パネルで埋めると公約して当選したら,財源がないのに気がついてすぐさま撤回してしまう感覚の御仁である.

ところで,このたびの北海道地震で,この太陽光発電の問題が別の角度からあきらかになった.
それは、九州だ.
九州では,太陽光発電比率が高い.これが,大規模停電につながるという.
そもそも,太陽光発電は,太陽がでている昼間しか発電できないし,天候に左右されるから不安定だ.
それで,太陽光による発電の不安定な周波数が問題になるという.

つまり,太陽光発電が増えすぎると,供給過剰になって,周波数の不安定から停電を招くというのだ.
系の中にある火力発電所の「出力をさげる」努力にも限界がある.

まるで,いいことづくめの「再生可能エネルギー」にも,アキレス腱があるのだ.
これは,物理の問題だ.
文系が口をはさんでは,かえって問題がこじれる.

現代の文明生活は,電気に依存している.
だから,発電という最初の一歩をまちがえると,おおきな損になる.
その損を負担するのは利用者だから,科学という基準で啓蒙があっていいだろう.

行政のへんな介入が,科学をねじ曲げて,詐欺になる.

ウィンドウズ画面の風光明媚

ウインドウズというパソコンのオペレーション・システムが2015年に刷新されて,だいぶ時間がたった.
立ち上げ画面には世界の絶景写真が自動的にでてきて目を楽しませてくれる.
こうした写真画像の「風光明媚」に,どのくらい「日本」があてられているのだろう?

外国人観光客のいう「日本は美しい国」とは,幕末から明治初期に訪れた外国人がのこした「美しい」とおなじなのか?ちがうのか?

おなじなのは「清潔」という意味の「美しい」だろう.
道路端も,公衆トイレも,この国は概ね「清潔」だ.
このことは,かのシュリーマンも,相当に賞賛している.
舗装道路も自動車も,電気や近代的な下水道もなかった当時の横浜や江戸をみての感想である.

いまでも観光地にある「観光馬車」の馬には糞を受けるものを装備しているが,むかしはそんなものはなかったから,道には馬糞が点々とあったはずである.しかし,よい肥料になるため,ちゃんと始末していたのが日本人の行動だった.
人糞とて貴重な肥料として,現金で売買される対象だった.世界に類例がない糞尿輸送については,西武鉄道の創始者,堤康次郞の「苦闘三十年」(三康文化研究所,1962年)にもある.

ヨーロッパのふるい街並みにつきものの「石畳」は,下水がなかったときに,人々が窓から棄てた汚物を流すためというから,人畜ともに相当量が道に「あった」のは事実だ.
ロンドンブーツと紳士の傘は,これらを避けるためというはなしもある.
東京台場にあるトヨタメガウエブのヒストリーガレージで,「パリ」に行けば床に精巧な犬の糞があるほどなので,ヨーロッパから日本に来たひとが「清潔で美しい」と感じたのは,当然だった.

当時とちがうのは,「スカイライン」の美しさだったのではないか?
電柱も電線もなかったけど,高層建築物は「お城」だけだから,おなじ高さで,似たような瓦の屋根が連なっていたはずである.
だから,街から少し離れた丘や山からの景観は,美しかったと想像できる.

いまは,地方の城下町にいっても,そんなものは猫の額ほどの保存状況だ.
かつての「お城」さえ,その跡地が公園ならまだしも,無粋このうえない建築の県庁や,復元とは名ばかりのコンクリートでつくった城が建つ無様を,観光資源だとかんがえる想像力に,ただただおどろくばかりである.

また,場所が「自然の景観」になると,たちまち日本の景色で邪魔をするのは「高圧線」である.
どんな「山」にも,高圧線が設置されているから,その「産業優先思想」のすさまじさが見てとれる.
デジタルカメラ時代になって,トリミングすれば消せることにはなったが,肉眼では消せないから,意識から消すしかない.すると,あんがい気にならなくなるという特技を,日本人は習得した.

スカイラインの美しさにこだわっているのは,英国のチャールズ皇太子であると前に書いた.
こういう美的センスを見習いたいものだ.

