「ポスト資本主義」とは資本主義である

資本主義の成立が、どんな「条件」だったのか?
じつは、いまだに「わかっていない」不思議なのだと前にも書いた。
資本主義ではなかった人類社会は、どうやって資本主義になったのか?
この肝心なことが、うそみたいだが「わからない」のだ。

ただし、「人類史上」で、「1回だけ」資本主義の発生が起きたことは、「間違いない」から今の人類社会がある、ことになっている。

しかしながら、資本主義にならない社会もいまだにあるし、明治期の日本がアジアで唯一、資本主義社会になったのも、まことに不思議なことなのである。

それで、資本主義が爛熟した社会では、「ポスト・資本主義」が言われて久しい。
また、「ポスト・資本主義」をいうひとたちの特徴に、「資本主義を憎む」という信条が見てとれる。

一般に、「資本主義を批判」して、「否定」したのは、共産主義を発明したひとたちだった。
もちろんこのひとたちにとって、共産主義社会は理想社会なのである。
これを、「ユートピア」(「この世にない社会」という意味の造語から)ともいう。

しかし、「ユートピア」の言いだしっぺ、トマス・モアの小説『ユートピア』は、ぜんぜん「理想社会」なんてことはなくて、暗黒の地下に住むしかないひとたちと、明るい地上に住む人たちの「おぞましい」社会を描いている。

だからよくいう、「ディストピア小説」が、『ユートピア』なので、話が面倒になるのである。
ほんとうは、「ユートピア小説」といいたいけれど、「この世にありそう」という逆の意味なら、「ディストピア」の意味がある。

それでできたのが、「ディストピア小説」というジャンルである。

  

ジャンルとしていえば、最初の作品が、『すばらしい新世界』(1932年)だ。
ここに登場する、「ソーマ」という飲料は、戦後日本文学の金字塔と三島由紀夫が絶賛した、『家畜人ヤプー』(1956年)でも採用されている。

どちらも、いまでは、「古典」だ。
なお、『家畜人ヤプー』には、巨匠、石ノ森章太郎が描いたマンガが復刻されている。

次が、いわずとしれた作品で、本ブログでも何度も書いた、『1984年』(1949年)である。
そして、エヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』(1920年、1988年)がある。

『われら』は、『すばらしい新世界』より10年以上早くに書かれた作品だけど、ディストピアが現実化した「本場」のソ連で、焚書にされた経緯があるため、世界で存在がわかったのが、ゴルバチョフによるペレストロイカでの「デビュー」となったのである。

このジャンルには、もっとたくさんの作品群があるけれど、共通しているのは、「未来社会」であることと、「全体主義」によって極度に弾圧される人類の悲惨なのである。

だから、これらの作品に共通する価値観は、自由、である。

人間は、失ったものの価値は認識できるが、いつでもどこでもふつうにあると、その価値を認識することが甘くなる。
宇宙や水中での空気とか、砂漠での水とか。

何度も書くが、「自由」の重要な価値、でいう、「自由」とは、好き勝手な意味での自由ではなく、欧米人には「信教の自由」が初めにある。
神を信じることが、ふつうにできたことが、だんだんと、神を信じることが為政者から許されるようになった歴史があって、とうとう禁止されたからだ。

ここから、「だれにも命令されない自由」とか、「自分で決める自由」がうまれた。
なので、自己中で好き勝手が「自由」の正しい意味ではない。

この感覚が、古来、神を信じることがふつうのままである日本人にはわかりにくい。
むしろ、武将たちでさえ、「南無八幡大菩薩」とか、いざというときに「神・仏」という「なんでもあり」に無節操にも頼ったのが、日本人なのだ。

それがどうしたことか、明治初期に、「廃仏毀釈」なる激烈をやった。
おもに、神社の神官たちがやったとある。

もっとも日本的なひとたちが、もっとも欧米人的な行動をしたといえるけど、「打ち壊し」は、むかしの日本人たちの得意技なのである。
大正時代の「米騒動」もおなじで、われわれの3~4代前の日本人は、荒っぽいのである。

そんなわけで、ほんとうは「わからない」けど、「わかったことにした」のが、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』による、資本主義成立の条件の発見、である。

けれども、わたしにはこの主張より、『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(羽入辰郎、2002年)の方がより刺激的であった。

著者によれば、まったく信用ならないことになって、世界の名著の落とし所がないことに驚くばかりか、資本主義の成立そのものが怪しいことになっている。

つまるところ、巷間いわれている「資本主義」は、じつは存在していない。

なので、われわれが信じて疑わない、「資本主義」なる幻想の次にやってくるのは、マルクスの催眠術にかかったかのような、共産主義・全体主義ではなくて、あくまでも、「自由主義経済社会」なのである。

これを、資本主義というとややこしい。
しかしながら、ふつうは、「自由主義経済社会」のことを資本主義という。

いま、世界で「自由主義経済」を「統制」しようとしていることこそ、「反動」なのである。

目先の損得勘定はさいごに損をする

むかしからいわれてきた言葉が、本当の意味を発揮するのが現代の「情報化社会」なのである。
それは、ひとつの情報が「拡散」される、スピードと広さや深さが、「口コミ時代」とは、格段にちがう「別世界」だからだ。

しかも、「近代人=経済人」だという定義が、あやしくなってきたのも最新の分析で、ちょっと前までの、「合理的」な人間なんて存在しないことは、もう、マーケティングの常識にもなっている。

そもそもが、「経済人(経済的人間)」とは、『ロビンソン・クルーソー』を典型としたものだ。
この作家がつくった架空の人物は、絶海の孤島での暮らしに、「貸借対照表」を用いて、合理的でムダのない行動をもって生きのびようとする。

わたしは、このエピソードで彼の行動に感心するのは、「貸借対照表」を書くことではなくて、忘れないように、あるいは、後から確かめることができるように、「書くこと」をちゃんとやったことにあるとおもっている。

企業再生の現場にいて、企業再生(倒産)に至ってしまった経営者たちを観察すると、おおくが、書かないで記憶に頼っていることを発見したし、書いたとしても、それは自分のためではなくて、だれかに指示をあたえるためという、目的のちがいをみつけたからである。

しかして、ロビンソン・クルーソーは、島から救出された後、さまざまな事業を成功させる。
そのなかに、当時の英国人たちが「常識」としていた、「阿片貿易」もあって、やっぱり作家はこの人物を大成功させる物語を書いた。

ゆえに、わたしは、経済学者がいう、経済人としての、『ロビンソン・クルーソー』を「必読書」ということに、おおいなる疑問を抱いている。
詰まるところ、どうしてもこの架空の人物を、「経済人=近代人」としたいとする、経済学者がほんとうに経済をしっているのか?とおもうからだ。

もちろん、経済学者がいる「業界」では、学部1年生の必読書としている優秀校はいまでもあるかとおもうのは、その「業界内」での常識とされているからで、この意味で、あんがいと「惰性=慣性の法則」がはたらいているとかんがえる。

「まとも」に、阿片貿易とそれがもたらす厄災をかんがえたら、これを正統な経済行為と呼んでいいのか?という、「倫理」の問題を無視することの「必読書」であると位置付けるならば、相当にトンチンカンだと思わざるをえないからである。

あえて、英国をほんの少し擁護すれば、アヘン戦争を議会で議決するにあたって、過半数のわずか数票差だったことと、反対派が敗北した後に出した、「後世の赤っ恥になる」という声明の健全性だけはあったとつけ加えるべきものだとはおもう。

まぁ、英国にも「良心」はあったのだけれど、アヘン戦争を敢行した歴史的事実が変わるものではない。

また、重大な決議をする場合は、アメリカ連邦上院議会にある、単純過半数という方法ではなく、60%にあたる「賛成60票」がないといけないことがあるという工夫も、英国議会は採用しなかった。

もちろん、わが国も、「憲法発議と参議院否決の再可決以外」はぜんぶ単純過半数だ。
いまの自民党は、「絶対安定多数」(全常任委員会で委員を過半数確保したから委員長を独占する)になっているけど、2/3ではない。

そんなわけで、予言通り、「後世の赤っ恥になった」のであるけれど、それで奪った「香港」の返還にあたって、これを中共政権に返した、という、これまた「後世の赤っ恥になる」ことを、サッチャーをしてやらかしたのを「律儀」と呼んでいいものか?

