1998年、わたしは職場の一部のファンたちと一緒に、地元「横浜ベイスターズ」38年ぶりの優勝(前回は生まれていない)に酔っていた。
この年は6月段階で「首位」にたち、「まさか?」となったのは、前年の「2位」が記憶にあたらしいからで、「弱小」に慣れすぎていたことの反動で夏には大きな期待に変わっていたのである。
地元に異変もいろいろあったが、「横浜そごう」の玄関前に、「大魔神社」ができて参拝したし、島根県の酒蔵が発売した特別純米酒、「横浜の大魔神」を入手するためにえらく苦労したものである。
日本シリーズでは、横浜スタジアム三塁側内野席しか入手できなかったが、西武ファンを圧倒する横浜ファンの数にも興奮・感動したものである。
これぞ、地元!の理想的光景なのであった。
しかしながら、その貴重な日本シリーズのチケットを入手できたのは、当時の「株式会社横浜スタジアム」の大株主(約45%)だった西武(国土開発)の会社人脈を通したものだったのである。
この意味で、西武は企業グループとして、どっちが勝っても儲かる体制であった。
それもこれも、1978年のスタジアム建設計画において、横浜市と市民から募集した資金だけでは足りずに、西武が出資した経緯からのはなしである。
さらに、「2位」となった1997年から、ベイスターズは日本のプロ野球チームとして初の、アメリカ大リーグで普及した「試合時の選手評価制度」を導入していたのである。
つまり、「管理野球」の定義を変えるほどの異次元をベイスターズはやっていた。
これらのことを、熱狂の中でしったら、なぜか翌年のシーズンから、「応援」にサッパリ興味を失ったのである。
それよりも、ずっと興味がわいたのは、「評価制度」の内容と運用方法であった。
そして、わたしのなかで「決別」となったのは、2002年にマルハニチロがオーナーから降りたことを契機とする。
わたしは、川崎球場以来の「大洋ホエールズ」ファンであったのだ。
そこには、『巨人の星』のなかにあって地味そのものの、「左門豊作」のイメージが重なる。
だいたい川崎球場にナイター観戦に行けば、ほぼ確実に「ケンカ」している酔っ払いのおとなを観ることができたのである。
そして、子供には「缶詰」のプレゼントがあって、これが妙にうれしかった。
あの川崎の喧騒が、いまでは懐かしい。
最新の脳科学や心理学の研究によれば、スポーツ観戦に熱狂するおおくのタイプと、そうでもないタイプに分類できるが、そのちがいは、熱狂するタイプが集団で呼吸まで「同期」するほどに外部刺激に対する同調があるのに対して、そうでもないタイプは、個人の「内側の内面」に意識が向くことでの「シラケ」であることがわかってきたという。
どうやら、わたしは、外部刺激の熱狂から内面へとタイプが移行したようである。
この内面タイプは、おおむね「構造主義的」な発想を好むのも特徴である。
現象のどんな仕組み、あるいは、人物が対象ならどんな精神状態なのか?に意識が向いて、これを解明しようとすることに「脳内快感」を得るという。
なるほど、おもいあたるふしがある。
別にいえば、面倒くさいやつ、であるけれど、そう他人にいわれても、ぜんぜん気にしない、という特徴もピッタリなのである。
むしろ、なにかと他人と同期したがる側に、ひそかな軽蔑感をもっている。
自分(のかんがえ)はないのか?という疑問からのものであるが、それはそれで「構造主義的」な発想であるので、外部刺激に同調する人物にこの質問をすると気まずくなるのでしないようにしている。
ただ、気になるのは、外部刺激に同調するタイプはスポーツ観戦だけでなく、おおむね、地上波テレビをいまでも熱心に視聴していることに気づいたのである。
むろん、自分がない、あるいは自己の領域が少ないので、批判的に観ることができず、あっさりと洗脳させられるのだが、これを拒否したい欲求もないのが特徴なのである。
つまり、何度でも騙されてその都度痛いおもいをさせられても、すぐに忘却しこれを繰り返している。
そこに、「大衆」がある、と認識するようになった。
「大衆」とは、ぜったいに反省しないのもをさすからである。
ざっと1200年前、空海が孤独を楽しんだのは、おそらく、「大衆」からの隔絶・逃避があったのではないか?
それで空海は、付き合いの浅い古い友人との絶縁を推奨している。
このことの哲学的意味は深いから、どんな真意なのか?にまた興味がわくのである。
しかし、現代の「大衆」とは、ヨーロッパでは工業社会が作り出した「労働者層」という身分をさすし、わが国ではこれと似ているが異なものとしての「中流(家庭)」がついこの前まで、「一億中流の主流」として存在していた。
すると、スポーツ観戦に熱をあげることとは、「中流である(あり続けたい)ことの集団的自己主張」をせざるを得ない(格差)社会への「反逆」ではないのか?ともとれるので、なかなかに切実かつ悲愴感があるのだ。
それはともかく、なるほど空海がスポーツ観戦に熱狂するイメージは、やっぱりわかないのである。