いまは,「インスタ映え」するとなれば観光地になる.
この夏に訪問した,城崎温泉の街並みが,その理由で若者や外国人観光客の人気を呼んでいた.
浴衣に下駄をつっかけて街を歩き,湯をめぐる.
ふるい日本的な情緒がのこる街並みと,浴衣が「インスタ映え」するのだ.

しかし,「統一感」ということでいえば,櫛の歯が欠けたような街並みで,ある意味「日本的バラバラ」になっている.
それでか,撮影スポットが限られるから,似たような画像が氾濫する.
これではすぐさま飽きられてしまうのではないか?

日本観光の印象が,「退屈」になる道理である.

もっと,ウィンドウズ画面の風光明媚を,じっくりながめて,そこにあるかんがえ方を思考するとよいのではないか.
それが,もっともこの国の観光に欠けていることだとおもう.

100円グッズは自慢できるか?

郵便配達を平日限定にすると効率があがるという見出し記事がでた.
誰の効率なのか?というと,郵便局の効率だろうから,利用者の効率があがるわけではない.
その最大の理由が,人手不足だ.
「人手不足」の理由は,ほんとうに「人口減少」だけなのだろうか?

たしかに,人口減少や超高齢化,子どもの減少がある.だから,ひとの供給面からみれば,ひとの奪い合いとなって,それが人件費単価を上昇させるから,わが国は,いよいよ「高コスト社会」に突入している.
すると,これは生活コストの上昇を意味するから,実質的なインフレが発生していることになる.
政府や日銀は,インフレ率2%を目標としたがぜんぜん達成できないままだ.しかし,その計算根拠は大丈夫なのだろうか?

いわゆる,セーフティネットが,もしかしたら頑強になっていて,働くよりも働かない選択が,生活者にとって「正解」になってはいないか?
専業主婦が「働く」と,損する仕組みになっているのは,「限度額」が変更されても変わらない.
働く自由を損なっても保護しようとした対象が,多数だった時代から変化したら,こんどは制度が対応できなくなった.

この国の議論は,つねに「提供者」の側からが主流であるが,世界が常識とする「消費者」の側からの議論がほとんどない.あったとしても,話題は至近のミクロ的で,「供給者」のいうマクロ的な議論とはかみあわないことがおおい.

日本は先進国の先端を走っているといまでも信じているから,「遅れた外国」に「100円グッズ」を持ち込んで,それがどんなに便利かを自慢するTV番組がある.
相手の外国人に感心させると,そのグッズのお値段を質問し,かなり高額な回答をえる.そこで,「いえいえこれ100円なんです」というと,外国人がビックリする画像をとるという趣向である.
そして、「さすが,にっぽんじんは発想がすごい」とか,「日本の物価がそんな安いなんて意外」という感想がお決まりである.

「価格破壊」という点において,日本の「100均」には及ばないが,そのデザイン性(センス)と価格遡及で世界展開しているといえば,デンマークを拠点とする「Flying Tiger Copenhagen」だろう.フライングタイガーも100均も,ほとんどは「中国製」で,自国製のものは皆無だ.
消費者に,高級品からフライングタイガーや100均まで,さまざまな選択があるのが豊かな社会である.
だから,日本は本当は「豊かな社会」のはずである.

にもかかわらず,そんな実感がないのはどうしたことか?
「もの」と「ひと」が一緒くたになって,どちらも「安ければよい」になってしまったからではないか?
しかし,「もの」とても,超高級ブランドがあるから,「ひと」の「価格」だけが一方的に下がってしまった.

この意味するものは,価値ある商品やサービスを「安く提供しすぎ」ているためだ.
だから,「しすぎた分」は,消費者に「所得移転」してしまっている.
しかし,消費者の家計が好転しないのは,自身の労働という価値も「安く提供しすぎ」ているからだ.
つまり,これが「デフレ・スパイラル」である.
これを,「金融政策」という,かなり本筋から「遠い」政策で解決しようとしたのが政府・日銀であって,効果がぜんぜんない,ことの理由でもあろう.

こうしたことが,ずっと30年も,この国「だけ」で起きていて,どの国にも「波及しない」のはなぜか?
日本がみえない「鎖国」をしているからである.
これは,ちょっと前に話題になった「内外価格差」の存在のことである.

