統計不正の後始末

えらい評論家になると、実務からとおざかってしまうので、なんだかピントはずれな議論をするけど、「えらい」からだれも文句はいわない。
それで、そのままピントはずれなはなしを毎日きかされていると、そのうちそれがもっともなはなしになる。

うそも100回いえば真実になる。

まさに、名言。

厚生労働省の統計に不正があるのは、「問題」だ。
けれど、不正をした役人が悪い、というはなしだけで、この「問題」は解決しない。
こんご、不正をおこさないための対策のはなしでもない。

なにかといえば、給料に連動する社会保障費がふえるからだ。
この国の「社会保障費」は、税金「だけ」でまかなわれてはいない。
半分は、企業負担なのだ。

だから、給料の統計値がちがうなら、その大元データがどうなっていたのかが問題で、社会保障費を節約していた分があるのではないか?
ならば、企業がインチキをしたのかというとそうではない。
制度上の欠陥があったのではないか?というはなしである。

企業は、じぶんで負担する社会保障費について、たいがいは社会保険労務士に計算を依頼しているばかりか、簡単にいえば「丸投げ」している。
これは、前に書いた「岡っ引き」のはなしのとおり、社会保険労務「士」という「士業」の収入を確保するのも、管轄するお役所の大切な業務だからである。

では、プロである「士業」がまちがえたのか?
やはり、そうではないから、制度の問題にいきつくのである。

そうすると、「数字を正す」と、社会保障費がふえる。
すると、それは、自動的に「企業負担がふえる」ことを意味するのである。

どうしてくれるのか?
という経営者に、政府は「払え」ということになる。
ますます、それでは「損」をした気分が高まるから、そのうちこれでは選挙に勝てない、となるだろう。

それで、まさか税金からまかなうことになると、前代未聞の「全額政府支出」という前例ができる。
この論法がつうじるのは、じぶん以外のだれかが負担するなら、得になる、とかんがえるからだ。

しかし、その「財源」が、税金だとなると、はなしがちがう。
にもかかわらず、「得」だとかんがえるひとがおおければ、「一体改革」の大義名分のもと、社会保障費は「税」になれる。
そうしたらもっと、「増税できる」と役人たちは喜々とするだろう。

アメリカがイギリスから独立をしようとしたきっかけは、「(紅)茶税」の課税問題だった。
イギリス本国の王様が、植民地アメリカの住民に意見をきかず「勝手に」決めたことが、「独立戦争」にまでなった。

それで、いまでもアメリカの「保守本流」は、共和党のなかで「茶会党」を名乗っている。
このひとたちが、紅茶をたしなみながら、社会問題を議論しているのは、ただの「茶会」ではなく、「独立自尊」のいわれをまもっているからなのである。

対して、わが国では、明治政府の「開発独裁」と、江戸幕藩体制と連結した「お上」という発想が伝統になっているから、自分たちでなにかを決めるという概念が希薄なのである。

お上が決めたことを、守ること、こそが国民の美徳にまでなっている。
これは、一種の「マゾヒズム」である。
三島由紀夫をして、「戦後日本文学の『金字塔』」とまで絶賛させた、『家畜人ヤプー』の、おぞましくも本質をついた物語は、おとななら読んでいたい作品だ。

    

ちなみに、この作品は、巨匠、石ノ森章太郎による「劇画版」も復刻されている。

   

日本の有能なサラリーマン諸氏も、ある意味「マゾヒズム」に染まっていて、みずから有給休暇を取得できないことを「自慢する」体質がある。
来月からの、「有給休暇取得義務化」という「強制」が、「効く」とすれば、いよいよ証明になるのである。

もっとも、祝日の年間日数で、わが国は世界一レベルだから、とっくに「休み」が「強制」されている。

そんなわけで、じぶんが負担したくないものは、とにかく他人にふり向けるということが、「リスク回避」であると信じるのは、残念ながら世界のなかでは「異常」なことであって、ましてや、それが「税」にからめば、それこそ「回避したがる」のが世界の常識なのである。

役人は、価値をつくらない、というのも世界の常識だ。

そろそろ、国家依存はいけないとかんがえないと、なにをされるかわからない。

行政機能が肥大しすぎていることをしるべきである。
それがまた、企業活動を活性化させる、じつは切り札なのである。

「勉強法」をおしえてほしい

学校のときの成績や受験による学校選択で,人生がおおきくかわる,というのは,国・地方どちらにせよ高級官僚になるならまだしも,専門職で生活しようとしたらほとんど関係ない.

むかし,法律でまもられていた「長期資金を提供する銀行」がわが国には三行あったが,ぜんぶなくなってしまった.

これらの銀行は,旧帝大出身者だけが事実上の幹部候補で,あとは切り捨てていたが,その特権をもった「幹部」のひとたちが「患部」になって,会社を潰してしまったという共通点もある.
それに,法律でまもられていたのに破たんしたから,法律ごと吹っ飛んだ.

ところが,こんな事実をしっていても,おおくの親たちは「いい学校」に入学させたいとかんがえている.
それは,漠然と「高級官僚」の「安定」が,子どもの将来に望ましいとかんがえているからにちがいない.

役所がダメなら大きな会社,いわゆる大企業志向はつきない,というわけである.
ところが,バブル前というずいぶんまえから,本当に優秀な学生は「起業」を目指していた.

エスカレーター式の「年功序列」のなかでは,飽き足らないという発想である.

しかし,日本企業の「年功序列」がほんとうに「年功序列」なのかというと,あんがいそうではなく、それなりに「実力主義『的』」なこともあって,在職年数をかさねながら,先輩後輩のあいだの縦の「序列」と,同期のなかでの横の「序列」が,本人のしらないところでさだめられていく.

これに,最後はトップ層の「好み」というおビックリが,年次の序列を無視して,「何人抜き」のおビックリな決定をくだすのである.
なんのことはない,「好き嫌い」ということが,最終決定要素なのだが,その決定リストに載らないと,はなしにならない.

そんなわけで,部長の声がきこえだすころには,本人たちもだんだんと「序列」がみえてくるようになっている.
民間なら一線をこえるのは,「取締役就任」ということになる.
取締役は,経営者になるから,使用人である従業員とは身分がちがう.

会社登記も必要なので,印鑑証明と実印を会社に提出することになる.
それで,晴れて就任すれば,まず一回目の退職金(割り増し)を手にする.
割り増しになるのは「会社都合」で従業員を辞めてもらって,経営陣に採用された,という手順だからである.

二回目は,役員退職慰労金,ということになる.
だけど,子会社がいっぱいある大企業なら,本社の役員を辞めても子会社の役員の口があるから,民間でもちゃんと「天下り」できるようになっている.
じつは,ここに役員の「年功序列」がある.

学校で成績がトップだった人物が役人になって,かれらが役所でやることのコピーが民間にされるという流れは,「予算」がはじまりかもしれない.
国家予算の編成を,民間企業がまねたからである.

