「減反政策」の超先進性

1971年から始まったのが、「減反政策」で、2918年に一応廃止されたから、ざっと半世紀ほどもやっていたことになる。

この政策の主旨すなわち、目的は、米が余りだしたから作付けを減らす、という、わかりやすさであった。

並行してあったのが、「食糧管理制度」で、戦後の飢餓を「食糧不足」とマイルド表現に換言しての「配給制」をもって、国民に平等に米を引き渡すことを主旨としていた。

各家には、「米穀通帳」があり、これを米屋に差し出して上限までの消費状況を記入してもらわないと買うことができなかった。

もちろん、米屋という商売も厳しい認可制であったので、フランスのパン屋と同じで、町内に店舗数が割り振りされていた。

それでもまだフランスのパン屋より緩かったのは、フランス人は町内のパン屋からでしかパンを買えなかったが、日本人は、通帳を持っていけば、好きな店で買えたのである。

よって、フランスのパン屋は、町内の住民分のパンを焼けばぜんぶ売れたので、美味いパンを焼くのをやめて、儲けを優先させたから、「自由化」で、思い切り淘汰されてしまった。

とはいえ米屋も、売っている米自体はどこの店も統制品ゆえの同じ品質だったから、都度浮気する必要はなかったし、重いコメを他の町で買う意味も薄かった。
こうした品質管理には、日本の役人は天才的な働きをする。

「ヤミ米」のことを、「自主流通米」と言っていたのは、現実にあわせて、1969年にとうとう「自主流通制度」ができたこともあったけど、大きなきっかけとなったのは、八郎潟の干拓の「失敗」による。

とにかく、食糧不足が深刻だったために、農地を拡大するしかない!という理由をつけた、正義の巨大公共事業が、「八郎潟干拓」であったのだ。

海水が入り込んでいる巨大な潟を、単に埋め立てるだけでなく土壌の入れ替えをするという、一大土木事業であるから、出来上がったときには、「米あまり」という社会環境に変わってしまっていたのである。

さらに、当時の世の中は並行して、戦勝国アメリカの余った小麦を日本人に食べさせるための大キャンペーンがあって、「米を食べるとバカになる」という、バカなことを慶応医学部の教授に宣伝させていた。

これを、「頭脳パン」として栄養強化したのを販売した者もいたから、そのうち、「こおろぎパン」も、「新・頭脳パン」とかなんとかいって売り出すのだろうが、かんがえる能力を減衰させる成分を入れるにちがいない。

それでもって、子供にパンの味を覚えさせるために、学校給食をパンにすることでの「食育」を絶対的に推進したのは、ぜんぶ当時のおとなの事情である。

だから、米の消費を抑えて、小麦の消費を拡大させながら、「票」のために、配給制度を継続したけど、食管赤字が巨大化して、「健全財政」のために、ヤミ米を正当化させる手段しかなくなったのである。

ということになっていた。

しかし、1月の世界経済フォーラムでは、とうとう「水田」も槍玉にあがって、「メタンが発生するから水田の禁止」が話題になったのである。

ヨーロッパでは、牛のゲップが二酸化炭素排出源だということで、畜産を禁止する法律の問題から、EU加盟国の農家に加え離脱した英国でも、大規模デモを開始していることは、このブログでも書いてきたが、日本のマスコミは報道しない自由をしっかり行使している。

どうやら、国連(=連合国)も、「SDGs」を建前にして、人類の農業を縮小・禁止する、恐るべき愚策をまじめに推進するようだ。

昨年御年百歳で亡くなった、キッシンジャーの最後の著作『リーダーシップ』は、99歳での出版だったが、最後に、「世界の教育の衰退が、世界的リーダーを排出することがなくなった」とボヤいているのが「読みどころ」になっていることの、現実がこれなのだ。

街で見かけるSDGsバッジをつけている「愚民」は、愚民ゆえにこの愚策で食糧危機(=栄養不足)になって、あわや殺される運命にあるかも知れないことにも気づかい、もうほとんど上流の知能的犯罪者に無能ゆえに下流民が加担する状態になっている。

なるほど、わが国が半世紀も前にはじめた「減反」の、先進的な意味が見えてきた。

本来は減反ではなく、食糧を確保しながら「輸出する」発想がゼロだったことの政策立案者の無能が問題なのではなく、そうやって農家の人口減少までやったことの効果が、近い将来、日本人を餓死せしめるための長大な伏線であったのだ。

人口が減少するに決まっているのに、郊外の農地がいまどきどんどん住宅に変わるのも、いざという時に耕すことができないようにしているのである。

と、妄想した。

「社員」の消費税

消費税は間接税だ、は詐欺である。

消費税の正体とは、直接税(第二法人税)だと、元財務官僚にして、現法政大学小黒一正教授(経済学)が財務省の代弁者としての解説記事を書いてくれている。
まお、財務省の代弁の意味とは、消費税の根本を曝露することではなくて、消費減税をしても物価なんか下がらない、という論法で、減税のムダをプロパガンダしたいことにあった。

そのために、消費税の正体を語ってしまって、まさに「語るに落ちた」のである。
この記事は、国民必読といっていい。

これは、国民にとって重大な情報だ。

この秋からはじまった、インボイス制度がなにかをしれば、薄々感づいたひともいるだろう。
とくに、中小企業や個人事業主にとって、消費税とはなにか?を根本からかんがえさせることになったので、がめつく徴収だけしたい財務省の本音がとうとうバレたのである。

すると、法人税と並んで消費税は、二重課税の問題にもぶちあたる。

ガソリン税に消費税がかかることも、一向に解決されない二重課税だが、日本政府は国民生活を痛めつけるためのマフィア化をしている証左でもある。

内陸部の県(例えば長野県や山梨県)には、ガソリンをタンクローリーで運ばないといけないだけでも高コストになるのは当然で、ざっと20円/Lの価格差があるので、地方だから物価が安く暮らしやすいということにはならない。

どうしてパイプラインを引かないのか?

運送業界に忖度しているだけか?それともキックバックが政治家にもたらされる仕組みでもあるのか?