さまざまな「規制」によって,業界が他国から守られているから,国内での競争はあっても国際競争を国内ではしていない.
それで,気がついたら「世界」の働き方における労働の価値まで,国内だけでの評価になってしまった.

もちろん,100円グッズはありがたい.
しかし,人間の労働という「サービス・グッズ」にまで,安さだけをもとめたら,結局は最後,「高品質」という価値まで失わないか?
これが企業の不祥事が続発する遠因になっているのだろう.
スポンサー企業が「しぶちん」になれば,お金をパトロンから引き出せるひとが君臨するようになるから,スポーツ界にも,全国の「お祭り」にも波及するのではないか?

「有能な人材をもとめる」くせに,報酬は用意しない.
「有能な人材」は,ふつう「高額」なのだ.理由は「有能」だからだ.
ならば,「ふつうの人材」は,いくらなのか?
この金額が,わからないのが日本の「労働市場」である.

ならば,世界はどうなっているのかを調べたらいい.
賃金にみあった売上単価をどうやって達成するのか?
高賃金でなり立つモデルは,どういうものか?
これを,はやく構築しないと,「人手不足」で事業が継続できなくなる可能性がある.

それは逆に,高賃金を払えるならば,「人手不足」にならないことでもある.
ここでいう「高賃金」とは,「有能な人材」だけでなく「ふつうの人材」もふくまれる.
さらに,「はたらきやすい」もふくまれる.
手取りが少なくても,「はたらきやすい」が魅力になるウェートが増すだろう.
これは,経営者には「コスト」だが,働く側には,切実なメリットだ.

もはや「高賃金化」は避けられない.
その対策が,人件費削減では,意味不明だ.
日本の経営者は,100円グッズの「ビジネス・モデル」を研究すべきで,100円グッズを真似してはいけない.

実務者ほど哲学を

経営者が経営者の役割を放棄して,ただの社内発注者に成り下がり,その発注根拠すら部下に丸投げするから,部下は発注そのものの意図から紐解かなければならないことが見られる.
大企業病のなかのひとつの症状だが,中小中堅企業が,これをまねてしまっていることがあるので,ウィルス性の伝染病かもしれない.

罹患した経営者の治療方法は,本人の気づきをきっかけにして,自己免疫作用の発揮しかないのだが,そもそもその才に欠けるから罹患するので,あんがい治療は難しい.
そこで,気の毒な部下が奮起するしかなくなるのである.
しかし,こうした部下にとっては,将来の反面教師として,また,問題解決の経験が職業人生に重要な示唆をあたえてくれることもある.

「こともある」というのは,確率のはなしである.
マイナス評価を企業文化にする体質なら,波状攻撃のなかのひとつでもしくじれば,かなりの確率で裏街道にまわされる.
「プラス評価が基準です」と声高の企業ほど,実際はマイナス評価をするから,なかなか一筋縄ではいかないのが現実である.

これは,評価をする側の裁量範囲と能力の不一致からくる.
結局,上司次第,という他力本願が部下に生じるのだが,一方で,その上司も部下を選べないことがあるから,はなしが複雑になる.

「適材適所」ほど困難なものはない.

「適材」とはどういうことで,「適所」がどこかを深くかんがえ,今だけでなく将来まで,自社の人員をどう配置するのか?をまともにかんがえると,まさに夜も寝られないことになるだろう.
だから,一貫してちゃんとできている企業はすくない.

そんなこともあって,経営者の集団は「優秀な人材」をもとめるのだが,困ったことに,この国の経営者の集団は「優秀な人材」とは,安易に偏差値によると理解しているから,大学から順番に高校,中学へと「偏差値『偏重』」が伝染し,ついに逆流し,果ては幼稚園から大学という順番に変化した.
その結果生じたのが,「教育問題」である.

答がきまっているから採点できる.だから,「偏差値『偏重』」のエリートは,答がきまっていない問題を解けない,とずいぶんまえから指摘されている.
これは、重大な問題で,ビジネスシーンにおいては,答がきまっているものなど存在しないし,そもそも「正解」すら,だれにもわからない.