話を整理すると、ロビンソン・クルーソーが典型的な経済人だというのは、狭い意味ではそうだけど、広い意味ではぜんぜん「資本主義的経済人ではない」ということだ。

ならばなにかといえば、「前資本的経済人」なのであって、これは人類史における、中世までの大金持ちとなんらかわらない価値観なのである。
するとまた、強い倫理や道徳社会にしか登場できない、「資本主義」は、英国で成立したのか?という大問題にたどり着くのである。

もしも、英国において資本主義は成立なんてぜんぜんしていないのに、ただ現象としての「産業革命」をもって、これを、かっこつけて「資本主義」と呼んでいるだけになるし、「共産主義から勝手に演繹した」つまり、共産主義を説明するだけのために、つくりだした架空の概念が、「資本主義」ではないのか?

これを、わが国の歴史にふってみれば、だれも江戸時代が資本主義社会だと認識していないだろうに、なぜかいまでも、江戸時代の「経済感覚の格言」に意味があってしかも「深い」ことをどうするのか?になる。

たとえば、「安物買いの銭失い」とか。

それでもむかしの方が、「損が限定的」だったのは、安物を好んで買う人「だけ」が損をしたからだった。
いまは、QRコードとかで電子決済をすると、数パーセントの割引になる、という方法での「安物買い」になっている。

しかし、この方法が普及すると、決済方法のシステム提供者に支配される、という「超恐怖社会」に近づくことを、まったく警戒していないから、警戒している「他人」も、最後には「社会制度」として巻きこまれてしまうのである。

たかが数パーセントの割引になる、とはいえ、どうして安くなるのか?をかんがえないで、まるで「写真を撮られると魂が盗られる」とした、原始人を嗤うがごとくのひとたちが多数になっているけれど、こと電子決済の恐ろしさは、この真逆なのである。

たかが自分の個人データなんて、大したことはない、のは、個別にみたらその通りかもしれないが、スマホにあるぜんぶの個人データが抜き取られていて、それが「ビッグデータ」になった途端に、威力を発揮する。

システム管理者に「気に入らない」と指定されたら最後、決済不能にされたら、それはほんとうに「死」を意味することになる。
自分の口座に入金しないばかりか、「現金が廃止」されたら引き出すこともできないし、なにもかも消費することができないのだ。

目先の損得勘定はさいごに損をするのだが、だれもこんな重大なことをいわないのが、もう「はじまっている」証拠なのかもしれない。

郷愁の「肉野菜炒め定食」

日本における「中華料理」のおおくが、「町中華」という進化をとげて、いかにも和食化したのは、外来文化を消化・吸収してしまう、おそるべき日本文化のなせる技でもある。

これは当然に、「洋食」というジャンルでもおなじで、「本場」にない料理があたかも外国発祥として扱われながら、じっさいは和食化しているのである。

たとえば、スパゲッティ・ナポリタンは、来日したイタリア人には「初見」となる料理で、ケチャップでパスタを炒めることの無謀に、最初は愕然としながらも、一口ほおばれば、その味の虜になりながらも脳内では混乱がしばし続くようである。

ぜったいにイタリア料理ではない、と。

これは、海外の日本料理店でも、あるある話になっているけど、たいがいの日本人は、それをけっして「うまい」とは感じないことに特徴がある。
「やっぱりちがう」ということに、妙に安心感をえるのだ。

しかも、海外で成功している日本料理店は、どういうわけか中国人とか朝鮮人の創業オーナーで、ほとんど日本人オーナーがいないのも、「テキトー」な料理を提供することに躊躇する、日本人の律儀さだと分析されている。

その原因の最たるものが、食材になる。

流通の発達が、昭和50年代程度でとまっているのがあたりまえの外国では、ということもあるけど、まず不可欠な新鮮な魚介類の入手が困難だし、鰹節や昆布といった日本料理の命となるダシの材料もない。
厳密には、「硬水」がふつうの外国でダシもうまくとれない。

ようは、食文化の素地がぜんぜんちがうので、ダシにいたっては、カツオ風味とかいう化学調味料を用いるしかないという妥協すら、日本人の料理人には許しがたいことなのである。

ところが、日本食の料理人の需要が高まって、賃金水準が格段にちがうようになったので、和食料理人の海外流出(出稼ぎ)が話題になっている。
年収にして5倍はちがうとなれば、たしかに、となる。

あたかも「出稼ぎ」といえば、短期のイメージだけど、あまりの賃金格差から、いったん出たら、めったに帰国できないことになる。
おなじ仕事をしても、日本では「喰えない」からだ。

ために、職人ほど英語やらの外国語習得が必要になっていて、文学や論文を読むのとはちがう、現場会話力の語学力なのである。
この需要に、わが国の学校教育は応じるはずがない、というへんな義務教育になっているし、「TOEIC」にはまるサービス企業も気づかないのは間抜けなだけか?

ときに、外国人富裕層が、健康によろしい日本食マニアの傾向があるから、お抱え料理人としての需要もある。
すると、あんがいと栄養学の知識が、料理人に求められるのは、外国人の合理主義が前提にあるからだ。

もちろん栄養学の基礎には、化学がある。

原子の組成から、電子の振る舞いを理解して、化学反応こそが料理の根本をなす。
どうやってダシをとるか?とか、包丁の技、はこれらの応用となるのだ。
すなわち、21世紀の職人とは、じつは化学や物理を基礎とする、「理系人」でないと務まらない。

そこにまた、食材という材料を供給する、第一次産業(農林水産業)の存在が必須なのである。

しかし、困ったことが二つある。

日本における第一次産業の衰退に、歯止めがかからないばかりか、促進させているのが政府だからだし、栄養学への疑問が存在する。
既存の栄養学のいう、食事療法がほとんど効かないのに、既存の栄養学を後生大事にした資格制度を維持しているのである。

これに、政治がからむのは当然で、学者のなかでの政治もふくまれる。

既存の栄養学が、既得権になれば、なにを好んで変える必要があろうか?
このとき、栄養学をべつの分野に置換すれば、たとえば、医学とか、がすぐ浮かぶのは、「公的健康保険点数制度」という共通にたどり着くからである。

ようは、料金体系が決まっているだけでなく、治療方法も決められているから、ここから逸脱することは、たとえ名医でも不可能なのだ。

それでもって、農林水産業も、先進国最低の自給率にするという政治だけでなく、肥料や農薬の原材料も外国から調達するしかないなかで、最大の供給国のロシアから敵国認定されて、行き詰まってしまった。

