国会図書館での唖然

英語の方がわかりやすいというものに、「National Library」 がある。

失われた古代図書館で有名なのは、エジプト・アレキサンドリアにあった、いわゆる、プトレマイオス朝時代からローマ帝国時代にかけて実存した、「アレキサンドリア図書館」である。
当時の世界最大かつ最重要な知的文化施設であった。

しかし、ローマのカエサル(シーザー)が自船に火を放ったことが原因で、この図書館も焼失したという話が残っている。
実際は、たしかに被害はあったものの、館としては継続していたが、紀元3世紀にやはり戦乱によって破壊され廃墟と化してしまったのだった。

わたしは40年弱のむかし、この図書館の「遺跡」を見学したことがあるが、それが「図書館である」としらなければ、よくわからない遺構にしかみえなかった。
残っているのは、増設された「別館」とのことなので、はたして本館をあわせると、どれほどの巨大さだったか?想像もつかない。

紙がまだ世の中に存在しなかった時代の図書館は、羊皮紙の「巻物」であった。

ずっと時代は新しくなるが、図書館を舞台にした物語で、迫力があったのは、イタリア・ボローニャ大学の記号学の権威、ウンベルト・エーコが書いた『薔薇の名前』(1980年)であろう。

  

日本では、鎌倉中期にできた、「金沢文庫」(横浜市金沢区)が、武家文庫の最古とされている。

なお、横浜市にあって、かつて「藩」であったのは、ここ武蔵金沢藩だけであるから、広いが歴史がない横浜でも、金沢区には独特の雰囲気があると個人的におもっている。

「国際機関」といえば、水戸黄門の印籠のような権威を感じるのが戦後日本人だ。

しかし、戦前、良くも悪くも「国際連盟」を脱退したのは、独立国家が優先する常識があったからでもある。

安政の大獄で、わずか25才で処刑された橋本左内が、「この先50年もしたら腹黒い白人たちがあたかも美辞麗句のもとに国家組合をつくって、世界支配を試みるであろう」と予言したのは、驚愕の事実なのである。

ここにも、国家が先で国際機関はその下にあると、常識的に位置付けられている。

それが証拠に、たとえば、国連本部があるニューヨークや、ヨーロッパ本部があるスイス・ジュネーブに駐箚(ちゅうさつ)する、「国連大使」(ジュネーブなら、「国連軍縮大使」)の序列は、ワシントン駐箚大使やスイス大使よりも格下になるのである。

それでもって、国際機関で最初の「お困り」で有名になったのが、「UNESCO(ユネスコ)」であった。

アフリカ出身の、当時のムボウ事務局長が、私物化した。
まったくもって、「無謀」な組織なので、余計なことばかりをやっていたのである。
その流れに、いまも、「世界遺産」なる無謀をやっている。

しかしながら、たまには仕事をしていて、「National Library」の定義づけをしているのである。

それが、1970年の「図書館統計の国際的な標準化に関する勧告」で、法律によって「納本」をさせる図書館で、「書誌(全国出版目録)」をつくる業務があること、になっている。

すると、わが国では、「国会法」に定める、「国立国会図書館」がこれにあたる、唯一の図書館となるのである。

わが国は一応のところ三権分立が建前にあるので、地元の行政がやっている「図書館」とはちがって、国会図書館は文字どおり、行政が関与しない、国会が運営しているので、職員もみな、国会職員としてふつうにいう公務員試験とは別の採用システムをパスしたひとたちということになる。

横浜市にいるメリットは、日本最大規模の行政図書館があることで、いまの蔵書は150万冊という触れこみになっている。
いざとなれば、近くの神奈川県立図書館もチェックすると、たいていの本が閲覧できるのである。

しかし、どう検索してもない本があって、国会図書館でしかヒットしない。
それで、学生時代以来40年ぶりとなる、直接、国会図書館を訪問した。

当時とシステムが更新されているから、新規利用者登録をしないと入館できない。
そうやって入館したら、検索用のPC端末がズラリと並んでいるのは、壮観であった。

しかるに、お目当ての本を検索しヒットさせるまではよかったが、「デジタル化作業中」と注にでてきた。
ここから先の、閲覧申込みもなにもできないのである。

窓口で確認すると、閲覧不可状態とのこと。
いつまでか?と質問したら、来年の4月だという。

当該図書の総ページ数は22ページの小冊子なのである。

もちろん、個別でみればたかが22ページのデジタル化で、なぜにそんなに時間がかかるのか?ということになるが、外部からは想像もできない数量のロットの中に入り込んでしまったのだろうと推測できる。

なんだか、東京中央郵便局の、世界最速自動仕訳機を思い出した。

トヨタの現場管理者がコンサルに入って、まっ先にスクラップになった逸話がある代物だ。
この機械の仕訳能力がすさまじいスピードなので、稼働させるには何万通ものストックができるまで、動かせない。

すると、手紙が溜まるまで、ずっと放置されるから、局から配送に回るまでの時間ロスが半端ではなかったのだ。
ポストから回収された郵便物を、処理能力は遅いが、ダラダラと動かしてさえいれば、はるかに早く目的地行きの配送トラックに乗せられる。

どうやら、国会職員さんも、この罠にはまったようではあるけれど、皇居を挟んで反対側の中央郵便局でのカイゼンをリサーチできていないのは、とても残念だ。

あるいは、業務委託先の都合にあわせて、まさかの「経費削減」を優先させたのか?
ちんけな発想が、国会をも支配しているかもしれないことに、国家の衰退とアレキサンドリア図書館の遺跡を重ねた。

それにしても、22ページになにが書いてあるのか?が、気になって仕方がないのである。

アートマネジメントが決め手

9月末、名門「宝塚歌劇団」における、団員の死亡について、団は14日、外部弁護士らによる調査報告書を公表した。

この報告書内容に関しては、マスコミ各社が報道しているが、ファンや興味のある方はご自分でも歌劇団HPからダウンロードして熟読すると良いかとおもう。
なお、公表されているのは、「概要版」のみのようで、同ページには、「今後の対応」もダウンロードできるようになっている。

私は個人的に宝塚のファンでもない一般人だ。

なので、歌劇団の公式見解だけをみても、あるいは、マスコミの報道やSNSでの各界著名人が語る個別の批評をみても、なんともいえない。

コンサルとしての本業からすれば、例えば、日大アメフト部の公式試合における故意のタックルからはじまった一連の不祥事で、理事長の退任と、新理事長に有名作家が就任し、それでもまた同部による不祥事が発覚して、そのマネジメントの稚拙さに呆れたばかりであったから、「宝塚よお前もか」と嘆きたくなる。