ある課題を解決する方法をみつけて,それを実行したら業績が改善した.
それならば,その「解決方法」が「正解」かといえば,確実にちがう.
「おそらく正解に近い」としかだれにも評価のしようがない.
なぜなら,もっとうまい方法があるかもしれないからだ.
「経営活動」とは,正解の「近似値」に近づける活動のことである.

だから,成功体験が豊富な企業ほど,貪欲に「もっとうまい方法」をいつでもかんがえている.
残念ながら,成功体験がすくない企業は,かんたんに「正解」と決めつけて,改善案を拒否するから,たいがいが「ジリ貧」になるのである.

経済界が「学校教育」に口をだすのは理解できる.
社会人になるための準備をする機関であるからだ.
ところが,どうもわれわれは「教育」を勘違いしているかもしれない.

日本の「教育」は,江戸時代の寺子屋以来,「教え諭す」という概念で一貫している.
だから,いまだに教師を「教諭」という.
ところが,「エディケーション」は,「可能性を導き出すのに手を貸す」というニュアンスが強い.

この違いは,決定的だ.
しかして,わが国に「エディケーション」の文化も伝統もなく,「教え諭す」が行きついた先が「偏差値『偏重』」だったのは必然でもあろう.

すると,社会にはいってからの「エディケーション」しかチャンスがない.
「かんがえる訓練」を,最新のIT企業が重視して,新入社員からベテランまで一貫して社内研修のテーマとしているのは,しごく当然なのだ.

「二進法」でしられるコンピュータを扱うには,「ロジック」がなければならない.
だからといって,小学校から「プログラミング」を「教え諭す」のは,「エディケーション」になるのか?といえば,残念ながら,そうはいくまい.
順番がちがう.「エディケーション」のなかに「プログラミング」がなければならない.

かくして,企業内で問題解決をはかる「部下」にとって,もっとも重要なのは,「哲学」のリテラシーとなる.
若くて経験が浅いうちは,「ノウハウ本」でもなんとかなるが,中堅以上になると行き詰まる.
職業人生で40代がピークであると,なかなかわからないものだが,ピークを越えたら「維持」だけでも大変なのだ.
だから,入社から20年でどこまで経験を積み上げ,経験という「資産を増やす」かが,その後を決める.

「自己啓発」のおおくが「かんがえ方の伝授」なのも,この理由による.
すなわち,実務家にもっとも重要な基礎をなすのは,「方法」ではなく「哲学」なのである.
それは、経営者に「哲学」がなくなったからでもある.

「魔法使い」になった経産相

このたびの北海道地震で,道内ほぼ全域が停電となった.
対して,6日,経産相が「数時間以内に電力復旧のメドを立てるように指示をした」.
一方,今回の停電は「ブラックアウト(全系崩壊)」が原因であった可能性が指摘されている.

ブラックアウトだとすれば,わが国で「初めて」という事態である.
これは,震源に近い発電所が運転を自動停止したのをうけて,周辺の発電所がバックアップをしようにも,みずからのシステムを守るために,安全機能が作動して連鎖的に電力供給が遮断されることをいう.

また,本州からの給電をえるために用意がある送電網(直流)も,これを交流に変換作動させるために電力を必要とするから,なんと給電をえることができない.
これは、どこかで聞いたはなしである.
福島第一原発における,「全電源喪失」と似て,北海道全域という「系」のなかで,「全電源喪失」という事態となった.

「電力業界」は,言わずと知れた「経産省管轄」だから,ここでもまた「官僚の落ち度」が厄災の元凶となった.
そのアリバイのために,高飛車な態度をとって,能なしは電力会社であるという責任のおしつけを図ったのが,大臣の発言主旨だろう.

もしそうではなく,この大臣のみずからの意思による発言だとすれば,命令すれば何でもできる,という精神構造があきらかとなって,物理科学的な現実を無視した「魔法使い」をまじめにやろうとしているから,まさに「ファンタジー」だ.
この国の「大臣」は,政治家ではなく「官僚」のトップに成り下がってしまった.どっちを向いて話しているのか?