すると、「肉野菜炒め定食」が、食べられない、という状況になる可能性が高まっている。
定食の基本構成要素である、ご飯とみそ汁も同様だ。

価格が高騰するならまだしも、メニューから消えるどころか、町から食堂が消えるかもしれない。
原材料の入手困難と、ガスなどの不足がそうさせる。

人手を吸収している産業としてみたら、こうした政策は、底辺の劇的拡大という事態になって、世の中を不穏にするけど、それがまた、狙い、なのだ。

人間は、寝だめも食いだめもできないけれど、いまのうちに肉野菜炒め定食を気軽に食べられる幸せをかみしめておいた方がよいから、できれば小学生に教えておきたい。

しかも、栄養学的にバランスがとれた、いわば完全食なのだ。

いまの小学生に肉野菜炒め定食の記憶を焼き込めば、あと60年とか70年ぐらいは、「郷愁」として、語り継がれることだろう。
ただし、聴く側のひとたちが、それはどんな料理で、どんな味だったかを想像することもできなくなっているやもしれぬから「古代食」になるかもしれない。

使い捨ての政治家たち

世界最大の権力者は、現代のローマ帝国である、アメリカ合衆国大統領だとおもわせられてきたけれど、じつは「使い捨てカイロ」のような存在だった。

「ディープステート(DS):闇の政府」を、はっきり口にしたのは、アイゼンハワー大統領が退任するときの記者会見が最初だった。
このひとは、アメリカ陸軍の元帥にして、戦時中はヨーロッパを担当した「連合国遠征軍最高司令官」だった。

おなじ「元帥」でも、マッカーサーが語ったのは米軍から授与されたものではなく、「フィリピン軍元帥」のことなので、ぜんぜん格がちがって、大統領を目指して頓挫したから、一枚も二枚も上手なのは、アイゼンハワーの方である。

それに、アイゼンハワーが「アイク」と愛称で呼ばれた、「陽」であったのに、マッカーサーは典型的俺様型の、「陰」キャラであった。

今年の正月3日に召集された、アメリカ合衆国連邦下院議会は、中間選挙の後を受けた新議会で、その議長選びについては前に書いた
この一連の出来事で、トランプ派から委員長になった議員が「DS」に言及したことがニュースになった。

バイデン政権と闘う、ということはすでに議会共和党(トランプ派)の目的ではなく、DSを壊滅させることだと示唆し、それからトランプ氏自身もこれに直接に言及して、正式に「敵認定」したのである。

そんな経緯があったなか、バイデン氏にも機密文書問題が発覚した。

トランプ氏の機密文書問題は、当局に協力的であったのに、作夏に突如、前代未聞のトランプ氏別荘(前大統領宅)への強制捜査をしたことで、おおくのアメリカ人が憤慨したが、これを「トランプ悪人説」で徹底的に煽ったのがバイデン氏本人だったから、まったく始末に負えない事態になっている。

けれども、今回のバイデン氏がやった機密文書問題は、敵対する共和党側が動いたことを発端とせず、「身内」である弁護士が見つけたと発表しているからへんなのである。

なんで、バイデン氏の弁護士が、バイデン氏を貶めることをするのか?

まことに理解に苦しむことになっている。
それに、最初にリーク情報を報道したのが、いわゆるメインストリームの左派メディアだったので、わが国でも同様の左派メディアが、手のひら返しでやっぱり報じている。

どうして、隠蔽しようとしないのか?という、わけのわからなさがあるのは、これらのメディアが民主党を支持して、欺瞞だらけの報道をトランプ氏に対して徹底してきたからである。

それで、民主党は、「バイデン降ろし」を開始した、という憶測が流れ出した。

本人は、2024年の次期選挙に意欲をみせて、2期をやるつもりらしいが、どうやら民主党が見限りだした、というのである。

アメリカ議会は、上院が「人事」を管轄するので、この度の中間選挙で上院の主導権を維持した民主党は、下院でバイデン氏を弾劾起訴されても上院の弾劾裁判所は否決できるから、これもトランプ時代と似ている。

しかしどうやら、狙いは「辞任」させたいのではないか?

それはメインストリームも「本物」と認定した、息子ハンター氏のパソコンから発覚した恐るべき情報が、民主党を壊滅させるほどの内容だからだともいわれるのは、下院議会共和党がこれを調査すると明言したからでもある。

それで、既定のシナリオ通り、無能なカマラ・ハリスを大統領に据えれば、よりコントロールしやすいと考えているのかもしれない。
2年前からくすぶっている副大統領に、ヒラリー・クリントンを選んで、2024には再びヒラリー対トランプの闘いにするのか?と。

しかし、おかしいのは、今回の騒動が、機密文書問題を発端にしたおかげで、ヒラリー氏には国務長官時代の機密文書問題が再燃すること確実だから、そんな強引なシナリオが現実にありうるのかが疑われる。

もっとも、共和党下院では、「政治とカネ」の関係を調べることも表明していて、クリントン大統領、オバマ大統領たちが、大統領時代に「蓄財した」ことを名指しして調査対象としている。

トランプ氏のばあいは、大統領時代に、大幅に個人資産を「減らしていた」ことが、建国以来の異常ともいえることになって、納税情報まで裁判所から公開命令させられる前代未聞にもなった。

もちろん、トランプ氏サイドも当初は抵抗をみせたが、連邦地裁判決を受けてあっさりと公開に及んだ(控訴しなかった)のは、これが将来、バイデン氏やクリントン氏、オバマ氏にもブーメランになると見込んだからだと解釈されている。

肉を切らせて骨を断つ、という戦略だ。

トランプ氏は、大統領報酬を全額ボランティア活動に寄付していたことが噂と本人の話だけでなく、納税情報から明らかになって、そんなバカなやつはいないと信じた民主党に衝撃となったのである。

いまだけ、カネだけ、自分だけ、の価値観しかない民主党にとって、トランプ氏の価値観は、ありえないファンタジーだったものが、本気の人物だった。

こんななか、突如ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相(42歳)が、19日、突如、首相辞任を表明した。
ダボス会議の最中だから、様々な憶測を呼んでいるけど、次期選挙にも出ないことも明らかにした。

どうしてここで「ダボス会議」がでてくるのかといえば、世界経済フォーラムの主宰者、クラウス・シュワブ氏が組織している、若手政治家育成プログラム(ヤング・グローバル・リーダーズ)のメンバーだったからだ。

このなかに、フランス大統領のマクロン氏や、カナダのトルドー首相もいる。
日本人の名前が見あたらないのは、DS支配が完結しているからだろう。

アーダーン氏は、厳しいロックダウン政策で、一躍ときのひとになったけど、その素性が「極左活動家(全体主義者)」だったことがバレて、国民の支持を急速に失ったのである。
似たような現象が、カナダやフランスでも起きている。

すると、やっぱり焦っているのは、クラウス・シュワブ氏そのひとで、とかげの尻尾切りをやっているのかもしれない。

DSは、複雑な連絡体系をもっているから、ひとつの組織だけを指すことができない(「世界経済フォーラム」や、「SES」など)けれど、世界の認識は、与太話から「現実」に確実に変化しているのである。

地上の支配者は植物である

夢とロマンで、宇宙探査をやっている、とは本当か?

