国民が持続不可能になる

電気代がまたあがる。
理由は、「持続可能エネルギー移行負担金」という名目である。
原発が止まって、値上がりしたときも「負担金」だったから、役人の「手口」に新しさはない。

レジ袋有料化が、関係省庁の「省令改正」という手口だったのは、新しかった。
縦割り行政の常識を、「やればできる」とぜんぜん褒められたものではないものの、横の連絡で実行した。

今回のは、経産省・資源エネルギー庁の「単独犯行」なので、旧態依然としている。
いちばん旧態依然としているのは、広く国民に負担を強いるものに、国会決議を要さないで済む、という国会の永続的な睡眠状態をいう。

もちろん、役人は与党の会合に出張っていって、「ご理解を得る」努力をしたはずだ。
それで「ご理解を得た」ので、法律もなにもなく、料金値上げを電力会社に命令できるのである。

どうしてこんな負担を「強いる」のか?
それは、地球環境がこわれ「たら」、経済発展どころでなくな「れば」、国民生活もなにもない、という「誇大妄想」にとらわれたひとたちが、「儲かる」という仕組みの隠れ蓑にしているからである。

だから、この「たら」とか「れば」という仮定がなくなると、「儲かる」こともなくなってしまう。
それで、世界をあげて、地球環境を守る「SDGs」が推進されることになっている。

これぞ、脅しによる「究極の貧困ビジネス」なのだ。

そして、あらゆる分野・業界で「SDGs」が推奨されるのは、その指導にあたる業務のひとも、その指導をうける企業も、「儲かる」ことを確信しているからである。

つまり、消費者である国民は、かならず「損」をすることになっている。

あらゆる分野・業界には、「虚業」もふくまれる。
すなわち、世にいう「金融系」だ。
銀行だけでなく、投資会社もこれにあたる。
そうやって、わたしたちの年金だって、「持続可能」な、「SDGs」に見合った投資先で運用されることを名分としている。

すると、大損しても、「地球環境のため」だから仕方がない、という言い分が通るかもしれない。
でも、投資先を決めるひとたちの年収が減るわけではない。
「持続可能」なのは、決めることができる「立場」なのである。

まことに、産業国家として一部のひとに都合のいいはなしなのである。
だから、科学的に立証されることをきらう。
むしろ、科学研究費を、都合のよい「推進派」にしか提供しない、という悪辣をもって、「疑念派」を追放しようとするのである。

もし、明治維新への疑念をいうなら、これを追放しようというやり方とおなじだから、たちが悪いのだ。
けれども、このやり方も役人には「経験済み」ということになる。
それを、世界が真似ている。

そして、民主主義の多数決が、悪用されているのだ。

あと80年の「22世紀」がどんなことになっているかは期待薄ではあるけれど、今頃が「分岐点だった」といわれるのかもしれない。
すると、けっこう今が「正念場」なのである。

今年生まれる子どもの数は、昨年と同様として、87万人程度だ。
「団塊」のピーク、1949年(昭和24年)は、270万人弱だった。
ほぼ1/3になったのだ。

さらに、男女比は半々なので、ざっと女の子が40万人もいない。
特殊出生率の「1」から推定すれば、この子たちの子どもは40万人よりすくない程度だと推定できる。
そして、この子たちの子どもは、女の子が20万人程度だろうから、次の世代は10万人と、20~30年周期で半減する。

もちろん、今年生まれる子が成人するときまでに、おそらくいま70代の団塊世代はこの世にいない。
老人層の死亡数と、新生児の数が、ぜんぜんあわないのである。
すると、わが国の人口はいったい何人にまで減るのか?というのが、「人口減少問題」である。

だから、日本人に限っていえば、今のままの消費水準をつづけても、前年の消費量が維持できるのかもあやしい。
なにも、資源やらの「持続可能性」とかを心配しなくていいばかりか、需要がなくなる。

消費主体である、人間が持続不可能になる可能性があるのだ。
心配すべきことの、順番が狂っている。

かつて、首相だった鳩山由紀夫氏が、「日本列島は日本人だけのものではない」と迷言をはいて糾弾されたことがあったけど、向こう100年を見据えたら、まったくの「正論」なのだ。

日本列島に棲む日本人(大和民族)が、少数民族になる可能性は、否定どころか、現状の延長なら「確実」なのである。

けだし、彼には、「それでどうする?」がなかったばかりか、「子どもは国家が育てる」という、バリバリの共産主義を是としたから、迷言となったのだ。
しかし、糾弾しただけで、国民もすぐに忘れてしまった。

わが国に、ほんものの「宗教家」がどれほどいるのかわからないけど、団塊世代の葬儀が済めば、次はすさまじい勢いでの「墓仕舞い」がやってくる。
ことここに至って、徳川以来の「檀家制度」も成りたたない。

拝むのが宗教とはいえ、死ぬばかりが収入ではつづかない。
「増やす」ための祈りを開発する、イノベーションがいるのである。

紙おむつとロボット

高分子ポリマーが研究室で生まれたとき、その利用方法がわからなかった。
とにかく、じぶんの体積の30倍以上という倍率で、水をとらえる(吸収する)ことができる。

かんがえたあげくに思いついたのが、「紙おむつ」だった。

大学の心理学の授業でも、教職課程にあった「発達心理学」で、当時若かった女性助教授の講義をいまだに記憶している。
それは、すっかり普及していた紙おむつが原因とおぼしき「発達障害」のはなしが衝撃的だったからである。

赤ちゃんが感じる、「不快」は、本人にとって泣くしか表現できない。
すると、誰かがやってきて、おむつ交換をしてくれて、この不快を取り除いてくれる。さらに、「泣いている」ので、交換しながらたいがいのおとなはことばをかけて「あやす」のである。

これを繰り返すと、お乳がほしいということもふくめて、「泣く」ことが他人を「呼びつける」という意味の言語化される。
つまり、欲求の言語化である。
そうして、事前に「泣く」ことで、先回りして欲求を伝える、それに、あやされる、というコミュニケーションがはじまるのである。

たとえば、男の子が泣きだしからおむつを交換しようとしたら、おしっこを顔にかけられた、なんてことがある。
おしっこを「した」からおむつが不快で泣いていたのから、発達して、おしっこを「したい」というだけで泣くようになる。

こうして、じぶんで歩けるようになれば、勝手にトイレにいって用を済ますようになるのである。

紙おむつが「問題」と指摘したのは、赤ちゃんが「不快」を感じないからである。
しかも、製品としての機能に、その都度交換を要しないで済む「用量」を確保した。

これで、おむつ交換の回数が減るので「経済的」かつ、おとなには交換の手間が減る、というメリットがあると宣伝された。
じっさいに、用を済ました赤ちゃんは泣くことがない。
宣伝どおり、「快適」なのである。