元財務官僚で、財務省の本音を曝露している先人といえば、高橋洋一教授であろう。
この御仁の無謬性自慢は、じゅうぶんに鼻につくことがあるものの、得意の数理については漏れのない解説をしてくれている。

その中で、もっとも重要な曝露は、政府財政をバランスシートで見たときの実態である。

たしかに巨大な債務(ざっと1400兆円)がある一方で、ほぼ同額あるいはやや多い、資産が左側にあるという。
すると、黒字分は資本の部に蓄積されて、右側にあるから、これでバランスする。

ようは、いま、チャラの状態にある。
だから、将来に負債が増える分が心配だ、ということでもある。

しかし、高橋教授は、不確実性については言及しない官僚の習性が残る手堅さがあるので、資産にあるはずのアメリカ国債がどうなるのか?は語らない。

もしも、をいわないのは、国民がかんがえろ、という意味で、それなら大学教授としての問いにもなるから、すっかり教育者になったといえるのかもしれないが。

ヨーロッパが一番だということをぜんぜん信用してはいないけど、ヨーロッパの知の伝統は、いまでも大学の「リベラルアーツ:自由七科」に残っている。
この中に、算術、幾何の二科があって、いまなら併せて数学とするのだろう。
なお、音楽もあるのはそれが「神の言葉」だとされていたからだし、人間の心を表すからだ。

数学と英語を子供に嫌いにさせる努力で以て、一部の「できる」ひとたちが支配する構造を、文科省がつくっている。

さてそれで、第二法人税たる消費税の話である。

法人税は、だれもがしっているとおり、企業の利益に課税される。
この利益とは、人件費を引き算した数字でもある。
なので、決算書には「税引前利益」の蘭と、税引きされた後の「当期利益」が記載される。

第二法人税たる消費税は、付加価値に課税されるから、法人税よりも課税対象が広いという特徴がある。
つまり、人件費が含まれることにもなる。

そこで、財務省は人件費の消費税をどうするのか?を制度設計上かんがえることになった。

そうして、外注先の人件費を消費税の対象にして、直雇いの社員やその人たちに支払う社会保障料も非課税としたのである。

すると、派遣労働が妙に流行ったけれど、これらはみな消費税の対象になるので、財務省やら国が推奨したのもムリはない。

将来、消費税率がどんどん高くなると、正規雇用の方が税負担がすくなくなることに誰かが気づくことになるだろう。

ために、国は、消費税は間接税だと、ウソをつき続けるしかないのだが、どこかでバレて信用をなくすのは、結構なことである。

もちろん、小黒教授が、どんな反論をすのかも楽しみなのである。

クリスマスもハロウィンも日本だけ

ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス:政治的な正しさ)が、とくにアメリカで先進的なひとたちのなかでの常識になったようだ。

こうしたものごとを、「先進的」だと先進的なひとたちが自分で決めつけるから、「遅れている」という批判が正当化されるようになっている。

走ったり歩いたりすれば、速いひとは先行して遅いひとは遅れるけれど、「先進的」というのは、あくまでも思想のはなしだから、騙されてはいけない。

基準が見えないからである。

すると、上に書いたように、基準を設けるのも先進的なひとたちなので、なんのことはない、自己中の集団が異物排除をしようとしている、悪質さが浮かび上がってくるだけである。

こうしたひとに限って、「多様性」を口にするから、これをふつう「ダブルスタンダード:二重規範」と呼んで、警戒してきたのである。

なので、ダブルスタンダードのひととは、たいがいが全体主義者だ。
すくなくとも、全体主義者がいう「多様性の絶対重視」とは、「多様性(を認めないこと)の絶対重視」という意味の用語であって、それは単なる括弧書きを抜いた「略語」にすぎない。

過激な破壊工作をした、「ブラックライブズマター運動」の指導者だった黒人の運動家が、自ら共和党・トランプ派に転向すると発表して話題になった。
彼は、「民主党こそが人種差別主義者だ」と言い切ったのである。

やっと気づいたかともおもうが、気づけばまだまともである。

ポリコレを推奨しているのがその民主党にほかならない。

自分の生活のすべてに政治的価値を持ち込むのは勝手だが、他人の生活にもその政治的価値で介入するのがポリコレのポイントなのである。

しかしこれはどこかで見た光景だ。
ヒトラーのナチスや、レーニン、スターリンのソ連がまさにポリコレによってつくられた社会だった。
日本でも絶賛する新聞社があった、文化大革命だって同様だ。

これらの共通点は、いまさらだが個人の生活空間に入り込んでくることと決まっている。

日本でもむかしの左翼学生運動家が、警察や警官を「ポリ公」と呼んで蔑んだのは、国家権力の執行機関のうちで、わかりやすいひとつが警察権力だったからだ。
それで、アメリカでは民主党が支配する州や市が率先して警察組織の縮小を実施して、犯罪をはびこるようにさせている。

「先進的」なカリフォルニア州では、昨年3月に、「950ドルまでの万引き合法化」を議決して、とうとう小売店が街から消失する事態になっている。
それで、人口も他州に流失して減少をはじめたけれど、やめる気は毛頭ない。

そうやって、金銭を支払う対価として物品を得るという当然の消費文化を破壊することこそが、「革命」だからである。

つまるところ、紅衛兵がかかげた「造反有理・革命無罪」を、現代の民主党がやっている。

これが、歴史教育にも及ぶのは当然で、社会のあらゆる方面が、「政治化」しているのである。
そのために、先住民族を虐殺し、土地を奪った歴史をあげて、大反省しているのは結構なことだけど、だからといって何をするかといえば、子供に擦り込むことをやっている。

こうして、反米のアメリカ人を大量生産していて、そのいきつく先がアイビーリーグということになっている。
日本以上の学歴社会であるアメリカにおいて、エリート教育の場が取り返しのつかない反米にまみれているのである。

目的は、アメリカの衰退である。

「世界最先端」のニューヨークでもお盛んだけど、ならばマンハッタン島を返還するのか?といえば、そんなことは微塵もない。
いまや、かつてのモスクワのように、ニューヨークがなっている。