なんとなく「おおらか」でよいのだけれど、夢とロマンだけでなにかができるのは、人類でも希少種の日本人(大和民族)だけではないかと、さいきんとみに思うようになってきた。

人類を相変わらず支配しつづけようとして、いまや汲汲としている白人種は、そんな「やわ」な発想はしないからである。
でないと、税金を湯水のように宇宙開発に投じて、うつつをぬかす者たちに配分なぞしない。

それが具体的な目標になったのが、「火星移住計画」だし、太陽系以外にも移住できる星はないかと探す、「惑星探査計画」なのである。
日本の「JAXA(宇宙航空研究開発機構)」がいう、宇宙の謎を解くための「夢とロマン」が異様にみえる理由なのだ。

要は、あくまでも「実利がある」としてしか、税金投入の口実ができないのが、白人社会(民主主義)なのである。
「そこにロマンがある」で通じるのは、日本人だけだ。
この「おおらかさ」が、唯一白人社会に対峙できた理由ではないかと思う。

だから国民もそのロマンのために、税金が使われることに異存はなかったけど、だんだんと資材調達が利権化してしまった。

いざ探査の対象となる惑星をみつけたとしたら、まず調べるのが、気温や気圧、それに大気組成と水の存在だ。
火星でも、いまのところ微生物らしき痕跡があるようだけど、もしも、生命体がみつかったら、なにを調べるか?をかんがえると、量と種類になるだろう。

これを、異星人からの「地球の発見」にあてはめると、どう見えるのか?

地球のばあい、総重量で最大の生物はなにかといえば、圧倒的に植物だし、その種類も豊富だ。
次が、総重量なのに微生物になる。

シェアがない動物のなかで、さらにシェアがないのが人間なのである。
もちろん、希少動物は人間の他にたくさんあるけど。

この実態を、発見者たる異星人がどう評価するのかは、あんがいと簡単で、植物におおわれた惑星だと定義するはずだ。
それから人類の存在に気がついて、どんな生物なのかを調べたら、植物をいじめる者たちだと定義される。

植物が必須の餌とする、二酸化炭素濃度を減らそうと画策する、へんな行動をしているからだ。

もちろん、異星人は、地上の生物の生存条件を探るにちがいない。

その全ての栄養素が、植物由来だと気づけばなおさらである。
それに、元素や素粒子からなるのは地上の生物も、異星人もおなじはずなので、二酸化炭素濃度を減らす努力とは、自殺行為だと判断するにちがいない。

となると、異星人たちは、人間の精神鑑定をやりたくなるだろう。
それで、自殺願望がある人類と、そんなことはない人類と、なんだかかんがえがまとまっていない人類とに3分類できたら、なにを意図するのであろうか?

どこか人類にはわからない星からやってくる、はるか先の科学力をもっているはずの、この異星人は、そもそもどうして地球を探査するのか?という動機をかんがえないといけないけれど、人智を超える可能性もある。

その理由が、ロマンだから、だったら、なんとなく気持ち悪い。

そうすると、あの大戦争で日本を征服した白人たちが、二度と逆らわないようにする、と決めたことの意味は、真剣でかつ永遠のテーマなのだとわかるのである。
一時の気まぐれや思いつきではない。

これが、いまだに「征服が解除されない」ことの理由だけど、日本人本人たちにはこれを隠して、独立していると思いこませている邪悪がある。

しかしどうしたことか、異星人も気づくように、これら地球の白人たちが自殺願望をもって弱りはじめている。
今年も、世界経済フォーラムがスイスのダボスではじまった。

ときを同じくして、アメリカでは「ガスコンロ使用禁止」の政治キャンペーンがはじまって、それが、コロナ・パンデミックと同様の、「恐怖感」を煽る手法なもんだから、さすがに「おかしい」という声で内輪もめになっている。

なんでも、アメリカでの小児ぜんそくの原因がガスコンロらしい。

こんな「屁理屈」をいうのは、もう、黙っていられなくなったのが、支配する方になったからだろう。
これに黙っていられなくなったひとたちが、多数、訴訟で対抗している。

焦っているのは、世界経済フォーラム側なのである。

そんな空気も読めない、神奈川県民の生き恥さらしのお二人が、大臣の肩書きでスイスに出かけた。
横須賀の小泉進次郎氏と、平塚・茅ヶ崎の河野太郎氏だ。
このひとたちは、金の匂いに釣られるだけの愚か者である。

もちろん、ワシントンで機密文書問題から逃げたいバイデン氏を、みごとに庇った、同盟者の岸田総理大臣は、この二人の出張許可を悦んで出したにちがいない。
すると、公費での外国旅行だから、国民はロマンがあるとして許してくれるばかりか、当然だと思っているのかしらん?

「アイヌ新法」という分断と、「ふるさと納税」という自治の財源破壊をやって、全国最高額の市民税流出となった横浜市にした元凶を、横浜市西区、南区、港南区のひとたちは、ウルトラ小さな白人化を遂げて、菅義偉氏を落選させず、自殺願望の成就こそが「生きる道」だと信じているのか?

そんなことはなく、政治家本人たちも、これに疑いなく投票するひとたちも、みな、思考することをやめた「大衆」のなれの果てなのである。

異星人は、ここまで探査して、絶望したのかもしれないし、あくまでも、植物が支配する星だと結論づけたかもしれない。

だがもっと科学が進んでいるならば、5億光年先の宇宙の壁にあるという、量子で書かれた宇宙の全情報をとっくに把握しているかもしれない。
だとしたら、現場の地球とこの情報を突き合わせて、地球の未来を確信して立ち去ったのだとすれば、取り残されたのは我々の方なのである。

バカは相手にしたら損だと。
そうして、人類亡き後の地球に移住するチャンスを待っているかもしれない。

そうそう、ダボス会議でEUのフォン・デア・ライエン委員長とフィンランドの首相は共に(たまたまふたりとも女性だ)、「ウクライナをロシアが負けるまで、永久戦争とする」ことを表明して、本格的に第三次世界大戦にしたいようだ。

遠くで、異星人がニヤニヤしながら観ていることだろう。

言葉の乱れは社会の乱れ

日本語を母語にしているから、日本人は日本語の達人か?といわれれば、困ってしまう。
わたしが使っている日本語は、正しい日本語なのか?を確かめる術が生活の周辺にないからである。

むかしは、NHKのアナウンサーが話す日本語が、正しい日本語だと習ったし、信じていたけど、それは、明治期につくられたあたらしい「標準語」なるものを起点にしていた。

そのNHKが、1985年(昭和60年)に、『ドラマ人間模様 「國語元年」』(井上ひさし原作)として放送したのを思い出した。

横浜には、ラッキーなことに全国でここだけの「放送ライブラリー」があるので、久しぶりに足を運んできた。
本作は5回シリーズであったけど、残念ながら初回分しか登録がなかった。

しかし、その出演者たちの多くがすでに鬼籍にあるかと思うと、時間の経過とこの作品の現在的価値の高さが身に沁みたのである。

まさにアーカイブの価値を発揮している。

放送ライブラリーでは、鑑賞のためブースを指定されて、その利用時間は2時間まで/回/日となっている。

自席で検索して視聴する番組などを選ぶのだが、同時に1983年(昭和58年)3月7日に教育テレビで放送された、『日本語を決めたのは誰だ(1)「戦後国語改革」』がヒットした。
これも全2回のうちの初回放送分だけが視聴できる。

これら2本を合わせても、既定の2時間に収まるのでついでだから両方とも観てきた。

ハッキリ言って、みるべき観光地なんてめったにない横浜で、この「放送ライブラリー」は、全国的に稀有な施設だから、たまに横浜を観光したいという向きには、お勧めなのである。

もちろん、入場も何もぜんぶ無料である。
放送文化に浸った後は、徒歩で中華街にも行けるけど、いまやお勧めできるお店が限られるのが難なのだ。

なお、『國語元年』は、放送後に舞台用としてシナリオが出版されている。

なので、続きはシナリオで確認したい。

蛇足になるが、このドラマは一応事実から書き起こしている。
江戸時代の中央集権はかなり緩くて、全国に「お国言葉」が蔓延っていたから、地方出身者が集まると言葉が通じないのは、コメディーではない。