それで,「天下り」も,企業がまねた.
日本の大企業が,ことごとく活力をうしなっていることの原因のひとつに,「安泰」という勘違いがあるからだとうたがう.

法律でまもられていた「長期資金を提供する銀行」は,潰れるはずがない,という「安泰」で,なんでもかんでも貸し込んで,ありえないほどの回収不能におちいったからだ.
ふつうの料亭の女将の投資に入れ込んだスキャンダルも,「安泰」こそが原因だ.

神ならぬ人間が,どんなに優秀ともてはやされようが,しょせんは程度がしれているものだ.

そうした「安泰」のなかに,学校教師たちもいる.
起業しようという方向とは真逆の,安定志向がえらばせる職業になっている.

しかしながら,当然,いまどきもしっかりした「先生」はいるのだが,彼らの抜きがたい壁は,教育委員会という官僚機構で,そのトップは教師ではない「事務官」なのである.

もちろん,その上には「文部科学省」という官僚機構があるから,教師は教師ではないひとたちから支配されていることになっている.
それで,あいかわらず「何をおしえて何をおしえないのか」をきめるのも官僚だという,国民学校時代からの「戦時体制」が継続している.

じつは,高級官僚になるひとたちは,学校時代に「勉強法」を修得している.
いわゆる,いまどきでいう「効率的な勉強法」である.
この勉強方法は,効果があって,勉強を難行苦行にしないから,ちゃんと成績優秀という結果がでるようにできている.

それで,この方法をみんなにおしえると,エリートがいなくなる可能性があるから,なるべくおしえないように努力する.
その結果が,「学習指導要領」という「命令書」で,ここには勉強法をおしえることなど書いていない.

その文部科学省の命令にしたがう必要のない「学習塾」という業界は,自由競争下にあるから,塾生の成績をあげる結果をださないと逃げられてしまう.
すなわち,「結果にコミットする」のは必定なのである.

各科目の授業の内容以前に,「勉強法」というノウハウの有無が,それぞれの科目の成績に決定的なインパクトをあたえるのは,当然なのである.

じつはこれ,企業業績の改善でもおなじなのだが,気づいている経営者はすくない.

安倍首相がきらわれるわけ

タイトルはぜんぜんちがうが、昨日の記事のつづきである。

「政治の停滞」がいよいよ深刻になってきていることの勝手な分析を、選挙でうるさくなる前に書いておこうとおもう。

ヒトラーとスターリンという独裁者として有名なふたりは、犬猿の仲だったことがしられている。
どちらからも互いに「大嫌い」で、その嫌悪感が歴史としてあらわれたのは、それぞれの国民にとっては命がけの大迷惑であった。

なぜにこの二人は「大嫌い」どうしだったのか?
もちろんパーソナリティーの問題ではあるが、「公務・公職」において大嫌いなのだから、ちゃんとした理由があったはずだ。

それは、「ファシズム」と「マルクス・レーニン主義」の「親和性」にある。
「ファシズム」は「極右」、「マルクス・レーニン主義」は「極左」という見かただけではだまされる。

「自由主義」の反対は、「社会主義・共産主義」である。
この視点で見ると、ヒトラーとスターリンは自由主義者の「はずがなく」、むしろおなじ括弧のなかにおさまる。
ヒトラーのナチスは、「国家『社会主義』ドイツ労働者党」。
スターリンのボルシェビキは、「ロシア『共産党』」。

自由主義の反対である、「社会主義・共産主義」の枠にピッタリとはまる。
なんのことはない、「同類」なのである。

「同類相哀れむ」というのは,かれらには通用しない。
これは、磁石の「極」とおなじで、同類はかならず「反発」しあう力学がはたらくようになっている。

その理由はかんたんで、支持者の「マーケット」がおなじだからである。
なので、「近親憎悪」になるのである。

自由主義者は、ぜったいにかれらを支持しないから、かれらも自由主義者をあいてにしないし、政権を奪取すれば弾圧の対象にする。
それで、かれらをして「マーケットイン」させるのは、「社会主義・共産主義」に親近感をもつひとたちにむけるしかない。

そこで、熾烈な支持者獲得競争がおこなわれるから、政治的に犬猿の仲になるのは、当然のなりゆきなのである。
「右」とか「左」だといって、互いに批難をくりかえすのは、かれらの土俵上「だけ」であって、ほんらいここに自由主義者は無縁である。

ようするに、過激派の「内ゲバ」とおなじ構造なのである。

その「特殊な用語が拡張」されているのが、いまのいいかたなので、「右・左」とか、「右翼・左翼」といういいかたに巻きこまれると、なんだかわからなくなってだまされるのだ。
だから、「自由主義」と「社会主義・共産主義」とに用語をわけてつかわないといけない。

そこでわが国の自由民主党という政党をかんがえると、かれらは「保守」ということになっている。
「保守」というのも便利かつややこしい用語で、なにを保守するのか?という対象によって、意味がぜんぜんちがうことになる。

いわゆる「正統な保守主義」は、伝統をおもんじる英国の発祥で、『フランス革命の省察』を書いたエドマンド・バークを「父」として、トクヴィルやチェスタトン、オルテガといったひとたちに継がれている。

ほんとうは、英国よりはるかに伝統をおもんじていたのが日本だったが、戦後、「伝統」の理論化に失敗してこんにちにいたっている。
皇国史観の大家、平泉澄『物語日本史』(講談社学術文庫)は、戦後、子ども向けに書いたもので、タブーあつかいになっているけれど、念のため通読する余裕がほしいものだ。

  
  

しかし,一方で、たとえば、共産党のなかで「保守派」といえば、これらの譜系とはまったく関係ない、むしろ真逆の「真性・共産主義者」を指すから、「用語」としてはあまりつかってはいけない。

また、「保守主義」と「自由主義」も概念がことなるので、いっしょにはつかえない。
楠茂樹・楠美佐子『ハイエク -保守主義との決別-』(中公選書、2013年)にくわしい。

「保守合同」が1955年になされたときの「保守」とは、吉田茂の「自由党」と、吉田に追い出された鳩山一郎が、吉田と折のあわない岸信介とで「日本民主党」をつくって対立したが、社会党の左右合同に触発されて一緒になったという、政治哲学とは無縁の合体経緯であった。

社会主義に親和性が強かった岸が、社会党に入党しなかったのはなぜだかしらないが、自民党の「党綱領」をみれば、「進歩主義」をうたうこの政党が「社会主義政党」であることを自称していることに気づくだろう。

そういう意味で,自民党の正体は、まったく日本的な(英国や米国とはちがう)、自由主義と社会主義がまざりこんだ得体の知れない政党なのである。この得体の知れない政治集団を、「保守」と呼んだことに、わが国の政治的混乱が用意されていた。

碩学、小室直樹が、これを「鵺(ぬえ)的」と表現した理由である。
「鵺」とは、わが国最強の伝説的「妖怪」をさす。

自民党の幹事長経験者の小沢一郎氏が、なんども政党を統合したり分裂させたりする原理は、保守合同のいかがわしさを、いかがわしいとはせずに、できあがったそれを原点としていられるからだろう。