どちらにせよ,被災者にとっては唖然とするはなしで,どうでもいいから電気が欲しい.
原発事故の教訓が,相変わらずまったく活かされないのは,その原点にある「想定」がまちがっているからだ.
これを,あたかも責任回避する便利な用語の「想定外」という一言で,役人はだれからも処分されない.

近年まれなる破壊力が予想され,さかんに事前警告があった先週の「台風」で,関空が機能不全になり,8千人の利用客が人生の記憶に残るだろうひどい「おもてなし」を受けた.
はたまた,京都の山奥では宿泊研修中の小学生160人が孤立したさわぎとなった.
どちらも責任者は「想定外」というが,これがほんとうに「通じる」社会なのだろうか?

外国人が珍しがるから,ある種の「観光資源」にもなっているのが「電柱と電線」である.
ようやく「簡易型の埋設方式」が,一部で「実験」対象となっている.
なぜ,電線は電柱が常識で,埋設がいけないのか?
せっかく,大金かけて埋設したのに,なぜ「トランス」は地上に鎮座しているのか?

「想定」の前提が,「産業優先」の「産業政策」という枠内にあるからである.
端的にいえば,「利用者優先」や「消費者優先」になっていない.
もっと深くいえば,民主主義でないのだ.

どうして「野党」がこの点を重視しないのか,まったく不思議である.
「支持率ゼロ」の政党が存在する不思議があるが,その政党も,あろうことか別の方向をみているようである.
これは、マーケティングがめちゃくちゃであるという証拠である.

そんな具合だから,科学にうとい「高等文官」たちが跋扈できるのだ.
電力会社は,電気を起こして配電して販売するという商売だ.
地震で発電所が停止したらどうなるのか?「大損」である.
地震や台風で配電のための,たとえば電柱が倒れたらどうなるか?「大損」である.

利用者には,電気がない生活はありえない.
それで,なにがあっても電気があることを前提にするから,電力会社の安定供給のための投資を負担するのは仕方がない.
だから,インチキがないように会社は活動内容を正しく公表する義務がある.

これに,命令して歪めるのが役所である.
電力会社にも,利用者にもためになることは「想定」しない.
その余計な分まで,利用者は負担させられるから,二重に損をする.
学業で勉強できたひとたちが,自分以外はバカだと信じているから,電力会社も利用者もだまって命令に服せばよいと思考するのだ.

しかし,その命令は,魔法使いの魔法である.
科学技術の知見をこえた法律をつくって,それを守れと命令すれば,世の中は法律どおりになるというのはどうかしている.そうかんがえるのは「凡人」だ.
日本のエリート官僚は,できないといえば,法律違反だとして罰をくだす.
それでもやっぱりできないと,民間はバカばかりだと内輪で満足する.
「いえいえ,そんな技術を人類はまだもっていません」といって許してくれるひとたちではない.

利用者は,なんと「魔法」の分まで負担させられている.

被災者には衷心よりお見舞い申し上げる。

奴隷労働の譜系

以下の話題がバラバラだが連続してはいってきた.

1.希望する高齢者が70歳まで働けるよう、現行65歳までの雇用継続の義務付け年齢を見直す方向で、高年齢者雇用安定法を改正するという.
2.また,地方自治体で,非正規職員の比率が財政難で上昇していて,50%をこえる自治体も相当数(九州では10市町)ある.
3.さらに,福井県9市町で「総合行政情報システム」が,システム障害をおこし,管理しているシステム会社に「契約違反」として,50万円の損害賠償をもとめるそうだ.

これら一連のはなしには,かんがえない,という思考停止の「奴隷化」という共通項が「譜系」になってみえてくる.

「働き方」の話題で,切っても切れないのが,「労働市場」というもののかんがえ方である.
欧米的な労働市場が「ない」ということを,このブログでくりかえし指摘した.
わが国の専門家はなぜか,「労働市場の流動化」がもっと必要だというが,そもそも「労働市場」が「ない」のだから,「流動化」もなにもない.

労働者は自分の「労働」という「行為」を売っている.
「行為」だから,「人格」ではない.もし,「人格」も含めてしまったら,それは「人身売買」になってしまう.
だから,「労働」とは労働者にとって「商品」なのである.

