ふつうの電卓考・再び

もう3年も前に「ふつうの電卓考」を書いた。
そのとき心配した、いまでは貴重な「置数式コンパクト電卓」がいかれてしまった。

代替機は存在しない。

これは、この機種のユーザーからしたらあきらかな「劣化」である。
メーカーを怨むより、売らなくなったのは皆が買わなかったからだと、べつの恨み節をいいたくなる。
もっと変態な、「逆ポーランド式」がまだ買えるのは、変態電卓好きのおおくのひとがいるからだ。

「数式どおり」という関数電卓や、そのスマホアプリもでてきたので、ちょっと複雑にカッコがある計算だと、そのままスマホに式を入力してしまえば、だまって正解をだしてくれる。
確かに、これはこれで「便利」だけれど、それでは「能がない」とおもってしまう。

せっかくだから、ふつうの電卓の機能を駆使して計算したい。
結果が不安だったら、スマホで確認すればよい。
わたしには、「逆ポーランド式」の方が手間がない。
これも、スマホのアプリになっているけれど。

さてそれで、ふつうの電卓を買うのにどうしよう?ということになった。
前に書いたのは、「√(ルートキー)」の有無だった。
今回は、「クリアキー」と「ゼロ」の位置関係が見た目の問題で、もうひとつが「定数(じょうすう)計算」のための「キー」の押し方がテーマである。

わが国の二大メーカーといえば、カシオとシャープだ。
じっさいに、知り合いの会計士たちもこの二社について、それぞれのこだわりで選んでいる。
だから、カシオ派とシャープ派にかならずわかれる。

カシオ派は、数学的厳密性を根拠としていて、シャープ派は利便性を根拠としている。
なので、いったんカシオ派、シャープ派になると、ほぼ一生、これを変えることはない。

電卓を常用するプロは、一定数いるし、新規の合格者(税理士や会計士)もいて、市場規模は確保されている。
なので、メーカーは、こういったターゲットに「選ばれる電卓」をつくらないと、たちまち衰退してしまう。

それに、電卓というのは電池交換以外で、蓋を開けることはない。
それも、太陽電池が常識化したから、電池交換もいらなくなった。
関数電卓だと、パソコンにつなげてシステムの更新ができるものがあるけど、ふつうの電卓にはこれがないのが「ふつう」だ。

つまり、もし計算プログラムに「バグ」があると、いきなり欠陥商品になるリスクがある。
パソコンや関数電卓のように、パッチ・プログラムをユーザーに配布して修正する手当ができないのだ。

だから、いったん発売された電卓は、なかなかモデルチェンジをしない。
その「完成度」が、プロたちからの「信頼」と同義なのである。
逆に、発売まえに、どんな計算の試験が社内でおこなわれるのか?

プロの卵たちは、資格者養成校の指導もあって、まず「電卓選定」というプロセスをかならず通過する。
学校側は、講義の円滑なる遂行のために、メーカーばかりか機種を指定する。

ここで、本人の一生涯に影響する「派」が育まれるのである。

「ふつうの電卓」の使い方を、ちゃんと説明書をみて確認するひとはすくない。
けれども、あんがい「奥深い」計算ができるのである。
もちろん、養成校ではこれを習得させるのに機種を統一するのだ。

いまの時代に、中学校で「ふつうの電卓」を採用して、操作方法と計算の妙をおしえないのはどういうことか?とおもうのだ。
「へぇー、べんり~」という応用をみせてから、定理や証明をおしえることが、よほど教育的である。

小学生にパソコンを配布するのは、ただの「利権」だろう。
給食にパンをだしたのはアメリカ農民の利権だったし、米に転換したのは、コメ消費のための農協利権だった。
そしたら、コロナでパソコン生産が間に合わなくて、全国一律の小学生向けパソコン配布ができなくなった。

高校生になったら、関数電卓やグラフ電卓をつかわせるのが、より理解を深めさせる「道具」であるのに普及しない。
予算が少ないと利権もないから採用されず、教師も教え方をしらないから、ここで「利害が一致」するのである。

