相対性理論と量子論とを結ぶのが「ブロック宇宙論」だという。
三次元空間に時間軸を加えた、四次元の「時空」は、それ自体で完結するブロックを形成し、過去・現在・未来が同時に存在するというのである。
かんたんにいえば、一冊の本(ブック)のようなもので、書き出しから終わりまでが全部書いてあるけれど、いまそのどこを読んでいるのか?が現在にすぎないと。
すると、すべてが決定論となって、未来も書き換えられるものではないから、個人が自由意思をはたかせているつもりでも、すでにその選択自体が決まっていることになるし、時間の存在そのものが否定されるのである。
美空ひばり最晩年の名曲『川の流れのように』は、しみじみと人生を歌った重みのある歌だと誰しもが感じるところであるけれど、ブロック宇宙論では時間は川の流れのように流れてはいない。
このことの違和感は、まったく実感や経験値とことなるので、超ミクロの世界でおきている量子の状態とおなじく、すぐさま受け入れがたい。
そこで、『ブロック宇宙管理統括事務次官』なる小説がうまれたのだろう。
個人的に、昨年より近しい人物たちが相次いで三人も世を去ったことで、人生のはかなさ、をしみじみ感じている。
最近あった年恒例のクラス会でも、もっぱらこうした話題になったのは、還暦どころかアラ70代の「お年頃」の共通なのである。
若いときには絶対にないか、笑い飛ばしていたことが、明日は我が身としてもう笑えない。
その意味で、時間は残酷、なのに、ブロック宇宙論では時間そのものが概念にないのである。
というか、上に書いたように、過去・現在・未来が同時に存在することの気持ち悪さなのであるけれど、ではこれまでに見送ってきたご先祖たちも、いまだに同時に存在していることになって、アカシックレコードとはこれまたちがうイメージとなる。
すなわち、最先端の(理論)物理学がいきつく先にあるのは、「哲学」であって、それがまた「神学(宗教)」にまで消化されないと、ふつうの人間は納得しないものである。
たしかに、ニュートンは自分を(自然)哲学者だと自認していたし、当時「物理学」なる学問ジャンルはなかった。
この点で、わが国の仏教は「葬式仏教」としての意味しかなくなり、訪日外国人の浅い理解?からか、神道(単純には「神社」)が、欧米に拡大していることの、いがいな深さにもみえる。
それは、キリスト教の衰退という相対的な問題からでもあろう。
アインシュタインの相対性理論は、まったく宗教にも適用できる。
むろん、宗教の衰退が意味するのは、多数が「信じない」ことにおける反逆なのである。
そのことが、ヨーロッパ=キリスト教世界に、イスラム系の移民を大量に受け入れることの無批判にも利用されたが、それが、えらく世俗的な選挙のためだったことがバレて、旧来の住民の怒りを買う羽目となったのは皮肉というよりも当然のことである。
それにしても、ブロック宇宙論は、あんがいと『旧約聖書』世界と似ている。
いつからいつまで、という、はじまりと終わりがある巨大ブロック内での話だからである。
逆に、わが国のばあいは、「永遠」がつねにつきまとう。
結婚式でのキリスト教式における「誓いの言葉」と、神式における「誓詞」は、この典型なのである。
キリスト教では、さいごに「死が二人を分かつまで」と結婚契約の終わりを予定している(イスラム教もおなじ)が、神式ではひたすら「永遠」なのである。
しかして、「国産み」をしたイザナキとイザナミの別れの物語は、キリスト教も驚くおどろおどろしいもので、わが国の霊的世界は綺麗事ではないリアルがあるのも不思議なのだ。
現実世界にたどり着くイザナキと、黄泉の国に留まるイザナミが同時並行で存在するのは、なんだかブロック宇宙論的ではないか?
この最先端に、訪日客のいかほどが気づいているのか?と神社の輸出の関係はいかに?
ブロック内のこの世界で数千年後、あるいは万年後、ヨーロッパ伝統の宗教が「神社」になっていることだってあり得るのである。