「商品」には,ふつう「スペック」がある.
この「スペック」が労働のばあいふつうの商品とちがうのは,みがけばみがくほど価値が上がるという性質があることだ.
自分でみがく場合と,雇用主がみがく場合と,両者でみがく場合がある.

いずれにしても,「労働」は商品価値が「成長する」という特性をもっている.
だから,価格が上昇傾向で変動する可能性がたかい.
物質的商品は,物質だから自分の意志がないので,需要と供給によってのみ価格がきまる.
「労働」という商品には,労働者の意志があるので,「成長分」についての「相場感」があって,需要と供給によって価格がきまるものの,交渉で折り合いをつけるのである.

この「価格がきまる」過程を,ふつう「市場(しじょう)」と呼んでいる.
物質的な商品であれば,たんに「商品市場」といい,労働という商品であれば「労働市場」という.
わが国に「ない」,といったのは,このような意味でのはなしである.

静岡県御殿場市にある,大規模観光施設の創業者は,
「雇用延長でも,給料はおなじ.だって,仕事がおなじで,おなじようにやってくれれば,おなじじゃないとおかしい」と言いきっている.
ちゃんと「労働市場」があるひとの発言である.

この発言が,「珍しい」のがおおかたの「常識」だから,わが国の企業組織は「労働」を理解しているか?が怪しい.
つまり,「本当は『定年退職』したから,継続して雇ってやるなら年収で半額でも多いぐらいだ」という発想には,「労働市場」の原理がどこにもないということだ.

これには,当然,「現役」の給料にも「労働市場」がないことを意味する.
雇われる側の「労働者」も,自分の給料の価値が自分の労働の価値と一致している,という感覚は皆無だろう.
これには,戦後の「生活給」という日本独自のかんがえ方が,いまも生きているからだ.

「年功序列」や「終身雇用」が日本的経営といわれてきたけど,もっとも重要で基礎になるのが,給料は「生活給」である,という概念だ.
ひとり暮らしの若者の給料は,生活にそんなに費用がかからないから安くていい.
でも,結婚したら,奥さんの生活分をどうする?子どもができたら,その分の教育費もどうする?
これが,年功序列の原点だ.

「終身雇用」は,寿命がみじかかったらで,年齢によって強制退職させられるという理不尽に,あんがい誰も不満がない.
「退職金」という「生活給」によって,その後の人生も支えられてきたからだ.
だから,転職は不利になる.退職金の計算根拠「勤務年数」がリセットされる.

日本企業と外資系が,相も変わらず「分類」されるのは,外資系に「生活給」という概念がないからだ.
外資系の賃金体系は,「労働市場」を原則とする.
日本に「労働市場」がない,というのは「日本企業」のことを指す.

改めて本稿冒頭の3点をみてみよう.
1.の雇用延長をたんに「延長」するだけ,だから,自分の価値とはことなる労働条件を強いられる理不尽も「延長」されてしまうし,収入がふえると社会保障負担額もふえるから,踏んだり蹴ったりになる可能性がある.

2.自治体の非正規雇用の実態は,「身分」と連結している.かんたんにいえば,正規職員はとにかく働かない.非正規職員に押しつければ,業務は遂行されるからだ.
ならば,正規職員を廃止してしまえばよい.「その程度」の業務レベルと業務量なのだ.
AI時代の職業予想で,公務員がいらなくなるのとおなじ理屈である.

3.上記2に関連して,直雇いなら2のとおり.これに「業務委託」が加わったのが3である.
ようは,丸投げなのであって,ふだん「委託」した業者には無関心なのだが,役人に不都合が生じると,相手のせいにする技術に長けているというだけのことだ.
この前提は,「指定業者」になりたいのが世の中にたくさんいるから,だめなら別の業者に指定をかえればよい,という安易さがみてとれる.
人口減少時代,地元でそんな都合のよい会社がいつまでもあるのだろうか?

役所もいれた日本企業の奴隷になりたくなかったら,どうすればよいか?
自分でかんがえなくていけない時代になっている.
労働側にも,「生活給」を棄てるための研究が必要だろう.