ところがどうやら、エンタメの分野での連想で、「J事務所創業故人がやった不祥事」との関連の方が一般的には強いらしい。

もちろん、この芸能事務所の経営管理についてのお粗末も、それだけで不祥事といえるレベルであるが、終戦直後からのGHQと創業者との関係もあって、一概にマネジメントの問題とだけでは片付かない複雑な特殊性もある。

これがまた、いまの与党政治家が、アンタッチャブルにしている原因ではないかとうたがうのである。

だから、組織マネジメントとして捉えた場合に、私には日大と宝塚歌劇団が結びつくのである。
ただし、宝塚の場合は、理事長の辞任決断が早かった、という特別がある。

この点は、阪急グループという大きな企業組織枠で考慮すべきだという報道も散見する。

関東の田舎者である私は、阪急グループの巨大さと関西圏における影響力を実感できない恨みがある。
せいぜいが、東京有楽町の阪急デパートぐらいしか接点がないからだ。

とはいえ、来阪の際には、たいがい梅田阪急のデパ地下で、帰りの新幹線でのおつまみを調達することは欠かせないのだが。

さてそれで、今回の「事件」は、現役団員の不審死(自殺とみられる)の原因から発している。

まずはなんであれ、ご本人のご冥福を心より祈念するものである。

ご遺族の見解は、団員間の「いじめ」があったことだ。
団としての調査報告(おなじ事務所の弁護士が5人とその弁護士事務所職員4人の計9名:別にいえばある法律事務所に一任した)では、いじめは「確認できなかった」として、真っ向対立しているのである。

また、外野もかまびすしく、OGのそれぞれが経験談や感情論やらを公開して、雑音化もしているようだ。

本稿では、こうした話は別途お任せするとして、組織マネジメントという観点からの考察を試みる。

上述のように関東の田舎者からしたら、関西圏の文化性(お稽古事への熱心さ)は、やはり関東のそれとはちがう気がするのは、前に書いた、「平安貴族社会における中宮サロン」という伝統があるからではないのか?とおもわれる。
清少納言と紫式部の知的バトルは、二人の中宮(皇后並立)という歴史上の特殊な時代も背景にあった。

後世の我々には、華麗な文藝バトルでの作品群を残してくれたのは、恩恵ばかりだが、当の本人たちには別の感情があったろう。

もちろん、これら二人を頂点とした、文化人たちがそれぞれの中宮のサロンに集まっていたのだから、その層の分厚さと質の高さは、現代の比ではない。
人間は進化しているように見えて、あんがいと退化しているのである。

事業としての「劇場」や「劇団」をかんがえるとき、世界には「アートマネジメント」という分野がある。
これが典型は、「オペラ」なのだ。

なぜなら、労働集約的なオペラこそ、チケット収入だけでは団も劇場も維持できないのが常識だからで、どうやって公演と経営を維持するかが、世界中で課題になっているからである。

中でも、世界最大のオペラといえば、ニューヨークの「メトロポリタン歌劇場(MET)」で異論はなかろう。
しかも、METには公的補助はほとんどなく、マネジメントの工夫をもって維持している実績もまた、世界的だからだ。

それゆえに、アートマネジメントの研究対象として、METが選ばれている。
また、METの方でも、自身で制作・世界同時配給している、『METライブビューイング』では、幕間に歌手へのインタビューをしたり、舞台の裏側を案内して、観客に映画館にきて観るかいがあったようにしている。

そこにも、「アートマネジメント」のかんがえ方を散りばめていて、ふだんマネジメント職にある中心的な観客層の知的好奇心を満たす努力もしているのである。

じつは、METは、かなり工業的な合理性での進捗管理を「オペラ作り」に導入しているから、いま目の前で上演されている公演は、新品の自動車のように作られたものなのである。
しかも、「芸術作品」として。

すると、わが国を代表する「宝塚歌劇団」のアートマネジメントは、どうなっているのか?

雑音の中にある、「OGの真実の声」を探り出して聞こえてくるのは、残念な事情ばかりだし、『報告書』にも、残業時間やらの管理体系が壊れていることを示唆してしる。

「モノづくりは人づくり」という、わが国工業会の常識がある。

ならば、トヨタ自動車にアートマネジメントを学ぶべきではないのかとひたすらおもうのである。
おそらく、後輩たちにどうやって教えるのか?という喫緊の課題も含めて、「TWI」「MTP」がセットで役に立つにちがいない。

総合芸術も、工業の知見が役に立つものなのである。

[合掌]

またまた「つなぎ予算」になった

昨日指摘した「アメリカ連邦つなぎ予算」の期限17日の直前になった14日、下院で次の「つなぎ予算案」が可決された。

わが国とちがう、大きく2本あって、1本は、軍や農業、運輸関連などが来年1月19日まで、もう一本が、それ以外を対象に2月2日までとなっている。

なお、アメリカの国家予算の会計年度は、10月1日~翌年9月30日までとなっている。

可決にあたっての票は、賛成336、反対95であったけど、気になるのは内訳で、共和党は賛成127、反対95、民主党は賛成209、反対2となって、民主党の賛成多数が共和党の反対を押し切ったから、共和党の議長からしたら身内の同意が得られなかったという皮肉な結果になっている。

大統領の与党たる民主党の議席が、中間選挙で野党共和党に逆転されて、ねじれ状態になっているのが、今回のつなぎ予算案では、少数与党の民主党が主導権を握ったごとくになったのだった。

何度も書くが、アメリカの国家予算編成権は、連邦下院議会にある。

わが国のように、行政府にある財務省ではないし、世界を仕切る最高権力者だといわれている、アメリカ大統領にも、予算編成権はないのだ。

アメリカの大統領は、財務省という事務局をつかって、議会で決まった予算の執行権限しかない。
つまり、「独裁」を排除する仕組みになっている。

わが国の場合は、明治からこの方ずっと、財務省(大蔵省)が予算編成権をもっていて、国会の承認(ろくに議論なんかしない)を経れば、財務省が執行権限ももっているし、国税庁を外局にして、徴税権ももっているから、「独裁」ができるのである。

この体制は、伊藤博文(長州閥)がつくりあげた鉄板で、「民主主義」をいうGHQもなぜか変更させなかったのは、占領後のわが国支配(征服の永久継続)に都合がいいからである。

それで話をアメリカに戻すと、連邦下院議長が、議会に予算案を提出するのである。

ために、議長職には議会事務局(議会事務局内に「予算局」がある)を差配する権限もあるので、わが国のお飾り的な衆議院議長とは、その権力の重大さも天と地ほどにことなる。

