辞世を残す人生がない

ついこの前までのむかしのひとは、「辞世」を残して死んでいた。

「辞世」を残さないのが、主流になった感があるけれど、その理由をかんがえると、なんだか辞世を詠みたくなるのである。
しかし、自分にそんな教養がないことに愕然とする。

歌を詠んでたしなむのは、カラオケに興じることではない、完全なるクリエイティブな行為だけれど、その大元になるのはなにも「語彙の豊富さ」だけでなく、最大の問題が「感性の貧弱」なのだと自覚するしかないのである。

当然だけど、辞世とは自分の人生の最期に残す言葉なので、死期を覚悟したら筆をとって書いておかないと、辞世にならない。
これが、いまでは「遺言書」になって、なんだか事務的なのである。

それでは「いつ」、自分の死期を覚悟するのか?という問題が、辞世を残す教養の有無の前に立ちはだかる。
この意味で、「余命宣告」というものは、ありがたいことになるのだけれど、それが、本人の頭脳を明晰なままで、という条件と必ずしも一致しないうらみがある。

いわゆる、痛み止め、ということでのモルヒネの使用がはじまれば、適度な麻薬中毒にさせられることもかんがえておかないといけないからである。
すると、第3ステージとかの宣告を受けた時点で、辞世の準備をしないといけない。

まだ、癌のばあいはいいけれど、脳卒中とか、不慮の事故となれば、絶望的だ。

もっと絶望的なのは、病院は病気を治すところだという、暗黙の了解ができてしまったので、辞世をかんがえたいといっても、嫌なかおをされるにちがいない。
すこし前の世代のひとは、畳の上で死ぬことにこだわっていたけれど、いまは、帰宅させない家族の事情もふえた。

いまどきはいわなくなった「完全看護」というものが、病人の病院への預け入れ、となったからである。

その前は、「いざ」ともなれば家族が病室に寝泊まりもできた。
身の回りの世話を、家族がやって看護師(婦)は、専門の医療行為に特化していたからである。

例によって、穿った見方をすれば、公的健康保険によって、病人の物質化が推進された、ともいえる。
つまり、すべての病人は、「保険点数」によってコントロールされるので、病院は「保険点数表」に記載された「医療行為」をもって営業している。

この点数があれば、「完全看護」という名の下に、看護師の職務としないと点数加算できないから、請求(保険と患者負担の両方)ができない。
売上をたてるにあたって、料金が国家によって制限されるのは、バスやタクシーの料金とおなじ仕組みなのである。

これを、新聞などのマスコミは、「医療産業」とか「ヘルスケア事業」といって、調子にのった政府は、将来の「成長産業だ」とうそぶいている。

すると、意図的に国民を不健康にしないと、成長しない産業になる。
もちろん、将来は、確実に人口が減少するからだ。
だから、人口が減る分も加味して、国民を不健康にさせないと「医療産業」は成長しないという、驚くべきメカニズムに気づくのである。

そこででてくるのが、「不老不死の実現」を擦り込む宣伝(プロパガンダ)なのである。
これがいわゆる、つくられた「健康ブーム」であって、その結果として脳を冒されたひとは、「健康のためなら死んでもいい」とかんがえるようになる。

その浅はかさが、たとえば、居酒屋にある「メガ・ジョッキ」なる商品で、むかしの中ジョッキほどの容器に、緑茶とかトマトジュースで割った「甲類焼酎飲料」ではないのか?

工業的に製造されるアルコールを「甲類焼酎」としていることも意識せず、ただ、緑茶が健康にいいとか、トマトジュースで「正当性」を担保するのである。
その緑茶やジュースに、どれほどの残留農薬があるかも気にしない。

そんなわけで、過去のひとたちの「辞世」を、文学として読んでみることに、それなりの価値があるのは確かだろう。
そこには、確実に本人の生き様が表現されている。

すると、「命は大切」といういまのご時世ほど、個人の人生はないがしろにされていて、「寿命」も「医療」も、比較にならなかったむかしのひとの生き様が、かえって神々しかったことがわかる。

校長先生が自分で出した本だけど、本文の前からすでに一読の価値がある。

それにしても、「辞世」を残すのは、なかなかの日本文化なのだ。
だから、民族の文化破壊をしたいひとたちは、日本人に辞世を残させない努力をしているとかんがえると、妙にスッキリするのである。

『万葉集』が世界に冠たる「詩集」になっているのは、ヨーロッパでもかんがえられない、8世紀にして、天皇や貴族ばかりか庶民が歌を詠んでこれを国家が、一緒に残したことの意味だ。

政府に依存することをいいたくはないけれど、庶民の辞世を集めるくらいの事業をやった方がいい。
国家存亡の危機にあって、はるか将来の人類に、価値あるものになるにちがいないからである。

残念ながら、「歌」にすることができないならば、せめて「作文」でも残しておきたい。

田舎の料理動画の共通

アゼルバイジャンの田舎でひたすら食事を用意している動画が、すさまじい再生回数を稼いでいる。
しかも、撮影者は家族とおぼしきひとで、その4K映像の美しさもさることながら、さりげない「日常」の風景が絶妙なアングルで撮られていて、観ていて飽きない。

たとえば、窓に飾られている花とか、犬やニワトリなどの様子が、料理支度の合間合間に挿入されていて、その場の雰囲気があくまでも第三者的な目線でつくられている。
そのセンスが、素人とはおもえない。

ただし、ひたすら料理を作っている映像なのに、どういうわけか、「生活感がない」のである。
それに、「せりふ」がない。
無声映画ならぬ、無言動画なのだ。

さらに不思議なのは、洗濯物がないことだ。
撮さないにしても、物干し台も確認できない。
それに、家の敷地内に、やたらと「かまど」があるのだ。

気分かどうかはわからないけど、これらのかまどを万遍なく使っているのは、回を重ねてみているとよくわかる。
最後まで観ないと、なにを作っているのかもわからない。
ただ、出来上がって食べ始めると動画は終了してしまう。

こんな動画が、どういうアルゴリズムなのかある日出てきて、何度も観ているうちに、似たような動画がまたでてきた。
それが、どうやらアゼルバイジャン国境のイラン側のものと、西に翔んでウクライナの山中に暮らすひとの「料理シリーズ」なのである。

アゼルバイジャンとは、「火の国」という意味だ。
天然ガスが岩から漏れて、これにどうやって着火したかはしらないが、少なくとも数千年間燃え続けている場所が、天然記念物として有名な観光地になっているという。

それが、人類初の啓典宗教を生みだして、「ゾロアスター教」になった歴史がある。
人間の営みは、この周辺の地形がシルクロードの要衝だったことから、住んでいるひとの都合とは関係なく国境をわけた。