さて、カシオか?シャープか?
結論は、「慣れ」と「好み」である。
こんな選択肢があることの幸せが、資本主義にはある。
役人の好みだけで生産規制がされたら、一生選べない。

まず、「キー配列」の見た目と遣い勝手ということでいえば、シャープに分がある。
「クリアキー」が、右上に配置されているのは、パソコンのキーボードの「デリートキー」、「バックスペースキー」位置とおなじだ。

カシオのは、「ゼロキー」の近くに配置されているので、ミスタッチで計算過程がおじゃんになる。
そして、その「ゼロキー」の位置が、整然としているのがシャープなのだ。

この時点で、シャープ派が形成される。
ただし、ブラインド・タッチを習得すると、特に右手にペンをもったまま左手で電卓を操作する技を得たばあい、人間工学的にカシオの配置が理想だというから、一概にいえない。

つぎが、「定数計算」で、決まった数の繰返し計算をするときに便利な機能だ。
シャープは「=キー」、カシオは「計算命令キー:+、-、×、÷ のそれぞれ」で、計算を繰り返したいときその回数を押せばいい。

ここで、カシオが有利にかわる。
計算させる感覚的にカシオは合致するし、数学的にも合致する。
もちろん、シャープが計算を間違える、ということではない。
「数式」としてのかんがえ方のちがいである。

理論的に几帳面なひとは、カシオ一択で譲れない根拠になる。

一般ユーザーからしたら、そんな厳密さはいらない、と思いがちではあるけれど、「定数計算」の便利さに慣れてくると、やっぱり「=キー」に違和感がでてくるかもしれない。

さて、「名機」と誉れがたかいライバル両社のどちらを選ぶべきか?
それとも、100均?
いやいや、ほんのちょっとでも「業務用」なら、100均はない。
おそらく、わたしの残りの人生時間をかんがえれば、今回が最後の選択になるのである。

さほどに長持ちするのが、プロ仕様だから、使用予定年数で割れば、高い買いものではない。
それでも、カシオはシャープの二倍のお値段。
フラフラっと、シャープかな?

 

スエズ運河の座礁事件

またまた「日本船」の不祥事のような報道である。

この船は複雑な契約形態になっていて、今回のばあい、持主である「船主」は日本企業の「正栄汽船」だけれど、定期貸船していて運航は台湾の「エバーグリーン(長栄集団)」であり、座礁した船の乗組員はドイツの会社(ベルンハルト・シュルテ・シップマネージメント)に委託していて、インド人乗組員25人が乗船していた。

当然だが、運河を航行するときは、スエズ運河庁の許可を得て、水先案内人が「かならず」操船することになっている。

26日、船主として正栄汽船の社長が「謝罪」したことが報道されたけれど、はたして船主にどれだけの「責任」があるのかは、事故原因の分析を要するのでまだはっきりしない。
その意味で、「とりあえず謝った」ということになろう。

しかし、この「謝罪」が、はたして国際的にはどのように受けとめられるのか?
もしや、船主に責任などないのに、先に非を認めたとなれば、責任が「あることにされる」ことだってありうるから、厄介なのである。

問題は、原因とされる「砂嵐」の予見可能性という自然現象に対する人間の「判断」なのである。

エジプトというか、広くは「サハラ地方」には、春先に年にして数回の砂嵐がやってくる。
日本でいう、「春一番」のようなもので、アフリカ大陸の南方からの暖かい風が、北の地中海に向けて「吹き荒れる」のである。

そして、地中海を越えてイタリアに到達すれば、それは、「シロッコ」と呼ばれ、ギリシャでは、「ガルビス」という。
フォルクスワーゲンの「シロッコ」も、この嵐に由来する命名だ。
春先にローマで強いジメジメの南風と雨が降るのは、海の湿気を得るからである。

アラビア語で「サハラ」とは、「砂漠」のことだ。
だから、「サハラ砂漠」とはいわず、ただ「サハラ」という。
「砂嵐」といっても、その「砂」は、まるでパウダーのようで、二重サッシの窓でも家に入り込み、テーブルや床に指で絵が描ける。

