ブラックフライデーが終了して

昨1日、年々拡大してきた、年に一度のAmazonブラックフライデー・セール(大売り出し)が、終了した。

これで、今度は、年に一度のクリスマス・セール(大売り出し」がはじまる。
あたかも、ブラックフライデーで買い逃したひとへの「救済措置」になるので、クリスマスはありがたい。

それから、年が明ければ、年に一度のお正月セール(大売り出し)だ。

だから、なんだかんだと、いつでも大売り出しをやっているから、むかしの商店街を思い出す。
赤いおおきなのぼり旗に、大書して、あちらこちらに掲げて、街中で雰囲気を演出していたものだった。

その商店街が、みごとに衰退して、シャッター街になって久しい。
東京ならばそんなことはないだろう、という地方のひとたちは、おそらくテレビ脳に冒されている。

「むかしながら商店街」として、テレビで紹介されるのは、特定の商店街ばかりなのである。

つまり、テレビで紹介さない商店街に注目しないといけない。
たとえば、秋葉原から御徒町にかけてとおなじ距離を「並行」している、「佐竹商店街」は、その由緒正しきネーミングとは裏腹に、なんともいえない気分を味わえるものだ。

東京のど真ん中にして、これだ、と。

南北の佐竹商店街から、東西の東に折れて鳥越神社にむかう道すがらは、「おかず横丁」という食欲をそそる商店街があるけれど、かつての惣菜屋さんの面影がみつかればありがたい道になっている。

商店街活性化の成功例が皆無という事実に目を向ければ、かならず地元行政のアドバイザーになる「専門家の無能」が光るだけなのである。
しかし、行政の側は、どんなに空しい努力でも、専門家のアドバイスに依っている、という理由があるから責任は回避できる。

この、「やっている感」だけの無責任で、税金が無駄遣いされていても、税金を負担する国民や企業が、無関心、あるいは、かかわりたくない、という態度を「よし」とするので、いつまでもどこまでも「商店街活性化」がきれいごとでいられるのである。

ただし、すでに現代のわが国は「五公五民」の状態になっていて、このところの水道光熱費の高騰で、「六公四民」にむかって爆走している感がある。

もちろん、この期に及んで「増税」を目論む政権与党は、内閣を何個か犠牲にしてでも実現させたいという、政治目標を崩さない。
この意味で、岸田内閣を批判しても、ぜんぜん関係ないのだ。

江戸時代、「五公五民」は、一揆発生のボーダーラインで、うまいこと「お目こぼし」をしなかったら、たちまち一揆が勃発した。

現代人が、「五公五民」で我慢できているのは、どんな理由からか?は、将来の歴史家がかならず研究するテーマになるだろうけど、一応、いま書いておけば、「学校教育の成果」といえるはずだ。
すなわち、従順な奴隷化、が成功している。

この点で、なぜに徳川幕府は、「教育奉行」を置かなかったのか?が気になる。
「大学頭」は、教育行政を担当したのではなくて、将軍家への教育と「学説を公認する」担当にすぎなかった。

そんなわけで、商店街からシフトして、ネットでポチると商品が自宅に届く、あたかも運送業が巨大化する仕組みになったのである。
なので、中間に位置する、デパートも衰退したし、おそらくこれから、巨大ショッピングセンターも衰退するのだろう。

ここに注目すると、赤字で話題になっている「楽天市場の画期」とは、個人商店のサイバー化による、バーチャル商店街の構築であった。
中央集権のアマゾンとの、ビジネス・モデルの決定的ちがいがここにある。

実父が創業して事業拡大した、「大塚家具」を、実の娘が強引に経営権を奪って、とうとう実質「消滅」させたのは、経営戦略の立て直しに、完全失敗したことが原因だという「教科書」になった。

この点で、別角度からガーシーの標的にされた三木谷氏は、なにかを間違えたのである。

一方で、一時一世を風靡した「mixi:ミクシー」の衰退は、なんだったのか?
アメリカの「Facebook」や「Twitter」に席巻されたばかりか、情報漏洩の懸念がぜんぜん払拭されないままにもかかわらず韓国の「LINE」にも完敗した。

わたしには、「こっくりさん」のようにみえるのである。

さてそれで、どれほどの「散財」をしたのかは、個人それぞれのことに戻る。

その個人のはなしをすれば、学生時代から購読契約をしていた、経済新聞を解約した。
ついでに、電子版も解約した。

来年の元旦から、新聞がこない、あたらしい生活がはじまる。
なんだか、うれしい、のは、ゴミを排除したようで、ちょっと早い「大掃除」の達成感にちかい。

これで、年間6万円の節約になるけれど、金額の問題ではない。
ほとんど読んでいないものだから、被害はないし、読むことの被害の方がおおきいだろう。

だからといって、アマゾンでの買い物予算が増えたわけでもない。
つぎのテーマは、Amazonからの脱却、になるからだ。

すばらしき!権威主義

政治形態で「権威主義体制」という区分がある。

民主主義と独裁の「中間」に位置すると解されている。
具体的には、権威に対して盲目的に服従する個人や社会組織があってこそ、という意味でもあるので、底辺から支えているのは「民衆」と、民衆がつくる組織である。

これに、権威主義者としての自信に満ちたトップが存在しないといけないので、体制として成り立つには、双方が同時に必要となる。

マスコミによる情報統制下のわが国に、漫然と暮らしていると、わが国の常識が世界の常識なのだ、という、とてつもない勘違いに気づかない。
もっといえば、気づかせないための努力がマスコミによって行われていることさえも気づかない。

たとえば、ちょっと前、つまり、携帯電話とかの通信手段がなかった時代の電車の中は、新聞や書籍を読んでいるひとをおおくみかけたし、わたしもそのなかの一員だった。

いまは、圧倒的にスマホの画面をみつめていて、いわゆる「コンテンツ消費」をしているのである。
そのなかには、無料ゲームに熱中しているひともいる。

わたしよりもはるか「上」の世代は、「タダほど高いものはない」とよくいっていた。
無料の裏にある、「騙し」や「意図」を見極めようと、いったん立ち止まってかんがえることをしたのだ。

これが突きくずされたのは、街で無料配布されていた、ティッシュを広告媒体とした方法で、怪しげなチラシではなくてティッシュをタダで貰うことが、「変なこと」でなくなったことにあるとおもっている。

ティッシュをとる側の面には広告がないから、この面にそろえて積んでおけば、ふつうに「ポケット・ティッシュ」にみえたことが、警戒心を薄めて、実用になったのである。
そうなると、今度は、手をだして貰うようになる。