いまだに、心底、もっとも根源的な自民党員であるのだとかんがえればつじつまが合う。
本人にも、支持者にも、悲劇的な発想の持ち主だとわかる。

一方、あまりにも小数だが野党第一党ということになっている「『立憲』民主党」というのは、上述した正統保守の譜系からなる「立憲主義」とは縁もゆかりもないことは、共産党のなかの保守派とおなじであるから注意がいる。

つまり、「枕詞」としての「立憲」だという意味で、ちょっとだけ古典文学の伝統をかすっているだけであるから、なんてことはない「民主党」のままなのである。
この遊び心を理解できず、政権党だった民主党が解体されたのは、ブラックジョークとしかおもえない。

以上から、現在の安倍内閣をみれば、おそらく自民党の歴代内閣でもっとも「左派」、すなわち「社会主義」を標榜している政権であることが理解できる。
田中角栄内閣の「社会主義性」の、進化し、かつ、純化した結晶のようなものである。

それは、国家が富の配分をきめることに注力する経済政策にしっかりあらわれていて、「福祉元年」を高らかにうたった角栄節の洗煉されたすがたなのだ。

それに、流動化する東アジア情勢をみれば、国防にも手をつけざるをえないのは当然だから、これをもって「右傾化」というのは、たんに中国に隷従したいことの裏返しにすぎない。まさに、それが「右傾化」という上述した意味不明の「用語」をちゃんと使用していることに注意されたい。

そんなわけで、かつての全共闘の闘士だったお年寄りたちが、「安倍政治を許さない」のは、かれらの主張のほとんどが「保守党」によってかなえられてしまっていることへの「憎悪」と、共産中国へ隷従せよと叫んでいるのだとしかおもえてならない。

消費増税を「やらない」といって「やった」民主党政権だったから、ことし予定されている消費税増税に反対できないのは、「民主党」のままである「立憲民主党」としては、律儀なことである。
両院とも「予算委員会」で、野党質問に一言もない不思議のこたえだろう。

「増税分」が、予算にはいっている「予算案」の検討なのに、これを質問しない,という点で、「党利党略的」すぎる。
しかし、夏の参院選まえに、増税やめたといって自民党が勝利するシナリオに、すでに加担しているとうたがっている。

つまり、社会主義・共産主義を標榜する「野党」が、社会主義の自民党政権の政策に丸呑みされて、真っ向対立しようにも、爪先のひっかかりすら存在しない状態に業を煮やして、なんとか対立しているようにみせようと、スキャンダルに議論をむけるしかなくなったというお粗末になっている。

安倍首相がきらわれるわけは、このように「近親憎悪」というメカニズムによる。
東アジア近隣諸国も、同様の憎悪をしていることだろう。

そんな首相をトップにして、絶対多数を選挙でえているのに、なにもできない政権党は、いったいなにをしたいのか?と問えば、保守合同前からのほんらいの「自由主義」政策を実行する気などぜんぜんなく、むしろ「日本民主党」的になっているのは、岸信介の孫としてはあっぱれなことだろう。

そういう目でみれば、安倍氏の「民主党」と、枝野氏の「民主党」が、内ゲバをしているのである。
これに、マンガしかみない吉田茂の孫が、脳天気にもまったく気づいている風情もない絶望がある。

国民の不幸はとめどもなくつづくようになっている。

野党の反対で「なにもできない」のは大嘘で、ほんとうは「なにもしたくない」のだ。
これぞ、「安定は希望です」とした、もうひとつの連立与党のご意向でもあるのだろう。

ため息。

安くしないと売れない

日本がいまだに「先進国」といえるのか?といえば、2008年通常国会における大田弘子経済財政政策担当大臣の「経済演説」で、「もはや日本は『経済は一流』と呼ばれるような状況ではなくなってしまった」と認めたのは、歴史の転換点であった。

それでも、いまだ、先進国クラブである「OECD」のメンバーには一応とどまっているのだとかんがえた方がいい。
つまり、建前上は先進国だが、実態は「ふつうの国」になって、もう10年以上が経過しているということを、ちゃんとしっていた方がいいという意味だ。

それに、デフレ脱却をするために白川総裁を事実上更迭して、あたらしく日銀総裁になった黒田氏は、「2%のインフレ目標」を異次元政策で達成するといい放ったが、とうとうさいきん、あきらめたようである。
ならば、みずから辞任するのかと思いきや、ほかにやるべき手段をわかるひとがいないからではなく、だれも引き受けないから続行するしかないのだろう。

なんだか、颯爽と現れた天下の財務省「財務官」が、いまは焦燥して目の下のクマがめだつようになったようにみえる。
それは、インフレ目標が達成されれば、金利が上昇してたっぷり買い込んだ国債価格が暴落してしまうし、すでに日本株の5%ほどを保有するのが日銀だから、それをきっかけにした信用不安から株価暴落ともなれば、なんと前代未聞の「日銀が倒産」の危機をむかえる構造になっている。

だから、金解禁に邁進して昭和恐慌をひきおこした汚名をいまだに払拭できない井上準之助のように、末代までの恥辱をかぶる総裁にだれもなりたくないだろう。

日本経済は、「日銀天狗」という大天狗さまが一本歯の超高下駄をはかしてくれているが、その下駄の歯が折れたら大崩壊がやってくるようなおそるべき脆弱性があるのである。

日本銀行の資産は、昨年でわが国のGDPをこえてしまっているのだ。
じっさいに、日銀はじぶんで決めた方策で、インフレ目標を「達成してはいけない」状況をつくってしまった。

まさに、「八方ふさがり」なのだ。
これにくわえて、さいしょから現在まで一貫して「出口戦略」がまったくない。

真珠湾攻撃と構図がおなじなのである。
はじめたものの、終わり方をかんがえないのは、歴史に学ぶ謙虚な姿勢がないからだ。

黒田氏は3月4日の参議院予算委員会の答弁で、金融仲介機能の低下や金融システムの不安定化に関して、先行きの動向に十分注意していくと述べている。
精いっぱいの「他人ごと」にしてみせたものの、背中には大量の冷や汗がながれていただろうと推察するが、同情はできない。

金融仲介機能の低下、とは、おカネがまわらないという意味である。
つまり、経済の血液といわれるおカネがまわらないとは、たんに血行不良というものではなく、深刻な「貧血」になっているから、突然卒倒してもおかしくない。

それを、民間に「資金需要がない」と民間のせいにしてうそぶくが、そんなことはない。
内部留保を溜めこむのは、将来があぶないと予想しているからで、その元凶は政府の経済政策そのものからのリスクであるのに、しらないふりをするたちの悪さだ。

税引後利益が内部留保にまわるのに、内部留保はけしからんから課税せよ、とは、むちゃくちゃな二重課税のはなしだと気がつかない国会議員は、次期選挙でちゃんと落選してもらわないといけない。
マスコミは、こうした人物のリストをつくって報道する義務がある。

