哲学者の論点を聞きたい

誰が言い出したのかしらないが、「あたらしい日常」がいわれだした。
「流行語大賞」に輝くような「流行」ならまだしも、おそらくいいだしたひとには「定着」が欲しいだろうから、「流行語」では満足しないだろう。

世の中には二つの流れがある。
「フロー」と「ストック」である。
「表面に浮いている」のが「フロー」で、「底辺に溜まっている」のが「ストック」だから、先の例なら「流行語」はフローで、「定着」がストックとなる。

企業活動ならば、フローは売上げだけでなく「損益」のことで、ストックは「資産」すなわち「資本」をしめす。
なので、損益計算書がフローを、貸借対照表がストックを表記するものだ。

しかし、これ「だけ」ではない。
ひとの移動もフローだし、そもそも人生だってフローである。
「浮き草人生」と自覚できればよいが、組織にしがみついていたって、所詮はフローなのだから、いつどこでどんなふうに自分の人生を終えるのか?は誰にもわからない。

それだから、ストックとしての「哲学」に需要がうまれる。
この場合は、「アンカー(碇)」の役割で、フローの波に流されないように、海底にしっかりつなぎ止めておきたくなるのと同じである。
人生に哲学があるのか、ないのかの違いは、人生の違いにもなる。

しかしながら、喰うのが先で人生哲学なんてかんがえる閑がない、というのも現実である。
ところが、コロナ禍でその「閑」ができたともいえた。
すると、こんどは「閑」があっても、暇をもてあますということになった。
細かいが「漢字」がちがう。

かんがえることを普段からしてないと、せっかくの「閑」が「暇」になってしまうのである。
つまり、「喰うのが先」というのは、言い訳にすぎないのだ。

ということは、「かんがえること」とは、訓練を要するということだとわかる。
いまの日本人は、生まれてこの方、いつ「かんがえることの訓練」をうけるのか?

ほとんどない、のである。

ならば、読書経験はどうか?といえば、惨憺たるものである。
むかしの中学・高校生が読んだ「文学作品」と、いまのひとたちが同じ時期に同じ作品を読んではいない。

この時期は、別に「思春期」と呼ばれている。
身体と頭脳が、急速に「おとな」になる成長をはじめるので、こうした時期に読むべき作品とは、おとなになって読むべき作品ではない。

いってみれば、人生の免疫システムを構成するために読むべき「ワクチン」たちなのだ。
なぜなら、いろんな作家が描くいろんな登場人物たちの「悩み」を克服した人生が、読者にとっての仮想人生体験になるからである。

たとえば、17歳でヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読んだら、それでよいけど、40歳ではじめてこれを読んで感銘をうけているといわれると、気持ち悪い感じがしてしまう。
あたかも、40歳でおたふく風邪にかかっているようなものだ。

『新潮文庫の100冊』という小冊子が書店で配布されていた。
これは、1976年からだから、当時中学生のわたしにとってはかなり「リアル」な存在だった。
「制覇」を試みて挫折したひとりである。

惨憺たるの証拠は、これが2012年に終わっていることでもわかる。
この37年間をつうじてリストアップされつづけた作品は、11作品しかない。
100冊だから1割で、あとの9割は入れかわっているのだ。
それは、歌謡曲の変遷のようにドラスティックではないにせよ。

ヨーロッパ伝統のリベラルアーツをとりまとめているのは「哲学」だった。
その「哲学」の上位に「神学」があった。
わが国では、仏教伝来から、寺院での教学とはまさにリベラルアーツだったのである。

一神教とはちがうから、仏教哲学に「神学」のような上位はない。
「信仰」と「哲学」との関係が、キリスト教社会とことなるのはこのためだろう。
それが、ときに「一向一揆」のような反体制信仰爆発を生んだエネルギーに転換されたのかもしれない。

わが国の碩学といえば、田中美知太郎と小泉信三が思いだされる。
この二人、東京の空襲につかわれた焼夷弾で顔が崩れるほどの大変な火傷をおったという共通点がある。

 

わたしが、「碩学」というのは、難しいことを易しく解説してくれるひとをいう。
困難な時代には、世の中が「碩学」を必要とするものだが、いまの時代、いったい誰なのか?もわからない。

小泉の死後、田中が1968年に立ち上げた「日本文化会議」も、1994年に解散されている。

仕方がないから、彼らが残したものを、あらためて読んでみようとおもう。

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