リズ・チェイニー氏の除名処分

アメリカ共和党が動いている。

「反トランプ派」の急先鋒で、民主党ペロシ連邦下院議長が仕掛けた、議会内「1月6日委員会」の副委員長に、共和党員のまま就任したのがこのリズ・チェイニーというひとである。

もうすぐ12月なので、10ヶ月以上もトランプ氏の「犯罪」を追及している委員会なのだが、困ったことに民主党が用意した「証拠」が全部「事実と違う」と否定されてしまって、むしろ、民主党が「仕掛けた暴動なのではないか?」という疑惑すら浮き上がってきてしまっている。

彼女は、ブッシュ息子政権で副大統領をつとめた、ディック・チェイニーの長女であり、30才前半の若さで、同政権の国務副次官補(近東担当)にも就任している。
その後、2016年の連邦下院議員選挙に、ワイオミング州から立候補し当選して今日に至っている。

ただし、2013年に連邦上院議員選挙に出馬した際には、翌年に自ら「撤退」を表明することになったから、決して「順風満帆」ということではない。

さてこの度、その地元ワイオミング州の共和党から、来年の中間選挙における「共和党候補」としてという前に、党内予備選挙にさえ「出馬できない」旨の決定がなされた。
なんと、「党員として認めない」という決議がされた。

要は、「除名決議」である。

どうしてこうなるのか?といえば、彼女が「軍産複合体の申し子」であることが、ばれてしまったからである。
そもそも、ブッシュ親子が「軍産複合体」と結託した、「ネオコン」であって、父のディック・チェイニー氏は、ブッシュ父政権の国防長官だった。

ちなみに、ブッシュ息子大統領時代の国防長官は、あの、ラムズフェルド氏であった。
このひとは、ある意味正直で、産軍複合体の利益代表であることにはばからなかったし、自慢していた節まであった。

だから、あからさまな「戦争を欲する」姿は、外国である日本にいてもよくわかったので、現地では差し詰め「いっちゃっている」おじさんだったろう。

それでも、いちど成立した政権は、簡単にひっくり返ることはない。

ブッシュ父は、カーター政権以来珍しく2期目の選挙で落選し、クリントン政権に「移行」したことになっているけど、実は民主党も「産軍複合体」だから、似たもの同士なのである。
それで、ブッシュ家とクリントン家は仲がいい。

つまり、アメリカには3分割された勢力がある。
共和党は、「主流派と保守派」があって、民主党には「極左と穏健派」があるから4分割に見えるけど、共和党主流派と民主党穏健派は、バックが「産軍複合体」という意味で「お仲間」なのだ。

念のために「民主党穏健派」という「用語」だけれど、武器商人とか国際金融資本と結託した「戦争を欲する」ひとたちのことだから、ダブルスタンダードの言葉の綾に注意したい。
なお、戦後のアメリカ大統領で、任期中に戦争を「しなかった」のが、トランプ氏「ただひとり」であることが、「事実」なのである。

日本人が持つイメージとこの事実が「真逆」なのは、それだけマスコミ報道が、戦争を欲するひとたちの側にいることを示している。
「有事」となれば、テレビの視聴率が上がって、新聞も売れるからである。
だから、トランプ氏の「本物の平和主義」が、「危険」なのだ。

そんなわけで、リズ・チェイニー氏には、党内保守派の「突然変異」ともいえるトランプ氏が宿敵となる。
たいがいの政治家が「利権」を貪るのに対して、トランプ氏は本人が認める「十分な金持ち」だから、そんなものに興味が無い「変人」なのである。

このことの根底に、アメリカを建国した「清教徒」の流れがあることを忘れてはいけない。
共和党の歴史を遡れば、リンカーン大統領にあたって、さらにたどれば初代ワシントンに行きつく。

ワシントンは、アメリカに党派争いはない、と断言している。
なぜなら、建国を勝ち取った国民全員が「共和主義者」だからだ、と。
これが、アメリカという「共和国の本質」なのである。

日本では「共和党」を、金持ち優遇の党として認知されているきらいがあるのは、産軍複合体の利権にまみれたひとたちが、ときたま政権を得るからで、それをあろうことか共和党「主流派」と呼ぶのである。
建国以来の「共和主義=保守本流」の人々からしたら、まさに「笑止」なのだ。

しかしながら、はじめはヨーロッパから食うや食わずの移民がやってきて、せっかく新大陸にやってきたのに、やっぱり喰えないひとたちが多数になったら、民主党ができた。
だから、民主党が強い地域が、東西の沿岸部になったのである。

その意味で、南北戦争をやって共和党と闘ったはずの「南部」が、いま共和党の牙城なのは、歴史の皮肉である。
これには、かつての南部が、ヨーロッパ最貧のアイルランド系移民による成功と挫折というストーリーがある。

あの名作、『風と共に去りぬ』とは、まさにアイルランド系移民の「恨み節」なのだという、野口悠紀雄の指摘はぐさりとくる。
そのアイルランドが、ITと自由化によって、英国をも凌ぐ経済大国になったことを、現代アメリカ人は知っている。

そんなわけで、子供時代から、あたかも「子役」として、父親の選挙応援をしながら育ったリズ・チェイニー氏にとって、若かくして得た高位の「ふつう」が、まさにトランプ氏という変人によって崩壊の危機に立たされて、徹底抗戦した挙げ句の、地元からの「三行半」となったのである。

これを突きつけた地元の民意とは、彼女への「民意を知らないひと」という評価に過ぎない。

このシステムが、わが国に「ない」のである。

ほらきた「55兆円」の補正予算

予想通りの予想が当たったことが、うれしくもなんともなく、ただの「ため息」が出るばかりだ。
驚くほどの「凡庸」としか言い得ない。

前に書いたようにアメリカでは、二大予算案の攻防が、来年の中間選挙に影響を与えること「必定」となっているのに、わが国で、ことごとく「順番が違う」ことになっている。
選挙前どころか、総選挙後の、「これ」である。

つまり、選挙前も選挙中も、有権者は「こんな話は聞いていない」のだ。

インチキの典型である、「後出しジャンケン」をやっている。
これが、「武士道」なのか?といえば、誰だって笑い転げる冗談だ。
日本を牛耳るひとたちは、ただの姑息な輩に墜ちたのである。

外国人から、「武士道」を言われたら、とにかく穴に入って出てこられない、「黒帯が泣く」ことになったのである。

そこへいくと、「ヤンキー」たちはまだ「まとも」だ。
使うお金と財源を「同時」にちゃんと示している。
たくさん使うから、増税します、と。

もちろん、バイデン氏が「公約」にしたのが「増税」だったから、ここでも嘘は言っていない。
ただし、選挙公約で「増税」を掲げて当選した稀有な例ではある。
それで、史上初の8000万票を獲得して、やっぱり史上初の7400万票の現職を破ったのである。

