財政難は「救い」となるか?

福井県の県庁所在地である福井市が,財政難から396施設の廃統合と,補助金の一律10%カットを検討する,というニュースがはいってきた.
「箱物」である「施設」は,来年10月までに廃統合と民間譲渡がきまり,譲渡先がないばあいは廃止して土地を売却・返還する方針だという.

一目見て,たいへんよいことであると感心した.
高度成長期,全国で一斉に公共施設が建設されたから,だいたい「更新時期」もおなじだろう.
すると,このニュースは,決して「ローカル」ではなく,かなりどこにでもある話だ.
その地域しか見なければ「寝耳に水」かもしれないけれど,そんなことはぜんぜんない.

しかし,一方で,福井「県」は,福井市を「中核都市」にすることが「悲願」だとして,「突き進む」というニュースもあるから,どうもチグハグしている.
だいたい行政の「悲願」というもので,住民によいことはないからだ.

上述の廃統合と補助金カットの件は,市議会でも質問が相次いでいるという.
役人側は「無い袖は振れない」という答弁だろうし,議員のほうは「存続が地元の悲願だ」と言っているはずだ.

しかし,報道されている396施設がどんな施設なのか詳細がわからない.
福井市のHPをみたら,「福井市施設マネジメント計画」(素案)平成26年11月,という文書があった.
それと,今回の「福井市財政再建計画」平成30年8月があった.
便利な時代である.ご興味のある向きは,一読されたい.
似たようなことが,読者の地元でもかならず検討されているはずである.

さて,もっともらしくまとめるのが役人の仕事だから,細かく指摘はしない.
これは,地方官僚がかいた「官庁文学」で,要は「こんなに使ってお金がないの」と言っているだけだ.
経営破綻した「宿屋」と,ほとんどかわらない分析と方策なのだ.

なんのことはない,だって人口も収入も減っちゃうから,しょうがないじゃないか,と.
それに,東京とちがって,大企業もないし,しょーもない中小企業ばっかりだから,ろくに税収もあがらないしぃ,である.

この国は中小企業でできていることをまだしらないふりをする.
補助金漬けでしょーもなくしているのはだれなのか?
それを「産業政策」だというから,思考回路は昭和のままで停止している.
こんなことを飽きずにつづけたから,お金がなくなったのだ.

こういう役人の大軍と,「無い袖でも振れ」というしかない無能な議員ばかりだから,住民はとにかく我慢するしかない.
市長だって,「なんで自分の時代に」とぼやくしかないだろう.

くわえて,「県」と「国」という上位の行政組織からの命令がある.
つまり,経営破たんした「宿屋」の再生に,損益計算書しかみれない「自称」投資家が乗り出すようなもので,ろくな再生もできないのとにている.
抜本的な対策が,後手後手になるのだ.それに,けっして再生を成功にみちびかない「経費削減」しかしないから,基礎体力も消耗する.

「今のままならいまのまんま」
危機感の欠如である.

「業務の評価」を避けて,経費削減に邁進すると,民間企業でもかならず「一律カット」という手法しか選択肢がなくなる.これを企業内官僚は「事務屋の敗北」と認めている.
このばあいの「業務の評価」とは,キャッシュを産むか産まないかであって,「必要の有無」ではない.
「外資」なら,当然の検討手順である.

だめな日本企業のおおくが「必要の有無」という泥沼議論にはまって,時間を浪費し,結果的に自己判断ができなくなっている.
行政の補助金なら,「一律全額カット」が望ましい.そうして,浮いた財源を,住民税で「寄付金控除」に振り替えてこそ,民間活力の活用になる.

住民が「必要」とする事業だから,そんな乱暴なことはできない.
かならずそういうが,誰も「必要」となんかしていない.
くれるというからもらっている.いや,もらえというからもらっている,程度である.
しかも,いちど補助金をもらうと,もらった側の魂が抜かれるから,もらいつづけないとやっていけない.
そんな,「補助金依存」こそ,世の中に必要がないのだ.
有力閣僚経験者も地元にいるから,所得税「特区」にでもしてもらって,寄付金控除を国税にも適用できないものか?

本来は,「財政再建のため」ではないが,オリンピック「のため」ならなんでもできるように,利用するなら利用すればよい.
そういえば福井県は,ことし「国(民)体(育大会)開催県」だったから,「国体のため」といって,いろんなお金を「必要だ」といって使ったろう.

オリンピックはたまたまだが,国体は確実に50年にいちど順番がくる.
「国」がオリンピックにことよせていろいろ使うなら,「県」だって負けてはいられない,という住民からしたら意味不明の理屈が役所にはある.
次回の50年後,住民の人口がどうなっているかをかんがえたら,おぞましいだろう.

大きくいえば,行政と民間の「棲み分け」をすることが「必要」なのだ.
「行政にしか」できないことはなにか?
じつはほとんどない.
バッサリ切り捨てれば,そのうちこの国でもっとも可能性にあふれ活気のある「市」になるだろう.
そうすれば,自然に中核都市に「なっちゃう」のである.

わたしが尊敬してやまない,橋本左内を産んだ街である.
日本中がびっくりするような「妙策」を,深くかんがえて実行されることを切に願う.

知的伝統

内容をよくしらないのに外からけなす「外在的批判」と,知的伝統からでるべくしてでた「内在的批判」がある.
さいきん想いを強くするのは,無責任ともいえる外在的批判がおおく,内在的批判を聞かなくなっていることだ.
これは,知的劣化ではないか?

わが国の知的伝統としては,儒教,なかでも朱子学があった.
江戸幕府は,幕府の権威すなわち幕藩体制維持のために,とくに朱子学を各藩にも奨励したから,支配者を支える論として,朱子学は幕末まで生きのこった.

このなかの最大学派が,「崎門学」(山崎闇斎創始)という.
朱子の言葉の解釈を中心におくから,どうしても受身的(パッシブ)な学派であるが,あんがいわが国の学校教育における「スタイル」は,こちらの伝統にあるのではないか.

一方,おなじ儒教からでた「陽明学」は,幕末になってさかんになる.
革命的な「回天の思想」ともいわれ,ひとをその気にさせる哲学を学ぶから,アクティブなのだ.
明治維新を経て,新政府の骨格をなした人物のおおくが松下村塾の門下にあったのは,若くして松陰先生の陽明学にその気にさせられたからである.

残念ながら,わが国の「列強に対抗する」という時代の要請から,これらの知的伝統が途絶えてしまった.
不思議なことに,その欧米列強に対抗できたのは,知的伝統教育を受けた人材が健在な時間でのことだったのに.
つまり,知的伝統の全部が否定されるものではなかった.

いま,これをなんとか復活させようにも,文科省のさだめる「学制」にしたがわないと,もはや「私学校の設立」もままならないのは,「モリカケ問題」に見るとおりである.
それで,わが国には国の統制から自由な教育機関が「受験予備校」をのぞいて消滅したのである.
ただし,「予備校」には「卒業資格」があたえられないから,「学歴」にはならない.