需要があっても借りられない。
不動産担保を要求しながら、静岡県の銀行不祥事で、全国に不動産「事業用」に貸し出すなというマッチポンプをやったから、おカネの行き場所が「個人用住宅」だけになってしまった。
人口が減少して、世帯数も減っている。

にもかかわらず、ついに、新築戸数が、世帯数をこえてしまった。
いったい誰が購入し、誰が住むのかしらないが、つくるだけつくる、という無責任が、将来の廃墟を建設している。
これは、すでに、「住宅を建てるだけ『バブル』」になっているということだ。

それではこまるから、移民を受け入れるはなしになって、日本の大学を卒業した留学生が国内企業に就職したなら、本国から家族も呼んで永久に日本に住める「告示」を改正するという。
「告示」をだすのは役人なので、国会議員も介入できない、と青山繁晴参院議員がネットニュースで暴露した。

金融機関は国内に投資先が「ない」から、資金を海外資産にかえていて、それが円安原因になっている。
生活者にとってみれば、原油や食料品など輸入物価が下落する「円高」がむしろ望ましいのにだ。

原発を稼働させたい希望から、もう稼働したものとして、輸出中心の経済なら望ましい円安を誘導するのは、3.11前からの「惰性」でしかない。

ほんらい、新規事業に挑戦したくても、金融庁のあらっぽい一括した管理で、それぞれの金融機関の機能に差がなくなった。
メガバンク、地銀、第二地銀、信用金庫、信用組合、どちらをみても特徴がなくて、顧客のビジネスをみきわめる能力もない。
これに、恣意的な政策投資銀行や機構が、さらなる余計なお世話をするという、政府のでしゃばりが経済を機能させない。

まさに、未来の人類のための痛い教訓になる「政府の失敗」の教科書のためにやっているとしかおもえない。
しかし、そんな教科書は、20世紀の終わりのソ連崩壊でだれでもしっていることだから、たんなる二番煎じにすぎない。

経済学は科学なのか?という批判があるなかで、もちろんマルクス経済学は文学かつ宗教学だったけれど、日本の政策に利用されている経済学も、データをつかわないという点において、いかがわしいものだ。
本来は、日銀や金融庁が主役なのではなくて、規制改革会議が主役にならなければならないのに、あいかわらず地味な脇役になっている。

そんなわけでわが国は、魅力に乏しいので、外国資本も流入しないから、海外からの直接投資(対内直接投資)が他国に比べて極端にすくない国になっている。
かつて、英国を復活させたサッチャー氏が、強力なリーダーシップで当時好調だった日本企業からの投資をあおいだのと対照的である。

これは、投資をしてもリターンがすくないと判断されているからだ。
このリスクは、ジャパン・プレミアムとなってはねかえる。
邦銀によるドル調達にかかわる金利に上乗せ分(プレミアム)がつくことをいう。

お金持ちの外国人が訪日してくれればいいが、そうはいかないとすると、「高級」を柱とするサービス業が疲弊する。
それが、「安くしないと売れない」になってしまうのだ。
これを「デフレ」と呼ぶのか?

「デフレ」とは、ものに対しての貨幣価値が高くなること=価格下落のことをいい、それは、個別の物価・価格「ではなく」、全体を総合した物価・価格の下落を指す。
高級旅館が安くなったのと、石油価格や電気代や水道代が値上がりするのを「総合して」どうか?だということに注意しないといけない。

だから、あの旅館が安くなったのは、デフレだ、といういい方はちがう。

あえていえば、外国人であろうが日本人であろうが、日本に投資すれば儲かる、という、そういう「政策」がもとめられている。

そんなわけで、日銀の黒田総裁だけではなく、彼に命じたひとがいる。

あしたは、それを書いておこうとおもう。

太陽が弱っている

黒点がたくさんあると、それは、活発な活動の証拠となっている。
ところが、先月の2月、太陽の黒点が観測されたのは二回だけで、10年ぶりのすくなさになったという。
太陽の活動は11年周期といわれているから、これから一年はもっと弱くなるかもしれない。

わたしたちが住む地球は、太陽系第三惑星という位置で、第八惑星の海王星にくらべれば、おそろしく太陽に近い。
そうはいっても、光の速度で8分ほどもかかるというから、わたしたちは現実の8分前の太陽光線をあびていきている。

ふだん意識していないが、太陽からの恩恵はまさに「お天道さま」にふさわしく、はかりしれない。
植物が光合成で育ったものを、動物は食糧とするから、その動物をたべることも、太陽があってこそである。

エネルギーだって、なにも「太陽光発電」だけではない。
雨が降るのも風が吹くのも、太陽からのエネルギーあってこそだから、水力だろうが風力だろうが,広い意味では「太陽発電」になっている。
もちろん、古代の植物が炭化したのが石炭であり石油だから、なんのことはないぜんぶ「太陽発電」の範囲から、はみだしてはいない。

火星への移住という壮大な計画のために、巨大な温室で植物をそだてる実験をした。
「温室」にしたのは、地球環境から切り離すためであった。

それで、いろんな条件をかえてみたところ、二酸化炭素濃度を現在の数倍にしたら成長が促進されることがわかった。
これには、植物の種類で結果がことなるので、すべての植物にいえることではないが、地球上で大部分をしめる26万種の植物は、いまよりも濃い二酸化炭素濃度が好ましいのである。

ということで、農業分野では、ビニールハウス内の二酸化炭素濃度をあげる「二酸化炭素『肥料』」があたえられて、生産性に貢献している。
わかりやすい例では、メロンやイチゴといった園芸作物に応用されている。
つまり、糖度があがって甘くなるから高価な取引価格になるのである。

火星には大気がないから、人工的につくる環境下では、むだなく食糧の自給を実現しないと、とうてい「移住」などできない。
しかし、地球よりも太陽から遠い分、エネルギー確保のほうが深刻になるのである。

地球にはなしをもどすと、ロンドンのテムズ川が凍結して、ひとびとがスケートを楽しむ絵画がのこっているように、17世紀からの小氷河期では世界各地で飢饉が発生している。
これが原因で、他国に攻め入ることもあったから、太陽活動は地上に物騒な問題を引き起こす。

田家康『気候で読み解く日本の歴史―異常気象との攻防1400年-』(日本経済新聞出版社、2013年)には、日本の事情が解説されている。おなじ著者の世界史版や文明史もある。

  

自然を崇拝してきた日本人だったが、どういうわけかいまは、自然を支配できると思いあがっている。
そのはじまりは、日本庭園にあるのではないかとうたがう。

西洋の庭園は、植物を幾何学的に刈り込んでみせ、支配力を露骨にみせつけているが、あたかもそこが大自然のなせる芸術的ワザであると仕立てる日本庭園こそ、じつは高度な「仕事」になっている。
その究極は、島根県安来市にある「足立美術館」だろう。

人工的につくっておきながら、みるひとにそれを感じさせないばかりか、最初からそこに存在していたようにみせるのである。
これを商業的に成功させたのは、熊本県の黒川温泉である。
「雑木林」という変哲もないとかんがえられていた「すがたかたち」を、意識的にとりいれて造園したら、「本物の自然」になったのである。

自由に自然をつくれるという技術が、人間は自然を支配できるに転換して、それが地球規模でコントロールできるという「誇大妄想」になったのだろう。

自由に自然をつくれるという技術には、科学的根拠がある。
だから「技術」なのであるが、「誇大妄想」になったら科学的根拠をうしなう。

地球環境に絶大な影響をあたえているのは、惑星としての地球自身の活動と、それを支配する太陽なのである。
人類はいま降っている雨も、いま吹いている風も、コントロールすることすらできない。

太陽活動が弱まることは、他人ごとどころではない。
まんべんなく、かならず影響してくることである。

「お天道さま」を甘く見てはいけないのである。

問題認識がちがう

なにが問題なのか?