だから、広告媒体としての効果がどうなったのか?は、かなり薄くなって、むしろサラ金会社とかにとっては、「経費消化」という、「節税」に目的がかわったようにもおもえる。

しかし、世界ではそんな日本の常識とはちがうことが起きる。

たとえば、ソ連崩壊後の極東ロシアという「辺境」(いまもモスクワやサンクト・ペテルブルクなどからみたら変わりない)では、日本の街角でタダで配られていたティッシュに驚愕したひとが、これを真似て広告会社をつくった。

すると、ポケット・ティッシュをみたこともなかった「旧ソ連人」というだけでなく、「絶対的物不足」がふつうだったから、タダで配られていることに驚いたばかりか、「いいひと」になったのである。

ちなみに、社会主義(共産主義・全体主義)計画経済が、その社会に絶対的物不足をつくりだすのは、「価格」という情報が完全に統制されるために、需要と供給の大原則が機能せず、おカネがあっても物がない、ということになるので、全員が平等に行列をつくって配給を得るしかなくなるのである。

そんな社会しか経験のないひとたちが、突然、街でタダで配られているティッシュが、宣伝・広告が目的だという意味が理解できなかった。
それで配布主=広告主が、生活に有用な物資をタダでくれることに感謝して、圧倒的な信用を得るという、おそるべき広告効果をだしたのである。

ロシアをはじめ、旧ソ連を構成していた、それぞれの「共和国」が、独立して、それらの国がこぞって「権威主義体制の国」になった背景に、もうひとつの「悲惨」があった共通も見逃せない。

それが、「経済の自由化」と、「政治の民主化」が、コントロールされることなく、雪崩のように社会を席巻したことの「混乱」だった。
なんと、ロシアは、成人男性の平均寿命が、ソ連崩壊から10年間で、10歳も「縮んだ」のである。

この「隣国」の「悲惨」を、われわれ日本人はしらないままでいる。

寿命は延びるもの、としてしかかんがえられないのが、現代日本人の病的ともいえる想像力欠如だ。
縮むとは、いかなる事態が社会に起きたのか?

いわゆる、エリツィン時代、ロシアは英米の企業によって、「経済植民地」になったのである。
そこで誕生したのが、これら企業と結託した「新興財閥」だった。

社会主義計画経済しかしらないひとたちが、自由化すればとにかく豊かになるということが、「幻想」だったのは、自由主義経済の本質をしらないという、決定的問題に国民が気づかなかったことをしっている英米企業に、食い物にされたということだ。

これを、排除して「安定化」させたのが、「権威主義」だった。

その申し子のひとりが、プーチン氏に代表されているけれど、旧ソ連の国々は、ほぼおなじくどこも「権威主義」に染まっていることの原因が、上記のごとく共通しているからである。

そういえば、ほぼ10年前、日本の街角のあちらこちらに、「安定は希望です」という、政権与党のポスターが貼られていた。

この政党が、まったくもって、旧ソ連の国々とおなじ「権威主義」で構成されていることに注目すれば、社会をいったん「不安定」にすると、国民から安定を求めて権威主義に突き進むメカニズムをしっているということになる。

なるほど、どんどん国民が貧乏になるようにしているのは、「このため」なのだ。

「白紙」報道の妖しさ

マスコミが何者かに支配されている、というと一気に与太話だとおもうひとがいるけれど、GHQがやった「検閲」とか、アメリカ政府の情報公開法によって機密解除され公開情報になった、CIAエージェントだった正力松太郎や、彼が買収した読売新聞が何をしてきたかは、与太話ではない。

読売新聞の子会社として、正力松太郎が設立した、わが国最初の「民放テレビ局」が、日本テレビで、どうして「日本」がついているのかもいろいろと理由がある。
なお、NHKもGHQによって一般企業から公共放送に「昇格」した。

戦前、テレビがなかった時代、わが国の新聞社は各地に自由設立できたのを、道府県に1社限定にしたのは「国家総動員法」による、戦時体制づくりの一環だった。
一応、紙とインクの節約という名分になっている。

こうした「言論統制」を実行するのに、当時「キング・オブ・役所」といわれていた、内務省が管轄していた。
正力松太郎は、その内務省の官僚だったのである。

なお、例外は東京だけだったけど、戦後にアメリカが統治した沖縄本土に2社があるのは、米軍指導の結果である。
ついでに、各県一社の新聞社に、子会社としてテレビ局をつくらせたのは、田中角栄だったのである。

それだから、マスコミは田中角栄を悪く書かないし、悪くいわない。
恩人だからだ。

コロナで判明した、報道しない自由という詭弁が、とっくに常識になったので、マスコミの報道を観るには、「裏の意図」をかんがえないと間違う時代になっている。

さらに、対中報道については、「日中報道協定:日中双方の新聞記者交換に関するメモ(1964年)」があって、中国に不都合な報道をしたばあいに、当該報道機関の記者が退去させられることを取り決めていた。

国交回復後の1974年には、「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」が交わされて、文書内に旧条件の記載はないが、当初反発した産経新聞の記者が受け入れられるのは、なんと34年後の1998年(平成10年)になってからで、その後の親中報道(特に子会社のフジテレビ)は、何かを語っているように感じるのはわたしだけではないだろう。

なお、NHKの『クローズアップ現代』では、天安門事件は「なかった」として、おおいに顰蹙(ひんしゅく)を買ったが、当然ながらNHKはなんのコメントも発していない。

なんらかの、「指令」があったのではないかと疑うのである。

それでもって、突如発生した「白紙」デモについての報道は、これまでとはぜんぜんちがう様相で、民衆がシュプレヒコールであげている「習近平退陣、共産党退陣」を何度も繰り返し報じている「異様」がある。
これに、「特派員」が現場取材をする(許可されている)という、まことに異様なことが起きている。

はたして、3期目という異様と、その指導部を全員「自派」で固めた習氏の皇帝体制は、本来目指していた「終身」を決めることができなかったことで、じつは「不安定」ではないかとの憶測を呼んでいた。

つまり、また「5年」の任期が延長されただけだった。

どんな権力闘争が内部であったかはしらないが、ナショナリズムの毛沢東主義を掲げる習派と、グローバル全体主義を掲げる江派との死闘があったことは事実だ。

習派の矛盾は、もともと共産主義とは、グローバル全体主義だから、そこにおけるナショナリズムとは、実態として「権力の独占=独裁」しか、やりたいことがみえてこないことにある。

もちろん、世界を牛耳る、とてつもない大富豪たちによる、世界共産化の夢とは、グローバル全体主義(世界市民の奴隷化・家畜化)にほかならないので、習派への嫌悪は差しせまったものがあるだろう。

そんなわけで、一斉蜂起したのは、世界のマスコミもおなじで、あたかも、号令一下「習近平退陣、共産党退陣」をプロパガンダしているとかんがえられ、さらに報道管制をする当局も同調している感がある。

徹底的に世界的大富豪たちが目論む、ウクライナで楯突く、ロシアのナショナリスト・プーチン氏を、今度は、連携しているかのような習氏を叩くことで、ロシアと中国の双方を解体統治したいのか?