すると、上述のプリミティブなコミュニケーションが発生しない、という「問題」となって、赤ちゃんの脳と心の発達に悪影響を及ぼすメカニズムになるのだという説である。
つまり、おそろしく早い時期に、「親子の断絶」がおきている、と。

さらにこのことが、赤ちゃんの深い記憶になって、成長とともに心理的な発達障害を引き起こして、当時のことばでいう「不良」になる確率が高まるということだった。
自分と他人とのコミュニケーションが不得手ということからの、社会性の喪失だという心配であった。

あの授業からほぼ40年。
おおむね、この「説」の正しさは変わっていないようである。
だからといって、推奨された「布おむつが復活した」ということもない。

どこにいっても、好天で、布おむつが大量に洗濯物としてはためいている光景を見なくなった。
コインランドリーで乾燥機にかけているのかもしれないけど。
「注意書き」にみつけることができる。

それにしても、子犬の生育とよく似ている。

生後かならず、母犬と一緒に生まれた兄弟犬たちによる、「社会化」の時期がある。
この時期にちゃんと社会化された個体と、そうでない個体は、その後、生涯にわたって精神の安定度がことなることはわかっている。

だから、スイスやドイツなどでは、社会化時期をちゃんと超えた生体でなければ、売買などの取引は禁止されている。
わが国でも2019年6月、改正動物愛護法で生後56日(8週間)までは「原則」禁止、になった。

ただし、わが国のばあい、確実に社会化されたかではなくて、日数だけ遵守、ということがある。
狭いケージを理由に、母犬その他から切り離してしまう例が多々あるのだ。

この「無頓着」が、人間の赤ちゃんにもあるとなると、一種の「虐待」にあたりはしないか?
「母性」すら否定的なフェミニズムが跋扈するなか、よき「母」としての教育がおろそかになっている。

これが、「情操教育」にも影響している。

子どもがいる家庭で、子どもの発達のために「犬を飼う」ことがある。
人間とは別の生きものと生活を同じくすることが、「情操教育」になるのである。

動物園などの施設による、小動物との「ふれあい」が用意されているのも、このねらいがあるし、小学校でも飼育している。
人気アーティスト『いきものがかり』は、そのままのネーミングだった。

いろんな事情から、犬型ロボットや会話風がたのしめる人形が発売されたのは、「癒やし」を欲したからである。
しかし、これらのロボットが、子どもの発達に役立つものか?

さいきんでは、「弱いロボット」が話題になっている。
子どもからみても、か弱なロボットは、これを守ろうとする心が育まれるという。

でもそれは、「子どもだまし」ではないのか?
急速に発達する子どもには、か弱にみえたものとの「一体感」をつくれるものか?とうたがうのである。

いま、小児病院では、「セラピードッグ」が不可欠になりつつある。
ロボットは生体に代われない。

おむつはじぶんで選べないけれど、子どもは姑息なおとなには、だまされない、のである。

EPWING規格の電子辞書

今日から新年度。

街にはフレッシュなひとたちが歩いているはずだ。
学校がはじまるにはもう少しだろうけど、さまざまな「1年生」が準備に忙しい時期である。

学生なら、新しい辞書を購入するシーズンでもある。
紙の辞書か?電子辞書か?
この「論争」は、根強くつづいている。

紙の辞書も、ずいぶん進化して、わかりやすさという点ではむかしの比ではない。
組版の技術的進歩があってこそだろう。
それは、同時に販売する「電子版」のために、変化しているという順番だともかんがえられる。

その電子版の方は、いわゆるパッケージ化された「機材」としての「電子辞書」と、媒体として「CD-ROM」や、そのまま辞書販売サイトから「ダウンロード」して入手するものとに分類できて、さらに、「共通規格」か「独自規格」かに分けられる。

パソコンや携帯、あるいは、タブレット端末が普及していなかった、ちょっと前だと、辞書を携帯する利便性としての「電子辞書」が主流で、各メーカーは、例によって「細かい仕様設定」をはじめた。
中学生用、高校生用、専門職用、一般生活用など、見た目のデザインにも差別化を施したものだ。

一方で、パソコン用のものは、電子辞書をアプリケーションとして扱うものと、日本語変換ソフトのなかで機能するものとがある。
前者は、パソコン内で辞書を引く、オーソドックスなイメージで、後者は変換候補を選ぶときの支援というイメージだ。

パソコンの処理能力が貧弱だったときに、日本語変換ソフトが多機能で重くなると、なんのための作業かとおもうくらいにモッサリしたことがあった。
しかし、いまのように高速化してきたら、変換時に辞書機能が自動的につかえる利便性は高い。

この意味で、意味がわかる国語辞典系も便利だけれど、類語辞典の充実がほしい。
とはいえ、またまた、モッサリになるかもしれない。
それで、電子辞書としての類語辞典は、別途辞書アプリをたちあげてチェックしている。

ここで、重要になるのが「規格」なのである。
わが国には、電子辞書の共通規格として、各出版社がつくりあげた「EPWING規格」がある。
知る人ぞ知る、というものだ。

おおくの「電子辞書ソフト」は、この規格によっている。
したがって、別々の出版社からでている、さまざまな「辞書」は、この規格にそった「ビューアー・ソフト」で「統合」することができる。

しっているひとには当然だけど、しらないひとはパソコンでの電子辞書より、端末としての電子辞書をイメージする原因にもなっている。

端末としての電子辞書には、データ更新をどうするのか?という問題がある。
もちろん、「メモリ・カード」を別途購入するなどの方法がとられている。
しかしながら、おおくは電卓のように、買ったときのまま使いつづけるひとが圧倒的多数だろう。

だから、収録辞書のなかにある辞書で、「版の改訂」があると、端末全体を新規購入するか、それとも?という問題がおきる。
この点、パソコン・ソフトとしての辞書ならば、新規扱いではなくてバージョンアップ対象のものが多数ある。

さて、「共通規格」のメリットは、OSなどに左右されない、ということがおおきい。
むしろ、ビューアー・ソフトの選択も自由なので、有料・無料のそれぞれをいくつ利用してもかまわない。

逆にいえば、辞書ソフトとは別に、有料のビューアー・ソフトをつかうなら、別途費用がかかることもあるのだ。
この場合、辞書の遣い勝手を決めるのは、辞書自体ではなくて、ビューアー・ソフトの出来による。

元の辞書データは、個人の利用ならさまざまな端末にインストールできるので、スマホやタブレットで携帯もできるけど、それぞれの端末でうごくビューアー・ソフトが必要である。