もちろん、議会警察(日本では「衛視」)も、下院議長の配下にあるので、あの「1月6日事件」について、当時のペロシ議長が仕組んだ偽旗作戦の「うわさ」が絶えないのである。

これに関しては、事件後、ペロシ議長から責任を追及され(濡れ衣を着させられ)て解任された、元議会警察署長が、下院議会で宣誓証言もして、だんだんと「うわさ」ではなくなってきた。

さて今回の予算可決について、さっそくNewsweekが特約している、アメリカ在住の、冷泉彰彦(本名:前田彰彦)氏が記事を寄稿している。

Newsweek誌も、典型的なグローバル全体主義側のプロパガンダ機関なので、「読解力」を要する。

もちろん、これと特約している冷泉氏も、メフィストフェレスに魂を売ったファウスト博士の立場にあるとかんがえていい。
なお、「冷泉」を名乗るが、あの和歌の名門「冷泉家」とは関係のない、ペンネームである。

それでもって、こうした記事の「読み方」は、事実だけをくみ取って、解説部分は切り捨てる、ということをしないといけない。

すると、重大なポイントは、ウクライナとイスラエルへの軍事支援は含まず、ということに尽きるのである。

現議長も与していたという、共和党の「強硬派(トランプ派)」が反対したのは、歳出カットは実施せず、という点である。
これには、「オバマ・ケア」からの流れをくむ、福祉予算もある。

個人の独立独歩を重視する共和党保守派(強硬派:トランプ派)は、個人の独立独歩を破壊する、手厚い福祉政策(=社会主義・グローバル全体主義)を否定するからだ。

もちろん、グローバル全体主義の推進を旨とするNewsweek誌は、手厚い福祉をドンドン推進させて、国民を安楽な奴隷に仕立てる意図をもっている。

なので、さいきんでは、「日本人をみよ」といって、個人の独立独歩を重視する保守的なアメリカ人は、奴隷化した日本人をおぞましい例として観察しているのである。

つまり、このつなぎ予算は、戦争の元になるカネづる(financial backer)を断ち切ったので、ゼレンスキー政権を見放した決定的な意味と、アメリカを社会主義化・グローバル全体主義化しようとする意図とのふたつが混在するものとなっている。

史上初めて下院議長を解任された、マッカーシー議員に対する同僚の共和党強硬派(トランプ派)による解任理由は、歳出カットを実施しないで、民主党と妥協し、なお、戦争屋の大統領がいう、ウクライナ支援も通そうとしたことだった。

だから、共和党トランプ派が、新議長解任をしないで、ただ反対したのは、決戦が来年の2月2日までに延長された、と解するべきなのである。

当然ながら、来年は大統領選挙の年で、2月2日とは投票日(11月5日)のほぼ9カ月前となるタイミングだ。

ここで仕掛けてくる、とみるのが、選挙決戦の攻防の山となるにちがいない。

アメリカ連邦予算とデジタル通貨

17日が期限となる、「つなぎ予算」が間もなく終わるので、ここ数日中に「本予算成立」をさせないと、政府機能が停止する。

バイデン政権と、その前半2年間を支配した民主党下院議会は、湯水のような予算を通過させて、とうとう国債の利子が、今月、1兆ドルを突破した。

わが国の一般会計予算の1.5倍規模の金額が、利払いだけで消えていく。
一体、どんな予算が通過するのだろうか?

アメリカ国債がデフォルトする可能性は、もう絵空事ではなくなった。

しかし、あたらしい予算でも、国債を新規発行するしかないだろう。
どちらの政府も、国債を発行したら、それを中央銀行が引き取って、政府の口座にあたらしい預金を増やすやり方をしている。

日銀がずっとやっていた、異次元の金融緩和もこのやり方だった。

政府は、完全消費者なので、税収とその他のいろんな手数料収入とを合わせて日銀の口座におカネを入れて管理している。
この意味で、個人のメインバンクと変わらない。

アメリカも、その巨額の消費を政府がやっているので、政府がおカネをつかわないと、いろいろ困るひとたちがいるのは、万国共通である。

なので、これまで通り国債を発行して、あたらしく増えたドルをつかうことが急に止まると、事故になる。

一方で、インフレとは、増えすぎたおカネの価値が減少することなので、アメリカのインフレは止まらないことも意味する。
すると、FRBは、金利を上げて市中にあるおカネを回収しようとするから、各国との金利差が生まれて、ドル高になるのである。

すでに、円が100円/ドルだったものが、150円/ドルになったのも、アメリカの金利が5%を超えているのに、日銀のコントロールが1%にも充たないことの「差」から生じたモノだった。
これで、日本人は石油をはじめに輸入材の高騰で、高い買い物をさせられている。

これが、コストプッシュインフレ(悪いインフレ)で、賃金が増えない理由のひとつにもなっている。
そうやって、貧乏のスパイラルに巻きこまれてしまった。

一方で、アメリカが国債をデフォルトさせたら、世界最大のアメリカ国債保有国である日本は、一緒に破滅する。
「うわさ」だけでも、円安になるから、いよいよコストプッシュインフレが加速するだろう。

つまり、わが国のアメリカ依存は、アメリカ政府がどちらに転んでも、ロクなことにならない状況におかれているのである。

これを、将棋ならふつう、「詰んだ」という。

そこで、もうどうせ「詰んだ」のだから、国民を置いてきぼりにして、政府だけは逃げ切ろうという悪魔の発想が生まれて、それをはなからそそのかしている、「ビルダーバーグ倶楽部」とその配下の、「世界経済フォーラム」に魂を売り出した。

それが、デジタル通貨の強制策で、これが彼らの究極目標だ。

日本でも、来年の夏頃を目処に、あたらしいデザインの紙幣になる。
商売をやっているひとなら、すぐさま気がつくのが、自動精算機の読み取りや両替機の新紙幣対応で、また手間とコストがかかることだ。

しかし、デジタル通貨への移行という大義名分でなら、端末の問題にはならない。

給与もなにもが振込になっているから、現金を引き出せないか現金を使うのにためらいが生じるような、ほんとうは嫌がらせだけど、もっともらしくプロパガンダすれば、従順な羊と化した国民は一斉に従うことになって、あんがいと早くデジタル通貨の時代に転換できるかもしれない。

それが、現金だと割り増しになるような料金体系の設定だ。

いま、電車やバスを利用するとき、数円単位でデジタル決済に有利となっているのを、数十円とか数百円、あるいは、懲罰的に倍とかにしたら、おおくのひとはデジタル決済を選ぶだろう。
理由は、現金の扱いには人手が必要で、その人手が不足しているから、でいい。