そんなわけで、ピュータンが英国で迫害されたから逃げてやって来た新大陸が、暗黒大陸にみずからならんと欲して、信教の自由もなにも、ポリコレ(共産主義・全体主義)の一方的介入で破壊されている。

それでもって、建国の土台にあったキリスト教も、他宗教に気を遣えという道理を利用して、もはや、「メリークリスマス」といってはいけないことになっている。
あえていえば、インディアンとの関係性からのお祭りである、「サンクスギビング」さえ、タブーとなった。

日本では異常な盛り上がりをみせる、ハロウィンも、アメリカでは禁止の様相だから、渋谷で外国人も暴れるのである。

そもそも、日本人にはハロウィンがなんのお祭りかもわからないものだが、たんなる仮想行列としてのお楽しみで輸入したものが、世の中の閉塞感から、「ええじゃないか」に転換してきた。

これに、ハロウィンとはなんだかしらないヨーロッパ人も加わっていたのだろうけど、やっぱり「ええじゃないか」なので、世界からの参加になったのである。

アメリカ人はそんな自国の状態をふまえての「ええじゃないか」だろうから、三つ巴の三角波になっていることから、渋谷区長がなにをいおうが介さないのである。

キリスト教徒がほとんどいないのに、毎日聖歌を聞かされる12月の日本が、唯一のクリスマスを祝っている、というのは、あたらしい観光資源になったということなのだ。

かかあ天下の幸福

群馬県における、「うちのかかあは(働き者で)天下一」が、変に略されてできたのが、「かかあ天下」で、恐妻家の意味に変化してしまったのである。

前に、千葉の女の乳搾りについて書いた。
こちらも、「働き者」という本来の意味が、変に転じていたものだ。

エジプト人のフィフィ女史が、驚異的な日本語能力をもって発信している中に、「日本は女尊男卑の国だ」という指摘がある。

エジプトにいる日本人で、フィフィ女史に匹敵するアラビア語能力を発揮して、エジプトでの評論を発信しているひとをしらない。

ただし、エジプトだと二通りの言語がつかわれる。

アラビア語でのまじめな評論なら、「正則アラビア語=文語」をもって話すという、高度な語学力を要求される。
ふだんの日常会話における、「口語」では、話者の教養が否定されてしまうから誰も信用しないだろう。

なお、正則アラビア語=文語と口語とでは、別の言語かとおもうようなちがいがある。

もうひとつは、フランス語である。
クレオパトラの自死によって古代エジプト王朝が滅亡して、ローマの属国となって以来ほぼ2000年間、エジプトは常に覇権国の属国に置かれていた。

ナポレオンのエジプト遠征で、この国の知識人たちはフランス語をもって知的会話をしているのである。
ただし、その後の英国支配もあって、英語も常用されてはいるが、上流階級はなんといってもフランス語なのである。

かつて、エジプトにおける歌姫といえば、ダリダが有名だった。

しかし、日本でなら美空ひばりに匹敵するこの国民的大歌手は、パリに在住していて、アラビア語とフランス語が混じった歌を熱唱していたのである。

イスラム教の一夫多妻婚は、ときの支配者たちがつくった後宮(ハーレム)をもって、あたかも好色さだけが強調されているけれど、教祖モハンマドが定めた妻は4人までというルールは、ジハード(布教による聖戦)における戦死者の未亡人たち救済のためのものといわれている。

女性の3倍の男性が、戦死したのであった。

砂漠における生活は、日本人には想像も出来ない苛酷さがある。
なので、われわれの常識をもって安易な評価をするのは控えないといけない。

逆に、先方からしたら、「日本という異星」とおもうほどの異次元が日本なのである。
今の時期、紅葉を愛でるために来訪する外国人が多数なのは周知だが、アラブ系のひとたちには、木々が色づく光景だけで、それはもう異界なのである。

およそ100年前のパリでは、女性参政権をめぐって、シャンゼリゼを埋めつくす女性たちの大規模デモがあった。
いまの常識ならば、参政権を要求するためのデモにちがいないと勘違いするのだろうが、じっさいの目的は、その真逆、大反対の意思表明だったのである。

政治なる汚いものは男にやらせ、子供を産む神聖なる女性を穢すな!という要求なのである。

それがいつのまにか逆転して、女性の権利にまでなったのは、男女平等というジェンダーフリーの事始めが原因である。
しかして、そのまた原因に、啓蒙主義による「人権」という概念が誕生したからである。

なので、人類は1215年の「マグナ・カルタ」を嚆矢とすればこの1000年のことであり、日本なら「戦後民主主義=女性参政権」となって、たった80年弱のあたらしいことでしかない。

はたして、人間の男女とは、おなじ生き物なのか?とかんがえを巡らせば、似て異なるものだ。

生命が生殖機能を獲得して、ようやく死ぬことができるようになった。
雌雄のちがいがなかった億年単位の時間、生命は死ぬことができなかったのである。

そんなわけで、男尊女卑という常識は、あんがいと脆弱なもので、本来は女尊男卑の原則が、人類共通のものとしてあったのである。

ところが、あたかも酒席に遅れてきた者が、周りに追いつこうとして追い抜いて泥酔するがごとく、男尊女卑が擦り込まれてのち、男女平等の刷りこみ教育から追い抜いたら、目的が女性をトップに据えることだけに陥った。

わたしは、とくだん林真理子女史の読者ではないが、なぜにこのひとが日本大学という巨大組織の理事長になったかの原因と結果について、ただ違和感をもつのみなのである。

しかし、なにも日大だけが問題なのではなくて、世界的にもやらかしてくれる女性政治家や高級官僚が目立つのである。

これは、女性だから目立つので、なんだか気の毒ではあるけれど、その人事が適材適所なのか?ではなくて、女性だから選ばれて就任したのだとなっているかのように見えるから、気の毒なのであるという議論がある。

けれども、適材適所という判断基準も、男女平等という観点からのものなのである。

男女は別の生き物だとしたうえでの、適材適所をかんがえないといけないのではないか?