なんだか、勝手に「戦線拡大」をやっているようにみえるのである。

これは、「勝算」があってのことなのか?それとも、自棄のやんぱちなのか?

ウクライナ情勢は、どんどん寒くなるにつれ、戦線を立て直したロシアに有利になってきた。
もう、夜の衛星画像では、ウクライナ全土が真っ黒になって、電気の供給が絶えていることが明らかだ。

ゼレンスキー氏も、電源供給は50%だといったけど、実態は「ほぼゼロ」だろう。
すると、現代のインフラシステムは、モーターを要する水道も自動的に止まることを意味するから、流通が途絶えた都市部ほど深刻な状況だろう。

核兵器を用いるよりも酷い兵糧攻めで、市民生活を襲っているにちがいない。

わが国の数年分の防衛費を、アメリカ一国で支援したというけれど、一体どこに用いているのか?
やっぱり、英国北西の大西洋にある、ぜんぜん移動しない「低気圧」をつくっていた「気象兵器」に使ったのか?

そんな人工の姑息を、地球環境には屁ほども影響しないで、北極からの「冬将軍」は容赦なくやってくる。

ために、やけくそになったのなら、それはそれで、人類一般にはよいことだ。

ついでに、わざと起こしたデモが、瓢箪から駒になって、「共産党退陣」が実現したら、もっとよい。

見逃せないことが起きている。

悩ましいE-inkタブ

誰にでも起きる「高齢化=老化」なのに、いわゆる「商品レビュー」に、高齢者向けの紹介が「健康」やらに偏向している。

知的生産性を高めたい、という「悪あがき」をする還暦超えの高齢者は多かろうに。
もちろん、ちゃんと「先は見えている」けど、死ぬまでにしっておきたいことは、若いときより山ほどあるのだ。

自分がほとんど無教養で生きてきたことへのガッカリを、すこしでも取り戻しておきたいのと、残り時間をかんがえたときの「焦り」ともいえる気分がわいてきて、最低でも「良書」を少しでも読んでおきたいのだ。

ところが、若いときとちがって、「目」もすぐに「眼精疲労」を起こすし、そもそも集中力が続かなくなっていることすら自覚する。
だからこそ、「道具にこだわりたい」のだけど、その手の情報が「健常者向き」ばかりで不満なのである。

ここでいう「道具」とは、電子書籍リーダーのためのガジェットである。

たとえば、いま開催中のアマゾンの「ブラックフライデー・セール」では、めったにないアップル社の「iPad mini 6」という現役製品が、14%引きという「破格」で販売されていて、とうとう「売り切れ」になった。

レビュアーのほとんどが、その「絶妙な大きさ」を絶賛しているけれども、残念ながら、わたしの用途では使い物にならないほど「小さい」のだ。
重いのは承知で、12.9インチを持ち歩くのは、10インチクラスでもやや不満の大きさだからである。

「読むだけ」ならば、10インチクラスでちょうどいい。
しかし、「メモ」を書いたりしたくなるような「作品」を相手にして、比較的長時間を覚悟する場合には、確実に眼精疲労からの肩こりがやってくる。

もちろん、iPadで読書をするときには、画面は白黒反転させて、黒地に白文字にしないといけない。
ただし、対象が小説ならば、「kindle paperwhite」でもよくて、付箋やマーカーをして、あとからリストを「Evernote」に飛ばしている。

やっぱり、E-inkの「目に優しい」特徴が、棄てがたいのだ。

これは、iPadに対する唯一の不満で、読書ノートをつくるときに、どうしても「目にくる」からである。
それで、完全PDFに特化したE-ink電子ノート、「クアデルノA4型」を購入した。

快適なのは当然だけど、どうしても機能がシンプルすぎる。
たとえば、手書き検索機能も中途半端で、特定の記号などの検索は可能だけど、文字検索はできない。

iPadの定番アプリ、「GoodNotes 5」に搭載されている当然の機能がないのだ。
しかも、「GoodNotes 5」なら、ファイルを超えて串刺し検索ができる。

また、横書きの論文などの文書を「読む」には、iPadだと、「LiquidText」がある。
Windows版も出たけれど、やっぱりiPadで使うのがいい。

これは、本文の横や下にワークスペースがあって、ここに、マークしたい本文を付箋のようにコピーできて、関連・類似したもの同士を「接着」できる。

それで、マインドマップ状にも表示させることができるので、全体の論理構造が整理できるのである。
これをまた、PDFとして保存もできる。
ただし、日本語のような縦書き文書には馴染まないのが残念だ。

この手のものは、電子化した文書ならぜんぶ対象になるから、電子書籍だけが読めるという限定はない。

とくに、電子書籍だと、PDF化して、さらに、OCR処理をすれば、本文の検索も可能にするのが、スクリーンショットでできるという分、楽だ。
紙の本の場合は、「自炊」が必要という手間がかかる。

こうやって、加工したものを、上述した「GoodNotes 5」とか、「LiquidText」とかの、PDFビューワーで表示させれば、「読書」がだんぜんはかどるのである。

くわえて、原文が外国語でも、iPadに標準装備されている、アップル社純正読書アプリ、「Books」にOCR処理をしたPDFとして読み込むと、選択した範囲の「翻訳」をしてくれる。

これは、探すとでてくる日本語翻訳がされていない作者の場合、とてつもなく便利で知的生産性を向上させる、まさに今様の画期なのだ。
あんがいと、ご当地で有名なのに日本語になっていないひとの作品はたくさんある。

そんなわけで、いまのところ「最強」なのは、「iPad」なのである。

しかして、「挑戦者」がでてきた。
明日、30日発売の「Kindle Scribe」が、レビュアーたちによってこれからの話題になるにちがいない。

けれども、知る人ぞ知る、「BOOX」がシリーズ化されていて、こちらは、E-inkアンドロイド・タブレットなのである。
つまり、「Google Play」に対応している汎用性がある。

E-inkは魅力的だけど、わたしの用途でどうなのか?をかんがえると、やっぱり、「E-inkのiPad」がほしいのである。

さいきんのiPadは、どんどん「高度なチップ搭載」に突き進んでいるけれど、そんなものを必要とするアプリがない。
動画編集もしないわたしには、「知的生産性」の基本、「読む」ことと「理解の補助」に徹した、高齢者の目に優しい端末を要求したいのである。