しかし、人手不足はほんとうは存在しない。

政府や自治体が肥大化したのを、たとえば、指定管理者制度なる民間委託の形式をもって、あたかも公務員の数はそのままに、じつはモリモリと増えている。
こうしたひとたちが、準公務員化しているのを、公式統計でも無視しているから、日本の公務員数は世界的に少ない、というプロパガンダになっている。

なんだか、日本の役人は世界でもっとも効率的に働いているように宣伝されているが、分母に入れるべき人数が操作されているのである。

イヤイヤ、霞ヶ関の役所ビルは、深夜まで煌々として明るいから、おそるべき残業地獄で、公務員の数も足りていないのではないか?というひともいる。

これは、国会班やら予算やらの徹夜組で、働き方の問題ではなく、働かせ方の問題だ。

日本の官僚制度は、国会質問の大臣答弁には、事前の質問票を国会議員から受け取って、これに瑕疵なく答えないといけない仕組みになっているし、そうはいっても議員から抜き打ちの質問があれば、国会班は大急ぎで答弁書を作文しないといけない。

予算は、財務省に提出するだけでも骨が折れる作業だけれど、政府案になるまで何度も財務省から突き返されるので、その対応がまた苛酷となるのである。

もちろん、全ての役所は予算がないと動けないから、必死になって自省担当の課長級であるところの主計官らに翻弄されるのである。

そんなわけで、国民生活とは別世界の予算が編成される。
アメリカは予算編成権が連邦下院にあるけど、日本は行政府の財務省にあることが、決定的な設計ミスだ。

はたして、独立行政法人国立印刷局には、ほんとうに新紙幣の印刷注文があるのか?

依頼主は、日本銀行券なので、日本銀行である。
独立行政法人に、「国立」が付いているのも、「国立大学」や「国立病院」やらとおなじで、ぜんぜん国は予算措置をしないのに、あたかも「国立」という偽装をしている。

デジタル通貨の透明性は、ほんらいの「匿名性」を破壊して、すべての取引を国家が把握するグローバル全体主義の到達点だ。

その透明性のための、インボイス制度が、先行してはじまったのである。

ノルドストリーム爆破はウクライナ?

2022年9月に、2系統(ノルドストリーム、ノルドストリーム2)でそれぞれ2本の合計4本あったロシアからのガスパイプラインが、3本も、何者かに爆破されて、被害者でもある安全保障理事国のロシアが国連に正式調査を要求したら、なんと否決・却下されたので、国際機関による犯人探しの方策が葬られてしまった。

これを、ロシアの自作自演というひとがいて、ロシア犯人説を流布していた。

しかし、まともにかんがえたら、供給国=販売国のロシアは、これで年間兆円単位の売上が永久になくなってしまったのである。
もちろん、購入者のドイツは、周辺国も含めたエネルギー危機になって、あのヨーロッパ最大の工業国の経済が破壊されたのである。

そんな最悪の状況のドイツにも、GDPで抜かれるわが国の状況は、何故なのか?を議論もしないのは、仕組みがわかると都合が悪い国やひとたちがいるからだ。

何度も書くが、アメリカは90年代に、国家戦略として日本の扱いを従来より厳しく(よりあからさまな「奴隷化」)することを決定した。
これが、わが国からみたひとが、「第二の敗戦」と表現したのは、正しい。

そのもっとも激しい、戦場が、「金融界」であった。

もちろん、こうしたアメリカの国家戦略を、日本で実行したのが、自民党・公明党、それに民主党も加えた、歴代政権であった。

いま、日本政府と日本国民の乖離状態(誰のための日本政府なのか?)の理由を探れば、根っこの先にあるのは、本当の敗戦が、GHQによる征服期だったことがわかる。
わが国は、戦闘による敗戦をしただけではなくて、完全に「ポツダム宣言違反」の計画的占領=征服によって、人造人間・国家に改造されたのだったと理解すれば、数々の社会問題の原因が氷解するのである。

原因がわかれば、対策がうてる。

しかしながら、もうその余裕すらないことが、さらなる衰退を生む。
まさに衰退スパイラル(社会主義化・グローバル全体主義)の底なし沼にはまり込んでしまった。

悪魔のごとき甘言を国民の耳元でささやき、国家が国民に富を分け与えることを、あろうことか、国民から要求しだしてしまったのである。

これぞ、「ギブミー・チョコレート」なのである。

終戦直後の飢餓状態の時期に、なぜに米兵たちは子供にチョコレートを投げ与えたのか?
「甘いは、うまい」を成長期の子供の脳に焼き付けて、一生忘れさせないようにしたのは、「薬中」とおなじ効果を生むのを、医学的にしっていたからだった。

けれども本当は、それが「脱エジプト」での、シナイ半島の荒野を40年間もさ迷ったとされる人々が、食べるものに困窮し、これをモーゼの祈りで、「天からマナ(不思議なパン)が降ってくる」話のように、国家が全てを与えてくれることを子供に擦り込むことが、その意図だった。

いまは、「介護保険料」という、税金が払えない高齢者が問題になっている。
「差し押さえ」にやってくる役人は、「国税徴収法に基づく」と宣言して、家の中のめぼしい物品を差し押さえ、競売にかけて、「介護保険料」の支払としているのは、悪魔の本性をむきだしにした、「みせしめ」なのである。

しかしてそれが、もっと国家はカネをくれ(「ギブミー・チョコレート」)と、言わしめて、選挙に行く高齢者たちに手厚い保護を約束する候補者が当選するようにできている。

そんな構造が、世界のどこにもある。
それこそが、グローバル全体主義の成果でもある。

「ワシントンポスト紙」といえば、アメリカ情報機関の広報紙(=プロパガンダ機関)としてしられる、「新聞」ということになっていて、署名記事なら、なおさらのことだとは知る人ぞ知る常識だ。

そんな同紙が11日、ノルドストリームの爆破は、ウクライナが犯人だと報じた、と「カナダ人ニュース」さんが報じてくれた。

情報機関の意図はなにか?を読まないといけない、読解力が問われる問題なのである。

この記事を真に受ければ、ウクライナ支援を積極的に政権が応じたドイツには衝撃的だ。
日本とおなじように、アメリカに征服されたドイツは、やっぱりおなじように、人造人間・人造国家に改造されたので、沈黙を保っているようにみえる。