合わせてこんなに投票があったのも、史上初だったけど。

トランプ氏はレーガン大統領がやった「大減税」の上をいく「大大減税」を実施していた。
これで、アメリカ経済は「絶好調」になったのだ。

70年代から80年代、ノーベル賞をとったサムエルソンの『経済学』が、どの大学でも教科書になっていた。
いわゆる、ケインズの「有効需要創出」に関しての常識に、ソ連型社会主義をあてはめた、「ポリシーミックス:新古典派総合」がもてはやされた時代であった。

いまからしたら、「米ソ冷戦」とは、あんがいと経済学も幸せな時代だったかと思う。
「ソ連の脅威」に対抗すべき経済理論の最右翼が、ソ連型を認めるものでも「通った」からである。

天才サムエルソンをして、ソ連経済発展を死ぬまで疑わなかったのは、「国家統計」の妙であった。
「嘘で固めている」とは、天才にして想像もつかない。
なぜなら、そんなデータで「計画経済」ができるはずがないからである。

しかし、実態は、そんなデータであった。

だから、計画経済ができるはずがなかったし、計画経済なんてできるはずがないとした、ミーゼスの指摘をサムエルソンは意図的にか「無視」していた。
つまり、二重に重要な条件を無視した、「砂の器」がサミュエルソン経済学になってしまったのである。

それでも、剥奪されないノーベル賞学者なのだ(クスッ)。

そうなると、この「教科書」で学んだかつての学生はどうなるのか?
学業成績優秀者とは、学校で言われたことを「忠実」に、かつ、「頑な」に守ることに秀でたひとたちをいうから、ヒヨコが最初に目視した「動く物」を母と思いこむようなことになる。

本質はどうでもいい。
教科書通りを書けば、「優」が取れて進級できる、ということを優先させて、そのまま就職するのである。
そして、成績優秀者ほど、役人になるのがわが国明治以来の「掟」なのだ。

一ケタの年齢からの人生の始めにこの「訓練」を10年以上も受けたひとたちが、自分の幼少期からを否定するようなことはしない。
ましてや、現に「エリート」になっているのだ。

それでもって、今度はその世界でエリートから逸脱しないように、「状況」に敏感にもなる。
つまり、「外れ値」にならないよう、常に「平均」付近でいられるように努力する。

しかして、この「努力」とは、「自己研鑽しない」という努力なのである。
「安逸であれ」という「停滞」こそ、「平均」でいられる近道となる。
だって、小学校から頑張ったのだ。
そんな自分が適当にやっていても、小学校から遊んでいたひとたちには「凄い」といわれるのだ。

そんなわけで、サミュエルソン経済学の中身なんて覚えていない。

そういえば、「乗数効果」なんてことを習ったかもしれない。
それは、「財政出動」で「有効需要」を刺戟したら出てくるんだっけ?
あれ、「減税」でもそんなようなことがあったっけ?

でも、役所で「減税」なんて言ったら、身が危ない。
日本政府の辞書に「減税」なんて言葉はない。
あるのは、「増税」だけなのだ。
それで、どんな増税の方法を編み出すのかが出世の早道になっている。

だから、最初にたくさんのカネをばらまいて、あたかも「経済政策」をやっている振りをする。
その「効果」については、審議会の御用学者がなにか理屈をかんがえる。
その理屈が「理にかなっている」かどうかは、どうでもいい。

どうせやってみないとわからないし、やって効果がなくても後から理由はどうにでもなる。
それより厄介なのは、有力議員へのキックバックを仕込むことだ。
どっちにせよ、増税の理屈になればよいのである。

アメリカ人はバカだと思う。
どうして使う話と増税を一緒にするのか?
先にばらまいてしまえば、国民は喜ぶのだ。
政府のおかげだ、と。

それで、下手から摺り手をして、もうダメです、大変です、デフォルトするかもしれません。
助かる道は増税しかありません、と言いふらせばいい。
こうしたら、国民は、仕方がないと応じてくる。

デフォルトが起きるといえば、コロナのように心配してくれて、ほんとうはどうでもいい「孫子のために」が、決め手になるのは、「現世利益」を掲げる連立与党の信仰の根幹だ。

まことに「愚民」とは便利なものなのである。
「すべては役人のために」という、むかしのビールのコマーシャルをパロディ化して、永遠の役人天国が続く。

医学は科学なのか?

「宇宙人的な成績の優秀さ」でないと、とうてい入学できないのが東京大学理Ⅲ(医学部)ということになっている。
つまり、わが国の最高学府と呼ばれる「大学」で、最高難易度が「東大医学部」なのである。

ちなみに、「東大」自体は、最高難易度ではなくなっているので念のため。
ただし、尾てい骨のように、「東大神話」が残っている。

これが、本物の「神話」より「事実と違う」のは、政官財、それに法曹界と医学界に君臨している「ぶ厚い東大卒」のひとたちが、この30年間「頑張った」おかげて、わが国の衰退が止まらなくなったことでわかる。

かれらが唯一言える「言い訳」とは、きっと自分たちがいなかったら、もっと酷いことになっている、という脅迫めいたことしかない。

だから、一般人はひるむことなく、「では実験してみましょう」と言って、世の中から「東大卒の肩書き」で頑張っているひとたちに「引退」してもらうことを決めればよい。

すると、「政界」も、たとえば連立与党の党首とか、この党と支持者層を同じくする日本共産党も、最高顧問とか党首が、引退しないといけないし、与野党問わず、国会議員の多くが引退して「(東大卒以外の)後進に道を譲る」ことになる。

「官界」では、かなりの数の「キャリア」が退職して、役所がスリムになること確実だ。
「行政が滞る」というのも「悪い神話」に過ぎない。
いまの状態からの「滞り」なら、「余計なこと」ができなくなって、それは国民のためになる。

ちなみに、この「余計なこと」には2種類あって、一般会計での「余計なこと」と、「特別会計」そのもののことをいう。
もちろん、全国の地方自治体も同様である。

「財界」は、もっと劇的な変化になる。
同級生や先輩たちに、「補助金」を乞うて貰うことで社内出世した乞食根性のひとたちがいなくなるからである。

「法曹界」に至っては、裁判長の学閥優先で「真実を追及しない」という慣例が壊れるから、その学閥で勝訴していた弁護士も引退しないといけない。
そもそも、「東大法学部」もなくさないといけないのだから、学閥ごと消えてもらうことになる。

さてそれで、「医学界」だ。
「超優秀な学生を集めたのに、卒業時には凡人になる」がご同僚教授陣の「嘆き」だったことを曝露しながら、養老孟司医学部教授は、統計で言う「外れ値」の状態を「正常化」してあげたと評価すべきと言っている。

あえて、大先生に反論すれば、その「正常化」の過程における、「教養」の注入が少ないために、できあがる「凡人」が、あまりにも「世俗的な凡人」になってしまうから、縄張り内で「君臨しようと画策する」のが、自分たちの権利だと勘違いするのだ。