この認識がちがってしまうと、解決できる問題が宙に浮くばかりか、議論そのものが滑ってしまって、いわゆる時間のムダになる。

こうしたことが発生する原因に、情報不足がある。
だから、問題を議論する前に、情報収集という事前作業をしておかなければならないのだが、これを怠るのである。
なぜ怠るのかといえば、問題認識をまちがえているからである。

このように、問題認識をまちがえるひとが、情報収集という作業を怠るのは、情報不足が問題だという認識がないからである。
つまり、議論の方向性をシミュレートせず、いきなり「問題発生!」を叫びだすのである。

こうしたひとをトップにすえた組織は、悲劇的な運営を強いられる。
「生の問題」=「発生した事実だけ」で討議の対象とするから、おのずと議論が発散してしまう。

日本人はやさしいから、情報がすくなくて議論にならない、とはいわないばかりか、あたえられたコップの中の情報だけで話し合うことにつき合うのである。
それで、時間を浪費する。

こうして、「生の問題」を提案しても、みんなで議論しているふうになるので、本人の問題意識はいっこうに改善されないし、かえってこれでよいと「強化」されてしまうのだろう。
つきあわされるほうは、座っているだけでへとへとになる。

まるで古典落語のようなはなしだ。
すると,江戸時代の庶民は、これを「お笑いネタ」にしていたのだから、よほどいまより合理的である。

現実と落語を区別できていたのが江戸時代で、いまはそれが区別できないどころか、落語が現実になっている。
それでかしらぬが、さいきんは「空前の落語ブーム」になっている。
現実があまりに変なので、ちゃんとした落語でも聞かないと、精神の安定を保てないのかもしれない。

町内会や集合住宅の自治会などの悩みのタネに「ゴミ出し」がある。
生ゴミを「燃えるゴミ」、プラゴミを「燃えないゴミ」といういい方も、緑色のランプを「青信号」というように、現実と用語が一致しない事例である。

ゴミ出しのマナーについては、やかましくいわれる。
「民泊」が普及しないのは、外国人客を想定すると、ゴミ出しがうまくできないことが最大の理由だろう。
ゴミの管理経費だけで、採算がとれないからだ。

家庭ゴミの収集にあたっては、海外をみてもどちらさまも苦労しているが、だいたいコンテナ型に統一された規格の箱をつかっている。
おおきなものなら、箱ごと交換する方式があるし、ちいさなものなら収集車が自動的に回収できる構造になっているのは日本もおなじである。

さいきんはプラゴミがふえてきたのと、収集車がくる回数が生ゴミ優先なのとあいまって、日本仕様のコンテナからプラゴミがはみ出すことが問題になっている。

それで、生ゴミ用のコンテナを一台、プラゴミ用に振り替えるアイデアが議論になった。
例によって事前情報がないままでの議論だから、主観でしか語れない。

ところが,ここにあらたな情報がくわわった。
それは、「環境委員」さんからで、横浜市はコンテナを廃止したい意向がある、ということだった。
新規のコンテナ導入はゆるされず、現行コンテナの寿命がきたらおしまいなのだ。

では、なにをしたいのか?
「ゴミ倉庫」をつくって、そこにベタ置きして欲しいという。
耳を疑う内容ではないか。
それは、収集日しかゴミを出すな、という意味でもある。
もちろん、回収作業のひとの人力を必要とする生産性への逆行でもある。

これで、議論の方向は横浜市のかんがえかたについての批判になるかと思いきや、あからさまにはそうはならず、コンテナを大切につかいましょう、になったのは、たしかに庶民の知恵である。

蓋があるコンテナの便利さは、ゴミ出しと収集日の関連がうすい。
つまり、いつでも棄てられることにある。
それに収集後、役所ではなく住民がコンテナを洗浄する作業をするので、清潔が保たれているのは、日本的だ。
外国では、だれも洗浄しないから、コンテナそのものが汚れて臭気あるものが置かれているのをよく目にする。

なるほど、市当局は、そうやってゴミの削減をしたいらしいが、本末転倒の市民イジメである。

横浜市には「3R夢」(これで「スリム」と読ませる)という、「運動」があって、統計データの定義を改変して「ゴミ削減に成功した」と宣伝した前科がある。

リデュース(Reduce発生抑制)・リユース(Reuse再使用)・リサイクル(Recycle再生利用)を進めることによって、更なるごみ減量と脱温暖化を推進するという「夢」を意味するらしいが、これぞ「環境プロパガンダ」であり、政治思想としての「イデオロギー」といえる。

イデオロギーだから、現実を合理的に分析する作業を無視して、いかなる経費がかかろうが、それは関係ないと思考する。

このブログで書いた、野菜を買うとプラゴミがふえる、ことをリデュース(Reduce発生抑制)せずに、あろうことか環境にやさしいはずのレジ袋を憎むのは、小売業界への見え透いた補助金になっている。

むかし懐かしい「ちり紙交換」が消滅したのも、紙のリサイクルに行政が介入したことによる。
それで、不要な紙を引き取ってもらうのに、わずかでもトイレットペーパーをくれたのが、なくなってしまった。

ゴミ出しで不便さを体験すれば、アホな市民はゴミを減らすはずだという考えのどこに根拠があるのか?と問えば、みえてくるのは、なんのことはない「問題認識がちがう」ということしかない。

多摩川の先でなにが起きているのか、毎日通勤していても、住人でないからゴミ出しルールを横浜人はしらない。
東京23区のうち、半分ちかくが分別ゴミ回収をやめてしまっている。
「ムダ」だというれっきとした事実が、そうさせたのは、議会のちからでもあるし、かぎられた税金をほかにつかいたいからだ。

環境は、イデオロギーになってしまったから、これを行政があらためるには政治のちからが必要なのだ。
この春の統一地方選挙で、これを論点にする勇気あるひとは、残念ながらあんまりいないだろうが、すくなくても横浜人は23区の実態をしっておくことが重要だ。

もちろん、政治をうごかすのは住人だからだ。
自治体が住人たちを平気でイジメるのだということを、町内会や自治会の経験をつうじてしることができることこそ、役員をやる価値がある。