なので、口や鼻を布などでおおわないと、呼吸できないほどなのだ。
そして、もっと悪いことに、エジプトでも雨が降るのである。
すなわち、年にして数回の砂嵐とは、その回数だけ、雨が降るということだ。

これが、わたしが経験したもっともひどい雨で、パウダー状の砂を含んだ水なので、服につけばシミになって洗濯してもなかなか落ちない。
ふだんの大気汚染の物質も、包み込んでいるのだ。

自動車のフロントガラスは、たちまちにして視界不良。
ぼたん雪のように落下してくる。
そして、真昼でも一天にわかにかき曇って、暗くなる。
砂混じりの雲が、太陽を遮断するからである。

ワイパーだけでは排除できない。

本物の雪とちがって、水分をふくんだ砂なので、ワイパーゴムがフロントガラスを引っ掻くのである。
だから、ワイパーの往復数回で、ウォッシャー液をがんがん吹きかけて流さないといけなくて、吹きかける水が底をついたらもう運転は不可能だ。降り出したら、せいぜい30分が限度である。

しかし、ワイパーを装備している自動車がすくない。
もちろん、新車購入時でもワイパーは「オプション」なのだ。
年に数回しか必要ないなら、わらえない。
つまり、砂嵐の日に自動車に乗るばかりか、外出してはいけないのは、たちまち大渋滞が発生して、家に帰れなくなるのである。

日本人が想像する霞のような光景の後にやってくる雨が最悪なのだ。
ガラスに付着した濡れた砂が積もって、視界がゼロになるのである。
これは、船の操舵室だっておなじだろう。
しかも、船にウオッシャー液なんてあるのか?

そんなわけだから、砂嵐がやってくるという天気予報は、はずれない。
エジプトの天気予報は、これ以外ぜんぶ「晴れ」なのだ。
だから、エジプト人は天気より気温予報をすこしだけ意識している。

民族には、距離感や数の概念で特徴がある。
とくに日本人は、なんでも数えるという、やや病的な特性があるのだけれど、外国人には理解できない。
日本語には、やたら数の単位があるのだけれど、複数形がない。

アラビア語も、ご多分に漏れず、複数形はあるけど、やっぱり数の単位はない。
タンスを「ひと棹、ふた棹」なんて数えないのだ。
そのかわり、「たくさん」という意味で、「40」をつかう。

両手両足の指の数の2倍をもってして、「たくさんになった」という説がある。

『アリババと四十人の盗賊』と聞けば、日本人はきっかり40人の盗賊たちがいると想像する。
でも、本場のひとは、「アリババとたくさんの盗賊」というイメージなのである。

『千夜一夜物語』は、日本語版で、ほんとうに「1001話」になっているけど、アラブ人には、ほとんど永久というイメージだ。
40の何倍なのか?

だから、砂嵐のことをアラビア語で「50(ハムシーン)」という。
「40よりすごい」という意味だ。
天気予報が、「巨大な低気圧の砂嵐」と予報すれば、「50の2倍=100だ」といって大騒ぎする。

すると、事故当日、確実にあたる天気予報はあったはずで、雨が降るとどうなるか?もしらないエジプト人はいない。
インド人乗組員がどうかはしらないけど。

わたしの疑問は、なぜにスエズ運河庁が「航行許可」を出したのか?にいく。
もしや「袖の下」で、江戸時代の「川止め」を回避しようとした行為に同意したのか?

1956年の「第二次中東戦争」は、別名「スエズ戦争」といわれたものだ。
ナセル大統領が、スエズ運河の国有化を一方的に宣言したことに反発した、イギリス、フランス、イスラエルが仕掛けた戦争だ。

ナポレオンのエジプト遠征以来、フランスはエジプトにちょっかいをだしていたし、そのフランスを追い出したのがイギリスだ。

ちなみに、ナポレオンは、古代エジプト・プトレマイオス朝時代に「あった」とされ、すぐに砂に埋まった、スエズ運河の「可能性」を近代測量させて確認したが、地中海と紅海の高度差がある、と誤認して着工を断念している。

そして、イギリス人は、「エジプト人にスエズ運河の運営なんてできっこないから、われわれが管理してやるのだ」と言い放ったものだ。

ところが、スエズ運河には、日本企業が深く関与している。
それが、国内では準大手ゼネコン扱いされている「五洋建設」だ。
この会社の真の姿は、海洋土木に特化した「マリコン」なのである。
その浚渫(しゅんせつ)技術は、世界一の定評がある。

五洋建設の技術がないと、古代のように砂に埋まる。
おそらく、座礁船の救出にも、五洋建設が活躍しているはずである。

さては、当日のスエズ運河庁の判断の意味は?