それで、アゼルバイジャンよりもイラン側に住む「アゼルバイジャン人」が多いという複雑がある。

だから、動画内で「イラン」とか「アゼルバイジャン国境」という場所の表示があっても、民族としてのペルシャ人ではない、国境で分断されたひとたちがつくる料理が、観ていておなじなのに気づいた。

ちがうとすれば、日本における郷土料理ほどもないちがいで、群馬のうどんと埼玉のうどんといった感がある。

これが、いわゆる「種(イースト)なしパン」の場合の「おなじ」にみえる。
しかし、「種なしパン」のふつうがある地域は、北アフリカのエジプトもおなじだから、おそるべき「おなじ」があるのである。
ウクライナでも、種なしパンを焼くシーンがある。

もちろん、このパンについては聖書にも記載があるものだ。

だから、地図上の平面だけではなくて、時間の奥行きもふくめて、おなじ、なのだ。

そうはいっても、種なしパンだけがパンではなくて、ちゃんとイーストをいれて発酵させるパンもつくる。
赤身の牛肉と羊のボンジリ脂を包丁で叩いてつくる、ハンバーガーは、ちゃんとバンズから焼くから、みていてぜったいに美味いとわかる。

調味料は、塩とコショウ、それにターメリックがたまにはいる。
極めてシンプルなのである。
横浜にあった、「夜逃げしたペルシャ料理店」の美味さの記憶がよみがえる。

カスピ海を東に越えて、ヒマラヤの南縁にある、ブータン料理は、塩とコショウ、これに唐辛子と山椒を組み合わせた、といってもこれだけの調味料なので、たいへんわかりやすい味だ。
ただし、唐辛子と山椒が効いているから、総じて辛い。

アゼルバイジャンでは、唐辛子がないのではなくて、いがいと多用しないのだ。
そのかわりに、ターメリックをつかうので、おそらく「やさしい味」に仕上げているとおもわれる。

一方で、戦争中であることを感じさせない、ウクライナの山中とは、いったいどこなのか?動画では一切の説明がない。
日本のような、ただしそんなに険しくはない、中腹の村といった感じの場所に家がある。

これら三カ所は、水道もない場所にある。
井戸か湧き水から汲んできている。
そして燃料は、かならず「薪」だ。
しかも、マッチ1本で薪に直接火をつける。

この大量の薪を、どうやって調達しているのかも不明だ。
ただし、「斧」は必需品なので、女性といっても扱い方に年季がはいっている。

むかし、日本に暮らす外国人が、日本のお土産を故郷に持ち帰る番組があって、モデルをしているモルドバ人が、ウォシュレットと日本製の斧を持ち帰ったのを観た。

母親の面倒をみてくれている伯父さんが薪を探しにでかけたときに、土産の斧の切れ味に驚いて、「日本人はこんなすごい切れ味の斧をつかっているのか?」という場面が印象的だった。
電気とガスの生活だといっても、想像を超えているだろうから、「そうね」といって話題を変えたこのひとは、日本人的な配慮ができるようにもなったのだろう。

それにしても、なにを料理しているのか?出来上がってもそれがどんなものなのかがわからないものもある。

まだまだ、世界は広いのだ。

「いいひと」と「わるいひと」

むかし、うまい広告を矢継ぎ早にだしていたサントリーのCMに、「いいひとって寒いですね」というフレーズがあって、画像でウィスキーを飲めば温かくなるようなイメージを演出していた。

これは、キッコーマンの醤油のCMで、明石家さんまが「幸せってなんだろう?なんだろう?キッコーマン、キッコーマン♪」と歌っていた、「傑作」に匹敵するすごさだといまでもおもっている。

どうして、キッコーマンが幸せなのか?
「食卓を囲む家族の存在」そのものが、幸せ、だといえるし、たとえひとり飯でも、キッコーマンの醤油があれば美味しくて幸せになれる、ということだと解釈された。

ソ連がロシアになって、ウラジオストックを旅行したとき、宿泊したホテルのレストランは、「イタリアン」だったけど、ぜんぶのテーブルに、あのキッコーマンの醤油サシがおいてあった。

なんでイタリア料理店でキッコーマンの醤油なんだ?と、大いなる疑問になったので、質問したら、シベリア出兵(1918年~22年)でやってきた日本兵3万人が持ち込んだ「醤油」が普及して、この地域では食卓に醤油がない、ということがあり得ないからだ、という答だった。

あり得ない、という発想のあり得ない素直さに驚嘆したのである。

何気ないけど、「哲学的」ともいえるキャッチを生みだす専門家が注目されて、「キャッチ・コピー」から「キャッチ」を省いた、「コピー・ライター」という職業人が社会的認知されて、憧れになったのである。

では、「寒い」いいひとってどんなひとなのか?

自己犠牲の精神をもったひと、とかもあるけれど、他人に利用されるばかりで「バカをみるひと」という意味だろうか?
すると、正直者はバカをみる、ので、バカ正直はダメで、適度な嘘つきが「世渡り」には必要だということになる。

一直線のバカか、適度なバカか?
どちらにしても、いいひと、は損をするバカだから、ウィスキーでも飲んで自分を癒しましょう!ということなのか?

1996年のアトランタ・オリンピックで、3位に入った女子マラソンの有森裕子さんが放った、「初めて自分で自分を褒めたいと思います」が、なんだか新鮮だった。
それで、マスコミは「名言」として扱って、いまでも「名言」になっている。

この「新鮮」の意味には、ちょっとした「違和感」があったのだった。

なんだか日本人的じゃない、自己満足と自己陶酔の表現というものを、口外しないのが日本人だったからである。
ちなみに、このとき、有森さんは30歳(1966年生まれ)だった。

一般人が違和感を持つことを、「名言」として扱いつづけることは、やっぱりプロパガンダである。
本人の意思とは関係ないから、有森さんを云々する気は毛頭ない。
それでもって、いまでは十分「名言」になって、違和感を持つことが「変」になった。

これは、大袈裟にいえば、いや、大真面目に、「文化革命」なのである。
日本人の意識が、改造されて、それが成功したのだ。

ふつう、なにか悪い結果となったときの原因をさぐると、たいがいが「善意」からの判断が残念な結果になる。
最初から、「悪意」があって、そのまま悪い結果になることは滅多にないものだ。

しかし、プロパガンダはちがう。
その「目的」は、プロパガンダ自体の意図だから、最初から悪意なのである。
つまり、善人をして「悪化」させることが目的だ。

「自分へのご褒美」のどこに悪意があるのか?をかんがえると、「甘えの構造の容認」という「悪魔的ささやき」にゆだねることになるからだ。
子供は親に甘える構造で生きている。