岡っ引きの譜系

テレビ番組の時代劇が壊滅し、捕り物帳もなくなった。
どうして時代劇が壊滅したのかは、春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮新書)にくわしい。
『銭形平次』も『遠山の金さん』も、『伝七捕物帳』も、子どものときに観ることがないから、人生の記憶にならない。

なにも、時代劇や捕り物帳を観なくてもどーでもいいし、かえって権力への媚びがなくなるから、もしかして悦ばしいことかもしれない。
しかし、一方で、権力への媚びや勧善懲悪の安定感を好んだ時代があったことが忘却されてしまうということ一点において、あんがい重要なことなのだ。

時代劇では「捕り物帳」というけど、現代劇では「ミステリー」という。
捕り物帳のおおくの主役は「岡っ引き」で、現代劇だと「探偵」になる。
岡っ引きは、「本官」である「同心」のしたではたらく「民間人」のことである。

もっとも、「同心」やその上の「与力」も、武士の名簿である「武鑑」に掲載されていたかというとそうではないから、じつは正規の「武士」ではない。
「奉行所雇い」という立場で、奉行所内の正社員ではあるが「武士」ではなかった。

これは、『子連れ狼』の主役、拝一刀の元の役職が「公儀介錯人」だったという設定で記憶されているだろうが,この「公儀介錯人」もまた武士ではない。

「一代限り」という名目で契約する、いわゆる「契約社員」であった。
武士は「家督」という代々受け継ぐべき権利があるが、これが表面上「ない」のである。
もちろん、本人が引退すると、次代は息子とまた一代限りの契約するから、代々ではあるがけっして「家督」ではなかった。

その理由は、「穢れ(けがれ)」であった。
犯罪人を捕縛することや、刑の執行人は「穢れている」から、正規の武士の業務にしなかったのである。
けれども、誰かがやらなければならない。

平安時代、「検非違使」が地方豪族の役とされてさげすまれたのと同じ理屈である。
この理不尽に反発したのが、平将門の乱であり、藤原純友の乱だった。
武士の発祥にあたる事件の原因が、武士政権の幕府でも継続するのは、「穢れ」をきらう日本人の宗教感にある。
だから、日本人は「無宗教」だというのはたいへんなウソである。

そんなわけで、岡っ引きを「親分」と呼ぶ手下がいて、これを「下っぴき」といった。
さらに、町衆が動員をかければ、ふだん町にたむろするならずものたちが招集されて「御用」の提灯をかかげ、大乱闘の「大捕物」になった。

ちなみに、「本官」ではない岡っ引きや下っぴきに、逮捕権はないから、お縄をかけるのは同心のお役目である。
なお、与力は現場監査人なので、同心のはたらきぶりを監察するだけで、一緒になって犯人捕縛の業務はしない。

明治になって、警察制度や消防制度をととのえ、現代のかたちに改変されるが、この制度改変を奉行所の範囲だけでみてはいけない。

倒幕に成功して発足した明治政府の基本方針は、二度と「幕府をつくらせない」ことにある。
すなわち、権力「分散」が最大の課題だった。
「独裁体制」をいかに事前につぶすかという制度をつくるのに腐心する。
その結果、完成したのが「大日本帝国憲法」すなわち「明治憲法」だ。

天皇親政をゆるさないのに、政府機能と軍事を分離し、政府は大臣各位が天皇を補弼(補佐・助言)するとして、内閣総理大臣はいるけれど大臣のなかでいちばん偉いわけでもなく平等で、閣議の司会役程度の役割しかなく、軍は陸と海で別々なのは作戦にもおよんでいた。

議会も貴族院と衆議院は平等で、議案がどちらかで否決されれば廃案になる。
そもそも、内閣の決定に枢密院がケチをつければ内閣はなにもできない。
もちろん、裁判所はいまよりも政府から独立していた。

結局、元老政治になるけれど、憲法に「元老」の記述も「枢密院」もあるわけがなく、明治維新の功労者である元老が死に絶えたら、箱はあっても「決めるひと」がひとりもいなくなってしまった。

東条英機が総理大臣で陸軍大臣で参謀総長になったのは、決められない組織で戦争をしなければならないという、うそのような状態だったからだが、それこそが明治憲法の本質的「しかけ」であった。
日本国憲法は、その意味ではるかに「合理的」になっている。

上部構造としてみれば、以上のようになっているけど、政府組織の下部構造は江戸幕府を継承している。
それが、数々の省庁が管轄する「士業」に代表される構造である。
消防の「出初め式」だけが江戸の伝統ではない。

たとえば、確定申告のいま、税務署にいけば地域内の税理士名が札になって看板にある。
ハローワークには、やはり地域内にいる社会保険労務士の名前が掲示されている。

これは、岡っ引きの制度で、彼らが経営する事務所の職員は下っぴきということになる。

町内会も同様で、市役所の職員がすべき仕事を住民にやらせる。
大仰にもこれを市長が「委嘱する」として、クジであろうがなんであろうが町内で役目を負った本人に、委嘱状がわたされて「公務」ぽくする。
こうして、なんにもしらない住民が岡っ引きにさせられて、役人の手下になるのだ。

江戸の知恵とは、恐るべきものがある。
21世紀のわたしたちは、じつは江戸時代にいきている。

うえからの統治を、民主主義だというのは、アメリカ人と相容れない。
イギリス人なら、名誉革命(1688年)でとっくに卒業してしまったテーマだ。

だから、英米と価値感をおなじくする、というのは,ウソか絶望的な勘違いである。

これを「国家依存」という。
これに役人の「穢れ」感覚までついてくるから、じつにたちが悪いのだ。

「選べない」ことがある

そんなこと、あたりまえじゃないか!
しかし,この「あたりまえ」が問題なのだ。

だれでも個人は、親を「選べない」。
日本に産まれたら、いつしか日本語をはなして日本語で思考するが、その日本語をじぶんで選んだわけじゃない。
じぶんは何語を話すかすら、ふつうは「選べない」。

じぶんの両親の話す言葉でじぶんの言語もきまる。
これが、宗教にもいえる。

しかし、日本人がかんがえる宗教には、選択の自由がある。
つまり、信教の自由のことである。

だから、宗教はじぶんで「選んでいる」ことになっている。
わが家はむかしから「◯◯宗」で、「△△寺の檀家」であるから、じぶんで選んでいるわけではない、というひとがおおいだろうが、そのことではない。
いつでも乗り換えられるのに、面倒だから乗り換えない。
遠目からみれば、選んでいるのである。

世界のおおくのひとたちは、ちがう。
「信仰」じたいが神から与えられたものだから、じぶんで「選べない」とかんがえている。
もし、そのひとが別の宗派に乗り換えたら、それはじぶんの意志ではなく、神からの導きだとかんがえる。
これが、「信仰」である。

そんなわけで、「信仰」というものは、神の存在あってのことだから、じぶんの信仰と他人の信仰がちがうとき、それは、「真理」のちがいを意味したから、必然的に議論ではなく強制になる。
どちらかが、どちらかを屈服させる必要がでてくる。