「学歴」がほしくてか,そのなかの有名予備校がわざわざ文科省傘下の大学を創設したが,そうではなく,受験予備校というスタイルのままで,学制にとらわれない「塾」をつくれば,あんがい先進的企業に受け入れられたかもしれない.

「稼ぐための知力教育」に特化すれば,文科行政にがんじがらめの既存大学に十分対抗できるだろうから,生徒が減る少子化対策として,予備校が取り得る多角化戦略のひとつではないか?
どうしても「卒業資格がほしい」なら,外国の大学の「予科」としてもいい.

欧米の伝統的「知のシステム」は,「真理」をめざす.
唯一の「真理」という発想は,刑事裁判でも重要なキーワードである.
人間は,いつか「真理」を手にすることができる.
こうして,科学も発達した.

ところが,「真理」だと信じたものが,じつは「制度」にすぎず,唯一の真理など存在しない,と批判するひとたちがあらわれた.
これを「構造主義」という.

構造主義の破壊力はすさまじかった.
歴史は進歩するとした,マルクス主義の基礎をなす歴史主義も,20世紀に華々しかった実存主義も破壊した.当然に,マルクス主義自体も構造主義による論破の対象だった.

ソ連東欧の社会主義が崩壊したからマルクス主義がだめなのではなく,とっくに論破もされているからだめなのだ.
もはや欧米でマルクス主義が見向きもされないのは,あんがい日本では識られていないこうした事情がある.

これを身近にたとえれば,ユークリッド幾何学がある.
古代ギリシャ人が考えつくしたとされ,ニュートンが物理学に応用したとして「やっぱりすごい」と思われたつかの間,アインシュタインによってあっさり書き換えられ,そのアインシュタインも,量子論には歯が立たなかった.

ユークリッドがいう平行線は,絵画の遠近法でも崩れ去った.
平行線はけっして交わらないはずの「真理」があるのに,平行線が一点で交わるのが遠近法だからだ.ルネサンスの時代,精密な遠近法の絵画がさかんに描かれた背景に,ユークリッド以前に帰るというあたらしさがあったのである.

ところが,遠近法が常識の「真理」になったはずなのに,そこから数学的に位相展開すれば,四角も三角も円も,みんな一本の線を閉じて書くものとなってしまう.
それで,ピカソのシュールレアリスムが生まれた.じつは,ピカソの絵は数学的なのだ.
こんどは,シュールレアリスムが「真理」になればと,どんどん変化して,結局のところ唯一の「真理」は存在するのか?いや,存在しないになったのだ.

つまり,そのとき「真理」とおもわれたものが,あるルールでの「制度」にすぎないことを意味した.
これがどれほどの知的衝撃をヨーロッパ人にあたえたか?
しかも,このできごとはほとんど現代でのことである.

こんな発想は,日本の知的伝統にはない.
しかし,ヨーロッパ思想にみられるローカルと決めつけることもできない.
もっといえば,おなじ時代にくらすわたしたちが,想像もできない知的ショックをヨーロッパ人は経験済みなのである.

「知的伝統」について,もっとリスペクトと理解が必要だろう.
そういう人々が,高単価な旅行客として日本を訪問しているのだ.
「人数」しか興味のない観光を管轄する役所が,観光業界になんの恩恵もない存在であることの証左でもある.

業界人は,人間の研究がなくてはならない.

不祥事の連鎖

組織トップによる不祥事がつづいている.
猿の行動にみられる連鎖に似ていて,群れをこえて伝播しているようだ.
これらの一連の不始末の特徴は,突出したトップの暴走,というパターンである.

役員会はブレーキをかける役目をはたせず,むしろ補助して理不尽を加速させる体たらくである.
まさに,「頭から腐った」という姿だ.

なぜこんなことになったのか?
いくつかの理由がかんがえられる.

第一は,理念の欠如である.
その組織の存在理由が理念である.なんのために存在し,なにをもって社会に貢献するのか?が「文章」になっているのがふつうだ.
これを「あってなきもの」とすると,組織は糸が切れた凧のごとく迷走をはじめる.

この究極が,「俺が理念だ」のパターンである.
これは、「独裁」を呼ぶ.
白紙の理念にその都度書き入れては消すから,だれにもわからない.
この疑心暗鬼が,組織の運動になってトップ崇拝を促進すると全体主義ができあがる.
トップからみたら,子犬をしつけるがごとくの組織になる.

第二は,理念の目的合理的な追求をする活動の欠如である.
さいきんはこれを「◯◯ファースト」と言っているが,そうではない.「合理的な追求」という行為である.「◯◯ファースト」は,標語にすぎない.行為がないから,都政も標語だけになった.

第三は,上記二つを組織の構成員が全員共通認識として共有していることの欠如である.
「牽制」が効くのは,目的合理でないことがあれば,たちまちにして組織内で「異常」と認識されるからである.免疫システムの抗体が,異常を正常にもどすのとおなじ機能がはたらく.

さて,上記三点は,健全な組織では,ふだんはあまり意識しないものだ.
ただ,自分たちの「使命」については,意識が高い.
それは,理念とその合理的活動から,「使命」が生まれるからである.
「使命」とは,じつは上記の三点を包括している.
つまり,「使命」の欠如,という問題が露呈しているのだ.

相撲,柔道,レスリング,アメフト,ボクシング,チアリーダー,バスケ,体操と,スポーツ系がつづいている.おそらく,まだまだあるのだろう.
一流選手だったものが,一流の「経営者」とはかぎらない.
スポーツの企業支援は,お金もさることながら,マネジメント層の貸しだしのほうが重要なのかもしれない.もちろん,儲かっている企業からの,である.

これら団体の共通項は,文科省の子会社スポーツ庁の管轄にみえる.
しかし,そもそもスポーツ庁なる役所ができたのは,サッカーくじの管理だった.
くじで稼いだお金を,補助金にしてばらまく,という機関だから,不祥事に対して対処するという想定がなかったろう.

長官が言う「厳しく対処する」とは,「補助金をあげないよ」という意味だ.
それでは困るから,とにかく頭をさげる.
とりあえず,頭をさげればなんとかなる.
この「形式主義」は,封建時代とおなじである.
ちがうのは,本当に斬首されはしないことだ.もちろん,栄誉の切腹もない.

いかに補助金をもらわずにマネジメントできるか?
「寄付」がしづらい国は,ソ連型国営スポーツに成り下がるしかないのか?
ナチスもソ連も,スポーツ振興に予算をつぎ込んだのは,劇場国家にするためだ.
パン(年金)とサーカスを与えれば,国民は満足する.

企業の不祥事も続いている.
大手運送会社の不正請求は,組織ぐるみだった.
わが国に「宅配便システム」を普及させたこの会社の名経営者は,「サービスが先,利益は後」という信念を強く表明していたが,2005年に亡くなってわずか13年にしてこの体たらくである.十三回忌の法要の意味は深い.