いまこそ『薬害を学ぼう』を観よう

厚生労働省が、文部科学省に協力を依頼(平成22年から)して製作した、学校教育用の教材(印刷版と動画版)がHPから入手できる。
それが、『薬害を学ぼう』だ。

対象は、中学3年生である。

1年前の動画版視聴者のコメントに、コロナワクチンに関して「後に大規模な訴訟問題とかになりそうで怖い」というものが残っているが、現実がこのコメント通りになってきた。

先月20日、コロナワクチン遺族会「繋ぐ会」が結成され、23日、「全国有志医師の会」(会員1273人)では、乳幼児へのワクチン接種反対の声明とワクチン後遺症患者との緊急会見を実施した。

さらに、25日には、「子どもへのワクチン接種とワクチン後遺症を考える超党派議員連盟」(会長・川田龍平参院議員=立憲民主党)の勉強会「新型コロナワクチン接種と死亡事例の因果関係を考える」が、遺族会とともに衆議院議員会館で開催され、厚労省役人団へ救済等の考え方を質問している。

なお、「超党派」とはいえ、この議員連盟に与党議員の参加はない。

いまの時点で国への死亡報告は、1900人以上、それで救済認定されたのは10人である。
当然だが、死亡報告された数だけでも、氷山の一角にすぎないのは、手間がかかるなど(保健所や厚労省がいやがる)として忖度した医師が報告をあげないからだ。

よって、今後、「増加」が予想され、すでに遺族会には118人が参加予定で、「集団訴訟」の準備がすすんでいるという。
場合によっては、過去最大の「薬害訴訟」になるかもしれない。

さて、議員連盟と遺族会からの質問に対する厚労省の説明をどう受けとるのか?ということには、個人それぞれの考えがあるだろうけど、「職域・職場接種」として、厚生労働省職員はいかほどの接種率なのか?という質問があった。

これには、鹿児島県阿久根市長で、いまは市議会議員の竹原信一氏が、今年9月7日の「令和4年第三回定例市議会」で一般質問した中に、「厚生労働省職員の接種率が10%、国会議員が15%、医師は20%、国民は82%」という発言があって、これがネットで拡散している。

この発言における、厚生労働省職員の接種率や、国会議員、医師についての数値の「出所」は不明だけど、これをもって質問したのだっとおもわれる。

それで回答は、「不明」というものだった。

したがって、現在のところ、竹原市議が述べた内容と根拠に疑義があるといわざるをえないけど、あっさり「不明」と回答した厚労省は、これでことが済むとおもっているのだろうか?

また、国会議員や医師会も、当然ながら「事務的」に、接種の実態を公表する義務がある。
未接種ならば、その理由も記載・集計して公表するのは当然だ。

たとえば、接種について「積極推進」を公言していた、舘田一博東邦大学教授(微生物学・感染症学)が、自身が感染し人工呼吸器をつけるほどに重篤化したことが発覚したときに、「未接種」だったこともばれた。
その理由は、「アレルギーがあるから」というものだった。

この夏の参議院通常選挙に、参政党から福岡選挙区の候補として出た、医療系YouTuberの、野中しんすけ氏が動画で解説している。

当初は、以上の説明「だけ」だったが、後に自身の口から「アデム」といったそうな。
これは、急性散在性脳脊髄炎のことで、検索すれば「たいていは、予防接種を受けた後や、感染症にかかった後におこる」とある。

詳しくは、是非、上記動画をご覧いただきたい。

そんなわけで、『薬害を学ぼう』に話を戻すと、なんだか「むなしくなる」のである。
それで、超党派議連の会長を務める川田氏が被害者の、「薬害エイズ事件」を受けて、厚生労働省は正面玄関に「誓いの碑」まで建立しているのだ。

碑文の内容はさておき、この碑の設置費用は誰がどうやって捻出したのだろうか?
まさか、「予算」から?
ならば、国民負担である。

「学習のポイント」はふたつ。
1.「国・製薬会社・医療従事者」はなにをすべきだったのか考えてみましょう。
2.薬害事件を受けて、「どのような制度ができたのか」調べてみましょう。

そういいながら、「どうすれば薬害の起こらない社会になるのだろう」ときて、ここからプロパガンダがはじまる。

国には、次の「役割」があると説明している。
・薬の安全性などをチェックするための基準を作成する。
・薬の承認を取り消す、薬の回収命令など製薬会社に適切な指導を行うなど。

製薬会社の「役割」は、
・様々な試験などを通じて、安全な薬を開発・製造する役割。
・薬の販売を開始した後も情報を集め適切な対応をする役割。

医療従事者の「役割」は、
・薬を正しく処方する役割、薬の情報を正しく伝える役割。
・薬の副作用が起きた場合に国や製薬会社に報告する役割。

消費者としては、
・主体的に関わる役割(自分の使う薬に関心を持つ、関係者の役割や行動をチェックするなど)

以上、ご丁寧に、関係する4者の役割を説明しているけど、「どれもまったく機能していない」ことだけが確認できる「恐怖の解説」になっている。

製薬会社との「密約」について、大臣がいる国会質問でも「回答できない」と回答しているのが、厚生労働省なのである。
薬害エイズのときに、外資系金融機関の外国人同僚たちが、「Ministry of kill」と真顔で揶揄していたのを思い出す。

アメリカやらヨーロッパでこんなことをしでかしたのがばれたら、大変なこと(大規模デモは当然で、場合によっては暴動)になるとのことだろうけど。

このような活動を、「なかったこと」にしているのが、「与党」であって、国際的な「強制接種」をやる、デジタル・ワクチン・パスポートの導入を先のG20で決めてしまったから、「薬害の世界的拡散」をしたい、ということになっている。

「どうすれば薬害の起こらない社会になるのだろう」を、中学生に聞く前に、与党政治家全員に質問して、この結果を次の選挙で国民からの回答として示したい。

はたして、国、製薬会社、医療従事者たちからの「逮捕者」をだすには、政権交代しかないのだが。

ちなみに、逮捕理由は殺人容疑ではなくて、「人道への罪」とか「虐殺」、くわえて経済的「侵略」がふさわしい。

人類史に輝ける江戸時代

昨日の、「資本家は資本主義者ではない」の続きである。

江戸時代から明治末までの日本が、世界史的というよりも人類史的な価値があるのは、幻想でない資本主義が、「現実にあった」からである。

だから、マルクスの幻想をもって、「資本主義を批判」し、これを、終了させて「共産主義・全体主義」にしたいと目論むひとたちは、「封建的身分社会」という側面を強調して、けっして評価しない、させない、努力がはらわている。