そして、正栄汽船の社長に「落ち度」があったとすれば、上述の現地事情もしらなかった、ということになる。
船主として、スエズ運河をみたこともないのだろうと推察する。

まさか、こんなひとが、ふだんから「現場主義」をいっていたら、それはもう「まんが」なのであるけど、かんがえすぎか?

官僚の劣化は「幸い」である

「前代未聞」の事態である。
政府提出の24本もの法案にミスがあったことがわかったのだ。

法案に「政府提出」があるとは、アメリカではありえないことだと、念のため認識しておくことも重要だ。
つまり、「行政府」から「立法府」にあたらしい法律が提案されて、立法府がこれを採決すれば、それが、「法律」になるとは、行政府による立法府の「乗っ取り」にもみえるからである。

ところが、わが国には順番がおかしなもう一つの「仕組み」があって、それが「与党」における事前の検討会である「政調会」と「総務会」があることだ。
ここに各省の立案担当者がやってきて、「説明」する。

これが、事実上の国会内「委員会」にあたる。
そうやって、事前に政調会が承認すると、こんどは「総務会」で党の意志としての決定をするはこびとなって、重要な決定には「党議拘束」という所属議員への「強制」もある。

すなわち、総務会決定とは、事前の「閣議決定」になっている。

ここからみえてくるのは、議員に法案立案能力が「問われていない」、ということである。
お膳立てはぜんぶ官僚が用意する。
それを、与党内で承認決定すれば、もう国会決議で決まったも同然になるのである。

そして、左官屋でいう親方の独壇場である「仕上げ塗り」のごとく、政府法案そのものの仕上げをするのが、「内閣法制局」なのである。
自民党をふくめてわが国の政党に「法案策定」の機能がないのだ。

この「致命的欠如」こそが、いわゆる「政治改革の本丸」なのである。

これを無視しつづけて、各省庁から出向してくる高級役人(エリート中のエリート)が、最終チェック(過去の法律と整合性をとる)をして、これが、「閣議決定」を経て国会に提出される。

つまるところ、政府提出法案の「親方」は、内閣法制局なのであって、党の独立はなく、政府に依存したままなのである。
この点、中国の体制は、ずっと「近代的」で、政府は党に逆らえない。

しかしこれは議員にとって、たいへん便利な仕組みである。
と同時に、各省庁の役人にとっても、たいへん便利な仕組みなのだ。
じぶんたちのやりたいことを、党の有力者と「つるんで」すれば、できないことはなくなる。

わが国は、中国と逆方向から、政治と役所が結託しているのである。

頭脳明晰な犬種や個体で、主人とおぼしき人間を、じっさいにコントロールしている犬がいる。
おやつ欲しさに吠えたり(おやつをよこせ)、頭をなでさせたりする(なでろ)だけなら、まだ序の口なのである。

そんなわけで、中国人はこのような人物を蔑むけれど、長い時間、わが国の主人は、選挙で勝った政治家のようでいてじつは、公務員試験に受かった役人が仕切ってきたのである。
これを、逆転させた「かのように」振る舞ったのが、天才、田中角栄だった。

生涯「33本」という、「空前絶後」の議員立法を成立させたことが、上記の「仕組み」からしたら、いかに「異常」なことであるか?
けれども、田中は、自分の事務所に官僚を呼んで、法案立案のアルバイトをさせたのだった。

「学歴がない」ことから、政調会も総務会も信用しない。

そのために、自派を拡大させる必要は、他派よりも「強い切実さ」があったのである。
そこで、カネをつかった。
地元への予算配分で、集票・集金マシーン化させて、それが自派議員によって全国に拡大し、とうとう自民党ぜんぶに浸透した。