第一次、第二次と、ヨーロッパを戦場にしたドイツ人からしたら、ウクライナに攻め込むことをやっても不思議ではないのに、だ。

日・独は、揃って、目的通り腑抜けにされた。

もちろん、戦争を煽りたいのではない。
この情報戦に、沈黙することの意味は、はじめから敗北したも同然だといいたいのである。

それで、「深読み」を試みれば、「ウクライナ悪者説」という話になって、これまでの「かわいそうなウクライナ=にっくきロシア」という構図が、リセットされる意味となる。

すると、ロシアの勝利が決定的なのだが、そのロシアはハマスとの窓口も確保している。

つまり、いま主導権を握っているのは、プーチン氏であって、認知症が疑われるバイデン氏でもなく、ただの選挙参謀にすぎない歴代最低の国務長官といわれるブリンケン氏でもない。

さらに、ロシアは、西アフリカのフランス利権に挑戦している。

わが国も、ドイツも、こんなことができる国ではなくなった。

半年分の梅干しを予約した

わが国を代表する食品のひとつに、「梅干し」がある。

材料は、梅の実と塩、それに赤じそがあってもなくてもいい。
わたしは、どちらかというと、白梅の方が好きだが、しそで赤く染まった梅干しが嫌いというわけでもない。

中学だかのころ、母親が仲間と小旅行で行った箱根の帰りに、ふもとの小田原で買ってきた、「味な梅」が大好きになって、これだけを買いに小田原まで行ったことがある。

柔らかい小梅が、かつお節と一緒に漬けてあるものだ。

概して、「小田原に美味いものなし」というひとがいて、たしかにこれといって何か?と自問して、すぐさま浮かぶものがないのだけれど、やっぱり「梅干し」ではないか?

市内には、有名な「曽我の梅林」があって、まさに梅の産地なのである。

梅といえば、いまや、紀州の南高梅があまりにも有名だけれども、これは、和歌山県立南部高校の先生が品種選定にかかわったことからも、本来の品種名「高田」と「南校」との語呂あわせで、「南高梅」になった経緯がある。

ただしい読み方は、「なんこううめ」だ。

しかし、神奈川県には、「十郎梅」がある。
日本3大仇討ちでしられる、『曽我物語』(曾我兄弟)にゆかりの、「曽我」なのだ。

ちなみに、のこりの2大仇討ちは、赤穂浪士の討入り,伊賀上野の敵討(荒木又右衛門)のことだ。

その曾我兄弟の兄の名が、「十郎祐成(一万)」で、弟の名が、「五郎時致(箱(筥)王)」である。
その兄の名にちなんで、命名されたのが、「十郎梅」ということになっているけど、ときの小田原市長も「十郎」だったので、あれれ?ではある。

小田原(藩)が生んだ、偉人というより聖人といえば、二宮(金次郎)尊徳に相違なく、「報徳思想」の提唱者で、JR小田原駅東口に銅像がちんまりと設置されている。
鴨宮駅にある、「報徳タクシー」の看板を、電車の車内からみると、いよいよ「聖地」にやって来た感じがするのである。

おそらく、いまどきの地元で、そんなに熱心な報徳教育はされていないだろうことは、いったん無視する。

なので、小田原市は、「仇討ち」なる野蛮行為で有名ということの「非道徳」をたてにして、曾我兄弟の物語を熱心に教えるということもしていないだろうと思うのだが、これも無視する。

なぜならば、小田原市から一歩引いた、すなわち一つ上の行政団体となれば、当然に神奈川「県」ということになるけれど、神奈川県立高校を卒業したわたしの記憶に、県として地元の歴史上の人物として、曾我兄弟も二宮尊徳も、とくだん授業で教わった記憶がないからだ。

つまりは、地元の教育委員会が、「地元」を教えないようにしているのである。

まさに、グローバル全体主義の御先棒をかついでいるのだが、その時期は、ずっとむかしに遡ることができるのである。

これは、子供のアイデンティティーの生成上、まずいことになる。

まだ、まともさが残っていた昭和30年代、高校生までが学園紛争で暴れていたし、これが終わると、いわゆる、「学園もの」が流行って、その最後が中学校を舞台にした、『金八先生』だったのは、アイデンティティー形成に地域や伝統を抜こうとした反発もあったのではないかと疑う。

つまり、旧い日本とあたらしいがGHQが命じてつくりだした、民族性を抜くことを目的とした教育の現場での、軋轢だったのではないか?と。
すると、いまの状態は?ととえば、無機質な日本人になったがゆえの、A.I.との競争になっているのが疑われるのである。

そこで、原点回帰して、家庭教育を、とおもうが、そうはいかないのが、肝心の家庭も無機質化したからである。

すると、残っているのは、地元の特産品を丁寧につくっている現場ということになる。

さてそれで、梅干しの話だ。
炊飯器が壊れてから、ご飯用の土鍋とお櫃の生活となったのだが、朝がゆが気に入ってしまったのである。

梅干しと一緒に炊くと、たいそう味わい深いし、ステンレス製の「茶がゆ器」に煎茶をいれて炊けば、茶がゆができる。

それで、御殿場方面からの帰りに東名高速ではなく、国道246号を、大井松田から国府津に向かって右に方向転換すれば、そのまま曽我の梅林を通過する。
このとき、数軒の梅干し製造の専門店があるのだ。

基本的に「十郎梅」の梅干しだけど、塩だけで漬けているのはいまどきなら、探さないと売っていないから、ここまでやってくるのである。

いまや、梅干しも添加物まみれになっている。

南高梅は皮も厚いので破れにくいが、十郎梅は皮が薄いから破れやすい。
だから、きれいな梅干しは贈答用としても、見事な見栄えがする。
しかし、梅がゆをつくりたいから、潰れているほうが都合がいい。
もちろん、財布にも都合がいい。

そんな事情を話したら、樽から出すのにかならず潰れ梅がでてしまうので、数日待ってほしいといわれて、予約注文だけしたのである。

こんどは、梅干しを引き取りに向かうのが楽しみになった。

間接金融と直接金融は逆?

