1971年から始まったのが、「減反政策」で、2918年に一応廃止されたから、ざっと半世紀ほどもやっていたことになる。
この政策の主旨すなわち、目的は、米が余りだしたから作付けを減らす、という、わかりやすさであった。
並行してあったのが、「食糧管理制度」で、戦後の飢餓を「食糧不足」とマイルド表現に換言しての「配給制」をもって、国民に平等に米を引き渡すことを主旨としていた。
各家には、「米穀通帳」があり、これを米屋に差し出して上限までの消費状況を記入してもらわないと買うことができなかった。
もちろん、米屋という商売も厳しい認可制であったので、フランスのパン屋と同じで、町内に店舗数が割り振りされていた。
それでもまだフランスのパン屋より緩かったのは、フランス人は町内のパン屋からでしかパンを買えなかったが、日本人は、通帳を持っていけば、好きな店で買えたのである。
よって、フランスのパン屋は、町内の住民分のパンを焼けばぜんぶ売れたので、美味いパンを焼くのをやめて、儲けを優先させたから、「自由化」で、思い切り淘汰されてしまった。
とはいえ米屋も、売っている米自体はどこの店も統制品ゆえの同じ品質だったから、都度浮気する必要はなかったし、重いコメを他の町で買う意味も薄かった。
こうした品質管理には、日本の役人は天才的な働きをする。
「ヤミ米」のことを、「自主流通米」と言っていたのは、現実にあわせて、1969年にとうとう「自主流通制度」ができたこともあったけど、大きなきっかけとなったのは、八郎潟の干拓の「失敗」による。
とにかく、食糧不足が深刻だったために、農地を拡大するしかない!という理由をつけた、正義の巨大公共事業が、「八郎潟干拓」であったのだ。
海水が入り込んでいる巨大な潟を、単に埋め立てるだけでなく土壌の入れ替えをするという、一大土木事業であるから、出来上がったときには、「米あまり」という社会環境に変わってしまっていたのである。
さらに、当時の世の中は並行して、戦勝国アメリカの余った小麦を日本人に食べさせるための大キャンペーンがあって、「米を食べるとバカになる」という、バカなことを慶応医学部の教授に宣伝させていた。
これを、「頭脳パン」として栄養強化したのを販売した者もいたから、そのうち、「こおろぎパン」も、「新・頭脳パン」とかなんとかいって売り出すのだろうが、かんがえる能力を減衰させる成分を入れるにちがいない。
それでもって、子供にパンの味を覚えさせるために、学校給食をパンにすることでの「食育」を絶対的に推進したのは、ぜんぶ当時のおとなの事情である。
だから、米の消費を抑えて、小麦の消費を拡大させながら、「票」のために、配給制度を継続したけど、食管赤字が巨大化して、「健全財政」のために、ヤミ米を正当化させる手段しかなくなったのである。
ということになっていた。
しかし、1月の世界経済フォーラムでは、とうとう「水田」も槍玉にあがって、「メタンが発生するから水田の禁止」が話題になったのである。
ヨーロッパでは、牛のゲップが二酸化炭素排出源だということで、畜産を禁止する法律の問題から、EU加盟国の農家に加え離脱した英国でも、大規模デモを開始していることは、このブログでも書いてきたが、日本のマスコミは報道しない自由をしっかり行使している。
どうやら、国連(=連合国)も、「SDGs」を建前にして、人類の農業を縮小・禁止する、恐るべき愚策をまじめに推進するようだ。
昨年御年百歳で亡くなった、キッシンジャーの最後の著作『リーダーシップ』は、99歳での出版だったが、最後に、「世界の教育の衰退が、世界的リーダーを排出することがなくなった」とボヤいているのが「読みどころ」になっていることの、現実がこれなのだ。
街で見かけるSDGsバッジをつけている「愚民」は、愚民ゆえにこの愚策で食糧危機(=栄養不足)になって、あわや殺される運命にあるかも知れないことにも気づかい、もうほとんど上流の知能的犯罪者に無能ゆえに下流民が加担する状態になっている。
なるほど、わが国が半世紀も前にはじめた「減反」の、先進的な意味が見えてきた。
本来は減反ではなく、食糧を確保しながら「輸出する」発想がゼロだったことの政策立案者の無能が問題なのではなく、そうやって農家の人口減少までやったことの効果が、近い将来、日本人を餓死せしめるための長大な伏線であったのだ。
人口が減少するに決まっているのに、郊外の農地がいまどきどんどん住宅に変わるのも、いざという時に耕すことができないようにしているのである。
と、妄想した。