人間の行動は,母国語を中心とした言語によって「制御」されている.
日本語しか自由に話せないなら,その人の行動は日本語によって制御される.
思考,すなわち,かんがえるときも日本語だからである.
おおくの日本人は,日本語しかできない.だから,日本語の「言語空間」が,わたしたちに決定的な影響を与えるものなのだ.

そこで,日本人はどんな「哲学・思想」を持っているのか?をあらためて(日本語で)考えると,近代思想のほとんどが輸入品で,そのまたほとんどが「ヨーロッパ」を起源にする.
現代のローマ帝国である,アメリカ合衆国も,ヨーロッパ起源の人造国家だ.
「資本主義の思想史」-市場をめぐる近代ヨーロッパ300年の知の系譜-という大著が今年,日本語で出版されている.

せっかく良書が日本語で出ているのに,「ブーム」にならないのはなぜだろう?
約600ページもある「大著」だからだろうか?
わたしたちは,ほんとうに近代ヨーロッパ思想を「消化」できているのだろうか?

1980年(昭和55年),この年のベストセラーはなんといっても,フリードマン「選択の自由」だった.この本も500ページをこえる大著であった.

フリードマンといえば,今では(日本語で)大批判されている「新自由主義」のなかでも強硬的な「自由放任主義」の大家で,ノーベル賞もさることながら,レーガノミックスの考案者である.
同時期に,サッチャーの英国は,やはりノーベル賞を受章したハイエクの「自由の条件」を下地とした政策が打ち出され,英米ともに新自由主義が与野党共通の「思想基盤」になって現在にいたっている.与野党共通である.

東ヨーロッパの「民主革命」では,ポーランドとスロバキアから分離したチェコが,社会主義からの脱却にハイエクの思想を最初から導入して,ソフトランディングに成功した.
なんと,社会主義時代から,「敵」の研究としておこなわれていた経済理論で,研究者をして「敵が正しい」と納得せしめたのがハイエクだったのだ.

この両国では,その時の研究者が,チェコでは首相に,ポーランドでは中央銀行総裁から大蔵大臣になっている.
ポーランドのバルツェロビッチ氏は,中央銀行総裁当時,EU内で最高のバンカーの称号も受章しているのだ.氏はいまでも健在で,ワルシャワ経済大学の教授である.なお,この大学は経済単科大学として,一橋大学と提携しているが,習うべきは日本側ではないかとおもう.

つまり,なんといっても「思想」が大事なのだ.
相変わらずマルクスに脳髄を犯されたままで,世界潮流の思想を拒否する国.
それがわが国である.

80年代のサラリーマンは,よく読書をしていた.
すでに「ハウツーものばかり」と批判はあったが,フリードマンがベストセラーになったのだ.
ただ残念なのは,「自由」を「自由放任」と勘違いしたことであった.

この勘違いが,組織を腐らせている.

米国製の教育用電卓

ずいぶん前にこのブログでも関数電卓について書いた
あいかわらず,日本製の「教育用電卓」が国内で売られていないから,外国旅行でみつけて購入するしかなく,なんと国内では米国製のものしか手に入らないという逆転がおきている.

そういうわけで,日本製の教育電卓をさわったことがないから,コメントができない.
しかたがないので,今回も米国製のはなしになる.
「電卓」で米国製とは?とおもう向きもあるだろう.
もちろん「MADE IN CHINA」である.しかし,電子回路のロジックは「米国製」だ.

国内で売られているものは,どれもTI(テキサスインスツルメンツ社)のもので,小学生用の関数電卓,高校生用のグラフ電卓が二種類の,あわせて三種類になっている.
ここでは,わたしも愛用している小学生用の関数電卓にはなしを絞る.

「小学生用」といっても,計算機能はあなどれず,分数(約分も通分もして帯分数もできる),三角関数,べき乗・べき乗根,対数にも対応している.
これにメモリーが7個もあって,方程式の代入計算ができる.

「経営」に三角関数はまず使わない.けれども,べき乗・べき乗根は,複利計算に必要だから,「経営者」で日本製のふつうの関数電卓も持っていないなら,かなり危険とかんがえてよい.
これも前に書いたから本稿冒頭のリンクを参照されたい.
いま,量販店なら,980円でべき乗・べき乗根が計算できる関数電卓がてにはいる.

もちろん,すすんだ経営者は「金融電卓」を愛用しているかもしれない.
TIも製品があるし,やはり米国のHP(ヒューレットパッカード)のものが有名ではある.
これらの電卓のつかいかたに間する,「ドリル」も日本語になっているものがあまりないから,日本の金融マンのレベルがしれる.
だから,日本の銀行マンの前でこの種の電卓を使いこなすのは嫌みになるかもしれない.

さて,小学生用の計算機が「教育的」だという第一の特徴に,正と負の符号入力がある.
ふつう,身近にある日本製の電卓は,引き算のマイナス記号「-」と,負の数をしめす符号の「-」を区別しない.
ところが,この「教育電卓」では,これを区別する.

(-3)+(-4)=-7
を計算するとき,「-」の入力に,引き算の記号をつかうと「エラー」になるのだ.
別途用意されている「(-)」という符号キーで入力しなければならない.
計算機への入力工数はおなじだが,キーがちがうことで,ややこしくなる「負の数」と「引き算」を分けている.

小学校では「算数」だったものが,中学以降は「数学」になるのは,「算数」は計算方法を習い,「数学」は問題を解くための論理を習うというちがいがあるといわれている.
その最初,中学1年生の数学では,「算数」から「数学」への橋渡しとなる「負の数」が,いきなり立ちはだかるようになっている.算数では,「正の数」しか扱わないからだ.

引き算の記号であるマイナスと,負の符号であるマイナスがおなじ扱いになると,足し算の記号であるプラスと,正の符号であるプラスもおなじ扱いになるから,
(-3)+(-4)=-7

(-3)-(-4)=+1
(-3)+(+4)=+1
がグチャグチャになって混乱する.
これを区別のない電卓で計算してみればよくわかる.

面倒だが,メモリー機能をつかわないと正しい答がでないのがふつうの電卓だ.
「+M」と「-M」をつかいわけて,「MR」キーで答えが出るけど,混乱がスッキリするだろうか?といえば,はっきりしないだろう.
上述した例題は単純だけど,ちょっと複雑になったら,おとなでも混乱するはずだ.

これだけでも,教育用電卓の教育効果はおおきい.
中学2年になろうが,高校3年になろうが,符号と計算記号の区別はつづくから,電卓のボタンを押すたびにこの違いを体に教えこむことになる.

小学生がつまずくのは,計算の順番だ.
2+3×4=?
2+3=5 ⇒ 5×4=20 ✕
と,式の頭から順番に計算すると,一つ一つの計算は正しいのに答をまちがえる.
おなじ式のなかに掛け算や割り算があったら,そちらを先に計算しないといけない.
3×4=12 ⇒ 2+12=14 ◯
が正解となる.あんがい大人もまちがえる.
この電卓は,数式どおり入力すれば,正しい答をだす.