こうして、知事は事実上の「留守居役の家老」になって、地元有力国会議員が、江戸表で予算を得るのに依存した。
しかし、二つの理由で体制がゆらぎはじめたのである。

第一が、「財政危機」という財務官僚がいう「絵空事」にからめ捕られて、「マシーン」の燃料である中央からのカネが減ったのである。
第二が、優秀な学生が官僚になりたがらない、という現象がはじまって、「起業家」になりたがるようになった。

優秀ゆえに、一度の人生をみずから開く自信もあるし、それなりの「制度」が整備されて、資金調達ができるようになったのだ。
たとえば、「クラウドファンディング」がそれである。
硬直化した銀行から、ありもしない不動産担保を要求されることもない。

しかも、「ブラック企業」の典型こそ、役所なのである。
駆け出しの高級官僚ほど、地獄のような労働環境におかれる。
「超」長時間労働だって、むかしは「天下国家」を支えるという気概でやっていたけれど、とっくにそんなものはなくなった。

省益追求の実態と業務が合致したのである。

学校の先輩訪問をすれば、役人なんかになるな、といわれて、その先輩も退職して民間に就職するか起業するのをみているのである。
おそらく、その心は、「割に合わない」ということだろう。
民間やらで同級生が稼ぎ出す年収にかなうはずもない。

これは、「親藩」と「外様」の概念が消滅したからである。
親藩には年収は少なくても、重い職務と権力が与えられることで満足できた。
でも、国家の衰退がはじまって、そんな状態の将来に重い職務と権力なんてぜんぜん魅力がなくなったのである。

緊急事態宣言で、とうとう「留守居役の家老」に強大な権限が移ってしまった。
それでもって、うれしくて、知事たちが余計な権力行使にはしっている。

雪に喜ぶ犬のよう、なのである。

けれども世の中、悪いことばかりではない。
政府法律案が間違っていても、そもそもの「仕組み」が変なのだ。
政策立案をじぶんでする「近代政党」がでてくるきっかけでもある。
優秀な学生が付加価値創造を決してしない、政府に勤める理由もない。

わが国復活の「必然」がはじまったとおもえば、「幸い」なのである。

ロンドンオリンピックの怪

拝火(ゾロアスター)教の流れをくむ、「聖火」リレーがはじまった、とニュースにある。
興味がないものだから、オリンピックで記憶があるのは、ロサンゼルス大会(1984年)ぐらいまでである。

その後の、ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、北京/香港、ロンドン、リオデジャネイロ大会は、ほとんどなにも観ていないので、当然だが記憶もない。
冬の大会は、札幌(1972年)以外、同様に記憶がない。

オリンピックや各種スポーツ競技に興味のあるひとからは、相手にされないか、ばかにされるだろうけど、仕方がないことである。
趣味にしている「クレー射撃」は、世界選手権のDVDなどを購入して観たことがあるけれど、ぜんぜん上達の参考にならないのだ。

レベルがちがいすぎるからであるけれど、一流選手の「構え」には基本の「きの字」もなく、その独特さは真似もできない。

プロ野球は、横浜居住だから、ではなくて、本拠地が川崎の時代から、「大洋ホエールズ」のファンだったのは、その試合が「大味」で、いつも負けるけど勝つときは「バカ勝ち」のメリハリが好きだった。

それに、川崎球場にいけば、かならず外野方面での「けんか」が観られた。
酔ったおじさんが、他球団ファンに「からむ」からである。
このワイルドさ。

すると、警官隊がやってきて、おじさんを連れていく。
おなじひとではないだろうに、「かならず」酔ってけんかをするひとがいたのである。
それでも魚肉ソーセージとか、大洋らしいお土産をもらえた。

横浜にやってきたら、スマートな大洋ホエールズになって、観客もスマートになった。
だから、けんかの現場を観ることはなくなった。

弱小広島の黄金時代を築いた、古葉監督が、横浜にやってきて「細かい野球」をやろうとしたけど、できなかった。
もっとも、大洋ホエールズをつまらない時代にしてくれた。

オーナー会社が大洋漁業でなくなってから、ホエールズの名称もとれた。
そんなわけで、プロ野球にも興味がうせたのである。

さて、いま、ネット界隈では、「ロンドンオリンピック開会式」が話題になっている。
いったいぜんたいどういうことかといぶかったけど、せっかくだから探してみたら、4時間にわたる動画がのこっていた。