最大のネックは、「富国強兵」のための国軍の指揮命令に、上官(薩摩、長州、土佐とか)の発する言葉がその他からの兵に通じない深刻だった。
それで、「話し言葉の統一」という、かつての天下人も成し得なかった偉業をやれと命じられた、上級役人を主人公にする人間模様なのである。

新政府を仕切った「薩・長」間で仲が悪かった理由に、薩摩弁と長州弁の互いの言葉が通じない、という基礎的な指摘は納得以外にない。

為政者にしてこれだから、日本語の統一は、フランス革命で「唯一の成果」といわれる、「フランス語統一」に匹敵するか、それ以上の難易度だった。

それでも、日本語統一が深刻な政治課題であったことと、「言文一致運動」とが結託して、いまに続く日本語になったわけではない。
それが、「戦後日本語改革」という、巨大な日本文化への破壊工作だったのである。

たまたまヒットしたことで、理解が深まったのはたいへんありがたいことだ。
もちろん、NHKの意図は、この逆だろうけど。

日本人は、「敗戦」を「終戦」といったり、「征服」を「占領」と言い換えたりして、自己欺瞞をしている。

8月15日は、確かに「終戦=停戦」と「武装解除命令」が出た日ではあるけれど、9月2日にちゃんと「敗戦」している。
『降伏文書』に調印したからだ。

しかし、我が国が降伏した理由は、『ポツダム宣言』の「受諾」を根拠としているから、降伏もポツダム宣言に基づくことに同意したという意味なのである。

何度も書くが、我が国が「無条件降伏」したのは、陸海軍という「戦闘組織」だけであって、日本国政府は、ポツダム宣言の範囲で、という、「条件降伏」をしたのである。

にもかかわらず、マスコミは「無条件降伏」としかいわないで、政府なのか軍なのかをはっきりいわない欺瞞を国民になすりつけているし、学校でも戦争前までしか教えない欺瞞をやっているので、直近の近代史をしらされないで、しらないままに成人するというおぞましき事態になっても、これに気づかせないから気づかない。

「条件降伏」だったものを天皇を人質にして大っぴらに破って、日本を「征服にやってきた」GHQは、早速に日本語を「ローマ字表記」させようと画策する。

これに呼応した日本人学者は多数いたし、いまもいる。
わたしが尊敬している、梅棹忠夫先生が、どういうわけかローマ字表記論者だったのは、いまだに理解できない。

けれども、この解説番組を観て、一つのことがわかった。
それは、知識人たちによる上から目線の、一般人に対する「憐憫(あわれみ)の情」なのだ。

かんたんにいえば、バカにしているのだけれども、それを「民主主義」とか、「庶民の文化向上」と甘言をいっている。

漢字の数を減らして、簡略化もし、やさしい表記にさえすれば、国民文化は発展向上するのだ、という。
それが証拠に、世界に誇る新聞の普及や出版文化がかくも花開いたではないか、と。

共同通信のえらいひとが、活字の種類が減ったのが、出版社の発展に寄与したという、知能を疑う「珍説」を真面目に語るのを初めて聞いた。
それでいまの共同通信があるのだと納得できた。

これら「表音派」に対して、「表意派」は、何をバカなことをといいながら、これがGHQの企図した「愚民化工作」なのだということに、どこまで気づいていたものか?までには及んでいない。

あえていえば、「表音派」は、損益計算のごとく「フロー」を主張し、「表意派」は、文化の「ストック(資産価値:貸借対照表)」を掲げての対立という不毛が、政治利用されたのだった。

しかし直感的に怪しんだその代表者は、やっぱり、福田恒存氏であった。
氏の生前の映像と音声が聴けただけでも、価値がある。

いま、言葉の乱れを超えて、文化の劣化をどうみるのか?を問えば、まさに福田氏のいう通りの事態(「もうどうにもならない」)となって、出版文化の向上どころか無様こそ物的証拠にもなっている。

もう、いまでは、珍説を述べて政治力を行使した人たちの責任を問うひとも絶えてしまった。

一度破壊された文化は二度と元には戻らない、は、近代日本人が世界に示した「実例」として、歴史に刻まれたのである。

まぁ、お隣の大国も、「文化大革命」をやって修復不可能にしたし、半島の南側も、「ハングル文字だけ」にして、もう漢字を使うこともできなくなったから、なんだか東アジアという地域は、歴史や文化の破壊がお好きな共通があるのであるけれど。

「底辺女性史」の底上げはあるか?

映画やテレビドラマに出演する「女優」を「俳優」というようになったので、いまや出演者を指して、「女優と男優」という区別をするのは、アダルト・ビデオ(AV)の世界に限られるようになってきた。

そのアダルト・ビデオ業界も、いわゆる『AV新法』(22年6月23日から)によって、なんだか混乱している。

ことの発端は、新民法で決まった、「18歳を成人とする」ことだという。

要は、現役高校生がAVに出演できることが問題になったのである。
これまでだったら、出演契約を本人が単独で締結しても、親(いまでは「父兄」ともいわず「保護者」という)が、未成年を理由に契約解除を申し入れて、実際に合法的に解除させることができたのだ。

だから、製作会社側にとって、本人の年齢確認を事前にしっかりしておかないと、あとで損失になるから、かなりの出演防止のための効果があったのだ。
この自然の損得勘定による防止法に、強制を図ったのが新法なのであった。

なんだか、「家電リサイクル法」と似ているのは、どの省に属していようが、所詮は内閣法制局の目を通るので、どんな法案も「統一」される官僚制の性ではある。
自治体が始末してくれていた大ゴミやら、民間の「ちり紙交換」を絶滅させた、悪法(支配者にとってはリベート利権をつくった)とおなじなのである。

法制局にいわれなくとも、わが国の「優れた」官僚制度は、法体系の整合性をかならずとる、という掟を破らない。
なので、さまざまな法律を新規で制定するときに、過去の法律との整合性を壊さないようにも気をつかう。

このために、立法権が事実上、行政府の内閣に移転した。
その専門部署にして最強の部隊が、内閣法制局なのである。
検察官からなる、法務省ではないことに注意がいる。

内閣法制局には、各省庁からのエリート法務官たるキャリア官僚が「出向」してきて、自身の出身省庁担当者と法案の摺り合わせだけでなく、法体系上の整合性もチェックする。

これで、内閣法制局参事官以上の役職を連続5年以上務めた官僚は、退官後、弁護士登録ができるという特権までもっている。
ちなみに、司法試験を経ないで弁護士になるには、大学の法学部教授職を5年以上やると平成16年まではなれた。

それで、大問題になったのが、「2007年憲法改正に備えた国民投票法」だった。
ここで、国民投票ができる国民が、18歳以上になったのである。

どうして18歳以上にしたのか?は、よくわからない。
超高齢化と少子化という二大問題が、考慮の背景にあることは確かだろう。
けれども、この規定が通ることで、明治9年(1876年)の太政官布告以来の20歳成人との整合性が崩れたのだった。

ただし、この布告前は、武家の男子なら13歳くらいで元服式があったし、女子は初潮がきたらもう結婚適齢期だった。
なにせ、平均寿命が40歳とか50歳だったのである。

ついでに、「数え年」から「満年齢」にしたのは、明治6年の太政官布告だった。
とはいえ、これは法令上のことで、わたしの祖父(明治36年生まれ)は、生涯「数え年」がふつうだったし、メートル法ではなくて尺貫法でないとピンとこなかった。