ちょっと面倒なようだけど、これまで、別々に辞書ソフトを購入していたのなら、ビューアー・ソフトで統合させると、異なる辞書間での「串刺し検索」も可能になるから、単独利用よりグッと利便性が増すのである。

たとえば、国語辞典といえば、その独特な解説で「ファン」をつかんでいる、『新明解国語辞典』は、おなじ見出しでも「版」による表記にちがいがあって、それがまたユニークだから、ぜんぶの「版」を串刺しして検索できると、どう変化させたのかの変遷がさぞや楽しいだろう。

この「恩恵」も、「規格化」というベースがあってのことだ。
そこで、一部、「規格外の独自性」を打ち出しているところもある。
これを、さらにビューアー・ソフトが「なんとかする」ので、その筋のマニアが開発にいそしんでいる恩恵もある。

われわれが現代の文明生活を享受できるのは、「規格化」あってこそなのだ。
古代ローマの馬車の「車輪幅の規格化」は、なんとなく世界史でおそわるけれど、遺跡で確認できるのは、ぴったり、1,435mmだ。

これは現在、「標準軌」と呼ばれる、鉄道線路の幅とおなじで、わが国では、新幹線の線路幅である。
ただし、鉄道の歴史はローマからのつながりを否定している。

とはいえ、「度量衡」の統一とは、規格化の基本中の基本だ。

近代の規格化の父とは、「工業生産の規格化」で驚くべき成果をだした、ハーバート・クラーク・フーバー氏だ。
彼は、いまだに大恐慌の経済対策で、「無能」の烙印を押されたままの、第31代アメリカ合衆国大統領である。

はたしてほんとうに、無能なる人物だったのか?
自分で調べるべきことである。

起訴と不起訴の好き勝手

わが国は、だれでもが「法治国家」だと思い込んでいる。
でも、実態は、かなりあやしい、のである。

「民事訴訟」と「刑事訴訟」が別れていて、さらにこれらとは別に「行政訴訟」もある。

そもそも論でいえば、国会で審議中、あるいは通過・成立した法律に対する、憲法判断を最高裁判所が「しない」ので、法律製造のたれ流しが行われている。
製造業で発生した、かつての「公害」が、法律の側面で発生しているのを止められない国になっている。

最高裁判所が知らんぷりして、他人事になれるのは、「事前」に内閣法制局がチェックする、という「掟」があるからである。
議員立法なら、衆議院、参議院それぞれにある、「法制局」がやはり事前チェックをしてから「法案」になっている。

わが国では、あまりにも「議員立法がすくない」ので、国会両院の法制局は、「なんでもいらっしゃい」という姿勢なのだ。
べつにいえば、「暇を持てあましている」。
議員立法「しか」ないアメリカ合衆国との違いは、ここからはじまる。

「たぶん」だけれど、権威主義の最高裁判所判事たちにとって、内閣法制局の官僚を敵にまわしたくない、とおもわれる。
「論破」されることを回避する、もっとも有効な手だては、関与しないことなのだ。

昨年の大統領選挙から、アメリカの連邦最高裁も息をひそめてしまったので、かなり深刻な事態になっているけど、わが国にてらせば、その深刻さの深さと広さは、わが国の側にある。
ずっと前から「常態化」しているために、目立たないだけだ。

裁判所がそんな具合なので、検察が好きにできる。
2001年に放送された、フジテレビ『ヒーロー』は、当時、全局対象で最高視聴率をたたき出したドラマである。

フジサンケイグループの産経新聞がどちらかというと「保守系」なのに、フジテレビの「進歩系」というコントラストは、より強化されて現在に至っている。
「楽しくなければテレビじゃない」がキャッチのテレビ局だった。

それで、楽しく観ていたひとたちに、「検察=正義」という、驚くべき勘違いをさせたのだから、このドラマ・シリーズの意図とはなんだったのか?
一種の、「褒め殺し」だったのではないかとうたがう。

ファンタジーを現実だと国民が思い込めば、あとは好きにできる。

これは、「狂気」だ。
国民が狂人に仕立てられて、政府がこれを支配する。
あたかも、『羅城門』のごとく。
なにが真実なのか?がわからなくなる。

さて、30日に、「検察」に関係するニュースが3本同時に配信されてきた。
・カジノ疑惑で逮捕された国会議員が、公判に及んで無罪を主張。
・通行人に催涙スプレーをかけたのに「不起訴」になった。
・泥水客から現金をだまし取ったのに「不起訴」になった。
⇒このふたつの不起訴について、理由を明らかにしていない、という共通点がある。

「無罪の主張」は、裁判でのことだから一応は公になっている。
ここで、「検察」による「逮捕」の不当が主張されることになるので、なんらかの判断を裁判所はしないといけない。
その意味で、裁判所は逃げられない。

ところが、あとの二つはどういうことか?
「不起訴」だから、裁判所に書類もやってこない。
つまり、警察に逮捕されたけど、検察の判断で「なかったこと」になったのである。

ならば、処分されるべきは「不当逮捕した」警察になる。

わが国には、国家警察はないことになっているから、都道府県警察のトップは、知事である。
すると、知事は、みずからの責任において、警察幹部から事情をきかないといけないのではないのか?

なぜなら、市民の安全をまもるのが知事に要求される最大の職務だからである。
その市民が被害者なのだ。
そして、犯人を逮捕した警察は、知事の配下にある。

念のため書けば、都道府県の警察本部長は知事の部下にあたるのだ。
いい方がちがうけど、警視庁の警視総監だっておなじだ。

すると、国家行政の法務省に属する検察が、不起訴の理由を明かさないということ自体が、「不祥事」である。
少なくとも、知事は検察に理由を公開質問しなければならない。
「起訴」したら、かならず起訴理由を公判で述べるのに、不起訴がその対象にならないということはあってはならない。

いかなる「法理」で不起訴にしたのか?

たとえば、「初犯だから」とか、「反省いちじるしいから」とかでもいいし、逮捕にあたって不法行為があったでもいい。
ならば、処分対象のひとだけでなく、警察も、二回目を許さない、とか、不法行為はまずい、ということになって、それぞれの防止に役立つのだ。

検察が裁判所の仕事を奪ってはならない。
であれば、裁判所は検察に「不起訴の実態を報告させる」ぐらいのことはしていい。

弁護士や検察官出身の議員はいるけれど、裁判官出身者が見当たらない。
あんがいと、「やめ裁判官」はいるものなのに。

これは、リクルートしない政党の怠慢なのか、なにか不都合でも?