人手不足だから、主婦を働きに出すように仕向けながら、税制上で事実上の所得制限をもうけたり、保育所の不足をつくったりと、政府と財界に都合のよいことをやっている。
ついでに、どうせ「DINKS」だろうからと、男性の所得制限もして、ダブルインカムでないと生活できないようにしている。

さらに、こんな所得では結婚もできないので、親のすねをかじるようにして、個人資産の減少を促すのである。

それを誤魔化すために、女性管理職やらを数量で義務化しようというのは、女尊男卑を装って、その奥におどろくほどの男尊女卑が隠されているから、いまどきかえって男女平等を信じ込まされてきた男性側に戸惑いの違和感が生じるのである。

さては、「かかあ天下の幸福」とは、どっちのことなのだろう?

「最悪」の想定はムダか?

アメリカ国債残高が、33兆ドルを超えていることは前にも書いた。

たいがいの専門家は、心配なし、と発信しているし、むしろ不安を煽ることの悪質さまで言及している。
ところが、専門家ほど信用ならぬひとたちはいないことがわかってきたので、厄介なのである。

どうせゲスのかんがえならば、ゲスらしくかんがえてみようとおもう。

アメリカと対抗しているのは、ロシアだが、そのロシアの情報が日本人にはまったくしらされていないし、デジタル・タトゥーになっているのに、自称専門家はテレビでロシア軍の劣勢をまだもっともらしく語っている滑稽がある。

もちろん、ここでいう「ロシア」とは、ソ連が崩壊してからのいまのロシアのことであるけど、日本人にこの区別がついていない不思議がある。

面倒なのは、ロシア革命の首謀者が、ユダヤの大富豪たちだったことで、これがまた「陰謀論(conspiracy)」になるのである。

ところが、「陰謀論」という言葉とその用法が確立したのは、ずっと後の、ケネディ大統領暗殺後のCIAのしわざだったことはもうわかっている。

いまでは、「chemtrail」に進化しているが、日本語では相変わらず、「陰謀論」である。

大富豪に反発するはずの共産主義を、どうして大富豪たちが応援するのか?の理屈が、共産主義思想と相容れないはずという、勝手な思い込みで否定されるものだが、「共産主義」➡︎「全体主義」と言葉を入れ変えれば、たちまちその親和性がわかるというものだ。

つまり、人類を財力で支配したい大富豪たちの究極は、全体主義に落ち着くからである。

もちろん、こうした大富豪たちの伝統的な天職は、(国際)金融と武器生産であり、また医者でもあった。
いわゆる、多数のキリスト教徒によって限定されたユダヤ人の職業のことである。

当然だが、社会転覆の運動には、カネと武器がいるし、漢方でも「上医」とされるのは、患者を直接快癒させる医師ではなくて、社会を変革させる者を指した。
なので、ユダヤ人の職業とは、そのまま革命に必須の転換ができるのである。

ソ連をつくったのは、ロシア人たちをその語源の民族「Slav」を「slave」に貶めて、鉄のカーテンの向こうに、被搾取される実験的監獄国家を立ち上げるためだった。
ゆえに、共産党とは、ユダヤ大富豪たちに奉仕する、「看守」だったのである。

ところが、とうとう搾り取るうまみがなくなって、直接的にロシアの天然資源を奪おうとした(「刈り取り」ともいう)のが、ソ連崩壊後のエリツィン時代で、ほとんどすべての資源が、欧米資本(当然ユダヤ大富豪たちの企業)の餌食になった。

そこで、救国の戦士として登場したのがプーチンだったのである。

プーチンがやった、資源会社の「国有化」とは、自由化の反動としてのものでなく、盗み取られた資源の奪還だった。
これを財源として、困窮化した国民生活の復興もしたのである。
だから、プーチンの支持が圧倒的なのであり、欧米ユダヤ大富豪からしたら、にっくきものがプーチンとなる当然がある。

それが、ユダヤ大富豪の代理人、アメリカ民主党と英国保守党、それにもちろん共和党内のRepublican In Name Onlyたちが、徹底的にロシアを敵視する理由である。
同様に、これらの者たちが習近平を敵視するのは、江沢民の改革開放がもたらした、ユダヤ大富豪への富の分配を停止したからにほかならない。

しかして、将棋や囲碁の名人たちは、おそるべき頭脳で以て、先を読んでいる。

対して、「A.I.将棋」とは、あらゆる手の打ち方を愚鈍に計算させて、その計算スピードを競っているものだ。
つまり、コンピュータが文章を読解できないように、将棋でも人間の思考とはぜんぜんちがう「読み」をしている。

これを、国際政治にあてはめると、名人級のプーチンと、初期のA.I.将棋をやっているアメリカ民主党の歴然とした実力差が、そのまま現れているといえるのである。

ただし、世界経済フォーラムが求めて止まない、「グレート・リセット」のための世界秩序の破壊こそが、民主党・バイデン政権の目的だから、わざと稚拙な手しか打たない、といった方が正確なのだろう。
もちろん、岸田政権(自公民連立)も、すっかり人類の敵たる世界経済フォーラムの手先となっている。

こうやって、ウクライナ戦争を、2014年のマイダン革命以前から遡ってみていけば、ウクライナという人造国家を踏み台に利用したロシア資源の再奪還作戦と、ウクライナ自体の富を吸い取る作戦が、みごとにプーチンの先手を読む力に負けて、アメリカとEUおよびNATOの敗戦が目前になってきた。

けれども、この敗戦自体も世界秩序の破壊であるなら、もはやグレートリセットが現実化しようとしているともいえるのである。

それには、ドル基軸通貨の崩壊というシナリオも含まれる。

バイデンが高らかにロシア経済制裁を宣言し、アメリカにあったロシアのドル資産を凍結し、ルーブルの取引だけに「追いやった」(SWIFTからの排除)ように見えて、じつは、ドルは「ペトロダラー」としての、位置づけを自ら放棄した。

ペトロダラーを創設したキッシンジャー氏は、まさかの崩壊を見て死去したのである。

世界最大といわれたサウジアラビアも、ドル以外の通貨(人民元やインドルピー、それにロシアルーブルも)による石油輸出を解禁し、これにOPEC諸国が相乗りしたことで、決定的となったのである。