思春期に、「反抗期」があるのは、子供からおとなへの成長によって、「甘えの構造」からの脱却をはかるという、重要な行動原理がある。
つまり、「反抗期」を経ておとなになるのだから、心の「はしか」のようなものだ。

だから、「はしか」にかからないで成人したら、それが命取りになることもある。

幼児期に「はしか」が流行れば、親はこぞって幼稚園や保育園に行かせて、なるべくうつして貰うようにしたのだった。
このくらいの知識は、当時のおとなたちの常識だった。

わたしは、ぜんぜんうつらずにいて、そうこうしているうちに、幼稚園が臨時休園してしまったのである。
「はしか」の流行がすさまじいという「理由」だったけれど、親からしたらどうしてくれる、だった。

そんなわけで、わたしは、「はしか」を還暦を超えてもやっていない。

もはや、わたしにとって怖いのはコロナではなく「はしか」なのだ。
だから、成人して、従兄弟の子たちが「はしか」にかかったときは、ぜったいに近寄らなかったし、従兄弟たちからも近寄ると危険といわれたものだ。

どうしてこのとき、通っていた幼稚園が臨時休園したのか?
いまでは「謎」のままだけど、わたしにとっては命にかかわる重大事の「悪意」にしか思えない。

そしてそれが、もしも「善意」のいいひとが園長だったからか?それとも行政からの指導だったのか?を思えば、いま「悪意」を予感するのは、あの優しい園長先生ではなく、やっぱり行政の影を感じるからである。

行政の悪意とは、責任逃れの一点に源泉がある。

だから、わるいひとほど「自己責任」をいっておきながら、「自分へのご褒美」を推奨するのである。

アメとムチ、そのものである。

「いい子」ゆえに反抗期を失って、あたまは子供なのに身体はおとなという「いびつ」な生き物に、日本人を改造したのである。
そんなひとたちが、50歳以下のぜんぶになった。

二次元で生きている

ハッとする名言を、懇意にしている飲食店の社長が吐いた言葉である。

二次元とは平面のことだ。
接客サービスをする、お店の平面でしか思考がない、という意味だ。
あるいは、そんな平面での業務をどうやって廻すのか?に集中している、という意味でもある。

なぜならば、この店は、大繁盛店で、都合がいい日時を指定したいなら、ぜったいに予約しないと入店できないし、その予約も困難なのだ。
これを一家4人とアルバイト2人とでやっている。
なお、調理場の人数はべつだ。

接客要員が6人で、よくもこの席数の面倒を見られるものだと感心するが、ムダな動きがないばかりか、見事といえる阿吽の呼吸が揃っている。
短期のはずのアルバイトも、一人前の働きをするのも見事なのだ。
学生さんだから、どんなに長くても4年で引退してしまう。

つまるところ、この流れるような活気ある接客を、客は堪能しにやってくるのではないか?

ウェイター、ウェイトレスなんて、消耗品だといってはばからない経営者にであったことがある。
学校の成績が悪くて、進学できないで就職してくるのだから、我が社は掃きだめのようなものだ、と。

ならば自分でウェイターの仕事をしたことがあるのか?と質問したら、自分は経営者だから、そんなことはやったことがないと豪語した。
けれども、経営状況の改善をしたくてわたしに依頼したのだから、その原因を実態から分析するのは当然となる。

そうして、なんやかんやの後、敵情視察と称してこの社長がいう「凄い店」を見学に行った。
それはまるで、上記の店のような大繁盛店で、上記のように流れるような接客をしているのだった。

すると、この店には優秀な従業員が集まっている。
どうやって集めているのでしょうね?というから、店長に直接きいた。
「ふつうに募集しているだけ」とのこたえに、ぜんぜん納得しなかった。

それで、こんどは一番若いひとに目をつけて話をきいたら、店長や先輩たちがいろいろと細かく教えてくれるから、安心して楽しく働いているとの回答だったのだ。
しかも、ちゃんとしていて少しもぎこちなさがないのに、3ヶ月ほどの経験しかないという。

もう一度、店長に聞いたのは、社長は誰か?ということだったけど、案の定、店長が社長だった。

そんなわけで、困った社長に、接客体験をしてもらうことになった。
「接客なんか簡単ですよ」とうそぶいて、いざやってみたら、なにがなんだかわからなくなって、挙げ句にお客から煽られる始末だった。

以上は、平面にもならない、一次元の「点」の思考をしていたひとの例である。

しかし、「二次元で生きている」といった、冒頭の社長は、ほんとうは「三次元や四次元でかんがえることに憧れる」と話すのである。
当然ながら、三次元は「立体」のことであり、四次元には「時間」がくわわる。

人間は三次元で生きていて、四次元の世界はタイムマシーンがないかぎりどうにもならない。
だから、「時空を超えた」四次元は、思考の世界でしかないのである。

接客業にとって、「いま」だけをかんがえるのに、ふだんは平面しかないけれど、この世界の「いま」は、三次元だ。
たとえば、食材だけでも、地上のものと、海の中のものがあるし、高騰しているエネルギー・コストをかんがえたら、途方もないことになっている。

けれども、途方もないことだからかんがえることに意味はない、ということが嫌だといいたいのが、この社長の思考と欲求なのである。

そんな途方もないことを意識しながら、平面で生きているのだ、と。

だから、このひとは、いまの世の中が、途方もない方向へ向かって突き進んでいることを、途方もない不安の目で見ることができている。
「たかが飲食店のオヤジ」ではないのだ。
むしろ、話があうオヤジであって、なお、わたしよりまだ若い。

なにか途方もなくて、世の中がわかる話はないですか?といつも聞かれるのは、わたしにとっても、途方もない。

それで、このブログでも書いた、『ビルダーバーグ倶楽部』を紹介したのは、蔵書としている横浜市立図書館が目と鼻の先にあるからだ。
おそらく予約しても、すぐには借りられないけれど、気長に待って、忘れた頃に貸出の案内が来る方が、一層の途方もなさを理解できるだろう。

もちろん、世界も日本のマスコミも、メジャーなところはほとんど、この「倶楽部」の傘下に収まっている。
さほどの「大富豪たち」が、「言論」を買い取っている。

かつてできなかったのは、「大富豪」にも限界があったからだけど、世界をまたぐグローバル大企業の出現で、金持ちのレベルが人類史級にアップグレードしたことが「原因」なのである。

ゆえに、独占禁止法が、無力化してしまった。
この法律の適用をさせないための「おカネ」が、とうとう裁判官にも及んでいる。

すると、われわれは、ほんとうに二次元の世界だけに押し込められてしまうのか?という瀬戸際に、いま、あるのである。
不思議なことに、これを求めるひとたちが、あんがい多数になっている。