半年ほど前に、「産学連携の悪夢」を書いた。
その前に、東大をはじめとした「国公立大学」は、与えられる機材の豪華さはもとより、授業料という経済負担でも「優位」に立っている。

すると、研究機関としてと、教育機関としての二面性が、混在しているのである。
「大学改革」が面倒な議論になるのは、混在したままの議論しかできないからである。

もちろん、「医学部」には、実験がつきものだけど、さらに「実験施設」としての「付属病院」も用意されて、日夜「人体実験」が行われている。
大学病院に入院したがるひとがいるけど、自分がモルモットになることを意味すると考えない不思議がある。

この世にいる限り、生きとし生けるものは全て死ぬのである。
その「死」を、他人に委ねる場の典型が、大学病院だ。
だから、後世のひとの役に立ちたい、という心掛けをもって、大学病院の門戸をたたく覚悟がいる。

しかし、そんな「本音」を大学病院やら「医学部長」が発言したら面倒なので、黙ってモルモットになることを言わずに、あたかも「治療する」風情を醸し出しているのである。

そんなわけで、大学の医学部には様々な実験施設があるから、もう一つの大きな勘違いをしてしまう。
それが、「医学=科学」という間違いである。

純粋な科学とは、「宇宙法則」に見られるように、「原理・原則」の追及なのだが、医学には研究分野と臨床分野という2面性があるのだ。
それに、理学や工学といった異分野との壁が取り払われてきた。

もちろん、西洋医学の系統もむかしは、「原理・原則」に重心があったドイツと、「臨床」に重心があったイギリスとに大別できた。
それが、どんどんと「学問が進歩した」おかげで、逆に、「人体」への理解が困難になっているのである。

研究すればするほど、わからなくなる。

たとえば、どうしてこの薬が「効く」のか?も、ほんとうのところ(厳密に)は「よくわかっていない」のである。
つまり、ほんとうは「ぜんぜんわからない」けど、わかったつもりにしないと、全体が破たんしてしまうから、「つもり」でいることにした。

この薬が効きます、ではなくて、この薬を飲むと飲まないでは、おそらく飲んだ方が症状に効くけど、それでもって、その他のことにどんな影響があるのかは、飲んだ人の個体によるかもしれない、というのが正しい。

「つもり」になった医学が、どんどん科学から離れていっているのである。

加工用トマトの闇

2018年4月をもって廃止された法律に「種子法」があった。
農産物とは、わたしたちが口にするものを意味し、農産物のすべては、「タネ」から育てるものなので、食料の根源的な法、という意味がこの法律にはあった。

つまるところ、一般家庭であれ、プロの料理人が調理する食堂やレストランであれ、あるいは、高級ホテルであれ、元をたどって行き着く先には、かならず畑だけでなく、タネがある。

しかしながら、あんがいと話題になるのは「栽培方法」であって、なかなかタネまではいかない。
有機であろうがなんであろうが、「タネ」こそが根源なのである。

日本人が伝統的食べ物だと思ってきた食品には、「遺伝子組み換えではない」ということでの「こだわり」があったけど、2023年の4月1日からは、事実上の表記がなくなることが決まっている。

「消費者庁」が決めたことだ。

もう40年前にもなるベストセラー『選択の自由』(ミルトン・フリードマン、ローズ・フリードマン、1980年)には、「消費者を守るものは誰か」と「労働者を守るものは誰か」という章が続いていた。
どちらも、消費者団体でも労働組合でもない、という結論だった。

だから、フリードマン的論理でいえば、消費者庁が消費者を守るものではない、というのは至極当然な結論となる。
これが、「産業優先」という、明治以来の「国是」と重なり、「戦時体制」としての「総動員」が終わらない理由である。

どうして遺伝子組み換え表記が「なくなる」のかといえば、「基準が厳格化される」からである。
現在の基準では、許容範囲を5%以下としているが、これを0%とせよ、ということになった。

なお、対象となるのは、小麦とトウモロコシと大豆「だけ」である。

これらの「穀物」栽培では、遺伝子組換えをした種子を栽培する畑と、そうでないものとの区分が厳密にできていない。
隣接した畑からの花粉が、風とかで交わるからである。
そこで、許容範囲が設定されている。

ちなみに、この手の話ではたいがいが厳密なヨーロッパ基準では、9%と日本より「緩い」ことが意外だ。
さほどに、区分が「困難」ともいえる。
それを、ゼロにせよとは、「無理難題」を消費者庁は言っているのだから、事実上「表示不可能」になるのである。

「コロナ撲滅」という潔癖主義の無理難題と、自然としての「コロナとの共存」という正反対が、「タネ」でもある、ということだ。
病的な潔癖主義が優勢なのは、ふだん「自然は大切」というひとも含まれるご都合主義があるからである。

もちろん、「遺伝子組換え」の方がはるかに原価が安くなるので、今度は一斉に「コスパ」を優先すると役人は予想している。
消費者庁は、暗にそうしろ、と誘導しているのだ。
豆腐も納豆も、遺伝子組み換え大豆が当たり前になる?

買い物の現場での、買い物行動で「所得格差」がわかるようになれば、見栄でも遺伝子組換え原料の食品を買わない、とするのか?
それともみんなが買っているからと、遺伝子型ワクチン接種と同じで、「感覚麻痺」させるのか?の攻防があるのだろう。

「安いが一番」の勝利となるかが、注目される。

さてトマトである。
こちらは、「生食用」と「加工用」に大別される。
加工用トマトは、長細くて皮が固く、水分が少ないから「生」で食べてもおいしくない。ハッキリ書けば「まずい」のだ。

一方で、日本人がイメージする生食用の丸いトマトは、料理用にしたら水っぽくておいしいトマトソースにはならない。
そこで、「缶詰」が重宝される。
この缶詰の中身は、加工用トマトなのだ。

トマトジュースも、トマトピューレも、もちろんトマトケチャップも、缶などの容器にパッケージされているものは、みな加工用トマトの「製品」なのである。
そして、これら加工用トマトは、ほぼ全部が遺伝子組み換えされたタネから育ったものだ。

そのタネは、ケチャップの世界最大手、ハインツの研究者によって作られた。
「濃縮」するために水分のない品種で、煮詰めるための燃料費を節約し、なによりも収穫しやすい、ポロリと取れる「額」の形状にしたのだった。

いまや加工用トマトの産地として、新疆ウイグル自治区は世界第二位となっていて、三倍濃縮された「原料」がヨーロッパ(ほぼイタリア)に輸出されている。

不思議なことにEUは、ヨーロッパ域内で再加工された製品の「原産地表記」を曖昧なままに放置している。
それで、新疆ウイグル自治区からの「輸入品」を、EU域内(ほぼイタリア)で再加工(二倍濃縮:三倍から希釈)したら、これを「イタリア製」としても合法なのである。

ご当地で「合法」だから、これをそのまま日本に持ち込んで「イタリア製」と表記しても文句をいう筋はない。
トマトの缶詰がスーパーで「100円しない」ことの大きな理由がここにある。