もちろん,小学生の「九九」を軽視しているのではない.
むしろ,頭脳が発達中の子どもには日本では「珠算」をさせるのがいいだろう.
しかし,学習の補助として,分数の確認にもってこいなのが最初のころの魅力だったらしい.
アメリカでは両親がそろっていないことがあって,家でひとりでやる宿題のために電卓を貸し出したら,有意で成績があがったという.

いま,日本の高等教育は,分数ができない学生のおおさに悩まされている.
工学部の学生が,分数の割り算ができない.
さすがに入試で分数の割り算を出題するのは,学校側が恥ずかしくて出題できないというが,どうやら本音は,少子化の中,合格者が減ってしまうということではなく,分数を出題したら,できない学生の受験数が減る畏れがあるらしい.

それで,入学後,強制的な「補講」を実施している大学が,文科省の「モデル校」になっている.
大学教師は高校教師に,高校教師は中学教師に,中学教師は小学校教師に,「なんとかしろ」と言って,もうかれこれ30年つづいているから深刻だ.
しかし,こんなにつづいている理由はかんたんで,解決法がだれにも見出されていないからなのだ.

この状況,どこかで見たことがある.
「だめな組織」にそっくりである.
「だめ」が長くつづいて解決できないのは,たいがい「コンセプト」に問題がある.
つまり,数学教育にかぎらないだろうが,「なんのために」「誰のために」といった,根本的な見直しが必要なのだろう.

「子どものために」「将来の稼ぎために」,これに「しつけ」も親が学校に丸投げしたから,学校現場は文科省の役人がかんがえるほど甘くない.
そもそも,文科省の高級官僚は,大学を卒業して一度も教壇に立ったことがないから,現場を知る由もない.いまどきの小学生にからかわれる環境で,自分の授業が成立しない経験もない.
だから,文科行政が「しっかりする」ほど,わが国の教育が劣化する仕掛けになっている.
「祭り」の疲弊とよくにているのだ.

その文科省の管轄ではない,どこかの塾講師のだれかが,「数学ができる」と,「年収が100万円」もできない人のうえをいくという統計があるから,40年勤務すれば単純に「4,000万円」ちがう,と言っていた.
ただしい表現であると感心した.
こうしたことを「言うな」と役人は言うだろうからダメなのだ.

「稼ぐ」ために役に立つ,これである.

ほんらい,義務教育が終われば「稼ぎに」でて,人生が自立できるようでなければならない.
「職人」には,数学は一般人より必要なはずだ.
つまり,動機づけにすら失敗しているのではないか?

教育用の電卓は4,000円しないのだから,なんて安い投資だろうか?
肝心なものをケチると,貧乏になる.
「必要経費」を削ってはいけない.

安ものではなく,いいものを買う

先日の資生堂が業務用品からの撤退を決めたコメントで,「儲かっている企業」の行動の説明がわかりにくいという声を頂戴した.
どいうことか,くわしくご紹介したい.

おなじ業界内でも,儲かっている企業とそうでない企業が混在している.
30年もたったバブル前なら,景気がいい業界とそうでない業界で区分できたから,ずいぶんとミクロ化したものだ.
これは,「情報」のキメの細かさという変化が原因だとおもう.

つまり,取引形態が B to B だろうが,B to C だろうが,顧客志向を追求しているという情報が手に入ると,そちらの会社の発注がふえる.そうやって,下請けからの脱却に成功した会社とそうでない会社に分離したのがこの30年だった,ともいえる.
インターネットがこれを可能にさせたのは,いうまでもない.
こうして,業界全体の浮沈から,企業単位の浮沈へと変化した.

すると,儲かっている企業にあって,そうでない企業にないものはなにか?をかんがえると,「経営戦略」ではないか?とおもいつく.
実際に,儲かっている企業は,たいへんな苦労をして,「勝ちパターン」を編み出している.
これを,ふつう「経営戦略」という.

裏返せば,儲かっていない企業には,「勝ちパターン」がないか,編み出されていない.
こういう会社ほど,あんがい社長はいい人で,かんがえるより手を動かすのが好きなことがある.
しかし,社長の最大の仕事は「勝ちパターン」を編み出すことだから,とにかくこれに集中してほしい.

さて,その勝ちパターンの「根底」のひとつに,相手が買っているもの(価値)を識っている(つきとめた),ということがある.
だから,自社ではそれを「追求した」商品を提供すればよい,というパターンになる.
相手が商売人であろうが,消費者であろうが,相手にとって「役に立つ」を自社で追求するのだ.

だから,想定顧客は重要なきめごとであり,その想定顧客がよろこぶ「価値」がなにかを追求することが必要になる.
こうした,「思考」をしていると,自社が他社からモノを購入するとき,「安い」だけでは選定基準になりえない.

この目的に合致したモノ「でなければならない」のである.
だから,どんなに値段が安くても,その目的に合致したモノでなければ購入しない.
ムダになるからである.
これが,「儲かっている企業」の思考と行動である.

たとえば,店舗の内装や備品類.
「想定顧客」という概念を無視すると,オーナーの「趣味」や「センス」での決定になる.
たまたま,それが「想定顧客」と合致すればよいが,そうでなければほぼ「残念なこと」になると想像するのはやさしい.

だから,これらをプロのデザイナーに発注するときには,かならず発注側が「要件書」を作成し,事業イメージを伝えるのだ.また,「プロ」であれば,これを発注側に要請する.
ところが,これを丸投げにするひとがいる.
発注側がなにも用意せず,いきなり予算を伝えて,絵を描いてくれ,と.

それではできない,といって仕事を断る「プロ」がいたら立派である.
しかし,現実には,仕事がほしいから,絵を描いてしまう.
工務店にいる社内デザイナーなら,材料を「工夫」して,すくない予算内におさめた提案をしてくれる.
それが,本来この店舗のコンセプトに合致するか問題なのだが,「プロ」はコンセプトまで作文してくれるから,こんなことを依頼する発注側は「有難い」とおもうのだ.

「プロ」からすれば,たとえ「仮」でも,コンセプトがなければ絵が描けない.
それで,発注側の意見を参考に作文する.
こうして,なにもかんがえなくても店舗はできる.
それでいまどき「儲かる店」ができたら奇跡である.
だから,それなりの店はできるが「成功」はしない.

もちろん,なかには凄いプロがいて,「儲かる店」をつくってしまうひとがいる.
しかし,これは、その「プロ」の店であって,発注したひとの店ではない.
だから,経年して「安くしようと」自己流に店舗をアレンジすると,もうちがう店になる.
「他人依存」の末路はさびしい.

「儲かっている企業」は,戦略があって事業コンセプトがある.
それに従った買い物をするから,「安い」でも「センス」でもないのである.