「SDGsバッジ」を襟に付けて歩いているひとが、それ、だ。

きっと将来、このバッジ(あるいは生体)にチップがついて、行動を監視されるようになるのだろうけど、つけないひとは、電子通貨が使えない、という処置をうけて、社会から排除されるにちがいない。

電子通貨こそが、人類支配の最終兵器なのである。
これを、倶楽部は「公言」しているので、念のため。

「地銀」の存在価値

全国の県庁所在地に本店を置くのが、地銀:地方銀行だ。

わが国で、銀行業をはじめて始めたのが、渋沢栄一であったけど、明治政府から頼まれて設立した経緯がある。
なので、「第一国立銀行」という名の、民間銀行第一号になった。

なお、どうして「Bank」を「金行」といわず、「銀行」というのか前に書いた。

ただし、社名に「Bank」と書いていなくとも、「金融業」をやっていれば、それは「広義の銀行」だから、第一国立銀行がわが国で最初の銀行ではなく、まだ江戸時代だった横浜に開業した、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」がこれにあたる。

大桟橋の付け根、「開港広場前交差点」のシルクセンター側の角が「跡地」、すなわち、「英一番館跡」がそれだ。
当然ながら、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」が、わが国にやってきた「外資企業」のはじめてだから、「英一番」ではなくて「世界一番」だった。

とはいえ、大英帝国が「世界」でもあった時代だ。
それで、「英一番」には、「世界一番」の意味がある。

では、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」は、どんな「金融」をしていたかといえば、「貿易決済」であって、「小切手」を扱っていたのである。
鎖国していた江戸期には、世界一「内国為替」が発達していたために、小切手は日本人にはなじまない。

いまだに、日本人になじまないのが「小切手」だから、これはもう、「文化のちがい」の典型例となっている。

それにしても、「ジャーディン・マセソン商会」といえば、「阿片貿易」が連想される、悪名高き会社である。
しかしながら、よくよくかんがえれば、「大英帝国」が大英帝国ならしめたのが「阿片」によるかんがえも及ばない「莫大な利益」なので、ジャーディン・マセソン商会とは、「大英帝国の本質」といって差し支えない。

つまるところ、よくいって「経済やくざ」なのである。

だから、横浜での事業の本業が「貿易決済」だといっても、中身については「ヤバイ話」があっても、ぜんぜんおかしくない。
そんなわけで、横浜人は、アジア人に厄災をもたらした大英帝国の本質たるこの会社の所業を決して自慢してはいけないのである。

ついでに、『ロビンソンクルーソー』も、阿片貿易で富を得て、日本を目指す旅をするけど、台風に阻まれて断念するという話になっている。
さほどに、当時の英国人は「麻薬」だろうが何だろうが、自分だけ儲かればなんでもよいという「道徳観」がふつうだった。

すると、このどこに、マックス・ヴェーバーがいう「資本主義の精神」があるのか?はなはだ疑問なのである。
これが、わたしが「資本主義は未来のシステムだ」という、アイン・ランドに同意する理由でもある。

「ジャーディン・マセソン商会」が、「物(ブツ)」を中心としたのに対して、本業で「カネ」を扱ったのが、「HSBC:香港上海銀行」である。
阿片貿易の決済は、HSBCなくして語れない。

すると、横浜にHSBCよりも早くにやってきたのは、それなりの「先見の明」だったのか?それとも、HSBCと話を付けた先遣隊だったのか?

そのHSBCも、個人相手の業務はとっくに日本から撤退した。

アジアとヨーロッパを接続する、一大国際ハブ空港になった、トルコのイスタンブール空港には、HSBCに個人口座を持つひと向けの「ラウンジ」があって、この銀行が発行するクレジット・カードを見せると利用できるようになっている。

「金商法:金融商品取引法」ができた2007年(平成19年)、この法の裏目的にある「キャピタル・フライト(円資産の海外流出)防止」のために、日本人は、HSBCのような外国銀行に、外貨預金口座を個人名義で開設できなくなったのである。

よって、空港ラウンジすら、つかう権利もない。

「金解禁」という、もっぱら国内事情(じつは「グローバリズム」)による政策で、昭和2年にはじまる「昭和恐慌」のため、だれでも設立できた銀行がバタバタと倒産した。
「世界大恐慌」は、その2年後の、1949年のことに注意したい。

これから徐々に、国家総動員体制となって、県庁所在地に一行だけという地銀体制ができて、いまに至っている。
ちなみに、東京は特殊だけれど、「富士銀行」が、事実上の都にとっての地銀で、「みずほ銀行公務部」が引き継いでいる。

「国内」ばかりか、「地域ローカル」という営業許可の範囲しか自由を与えられていないのは、トラック運送業やバス・タクシーとおなじ国による社会主義経済の構造だから、貸出先の地元に資金需要がなくなると、「貸金業」としての根本価値が危うくなる。

これが、地銀同士のグループ化になって、アメーバの結合のようなことになった。

けれども、効果が「足し算」にすぎず、経営統合の文言にしている「相乗効果」すなわち「掛け算」にならないのは、預金の「運用」ができないからである。
それで、どちらの地銀も、外国債券投資しか低リスクで高利回りが期待できないので、これに走ったのである。

バスに乗り遅れるな、という横並びを嗤えないのは、「追いつめられた」からでもある。
この「雪隠詰め」の恐ろしさを、地銀が教えてくれていて、蟻地獄のごとく脱出できないのは、かつての自由主義経済の教科書通りなのである。

といいつつ、悲惨なのは、およそ「機関投資家」として、外債の専門ディーラーも育成してこなかった「国内だけの事情」があったので、社内昇格するお偉いさんたちにも外債の知識なんかない。

だから、外国の証券会社を通じて、「投資信託を購入する」という、ほとんど個人投資家とおなじことを、ただケタ違いの多額でやっている状態になったのである。
それがいま、円安で巨大な含み損の資産になってしまった。

なんだか哀れだけれども、これをどうすることもできないのが、「金融行政」という、どうにもならないことがある。
なので、マスコミは、地銀があたかもバカのように批判するだろうけど、もっと巨大な、エリート気取りのバカがいることを書かないのである。

ジャーディン・マセソン商会がやっていたことも、大英帝国がやっていたことも、書かないのとおなじなのだ。

構造がおなじ、他業種はこれをどうみている?

ミステリー「教養」小説

日本人とは何者なのか?