欺瞞の「戦犯」

戦争犯罪人、略して「戦犯」なる「ことば」と「罪」が、戦後にうまれた。

人間の思考は、ことばによってなされるから、日本人ならふつうは国語たる「日本語」、アメリカ人ならふつうは国語たる「英語(米語)」をもって、思考する。

もし、本人が理解できない外国語をもって「思考している」というひとがいたら、周辺のひとたちはこのひとを「病気」だと認識するはずである。

だから、その言語の特性(文法)が、その言語を常用するひとたちの思考を支配している。
アラビア語を話して、イスラム教を信仰していれば、「アラブ人」という定義があるけど、日本にやってきて禁断の豚肉(とくに「トンカツ」)を食して、イスラム教から密かに離脱するひともいる。

すると、本人はアラビア語を話すひと「だけ」になるから、もう「アラブ人」ではない。
けれども、やっぱり日本人とはちがう思考をする。
ところが、長く日本に住みついて、日本語を習得したり、子どもや孫が日本語「しか」はなさなくなると、たちまち「日本人」になるのである。

「日本人より日本人らしい外国人」を、結構みかけるのは、日本文化ではなくて、日本語の威力なのであって、後から日本文化がやってくる。
すると、いつの間にか、日本文化の意味が体感的に理解できて、そこに「どハマり」することで形成されるのである。

日本人にも難しくなった、日本語特有の「敬語」の混乱は、尊敬したり謙譲したりする「場」を失ったためだとおもわれる。
この「場」の雰囲気が、尊敬語の使用を決めるのであって、暗記するものではない。

外国人には、もともとこうした「場」が自国文化に存在しないから、当初は日本語習得の「壁」になる。
しかし、「場の意味」を理解すると、おどろくほど日本語が上達する。

それが「茶道」や「武道」での「礼」なのだ。
さいきんではアニメによって、この理解を助けているから、まんがの文化的重要度はたかい。

ここまでは、日本自慢になるけれど、あんがいと古代からの伝統世界のことである。
そして、近代の自慢は、いきなり「産業国家」になってしまうのだ。
ここを、外国人は突いてくる。

木造の大寺院の借景が、ガラス張りの高層ビル。
そして、その高層ビル建築の「薄さ」や「安易さ」と、伝統世界とのギャップを、不思議がって楽しんでいる。

そうしてみると、戦後すぐにやってきた「戦犯」という概念の、「薄さ」やら「安易さ」やらに、日本人も気づかないといけない。
かえって、日本人らしい外国人の方が、よほど「気にしない」という正しさがあるのは、日本以外の「自国」にある「欺瞞」をしっているからだろう。

第一に、わが国に法的な意味の戦犯は「存在しない」のだ。
独立後、すぐに招集された国会で、全会一致をもって「戦犯の名誉回復」が決議されている。
ちなみに、この決議の発議は、日本社会党の女性議員であった。

第二に、「べき」が二つある。
占領軍による、「日本国憲法」の無効と、新憲法制定の「べき」。
わが国から無理矢理切り離された、サハリン(樺太)、朝鮮、台湾の軍人軍属に対する、国内法適用の「べき」である。

第三に、「戦犯」を糾弾する報道の欺瞞だ。
法治国家として、法的根拠のない「戦犯報道」は、深刻な誤解を国民に刷り込むことになる。
つまり、「占領」による欺瞞の意識的継続は、「従属の継続」を意味する。

簡単にいえば、独立国家として筋を通す「柱」がいまだに「ない」、のである。

だから、防衛問題が「経費負担の損得勘定(感情)」になる。
奪われた竹島や北方領土、それに拉致被害者は無視されて、なぜか尖閣だけは「本気で守る」という。

この島々の住人を強制退避させて無人島にしたのは、アメリカ軍の意向であった。
「射撃訓練場」として、陸地をボコボコにするからである。
なので、この島々の管理責任はいまでもアメリカ軍にある。

これが、政権交代してもアメリカ政府が「守る」という、法的根拠なのだ。
大陸の大国が、おいそれと「上陸しない」のは、アメリカ軍の「射撃訓練の標的」とされることをおそれるからである。

そんな下地のなか、元日本人でBC級戦犯で最後の生き残りだった、韓国人の李鶴来(イ・ハンネ)氏が96歳で亡くなったと報道された。
彼は、日本政府に「名誉回復と補償・謝罪」を求めていたが、1999年に最高裁は棄却した。

ここにも日本政府と韓国政府、それぞれの「欺瞞」がある。
・「元日本人」を切り捨てる日本政府と裁判所に、国会も動かない。

・日本はなんでも悪いという「だけ」の韓国政府。

当事者には、まことに気の毒なことである。

昨年8月、ロイターが伝えたところによると、オーストラリア国立大学のロバート・クリッブ教授は「自国民にだけ恩給を支給し、日本軍の一部だった朝鮮人に支給しなかったのは」不公平だと指摘している、と。

ここにも、むかしの日本人らしい外国人がいるのかもしれない。

ふつうの電卓考・再び

もう3年も前に「ふつうの電卓考」を書いた。
そのとき心配した、いまでは貴重な「置数式コンパクト電卓」がいかれてしまった。

代替機は存在しない。

これは、この機種のユーザーからしたらあきらかな「劣化」である。
メーカーを怨むより、売らなくなったのは皆が買わなかったからだと、べつの恨み節をいいたくなる。
もっと変態な、「逆ポーランド式」がまだ買えるのは、変態電卓好きのおおくのひとがいるからだ。

「数式どおり」という関数電卓や、そのスマホアプリもでてきたので、ちょっと複雑にカッコがある計算だと、そのままスマホに式を入力してしまえば、だまって正解をだしてくれる。
確かに、これはこれで「便利」だけれど、それでは「能がない」とおもってしまう。

せっかくだから、ふつうの電卓の機能を駆使して計算したい。
結果が不安だったら、スマホで確認すればよい。
わたしには、「逆ポーランド式」の方が手間がない。
これも、スマホのアプリになっているけれど。

さてそれで、ふつうの電卓を買うのにどうしよう?ということになった。
前に書いたのは、「√(ルートキー)」の有無だった。
今回は、「クリアキー」と「ゼロ」の位置関係が見た目の問題で、もうひとつが「定数(じょうすう)計算」のための「キー」の押し方がテーマである。

わが国の二大メーカーといえば、カシオとシャープだ。
じっさいに、知り合いの会計士たちもこの二社について、それぞれのこだわりで選んでいる。
だから、カシオ派とシャープ派にかならずわかれる。

カシオ派は、数学的厳密性を根拠としていて、シャープ派は利便性を根拠としている。
なので、いったんカシオ派、シャープ派になると、ほぼ一生、これを変えることはない。

電卓を常用するプロは、一定数いるし、新規の合格者(税理士や会計士)もいて、市場規模は確保されている。
なので、メーカーは、こういったターゲットに「選ばれる電卓」をつくらないと、たちまち衰退してしまう。

それに、電卓というのは電池交換以外で、蓋を開けることはない。
それも、太陽電池が常識化したから、電池交換もいらなくなった。
関数電卓だと、パソコンにつなげてシステムの更新ができるものがあるけど、ふつうの電卓にはこれがないのが「ふつう」だ。

つまり、もし計算プログラムに「バグ」があると、いきなり欠陥商品になるリスクがある。
パソコンや関数電卓のように、パッチ・プログラムをユーザーに配布して修正する手当ができないのだ。

だから、いったん発売された電卓は、なかなかモデルチェンジをしない。
その「完成度」が、プロたちからの「信頼」と同義なのである。
逆に、発売まえに、どんな計算の試験が社内でおこなわれるのか?

