「居酒屋」経営の難易度

インバウンドの増大とSNSの日常化が同時におきて、外から日本文化をみる外国人観光客の風景から、彼らの内なる感情が露わになってきて、それがおおむね「日本絶賛」となっていることに日本人が気づきはじめた。

ほんとうはこのような現象は、信長から秀吉の時代にやってきた伴天連も、幕末から明治のはじめにやってきた外交官たちやまだ珍しかった旅行者も、しっかり書き残しているのだが、日本人一般がいちいちこうした記録を読まないためにあまりしられていないだけでなく、時代が古くて、いまの日本を褒めているのか?の自信がなかったことも影響しているだろう。

その自信喪失の原因に、敗戦とその後の征服が影響しているのは当然である。

だから、これまた日本人一般が意識しない植民地を征服者が訪問して絶賛している交錯に違和感を覚えることもある。
ところが、その征服者のはずのインバウンドが、じつは母国での強烈な身分社会における中流以下が主流なのだとしると、妙な説得力をもつのである。

日本を訪問するインバウンドに、いわゆる「セルブ層」はほぼいない。

「日本観光」の要は、「サイトシーイング」としての歴史的建造物たる神社仏閣の見物が主流となろうが、おおくのインバウンドが驚愕しているのは「そこ」ではなくて、日本人の「日常」におけるあらゆるモノとサービスの品質(クオリティ)が、母国のそれと比較して「高すぎる」ことにあるようだ。

たとえば、「洗浄機能つき便座」への絶賛はよくしられたことであり、輸出も記録的だというが、あんがいと母国で不評なのは、外国では水道の水がたいがい「硬水」なので、噴射ノズルがミネラル成分によって目詰まりしてしまうことにある。

ために、訪日外国人でもとくにやや長期滞在の女性が気づくのが、髪や肌のつやがでてくることだという。
日本の「軟水」が、決定的によい影響を与えるので、母国に帰ってからの悪い変化にも気づいてしまうのである。

だが、むかしから旅の楽しみといえば、ご当地での「飲食」であろう。

そこで、大注目されているのが、「居酒屋」なのである。
彼らの発信で、「居酒屋」を母国語で表現する単語がみつからず「IZAKAYA」といっていることに気づくと、日本人としてはエミール・ゾラの傑作『居酒屋:原題L’Assommoir(ラ・ソモワール)』とはなにか?が気になる。

ようは、「レストランとバーの中間的な飲食店」のことを日本人はイメージするが、身分社会の下層民が集う、つまり、ゾラがいう「居酒屋」とは、わが国のそれとはぜんぜんちがう貧相で下品な店をさすのである。

それはまた、『レ・ミゼラブル』の「宿屋」も同様で、江戸幕府の五街道整備における「旅籠」の安全性とは異次元の悪党が営むことの「ふつう」と通じている。
しかして、当時のヨーロッパ身分社会における下層民の絶望的な生活感=不道徳が、じつは現在の左翼たちに保存されているのではないか?と疑うのである。

そんなわけで、日本でいう「居酒屋」形態の飲食店は彼らの母国に存在しない。

日本の現代的な「居酒屋」にリスペクトする外国人は、日本独自の飲食店形態として1000年の歴史を引き合いにするのである。

よって、いきなり母国で開業することはできない、とも自己分析している。

なぜなら、中間層以下の多数は、より野人にちかい生活習慣のために、節操もなく「入りびたる」ことと、22時を超える店舗滞在の外における街の治安を考慮すると、いかにも危険だから、というのである。

これはこれで、自動車の運転手に酒を提供してはならない、という発想と似て非なるものではるが、遅い時間に街中にでて帰宅することの危険性は、まったく暗いアフリカのジャングルを丸腰で歩くようなものであろう。

たしかに、19世紀のパリの下層社会を描いたゾラの『居酒屋』とは、日本的には戦後の混乱期にあったような、「カストリ酒場」のイメージをいうし、そこで安くてアルコールが強い酒に溺れるひとたちの絶望が渦巻く現場、という意味で、現代日本の居酒屋とは別物であろうけれども、わずか半世紀ほど前にはその辺に存在していた共通がある。

とはいえ、インバウンドが驚愕しているのは半世紀前のそれではなく、現代的な方であって、料理のレベルとアルコール飲料のレベルばかりか、街の治安の安全性がこれを支えていることも、ぜんぶセットの一括りなのである。

しかして、客層として日本人がいまだ主流の居酒屋が街の王道であるのだが、アルバイトに依存することの難易度は、常連の扱い、という点でかなり高い。
週に決まった曜日が出勤だと、客がその裏スケジュールの来店パターンであれば、アルバイトからしたら「新顔」にみえるのだ。

これはこれで、客側も緊張する。

そこで重要なヒントとして、キープボトルの存在に早目に気づいてもらえるようにしているが、最初の一杯たるビールの注文では、まったく新顔・新規客の扱いをうけるのである。
これを、どうするのか?が、店主の力量となるが、厨房配置や店の構造上、料理作りに忙しい店主に依存するのは酷である。

ところが、アルバイトのひとによっては、たとえ常連だと気づいても接客態度に変化がないことがある。
これはこれで、パーソナルな資質とするのが従来の常識だろうが、そうはいかないのは客の立場である。

ときに、昨今では、中華系の居酒屋もふえてきている。

中華系の中華料理屋というのも変ないい方だが、和食化した町中華でもオーナー一家が中華系の場合がある。
その繁盛店の共通は、やはり「女将」の接客と気の利かせ方が、日本人的あるいはそれ以上のウエットさがあるのである。

これもたまたまかもしれないが、わたしが好んで通う店の中華系女将は、わたしの顔を見るなりキープボトルを探しだし氷の準備をはじめるのである。

それが、中華料理屋だろうが焼き鳥居酒屋だろうが、である。

こういう店が好きなのである。

つまるところ、やる気=モチベーション、の問題なのであるが、これを現代的日本人の若者アルバイト(出勤は週1や2程度であるとして)にどうやって訓練するのか?は、いかに自店が選ばれ続けるのか?という経営上の究極的命題の解決法として重大である。

一方で、学生アルバイトとはなにか?をかんがえたばあい、単なる「非正規雇用」という意味ではなくて、社会の実践的な教育現場、として捉えれば、カネを得るという目的だけでは物足りないのだと本人がおもうひつようがある。

学び、としてカネを得ながら得る別の価値の方が高い、というものの見方である。

これを誰が教えるのか?
ついぞ、学校で教えているとは聞いたことがないし、いまどきの親はどうなのか?

インバウンドがいう、日本の軟水やらの価値とか、夜間でも安心して居酒屋にいられる治安・安全の価値とかはあっても、この点が欠けている。
それに気づいた中華系の女将を、これまた「高度マネジメント職」というべきかは、順番の問題である。

気づき、という最初をどこで得るのか?が、あたかも偶然に依存しているからである。


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