いま、新疆ウイグル自治区といえば、話題がありすぎる。
「ナイキ」や「アディダス」がやり玉にあげられて、ユニクロや無印良品にシフトした。

でも実は、「トマト缶」がもっと「やばい」のだ。

「一帯一路」で、ヨーロッパ側の終点になっているイタリアの事情も、トマトでつながる。
二次加工には、東ヨーロッパやアフリカからの(不法)移民が奴隷的労働に従事させられていて、これをマフィアが囲っている。

数百円でおいしいピザ(トマトソース)を食べられるのも、こうした人たちの血と汗の賜なのだった。

さて、「業界」として、スニーカーやアパレルメーカーの他人ごとでは済まない話が出てきたのである。
コロナでは政府に隷従したけれど、トマト缶を使っているなら、どうするのかをいまから考えて、対策をとっておいた方がいい。

トマトが南米からヨーロッパに運ばれたのが16世紀。
地中海地方では「伝統的食材」と思われているけれど、当初は「観賞用」で、「食用」として普及したのは19世紀だ。
たった200年ほどの歴史しかない。

日本では、戦後の「食の洋風化」の時期とおなじに普及したのでせいぜいここ半世紀のことだ。

さりげなく存在するトマトなのではあるけれど。

ワシントンポスト紙の記事訂正

日本ほど酷いのか、それとも、日本の方がまだ劣るのかは知らないけれど、「嘘八百」を書き続けて、世論誘導するのが「世界のマスコミの存在理由」になっている。

いつもながらに「世界」をけん引するリーダーは、「腐っても鯛」のアメリカなので、アメリカのマスコミがもっともわかりやすく、読者を誘導している。

幸か不幸か、日本人のほとんどが「英語を解さない」ので、アメリカのマスコミが書きまくる、トレンドとかブームとかキャンペーンに、日本人はしらないでいられる。
ただし、江戸時代に唯一の情報の窓だった、「長崎出島」よりも、実態を包み込んでさらに歪めた記事にするのが、日本のマスコミになっている。

「自動翻訳」がずっと進んでくれば、スマホに配信される外国のニュースも、なんの違和感なく「日本語」になって画面に出るようになる。
そうやって、「情報のグローバル化」も完成する。

そのとき、わが国のマスコミは、「お悔やみ記事」専門になっている可能性があって、団塊の世代が消滅したら、一緒にフェードアウトして消滅の運命にあるのだろう。
死亡情報すら、「個人情報」になりかねない。

人間関係の「分断」による「アトム化」とは、そういうものだ。

それに、情報のグローバル化とは、人間の思考が世界規模でフラットになることを意味するから、「独自文化」というものも、ほとんど消滅することになる。
この意味で、「報道」とは、そのまま独自文化の確認でもある。

こんな重要なことに、報道機関のなかのひとたちが気づいていない。
しかしながら、それが国民の不幸のはじまりだから、「ざまぁみろ」とはいかないのである。

つまり、「目を覚ませ」ということだ。

2016年の大統領選挙のときから、トランプ氏が巻きこまれたのが「ロシアゲート疑惑」という、「架空のキャンペーン」だった。

そのキャンペーンを画策した、ヒラリー・クリントン氏の「絶対勝利」を、わが国政府も確信して、選挙投票日前にわが国総理が、彼女を訪問したのは、これをやらせた外務省の情報が、真珠湾攻撃に至るまでのお粗末と同様以下のレベルだと世界にしらしめた。

なお、その外務省が嫌うのが「二重外交」というもので、外務省を通さない議員外交などを指す。
国家の外交には、「窓口は一つ」だという原理原則があると事あるごとに主張してきたのだ。

ところが、これがとんだ「ただの省益」だとばれたのが、選挙中の大統領候補の一方に日本の総理が面談することの、アメリカ政府にとっての「二重外交」を無視したことである。
なんだか、韓国政府がわが国にしているのと似ているのだ。

アメリカからすれば、「フライング」では済まされない。
もっといえば、投票権のあるアメリカ国民に、わが国がバイアスをかけるキャンペーンをしたことにもなるから、れっきとした「選挙への外国政府の干渉」を日本政府がやったといえるのである。

なお、ロシアゲート疑惑とは、政権移行前にトランプ次期政権で高官に就任予定の元将軍が、現職ロシア大使と情報交換したことをきっかけにした。
すると、ヒラリー氏が当選前に現職の日本の総理と情報交換したことは、どういう意味なのか?という立派な「疑惑」にもなるのだ。

一歩まちがえば、「ジャパン・ゲート事件」になりかねない、危険な行為なのである。
これをやった、外務省幹部はごっそり罷免して入れ替えないといけないほどの「歴史的不祥事」である。

もちろん、こんな程度の外務省の役人にそそのかされて、のこのこと選挙中のアメリカにまで行って、にこにことヒラリー氏と握手して、写真を撮ってきたわが国総理の見識のなさは、歴史的な「おおボケ」をやってのけたのであるから、まともなマスコミなら、叱り飛ばして当然だった。

こんなことをした他の外国のトップが誰もいないのは、当然で、もしも「母国」の英国首相が同じことをしたら、大スキャンダルになるはずなのは上述の通りである。

ところが、「公正中立」を標榜するわが国マスコミが、さらに腐敗しているので、一緒になってはしゃいだのである。
「これで、先駆け」ができた。
当選確実のクリントン政権が「正式発足」したあかつきには、日米関係は濃密になる、とかなんとか。

ところが、無名でハチャメチャのトランプ氏が当選した。
そのトランプ大統領に会うために、恐る恐るで訪米したら、なんだかとっても「信頼されてしまった」ようだったのは、彼独特の当てつけ表現に見えたのだけど、阿呆な日本の総理はご満悦だったのである。

わが国では、「おそロシア」のプーチン氏を批判してはならないと、勝手に擦りよって、「ロシアゲート疑惑」にはあんまり触れず、トランプ氏の「異常」に注視した報道で、日本人を「反トランプ」になるように画策したのであった。

もちろん、トランプ氏の「ハチャメチャ」とは、伝統的な「業界優先」ではなくて、かつてない、国民のための政治、を実践したことによる。
それがあまりにもにわかに信じられないほどの「画期」だったから、誰もが最初に仰天したのである。

だから、トランプ氏が何を言っているのかをよく聞くか、読めば、日本人だって感激するような内容に驚くし、それをほんとうに4年間で「有言実行」したのである。
これが、「打算の保守勢力」がもっとも恐れ嫌う原因なのである。

さて最近、この「でっち上げ事件」について、仕掛けた容疑者が逮捕されて、容疑を認めたことから、いよいよ「でっち上げ」が確定してきた。
民主党がいう、さまざまな「証拠」が、「でっち上げ」という「虚偽」だったのである。

それで、とうとう、民主党支持を表明して報道している、ワシントンポスト紙が、「でっち上げの誤報でした」という訂正記事を出したのである。
ただし、悪いのは自分たちの取材力の欠如ですとか、裏取りをしなかったことの「反省」をしているわけではない。