プロの卵たちは、資格者養成校の指導もあって、まず「電卓選定」というプロセスをかならず通過する。
学校側は、講義の円滑なる遂行のために、メーカーばかりか機種を指定する。

ここで、本人の一生涯に影響する「派」が育まれるのである。

「ふつうの電卓」の使い方を、ちゃんと説明書をみて確認するひとはすくない。
けれども、あんがい「奥深い」計算ができるのである。
もちろん、養成校ではこれを習得させるのに機種を統一するのだ。

いまの時代に、中学校で「ふつうの電卓」を採用して、操作方法と計算の妙をおしえないのはどういうことか?とおもうのだ。
「へぇー、べんり~」という応用をみせてから、定理や証明をおしえることが、よほど教育的である。

小学生にパソコンを配布するのは、ただの「利権」だろう。
給食にパンをだしたのはアメリカ農民の利権だったし、米に転換したのは、コメ消費のための農協利権だった。
そしたら、コロナでパソコン生産が間に合わなくて、全国一律の小学生向けパソコン配布ができなくなった。

高校生になったら、関数電卓やグラフ電卓をつかわせるのが、より理解を深めさせる「道具」であるのに普及しない。
予算が少ないと利権もないから採用されず、教師も教え方をしらないから、ここで「利害が一致」するのである。

さて、カシオか?シャープか?
結論は、「慣れ」と「好み」である。
こんな選択肢があることの幸せが、資本主義にはある。
役人の好みだけで生産規制がされたら、一生選べない。

まず、「キー配列」の見た目と遣い勝手ということでいえば、シャープに分がある。
「クリアキー」が、右上に配置されているのは、パソコンのキーボードの「デリートキー」、「バックスペースキー」位置とおなじだ。

カシオのは、「ゼロキー」の近くに配置されているので、ミスタッチで計算過程がおじゃんになる。
そして、その「ゼロキー」の位置が、整然としているのがシャープなのだ。

この時点で、シャープ派が形成される。
ただし、ブラインド・タッチを習得すると、特に右手にペンをもったまま左手で電卓を操作する技を得たばあい、人間工学的にカシオの配置が理想だというから、一概にいえない。

つぎが、「定数計算」で、決まった数の繰返し計算をするときに便利な機能だ。
シャープは「=キー」、カシオは「計算命令キー:+、-、×、÷ のそれぞれ」で、計算を繰り返したいときその回数を押せばいい。

ここで、カシオが有利にかわる。
計算させる感覚的にカシオは合致するし、数学的にも合致する。
もちろん、シャープが計算を間違える、ということではない。
「数式」としてのかんがえ方のちがいである。

理論的に几帳面なひとは、カシオ一択で譲れない根拠になる。

一般ユーザーからしたら、そんな厳密さはいらない、と思いがちではあるけれど、「定数計算」の便利さに慣れてくると、やっぱり「=キー」に違和感がでてくるかもしれない。

さて、「名機」と誉れがたかいライバル両社のどちらを選ぶべきか?
それとも、100均?
いやいや、ほんのちょっとでも「業務用」なら、100均はない。
おそらく、わたしの残りの人生時間をかんがえれば、今回が最後の選択になるのである。

さほどに長持ちするのが、プロ仕様だから、使用予定年数で割れば、高い買いものではない。
それでも、カシオはシャープの二倍のお値段。
フラフラっと、シャープかな?

 

スエズ運河の座礁事件

またまた「日本船」の不祥事のような報道である。

この船は複雑な契約形態になっていて、今回のばあい、持主である「船主」は日本企業の「正栄汽船」だけれど、定期貸船していて運航は台湾の「エバーグリーン(長栄集団)」であり、座礁した船の乗組員はドイツの会社(ベルンハルト・シュルテ・シップマネージメント)に委託していて、インド人乗組員25人が乗船していた。

当然だが、運河を航行するときは、スエズ運河庁の許可を得て、水先案内人が「かならず」操船することになっている。

26日、船主として正栄汽船の社長が「謝罪」したことが報道されたけれど、はたして船主にどれだけの「責任」があるのかは、事故原因の分析を要するのでまだはっきりしない。
その意味で、「とりあえず謝った」ということになろう。

しかし、この「謝罪」が、はたして国際的にはどのように受けとめられるのか?
もしや、船主に責任などないのに、先に非を認めたとなれば、責任が「あることにされる」ことだってありうるから、厄介なのである。

問題は、原因とされる「砂嵐」の予見可能性という自然現象に対する人間の「判断」なのである。

エジプトというか、広くは「サハラ地方」には、春先に年にして数回の砂嵐がやってくる。
日本でいう、「春一番」のようなもので、アフリカ大陸の南方からの暖かい風が、北の地中海に向けて「吹き荒れる」のである。

そして、地中海を越えてイタリアに到達すれば、それは、「シロッコ」と呼ばれ、ギリシャでは、「ガルビス」という。
フォルクスワーゲンの「シロッコ」も、この嵐に由来する命名だ。
春先にローマで強いジメジメの南風と雨が降るのは、海の湿気を得るからである。

アラビア語で「サハラ」とは、「砂漠」のことだ。
だから、「サハラ砂漠」とはいわず、ただ「サハラ」という。
「砂嵐」といっても、その「砂」は、まるでパウダーのようで、二重サッシの窓でも家に入り込み、テーブルや床に指で絵が描ける。

なので、口や鼻を布などでおおわないと、呼吸できないほどなのだ。
そして、もっと悪いことに、エジプトでも雨が降るのである。
すなわち、年にして数回の砂嵐とは、その回数だけ、雨が降るということだ。

これが、わたしが経験したもっともひどい雨で、パウダー状の砂を含んだ水なので、服につけばシミになって洗濯してもなかなか落ちない。
ふだんの大気汚染の物質も、包み込んでいるのだ。