やたら、NISA(Nippon Individual Savings Account)をどうか?という勧誘のメールがあって、消去するのが面倒くさい。

わたしは、ポリシーとしてなるだけ政府のお節介を排除したいので、こんなものに興味がない。

本稿では、こういう、優遇策が大好きなひとにはそぐわない話をするので、はじめにおことわりしておく。

なお、外国人に日本投資(直接投資だか間接投資だか不明)を促した、現首相を出している、与党も。わたしは支持者ではない。
念のためつけ加えれば、直接投資を促すのならまだしも、である。

さて、テーマを含め、冒頭から、「直接」と「間接」という言葉が飛び交っている。
ややこしいのは、似ていて異なるものだからである。

英国経済がいよいよ困ったことになった、70年代、すっかり保守思想が薄まった「保守党」が、一種のやけくそで選んだのが、マーガレット・サッチャー女史であったと記憶している。

なにせ彼女の行政経験は、どちらかというと格の低い、教育相だけ、というありさまだった。

どうして、教育相・教育省の格が低いのか?は、まず、「教育の重要性が低い」と勘違いしてはいけない。
欧米の「自由主義」のはじまりは、王権による宗教弾圧に、「信教の自由」を勝ち取ったことにある。

教育の自由が、この信教の自由と密着関係にあるので、政府がする「教育行政」の格が低くなるのは、教育の自由に、政府がどうしても邪魔になるからである。
つまり、政府は教育に関しては、「控えめに」となっているのがキリスト教社会のヨーロッパでの常識なのだ。

この点、わが国の教育行政は、真逆で、完全支配者にしゃしゃり出ている。

小学校から大学まで、ぜんぶを支配下に置いたので、抜け駆けができるのは、塾と予備校だけになった。

ただし、校名に「塾」がある、慶應義塾もとっくに文科省の軍門に屈して、私学助成金がないと生きていけないでいる。
こうして、わが国の「象牙の塔」から、直接的な政府批判が消え去って、「名誉教授」しか反抗できなくなったのである。

そんなサッチャー女史が、三顧の礼で迎えたのが、当時の日産自動車工場の誘致で、それが、日産の直接投資だったのである。
進出する企業がカネを出すかわりに、迎える側はなんらかの優遇措置を約束するわけだ。

では、間接投資とはなにか?といえば、外国企業の株式とか債券を購入して、経営のための資金を投資することをさすのだ。

すると、国民に対して、銀行に預金する習慣を改めて、企業の株式や債券を購入しましょう!というのは、直接投資なのか?間接投資なのか?ということになって、上の例からしたら、「間接投資」である。

一方で、経済の教科書に、「間接金融」と「直接金融」という用語がある。

企業が経営資金を銀行から借りるのを、「間接金融」といって、株式市場から調達するのを「直接金融」と呼んでいる。

企業側のバランスシート(貸借対照表)には、どちらであろうが、「右側」にまずは記帳されて、株式なら「資本の部」に、銀行からの借入とか社債なら、「負債の部」になる。

会計士の話なら、これでおしまいだ。

しかし、日本政府は、NISAを国民に推奨している。
これはあたかも、戦時国債を半強制で購入させて、紙切れとさせたこととか、「円貨」までも切り替えて、紙クズに変えたのとどこがちがうのか?という目線の話になる。

一般人はふつう、詳しく金融の世界をしらない。

この意味で、銀行も株屋の証券会社も、相手が個人なら、ほとんどが素人ばかりが顧客となる構造だ。
なので、当局が国民にかわって、これら企業の監査(業務監査も含む)をするのはまだ合理的だった。

しかし、箸の上げ下げに介入するごとく、国が銀行と証券会社の行動を規制したので、自由な投資ができないのもまた事実なのである。
不正が行われて、投資家が損をするリスクに重心を置くのはわかるけど、どこまでやるのか?についての裁量が役人にある。

これに、日銀の金融緩和という、大量の国債引き受けで、円が政府に渡されて、完全消費者たる政府はこれをつかって民間におカネを渡すことになっている。

しかし、予算が消化できないまでに、使い切れないという異変が起きている。

ならば、予算の方がおかしかったのでは?という疑問にならないのは、予算を審議して決めるのが国会だからで、要は、国会が責任を逃れるために、余った予算について余らせた役人を責めるのである。

もちろん、予算を審議して決める、衆議院予算委員会で、およそ予算のことが審議されることはない、という、おかしな伝統が、役人天国をつくりだしたのである。

そんなわけで、政府が、国民に貯蓄から投資へ、と甘言をのたまうのは、わたしには、悪魔の誘惑にしか見えないのである。

これを、「霊感」というのだろうか?

やっぱり音読が効く

読解力以前の問題に、言語化ができないことを書いた。

そういえば、と、思い出したのが、むかし流行った、「睡眠学習法」だ。

テープレコーダーに、教科書のテストに出そうなところを録音して、それを聴きながら眠る、という方法であった。
先生には、「眠っているときに思い出す」と嗤われたが、いまかんがえると、録音する、という行為が効くのかもしれない。

なぜなら、録音を聴きやすくするには、ちゃんと「台本」を書かないといけないからで、その台本づくりとは、結局、教科書やノートの整理にほかならなかったからだ。

そして、これを「音読」しないと、当然だがテープレコーダーに録音できない。

むかしは、テープレコーダーを買うと、おもちゃのようなマイクも付いてきたので、付属のスタンドをつかうと、ラジオのアナウンサーのようになったのである。
これが、妙に気に入っていた。

中学1年のときに、別の小学校からの同級生が、『欽ドン』をよく聴いているというので、一緒に自宅まで行って、直接に放送を聴いた。
このときの衝撃は、いまでも覚えている。

3年生になると、ラジカセブームがすさまじく、ラジオの録音を休み時間に聴かせてくれる友人がいて、腹を抱えて笑っていたのが、こないだ亡くなった、谷村新司が、ばんばひろふみとコンビを組んでいた、「セイヤング」の、「天才秀才バカ」コーナーだった。

深夜放送には馴染みが薄くて、明け方まで聴いたという記憶は数回しかない。

わが家は、横浜市街の典型的河岸段丘の縁にある谷間だったので、ラジオだと、とくに、文化放送の受信が困難だった。
テレビだと、日本テレビとフジテレビが、まず映らなかった。

みなとみらいにランドマークタワーが建設中だったとき、回覧板できたのが、共同アンテナ化のお知らせで、「広域電波障害」への保障だとあって設備への加入も利用も無料とのことだった。

なので、ランドマークタワーのおかげで、全局のテレビ放送がよく観えるようになった。
いまは、共同アンテナからの電波受信ではなくて、ケーブルテレビになっていて、ついでに高速インターネット回線も用意された。

そんなわけだから、東京タワーからスカイツリーを新築して、あたらしい電波塔にすることの意味がよく分からないまま、その高さが世界一だか日本一だかをいっているのが、妙に滑稽なのである。

夕方の、TBSラジオで定番だったのは、『小沢昭一の小沢昭一的こころ』だった。
買ってきた本を、小沢昭一的こころになって朗読し、それを録音した。
落語の練習より面白かったのは、小沢昭一の芸の深さがあったからだろう。

もしや、このアホらしいひとり遊びが、わたしの脳を鍛えたのか?