こうして、ちがう信仰となれば、おなじ宗教内であろうが容赦しない。
血で血を洗う凄惨な戦いがおきたのは、お互いにじぶんの信仰が正しいという「あたりまえ」からであった。

あんまりひどい戦いがつづいたので、「寛容」という智恵がうまれる。
じぶんと他人はちがう、これを認める精神だ。
これが、個人主義に組みこまれたのである。

ところが、他人といっしょ(おなじ)でいたい、という精神がわが国に蔓延してしまっている。
初等教育では、個性を育てるはずだったのに、だ。

こうした精神をもったひとたちを、「大衆」と呼んだのはオルテガだった。
よくつかわれる階級的用語「ではない」ので注意がいる。

「個性を失って群衆化した大量のひとたち」が「大衆」である。

じつは、この「大衆」は、たんなる愚昧ではない。
いまの世の中、識字ができるのはとうぜんだし、電子計算機(パソコン)や、スマホを使いこなせる。
おおくが「高等学校」をでているし、つぎの「大学」もでている「知識人」なのだ。

ところが、専門化がすすんで、狭い範囲での「専門」が、高度な仕事に要求されるようになったから、いわゆる「専門バカ」がふつうになって、「専門バカ」どうしで世の中ぜんぶを知っているふりをしている。
そんな「ふり」をしていたら、いつのまにかそれが「じぶん」になってしまった。

知ったかぶりをしても、通用するのだ。
しかし、その「知ったかぶり」は、他人といっしょでなければならない。
もしもちがうことをいったなら、たちまちもっと詳しい「専門家」のひとから攻撃されるからである。

だから、いったん社会が大衆ばかりとなる(大衆化する)と、いきつくところまでいくしかないのである。
ずいぶん前からわが国は「高度大衆社会」といわれていた。
その破壊力が、だんだんみえるようになってきている。

朱に交われば赤くなる。
この「朱」とは、自身を取り巻く環境のことで、ふつうはこれを「選べない」。
選ぼうとしても、見えないことがままあるものだ。

たとえば、田舎暮らしの悲劇である。
都会から、「自然が豊富な」田舎に引っ越すことが憧れとなった。
けれども、地域になじめないどころか「村八分」にされて、とうとう裁判沙汰にもなっている。

町内会のボスに気に入ってもらえなければ、町内会に入会できない。
町内会の入会を拒否できる都会と真逆なのである。
入会しなくても都会ではあんまり被害はないけれど、田舎では暮らしていけない。

ゴミ出しすらできなくなるし、地域の情報が遮断されるから、災害時は危険が増す。
いわゆる「しかと」がふつうなので、外出ができない。

原因はたくさんあって、引っ越しの挨拶(贈答品)が「足りない」とか、いただいた野菜の返礼を怠ったとか、会合で意見を言った(しきたりを無視した)とか、地元有力者の本家と分家のヒエラルキーにしたがわないで分家と親密になるとかである。

選んだはずの住居地域が、とんでもないところだったとしても、これらを事前に知ることは困難である。

じつは、会社もこれと似ている。
「社風」というローカル文化が支配する場所であるからだ。
東京、大手町の大地主をやっている会社のCMが、自由な「ダイバーシティ」を強調するのは、これに起因しているのだろう。

新人をさそった先輩が、飲食店で上司を拒否するのも「ダイバーシティ」だというのは、まさに「大衆」の論理そのものである。
大衆で構成されている組織が大衆をもとめる、なかなか「進歩的」かつ現代日本の病理をえぐり出した「作品」であったが、なぜこれが「CM」なのかは理解できない。

「選べない」こととは、個人を超越し、さらに過去があっての現在で、それが将来につながるから、時間も超越している。

そういうこともあるさ、と「寛容」なこころをお互いにもたないと成り立たないが、「大衆」にはこれがない。
いまここにいる、じぶんが絶対の存在だからである。
全員がこうなると、社会はギスギスとしてきて、けっきょく自由がうしなわれる。

そんなわけで、漱石がいうとおり、「兎角この世は住みにくい」のは、いつになっても人間社会の真実なのだ。
それは、人間が不完全だからだ。

選べないことは、理不尽ではなく、全員の条件になっている。

理由がちがう電子決済

日本は世界から遅れている、というと「いけないこと」だと思い込む「いけない癖」がある。
この癖がいけないのは、つねに「世界のトップ」にいないと気がすまないという「傲慢さ」がベースにあるからだ。

かつての謙虚だった日本人はもういない。
そんな日本人たちが住む日本を愛したドナルド・キーン氏も、もういない。
キーン氏こそが、日本人以上の日本人だった。

勲二等や文化勲章をもらったひとだから偉い、のではなくて、偉いから勲章をもらったのである。
順番をまちがえることが、たまに起きることがあるのは、政治家と役人のお手盛りで、偉くないひとがもらうことがあるからだ。

「電子決済」をしたくてしたくて、おねだりしている役人たちがいる。
それで、しかたがないからその要望をかなえようと、大金をかけて準備する銀行がでてきた。
これを、おねだりした役人たちが絶賛する、という順番になっている。

役人たちのおねだりは、無い物ねだり、だから幼児の要求とおなじである。
ヨーロッパであたりまえでも気に入らないのに、中国で普及して、来訪する中国人観光客がいう「日本は遅れている」が気に入らないのだ。

これは、一種の人種差別ではないのか?
横目でみて、アメリカでもそこそこ普及しているから、いよいよ「まずい」と思いこむのである。
ここに、日本の立ち位置が相対化されて、たいそうな「不安」になるという病理である。

前にも書いたが、ヨーロッパの銀行制度では、当座預金が資産管理口座になっているのが「ふつう」なのだ。
それに、小切手がさかんに流通していた歴史があるから、クレジットカードが発明されたのは、小切手の延長であった。

小切手は当座預金をつかう方法なので、ヨーロッパ人にとってのクレジットカードは、いまでも当座預金をつかう方法になっている。
だから、クレジットカードの「色」が、「ステイタス」を語るのである。

それで、ヨーロッパ人は、小切手やクレジットカードを利用すると、自身の「与信が減る」とかんがえる。
取引先銀行は、与信をポイント化して管理しているから、これまでに問題をおこしていなければ高いポイントを付与してある。

もしも、残高よりも使いんでも、自動的に貸し越ししてくれるので、不渡にならない。
もちろん、貸し越した金額がすぐに補充されれば、本人への与信ポイントにボーナスポイントも加算されるのである。

とはいえ、一般人にとって、当座預金に余裕があるわけではない。
自宅を所有していれば、それも与信に加算されるが、都心部のサラリーマンなら賃貸暮らしのほうがたくさんいる。
だから、日本と同様に、給与の振込口座である普通口座が、生活口座になる。

ところが、生活口座を原資とする、クレジットカードが存在しない。
それで、普通口座から引き落とすデビッドカードが普及した。
くわえて、ユーロを導入していない国では自国通貨とユーロという二本立て通貨になったから、自動的に計算できるデビッドカードの電子版がいよいよ普及したのである。
これに外国からの観光客も、その便利さを享受している。