自動車のフロントガラスは、たちまちにして視界不良。
ぼたん雪のように落下してくる。
そして、真昼でも一天にわかにかき曇って、暗くなる。
砂混じりの雲が、太陽を遮断するからである。

ワイパーだけでは排除できない。

本物の雪とちがって、水分をふくんだ砂なので、ワイパーゴムがフロントガラスを引っ掻くのである。
だから、ワイパーの往復数回で、ウォッシャー液をがんがん吹きかけて流さないといけなくて、吹きかける水が底をついたらもう運転は不可能だ。降り出したら、せいぜい30分が限度である。

しかし、ワイパーを装備している自動車がすくない。
もちろん、新車購入時でもワイパーは「オプション」なのだ。
年に数回しか必要ないなら、わらえない。
つまり、砂嵐の日に自動車に乗るばかりか、外出してはいけないのは、たちまち大渋滞が発生して、家に帰れなくなるのである。

日本人が想像する霞のような光景の後にやってくる雨が最悪なのだ。
ガラスに付着した濡れた砂が積もって、視界がゼロになるのである。
これは、船の操舵室だっておなじだろう。
しかも、船にウオッシャー液なんてあるのか?

そんなわけだから、砂嵐がやってくるという天気予報は、はずれない。
エジプトの天気予報は、これ以外ぜんぶ「晴れ」なのだ。
だから、エジプト人は天気より気温予報をすこしだけ意識している。

民族には、距離感や数の概念で特徴がある。
とくに日本人は、なんでも数えるという、やや病的な特性があるのだけれど、外国人には理解できない。
日本語には、やたら数の単位があるのだけれど、複数形がない。

アラビア語も、ご多分に漏れず、複数形はあるけど、やっぱり数の単位はない。
タンスを「ひと棹、ふた棹」なんて数えないのだ。
そのかわり、「たくさん」という意味で、「40」をつかう。

両手両足の指の数の2倍をもってして、「たくさんになった」という説がある。

『アリババと四十人の盗賊』と聞けば、日本人はきっかり40人の盗賊たちがいると想像する。
でも、本場のひとは、「アリババとたくさんの盗賊」というイメージなのである。

『千夜一夜物語』は、日本語版で、ほんとうに「1001話」になっているけど、アラブ人には、ほとんど永久というイメージだ。
40の何倍なのか?

だから、砂嵐のことをアラビア語で「50(ハムシーン)」という。
「40よりすごい」という意味だ。
天気予報が、「巨大な低気圧の砂嵐」と予報すれば、「50の2倍=100だ」といって大騒ぎする。

すると、事故当日、確実にあたる天気予報はあったはずで、雨が降るとどうなるか?もしらないエジプト人はいない。
インド人乗組員がどうかはしらないけど。

わたしの疑問は、なぜにスエズ運河庁が「航行許可」を出したのか?にいく。
もしや「袖の下」で、江戸時代の「川止め」を回避しようとした行為に同意したのか?

1956年の「第二次中東戦争」は、別名「スエズ戦争」といわれたものだ。
ナセル大統領が、スエズ運河の国有化を一方的に宣言したことに反発した、イギリス、フランス、イスラエルが仕掛けた戦争だ。

ナポレオンのエジプト遠征以来、フランスはエジプトにちょっかいをだしていたし、そのフランスを追い出したのがイギリスだ。

ちなみに、ナポレオンは、古代エジプト・プトレマイオス朝時代に「あった」とされ、すぐに砂に埋まった、スエズ運河の「可能性」を近代測量させて確認したが、地中海と紅海の高度差がある、と誤認して着工を断念している。

そして、イギリス人は、「エジプト人にスエズ運河の運営なんてできっこないから、われわれが管理してやるのだ」と言い放ったものだ。

ところが、スエズ運河には、日本企業が深く関与している。
それが、国内では準大手ゼネコン扱いされている「五洋建設」だ。
この会社の真の姿は、海洋土木に特化した「マリコン」なのである。
その浚渫(しゅんせつ)技術は、世界一の定評がある。

五洋建設の技術がないと、古代のように砂に埋まる。
おそらく、座礁船の救出にも、五洋建設が活躍しているはずである。

さては、当日のスエズ運河庁の判断の意味は?

そして、正栄汽船の社長に「落ち度」があったとすれば、上述の現地事情もしらなかった、ということになる。
船主として、スエズ運河をみたこともないのだろうと推察する。

まさか、こんなひとが、ふだんから「現場主義」をいっていたら、それはもう「まんが」なのであるけど、かんがえすぎか?

官僚の劣化は「幸い」である

「前代未聞」の事態である。
政府提出の24本もの法案にミスがあったことがわかったのだ。

法案に「政府提出」があるとは、アメリカではありえないことだと、念のため認識しておくことも重要だ。
つまり、「行政府」から「立法府」にあたらしい法律が提案されて、立法府がこれを採決すれば、それが、「法律」になるとは、行政府による立法府の「乗っ取り」にもみえるからである。

ところが、わが国には順番がおかしなもう一つの「仕組み」があって、それが「与党」における事前の検討会である「政調会」と「総務会」があることだ。
ここに各省の立案担当者がやってきて、「説明」する。

これが、事実上の国会内「委員会」にあたる。
そうやって、事前に政調会が承認すると、こんどは「総務会」で党の意志としての決定をするはこびとなって、重要な決定には「党議拘束」という所属議員への「強制」もある。

すなわち、総務会決定とは、事前の「閣議決定」になっている。

ここからみえてくるのは、議員に法案立案能力が「問われていない」、ということである。
お膳立てはぜんぶ官僚が用意する。
それを、与党内で承認決定すれば、もう国会決議で決まったも同然になるのである。

そして、左官屋でいう親方の独壇場である「仕上げ塗り」のごとく、政府法案そのものの仕上げをするのが、「内閣法制局」なのである。
自民党をふくめてわが国の政党に「法案策定」の機能がないのだ。

この「致命的欠如」こそが、いわゆる「政治改革の本丸」なのである。

これを無視しつづけて、各省庁から出向してくる高級役人(エリート中のエリート)が、最終チェック(過去の法律と整合性をとる)をして、これが、「閣議決定」を経て国会に提出される。

つまるところ、政府提出法案の「親方」は、内閣法制局なのであって、党の独立はなく、政府に依存したままなのである。
この点、中国の体制は、ずっと「近代的」で、政府は党に逆らえない。

しかしこれは議員にとって、たいへん便利な仕組みである。
と同時に、各省庁の役人にとっても、たいへん便利な仕組みなのだ。
じぶんたちのやりたいことを、党の有力者と「つるんで」すれば、できないことはなくなる。