民主党が発表したことをそのまま記事にした、という子供の言い訳のようなたわごとを主張しているのである。
ましてや、他社はまだ追随していないから、まるで「ダイオキシン」のときのように、アメリカ国民には「ロシアゲート疑惑」が脳にこびりついているにちがいない。

とにかく、頬被りをすることしかしない、わが国のマスコミよりは、ほんの少しだけ、まともさを表明したのは確かではある。
単なる「逃げ口上」かもしれないけど。

自民党の分裂を促す

「総量規制」の実施でバブルを崩壊させた宮澤喜一内閣から30年。
やっとこさで宏池会が政権を奪取して、岸田文雄内閣ができた。
つまり、一世代まるごと非主流派だった人たちの恨み辛みが詰まっている政権だ。

改めて政権の流れを書き出すと、次のようになっている。
1991年~1993年 宮沢喜一  宏池会 大蔵官僚
1993年~1994年 細川護熙  日本新党 記者
1994年~1994年 羽田孜   田中派→竹下派(経世会)会社員
1994年~1996年 村山富市  日本社会党 県議
1996年~1998年 橋本龍太郎 竹下派(橋本派) 会社員
1998年~2000年 小渕恵三  竹下派(小渕派) 大学院
2000年~2001年 森喜朗   三塚派(清和会) 記者
2001年~2006年 小泉純一郎 森派(清和会)→無 福田赳夫秘書
2006年~2007年 安倍晋三  町村派(清和会) 会社員
2007年~2008年 福田康夫  町村派(清和会) 会社員
2008年~2009年 麻生太郎  宏池会→麻生派   経営者
2009年~2012年 民主党政権
2012年~2020年 安倍晋三  細田派(清和会)
2020年~2021年 菅義偉   無        会社員
2021年~     岸田文雄  岸田派(宏池会) 銀行員

ついこないだまでの、安倍長期政権があったから、なんだかわが国は安定政権が続いていたかのような錯覚があるけれど、ぜんぜんそんなことはない。
むしろ、コロコロと内閣が変わるのは、戦争前の状況に似ている。

ただし、戦争中までは、いっぱしの独立国だったばかりか、アジアで最強だったので、腹黒い欧米諸国(「列強」とも言った)と対等の立場であったから、逆に戦争ができたともいえる。

大名が合戦をしたのは、武士の身分をもって闘うという形式だったから、住民には他人事ではあったけど、兵粮の調達で掠奪されるのは不幸だった。
これが、国民国家に再編されると、職業軍人だけでなく「兵隊も国民」になる。

だから、戦争も他人事ではなくなった。

それだけに、国民は世界情勢に敏感になるのは当然だ。
なので、政府はマスコミを統制して、情報コントールをあからさまに実行した。
集会の弁士が逮捕されたり、新聞が発禁処分されたのである。

その代表格が、宮武外骨で、入獄4回、罰金15回、発禁14回という「記録」がある。

いまの政府は巧妙なやり方でマスコミを統制しているけれど、国民が他人事になったから、世界情勢に疎くても気にしないで人生をほしいままにして生きていける。
このことを、平和ボケという。
あるいは、愚か者の平和ともいう。

そんなわけで、どちらの国民政府も国民を巧妙に支配することを旨とする。
特にわが国の明治維新では、萩藩のDS(ディープステート:闇の政府)だった「撫育局」をコアに据えた、政府のための政府を作る活動だったので、強固な日本的DSがいまだに君臨しているのである。

それゆえに、国内の「表向き」をどうするのかが、常に問題になって、DSの存在を国民に知らしめないことが最優先される。
だから、いかなる政権交代があっても、政府が国民を支配するという構図に変化はない。

DSにとっては、仮面を付け替えるだけのことに過ぎないからである。

もっと言えば、DSに都合の良い政権が望ましい。
それで、DSに都合が良過ぎて、国民が不満なら、好きなように政権交代させればそれで済む。
DSが譲らない一線とは、予算編成権であり、その奥深くにある、特別会計の独占なのだ。

だから、吉田茂の系統である宏池会だろうが、岸信介の系統である清和会(安倍派)であろうと、どうでもいい。
ちなみに、かつて田中派→竹下派経世会がキングメーカーだったのは、DSたちを優遇したからである。
それが衰退したのは、DS優遇をし過ぎて、自分たちの取り分がなくなったからだ。

萩藩とは、毛利家のことだ。毛利が最初に得た領地は、新潟(越後)と広島(安芸)だ。
つまるところ、広島出身の宮澤氏や岸田氏とは、実質毛利内閣なのである。

それに、宏池会が「保守本流」というのだって、読売新聞記者だった戸川猪佐武が書いた、グローバリストの吉田茂を戦後のヒーローに仕立てた『小説吉田学校』であった。

宏池会が「何を保守している」のか?について語らないのが、暗黙のルールになったのは、わが国のDSにも都合のいい「占領政策」に歯向かうことになるからである。
それと同様に、宏池会が、「藩内」で、安倍派と一線を画するという表向きは、逆にDSには都合がいい。

そんなことから、国民の不人気をわざとやらされる岸田短命内閣に、哀れさすら感じてしまう。
たとえば、18才以下への「配分」を二回に分ける「愚」とか、ガソリン高騰の「対策」に、補助金を充てるとか。

何のための2回で、しかも二度目が「クーポン」なのか?
それに、ガソリン税の消費税との「(憲法違反の)二重課税是正」を言わないし、税額の「53.8円/リットル」のたったの1割=5円とするケチ臭さは、政権がDSのコントロール下にあることを自白している。

だから、もっとDSに都合がいい理由から、党を割って独立する安倍派に、またまた次の内閣を作らせて、あたかも保守合同「前」に戻るようになると予想するのである。
いまの「野党」では、演技が下手すぎてDSの存在がバレるからだ。

もちろん、なにがあっても国民に都合が良いことがあるわけではない。

読書ノートのためのアプリ

なんだかんだいって、電子書籍でもやっぱり、アマゾンの「Kindle」が一人勝ちしている。
登録されているタイトルでも、「読みたい本」が以前と比べてもずいぶんとヒットするようになった。

紙の本と電子版の両方を買うこともあるけれど、それは、引用資料には、該当するページを表記する必要があるため、「ページ番号」を知りたい、という事情からだ。
「裏画面」にでも、紙の本のページがわかればいいのだが。

いろいろ言っても、「読書ノート」を作りながら読む、となったら、断然電子版が楽である。

「Kindle」の場合、専用の「e-インク」端末をもって読書する、というときでも、マーカーやメモを付けることができて、これらの場所をあとからリストで確認することもできる。
それに、アマゾンのHPから、自分がつけたマーカーやメモの一覧をダウンロードすることもできる。