なんと、読解力がないひとの特徴に、勝手に行間を想像して創り出す、ことが判明した。
これはこれで、妄想の才能ではあるけれど、それでは相手の言いたいことが理解できるわけがない。

よい文章を音読すると、言語中枢がそれに集中するので、余計な行間の妄想をしないで、作者の意図を感じとることができるのである。

この意味で、江戸期の武士社会で常識だった、漢籍の「素読」は、究極的で、ユダヤ人のタルムードの素読も、アラブ人のコーランの素読も、おなじなのである。
読んでいて意味が分からなくとも、そのうち意味は分かるようになり、一生忘れない脳の記憶となる。

さて、勝手に行間を妄想する、そのときの、トリガーが、具体的な事例・事象だというのだ。

つまり、ある観念(だいたいが抽象的)を説明するのにつかう、具体的な話にだけ反応する。
そして、その反応に、今度は本人がもっている観念が作用してしまうのである。

だから、話し手の説明のなかのごく一部に対しての反論的な、「反応」となるので、これが話し手に返ったときに、だんだんと本来の話し手の言いたいことと乖離して、なにがなんだかわからない会話になるのである。

昨今の、ネット・コメント欄にみかけるトンチンカンは、この類いのものばかりだ。

わたしの人生経験上、こういった人物が、上司だったことがあんがい多かった。

あのひとも、このひとも、と指折り勘定できる。
上司に恵まれなかった、という結論はおなじでも、その原因が、読解力のないひとたちだったという共通を見出して、いまさらながらに怖くなっている。

それでもまだ幸いなのは、言語化できないまでのタイプはいなかったとおもうことである。

ただし、こうした行間を間違えてしまうひとは、いがいと高学歴だったりする。
いわゆる、有名大学に合格したひとでも、いる、のである。

だから、そんな人物が、試験だけでキャリア職になると、部下の数だけ不幸が生まれる。

それでかなんだかしらないが、昨年の22年度から、高校の必修国語(「国語総合」4単位)が再編されて、「現代の国語」と「言語文化」という、それぞれ2単位に分割されていたことに気がついた。

さらに、選択科目として、各4単位の、「論理国語」、「文学国語」、「国語表現」、「古典研究」となっている。

いまの高校生は、どういった選択をしているのだろうか?
あまりにわたしの時代とちがうので、にわかに想像できない。

その土台となっているかんがえ方、つまり、文科省とその配下の中央教育審議会には、「知的基盤社会」という決めごとがある。
もちろん、これに加えて、PISAの対策もある。

ふだん、てっきり行かなくなった書店だが、参考書コーナーで、高校国語がどうなっているのか?に興味がわくのは、これで学んだ子供たちが、確実に数年後には、社会人になるからである。

いま中堅の企業人は、高校国語の内容を気にしないと、自分の子供の上司たちがこれでつくられていることにしらないでいいのか?ともなるのである。

バイデン弾劾の本格化

アメリカ合衆国の大統領弾劾が成立するのは、連邦上院=弾劾裁判所で、出席議員の3分の2以上の賛成を条件としている。

現状では、2名の差をもって、民主党が多数党になっているので、投票となったら、成立するはずがない、だからムダだという議論が多数を占めている。

けれども、在任中に、2度も弾劾起訴されたトランプ氏のときも、共和党のいまと似たような数の優勢で、成立するはずのないものを、成立させない上院を叩いたのが、おなじひとたちだった。

ぜんぜん、公平な意見を述べていない。

マスコミが第3の権力といわれていたのは、「公平さ」という意味であったので、これを失えばたちまちにして、プロパガンダ機関に変貌するのは当然のことである。

トランプ氏の弾劾起訴理由は、1回目が、ウクライナ・ロシア疑惑と呼ばれたガセネタであった。

このウクライナ疑惑とは、トランプ氏がウクライナに政敵であるバイデン氏(副大統領時のこと)が関係したとする汚職について、当時のウクライナ大統領に不当な圧力をかけたことが問題にされた。
後に、セットであつかわれたロシア疑惑は、国務長官だったヒラリー氏と争った、2016年の大統領選と、トランプ氏当選後の政権発足前における、ロシアとの内通疑惑が問題視された。

アメリカにおけるマスコミの、ロシア疑惑キャンペーンはしつこく続くが、わが国では、「モリ・カケ問題」と、「桜をみる会問題」がセットになって延々と騒がれた時期と偶然にも重なる。

わが国の疑惑は、なにがなんだかわからないままにフェードアウトするが、「森友学園問題」では、公文書改竄疑惑から自殺者がでる悲惨になっている。

トランプ氏の疑惑の方は、ロシアは関係なく、むしろ、ヒラリー・クリントン陣営による対立候補への誹謗中傷(でっちあげ)行為だとして、連邦選挙委員会はヒラリー氏を含む関係者に、罰金刑を科して決着した。

なお、オバマ氏とヒラリー氏の、「メール問題」は、捜査すら未着手のままで放置されている。

2回目の弾劾起訴理由は、ワシントンに集まったトランプ支持者の一部が、連邦議事堂へ乱入したことを首謀した罪が問われたものだった。
民主党が多数となった連邦下院には、「1月6日調査委員会」が設立されて、1年半にわたる調査が行われたが、その大部冊となった結果報告書の内容は、スカスカだった。

中間選挙で、共和党が多数党になって、改めて非公開だった述べ4万時間のビデオを分析したら、かえって、首謀したのはペロシ下院議長ではなかったのか?という疑惑が深まった。
また、特別検察官による捜査でも、トランプ氏が首謀したという証拠はどこにもなかった。

そんなわけで、今度のバイデン弾劾は、過去の意趣返しという側面も多分にあるが、そんな下世話なことではなくて、この一家が売国の犯罪一家であることの方が、はるかに問題なのである。

とかく外国のこと、という冷めたかんがえのひともいる。

それはそれで正論であるが、なにせわが国にとっての宗主国の大統領身分のことなのであるから、かんたんには割り切れない。
残念ながら、わが国が独立国だという欺瞞は、とっくに世界にバレている。

ならば、51番目の州になればよい、という脳天気もいる。
ハワイ王国滅亡の歴史をしらない無知だと白状しているも同然だ。

そのハワイ州生まれということで通ってきた、オバマ氏とは何者なのか?という大問題が、なんだか、横溝正史のドロドロの小説のような様相になってきている。

 

結局、バラク・オバマとは、誰なのか?
まったくわからないのは、戸籍がない社会ゆえのことなのか?