自由に考えろと自由にいうけれど

「自由勝手」を略して「自由」というから,「自由だけ」の「自由」がなんだかわからなくなる.
このブログで何度もふれているけれど,資本主義社会の「自由」とは,「自由放任」の自由ではなく,「他人から強制されない」自由をいう.つまり,「自己決定権」のことをさす.

だれにも強制されず自分で決めたのなら,その「結果責任」は自分にあるのは当然だ.
だれかに強制されて決めざるをえなかったのなら,その「結果責任」は「無効」判断されて消滅するのも当然だ.これをふつう「脅迫」や「詐欺」というからだ.
自分で決めた「結果」が,よくなかったから「結果責任」をとりたくないというのはわがままである.カジノのルーレットで負けたのに,チップを取られるのが嫌だというのにひとしい.

とにかく資本主義とは「悪いもの」と決めつけて信じているひとは,もはや「世界の常識」になった「新自由主義」を批判して,「自由放任」の「強欲資本主義」だと攻撃する.
これに日本国内ではだれも反論しないから,新自由主義は「いけないもの」と一般人は擦り込まれるが,自由放任を「明確に批判」しているのが「新自由主義」の立場であるから,大嘘もはなはだしい.これを「デマ」という.

こうした「デマ」を平然といってはばからないひとが,「結果責任」にも攻撃して,「冷酷だ」という.それで,発言者の自分は「心温かい善良な人間」だとうそぶくのは,悪魔の所業ではないか?
ほんとうの善良な人間なら,「決める前によくかんがえろ」と相手に注意するものだ.

いま,おおくの企業のトップは「自由にかんがえろ」と組織に「命令」している.
それで,うまくいかない理由がわからないから,「うちの社員の頭はかたい」と嘆くのだ.
こうした経営者は,創業者ではなく,新入社員から社内昇格してなったサラリーマン経営者におおくみられる.
つまり,「自社しか」しらないひとである.

その「自社」のもつ「文化性」が,はたらく人々を支配する.
だから,新入社員からその文化に「漫然」と浸ると,しらないうちにその文化に染まるのが人間である.
社会をしらない新卒新入社員に,企業ごとの独自文化にたいする免疫なぞあるはずもない.だから,しっかり心の奥まで染まってしまう.

よい文化ならそれでよいが,よくない文化なら変えなくてはならない.
しかし,サラリーマン経営者の心の奥まで染まってしまっているものを,なにがよくてなにがよくないかというのはすぐには区別することすらできない.
結局,面倒だから放置する.
こうして,めにはみえない「社内文化」の支配は温存され,新しく入社するひとびとの心を染める.

銀行支配の時代,銀行幹部が取引先企業の経営者に天下って,傾いた会社をみごと復活させ,「名経営者」ともてはやされたことがずいぶんあった.
彼らは,たいがいこの「企業文化」から手をつけて成果をだしたものだ.
外部からやってきたからこそ,よい文化とおかしな文化のちがいに気づいた.
そして、人間は心を持っていると識っていた.

これをみて安易な役人は,外部なら誰でもよいとして,社外取締役「制度」をつくった.
それより前に,金融検査マニュアルで「担保価値」の確保を命令された銀行経営者は,金融業とはいえ「質屋」になったから,以前とちがって「企業文化」の重要性をしらないひとでも銀行幹部になれた.

むしろ,検査マニュアルに「したがうだけでよい」とする目先の「合理主義者」しか高級幹部になれない.
そんな「質屋」が天下って,いまはやりの「経費削減」をやっている.
銀行出身「名経営者」絶滅の理由である.
「経費削減」で復活をとげた企業など存在しない.

これを,池井戸潤氏が「半沢直樹」シリーズに書いた.
「半沢直樹は実在しないが,彼と内部で敵対する人間ならいくらでも実在する」とは現職メガバンカーの本音である.
もちろん,そういう本人も自分が「半沢直樹」になれないと識っている.
企業文化がゆるさないからである.

人間心理の集合体が「文化」を形成するから,「企業文化」は怪物にも変身できる.
社会契約論で有名なジャン・ジャック・ルソーは,人間を「原子」の「アトム」として位置づけた.
社会のあらゆる関係から断ち切られた人間は,「アトム」になる.
手塚治虫の「鉄腕アトム」こそ,ルソーの理想的境地だろう.
つまり,人間のロボット化である.
手塚は共産党員だったから,わかりやすい.

これを,ヒトラーとスターリン,毛沢東が実践したのは偶然ではない.
この三人も,じゃんけんの「グー・チョキ・パー」のようで,バラバラな対立関係であった.
ほとんどおなじ思想背景だから,近親憎悪だったのだろう.

つまり,人間には「拡散」と「集約」という心の運動があって,アトムを拡散すればバラバラになるし,集約させれば一点集中になる.宇宙のビッグバンの前後のようなものだ.
上記の三人が意図した,アトムを拡散してバラバラにさせ,人間をロボット化したからこそ,全体主義が完成した.ハンナ・アレントの「全体主義の起源」に詳しい.
「総統」「書記長」「主席」以外,家族も友人もだれも信用できない社会にすればよい.

だから,社内文化のベクトルを「集約」方向に修正するのがただしい経営者の役割なのだが,これを「拡散」させる手もあることに注意が必要だ.
あんがいさいきんの大企業のオフィスでは,「拡散」があるのではないか?

東京丸の内の文化をあつかったCMで,飲み会に呼んでいない上司がやってきて「呼ばれてないけど(参加していい?)」に対して「呼んでいません」と手で制止する場面をどうかんがえるか?
部下がするから意味が深いが,不快になる心理もある.
これをCMとした制作意図は,「自由が主張できる文化の街」かもしれないが,それはルソーの「自由放任」の自由ではないか?

底知れぬ人間関係の断絶にともなう冷たさが,最新の都市の価値感だとすれば,無機質な新築ビルの街並みとあわせて,とうとうひとの心まで無機質をよしとするというのは,やはり不気味である.
日本を代表する不動産事業者のこうした価値感の表明は,日本という文明の終わりの始まりの絶望的な合図なのかもしれないとおもう.
これがわたしの「不快」の原因だろう.

自由に考えろと自由にいう経営者が,どちらを向いて言っているのか?
自由に考えた結果を,採用するかしないかにある.

はじめから採用する気がないなら,「文化」への意識がない.そんな思考の程度だから,本人は無責任ともおもっていないはずだ.
こんな企業は,将来経営問題が噴き出す可能性がある.

でてきた提案にいちゃもんを付けるだけも同様だが,あきらかに不信を組織に蔓延させるなら,「拡散」方向である.
もし,これに「恐怖」も付随させるなら,「君臨」を意図していることになるから,早期の転職を検討したい.かならず「破滅」が待っている泥船である.
長居は無用,逃げるが勝ち.

げに文化とはおそろしい.