また、他の読者が何人、どの場所にマーカーやメモを付けたかも、「Kindle」端末でも表示されるから、「重要なカ所」についての投票が行われているのもおもしろい。

辞書との連携があれば、指定した「単語」の意味が自動的に表示されるし、それをまた「単語帳」のようにすることもできる。

ただし、「もっさり」動くのと、指での操作になるから、微妙に思い通りにならないときがある。
また、「メモ」といっても手書きではなく、ソフトウエア・キーボードからの入力しかできないし、「赤入れ」のように表示されず、反転した部分に触れないと、何をメモしたかもわからない。

パソコンの「Kindle」アプリは、画面の見やすさと指に代わってマウスでの操作となるから、「キビキビ感」はずっと高まる。
しかし、手軽な読書、というものではなくなる。

さて、「Kindle」を含めた電子書籍の弱点は、提供されるデータの「形式」が「独特」なことにある。
だから、パソコンで「Kindle」の画面を開いても、そこに表示されている文章や文字を直接、「コピー・アンド・ペースト」ができない。

あくまでも、「Kindle」というアプリ内での、マーカーやメモに限定されて、これを上述のように別途ダウンロードするなりして、他のメモ・アプリなどで利用するしかない。

しかし、ここに「テクニック」を使うと、「iPad」ならすぐさま、「PDF]に変換することができる。
該当するページを、そのまま「スクリーンショット」機能で、「撮影」し、その「写真」をPDFに変換するのである。

ちなみに、この「変換」の過程で用いるアプリによっては、自動的に「OCR処理」もしてくれるので、「文字検索」機能も使えるようになる。
そうやって手間をかけた、PDFをノート・アプリで取り込めば、そのまま「読書ノート」の下地はできる。

この方法は、「スポット」で数ページならよいけれど、電子書籍の全ページとなると、面倒だ。
それに、「PDF化」のためのアプリは、1回25ページまでは無料だが、それ以上となると、「サブスクリプション」の料金が重くのしかかるのである。

最近では、「売り切り」のアプリは、「良心的」といわれ、自信があるアプリは「(高額)サブスクリプション」になっている。

PDFになれば、様々なノートアプリが使える。
iPadのヘビーユーザーに「神」と言われている、絶対的定番『Good Notes5』に取り込むもよし。
このノートアプリは、「手書き」も検索可能で、期待を裏切らない確かさがある。

読んで理解する、ということで言えば、『Liquidtext』が凄い。
こちらは、「手書き」機能から先の「関連付け」機能が「有料」になっていて、「端末間の同期」機能も欲しいとなれば、サブスクリプション契約版になる。

わたしは、「手書き」と「関連付け」をしたいので、「有料版」を愛用している。
ただし、「有料版」は、大規模アップデートでは別途料金が発生する。
サブスクリプションでは、「一定」となっている。

なお、「関連付け」とは、マインドマップのように、マークした箇所が自動的に表示できるものなので、論理が複雑な文章の構造があとでわかりやすく「可視化」される。

無料版でも、マークした箇所を作業スペースに自動コピーできて、付箋のようにタグを作るのだが、他のタグを近づけると、まるで「液体」のように、ペチっとタグ同士を粘着させるような感じでくっつけることができる。

また、タグ側をタッチすれば、「原文」のマーカー部分にジャンプする。
そして、何よりも、親指と人差し指で「本文をたぐる」と、そこが縮んで見えなくなるし、元に戻すことも容易だから、「長文を読む」ことに適している。

政府発表の資料や、学術論文などはPDFで入手できるので、「まじめ」に読みたいときに、すこぶる重宝している。

「PDF]と「EPUB」の両方の形式でメモができて、やはりマインドマップ化できるのは、『MargeNote』だ。
こちらは、(電子)教科書を使って(このノートで)勉強する、というイメージに近い。

アメリカでは、教科書や副読本、あるいはプリント類が、電子化(主にPDF)されて生徒に自動配布(配信)されるので、小中学生からこのアプリで授業を受けているらしい。

そんなわけで、おじさんでも「iPad」とこれらアプリがないと、「超不便」になっている。

3年ぶりに「Kindle端末」が出たと話題になっているけど、あまり興味がなくなった。
ただ、いえるのは、12.9インチの画面が丁度いいのだが、目に優しい「e-インクのiPad」が欲しいのである。

タブレットはタブレットである

良くも悪くも、タブレットPCの世界では勝負がついて、「ipad」が圧勝となった。
アンドロイド・タブレットも姿を消したし、企業ユースの一部でウインドウズ・タブレットが使われているくらいになった。

それもそのはずで、圧倒的に「アプリ」の完成度がちがう。
ウインドウズは、やっぱりパソコンのOSだから、「板」だけのマシンでは使えないし、アンドロイドもやっぱりスマホのOSで、「板」の面積で扱うには不向きなのである。

それで、iPhoneと同じだった「iOS」から分離して、「iPadOS」になった。
例年通りこの秋に、パソコンのMacのOSがバージョンアップしたけれど、iPadOSに寄ってきている感がある。

アップルの「発明」は、この「板」を操作するための「ペン」を用意したことである。
あえて、「ペンシル」とした命名が冴えるのは、ホンモノのえんぴつのようで、そうではないデジタル感満載の機能が他の追随を許さない。

ペンシル側の機能ではなく、「板」側の機能に、画面のリフレッシュレートがあって、一秒間に何回「書き換える」のかで、価格設定上の差別化もしている。
リフレッシュレートが高い機種は、ペンでの「書き味」が大きく異なる。

それに、「画面」の上を覆う「ガラス」の厚さも、人間の感覚に影響を与えるのは、ペンで書いた線の表示が、ガラスの奥か直ぐ手前かという「違い」の存在だ。

もっとも安価な製品は、ガラス面の奥に描画されるから、違和感を人間に与えるし、リフレッシュレートも少ないので、書いたはずの場所に線が表示されるまでの、ほんの少しだがタイムラグができる。
これが、なんだか気持ち悪いのである。

この気持ち悪さには、「慣れる」という。
それは、「脳」が鈍感になるという意味だから、脳に悪い。
それで、もっとも高価な製品は、これらの気持ち悪さがないようにできている。

では、その価格差は?というと、数万円だ。
この数万円を節約することに価値を見出すか、そうでないかの選択をメーカーは提案している。
あとは、購入する側の考え一つである。

もちろん、パソコンで話題になる、CPU性能とストレージ容量の選択もあるけれど、「板」でできること(できないこと)に大差があるわけではない。

だから、ペンシルでの操作や描画という、パソコンにはないユーザー・インターフェースの違いが、購入時に先ず重視される特徴が「板」にはあるのだ。
もっといえば、何年か使うことになる「板」の遣い勝手という、その都度の違和感の積分が、価格に見合うと判断するかしないかになる。

つまり、未来予測ができるか、という問題も、今すぐにある「快適の連続」には含まれるのである。

さて、老眼を駆使しないといけない歳になって、この便利な「板」を使おうとしたときに、最初に選んだのは、10.5インチのものだった。
サイズ感と重量が、持ち運びにいい、と思ったからである。
実際に、この目論見は正解だった。