日本では、とうぜん明治期に銀行制度も輸入したが、江戸時代からとっくに飛脚による「為替」が普及していた。
経済の中心地大阪は「金貨」、江戸は「銀貨」が普及していたから、これを通用させる「両替商」が「銀行」の看板をかかげる。

そんなわけで、わが国では小切手はふつうにならず、いまでも「郵便為替」があるようなことになっている。
一般人で当座預金をもつひとなんていないから、普通預金でクレジットカードがつかえるようになって、年会費で「色」がかわる。

後発のデビッドカードが、ぜんぜん普及しないのも、CDで現金をおろしてつかう方が便利だからである。
カードなら、クレジットカードをつかった方がポイントがつく、という発想になるのは当然だろう。

中国での普及は、紙幣がよごれて残念な状態であるのと、偽札問題だ。
信用できない汚い「紙」をもつより、電子決済が便利なのはいうまでもない。

ただし、すでに運転資金なら「与信システム」と連動して、その場で融資がきまるようにもなっている。
これは、不動産担保をかならず要求せよという金融庁がないからで、中国が優れているというよりも、日本がたしかに劣っていることになる。

つまり、国家依存していたら、金融の中心である「与信システム」まで、中国の後塵を拝すことになったというお粗末である。

昨夜、NHKの「100分de名著」という本来の娯楽番組で、「オルテガ『大衆の反逆』」が最終回だったようだ。
わたしはテレビをみないので、書店でテキストを購入した。

 

どうやら、このあたりに起点をおいて、電子決済をおねだりする役人が存在する社会をかんがえた方がよさそうだ。

昨年、自裁した西部邁氏は、東大時代に全学連の中央執行委員をもって60年安保闘争に邁進するが、その後「転向」し、保守論客となった。
その西部氏を師と仰ぐ、番組解説者の中島岳志氏の推薦書が『大衆への反逆』である。

なるほど、日本人なら、オルテガとの併読がのぞましいだろう。

結局、社会はわたしたち多数がつくっているからである。

憲法違反?土砂災害防止法

「土砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律」という長い名前で、略して「土砂災害防止法」に基づく警戒区域図案の公表とその説明会を神奈川県がするから出席するよう案内されたので出席してきた。

こんな法律をつくった国家公務員のセンスの悪さを県の役人にいったところでせんないが、「法律」をたてにした上から目線は、いったいなんなのかといいたくなる。

もちろん、この法律を多数決でとおした国会の無能はいうまでもない。
平成12年にできた法律だから、自民党政権時代である。
また、改正は平成29年なので、現政権の仕事である。

例によってこの法律は、国民の生命をまもるため、という名目がうたわれているが、その根拠となる背景を、あらたな宅地開発で危険な箇所が増加していることをあげている。

それで、ご丁寧に「急傾斜地崩壊危険箇所数と整備箇所数の推移」という昭和57年から平成14年までを五年刻みでつくった「棒グラフ」をもって説明してくれた。
危険箇所が41,000箇所も増加して、整備工事がぜんぜんまにあわないから、この法律がひつようなのだという。

これには、説明会最後の質問コーナーで、「どうして危険箇所数が増加しているのか?かってに崖がふえるのか?」というもっともな質問があった。
あたらしい宅地開発が原因という回答に、「その開発認可はだれがだしているのか?」とつっこまれ、「どこに住まいを建てようが個人の自由」ときたもんだから、もはや寄席演芸の一種である。

神奈川県内のがけ崩れ発生件数の説明でも、44年間(昭和49年~平成29年度)というレンジ「合計」で、県内の1/4が横浜市で発生している!という。面積で小さい横須賀がトップだが、がけ崩れの回数が問題だったのか?

「とおとい人命」ではないか?
であれば、死者や負傷者数も表記すべきだし、どうして経年のグラフではないのか?

統計の適確なつかいかたができていないのは、きわめて意図的な感情表現か、もしくはただの無能である。
霞ヶ関のお役人の統計不備は、底知れないことがよくわかった。

最初にみせられた15分もののビデオでは、全国の事例であって、神奈川県の事例ではなく、まして横浜市のものでもない。
おそろしい土石流や地滑りの映像をみせてから、土石流は金沢区の3区域のみ、地滑りは市内に対象箇所はない。
すなわち、印象操作ではないのか?

こんなにすごい被害がでた、というのは昨年の西日本豪雨での「広島県」の写真で説明されている。
このブログでも書いたが、日本列島の地質は、中央構造線でことなり、神奈川県は太平洋・フィリピンプレート、広島県は大陸側になることも無視されている。

工事には膨大な予算がひつようで、そんなカネがないから住民に危険だという認識をもたせて、危なかったら逃げるように仕向けるのがほんとうの主旨である。
もっとも危ない場所をレッドゾーン、そのしたにイエローゾーンを設けたという。

レッドゾーンは「算定式に基づき指定」というから、どんな「計算式」なのだろうかとおもったが、説明はなかった。
おそらく、バカな住民に説明してもわからないから知らんぷりしたのだろう。

どちらのゾーンでも指定されると「土地利用の制限等」があるという。
この「等」が、いつものように「くせ者」なのだが、イエローゾーンでは「警戒避難態勢の整備/横浜市」とあるだけだ。
レッド-ゾーンには、より具体的な「制限」がある。

イエローゾーンの説明図では、放送設備しか目立たないが、横浜市には地方によくある役場放送スピーカーの設置がないから、これをつけるのだろうか?
徘徊のお年寄り発見のやくにたちそうだ。

それで、質問時間のさいごに「ゾーン指定されたら個人財産の減価」にならないか?というものがあったが、県の職員は「横浜市が検討中」といって時間切れ終了となった。
ちなみに、横浜市職員も6人ほど開会時に司会者が紹介して立礼していたが、終始無言であったは、市税関係者ではなかったからだ。

法律は国土交通省の管轄だが、固定資産税は総務省、相続税は財務省になるから、「減価」についてはバラバラなのか、無視なのかもわからない。
しかし、「生命をまもる」と同時に「財産をまもる」と憲法十三条には明記されているのだから、説明がないのは不親切ではすまされない。

当該不動産の価値が減価すれば、金融庁が指示する金融機関の借入担保も減価するから、貸し渋り発生源になるだろう。
景気はおのずと悪化する可能性がある。
もっとも、景気がよくなると金利が上がって、日銀がつぎこんだ国債が大爆発するかもしれない。

目的と方法が雑だからこうなる。

日本国は、役人依存したあげく、その役人の劣化という危機に直面している。
そもそも、役人に憲法を遵守する義務感がない。
好況は日銀の破たん原因になりかねない。
とんでもない地獄の一丁目、すなわちわが国がレッドゾーンにいるのである。

地域住民を数百人集めてこれなのだ。
司会のフリーアナウンサーだけが得しただけであった。