ご先祖たる「縄文人」が、どこからやってきたひとたちなのかも、じつはわかっていない。
だから、「日本語の起源」すら、わからない。

むかし、大ヒットしたテレビ・ドラマに『ルーツ(Roots)』があった。
アレックス・ヘイリーが自身の家系をたどって、小説化したのを原作にしたのだったが、アメリカでは1977年に8日間連続放送(ABC)されて、なんと全米平均視聴率を、44.9%もたたき出して、社会現象にもなった傑作だ。

ゆえに、エミー賞も受賞している。
いまとなっては、キャンセル・カルチャーとしての「批判的人種理論」のルーツにも利用されようとは、作家の想像を超える事態になったのである。

さて、同年秋(10月2日から8日間連続)、日本語版が放送されて、どの学校でも誰かが「クンタ・キンテ」とあだ名が付いたし、タイトルの「ルーツ」が日本語化された。

それから、「自分探し」とか、「家系図」とか、時間をもてあました教養ある退職者には「自家版ルーツの執筆」というブームにもなった。

もちろん、ワープロもパソコンもない時代なので、作家気分に浸るための「環境整備」が重要視されて、万年筆とかの筆記具ばかりか家具も購入されたし、「原稿用紙」をオーダーすることもブームになった。

万年筆なら、軸太の「モンブラン マイスターシュテュック」か「ペリカン スーベレーン」が定番なんだろうけれど、国産だと、「パイロット カスタム823」というポンプ式大容量インク・タンクの逸品がある。
どれにしても、次には「インク沼」がやってくる。

なお、高級万年筆は、ペン先の「研磨」が重要なので、購入後毎日使ったとして1ヶ月後、そうでないなら3ヶ月後とかに、「調整」といって「再研磨」を依頼すると、驚くほどの書き味になる。
持主の「書き癖」が柔らかい金ペンの減りに現れるのを、職人が見破って角度調整してくれるからである。

だから、売りっぱなしの店で高級万年筆を購入するのは、まずい、のである。

原稿用紙は、紙質やマス目の罫線をどんな風にするのかもあるけれど、自分の名前を欄外に入れるので、その書体もどうするかが悩ましい問題になったのである。
なにしろ、オーダーメードだから、いちど決めたら浮気がしにくい。
補充をするときは、オリジナルとおなじものになるからである。

ただし、その価格は驚きなので、作家といえば有名なイメージの、書き損じたら原稿用紙をクシャクシャ丸めて投げ捨てるようなことは、もったいなくてとてもできない行為なのである。
それで、下書きを安い原稿用紙でして、清書につかう、という工夫をすることになった。

さてそれで、ミステリーなのに教養小説に仕上がっているのは、『アマテラスの暗号』(伊勢谷 武、2020年)だ。

「神道」というと、古代からのイメージがあるけれど、現代のわれわれにとっての神道は、あんがいと新しくつくられた宗教の概念である。
なので、「神社」といった方が古代に近づくことができる。

とはいえ、神社にある「由来」には、たいがい「官幣社」とか「郷社」とか、明治政府がつくった「社格」によるヒエラルキーの記述があって、これが、「新しい」から、現代のマスコミ報道と同様に、その部分は「読まない」ことにこしたことはない。

あたかも「社格が高い」ことを、神社側が主張していることも、神社らしくない。

問題となるのは、「信仰心」だからである。
ここが、たいへんな「キモ」なのだ。
欧米人が近代以降に失ったのがこの「信仰心」で、それに取って代わったのが「理性」である。

これを、「宣言」したのが、デカルトの『方法序説』だった。
現代の「科学万能主義」は、ここからはじまる。

だから、科学万能主義という「理性」だけでもって、「信仰」を旨とする宗教をみようとすると、ぜんぶが「カルト」にみえてくる。

もちろん、宗教側(おもにローマ・カトリック教会)も、ひとびとの信仰心を利用して大儲けして身分までも確立し、特権とした酷い歴史があるから、これをルサンチマン(弱者から強者への鬱憤)したのが「政教分離」だったのである。

さらに、新興宗教の究極としての共産主義・全体主義は、マルクスが書いた聖書のパロディだから、「(既存)宗教を麻薬」とみなして否定して、自分たちだけを信じろという。
つまり、「理性への信仰」を疑いなきものとしたから、新興宗教の究極なのである。

これをふつう、「屋上屋を架す」というのだ。

そうやってみると、いよいよ神社の不思議がみえてくる。
教義も経典もない、鳥居とやしろ(社)だけが建っていて、その社のなかにも、御簾の先にも、ほんとうはなにもないのだ。

ならば、なにを拝んでいるのか?

自らの信仰心を確認しているのである。

ゆえに、神社は破壊の対象になる。
近代文明の根源にある「理性への信仰」に、もっともそぐわない存在が、日本だけにある神社だからだ。

どうして日本だけなのか?
どうして周辺国にも、世界にも神社はなかったのか?

そんなことはどうでもいい、と、初詣の準備は着々とはじまっている。
この「ふつう」のすごさが、ほんとうのミステリーなのである。

「曝露」は正しいことだけなのか?

世の中「曝露ブーム」である。

たとえば、参議院議員になった「ガーシー氏」は、とにかく「有名人の曝露」で有名になったひとである。
当選後、一度も帰国せず(詐欺容疑で逮捕される可能性があるため)、もちろん「登院」もしていない。
国会議員が、国会に出ないのは職場放棄だとして、懲罰の対象になれば、「最高刑」は除名である。
これが、ずっとこの議員にまつわる話になっている。

ただし、公正な選挙で当選した事実があるから、めったやたらに、懲罰できない。
民主主義の建前が、ガーシー氏の身分を守っている。
そんなわけで、今日も元気に曝露を続けているのである。

そこで、彼の情報源はどうなっているのか?
じっさいに、彼は「告発クラブ」のような組織をサイバー上でつくっていると公言している。
その中身の信憑性を担保するための、しくみ、も構築しているという。

これが、泉が枯れないごとくの、「源泉」なのである。

こんなことは、ふつうのひとにはできないから、ガーシー氏のオリジナルになるのだ。
そこにまた、「世直し」という建前もかましているので、支持者も絶えない。
芸能ネタをバカにできないのは、むかしから「外国勢力」との関係があるからで、その関係図も大きな変化がある。
すると、外国からの情報戦にひとりで挑んでいるヒーローにもなるのである。

そんな政治ネタばかりでは、芸能ネタだけをみたいバカが飽きるので、芸能人の下ネタも織り込む。
ところがこれが、あれよと、国際売春組織の曝露につながるから、やっぱり政治ネタにもなっている。
国際売春組織の裏に、とある外国政府やらの政治・外交戦略が見え隠れするからだ。