しかし、いろいろと検索すれば、「12.9インチ」の大型が「かならず欲しくなる」というコメントも散見されたのだ。
けれども実際に店舗で触ると、その重さに驚いたものだ。
それで、10.5インチにした。

不満なくつかっていたけれど、電子書籍の読書とメモに集中していたら、人生でありえないほどの「眼精疲労」からくる「肩こり」を経験した。
それで、中古でもよしとして、旧タイプの12.9インチを購入した。

まさに、老眼には「これ」である。
それに、必要だから「持ち歩く」ので、重さはあきらめるしかない。

ところが最近、OSがバージョンアップされたら、旧タイプの挙動が不安定なって、作業中に「落ちる」のである。
仕方がないので、最新よりも1世代前の「整備品」を購入した。
それで、いまではこの2枚を同時に使っている。

古い方は「閲覧専用」にして、新しい方で入力する。
そのために、折りたためる「スタンド」を購入した。
これで、目線が上がるので、クビの負担がずっと減った。

このメーカーのスタンドは、他にも2種類を愛用している。
ヒンジがしっかりしているので、ペンでの書き味にも影響しない。
左は持ち歩くにはかさばって重いけど、目線からの遣い勝手は抜群。
右は持ち歩くにはコンパクトだけど、目線が低いままなので頑張ってノートPC用にしている。

  

あたかもタブレットにキーボードをセット(純正の高価な製品もある)して、パソコンのように使うのを「便利」だというひとがいるけれど、それだと目線が下がるので長時間の作業では辛すぎる。
キーボードを使うなら、独立したもので打鍵感がよい物でないと、また肩こりを誘発してしまうのが恐ろしい。

そんなわけで、タブレットはタブレットなのである。

ただし、これからどうなるのかはわからない。
今年出た最新版は、昨年のMacに搭載された爆速M1チップを積んでいて、ストレージが1TB以上の機種には、メモリも16GB搭載だから、完全に高級パソコン並みのスペックである。

そもそも「板」にこんなスペックが必要なのか?
爆速化を期待して購入したひとたちが揃って首をかしげたのは、こんなモンスター級の「板」の性能を使いつくす「アプリ」が存在しないからだった。

ヘビーユーザーの消費行動にしては、とんだ「散財」である。

けれども、「板」用のOSと、パソコンのOSが、もしや「統合」ということになると話が変わる。
そんなことを、アップルならやりそうだけど、ならばMacにタッチ・パネルを搭載するしかない。

それに、iOSもまさかのクラウド化になったら、個別の端末スペックにこだわる必要もなくなるのだ。

やっぱり「板」は「板」として使うのが一番である。
なにせ、わたしがやりたいことのほとんどは、もうこの「板」でできるのである。

時間泥棒・JRの不親切な放送

快速電車が、後続の各駅停車の「遅れ」を調整するために、「各駅に臨時停車する」という社内放送が繰り返しあるなか、停車した快速電車も停車する駅のホームでは、特段の案内放送がないから快速電車のままで出発した、という話である。

細かすぎてどうでもいい話である。
とおもったひとは、以下をお読みなる必要はない。
もちろん、鉄道先進国であったはずの欧米では、もっとひどい案内状態なので、「論外」というご判断もあろう。

しかし、「日本の鉄道は世界一」と、自画自賛しているのが、わが国の「業界」なのだから、見過ごせない、ということになる。
ここでいう、「鉄道」には、乗り心地とかだけでなく、安全性とか時間の信頼性とかという、「サービス品質」も含まれているからである。

つまり、「たかが放送」ということにはならないのが、「自負」というものだし、その「品質」に、放送も含まれているのである。

快速が停まる駅の放送で、次駅以降の臨時停車を告げない、ということは、各駅停車に乗らないといけないひとたちの、時間を奪う、という行為である。

実際に、ドアを開けたまま車内放送で臨時停車の案内をしても、聞こえなければ意味がないし、次の各駅停車に乗ると決めて待っているひとには、聞こえたところで「?」がついて、確認の放送を聞きたくなるのが人情だけど、電車はあっさりと発車ベルを鳴らして出発したのである。

駅の電光掲示板も、「快速」の文字がそのままで、電車自体も「快速」表示のままなのである。

だから、次の各駅停車しか停まらない駅では、この電車の到着案内は、そもそも電光掲示板にない。
それで、いるはずのない電車が停車して、降車したひとたちがホームにあふれてくるから、呆然と出発するのを観て驚く客がいるのは、完全に「乗り遅れた」からである。

つまり、ここでも「時間泥棒」を働いたことになる。

駅員による案内放送があれば、それにこしたことはない。
しかし、不思議なのは、「電光掲示板」なのだ。
「臨時停車」を伝える方法が、あらかじめ用意(プログラム)されていないことに尽きる。

むかし、BBCが東海道新幹線の「特集番組」を作って放送したことがある。
ちょうど、いま主力になっている「N700系」がデビューする前の時期である。

インタビューに技術担当者が、あらゆる技術を駆使して、「700系」からの「時間短縮」は、「5分です」と答えた。
これに、BBCのレポーターはたまげたのである。
「たったの5分?」

しかし、この技術担当者は怯むことなく、真顔で「乗客の数掛ける5分の短縮だから、ものすごい効果がある」と。
そこで、日本人のこの発想が経済発展をさせ、「たった5分?」とかんがえるイギリス人の発想が、英国を衰退させたのだ、と結んだ。

だから、たとえ在来線であっても、「乗客の時間短縮」について、世界水準からしたら「異常」なほど敏感であってこその日本の鉄道といえる。
けれども現実のJRには、新幹線と在来線とで、明確な発想の違いが存在することになる。

「横浜駅」で考えると、ワンマン運転の鉄道は、横浜市営地下鉄だけだ。
ユニークなのは、新幹線とおなじ「標準軌」の線路幅で、ストップ&ゴーのダッシュを繰り返す、「関東最速」を誇る京浜急行がある。

JRの川崎駅より多摩川に近い東京寄りに京急川崎駅があるから、その分の距離が不利ではあるけど、東海道線と京急特快(どちらも次の停車駅は横浜)で、「2分」の差で京急の勝ちだった。

刑事ドラマではないし、危険だから真似っこはしたくないものの、横浜駅で「うまくしたら」東海道線に乗り換えができるかもしれない。
これで、「アリバイが崩れる」なんて作品があってもよさそうなものだ。

その京浜急行は、駅の放送を「車掌」が兼務している。
共通の「ワイヤレスマイク」で、ちゃんと駅での放送をやっている。
だから、今回のような「臨時」の場合も、車掌さんが解決を図ることにするだろう。

これが、「民間」なのである。

なおついでに書けば、京急の全線にわたる「ポイント切替操作」は、ぜんぶ「人間」がスイッチイングしている。
コンピュータに仕込んだプログラムに「依存しない」仕組みなのである。
中央コントルームで、4000回/日以上のスイッチングを、表示パネルで確認しながら人がやる。