わが国は、中国と逆方向から、政治と役所が結託しているのである。

頭脳明晰な犬種や個体で、主人とおぼしき人間を、じっさいにコントロールしている犬がいる。
おやつ欲しさに吠えたり(おやつをよこせ)、頭をなでさせたりする(なでろ)だけなら、まだ序の口なのである。

そんなわけで、中国人はこのような人物を蔑むけれど、長い時間、わが国の主人は、選挙で勝った政治家のようでいてじつは、公務員試験に受かった役人が仕切ってきたのである。
これを、逆転させた「かのように」振る舞ったのが、天才、田中角栄だった。

生涯「33本」という、「空前絶後」の議員立法を成立させたことが、上記の「仕組み」からしたら、いかに「異常」なことであるか?
けれども、田中は、自分の事務所に官僚を呼んで、法案立案のアルバイトをさせたのだった。

「学歴がない」ことから、政調会も総務会も信用しない。

そのために、自派を拡大させる必要は、他派よりも「強い切実さ」があったのである。
そこで、カネをつかった。
地元への予算配分で、集票・集金マシーン化させて、それが自派議員によって全国に拡大し、とうとう自民党ぜんぶに浸透した。

こうして、知事は事実上の「留守居役の家老」になって、地元有力国会議員が、江戸表で予算を得るのに依存した。
しかし、二つの理由で体制がゆらぎはじめたのである。

第一が、「財政危機」という財務官僚がいう「絵空事」にからめ捕られて、「マシーン」の燃料である中央からのカネが減ったのである。
第二が、優秀な学生が官僚になりたがらない、という現象がはじまって、「起業家」になりたがるようになった。

優秀ゆえに、一度の人生をみずから開く自信もあるし、それなりの「制度」が整備されて、資金調達ができるようになったのだ。
たとえば、「クラウドファンディング」がそれである。
硬直化した銀行から、ありもしない不動産担保を要求されることもない。

しかも、「ブラック企業」の典型こそ、役所なのである。
駆け出しの高級官僚ほど、地獄のような労働環境におかれる。
「超」長時間労働だって、むかしは「天下国家」を支えるという気概でやっていたけれど、とっくにそんなものはなくなった。

省益追求の実態と業務が合致したのである。

学校の先輩訪問をすれば、役人なんかになるな、といわれて、その先輩も退職して民間に就職するか起業するのをみているのである。
おそらく、その心は、「割に合わない」ということだろう。
民間やらで同級生が稼ぎ出す年収にかなうはずもない。

これは、「親藩」と「外様」の概念が消滅したからである。
親藩には年収は少なくても、重い職務と権力が与えられることで満足できた。
でも、国家の衰退がはじまって、そんな状態の将来に重い職務と権力なんてぜんぜん魅力がなくなったのである。

緊急事態宣言で、とうとう「留守居役の家老」に強大な権限が移ってしまった。
それでもって、うれしくて、知事たちが余計な権力行使にはしっている。

雪に喜ぶ犬のよう、なのである。

けれども世の中、悪いことばかりではない。
政府法律案が間違っていても、そもそもの「仕組み」が変なのだ。
政策立案をじぶんでする「近代政党」がでてくるきっかけでもある。
優秀な学生が付加価値創造を決してしない、政府に勤める理由もない。

わが国復活の「必然」がはじまったとおもえば、「幸い」なのである。

ロンドンオリンピックの怪

拝火(ゾロアスター)教の流れをくむ、「聖火」リレーがはじまった、とニュースにある。
興味がないものだから、オリンピックで記憶があるのは、ロサンゼルス大会(1984年)ぐらいまでである。

その後の、ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、北京/香港、ロンドン、リオデジャネイロ大会は、ほとんどなにも観ていないので、当然だが記憶もない。
冬の大会は、札幌(1972年)以外、同様に記憶がない。

オリンピックや各種スポーツ競技に興味のあるひとからは、相手にされないか、ばかにされるだろうけど、仕方がないことである。
趣味にしている「クレー射撃」は、世界選手権のDVDなどを購入して観たことがあるけれど、ぜんぜん上達の参考にならないのだ。

レベルがちがいすぎるからであるけれど、一流選手の「構え」には基本の「きの字」もなく、その独特さは真似もできない。

プロ野球は、横浜居住だから、ではなくて、本拠地が川崎の時代から、「大洋ホエールズ」のファンだったのは、その試合が「大味」で、いつも負けるけど勝つときは「バカ勝ち」のメリハリが好きだった。

それに、川崎球場にいけば、かならず外野方面での「けんか」が観られた。
酔ったおじさんが、他球団ファンに「からむ」からである。
このワイルドさ。

すると、警官隊がやってきて、おじさんを連れていく。
おなじひとではないだろうに、「かならず」酔ってけんかをするひとがいたのである。
それでも魚肉ソーセージとか、大洋らしいお土産をもらえた。

横浜にやってきたら、スマートな大洋ホエールズになって、観客もスマートになった。
だから、けんかの現場を観ることはなくなった。

弱小広島の黄金時代を築いた、古葉監督が、横浜にやってきて「細かい野球」をやろうとしたけど、できなかった。
もっとも、大洋ホエールズをつまらない時代にしてくれた。

オーナー会社が大洋漁業でなくなってから、ホエールズの名称もとれた。
そんなわけで、プロ野球にも興味がうせたのである。

さて、いま、ネット界隈では、「ロンドンオリンピック開会式」が話題になっている。
いったいぜんたいどういうことかといぶかったけど、せっかくだから探してみたら、4時間にわたる動画がのこっていた。

2012年、7月28日「公式」のライブ配信とおもわれる。
再生回数は、1430万回を超えているけど、そんなものか?
いいね、10万。逆は9000弱。

女王陛下の入場もふくめて、さまざまな行事がとりおこなわれているけれど、だんだんと不可思議な演出になっていく。

たまたま、だとはおもうけど、空撮されているスタジアムの電光装飾が、なんだか見馴れてきた「コロナウィルス」とかさなる。
そして、どういうわけか、フィールドにたくさんの白いベッドがあって、そこに子どもたちがパジャマ姿で跳ねている。
看護師の姿をしたおとなたちが、こちらも踊っているのである。

ところがそこに、『仮面ライダー』のショッカーのような黒いひとたちが這うような不気味な格好であらわれて、なんだか『ばいきんまん』のようなのだ。
すると、とあるベッドが子どもごと空中に吊り上げられて、その横には巨大な悪魔が立っている。

もっと不思議なのは、ジョンソン首相にそっくりな人形も、ベッドの中で寝込んでいるのだ。
このとき、彼はロンドン市長で、オリンピックの準備をしていたのだった。

だから、でもないが、現職市長をイギリス風にからかったというのが当時のこの演出なのだろうけど、その後に首相になって、コロナで生死をさ迷ったこととこのシーンが妙につながるのである。

祝典としての開会式が、どうしてこんなに不気味なのか?
あまりにも、グロテスクなのである。

日本語でこの映像をどう解説していたのか?