さてそれで、ことが憲法に関することなので、成人を18歳に揃える、ということになった。
ここから、テクニカルな関係法の整備という、お役所仕事がはじまる。

つまり、「法」と「一般常識」との整合性を無視した乱暴を、いまも政府はやって恥じない。

ために、タバコとか飲酒は「20歳から」という、なんだかわからない「特例」になって、そもそも社会にとって「成人」とはなにか?の定義からぜったいに切り離せない、「責任」が曖昧になったのである。

これは、おそらく、原案を作る側のひとたちの「無責任」が表面化しただけで、こんな薄っぺらな人物たちが、知識としての法律をしっている、というお粗末になった。

だから、まさか底辺の「AV」のことなんか気がつきもしなかった、のではないか?
それでもって、慌てて「新法」をつくることにして、公聴会も1回だけしか開催しなかった。

ここに、いい悪いが逆転した、「優しさ」(の押しつけ)が、見え隠れする。

とにかく、AVに出演する女性は売春婦同様の保護が必要で、こんなものに出演していい気になっている男優は男の風上にも置けない愚か者だ、というエリート男性目線だけが見て取れるのである。
なお、エリート女性にもこの男性目線をもっているひとがいることがある。

すなわち、これは、いまどきの「底辺女性」対策法、なのだ。

しかし、とっくに社会は成熟から爛熟に移っていて、一つの価値観でしか行動できない政府の限界と、それがまた、弾圧になることの恐ろしさも気づいていない。
そして、わが国には「伝統的左翼」すら、雲散霧消したのか?と疑わざるをえないことにもなった。

伝統的左翼には、「労働」の概念に、売春もあったのだ。

これは、社会が総じて貧しかったことからの、「わかりやすさ」でもあった。
よくいう「女工哀史」がまだ高級(恵まれていた)だったのは、ふつうに「身売り」があったし、下手をすれば「間引き」されたからである。

その傑作ルポが、山崎朋子『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』(1973年大宅壮一ノンフィクション賞)だった。

なお、このおなじ年には、いまでは入手困難な、『明るい谷間 赤線従業婦の手記』(新吉原女子保健組合編、土曜美術社)という名作もある。
ただし、こちらは吉原の最後のときだったので、「遊女」たちの教養はいまの国文科女子大生の比ではない。

この意味で、いまどきは風俗業勤務だからイコール底辺といえるのか?という問題にまでなっていて、かつての宿場町にふつうにいた「飯盛(めしも)り女」やら、江戸の共同浴場にいた、「湯女(ゆな)」と単純比較することはもうできない。

それでも、「新カラユキさん」や「新大久保のたちんぼ」が話題になるのも、昨今のわが国の貧困化の姿でもある。
しかして、人類最古の職業とされるものが、どこまで底辺なのか?という問題は、あんがいとあたらしいのである。

そんなわけで、とりあえず先進国の看板がまだあるわが国が、先進国で最大のエイズと梅毒の流行国になっている。

凄まじきは、そんな女性を保護する風情で、じつは利権の食い物にしている?ことが、ジワーッと話題になっていることだ。
こちらの悪質は、過去の悪の上をいく。

これを左翼がやっているらしいから、左翼も地に落ちたものだと感心するのである。

トヨタと日鉄が他国に移転仮説

トヨタ自動車には、かつて「日銀管理」になった苦い歴史がある。
豊田家の当主でもある、現社長がこの歴史を知らないはずがない。
なので、知らないのは、自動車ジャーナリストとか、経済評論家で名を馳せているひとたちになっている可能性がある。

クルマ自体の機能や、クルマの売れ行きしか見ないことでも、それなりの解説はできるからである。

とはいえ、新年冒頭に出た、トヨタや日鉄が、日本から出て行くことの「仮説」は、大きな話題になっている。
もしもこんなことが実現したら、「日本(経済)沈没」となるからである。

 

この話の論理は、政府との対立の結末、ということになっている。
いわゆる、日本政府による「トヨタ・イジメ」が、とうとうトヨタをして日本脱出へと決心させる、というシナリオなのだ。

もちろん、鉄板を大口でつかってくれるトヨタの後を追いかけて、関連企業はみんな追随するから、その筆頭に日鉄の名が挙がったのだろう。
産業のすそ野の広さが、自動車産業の最大の特徴なのだ。

けれども、一方で、EV(電気自動車)の雄である、テスラに陰りが見えている。
それが昨年末からの株価の値下がりで、とうとう半値にまでなってきた。
テスラ車ユーザーの半分が、次の買い換えでもうEVには乗らない、と回答したアンケートもこの値動きに影響しているという。

じっさいに、8割と高率でEVが普及したノルウェーは、国民に購入させるための補助金や保有期間にかかる税金が思い切りユーザーを有利にさせる政策で実現したし、充電スタンドの設置も、ガソリンスタンド並みの密度になるよう政府が投資した。

これは、典型的な自由経済への政府の介入(=社会主義政策)といえる。

EVが普及することは、すなわち、充電池需要が増えることになって、いま主流のリチウムイオン電池の原材料で希少資源のリチウムの世界価格が暴騰してしまい、これまでとおなじ額で国民にEVを購入させるための政府の補助金が自動的に増額となって、とうとう福祉予算の削減まで議論される財政の困窮化になっている。

しかも、スエーデンは油田をもっているけど、これはぜんぶ輸出に廻してこれをEV普及の財源にして、電気エネルギーの多くは水力発電に依存している。
このことも一見クリーンで合理的に見えるけど、とかく現代人は「原始人に戻る意味での先祖返り」をしている。

つまり、「エネルギー保存の法則」をすっかり忘れてしまった。

他国に販売された石油は、どこかでかならず燃やされているし、水力がクリーンでないことは、「黒四ダム」で富山湾が壊滅的に汚染されたことでもわかる。

わたしの住む神奈川県も、相模川水系のダムで、相模湾の汚染は手に負えず、ほぼ漁業がダメになった。
水はよどむとかならず腐るからで、腐った水が海へと注いでいるのだ。

治水と環境は、なかなか共存しない難しさがある。

温暖化で「北極の氷」が溶けると海水面が上がって、世界の都市が水没する、という波状攻撃的なプロパガンダで、「アルキメデスの原理」すらわからない状態に追いやられたことの反省がないのである。

この「反省しない」というのは、「大衆」の典型的思考だと何度も書いてきた。
ゆえに、大衆はぜったいに進化しないで、民主主義における絶対権力を持っていると勘違いするのである。

この大衆の、ダメ犬のような習性を利用しようとしているのが、共産主義・全体主義をもって、人類の奴隷化を意図するひとたちだ。

それが、EUであり、国連(UN)である。

どうして決まったのかしらないが、EUであたらしい決定があった。
それは、食料トレーサビリティで、環境や人権を傷めてはいない証明がない物資の、EU圏内への輸入を禁じたのである。

つまり、「フェア・トレードの強制」だ。

たしかに、環境破壊や人権弾圧は、「悪」である。
けれども、いきなりぜんぶ、というのはいかがなものか?
急ブレーキは、乗員の身体を傷つけないか?ということだ。

奴隷的労働が指摘される食品は、歴史的にチョコレートの原材料である、カカオのことが思いつくし、コーヒーもしかりだ。
これに、トマトの缶詰が加わるのかどうかはまだわからない。
まさか、蟹も?