2012年、7月28日「公式」のライブ配信とおもわれる。
再生回数は、1430万回を超えているけど、そんなものか?
いいね、10万。逆は9000弱。

女王陛下の入場もふくめて、さまざまな行事がとりおこなわれているけれど、だんだんと不可思議な演出になっていく。

たまたま、だとはおもうけど、空撮されているスタジアムの電光装飾が、なんだか見馴れてきた「コロナウィルス」とかさなる。
そして、どういうわけか、フィールドにたくさんの白いベッドがあって、そこに子どもたちがパジャマ姿で跳ねている。
看護師の姿をしたおとなたちが、こちらも踊っているのである。

ところがそこに、『仮面ライダー』のショッカーのような黒いひとたちが這うような不気味な格好であらわれて、なんだか『ばいきんまん』のようなのだ。
すると、とあるベッドが子どもごと空中に吊り上げられて、その横には巨大な悪魔が立っている。

もっと不思議なのは、ジョンソン首相にそっくりな人形も、ベッドの中で寝込んでいるのだ。
このとき、彼はロンドン市長で、オリンピックの準備をしていたのだった。

だから、でもないが、現職市長をイギリス風にからかったというのが当時のこの演出なのだろうけど、その後に首相になって、コロナで生死をさ迷ったこととこのシーンが妙につながるのである。

祝典としての開会式が、どうしてこんなに不気味なのか?
あまりにも、グロテスクなのである。

日本語でこの映像をどう解説していたのか?

さらに、このとき、日本選手団は飛ばして放送されている。
「ジャマイカ」のつぎに日本選手団の入場行進がちらついてみえるけど、そのつぎが「ヨルダン」の紹介になっている。

もっとおおきな「事件」は、トラックを行進して周りながら、日本選手団は「会場外」に誘導されたのである。
これに、JOCは「困惑した」と、別の動画にある。

ぜんぜんしらなかった。

さまざまにいわれているのが、「放射能汚染」が理由だという説があり、真相ははっきりしていない。
なお、ドイツ選手団も封鎖されたということがあったので、「日独」という意味深な見方もある。

興味深いのは、イギリス人のイギリス人たる「常識」や「教養」がテーマになっていて、それを解説なしにわれわれはにわかに理解できない、ということである。
だから、ぜんぜんユニバーサルではない。

むしろ、大英帝国という「ローカル」の強調こそが、「らしさ」をつくる要因であると、あらためてわかるのだ。
はたして、イギリス人のひとりよがり、といって批判はできない。

東京オリンピックの演出はどうなるのか?
現代の「日本らしさ」とはなにか?
「ハレ」ばかりでなく、「ケ」を表現するのか否か?
それを、国をあげての演出としてどうするのか?

気になるのは、ここだけなのである。

継続困難の国民皆保険

健康だと損をする。

これが、「国民皆保険」の本質である。
医学の進歩なのか迎合なのか?
「保険適用」がどんどんされるから、やっぱり健康だと損をする。

うそみたいな不平等なのに、あたかも平等主義の理想郷だと信じて疑わないのが日本人だ。
それもこれも、会社に雇用される、という被雇用者に適用される「源泉徴収」という方式が、負担感をなくすブラックボックスになっているからだとおもわれる。

わかりやすい例として、「住民税」がある。
この税の徴収方法は二種類。
・普通徴収
・特別徴収

「普通」の方は、納めるひと本人が、自宅に送付されてくる「納税通知書」に基づいて自分で支払う方法をいう。
「特別」の方は、勤務する会社が毎月の給与から住民税を控除(天引き)して納める方法をいう。

「働くひと」という側からすると、圧倒的多数の「被雇用者」には、「特別」が、「被雇用者」よりすくない「個人事業主」には、「普通」が適用されるという、ことばの妙がある。