これを、一般的に「洗脳」とか、「プロパガンダ」というのであるが、その方法が巧妙なために、なかなか気づかないのである。

幸か不幸か、資本主義は道徳的だと喝破したアイン・ランドにして、「来日」した記録が見あたらないし、彼女がどの程度の「知日」だったかもわからない。

むしろ、日本についての知識があれば、「資本主義は未来のシステム」とした、その「未来」が、かつての日本にこそあったことをしって、かならずや一文を書き残したはずである。

それに、天涯孤独だった彼女は、アメリカでの生活を棄てて、日本に移り住んでいたかもしれないと思うのは、未来を日本の過去にみたならば、それをもっと深掘りしようという衝動に駆られたはずだとおもうからである。

そして、そのあまりの「個人主義を絶対」とする寂しさを、日本人が癒やしていれば、もしやこのひとを再度インスパイアさせて、あらたな境地を書いてくれたのではあるまいか?と想像してしまう。

このことの「痛恨」は、彼女本人だけでなく、また日本人だけでもなく、いまや全人類にとっての「痛恨」になっている。

もちろん、日本人への痛恨とは、上に書いた「個人主義を絶対」とするひとと、彼女が嫌悪する「利他主義」を善としてしまう現代日本人への接触で生まれる葛藤と、日本人への「利他主義批判」の教育が、それぞれにあたらしい境地を発見させることへの期待である。

つまり、アイン・ランドには「個人主義の幅」を、日本人には「利他主義の誤解」を発見させることである。

なお、利他主義こそが共産主義・全体主義へ人々を導く、悪魔のささやきだ。
「他人のためにある美しい自分」が、「他人のために死になさい」となっても、逆らえないからである。

利己主義と混同される個人主義は、個人を重視するから「他人の個」も、尊重する。
これが、自分しかない利己主義と決定的にことなるのである。

ただし、利他主義と利己主義には、妙な親和性があって、「他人のためにある美しい自分」を追及したひとが、社会的安定を得ると、利他を説きながら利己(いまだけ、カネだけ、自分だけ)に落ちるのである。
これを、一般的に「偽善」と「保身」という。

さて、江戸期にどうして「資本主義」が、しかも、人類史上初の出現をしたのか?をいえば、「道徳社会」が確立していたからである。
このときの、道徳とは、ほぼ儒教によるものだ。
すなわち、四書五経にある教えをさす。

「四書」とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つで、 「五経」とは『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』の五つをいう。
仏教典の「お経」のことではない。

さらに、江戸幕府が推奨したのが、「朱子学」だったから、支配階級の武士には、その教育の中心に四書五経があったし、これが、町民の経済力の蓄積と浪人の増加で、必然的におおかたの身分へと普及した。

とはいえ、「儒教」を宗教とすることなく、あくまでも「教養」と「道徳」(武士道の基礎)としたことの特殊性が、日本と日本人にあるのだ。

これが、表面的に世界的に高い「識字率」の根幹をつくったのである。
江戸期には「貸本屋」なる商売が繁盛して、戯作者なる大衆文学作家が出現するという、欧米にあっては考えられない文化的高度さだった。

江戸の庶民は、世界にさきがけて「文化消費生活」をしていたのだ。
それゆえ、欧米では産業革命による労働者階級(大衆)が誕生するまで、観光事業は存在しなかったのに、わが国ではずっと前の、五街道の整備を経て、とっくに庶民に旅ブームがはじまった。

その結実が、幕末に完成したという講談『水戸黄門漫遊記』だった。

しかして、おなじころ、日本を訪問したシュリーマンは、「我々のしらない文明国」と書いたように、江戸末期から明治期の外国人知識人はこぞって、日本を絶賛するのは、彼らの国ではありえない「道徳社会」だったからである。

これを、日本人は入浴習慣があるから「清潔」だという評価をするのは、表面的な話にしたい、という戦後日本人たちの変な目論見がある。

わが国が、なぜに欧米以外で唯一、「近代化に成功したか?」の最も重要な点に、この「道徳社会」だったことが挙げられる。
そうでないと、「資本主義」が成立しないからだ。

すると、明治期までのわが国にあった、「道徳社会」が、第一次大戦の「大戦景気」で破壊されるまでが、人類史上初にして最後の「資本主義が出現した」社会だったのだといえる。

敗戦後の高度成長は、このときの「匂い」をしっている世代による、「真似っこ」をもって成功したとかんがえれば、「その後」の衰退も理解できるのだ。

この大きな流れを、故橋田壽賀子が、「意図的」に残してくれている。
それがあの、『おしん』の物語なのである。
彼女のシナリオとして珍しく「出版」された前書きに、「明治の母たち」の記憶を残したかった、と書いているのだ。

橋田壽賀子が書いたドラマには、資本主義の精神があって、花登筺が書いた「ど根性物ドラマ」には、前資本の「儲けることが目的」がある。
たとえば、作品名『銭の花』は、ドラマ『細腕繁盛記』になったけど、舞台となった温泉宿の繁盛と衰退ぶりは、いまならリアルに想像できるだろう。

「道徳社会」が失われると、経済の衰退が必然となる。

資本主義の精神を体得したおしんは一切ブレない。
一方で、特攻の価値観から180度転換した価値観の崩壊(GHQの政策による)によって精神に深く傷を負った息子が、花登筺的「前資本」(とにかく自分が儲かればいい)になってしまうことを、親子の確執として描いている。

利他から利己の保身に落ちる構造を、息子に託して書いた橋田の鋭さを、もっと評価していい。
そしてまた、利他にはまりこんだ夫の最期が、世代としてのさらなる対照をつくっているのだ。

このことの意味を、DNAで覚えているはずの人類が、やっぱり唯一日本人なのだと思い出せば、復活のためにすべきことがみえてくるのである。

資本家は資本主義者ではない

資本主義とはなにか?
資本主義はほんとうに存在するのか?