ちなみに、ここに日本円がないのは、致命的なのである。

さてそれで、膨らみきったアメリカ政府の借金33兆ドルのうち、短期の返済が待っている。

もしや、アメリカ国債が紙切れになるような、究極の破壊工作が実現したら、まっ先に吹っ飛ぶのは、最大の債権国たるわが国なのである。
当然ながら、「貸し倒れ引当金」なぞ存在しない、連鎖倒産(破産)である。

あるのは国民の個人資産(預金)2000兆円なので、ここで「預金封鎖」という、終戦後の新円切替と同じ手法で「デジタル円」に強制移行(穴埋め)すれば、これぞ世界経済フォーラムがいう、「何も所有しない幸福」という、北朝鮮化が達成できる。

世界最貧国になる可能性という最悪を、日本国民はそろそろ意識しておかないといけないのである、とゲスの勘ぐりをするのであった。

最終手段が「BAN」

反グローバリズムを標榜し、国際情報系ユーチューバーとして知名度があった、及川幸久氏のユーチューブが、11月29日に、番組ごとそっくりプラットホーム提供企業によってバン(消去)された。

過去の投稿や、第二チャンネルなども全部がこの世から消えてなくなって、「なかったこと」になったのである。

延べ何時間になるのかしらないが、相当量のデータが、本人やこの視聴者が別途データ保存していないかぎり、消滅した。

なので、ネット界隈でのざわめきはそれなりの衝撃となった。

これより以前には、衆議院議員の原口一博元総務大臣も、おなじ憂き目にあっている。
しかしながら、原口氏は、いまもユーチューブでの配信をしているので、及川氏のように「永久追放」よりは、罪は軽いようになっている。

当事者の及川氏は、ちょうどロシアに向かっている最中だったらしく、自身のチャンネルが消滅したことをしったのは、ロシア到着後だったという。

いま、ロシアから経済制裁を喰らっているわが国は、もはやモスクワ行きの直行便(成田ーモスクワ直行なら八時間ほど)すらないために、ドバイ経由で片道十八時間かけて往復した。
それでもって、帰朝報告を原口一博氏の番組に登場して、日本では知りえないレベルで語ってくれているので、時間があれば観て損はない。

ウクライナ戦争が踏み絵となって、脳天気で欲にまみれた戦争屋たち(ネオコン)が想定もしなかった事態となったのは、世界がG7に従う時代の終わりとなったからだった。

いまや、G7は、経済力でも世界のマイナーに落ちこんだので、3分の2以上の国々が、アメリカに従わなくなっている。

そのアメリカでは、共和党トランプ派が頑張って、連邦下院司法委員会は、SNSプラットホーム企業たちによる言論統制のやり方を暴き出している。

司令塔は、バイデン政権の牙城、ホワイトハウスであった。

担当高官からの執拗な言論への介入要請に、最初に陥落したのがどうやら、ユーチューブだった。
つまり、Googleも保有する、アルファベット経営陣の判断だった、といえる。

これを突破口にして、ホワイトハウスは、さまざまなSNS企業に検閲をやらせることに成功した。

もちろん、アメリカ合衆国憲法は、言論の自由を掲げているから、かくなる行政の介入は、あからさまなる憲法違反である。
ゆえに、立法府の議会は、行政府の大統領府を徹底糾弾することになる。

大統領選挙の年の来年は、すさまじい攻防戦が予想されている。
これに、だれもが利用しているSNSをホワイトハウスが壊したというのは、もはやスキャンダルである。

そんな中、変な病気が流行りだしたのは、2020大統領選挙のときとスケジュールまで似ている。
民主党にとっての勝利の方程式は、郵送投票しかないので、またか?を醸成している。

さてそれで、人類初の啓典宗教であるゾロアスター教が、二元論(善と悪、明と暗)だった。
いまでも、「二択だけ」をいうのは、この二元論の影響が根深いからである。

「表と裏」もその一つであるけれど、賢明な人間は、「表裏一体」と認識している。

つまり、とあるものや出来事には、表裏一体の混沌という複雑がある、という意味だ。

なので、単純化は整理をするのに便利だが、真理かどうかはわからないのである。
むしろ、複雑さの丁寧で面倒な解明しか、真理に近づけないし、そうやって見つけたものがほんとうに真理なのか?は、じつはまた不明なものなのである。

ようは、真理には、微分のように近接することしかできないのではないか?

そうやって世間を眺めるのに、あえて二元論を利用すると、ヘーゲルがみつけた弁証法の便利さがまた光るのである。

テーゼ(表)があって、アンチテーゼ(裏)が攻めたて、あらたな地平たる、ジンテーゼが出現する。

バイデン民主党政権がテーゼなら、トランプ派がアンチテーゼで、ジンテーゼとはプーチンのロシアやもしれぬ。

すると、ホワイトハウスがトランプ派によって再びひっくり返れば、世界もひっくり返るのである。

その前段として、ユーチューブの元CEOが、85以上の世界の保健機関と(検閲の)協力をしていたとして、わが国では、内閣官房と一緒に「誤情報の取締り」をしていたと重大発言した。

もちろん、ここでいう「誤情報」とは、政府やらに都合の悪い情報を、「誤」と決めつけることだから、二元論的には、「正」という意味となる。

原口氏がこれを国会で質問するのかは不明だが、はいそうでしたとはいわないのが日本政府の答弁になるので、またそれも二元論的に読み込むことになるのだろう。

そうやってかんがえると、SNSによる検閲・言論統制とは、SNS企業がやることだけでなく、その実態が暴露されたら、SNS企業の致命傷にもなりかねない、もろ刃の剣なのだ。