資生堂の業務用品撤退の意味

今月はじめ,表題のニュースがあったが,ホテル・旅館業界の反応がいまひとつみえてこない.
月代わりするまえに,コメントしておこうとおもう.

あらためて,報道によると,資生堂が「業務用」の化粧品事業から撤退する.
具体的には,1992年(平成4年)に設立された,「資生堂アメニティグッズ」が年内に営業活動をやめる.売上高は年間数十億円だったというから,小さすぎて詳細はわからない.
これで,ホテル・旅館業界は,ポーラなど,他社への取引先転換をすすめることになる.

さて,ここで最初に注目したいのは,設立年である.
まさに,バブル経済の崩壊期である.
だから,「資生堂アメニティグッズ」側からみれば,会社設立の営業開始以来ずっと,納入先から「理不尽」な値下げ要求ばかりだったと推測する.

なぜ「理不尽」かといえば,商品に不備はないのに単純に「安くしろ」という要求であったろうからだ.
こうした要求ができる理由は,以下のようなものだろう.

老舗旅館の経営者のおおくは,若くしてそのまま家業を継ぐばあいと,いったん大手ホテルなど宿泊関連企業に就職して,しばらくして退社し家業を継ぐというパターンがある.
また,大手ホテルのばあいは,「サラリーマン」としてのホテル勤務をしていて,社内昇格によって幹部になるパターンである.

こうしてみると,経験は,家業か大手ホテルのサラリーマンかに絞られる.
いわゆる,「利益」や「経費」の本質について,恒常的に儲かっている企業がどのような判断をしているのかしらない,という「ビジネス経験」になってる.
簡単にいえば,日本を代表するメーカーや商社の出身者がいない,ということだ.

それで,「経費削減」が至上命令になるのである.
このブログで何回も書いたが,「経費削減」で業績向上を成功させ,企業の復活を果たした事例はない.
むしろ,理不尽な要求で,自社の評判を落とし,ついには「信用」をなくすことすらある.

自社製品になんの落ち度もないのに,取引先から「値下げ要求」をしつこくされたらどう思うか?
なんで,こんなひとたちの要求を飲まなければならないのか?と思うのがふつうの反応だ.
「買ってやってる」という一方的な上から目線は,互いに同等の立場である正常な取り引きではない.つまり,略奪的なのだ.

大袈裟にきこえるかもしれないが,資本主義的ではない.
だから,独占禁止法でも,有利な立場を利用して支配的な取り引きを強要することは禁止されている.それは,資本主義のルールではない,ということだ.
前資本時代の取り引きになってしまう.

今回の,資生堂の判断は,ホテル・旅館業界への決別である.
「もう知ったこっちゃない」とか,「無理やりおつき合いする道理はありません」と.
すくなくても,わたしにはそう見える.
残念だが,これに一方のホテル・旅館業界は気づいているのだろうか?と問えば,「否」であろう.

それが,前述した「ビジネス経験」のなさが原因だとおもうのだ.
そして,外国人観光客のおかげで単価も稼働も上昇したが,経営の意図として達成したものとはおもえないことにつながる.

お客様がつかうシャンプーなどを,とにかく安く仕入れたい,という発想は,裏返せば,お客様へのサービス水準も安くて(チープで)いい,ということに等しい.
もっと満足度を高めて,もっと利用頻度をあげて,もっと単価を上昇させたい,とかんがえるなら,もっといいシャンプーはないのか?になるはずではないか.

何度も書くが,損益計算書のとおりに世の中はなり立っていない.
損益計算書は,ただの「計算書」である.
だから,売上-経費=利益 は計算式であって,実際は,
経費の支払⇒売上の入金⇒キャッシュの増減 である.

すべて,経費の支払いからビジネスははじまる.
だから,どんなものを「買う」のか?は,ビジネスの結果に影響するのは当然である.
「安いものがいい」では,ビジネスは成長しない.
自社の目的にきっちりかなったものだけを適正価格で買う,これがビジネスである.

単純だが,上述の重要さがビジネス経験を積まないと理解できない.
だからこそ,理不尽な要求ができるのだ.

売上高1兆円を突破した資生堂の業績は,いま「絶好調」である.
一方のホテル・旅館業界の業績は,果たして「絶好調」といえるのか?

「なぁに,資生堂なんかなくても他社があるさ」と,どんなにうそぶいても,見捨てられたのはどちらかはあきらかである.
こうして,一切の反省なく他社にも理不尽な要求をつづければ,そのうち取引先がなくなって,とうとう独占的な一社の支配下に置かれてしまうかもしれない.

もっといいものを,ちゃんとした値段で買いたい.
そういう業界になってほしいものだ.

魂を売った「祭り」の後始末

日本の「祭り」がかまびすしい.
徳島の「阿波おどり」の騒動がまだ尾を引いているなか,兵庫県芦屋市の「だんじり保存会」が,文化庁から受け取った補助金の「返還命令」を受けたという.
金額は,1,480万円というからバカにできない.
「修理費」の補助金を,「新調」したと「認定」されたのが理由という.

むかしは「写真」を撮られると魂が抜けるとして忌み嫌った時期があったというが,いまは「補助金」をもらうと魂が抜かれるのである.
むかしのは「迷信」だとわらえるが,いまのは「事実」だからわらえない.

中央政府の国や,地方政府の自治体からお金をもらうと,なぜ魂が抜かれるのか?
それは,麻薬患者がとうとう「廃人」になるように,公金をもらった側の「自主性」をうばうからである.

封建時代のお殿様からの「下賜金」であったなら,うやうやしくいただけばよかった.もちろん,断れない.
その金はもともと我々が支払った「税金」だから公平に分配すべきだ,などと文句をいうものなど存在しない.
税として取り立てた財貨は,基本的にお殿様のものである.
だから,そんなことをいったが最後,捕まって処罰されるのがオチである.

ただし,もらった側は,お殿様からの「下賜金」をすきなように使えるわけではない.
「下賜金」をくれた理由のなかにある,「使い道」に沿っていないといけない.
家臣の武士とても,なにかの褒美に下賜された「お宝」には,近代の「絶対的所有権」があるわけもなく,もしそれが何代かのちの子孫が傷をつけようものなら,直接的に「お家断絶の危機」になる.
夏にふさわしい,怪談「番町皿屋敷」のはなしも,以上の前提あってこその物語展開である.

こうしてみると,「補助金」というものの性質に,「下賜金」の概念がいきている.
使い道を限定されても「申請」というお伺いをさせるから,あたかも「申請」した側のためになるという構図だが,もともと使い道を限定した条件をだしているのは「行政」の側である.
だから,行政の掌のうえで踊らされるのは,かならずもらった側になる.

つまるところ,お殿様からの「下賜金」とかわらない.
21世紀の「奇跡」のひとつである.
日本という国の伝統に,いまだしっかり封建社会がいきている.