  

これらはかならずわが国にも影響する。

そしてそれが、世界政府、という現実なのである。
トヨタ・イジメは、欧米の自動車会社が、日本車の技術水準にギブアップしたことが、「EVシフト」という政治になった。

ところが、昨年末までに、ベンツやBMW,それに、VWといったドイツのトップが、こぞって「EVシフトの危険性」を訴えはじめたのである。
それが、「自滅」になると気がついた、と。

また、民主党から共和党に寝返って、Twitter社を買収し、さらに「Twitter File砲」が炸裂しつづけていることでの、イーロン・マスク氏への反発が、テスラ株にも影響しているはずだ。
なにしろ、今どきの欧米左翼は、超資産家の大富豪ばかりなのである。

すると、もしや上のEUの決定は、ずっと逆らいそうなイタリアへの嫌がらせを意味しないかと疑う。
トマト缶の闇は、イタリア・マフィアにまで及ぶから、このひとたちがEUを逆恨みしたらどうなるのだろう?

日本の過去の失敗で、その後の歴史的意味合いがおおきかったのは、「金解禁」というグローバル化だった。
これは、昭和5年(1930年)に、浜口雄幸立憲民政党内閣の井上準之助大蔵大臣が断行したものだ。

世界史では、前年の1929年に、「世界恐慌」が起きた、とある。
つまり、わが国は自ら「恐慌の扉を開いた」ことで、昭和恐慌になってしまう。
農業では、昭和5年は史上初の米価下落による「豊作飢饉」があって、翌6年には本物の「冷害大凶作」になったのである。

これで疲弊した東北は、まさに阿鼻叫喚の事態となって、長男以外が軍にいたから、「5.15」(昭和7年)や、その後の「2.26」(昭和11年)になっていく。

そんなわけで、他国がやっているから、とか、日本は遅れている、とかという言動には注意がいて、場合によっては「うそ」だと判断することがひつようなのである。

いま、井上準之助はバカだという評価があるけれど、濱口雄幸や立憲民政党のことをいうひとがいない。
東京駅頭で暗殺されたとはいえ、濱口と立憲民政党の正体とはなにか?は、安倍氏と重ねてなお、重要事なのである。

なので、まだ、日本以外が酷いことになっている。

 

いなづま事故とハインリッヒの法則

海事事故は、いったん起きると被害もおおきいものだけど、今般の海上自衛隊護衛艦「いなづま」による10日の座礁事故は、自力航行不能になったとはいえ、まずは人的被害がなく不幸中の幸いであった。

テレビも観ないし新聞もとっていないから、第一報からはじまって、続報をみるのはもっぱらネットのニュースだけという状態だけど、所詮は地元紙とかの新聞社が配信している記事なので、基本的にそこでの「解説」は信用していない。

たとえば、中国新聞が12日午前に配信した記事には、「海のプロとしてありえない事故」との見出しになっている。
厳しい叱責は、新聞社が伝統とするところの修辞だけど、これ見よがしの書き方は、事実を伝える、という原則から逸脱している。

この事故のどこが「プロとしてありえないのか?」についての記載は、「浅瀬への単独座礁」だけをみているからだろう。

しかし、この記事でわたしが注目したいのは、その文末にある。

「防衛力の大幅強化を巡る議論の中で、自衛隊の装備や訓練などの在り方もさまざまに問い直されるだろう。国民の安全を守るどころか不安を与えるようなミスは自ら信頼を揺るがすことを肝に銘じてもらいたい。」だ。

最後のシメの文ではなくて、「防衛力の大幅強化」からはじまる、なんとなくお決まりの文章の方だ。

これが問題なのは、戦後の安逸なる状態から、とうとう本気で防衛努力をしないといけなくなった、という「大変化」(「事情変更の原則」がはたらくほどの)に、ほんとうに対応する覚悟が、当の自衛隊幹部だけでなく、国民にできているのか?ということが含まれるからだけど、この記事でいいたいのは、忘れなさい、という方の意味になっていることだ。

また、この記事では「前日まで定期点検を受けていた」ことと「試験運転で乗組員とドック関係者の計190人を乗せ」とあるが、同日夕方の別の記事(テレビ新広島)では、「時速およそ55キロで航行していたとみられ、最大速度であった可能性もある」と報じている。

「時速55キロ」とは、「30ノット」と換算できる(1ノット≒1.8キロ)から、いわゆる「最大戦速」(ふつうは機密なのでほんとうはもっと?)を「試験」していた挙げ句の座礁事故とみるのがふつうだろう。

前日までの定期点検で、ドックの関係者(民間人)も乗艦しての試験で、最大戦速(らしき)をだしたとは、いったいどんな点検をドックでしていたのか?
しかも、こんな(超)高速航行試験を、どうして狭い瀬戸内でやったのか?が気になるのである。

いってみれば、狭い路地裏で高速運転(暴走行為)を試みたら事故った、ようなことになって、プロとしてありえないではすまないことになってしまう。
なお、スポーツ・カーもそうだけど、「速い」と「止まること(制動力)」はセットだ。

水上艦船は、たとえエンジンを止めても、水との惰性で何キロも滑るように進んでしまうから、スクリューを逆回転させてブレーキとする。
なので、「ゴー&ストップ」の試験をしていたのではないか?

だから、なんだか、地元紙の瀬戸内を行き交うフェリーが座礁したごとくに、「海のプロとしてありえない事故」と書いたことの方が、「プロの取材としてありえない記事」に読めるのである。

ほらね、新聞やマスコミは信用できない。

縁あってわたしも、横浜港の回漕業の安全対策にかかわったことがある。
ここでの基本は、「失敗学」からの学びであった。
「安全工学」という分野があるのだ。

とくに、労働災害の分野では、有名な「ハインリッヒの法則」がある。
それは、1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常(ヒヤリ・ハット)が存在するというものだ。

そのために、現場では、ヒヤリとしたこと、ハットしたことを書き出して、その原因を探るのである。
これをまた、「安全ルール」として、なにをすればよいか、なにをしたらいけないかと二方向から洗い出して、実務規則にする。

ばあいによっては、違反者に罰則も課すのは、とにかく「安全第一」だからである。

そんな目線で、この事故をみると、部外者にはわかりにくい自衛隊という組織の問題も見え隠れする。

単独の座礁事故だから、あたかも艦長以下の操艦に問題があるのは否定できない。
しかし、組織として果たして艦長の権限はどこまであるのか?という問題が対象から漏れていないか?

意図的な(暴走)試験海域を艦長の権限だけで勝手に指定できるのか?という疑問である。

当然に、司令部の許可ないしは指示・命令がないとできないのではないか?
戦時ならともかく、いまは平時である。
自衛艦の航行が、艦長(本件艦長は2佐)の独断でなんでもできるとは、とうていおもえない。

つまるところ、艦長といえども、「中間管理職」ではないのか?ということに思いを馳せれば、陸上には「司令部」やら「総監部」があって、かならず「将官」がいる。

このひとたちは、いったいなにをしていたのか?

そんなことを調べていたら、「オオカミ少佐」というYouTuberが登場した。
このひとは、元海自隊員だとして、本件事件をするどく分析・解説している。
ハンドル名から推測するに、「3等海佐」で除隊したのか?