前にも書いた、アイン・ランドがひとつの解答をだしている。
それは、「人類は一度も資本主義を経験していない」である。
だから、アイン・ランドは、「資本主義は未来のシステムだ」と定義した。

結論から先に書けば、「資本主義」なる「用語」は、マルクスの「造語」なのだと、ハイエクが指摘した事実がある(1963年「Capitalism and Historians」University of Chicago)。

つまり、マルクスは、弁証法の結論たる「共産主義・全体主義」の対立軸に、資本主義という「概念を発明」して置いただけなのだ、と。

資本主義は、ありもしない「共産主義・全体主義」の、さらにありもしない、たんなる「仮定」にすぎない。

いわゆる「保守派」とかというひとたちが、共産主義・全体主義を批判するとき、その「幻影」を指摘してきたけれども、資本主義も、もっと曖昧な「幻影」だということに気づいていないで、資本主義社会の存在を前提に共産主義・全体主義を批判するから、いつまでたっても「トドメ」を刺せないのである。

べつに、共産主義・全体主義を資本主義とで「差し違えろ」というのではなくて、どちらも「存在しない幻影」だから、差し違えることすらできないのである。

あるのは、虚無にして空疎だ。

こうしてみると、資本主義成立の過程と証拠が、いまだに確定していない!驚きに満ちた「真実」の理由がわかる。
存在しない幻影が成立した過程とか、証拠があろうはずがないからである。

かのマックス・ウェーバーの代表作にして、「資本主義成立の決定版」といわれてきた、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も、新進気鋭の日本人研究者によって、「論破」されてあらたな「論争」になっているのは結構なことだ。

はたして、マックス・ウェーバーは、「資本主義」を論証した画期といえるのか?が、論争になったのである。
それでもって、論争はずっと続いている。

残念ながら、上述したように、資本主義はマルクスが発明した「幻影」のひとつにすぎない、となれば、なんだか「ご苦労なこと」なのである。

すると、いま、われわれが生きている時代は?
産業革命と英国の発展はなんだったのか?

それには、大塚久雄が説明した、「前資本」とか「前期資本」という、中世までの人類が過ごしていた「主義のつかない時代」が、自動延長されているとかんがえればいい。

つまり、わたしは、前資本の状態に、たまたま科学技術が発展したのをもって、「資本主義」だと勘違いしたばかりか、マルクスの論に乗っかって、なんとなく資本主義なのだと、思いこんでいたのだとおもうのである。

ちなみに、前資本の状態とは、詐欺・掠奪・冒険があたりまえの時代で、「儲けた者勝ち」という常識がある世界をいう。
ヨーロッパ文明の先駆けをした、アラブの時代の『アラビアン・ナイト』における物語は、前資本の典型的な話だし、日本の「紀伊国屋文左衛門」もおなじだ。

ただし、わたし個人は、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」にある、まじめに働いていたら蓄財になって、困った仲間からの出資の求めに応じたら、もっと儲かったことが、順番を逆にして、儲けるために出資して目的通り儲かるようになった、という説明には納得している。

これは、現代のほとんどの経営者が、「損益計算書」をにらんでいて発想することとおなじだからだ。

創業者ならわかる、最初に出資ありきから、たまたま「計算書」の書式になっている「損益計算書」をみていると、あたかも、「売上」が先で、「経費」が後から発生し、それで「利益(損失)」がでているように勘違いする。

すべての事業は、「経費=出資」が先で、その結果が「売上」となって、残ったのが「利益(損失)」だという正しい順番を忘れてしまうのである。
すると、資本主義がもしも「ある」とすれば、それは、「創業時からのしばらくの間」であって、数期も経てば、前資本になってしまうのである。

このことを、ドラッカーは「利益は存在しない」といった。
しかもこの大御所は、「期間損益」を否定していたのである。
会計学の1年生にも、いかようにも化粧ができるといって批判した。

すなわち、ドラッカーを相手に世人が大御所と呼んだのは、世人が資本主義をぜんぜん理解していないから、大御所になったのである。
もし、投資家たる資本家が、儲けるために出資するのではなく、信頼できる仲間をたすけるために出資するなら、それが資本主義なのである。

あるいは、人類に役に立つ、物やサービスを提供する、というごく小さな一点にだけ、資本主義が存在できる場所がある。

これを、アイン・ランドは、「資本主義は道徳的だ」と喝破したのであった。
ゆえに、資本主義は未来のシステムになる。

すなわち、儲けるためだけ(儲け主義)という、目的自体が非道徳だといわれて、そしてそれが資本主義批判の「王道」になったのは、マルクスの論に乗っているばかりか、そもそも資本主義は儲け主義を内包しないからである。

これこそが、「幻影」という理由で、儲けることを善とする現代も、あいかわらず前資本のままなのだとわかるのである。
これは、テクノロジーの発展とは関係のない、人々の「道徳」に依存するから、とてつもなく成立が困難な社会体制のことでもある。

新嘗祭か感謝祭か

あれだけ「ハロウィン」が盛り上がるのに、「感謝祭:Thanksgiving Day」はイマイチで、最重要な「新嘗祭」が「勤労感謝の日」になって、なにを祝っているのかもわからなくなった。

このあたりの現象を、社会(心理)学者はどう分析しているのだろうか?

とりあえず、わたしは勝手に、「現代版ええじゃないか」ではないのか?と分析した。
「幕末の世相」について、もっと常識化されていいとおもうけど、深く教えると都合が悪くなるひとたちがいるのだろう。

その最も重要で隠されてきたこととは、「明治維新のいかがわしさ」だ。

逆張りすれば、だから、「明治維新を美化すること」が必要で、現代日本人はこれを疑わないように仕込まれている。
簡単にいえば、明治維新とは、「グローバル全体主義のはじまり」という意味での「維新」なのである。

だから、旧体制の鎖国にこだわる江戸幕府とは、「反グローバル全体主義」の思想を貫くことが正当であった組織なのだ。
しかしながら、新進気鋭の徳川慶喜将軍は、新進気鋭ゆえに、グローバル全体主義に迎合したのである。

これが、大阪から逃げ出した行動になって、大政奉還から無血開城へとつながった。

一方の倒幕側は、尊王攘夷から180度転向して、文明開化と富国強兵をいいだしたのは、ちょっと今のウクライナに似ている。
つまるところ、グローバル全体主義の軍産複合体に圧倒的な利益をもたらす「政策」だと気づくのである。

もちろん、「ええじゃないか」が関西で盛んになって、関東で「お陰参り」となったのも、幕府財政の破綻による超インフレが根底にある。
八代将軍吉宗公が、「米将軍」といわれて、江戸幕府はとっくに財政問題が深刻だったかに教育されるけど、幕末のインフレはこれの延長ではない。

わが国の基軸通貨である、金の「両」と、銀の「分」ともに、外国商人によって大量流失させられた。
情報操作の賜で、金と銀の国際相場をしらない、しらせない、現代用語でいえば「情報の非対称性」で、わが国経済を破壊させたのである。

それで生活破綻したひとたちが、一斉に「やけくそ」になったのであるけれど、儲けた外国人は誰か?を問うことをしないのである。

とはいえ、これが、「大暴動」にならなかったのは、ときの政府のおかげではなくて、「助け合い」の精神から?の、いや、被害を受けないための防衛としての「ただ飯」をみんなで振る舞って、なんとかその場をしのいだのであった。