すると、『妖怪人間ベム』のように、SNS企業になりたがっているNHKにとっては、いまよりもずっと邪悪だったとバレる日こそ、国民が人間になったときなのだろう。

LINEがまたやらかした

日本人の一般多数が利用している、LINEという便利なサービスは、サービス開始の当初から、「危険性」が指摘されていた。

何度も繰り返している、情報漏洩がまた起きていたけど、この企業はその事実をひと月も公表していなかった。

悪質さの確信犯なのである。

しかし、利用者の方に、「危険性の認識不足」ということがあるので、事業者としておおいに助かっているという側面がある。

その勘違いのひとつが、LINEにおける文章会話の漏洩を、「たわいのないことばかりだから」として軽視することが挙げられる。

今回の漏洩は、この意味でわかりやすかった。

なぜなら、漏洩したのはそんな「たわいのないことばかりの文章会話」ではなくて、完全なる、個人情報(個人が特定できる情報)だけだったからである。

だれも、そんなたわいのない文章会話の内容をしりたくもない。

それでも、LINEに登録したら、どのような設定をしないといけないか?について、よくしっているのは、小学生から高校生くらいまでの、ティーンエイジャーなのだ。

また一方で、危険がいわれている、短時間の動画サイトも、小学生からのティーンエイジャーが多数利用しているので、なにがなんだかわからなくなる。

つまり、残念ながら、やっぱりティーンエイジャーたちは、その危険性の本質を理解しているわけではない。

すると、ティーンエイジャーたちの端末や通信費を負担しているだろう、保護者といわないといけない親たちの理解度は、相当に絶望的なのである。

さらに問題なのは、LINEをつかうように導いている、自治他や企業だ。

ここに、これら組織体の、道徳的劣化、あるいは、社会的責任の放棄、という問題がみえてくる。

たとえば、LINEの情報漏洩問題が真っ最中のとき、神奈川県はLINEによる行政情報の提供を宣伝していて、まったく動じている風情は微塵もなかった。
いやむしろ、そんな問題の存在を完全に無視していたのである。

担当の県職員を非難したいのではなくて、選挙で選ばれる、知事や県議会議員たちの無関心におどろきを禁じ得ないのである。

いったい誰のための選挙なのか?という根本が腐っている。

まちがいなく、住民のためではなくて、議員やらの本人のためになっているのである。

その意味で、わが国はソ連化している。

なので、ヘンテコな多数決の論理が、企業をしてLINEを営業ツールにする決済がまかり通っている。
対して、なぜに株主は反対しないのか?が謎なのである。

しかし、もはやわが国の上場株は、外国人支配がすすんでいる。
NTT法を廃止して、外国人がNTT株を際限なく購入できるようにするのは、わが国の通信インフラを外国人に売却するに等しい。

ようは、政権与党による売国が、あからさまになっている。

それなら、自治体がLINEをかたくなにつかうように住民に強いるのもわかるというものだ。

LINEサービスを提供する企業は、もとは韓国の企業である。
それが、日本に上陸して、情報漏洩をやらかしているのは、漏洩ではなくて売却しているのではないか?と疑われた。

通信を管轄する、総務省は、日本人ユーザーの情報があるサーバーを、韓国から日本に移転させるようにしてきた。

なんと、韓国には、ネットの個人情報を保護するための法律が存在しないし、その概念もない。

なので、登録会員の個人情報がこの国から周辺の国へ大量に流れても、サーバーのある場所が法律の適用を受ける国際ルールなので、日本人の情報流出も、日本政府は関知できない。

むかし、日本のホテルがカリフォルニア州にサーバーを置いて、そこを拠点に北米大陸のアメリカ人やカナダ人からの予約を日本に送信していたら、州当局が売上税の徴収を開始したことがある。
アリゾナ州ではそのような課税制度がなかったので、急遽、サーバーの引っ越しが業界のブームになった。

ガラケーからスマホになったいまでは、スマホが自動で収集する位置情報とかが漏洩してしまえば、個人が特定できるまでになっている。
ましてや、LINE Payをつかうと、生活情報の基盤も漏れるのである。

しかし、そんなものが漏れても、関係ない、というひとが多数だ。

そうはいかないのが、どうしてもそんな情報をほしいひとたちがいるからで、その理由が、ビッグデータ収集ならまだしも、そこで留まらない突然の脅迫のリスクもあるのだ。

どこに行って、どんな買い物をしたのか?によっては、他人にしられたくないこともあるだろう。

それが、脅迫になったとき、なにを要求されるのか?
自分はたいした人間ではない、という思い込みこそが、相手につけいる先を与えている。

そんなわけで、わたしは、このサービスはなかったこと、にしているのである。

通信キャリア3社が共同でつくった、「+メッセージ」は、仕組みの上で安全性が確保されている。

これにシフトさせる自治体や企業があれば、それはそれで、良心的なのだとわかる「踏み絵」となるのに。

キッシンジャー氏死去の報に

29日、ヘンリー・キッシンジャー死去のニュースが世界を駆け巡った。
享年100歳。
まずはなんであれ、ご冥福をお祈りいたします。

最初に、わたしには、結局何者だったのか?が不明の御仁であった。

果たして、人類史に名を残したろう人物ではあるが、それはよい意味でか?わるい意味でか?がよく分からないからである。

ハーバード大学で政治学博士を31歳で取得したのは、いまどきのわが国なら「遅い」と評価されそうだが、ユダヤ人ゆえにドイツから亡命し、軍役について後、ハーバード大学に入学したのが、23歳になってからであった。

しかし、その軍役とは、アレン・ダレス(ダレス兄弟の弟)の配下にある諜報部(OSS)の軍曹としてだった。

ちなみに、兄のジョン・フォスター・ダレスは、共和党アイゼンハワー政権の国務長官として有名だが、その前は、民主党トルーマン政権のアチソン国務長官顧問だった。
いわゆる、「両刀遣い」ということだが、いまとなっては、「戦争屋」のエージェントであったとしれるのである。

これを、「典型的共和党員」というのは、後にできる「DS」とおなじで、民主・共和双方にまたがるネオコンのことだ。
なので、この兄弟が、戦後のわが国の「征服」を永久化させた張本人たちともいえる。