まったく、ジャーナリストを自称する「プロ」は役に立たないが、このような「元職」が発信する情報にはリアルな価値がある。

わたしの父は旧海軍のレーダー兵だったことを、生涯自慢していたけれど、軍内部の組織のことなどは、いちいち説明しなくともわたしが理解していると思いこんでいた。

それに、父の自慢は、駆逐艦乗りだったことで、そのスピードは「溶接艦」がふつうのいまとちがって「リベット留め」の鎧のようにしなる旧海軍の造船技術の方がはるかに優れていたとしきりにいっていた。
アメリカの軍艦は、ぜんぶ溶接だから折れるんだとバカにしていたものだ。

機密だから上官に聞いても正確には教えてくれないが、ガクンと体感する最大戦速時の加速度からも40ノットは出ていたかもというから、過去の駆逐艦はいまの護衛艦よりはるかに凄いかもしれない。

艦体がギシギシときしんで、船首や艦尾からみたら、艦全体がバナナのように反ってしまう(荒天では上下にも)ことでの運動能力は、空の「ゼロ戦」が有名だけど、日本艦の凄さは格別だったという。

軍の組織やしきたりに、そんことしらないよ、というと、えらく驚いたのは、あの世代の常識だったからだろう。
いい悪いは別にして、徴兵もあったから、一般人には軍を経験したひともふつうに混じっていて、軍との距離はいまよりずっと近かったとかんがえるのが妥当だ。

すると、我々は、陸・海・空のどの自衛隊であろうが、内部の組織規定からなにからをぜんぜんしらないままでいる。
このことの方がよほど異常なことなのだ。

だから、冒頭記事の「防衛力の大幅強化を巡る議論の中で、自衛隊の装備や訓練などの在り方もさまざまに問い直される」ことのなかに、さまざまな情報公開(当事者たちの常識も)があってしかるべきなのである。

そうでなければ、ぜんぶの事故責任が、ありもしないのに艦長の責任にされてしまう。

すると、もはや民間で大問題になっている、「管理職になりたくない症候群」が、国防の最前線で発生することになって、おそるべきブーメランを国民がくらうことになるのである。

そんな状況にしたい、のがマスコミの病理なのだし、もしや自衛隊の将官たちや高級防衛事務官たち、あるいは与党の「とかげの尻尾切り」があるならば、もっと悲惨な組織への疑惑が自衛隊そのものを瓦解させてしまうおそれがある。

ここが、この座礁事故の最大の問題で、その構造がハインリッヒの法則なのだ。

鴨長明と同年になったのに

西洋の古典について、古代ローマ帝国の賢人セネカは、「ぜんぶ読む価値がある」と書いた。
紀元前5年に生まれ紀元後65年に教育係として育てた皇帝ネロから、「死を賜った」ひとで、著作に『人生の短さについて』とか『読書論』などがある。

 

ここで誤解してはいけないのは、彼のいう「古典」とは、当然彼が生きていた時点からの古典なので、もっぱらギリシャ哲学の古典を指す。
すでにローマ時代に氾らんしていた、ゴシップ風の読み物を指してはいない。

つまり、むやみやたらに、多読をせよいったのではないのだ。
むしろ「時間」という資産を大事にすることに拘っていて、ベンジャミン・フランクリンがいった、「Time is Money」の原点を謳っている。

キリスト教とギリシャ・ローマの哲学が、西洋の基礎にあることがよくわかる。

もちろん、いまではセネカの著作そのものが、古典になっている。
しかも、ストア学派の巨匠としてである。
けれども、このひとの人生も決して「枯れた」ものではなく、むしろあんがいとギラついていたのは、西洋人だからか?

あくまでもセネカの主張にもどれば、古代ギリシャ哲学の西洋世界に与えた影響の巨大さを考えざるをえないけど、それならわが国のみならず、「本場」の専門家をうなずかせた碩学、田中美知太郎(1978年文化勲章)がいる。
このひとの著作は、絶対安心のものばかりだ。

それで、田中美知太郎は慶應の小泉信三とともに、サンフランシスコ講和会議に賛成した学者であった。
なお、このふたりは、どちらも空襲(田中は広島原爆、小泉は東京大空襲)で全身大火傷を負って、顔にも大きくケロイドが残ってしまった共通もあった。

保守系といわれる「日本文化会議」を創設し、かつての「反体制雑誌」といわれた、『諸君!』(文藝春秋:1969年5月号~2009年6月号で休刊)の執筆陣を形成したものだ。

2000年代になって、文藝春秋社の社内でなにがあったかはしらないが、急速なる「左傾化」があって、学生時代からの定期購読者だった一般読者のわたしでも、『諸君!』の論説の曲がり方がハッキリわかったので、休刊の2年ほど前に契約を解除して、高校以来読んでいた本誌の『文藝春秋』も読むのをやめて今に至る。

それが急ブレーキだったから、目がさみしくなって、『WILL』とか『正論』とか『VOICE』をみていたが、その論説の「甘さ」が煩わしくなって、結局ぜんぶ読むのをやめた。

中吊り広告の見出しをみただけで、薄い論説の内容が透けてしまうのだ。

学生のとき、遠距離通学だったので、電車のなかで『世界』とか『前衛』も読んでいたけど、すぐに飽きたのは、我ながらあっぱれである。
さいきんでは、もっぱら通勤時間帯に電車に乗ることも少なくなったが、車内で新聞をみているひとを見つけると、なんだか気の毒になるのである。

そんなわけで、中東や西洋よりも進んだ文明社会だったのは、地球上で日本しかないということが、近年の発掘から明らかになって、もはや「縄文文明」は、古代エジプトやらメソポタミアやらインダス、黄河を凌駕していたことはまちがいない。

時の政府が歴史を作るために作った、『古事記』、『日本書紀』は、その前の歴史を消去する作業も同時にやっていた。

この両書が、似て非なるものになっているのは、一般向けの『古事記』に対して、学者向けともいわれる『日本書紀』のところどころの脚注に、異論を想起させる記述がコッソリあるからだ。

ぜんぶ作り物です、と書くわけにはいかない当時の事情(しっているひとがいる)がうかがえる、というわけである。

しかしながら、「焚書」もやったらしいし、ついでに日本オリジナル「文字」も捨てたのではないか?という疑義がある。
それで、「古代文字」の研究が注目されて、学会が認めない『ホツマツタヱ』の民間研究がおこなわれている。

面倒なのは、歴史学会の方で、こちらは、GHQの指示通りを「保守」しているから、反日を標榜する外国と歴史解釈について共同研究をする、という不可能を可能にすべく(政治)活動をしているムダがある。

さて時代を新しくして、日本三大随筆といえば、『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』だ。
西暦でいえば、『枕草子』がちょうど1000年頃(平安中期)。
『方丈記』は、1212年(鎌倉前期)で、『徒然草』は、1330年頃(鎌倉末期)という。

『方丈記』が断定できるのは、著者がちゃんと最後に日付を書いているからだ。
ただし、原本は発見されておらず、写本としての最古が、醍醐寺の親快という僧侶が1244年に残している。

作者の鴨長明は、「鴨氏」だから、さかのぼれば「秦氏」になって、いわゆる渡来人の系統ではあるけれど、もっとも天皇家に近い「賀茂神社」との縁があるし、これが原因して「隠棲生活」となったのである。

もちろん秦氏には、ユダヤ失われた10士族、にあたるのではないか?という説がある。

そうしてみると、この傑出した随筆(名文)を800年経っても読めるのは、賀茂神社の神官に就任できなかった本人の不本意が根底にある。

それでもって、鴨長明の年表で没年齢をみたら、なんといまのわたしと同年だということに気がついた。
なるほど、高校生に理解できない「枯れた感じ」は、いまこそしっくりくるものだ。

そして、とうていこのひとの教養に逆立ちしても追いつけないことに、打ちのめされてしまったのである。

それで、セネカの『人生の短さ』が、沁みてきた。
『方丈記』を高校生に教える前に、セネカに言及すべきだろう。
なにしろ、古今東西、健康な若者は人生が長く退屈だと信じているものだからである。

そうやって、「不惑」から「還暦」ともなれば、いかに人生が短いものかにだれもがたいがい呆然とするのである。

下記は、前半は現代語訳にしてマンガ、後半は原文注釈付き、さらに養老孟司先生の解説まである「豪華本」があるので、自分の人生に呆然としたいひとにはお薦めである。

むかしの「成人の日」に。