そんなわけで、ガーシー氏を「お下劣」だとして、「国会の品位を穢す」と一方的に非難できないのは、そんな指摘をする国会議員の品位がとっくにないからでもある。
すると、そんな議員たちを選ばされている国民にこそ品位がない、ということになって無限ループする。

ここに、曝露の価値が生まれるのである。

さてそれで、ガーシー氏には悪いけど、巨悪の曝露がアメリカではじまった。
それが、「Twitter File」と名づけられた、Twitter社の社内文書の曝露だ。

これは、世界的規模で今日も行われている「ビッグテック」による、「検閲」に関して、イーロン・マスク氏が買収して検閲団体から脱退したTwitter社で起きている、一連の「浄化運動」のことでもある。
その成果を、Twitter社はTwitterを通じて発表している。

「第一弾」として発表されたので、最低でも「第二弾」があるとおもわれる。

その第一弾の内容は、2020年大統領選挙「まで」のことだった。
だから、第二弾は「その後」になると大方のひとたちに予想されている。

その最大の「検閲」は、バイデン氏の次男(長男は亡くなっている)、ハンター・バイデン氏のパソコンから得られた「不正」を暴いた「ワシントンポスト紙」のスクープ記事に関する言論封殺である。
なにもTwitterだけがやらかしたことではないので念のため。

今回の「曝露」だけでも、たいへんな反響がアメリカで起きている。
なかでも、これらビッグテックによる「検閲」を側面から支えた「ジャーナリストたち」が、一斉にヒステリックな反応を示していて、逆に火に油を注ぐことにもなっている。
ついでに、かれら自身の化けの皮を自分で剥がすことにもなっていることが、哀れなのである。

このことと、州が連邦政府を提訴した裁判で、FBIが「検閲」を支持していたことが、宣誓供述としてでてきた。
すると、法的に「出版」とみなされている私企業による「検閲」自体は、言論の自由を確保すべしとした憲法には抵触しないが、政府機関であるFBIが関与したとなると、一気に憲法違反の重大な問題になるのだ。

なぜならば、近代国家の憲法とは、国民から政府への命令書なので、憲法が縛るのは「政府=公務員」だけだからだ。
一般国民や民間企業が、憲法違反を問われることはない。
ただし、一般国民や民間企業でも、政府の依頼を受けたことだと、それは政府とみなされる、というアメリカ合衆国最高裁判所の判決がある。

つまり、Twitter社は、民間企業ではない、と認定される可能性もある。
また、Facebookのザッカーバーグ氏も、裁判証言でFBIからの協力要請があって、これに応じた、といったから、株価が急落した経緯もある。

沈黙しているのは、グーグルとアップルになった。
もちろん、ご存じのように、グーグルにはユーチューブがあるし、グーグルストアもあって、ストアでは、アップルも同じく、保守系とみなされたSNS「Getter」の販売拒否という手段もつかわれて、ユーザーはアプリのダウンロードができなくなった。
この手法には、Amazonも加担した。

しかし、それでもわたしは、イーロン・マスク氏の本意をうたがって、納得していない。
これはまったくの「勘」ではあるのだけど。

理想的「新任取締役」研修

企業には、新入社員からはじまって、さまざまな「階層別研修」がある。

むかしは、リアルな「企業説明会」が、募集時にあったから、就職希望の高校生や大学生は、就職活動が「解禁」されたら、まずはいろんな企業の説明会にいって、その会社のひとからの「話を聴いた」ものだった。

何気ないけど、企業側がこうした「会」を開催して、「話を聴かせた」のは、選ばれるのは企業の方だ、という感覚があったからである。
つまり、選ぶ側の生徒や学生に、自社を選んで貰うための説明だったということだ。

このことをちゃんと意識している「まとも」な企業は、新入社員研修でも「ブレない」で、練られたカリキュラムをこなしていく。
しかし、そうでない企業で、担当者任せの場合には、毎年やっている担当者が飽きるから、説明会との関連性を無視した内容を押しつける。

むかしは、「変だな」、「おかしいな?」とおもっても、我慢することができたので、特段の問題にならず、かえって社歴が進むと、担当者の気分でできることに居心地がよかったりした。

いまは、我慢することが美徳ではなく、「個性重視」とか「本人の意思」が重要だという教師からの「ポリコレ」もあって、入社翌日に退社するひとがいたりする。
けれども、あんがいと、上述した「矛盾」について敏感な可能性がある。

すると、企業は、逃した魚がえらくでかかったことにも気がつかない可能性もある。
気づいたら、担当者レベルでは自己否定になるし、経営トップレベルでは、自社の看板に傷が付いたとかんがえれば、より一層、その可能性が高まる。

すると、経営トップレベルで、「なぜだろう?」という問いが、できるかできないか?にかかっているのだけれども、そもそも採用を担当者任せにしていて平気なら、こんな疑問をいだく可能性も低いだろう。

にもかかわらず、こういう経営トップこそ、「人材のざいは財産の『財』」、と平気でいえる口をもっている。
従業員の人生を預かっている、という気が、まったくないので気軽にいえるのである。

しかも、ついこの前まで、自身が従業員だったのに。
すなわち、「勝ち組」という「安全地帯」からの発言にすぎない。

安全地帯というのは、むかし都電や市電という、路面電車走っていたときの、停留所が路面より縁石一個分高くなった場所のことをいった。
戦後、アメリカ人の従軍写真家が、東京の通勤ラッシュで密集した安全地帯に脱落者がいない光景をレンズにおさめた「傑作」がある。

平社員からみたら、課長・部長は雲の上だから、その上を意識することは年に数回もないだろう。
課長・部長も平社員だったころはおなじはずだから、その上、は「恐れ多い」ので、あんがいとアンタッチャブルなのである。

だから、ずいぶん前に書いた「取締役が取り締まるのは誰か?」がわからないのである。
このことが、自分は勝ち組で安全地帯にいるとかんがえるひとの精神構造だ。

さて、英語ができるひとが英語圏のことを理解しているとは限らない。
たとえば、会社の「役職」を、英語で表記するときの単語をしっていても、それがどんな意味なのかをしらないことがおおいのだ。

日本の会社の役員(取締役)には、平取締役とか、常務取締役、その上に専務取締役がいたりする。
あたかも、取締役に階層があるようになっているのは、社長からの目線でつくったのである。

けれども、会社法上に定めはないから、常務や専務というのは、各社の「任意」である。
つまり、法にあるのは、「取締役」と「代表取締役」だけなのである。

これは、律令にないから令外の官だった「中納言」のようなもので、江戸幕府の職制にない「副将軍」のようなものでもある。

こんなことを、長いサラリーマン生活のなかで、いつ習うのか?となると、正規に教わる機会は、意外にも「役員昇格のとき」だけしかない。
それなりの実績を「畑」でだしたひとが選ばれて、社内昇格するのが日本企業の「日本的なところ」なので、このときに教わらないと、もしかして一生しらないままになる。