そんなわけで、人間の運命的出会いというものは、なにも男女のことだけでなく、むしろ男性社会における男同士の方がよほど社会における影響という点で意味が深い。

それは世界共通で、たとえば、『三国志』における、「桃園の誓い」のようなものだ。

劉備・関羽・張飛の3人が、義兄弟の約束をしたことで、これがわが国のやーさん世界でも取り入れられて、『兄弟仁義』になったのだった。

本家本元の大陸では、「结拜【jiébài】(ジエバイ)」といって、あちらでも闇社会を形成しているし、党もこれを利用している。

そんなわけで、キッシンジャーが「若くして」頭角をあらわすのは、「人脈」というものがあったからではないか?とおもうのである。

博士取得が31歳なのになぜに、若くしてなのか?は、博士になってから早い時期に、「外交問題評議会」へ参加していることでわかる。

この評議会は、超党派だという特徴がある。
しかしながら、上に書いたように、アメリカにおける超党派とは、戦争屋という意味となる。

そして、この外交問題評議会から、歴代の国務長官が指名されるので、一種の「芸能事務所」のような役割をもっている。

あらためて、トランプ政権が「異常」だったのは、外交問題評議会からの閣僚受入をしなかった、稀有な政権だったからである。

それが、徹底的なトランプ攻撃となったのだから、攻撃者たちとは何者か?のお里がしれるのである。

日本における「トランプ嫌い」とは、戦争屋たちが行ったプロパガンダによって、脳を冒されたと表明するような残念なひとたちの自己紹介なのである。

キッシンジャー氏は、さらに、世界経済フォーラムの重鎮だったし、その上位団体、ビルダーバーグ倶楽部の常連でもあった。

つまり、このひとは、常に支配する側にいた人物なのだ。

それゆえに、彼の示す、「外交政策」は、おそろしくも戦略的ではあるが、どこかズレている。
目的がズレているからだ。

ユダヤ・キリスト・イスラムの世界は、その人物が「死ぬまで」という感覚がある。

なので、結婚式における「死がふたりを分かつまで」という、「FROM To(~まで)」、すなわち、終わりのときがある。
これは、結婚相手の一方が亡くなったら、その結婚契約も終了する、という意味なのである。

日本の文化ではそうはいかず、「永久」だから、神社での挙式における、「誓詞」も、永久の夫婦を誓うのである。

この意味で、神話における、イザナギ・イザナミの物語は、日本的ではないという不可思議がある。

そんなわけで、彼の文化では、プライバシー保護という観点にも、「死」によって解放・公開されるということがふつうとなる。

たとえば、20世紀を代表する実存主義の大家、マルチン・ハイデガー教授とその教え子にして不倫相手だった、ハンナ・アーレントとの往復書簡(手紙)が、しっかりと印刷されて本になって販売される。

通信の秘密も、本人が生きていてこそ、なのである。

すると、これから、さまざまなキッシンジャー氏の「評伝」が、いろんな証拠とともに出版されるはずだから、ヘタなことをいってきた専門家たちのメッキが剥がれだすのだろう。

政治学とか国際政治学者のいかがわしさが話題になるけど、もっといかがわしいとわかるのは、人類社会にとってわるいことではない。

その意味で、仏教でなら、100歳まで生かされてきた、キッシンジャー氏は、長く生きすぎた感がある。

合掌。

「太閤下水」を観てきた

別に、「背割(せわり)下水」ともいう。

むかしは武将の居城としての築城にあたっては、城下町もつくるのがセットだった。
いわゆる、「町割り」とは、現代の自治体がする、「都市計画」のことで、現代とちがって強制を伴った。

発案・実務者が誰だったのか?にはあまり注目されないが、総指揮をするのは武将本人なので、その武将がぜんぶをやったことになっている。

いま社会問題になっている、「パワハラ」も、裏をかえせば、指揮官たちによる指示・命令の「質が問われる」ということなのだが、結果としてのハラスメントだけが目立ってしまって、その「質」について議論されることがなく、犯人探しに終始するのも、「責任者」としての名前を特定したいからだ。

それで、名前が確定すると、こんどは社会から糾弾されることになる。

いまに伝わる、武将の功績や悪事でも、それぞれ伝説になって伝わっているのは、社会から、という点でもおなじなのである。

指示・命令の質とは、ざっくりふたつの側面がある。
・指示・命令そのものの是非
・指示者・命令者による被指示者・被命令者とのコミュニケーション能力

しかも、こうしたものが複合してしまうのは、さらなる上司(権限者)による了解を伴っていると解釈できるので、組織の問題になるのは当然なのである。

逆にいえば、組織管理の問題だとはじめから気がつかないひとたちが、やってしまう、という構造にもなっている。

かんたんにいえば、組織管理とはなにか?ということの訓練を組織人たち(管理職全員)が心得ていれば、十分に防止できることである。

しかし、このことができている組織はあんがいと少ない。
それを意識している総指揮者(トップ・マネジメント)がすくないからだ。

なので、問題が大きくなって、トップ・マネジメントたちが社会の目にさらされる、いまなら記者会見の場における、しどろもどろは、ふだんから組織管理とはなにか?をしらぬまま、トップ・マネジメントの職に就いた(肩書きだけが重くなった)ことの無惨なのである。

一方的な価値観で決めつけることは控えたいが、時代と価値観がいまとはぜんぜんちがう、戦国時代の戦国武将にとってみたら、組織管理の失敗は、そのまま自家の滅亡リスクを伴うから、緊張感があったのは当然だ。

そのサバイバルゲーマーとして、国家のトップに就いたのが、豊臣秀吉だった。

偏差値偏重の現代には、ぜったいに登場しない英雄である。

けれども、義務教育もない時代(明治までずっとそんなものはなかった)、ひとびとは、生きるための勉強は自分からやっていた。

秀吉は、「学」はなかったが、「教養」がなかったわけではない。

わからないことは、わかるひとにきけばよい。
それで納得したら、即実行する。
これが、このひとを天下人にしたのである。

だから、秀吉本人が納得するか?しないか?が問題になる。

そこに、秀吉のなかの価値観形成における人生経験が、育ち、として決定的になったのだとおもわれるし、その育ち方が、一般人にとっての常識でもあったから、家臣団だけでなく庶民という下からの支持を得たのだ。

秀吉の最大の武器とは、ここにあったのではないか?