ところが,はるかむかしより現代は始末が悪い.
むかしは,お殿様からの「下賜金」だけでは足らないから,村々の住民が全員で不足分をなんとかした.
お金で払えなければ,現物を用意したり労働を提供した.

そうして住民全員が「祭り」を準備し,実行し,後片付けをしたから,住民が主催者で,お殿様は余計な口出しはしなかった.
もちろん「祭り」を楽しむのも住民である.
お殿様は,せいぜい遠目でながめて満足するしかなかったろう.

いまは,行政が命令して口も出す.
ところが,住民も負担をいやがり,準備も実行も後片付けも手伝わない.
一部の「お祭り好き」の趣味になった.
それで,資金が足りないと補助金に手を出すのである.

一部の趣味に,みんな平等の行政がなぜお金をだすのか?
「観光」になるからである.
これを「わがまちの『観光資源』だ」といえば,とりあえず反対はいなくなる.
そして,かならず「経済効果」が行政によって計算される.

こうしてついに,村人全員の「宗教的行事」が,「観光」という名の「見世物」になって,「祭り」ほんらいの宗教性が「薄め」られる.
なるほど,憲法の「政教分離」の精神がここにある.
宗教性がない「祭り」だから,公金がでるのである.

つまるところ,たんなる「イベント」にすぎなくなった.
これをはじめたのが,宮田輝アナウンサーの「おばんです」ではじまる,NHK「ふるさとの歌祭り」(1966年~1974年)だった.
「郷土芸能の保存」を番組趣旨にしたというが,テレビに出るという「イベント化」でもあった.

それで,有名な祭りが巨大イベント化した.
地元企業の協賛から,やがては全国規模の大企業が資金を提供して,まさにコマーシャル化した.
駅前商店街がシャッター通りとなって,いまや「イベント地獄」になったのが「祭り」である.
年に数日の「祭り」が,地方を活性化などしない.むしろ「疲弊」させていないか?

企業が「祭り」に協賛金を拠出しても,すぐには「寄付金」にならない.
企業名が掲示されれば「交際費」である.
そもそも確定申告を要しないサラリーマン世帯なら,「祭り」の寄付は経費処理もできないから,たんなる家計の支出だ.
「祭り」が無形文化財だというなら,「寄付文化」をそだてて税額控除をすれば,補助金なんて必要なくなる.これをしないで「お殿様」に君臨するのが役人だ.

50年に一回の,たった20日間のオリンピックが,巨大化した日本経済を復活させるはずがない.
なんのことはない,イベント化した村祭りと発想がおなじなのである.

賢い村は,祭りをイベント化せず,地味に住民だけがたのしんでいる.
そうして,村の鎮守もまもられるようになっている.
身の丈こそ,ということをわすれて,行政がいう「経済効果」や「まちおこし」という甘言に吸い寄せられると,魂が抜かれるのである.

ACPG 2018

「才能に関するアジア太平洋会議 2018」という.

わが国では,大正14年からはじまったNHKラジオ「子供の時間」が,才能あふれる子供を紹介した嚆矢であろう.国家が才能を宣伝し,国民が称えた時代だった.
「平等」が大好きな戦後の日本でも「天才」を紹介する番組はあったが,いまはみあたらくなったのは,みんな「平等」でなければならないからか.

「才能」が世の中をうごかす時代になって久しい.
わかりやすい例では,ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがいて,なぜかアメリカ人がおおい.
これは,才能に「投資」する仕組みがあるからで,あいかわらずベンチャー企業に「実績」と「不動産担保」しか要求しない日本では,才能が学校で育っても社会が枯らしてしまう仕組みになっている.

日本で「才能」といえば,まっさきに芸術分野があげられる.子供からバイオリンやピアノなどの楽器演奏を中心にとらえる傾向があるが,科学技術分野においては希薄なのが不思議である.
その芸術分野でさえ,才能が海外流出してしまう.若き芸術家は,外国でキャリアをつんで有名にならないと日本でありがたがられないからだ.育てるコストを負担しないのは見る目がないからだろうから,ベンチャー企業に「実績」を要求する姿勢ににている.

表題のACPGは,ことしタイで開催された.
国際数学オリンピックで,タイはすでに日本の上位国になっている.
どの親も,自分の子どもの才能を伸ばす努力をするだろうが,日本の親がもつ熱意とはちがうレベルの熱意があるのだろう.それは,世界が才能によって動かされる時代だと識っているか識らないかのちがいにもみえる.

開催日程は1週間で,参加する各国の子どもたちは,この間,才能教育専門施設で「合宿」することになる.
この施設自体,宿泊棟は日本のビジネスホテル以上のスペックで,日中はワークショップが開催できる会場があるから,その規模は大きなものだ.

ここまでの施設と設備を整えているのは,「才能」の掘り起こしこそ,国家の繁栄につながるというかんがえがあるからだ.
これは、ふるい国家主義ではない.
才能の自由さを保障することが,才能の流出を阻止し,その才能が生みだす「価値」を,国民が享受できるという発想だ.だから,才能を国家が独占して囲い込むという発想とは真逆なのだ.

とにかく,多数の才能を育てることが重要になる.
わずかな天才だけを保護しようということではない.
社会のおおくの分野に才能が行き渡る.
これが現代の富の源泉なのである.

そのために,いかに難しいことをやさしく教えるか?
難しいことを平易な言葉に置き換えただけでは,やさしくなったとはいえない.
難しいことを興味と関心をもって,あいてに理解させる技術が必要なのだ.
だから,教える側の理解度が深く広くないと才能をのばす実践ができない.

たとえば,「スチュワート微分積分学」という教科書がある.日本語版は全部で三巻の大分冊だが,三巻目は未刊である.

監訳者の秋山仁先生によると,この本の執筆は「スチュワート教授」ひとりではなく,なんと各分野(医学,建築,経済...)の専門家が三百人も結集したという.
「謝辞」には,一貫性をもたせるための「査読者」が第8版だけで7人いるが,補助教材の査読者は39人もいる.第7版までの査読者として,173人の名前が掲載されている.
「査読」とは,内容の不備を指摘するためにある.それで,査読者と執筆者は激論をかわすという.

さらに,「補助教材の査読者」とあるように,この本には本文説明と連動したオンライン教材もあって,「紙」だけの情報でなり立ってはいない.
オンライン教材といっても,ウエッブ上のアドレスが変わってしまっては印刷教材として困るので,これを確定する作業もやっている.

日本における「◯◯学」の教科書が,本当にひとりか数人の共著であることをおもいだすとこれだけで執筆陣の規模がちがうが,ふつう教科書でオンライン補助教材など皆無であるから,それはまさに「雲泥の差」である.

このスチュワート教授の教科書は,世界のベストセラーというが,その理由は原著が「英語」であることのみならず,なによりも「わかりやすさ」にある.
つまり,執筆動機が「学生の理解ため」であって,これを愚直に追求している.