その典型が、「山一証券」の社長が破綻を告げた記者会見で表面化した。

なにもアメリカのやり方が正しいとはいわないけれど、彼らは最初から「経営者(候補)」として新卒採用されている。
にもかかわらず、「変なトップ」が相次いだので、IT関連のドラマ仕立てCMで、「これはだれの責任?」というトップに、みんなで「あなたです」とこたえるシーンが流された。

日米ともに、悲喜こもごも、なのである。

そんなわけで、理想的な新任取締役研修はどんなものか?をかんがえておくのは、既存取締役の義務でもあるし、これをかんがえるのは、平社員の人生をも左右する重大事なのである。

すると、募集から新入社員研修、それから続く各種教育に、トップに関与しないで済むとはならない。
むしろ、いまトップの役目の最重要な「長期戦略」とは、これ以外にないことがわかる。

わからないひとが多数派だということが、日本経済の不幸なのである。

困った吉田茂の英語力

戦前の日本人の学力は、現代日本人とは比較できないほどに「優秀」だというのは、かなりの信憑性があって、一種、「神話化」している。

これは、当時の「学制(学校制度)」に起因しているともいわれている。
なお、上でいう「当時」を、1872年(明治5年)にまで引き戻せば、この年に公布された日本の近代学校制度に関する最初の法令を「学制」といった。

江戸幕府が滅亡した「経済的理由」に、金と銀の海外流出による「インフレ」があるのだけれど、なぜか維新の志士たちの倒幕努力が前面から全面にあって、あまり経済的側面の話はでてこない。

それに、どうして「日英同盟」になったかの、当時の世界大帝国たる英国側事情について、日本人は無視してきて、むしろ歓んで自慢のタネにするのである。
でもあんがいと、「腹黒い」のが英国側の事情なのに。

この大英帝国人の腹黒さに、動物的本能で気づいたのが辛亥革命前の「進士」だった、李宗吾だ。
彼が、閑にかこつけてはじめ中国古典のパロディを書いたものの、その笑いにある真実が笑い事ではなかったのである。

このことに、いまだ気づかず、「日英同盟」を評価する日本人が多数なのは、きっと現代中国人からバカにされる原因でもあるだろう。

幸か不幸かをいえば、とにかく「貧乏だった」のが、幕末から明治の日本人全体にいえたことで、有名な共産主義者にして京大教授、河上肇の『貧乏物語』は、1916年(大正5年)に新聞連載されて、翌年にまとめて出版されている。

なお、東大紛争で総長を辞任した、大河内一男も『貧乏物語』(1959年:昭和34年)を書いているから、京大と東大のそろい踏みともいえるし、日本はずっと貧乏だったともいえる。

国民が貧乏だったので、政府も貧乏だった。

それで、義務教育が小学校までだったとき、各地の篤志家が私財を投入して、地元に学校を建てて、教師まで招聘したのであった。
いまも「文化財」として残る、すばらしい学校建築は、その心根を示したものである。

そんな学校が普及した時代になってからの例が、夏目漱石の『坊ちゃん』である。

義務教育は小学校まででいい、とした2年前の発言がなぜかいまごろ話題になったのは麻生太郎自民党副総裁だ。
なかなかに、「味」のある発言で、賛否両論で盛り上がっているらしい。

「真意」はしらないけれど、「旧制」に戻すべき論として読めば、それなりの説得力もあるものだけど、戦後に「新制」になったのは何故か?ということも同時に議論したいものである。

しかして、麻生氏の母方の祖父がいわずとしれた吉田茂で、学制を「新制」にしたのが、第一次吉田内閣の「実績」になっている。
「旧制」の、「複線型教育」から「単線型教育」への転換は、アメリカ教育使節団報告書に基づくものであったことに注視したい。

要は、旧制では、さまざまな「コース」があって、小学校からの選択肢がいまよりもずっと「豊富」だった。
なお、尋常小学校の上には、義務教育ではないけれど、尋常高等小学校があった。

なので、むかしは、「小学校出」と「高等科出」という区別があったし、「高等小学校」と「高等学校」は完全に分けて表現した。
そもそも、「中学校」に進学すること自体が珍しかったのである。

ならば、小学校と高等科出は、バカなのか?ということではなくて、職人や商人になるなら、早い方がいい、という価値観と人生観があったのだ。
「複線型」はまた、ドイツのマイスター制度があるように、設計することもできる。

これを、選択肢の少ない「単線型」にしたのは、いまからしたら、占領目的の大方針「二度と日本を独立させない」と合致する。
豊富な人材育成を阻む、という、占領側からの都合がよい、将来にわたって永遠に日本の国力を削ぐ効果が期待できる。

なお、「高度成長期」の経営者たちは、全員が「複線型」の旧制による教育を受けたひとたちだったことに注意を要するのである。

そんなわけで、残念ながら、麻生太郎氏は、マンガしか読まないという読書体験しかないと公言しているので、祖父・吉田茂の実態をどこまでご存じなのかは不明である。

麻生氏とはまったく別のルートにある「証言」として、いまさらながら注目されるのは、マッカーサーに直属した「通訳部隊」の、日系二世、カン・タガミ氏の証言が発掘されている。

それによると、吉田茂の英語は、マッカーサーとの会話でまったく通じなかった、という。
初会見で、マッカーサーは、吉田が職業外交官で駐英大使も歴任したことで、通訳官の同席を要しないと判断したという。

しかし、2~3分後、すぐさま呼ばれて、「彼は何語を話しているのか?」といわれたという。

吉田の語学力が「まずい」ことは、外務省内でも有名だったとあるけれど、これが、「GHQにとって都合がよかった」ともいう。
なにしろ、二世のタガミ氏が、おもわず日本人の血が騒ぐほどの「ポチぶり」だったと記録したのだ。

そこまで卑屈にならなくともよいものを、という思いで「通訳」したというけれど、「俺様」体質のマッカーサーは、むしろこの態度をよろこんだという。

吉田のふんぞり返った態度は、まったくの「演技」だというから、当時の日本人も現代の日本人も、どれほど騙されたのか?
そうやって、マッカーサーと吉田のコンビが、日本を永遠の「属国」へ貶めたのである。

はたして、これから「独立」する方策は?をかんがえれば、アメリカの衰退が待ち遠しいけど、東アジア情勢は楽観を許さない。
なんとも、日本を封じ込める仕掛けの巨大なことか?