そんなわけで、太閤下水である。

大阪城は、元は一向宗の拠点にして難攻不落の石山本願寺だった。
だから、信長のころから城地として目をつけられていたを、すったもんだの末に、秀吉が天下の居城として定めたものだ。

個人的には、名古屋城の本丸御殿が忠実に復元されたように、忠実なる復元を巨大な大阪城にするだけで、万博以上の価値があるものを、とおもうのである。

それもこれも、大阪人たちの劣化のなせる業であるけれど、どうしてかくも劣化したのか?をかんがえると、郷土教育をやめたことに原因がある。

江戸期を通じても、糞尿は貴重な肥料の原材料だった。

なので、「下水」といっても、いまのように生活排水に糞尿も一緒にされることはなかった。
もちろん、合成洗剤もなかった。
すると、「上水」はどうしていたのか?

「おなじ」だったのである。
当時、上水と下水の区別はなかった。
そもそも、「下水」という日本語ができたのは、明治の頃のようだ。

なので、「水道」なのだ。

江戸末期に、大阪でコレラ(「コロリ」)が流行ったのは、この水道から菌がしみだして、井戸に混じったからといい、モルタルなどで漏れないための大工事がおこなわれている。

時代があたらしくなって、汚物も排水していたということだ。

なお、「背割(せわり)」とは、この水道が街の区画堺としたためで、玄関がある表通りの背面だからだという。

いまは蓋がかかって暗渠になっているが、むかしは蓋がない。

大阪市建設局に電話して申し込むと、中央区農人橋、南大江小学校西側に唯一の見学施設があって、そこで説明をしてもらえる。
所要時間、約20分。

ジャパニーズ・ウイスキー・バー

ジャパニーズ・ウイスキーが人気で、手に入らない。

群馬の県庁所在地、前橋の飲食店では、ウイスキーを手に入れるのにバンドルされているいろいろを購入しないといけなくなっている、という。

なんだか、1993年(平成5年)の米騒動を思い出す。

このときは、タイ米(インディカ米)がバンドルされて、飲食店も強制的に購入させられた。

それで、調理法がわからないひとたちは、「不味い」といって捨てていたのを、アジアの貧困国から、日本は不道徳だ、と非難されたのであった。

日本政府が、タイに請願して大量買付したので、米の国際価格が爆上がりしたのである。

ただでさえ食えない貧困国は、自己民に食べさせる米が買えなくなった。

その米を、不味いからと廃棄するのは、確かに不道徳であった。

食べ物は大切にしない、お百姓さんに叱られる、という言葉でむかしの子供は育ったものだが、国内向けの話にとどまっている不可思議がある。

この非難の矛先が、日本に米を売ったタイにも及んで、広範な国際問題になったけど、当時の日本のマスコミはこれを報じなかった。

それはそれで、1973年のオイルショック(石油危機の本格化は翌年から)で、日本はなにも悪いことをしていないのに、どうしてこうなるのか?という、幼児のような言論が国内を席巻したのも思い出される。

すると、「大正の米騒動」(1918年)のときとかと農林水産省もいっているが、昭和の米騒動だってあった。

それが、1931年(昭和6年)からはじまる、「大凶作」で、東北地方では天保以来の大飢饉という悲惨になったのである。

平成5年と同様に、日照不足が原因とされる。

そしてまた、日本政府は、タイ米を買い付けて、調理法をしらない日本人は、「不味い」といって捨てていたのである。

歴史は繰り返されている。

これを隠したいがためか、「米不足」とか「米騒動」で検索しても、昭和の大凶作はヒットしない。

では、どうしていまウイスキーが足りないのか?

どうやら、輸出に回っているという。

要は、日本人が外国人に買い負けているのである。

有名な高級銘柄だけでなく、むかしなら1級酒とか2級酒にあたる銘柄も足りない。

それで、これらにもプレミアムが加算されている。

じつはわが国は、ウイスキー大国である。

どれほどのメーカーがいかほどの種類のウイスキーを作っていて、販売されているのか?は、よくわかっていない。

数百銘柄はあるといっても、それはいま作って販売している種類のことだけで、賞味期限がないウイスキーは、製造をやめたものもちやんと販売できるから、どうなっているのか?の把握が困難なのである。

しかも、大メーカーだけでなく、中小の造り酒屋がウイスキー製造にも手を出しているし、独自に樽を造り酒屋に持ち込んで詰めてもらい、これを自社に持ち帰り熟成させることで、メーカーとは別の製品になって販売されている。

しかも、それをブレンドすることで、無限大の種類が生まれるのだ。

わたしは、ウイスキーとは、基本的に熟成の時間を買って飲んでいるものだとかんがえていたが、それにはもう一つ別の価値が加わることを、大阪のジャパニーズ・ウイスキー・バーで確認した。

終売となったむかしたっぷり宣伝していた、大メーカーのウイスキーが棚に並んでいるのである。

真面目なマスターは、これを仕入れ価格連動で販売している。

なので、もしそれが2級酒であっても高価になることもある。

しかし、マスターによれば、有名銘柄の高級ウイスキーにバンドルされてついてくるものが多数だという。

つまり、下手をすると、実売当時よりも安い、ということもあるわけだ。

ボトルに詰められたら、ウイスキーは熟成しない。

つまり、50年前に販売されていたウイスキーは、たとえ半世紀ガラス瓶の中にあっても、50年ものとはいわない。

ガラスという化学的に安定している素材のなかで、アルコールという溶剤成分が化学変化を起こさずにいるから、熟成もないので、賞味期限がなく、そのままの状態を維持している。

しかし、そのボトルのラベルが、時の経過を語っているのである。

なので、熟成の時間とはちがう、わたしの若き頃の思い出を買うことになる。

熟成をしているのは、自分の方なのだ。

少ない給料で、子供時代からある町内の酒屋で買って飲んだ、2級酒が、目の前に並んでいるのは、絶景なのである。

注いでもらって舐めてみれば、パッとそのときの光景までが浮かんでくるのは、まさに魔法の水である。

うまいウイスキーには、2種類あると教えてもらった。