さらに、このとき、日本選手団は飛ばして放送されている。
「ジャマイカ」のつぎに日本選手団の入場行進がちらついてみえるけど、そのつぎが「ヨルダン」の紹介になっている。

もっとおおきな「事件」は、トラックを行進して周りながら、日本選手団は「会場外」に誘導されたのである。
これに、JOCは「困惑した」と、別の動画にある。

ぜんぜんしらなかった。

さまざまにいわれているのが、「放射能汚染」が理由だという説があり、真相ははっきりしていない。
なお、ドイツ選手団も封鎖されたということがあったので、「日独」という意味深な見方もある。

興味深いのは、イギリス人のイギリス人たる「常識」や「教養」がテーマになっていて、それを解説なしにわれわれはにわかに理解できない、ということである。
だから、ぜんぜんユニバーサルではない。

むしろ、大英帝国という「ローカル」の強調こそが、「らしさ」をつくる要因であると、あらためてわかるのだ。
はたして、イギリス人のひとりよがり、といって批判はできない。

東京オリンピックの演出はどうなるのか?
現代の「日本らしさ」とはなにか?
「ハレ」ばかりでなく、「ケ」を表現するのか否か?
それを、国をあげての演出としてどうするのか?

気になるのは、ここだけなのである。

継続困難の国民皆保険

健康だと損をする。

これが、「国民皆保険」の本質である。
医学の進歩なのか迎合なのか?
「保険適用」がどんどんされるから、やっぱり健康だと損をする。

うそみたいな不平等なのに、あたかも平等主義の理想郷だと信じて疑わないのが日本人だ。
それもこれも、会社に雇用される、という被雇用者に適用される「源泉徴収」という方式が、負担感をなくすブラックボックスになっているからだとおもわれる。

わかりやすい例として、「住民税」がある。
この税の徴収方法は二種類。
・普通徴収
・特別徴収

「普通」の方は、納めるひと本人が、自宅に送付されてくる「納税通知書」に基づいて自分で支払う方法をいう。
「特別」の方は、勤務する会社が毎月の給与から住民税を控除(天引き)して納める方法をいう。

「働くひと」という側からすると、圧倒的多数の「被雇用者」には、「特別」が、「被雇用者」よりすくない「個人事業主」には、「普通」が適用されるという、ことばの妙がある。

これは、「国家総動員法」によって源泉徴収制度ができる以前からの、「尾てい骨」のような、過去の常識の「遺跡」のようなことなのである。

つまり、その前の日本人は、住民税を「普通」のやり方で納付していた。
後からできた、源泉徴収制度が「特別」だったのである。
なぜなら、会社に雇用される、という被雇用者だって、みんな「確定申告」をしていたからである。

それに、工場に勤務する職人も二種類いて、むかしは「渡り職人」と「子飼い」といった。
日露戦争後でも、職人の異動率は100%だった。
つまり、おなじ場所で働く職人は、1年で他に異動したということだ。

いわば、自分の腕と条件次第で、企業を「渡って歩く」のがふつうだったのだ。
しかし、技術の進歩という機械化もあわせて、大規模工場ほど「渡り」をきらった。

条件次第の条件が、だんだんと労働争議になっていくからだし、それまでの職人の伝統的技術だけでは機械化に対応できない。
そこで、大企業ほど、自社内で訓練をして職人の養成をはじめた。
これを、「子飼い」といったのである。

第一次大戦による好景気を機に、定期採用という方式もうみだして、自社からの職人流出と、他社からの職人の流入を止めた。
これが、日本的長期雇用のはじまりである。
「子飼い」を重視して、「渡り職人」を排除したのである。

そうやって、年功賃金制もできたし、企業別組合もできた。
つまり、あんがいと第一次大戦は、その後のわが国に重要な時期にあたるのである。

その後、昭和になってからの「戦時統制」を経て、戦後体制に移行した。
しかし、現代にも「戦時統制」が続いているのがわが国で、あまりにもそれが「ふつう」なので、気づかないで生活しているのである。

すなわち、わが国は、いまだに「国家総動員体制」が連綿として続いているのだ。
この体制を、強烈にとんがらせたのが、「北」だとかんがえれば、こちらにも「旧日本」の一部として、尾てい骨のようなものがある。

政府の「働き方改革」が、実質には残業対策でしかなったことは、この「国家総動員体制」を崩したくないからである。
しかし、そもそも「働き方改革」がひつようになってきたのは、「働かせ方」に変化がうまれたからである。

その理由は、経営者が「人件費」を「費用」とかんがえることが、常識になったからである。
これは、経営者たちが「渡り職人」になったからできる発想だ。
それで、「損益計算書」という「計算書」にすぎないものを、「利益」創出の情報源だと勘違いしたことが最大の「原因」だ。

いい悪いでいえば、「お粗末」なのではあるけれど、残念ながら経営者にはなにかしらの権力がある。
これを推進しても、はたらく側が自己防衛しても、どちらも結果は「雇用の流動化」ということになった。

「デジタル・スキル」とかがさかんにいわれていて、自己研鑽につとめるひとが多数なのは、日露戦争前の「渡り職人」の時代にもどったからである。
すると、現代の「新しさ」とは、はたらくひとと経営者たちの「両方」が、渡り職人になったことだといえる。

つまり、どちらも「請け負い」という方式での「働き方」になったのだ。
これに、労働者不足からの外国人雇用も常態化すれば、第一次大戦後にできた「日本的雇用慣行」が維持できるはずもない。

すると、その先にある、「国家総動員体制」が成立しにくくなることは、ほぼ確実だ。
そのためにいま、政府(中央も地方も)それに野党も、全力をあげて国家総動員体制の維持に邁進しているとかんがえることができる。

わが国では、これを、「保守」という。

たとえば、「オリンピックの開催」とか、「コロナ」に、「生理の貧困対策」とか、あらゆる方面に「行政が介入する」ことを正義として、国民に「甘い飴」を与えながら、全体統制をするという「鞭」をかくすのである。

しかし、稼ぐ手段の大変化は、政府の思惑とは逆の方向にすすめる原動力となる。

古典的社会主義政策の理想、「国民皆保険」も、根底から問われるようになるし、市民税の「普通徴収」が「ふつう」になる。
「副業」が許されれば、「特別徴収」の計算が崩れるからである。
「労災保険」だってどうなるものか?

すると、健康なら得をするという、「正常化」も達成する。