臥薪嘗胆は続く。

「地質図Navi」の面白さ

生活のあらゆる場面で、「自分から」情報取得をしないといけない時代になったことを、「情報化時代」という。

なんだか、「情報化」というと、勝手に情報がやってきて、便利な時代になったものだ、とおもっていたのはついぞ昔のことになったのだ。
いま、勝手にやってくる情報のほとんどが「プロパガンダ」になったからである。

「飛脚」が「郵便」になったことを、「情報化のはじまり」ということにしているけれど、これも現代目線からロマンのある表現でしかないのではないか?と疑うのは、昨今の「プロパガンダ」の酷さに気づいたための被害妄想なのだろか?

「飛脚」が業務用通信で運んでいたのは、「手紙」よりむしろ、「為替」だった。
「天下の台所」の大阪商人は「銀」を主たる通貨にしていたので、「Bank」を「銀行」と訳し、「金行」にはしなかったのである。

12月といえば、『忠臣蔵』(史実の「赤穂事件」の発端になった「松の廊下での刃傷」は、元禄14年:1701年)にもでてくる、江戸と本国の赤穂との定期の他に緊急連絡体制があったことは、驚きに値するというけれど、想像力を働かせばふつうのことではないか?

幕藩体制下での「藩」は、一種の独立国で、アメリカ合衆国にあてはめれば「州」にあたるし、幕府は連邦政府になる。
そのアメリカ史を思い出せば、カリフォルニアで金が発見されて「ゴールドラッシュ」になったのは、1848年のことだ。

わが国の元号では、1848年はちょうど「嘉永」で、「弘化」のあと、1854年からは「安政」になるときで、天皇は明治天皇の先代、孝明天皇の御代、将軍は12代家慶、13代家定であった。

ちなみに、「黒船来航」は、1853年(嘉永6年)のことだったので、この時代のイメージすら、「分断」されている。

つまり、「日本史」では「黒船からはじまる幕末の動乱」になるけど、「世界史」では、アメリカのゴールドラッシュはテーマとして軽視されているばかりか、これら二つの出来事が「同時代」だと生徒に教えないのだ。

そればかりか、詳しい時代背景がわからないままで、「西部劇」をたっぷり観せられて、悪いのは全部「インディアン」だから、バタバタと殺されても、画面に拍手を送らされたのだった。
インディアンがいない草原こそが「平和」なのである、と。

さすがにこれは「まずい」と気がついて、もはや「西部劇」をつくることも上映することもしなくなったけど、こんどは、「ポリコレ」に傾倒し過ぎて、もっとナンセンスな映画がつくられている。

もちろん、日本人にとっては、「縄文人の末裔」として血の繋がりは、インディアンやら南米のインディオたちにあるから、まったくもって、ひどい映画に拍手を送ってきたものだ。

ゴールドラッシュに話を戻せば、前にも書いた伝記の名手、シュテファン・ツヴァイクが書いた、『人類の星の時間』における、世界史的運のない男ズーター氏の悲劇は、合衆国憲法があろうがなかろうが、これを守る国民の意志の欠如がどんな結果を招くかを示す、とんでもなく「大きな話」なのである。

それが、赤穂事件で江戸表と国もとで飛脚が飛び交った、150年後のアメリカの姿なのである。

なお、アメリカ大陸横断電信ができたのは1860年代のことで、1841年の記録では、第9代ハリソン大統領が在任1年にして死去したニュースがロサンゼルスに届くのに110日かかっている。
日本の電信のはじまりは、明治2年(1869年)という、「早さ」なのである。

2022年中間選挙の、実質的な「争点」とは、この「合衆国憲法」を守るか無視するかの攻防だ。
しかしながら、こんな重要なことを、アメリカのマスコミも、日本のマスコミもぜんぜんいわなくなって「プロパガンダ」に終始している。

もちろん、合衆国憲法を「ないがしろにする」ひとたちを「応援する」ばかりだからである。
そんなひとたちが、日本国内では「護憲」をいうから、その「意図」を勘ぐりたくなるのは人情というものである。

さてそれで、いかに首都ワシントンD.C.から大陸の反対側であったとはいえ、太平洋の反対側にある日本にも艦隊を繰り出すことをしていた。
もっとも、ペリーの艦隊は、大西洋からインド洋を越えてやってきたけど。

当時からしたら、極東の島国を「開国」させることと、カリフォルニア州の農場主の権利(「土地所有権」のこと)を守ることができないことが、同時並行的だったことにもっと注目していいのである。

これを、「わざと」させないように教育しているのではないのか?

そんなわけだから、「情報リテラシー」の本筋を教育しないで、「プログラミング」を教えることを優先させる。
たしかに、圧倒的に「プログラミング人材の不足」はわかるが、だからといって小学校から「正規の授業」でやらせることか?

広義の「児童労働」にあたらないのか?

これが、まわりまわって、自分の立っている地面のことにも興味がないように仕向けるのは、「受験結果」における学校と教師の「評価」が最優先されることになったからだ。
その最たるものが、塾や予備校の実績という評判である。

選別する学校側(たとえば「難関校」)は「いい学校だ」と評価させる意図的勘違いの促進も、プロパガンダではないか?

日本の難関校を出ても、世界企業の本社幹部候補として就職することもできないで、せいぜい「日本支店勤務」のローカル・スタッフになるしかないのが、はっきりしている「実情」なのだ。

もはや、アメリカの大学に入学して、そのままアメリカ企業に就職することが、圧倒的な「勝ち組」になってしまった。

にもかかわらず、「そんなことを勉強する閑があったら、いまは受験勉強しなさい」という呪文が、情報リテラシーのない親世代に焼き付けられているから、とにかくテストの点数で、「偏差値50以上」すなわち、「平均点以上」をとらないと人間扱いしない社会にしたのである。

しかし、どんな社会でも、「偏差値50未満」すなわち、「平均点に満たない」ひとが、かならず半分いる。
義務教育の重要な目的に、「人生を生きのびるための学び」があることをまったく無視しているのだ。

傾向として、この「偏差値50未満」が「主力」となっているのが、「観光業の現場」なのだ。

だから、「観光立国」では、国民は食っていけないのであるけれど、その理由は「偏差値50未満」だからではなくて、答のないビジネスの答を追求することもやらないからである。

自分たちの営業地域の「風光明媚」の根本たる、「地面」についての興味もないというありさまで、それがむかしからいう「温泉宿の温泉知らず」になったのである。

以上のことをふまえて、国立研究開発法人 産業技術総合研究所 地質調査総合センターが提供している、便利な「地質図Navi」を眺めてほしいものである。

ただし、「産業技術総合研究所」が、「総合」としての「産業」を、「観光業」だとおもっていない節がある。

この「ミスマッチ」が、観光業へのブーメランなのだ。