とうとう、グローバル全体主義は、出生不明の人物を、2期も大統領職に据えて、平気の平左なのである。

歴史に厳密なちゃんとした保守主義者なら、許せないことにちがいないけど、選挙で選ばれたのだから、どこにも問題ないとかんがえる日本人が多数になっている気がする。
ならば、わが国の首相が外国人(帰化一世)でもいい、となる。

これは、差別ではなく区別だ。

政治家への外国人からの献金が禁止されているのとおなじ理由である。

なので、トランプ氏を日本の総理大臣に、というのは、できない相談だ。

そんな下地を理解したなか、とうとうアメリカ連邦下院は、バイデン一家のひとたちと関係者に、召喚状を発送した。
議会での、宣誓供述を強制される。

宣誓するから、偽証が証明されたらたちまち5年間の禁固刑になる。

招喚日程の順番がまた絶妙で、金庫番の人物からとなっているが、この人物は、かつてのビジネスパートナーで、一家にあからさまに裏切られたのである。

権力とひとの命がかかった、大舞台である。

しかして、バイデン弾劾が成立するかは、民主党議員の正義感にかかっている。
しかしながら、後任は、あの爆笑夫人、カマラ・ハリスという悪夢だから、選挙管理政権になるのか?それとも、大統領選挙が先か、やっぱり戦争拡大での大統領選挙中止かの選択になる。

最後の選択こそ、他国のこととはいえない、われわれに降りかかる死活問題なのである。

エントロピー増大のディアスポラ

宇宙の大法則としられているのが、「エントロピー増大の法則」だ。

「秩序があるものは、その秩序が崩壊される方向にしか動かない」。

部屋が乱雑になるのは、この法則のわかりやすい例だから、元の整理された状態にするには、必ず「人手」がいる。
つまり、整理するという意思をもった、人間にしかできないのである。

残念ながら、人間以外の動物は、ぜんぶ、エントロピー増大の方向にしか行動できない。
どんなに可愛くて、賢い犬でも、部屋の整理を自分からすることはないし、万が一それを人間がみて、「きちんと整理されている」と感じることは、万が一もない。

犬や動物は、「空間の秩序ある状態」を認識できないのである。

せいぜい、本能として、巣の清潔を保つのが精いっぱいだ。
けれども、これらの動物がバカで劣っているのではなく、エントロピー増大の法則を全面的に受け入れているにちがいないので、ムダなことはしないだけではないのか?とおもう。

しかし、人間の堕落は、エントロピーの増大を放置するばかりか、積極的になることがある。
それが、戦争による破壊だし、あるいは、思想による行動での、ディアスポラ(移民)となっている。

戦争が拡大するのも、移民が増大するのも、エントロピー拡大の法則のままに任せることを装った事態なのだといえる。

つまりは、わざと、だ。

そもそも、ディアスポラのはじまりは、そこに住めないことからの移動であったはずだ。

歴史上最大規模の民族大移動は、学校でも習う、「ゲルマン人の大移動」であるが、その理由は、地球寒冷化であった。
ヨーロッパ北方の森に住んでいた、ゲルマン(ローマ人がこう呼んだが、語源は不詳)たちが、寒くて南下したら、ローマ帝国内に侵入することになった。

ゲルマン人の、森での生活の記憶が、ワーグナーの、『ジークフリート』になったのである。

しかし、聖書を読んだことがない日本人でも、「バビロン捕囚」の話は有名で、これでユダヤ人が世界に散らばって、とうとう20世紀半ばまで、国家を持つことはなかった。

すなわち、聖書にある数々の、「初め」のなかの、人為によるディアスポラの初め、ということになっている。
なお、「バベルの塔」の話で、言語をバラバラにしてひとを離散させたのは、「神」の御意思であったので念のため。

読み物として、日本人には理解できても、なかなか日本人の歴史的体験としての実感がないので、欧米人が言う、「ユダヤ問題」を理解するのは困難だ。

ただし、江戸幕府や明治新政府がやった、「転封:国替え」で、武士たちだけでなく町人も一緒に移り住むことはあった。
「白虎隊の悲劇」で有名な、会津藩が下北半島の南部藩から切り取った地に転封されて、多くの町人も一緒に移り住んだのである。

これも、ディアスポラのひとつだろうし、村ごと「逃散」したことも、喰えないためのディアスポラだといえる。

すると、集団化した愚鈍爺ばかりの経団連から要請されて、与党がやっている、移民受入策(「高度人材」なる、「奴隷」の欺瞞用語をつかう)で、あたかも吸い取り紙やら、電気配線の修理でつかう、はんだ吸い取り線のように、外国からの「人寄せ」に熱心になった。

どうやらこれを、望ましい「国際化」と呼ぶらしい。

これも、グローバル全体主義のアメリカ民主党・バイデン政権がやっている、国境の破壊を真似ているのだろう。

岸田氏を擁護するつもりはぜんぜんないものの、わが国における「移民の積極的受入」が、歴代自民党政権の基本政策になったのは、「少子・高齢化」による人口減少がはじまった、2000年ごろからのことである。

2009年からの民主党政権も、責任逃れはできない一貫性がある。

なので、おおくの保守系論者たちがいう、「真正保守だった安倍晋三氏亡きあと」という嘆きは、ネズミ講の詐欺にあっているひとが、知人・友人を巻きこむのと似ている。

このブログでは、安倍氏は、社会主義者だと、とっくに認定している。

ところで、同様にこのブログでなんども書いている、「社会主義」の反対語は、「自由主義」だということが、どうしても理解できないひとがいる。
なぜか次元のことなる、「保守主義」が連想されるからだ。

いわゆる、「保守か革新か」という、二択の政治キャンペーンが、いま衰退中のマスコミをしてわざと、延々と垂れ流してきたので、おおいに擦り込まれているのである。

この意味でなら、安倍氏は自ら、真正保守を装ったのである。

その保守とは、戦後レジューム(アメリカ民主党が支配したGHQによるわが国の征服体制)そのもののことだった。
なので、彼がいった、戦後レジューム「からの脱却」に、天才的詐欺師の言語魔術のタネがある。

いまや正確な表現が不明の、「N国党」幹事長にして、「つばさの党」代表、黒川敦彦氏が、ジェスチャー付きで歌うフレーズ、「おじいちゃんの代からC・I・A~」というのは、安倍氏を指して的を射ている。

さてそれで、入国ばかりが注目されるのは、インバウンドもおなじだが、出国のことが無視されている。

これは、日本人がディアスポラをする、という、より深刻な事態なのだけど。