表示パネルはコンピュータが表示させるから、「ハイブリッド式」ともいえる。
その理由は、突然の出来事に瞬時に対応させるため、なのだ。

さて、今回の「臨時停車」は、後続の各駅停車の遅れが原因であった。
これは、「待ち行列理論」の応用である。
でもやっぱり、民営になりきれないJRの残念がある。

「長州」は存在しない

先月、ほぼ30年ぶりに訪問した「萩」のことが、なんだか引っかかるので、改めて「明治維新」の不思議を整理しているところである。
それに、昨日のCOP26で書いた、通貨発行権を持った特別なひとたちと、維新の志士(特に萩藩出身で後の元勲たち)は、つながるのだ。

地元の皆さんの「熱烈なる郷土愛」は、いまどきにしたら「貴重」だから、まったくの「他意はない」のだけれども、自慢ばかりでは厚みがないとも思えるのである。
それで、「あえて」批判的な立場から書いてみようと思う。

俗にいう「薩長閥」の「長」を、「長州」と呼んでいるけれど、この呼び方は「後世」からのもので、幕末から維新の時期以前は、「長藩」とも言っていたが、それでも「萩藩」という方がふつうであった。

歴代藩主の毛利家は、もともと鎌倉幕府の初代将軍頼朝の側近、大江広元の4男を粗とする。
このひとから、「越後」や「安芸」に領地を得て、戦国時代には安芸を拠点に各地の勢力を統合した。

秀吉の時代になると、当主だった輝元は、中国地方10国を支配して、実質200万石という最大の大名になっていた。
ところが、関ヶ原で西軍が破れたら、家康から「減封処分」され、周防・長門の2か国だけの約30万石と最盛期の7分の1に落とされたのだった。

ちなみに、大名の「石高」とは、武士団を養う米の量を指すので、「兵力」を示す全国統一指標である。

さて、藩庁をどこに置くかも幕府の意向で決められて、当初の候補地(山口や防府)とはちがう「萩」が指定された。
これで、「萩藩」になったのである。

なお、当初の「萩」は、隣藩である津和野藩の出丸(砦の跡地)が放置されているような土地で、山間を抜けてポツンとあるわずかな平地である。

実際に、新幹線の「新山口駅(2003年までは「小郡:おごうり」)」から、高速バスに乗ると、すぐさま山間部となる地形である。
中国山地の終点は、とてつもなく「山」ばかりなのである。
ほんとうに田んぼで米を作っていたのか?

萩の殿様は、どうやって参勤交代していたのか?を地元のひとに聞いてみたら、いまの高速バスと同じで、陸路の山間部を通って瀬戸内海に出たのではないかという。
にわかには信じられないのは、目のまえの海から回った方がはるかに楽に思えたからである。

実際に、幕府の嫌がらせで藩庁の場所が決まったとはいえ、「人間万事塞翁が馬」のごとく、実は日本海と九州(馬関海峡)、それに瀬戸内海につながる、海上交通の要衝の地を指定されたことは、驚くほどの「富」を、その後の萩藩にもたらしたのであった。

陸地の地図を頭に描いた幕府が、その250年以上後の、「長州征伐」で敗北する遠因がここに見ることができる。
萩藩では、とっくに海路による地図を描いていたことだろう。
なにせ、戦国時代は「毛利水軍」が瀬戸内海を暴れ回っていたのだ。

すさまじき「減封」の憂き目は、お取り潰しよりはましだったとはいえ、似たような例には、上杉家がある。
室町幕府で、関東管領を務め、戦国時代には上杉謙信を出した名門が、8分の1にさせられた。120万石から15万石になったのだ。

減封で、萩藩はどうしていたのか?といえば、「検地」をやって、無理やり「石数を上げた」。
つまるところ、大増税である。
しかし、幕府への「届出の石数」を、大胆にもごまかした。

その方法がいわゆる、「特別会計制度」で「極秘」に編み出したものだ。
「撫育資金」として、城内では藩主以下一部の数しか知らないものだ。
この資金の運用をした、特別な部署が「撫育局」で、北前船のための「倉庫業」や、なんとご禁制の密貿易もやっていた。

そして、明治の元勲になる(後に言う)「長州人=長州閥」とは、「全員」がこの撫育局の局員だったのである。
一般会計を扱う主計局ではなくて、なにをやっているのかわからない、内閣府のような部署である。

また、これら全員がどうして「松下村塾」に集まっていたのか?だ。
もしや、吉田松陰とは、撫育局直属の専任講師だったのか?ということになる。
すると、「表」の上士たちが幕府指定の朱子学を学ぶのが、萩藩では「擬装」だったことがわかる。

藩内で「表」のひとたちが、いぶかって吉田松陰を「変人」と嫌っていたことの意味がわかる。撫育局員をいぶかったからにちがいない。
「下級武士」というのも、後世の「書き換え」だろう。

表の身分はあくまでも擬装で、特別会計をほしいままにしながら、藩財政の圧倒的黒字(今なら「裏金」)を捻出(実はビジネス)していた、超エリートが撫育局員だ。

英国留学前に、藩の「表」から受けとった「留学資金」を、伊藤博文らは出国前に豪遊して使い果たして悪びれないのは、撫育局からその10倍の資金を受けとる立場にあったから、「はした金」に思えたのだ。

さらにいえば、新政府の大蔵省とは、撫育局の延長だった。
それで、いまでも誰にもわからない「特別会計」があるのだ。
つまり、今現在の日本政府も本質は、長州閥がつくった「明治政府」そのものなのである。

さて、「藩財政」はそれでいい。
それに、維新のための武器やら軍艦の調達に、一般会計だと大赤字に見えた長州藩が「即金」で支払えた理由もわかった。

では、藩の住民はどうだったのか?
「検地」による大増税もあって、逃散が絶えず、とうとう江戸時代を通じて最大級の「長藩天保一揆」が起きた。
蜂起したのは13万人という。

なんだか、歴史は今を語る、の典型のような気がしてくる。

藩がよければそれでよく、その他はどうでもいい、という「思想」こそが延々と続く、日本政府の「本質」なのである。

そうやってみたら、新内閣の最初の仕事が、選挙公約で「一言もいわなかった18才以下への給付金支給」であることの意味がわかるというものだ。
これがどういう効果が期待される「経済政策」なのか?

政府の人気とりのためだけだから、「効果」なんてもう、誰にもわからないし、どうでもいい。
あるとすれば、もっとよこせ、という国民が増えて、さらに政府の奴隷にさせることができることしかないのであった。

そんなわけで、1876年(明治9)年(西南戦争の前年)に、「元勲」たちのお膝元で「萩の乱」が起きた。
これを、不平士族たちの反乱として一括処理していいものか?

萩のひとに聞いてみたかったけど、意地悪な質問だろう。
いま、その「代表」は、こないだなったばかりの外務大臣なのである。