その動機=目的からみちびかれる,執筆戦略が,学生読者の脱落をふせぐために題材の「絞り込み」が意図されて,理解の発散をさせず,むしろ豊富な現実世界での「微分積分」の応用例を解説して,興味を枯らせない.これこそ、「選択と集中」である.
そのために,いろんな分野の専門家が参加しているから,この本自体が「大型プロジェクト」になっている.

つまり,執筆動機=目的=理念 ⇒ 執筆戦略 ⇒ 執筆陣の選定 ⇒ 執筆実務 ⇒ 査読 ⇒ 激論 ⇒ 修正 ⇒ 完成 ⇒ あるべき姿との比較 ⇒ 次版のコンセプト策定 というサイクルを繰り返して,いま「第8版」になったのだ.
スチュワート教授はすでにこの世にないが,この教科書は,これからも進化をつづけるのだろう.

これも,日本における「◯◯学」の教科書が陥りがちな,「いちどにたくさんの定義や概念の一方的説明」があったり,現代のテクノロジーをみとめない態度とは逆である.
すなわち,学生のための教科書ではなく,教科書「執筆者」であることの重視ともいえるのではないか.
主筆が亡くなってなお,新版がつづいてでるのは広辞苑や新明解といった辞書にみられるが,日本の「教科書」ではめったにないのではないかとおもう.

秋山仁先生によると,数学の能力は高校生までは日本人が上をいくが,大学卒業時にはアメリカの学生にはるか先まで追い越されるのが実態だ,という.
わかりやすく教える技術の差なのだろう.

書店の理系コーナーには,数学以外にもアメリカ人学者が書いた有名な「教科書」が,いずれも大分冊なボリュームで棚を飾っている.
日本人の大権威が書いた本は,薄くて難解な傾向があるのとはちがう.
上述した,執筆動機 ⇒ からはじまるサイクルの有無のちがいとしかおもえない.

ことしのACPGには,日本から「数名」の生徒が参加したという.
いずれもお茶の水女子大付属校の生徒だったらしい.
おおくのひとが隔離されて知らないうちに,区別された一部のひとたちの才能が伸びる夏休みを過ごしている.

それにしても「数名」とは.

夏休みのグラフ電卓アート

アメリカで1987年にはじまった,Teachers Teaching with Technology(T3:テクノロジーによる数学関連の教育)という運動があって,これをうけて日本では1992年に研究会がたちあがったというから,もうかれこれ四半世紀をこえることになる.
8月25日と26日の二日間,恒例の年次大会が東京理科大学で開催されたので参加してきた.

日本をのぞく「先進国」つまり,OECD加盟国のおおくでは,すでに初等教育における「算数」から授業に「教育用電卓」が導入されていて,中等教育においては,「数学」のみならず「理科」においても「グラフ電卓」を使用して実験データの収集と分析にもちいている.
最新の「グラフ電卓」は,ほとんどハンドヘルドコンピューター化していて,各種センサーを接続することができるのである.

これは「国際バカロレア」でも「当然」とされるので,一般の学校の校内試験においても「電卓」の使用はふつうのことで,一見して日本の試験より高度な問題が出題されるという.
ハイテク国家を自他共に標榜しているのが日本だから,算数・理科や数学・物理・化学の授業にハイテク電卓をもちいることをしないのは何故か?と外国の教師から不思議がられているのは,以上のような事情がある.

なにも「国際バカロレア」がすべてではないが,学校の成績と社会に出てからの評価の関係が高いことが「国際バカロレア」の最大の成果といわれているから,各国とも力をいれているのである.
もちろん,わが文科省がなにもしていない,ということはなく,「指定校」という区別的手段で一般校と隔離した導入をしている状態にある.これをあえて「差別」とはいわない.

とはいえ,指定校だからといって授業に電卓をつかうとはかぎらず,むしろ,それでもつかわない,というのが日本の実情のようだ.
これを,T3参加の先生にきくと,ふたつの問題があるという.

ひとつは,学校における管理職(校長や教頭)の「無理解」があがる.
しかし,より深刻なのは数学を専門とする教師がいやがる,ということだ.
もちろん,電卓は道具だから,その購入費用をどうするかがあるのだが,自分の「教え方」の変更を余儀なくされることが,いやがる理由としていちばんの問題だという.

もっとも,「行政(文科省)」の側は,電卓という小さい予算よりも大きい予算を要するからかはしらないが,なぜかパソコンが大好きで,さいきんではタブレットPCなら予算要求しやすいらしい.
それで,電卓アプリをつかう手が見えてきた,とT3の参加者は期待している.

この議論をきいていて,結局のところ,「生徒のため」という顧客満足視点が,行政にも,それに従わざるを得ない学校管理職にも,さらに確立した自分の授業を変えたくないという教師にも欠如していることがわかる.要は,みんな自分がかわいいのである.

そんな状況をしった上で,グラフ電卓をつかった「アート」すなわち「絵」の発表会があった.
「作品」をみせながら,どんな数式を用いて描いたのか,描くにあたっての困難さはどこにあったのか,そして,この描画をつうじてどんな発見があったのかをつくった生徒が発表するのだ.

少ないものでも20本,おおいものなら90本以上の「数式」からなり立っている.
発表者が高一の生徒なら,制作したのは中三の時期になるから,おおいに感心してきいていた.
数式とグラフ描画の関係が完全に一体になるこの方法は,複雑な表現のためにカリキュラムをはなれたレベルの方程式や定理をネットで調べたという生徒もいて,すばらしく教育的である.

発表について,参加した教師側からの質問も鋭い.
ある女子生徒の,「世の中が数式でできていることを実感できた」といった発言が印象的だった.
よほどの達成感があったのだろう.

自分が高校生だったとき,こんなことは思いも及ばない.
それどころか,先生がなにをいっていて,その公式や定理が世の中でどんな役に立つのかをしらないままだから,苦痛でしかない授業だったとしか記憶がない.
あぁ,なんて不幸だろうか.

電卓は道具だが,先進諸国の思想は,「発見的教授法(heuristic method)」にある.
これから,生活現象を中心に統合して教えるべきだとする一般科学(general science)がアメリカで起きて以来,あちらでは,その公式や定理が世の中でどんなに役立つのかの具体例を徹底して先におしえる.
文明の成果を生徒にみせて,それから中身の教育をするのだ.

これは、論理の演繹法である.
日本では,帰納法一辺倒で,コツコツ階段を登るイメージがよいとされるが,それは世の中全体が伸びているという前提があってのことである.
いまの時代は,さきにあるべき姿をえがいて,その実現方法を計画する「演繹」をしないと,企業だって目標をうしなってしまう.

グラフ電卓アートも,手で描いた「下絵」からの演繹でつくられている.
だから,演繹のための道具が「電卓」なのである.

すべてはお客様(生徒)のために.
たったこれだけの追求が,いかに困難なことか.
日本での数学教育の進化は,T3参加の熱心な先生たちだけに頼るわけにはいかないだろう.
ここにも「依存」のすがたがある.