つまり、「お祭り騒ぎ」に押し込めたのだ。

いまは、一般人が劣化して、あくまでも政府や警察による、権力でこれを押さえ込もうとするから、事故になるのである。

それでもなんでも、民衆のエネルギーを発散させて、集団から個人に戻ると「目が覚める」のは、「自棄のやんぱち」を永久に続けることができないことに気づくからで、幕府が奨励した「祭礼」によるエネルギー発散の施策が、ええじゃないかにも手を出さなかったことの答だろう。

それに、当時が「福祉国家」のはずもない。
自分でなんとかしないといけないという常識は、いまよりもずっと「厳しい」ので、街道筋には、「投げ込み塚」まであったのだ。

これは、「行き倒れ」たひとを「投げ込んだ」場所だけど、「塚」になるほどのひとたちが、行き倒れたということである。
おそらく、幽霊のようにさまよっていたひとたちが、ふつうにいたとおもわれる。

いまは皆無になったけど、わたしが子供時分には、けっこうふつうに「乞食」がいて、道端ばかりか各家を訪ねて無心するひともいた。
なので、親からは、「反面教師」として、ああならないようにと教わったものだ。

学生になったころの横浜の話題は、ようやく「ホームレス」という言葉が普及したのと時を同じくしたけれど、昼は路上にいて、夜は簡易宿泊所に住まっていた老人が、20いくつもの国家資格保持者で、なかでも弁護士資格すらあったことが報道されたのだった。

廃品回収でみつけた法律書をありあまる時間を潰すために読んでいたら、司法試験に合格した、というおそるべき事実で、しかも本人にはあくまでも「暇つぶし」という価値観しかなかったことが、話題になったのである。

これぞ、自由人の極み。

人類が農業をバカにするようになって、肉体的にも精神的にも「便利さ=怠惰」を極上の生活とみるようになったのは、一種の「旧約聖書による統一」が成功しているからであろう。

そこにある、「原罪」が原因の、労働からの「解放」をもって、神に近づく、とかんがえたからである。

しかし、農業が食料をつくっていることすら忘れたので、ぜんぜん収穫に「感謝」しなくなった「世界共通」がある。
わが国の「新嘗祭」は、これを「最高」とした価値観の表明だったために、GHQに潰されて、「勤労感謝の日」という不明になったのである。

そんなわけで、収穫祭(感謝祭は11月の第四「木曜日」)に集中していた時代の「名残」で、祭りの後の虚脱からくる「売上激減」に対処するために、ものが売れない販売者にとっての、クリスマスまでの「ブラック」な期間を逆転させて、「大売り出し」とした。

年に一度の割引販売が、「新嘗祭」の由緒を失ったわが国で、「お祭り騒ぎ」になるのは、これもグローバル全体主義化の賜なのである。

それで、なにをポチりましたか?

リズ・チェイニーが下院議長かも

アメリカをしらない。
お恥ずかしながら、自分のことである。

日本人は、アメリカ合衆国のことを習わないで成人する。
「アメリカ史」も、「アメリカの諸制度」もしらない。
実質的な「宗主国」といえる、「本国」のことをしらされないで成人させられるとは、典型的「愚民政策」である。

いま、アメリカ政界を揺るがしているのは、地元共和党から事実上「除名」された、いまやRINOと軍産複合体の代弁者を隠さない、リズ・チェイニー女史の、アッと驚く「連邦下院議長就任」というまさかの可能性なのだ。

もちろん、彼女は地元の予備選に「無所属」で出馬して、敗退した。
共和党員ではなくなっているのに、共和党候補の予備選に出馬できる、というのは、日本人には理解に苦しむことだけど、そこは「自由の国」なのだ。

だから、大統領選挙でも、民主党の予備選で「勝ちそう」になった、バーニー・サンダース上院議員が、一回も民主党員だったことがなくても構わないのである。

それに、バイデン氏を候補にしたかった民主党という組織は、党内予備選の最終局面で、サンダース氏に高級別荘を与える「協定」をもって、出馬辞退をさせ、このやり取りをまた、サンダース氏自身が「わたしは、別荘をもらってよろこんで辞退する」と表明しても、「自由」なのである。

サンダー氏の支持者たちも、「ガッカリ」を一時表明しても、別荘に転んだサンダース氏を「不道徳だ」として非難したりはしない。
自分のことに照らし合わせて、「さもありなん」とするのが、民主党を支持するひとたちの多数だからである。

もちろん、共和党保守派のひとたちは、これを、「卑下」するけれど、「他党のこと」として割り切る精神状態がある。
これも、世界一「潔癖症」な日本人には、理解に苦しむことなのである。

とはいえ、日本の政党で「党内予備選挙」を制度化しているところは、いまのところ参議院議員がひとりの参政党(党費を払っている「運営党員」による2/3以上の承認)のみで、あとはすべて「トップ・ダウン」で決まることになっている。

それで、選挙費用をまかなえる「財力」が候補の条件になる。
ただし、組織が選挙(資金も)を支える、公明党と共産党はこれとはちがうけど、どうやって候補になったのかは、外部者にはわからないのを「民主的選出」といっている。

なんだか、あっけらかんとしているのがアメリカらしいといえば「らしい」けど、どうしてこういう制度になったかは、それなりに歴史があることだ。
もちろん、わが国と比べたら10分の1ほども「新しく薄い」歴史しかないアメリカだ。

しかし、最初から「設計」されて建国したので、歴史の流れにまかせる傾向があるわが国とは、比べものにならない「論理」がある。

そして、その「論理」すら、わが国では教えていない。

そんなわけで、連邦下院議長に、議員でないひとが就任できるという「論理」は、ますますわれわれ日本人には理解できない。
しかしながら、「そうなっている」のが、アメリカ合衆国の「制度」なのである。

あたかも、共和党が「辛勝」したとはいえ、当初予想の「大勝」とはならなかったのは事実である。
もちろん、「変なこと」は、2020年のアメリカ大統領選挙以来の「風物詩」にもなっている。

一応、連邦下院での「多数党」にはなったものの、もう一つ、日本にあってアメリカにはない「制度」が、「党議拘束」なのである。
つまり、アメリカの議員は、「党議」なるものに、一切拘束されない「自由」がある。

だから、そもそも「党議決定」がない。

議員は、選出された「地元」の意向と、自分の「判断」だけに依る。
これが、「自分の名前」に有権者が投票することの責任なのである。
となると、日本の「党議拘束」とは、有権者への組織的な裏切り行為にほかならない。

拘束されるべきは、比例代表制による「党名」で当選した議員だけが対象でないといけない。

こんなにちがう、日米の議員だけれども、まさか、その議員たちが一致して民間人を議長にすると「決めたら」、それも民主主義なのだ。

国家の序列を書けば、国家元首たる大統領が一番で、二番が副大統領(連邦上院議長兼務)、そして三番が連邦下院議長の順となるのは、大統領職をもしものときに引き継ぐ順でもある。

わが国の場合は、国家元首が曖昧で、天皇なのか首相なのかは不明だから、とりあえず国際的には天皇、国内的には首相という位置づけになっている。
天皇の後嗣をどうするかと、副総理以下の序列を二重で決めている。

そんなわけで、RINO(名ばかり共和党員)も当選した連邦下院では、議長になんとリズ・チェイニー女史を指名する動きがある。

すると、国民の選挙で選ばれていない人物が、もしやバイデン大統領弾劾あるいは辞任と、カマラ・ハリスのダブル辞任で、まさかの大統領になってしまう可能性まででてきた。

この「可能性」こそが、民主主義で民主主義を殺す、「刺客」になるやもしれぬ。

それにしても、おそるべきは、民主党の戦略なのである。

「5年後の防衛」で生存できるか?

昨22日、首相は、「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」の報告書を受けとったという。
この報告書は、「防衛費の増額」、「ミサイル発射拠点などへの反撃能力」などを求めた、として、安全保障の「転換」だと報道している。

なにから転換したのか?といえば、「専守防衛」だといいたいのだろう。

わたしは、「大河ドラマ」というものを、1981年の『おんな太閤記』を最後に、ぜんぜん観ていないので、いまやっている『鎌倉殿の13人』の内容もしらない。

ただし、NHKのHPに、「三谷幸喜が贈る予測不能エンターテインメント!」と書いているから、正直といえば正直で、まさに、大河を歴史だと思ってはいけない、とNHKが教えてくれている。

だから、視聴者はこれは「嘘だ」と念じて観ないと、コロリと「洗脳」されて、テーマの時代の価値観と現代の価値観が「融合」してしまって、まったくの「勘違い」を促進される危険があるのである。

残念ながら、それがわかっていても、人間の脳はそんな器用なことはできずに、映像としてインプットされると、かならずや「記憶」に残る。
なので、正々堂々と視聴者を洗脳するのが大河ドラマの「製作意図」なので、観ないに越したことはない。

そんなわけで、日本は海に囲まれた島国だという、天然の要害だから、元寇だって追い返せた、と考えるのは間違っているし、台風(神風)のおかげでもなく、士気高き強い武士団のおかげだった。

ミサイル時代になれば、「海」が守ってくれるという発想も意味がない。

さらに、「占領」するには、「上陸作戦」が必須だという「軍事オタク」には悪いけど、そんなことをしないでも、いろんな方法で「恫喝」できるし、それに屈すれば、「無血」で、しかも「文化的」に征服されてしまうのだ。

わが国が「いま現在」置かれている状況は、以上のことから、建国以来最悪だといえる。
もちろん、ほとんどアメリカ軍だったGHQの6年にもわたる「占領時代」を無視したり低評価しているわけではない。

いまが最悪なのは、完全なる共産主義・全体主義国による支配が目前にあるからである。
むしろ、与党はすでに「半ば」文化的に征服されてしまっているから、「仕上げ」の段階になっているのだ。

さてそれで、「報告書」である。

防衛予算のための増税というカネの話は、優先順位が低いけど、マスコミはトップにあげて、文化的征服を早めようとしているから、先ずは無視していい。

簡単にいえば、命とカネとどちらが重要ですか?という問いに過ぎないからだ。
これを、「カネです」と宣伝しているのが、わが国を亡国に導くマスコミなのである。

重要なのは、「防衛力」の中身だ。

けれども、ぜんぜん勇ましくなく、今後5年を念頭に「反撃能力」の保有をすべく、十分の長射程ミサイルを装備すべし、となっている。
早ければ「年内」ともいわれている「台湾有事」を念頭にすれば、「5年」という期間の設定そのものが、ちゃんちゃらおかしいのだ。

もちろん、「狭くなった地球」を前提に、アメリカの政治動向とウクライナ戦争は一体だし、それによる「多方面作戦は不可能」というアメリカ自身の「発表」を統合すれば、どれほどの「真空状態」が台湾周辺の東アジアに発生したか?は、巨大台風どころではない。

兆円単位のカネを受けとったとされる、バイデン一家の所業から、どんなに親中かと思いきや、まるごと日本を献上するようなシナリオが見えてきた。
残念ながら、来年からやるという、共和党の「一家への追及」では、わが国の命運が先に尽きてしまう可能性がある。

バイデンが善、トランプが悪とした、マスコミの「勧善懲悪ドラマ」が、日本国民を洗脳した罪は、シナリオ通りになった暁には「英雄的行為」として顕彰されるにちがいない。
国民は、そんなマスコミの顕彰すらしらないで過ごすことになる。

また、「台湾周辺」という用語も、マスコミがつかうごまかしの言葉で、「沖縄から九州」も含まれる当然を隠す用語だと考える必要がある。

そもそも、わが国への物資のほとんど(原油も食料も)が、大陸と台湾島の間にあたる「台湾海峡」を通行している。
台湾島の東側である太平洋を通らないのは、通れないからだ。

海は海だということにならないのは、長大な「黒潮」が、太平洋側の航行を危険にして、船体を破壊する突如うまれる三角波の発生が、巨大船舶を襲うからである。

つまり、台湾島は、巨大で絶妙な場所にある「防波堤」なのである。

よって、台湾海峡が封鎖される「だけ」で、日本・韓国は自動的に「干上がる」ことになっている。
この「もしも」で、わが国は7000万人が餓死するとの予測もあるほどだ。

まさに、阿鼻叫喚。

たとえ米があっても、燃料がない。
燃料がなければ、運送もできない。
いまや火力が主力の発電もできなくなれば、水道も止まって下水処理もできない。

ついでに、原発すら、10年も運転を止めているから、再稼働のための「運転員」がすでにいない。

すると、北の拉致問題で一時脚光をあびた、アジア局長から外務次官になった佐々江氏が座長のこの報告書の「真意」とは、「絶望」を表記したものでしかないのである。

逆に、大陸の大国へ向けた、すさまじい「白旗」のメッセージを表明したことになって、かの皇帝は、「しめしめ」と笑っているはずである。
こんな状況を、『三谷幸喜が贈る予測不能エンターテインメント!鎌倉殿の13人』なんて歓んでいる場合ではないのだ。

現実は、完全に予測可能になってきている。