これは、「国家総動員法」によって源泉徴収制度ができる以前からの、「尾てい骨」のような、過去の常識の「遺跡」のようなことなのである。

つまり、その前の日本人は、住民税を「普通」のやり方で納付していた。
後からできた、源泉徴収制度が「特別」だったのである。
なぜなら、会社に雇用される、という被雇用者だって、みんな「確定申告」をしていたからである。

それに、工場に勤務する職人も二種類いて、むかしは「渡り職人」と「子飼い」といった。
日露戦争後でも、職人の異動率は100%だった。
つまり、おなじ場所で働く職人は、1年で他に異動したということだ。

いわば、自分の腕と条件次第で、企業を「渡って歩く」のがふつうだったのだ。
しかし、技術の進歩という機械化もあわせて、大規模工場ほど「渡り」をきらった。

条件次第の条件が、だんだんと労働争議になっていくからだし、それまでの職人の伝統的技術だけでは機械化に対応できない。
そこで、大企業ほど、自社内で訓練をして職人の養成をはじめた。
これを、「子飼い」といったのである。

第一次大戦による好景気を機に、定期採用という方式もうみだして、自社からの職人流出と、他社からの職人の流入を止めた。
これが、日本的長期雇用のはじまりである。
「子飼い」を重視して、「渡り職人」を排除したのである。

そうやって、年功賃金制もできたし、企業別組合もできた。
つまり、あんがいと第一次大戦は、その後のわが国に重要な時期にあたるのである。

その後、昭和になってからの「戦時統制」を経て、戦後体制に移行した。
しかし、現代にも「戦時統制」が続いているのがわが国で、あまりにもそれが「ふつう」なので、気づかないで生活しているのである。

すなわち、わが国は、いまだに「国家総動員体制」が連綿として続いているのだ。
この体制を、強烈にとんがらせたのが、「北」だとかんがえれば、こちらにも「旧日本」の一部として、尾てい骨のようなものがある。

政府の「働き方改革」が、実質には残業対策でしかなったことは、この「国家総動員体制」を崩したくないからである。
しかし、そもそも「働き方改革」がひつようになってきたのは、「働かせ方」に変化がうまれたからである。

その理由は、経営者が「人件費」を「費用」とかんがえることが、常識になったからである。
これは、経営者たちが「渡り職人」になったからできる発想だ。
それで、「損益計算書」という「計算書」にすぎないものを、「利益」創出の情報源だと勘違いしたことが最大の「原因」だ。

いい悪いでいえば、「お粗末」なのではあるけれど、残念ながら経営者にはなにかしらの権力がある。
これを推進しても、はたらく側が自己防衛しても、どちらも結果は「雇用の流動化」ということになった。

「デジタル・スキル」とかがさかんにいわれていて、自己研鑽につとめるひとが多数なのは、日露戦争前の「渡り職人」の時代にもどったからである。
すると、現代の「新しさ」とは、はたらくひとと経営者たちの「両方」が、渡り職人になったことだといえる。

つまり、どちらも「請け負い」という方式での「働き方」になったのだ。
これに、労働者不足からの外国人雇用も常態化すれば、第一次大戦後にできた「日本的雇用慣行」が維持できるはずもない。

すると、その先にある、「国家総動員体制」が成立しにくくなることは、ほぼ確実だ。
そのためにいま、政府(中央も地方も)それに野党も、全力をあげて国家総動員体制の維持に邁進しているとかんがえることができる。

わが国では、これを、「保守」という。

たとえば、「オリンピックの開催」とか、「コロナ」に、「生理の貧困対策」とか、あらゆる方面に「行政が介入する」ことを正義として、国民に「甘い飴」を与えながら、全体統制をするという「鞭」をかくすのである。

しかし、稼ぐ手段の大変化は、政府の思惑とは逆の方向にすすめる原動力となる。

古典的社会主義政策の理想、「国民皆保険」も、根底から問われるようになるし、市民税の「普通徴収」が「ふつう」になる。
「副業」が許されれば、「特別徴収」の計算が崩れるからである。
「労災保険」だってどうなるものか?

すると、健康なら得をするという、「正常化」も達成する。

記者会見とワイドショー

グローバルダイニング社が、とうとう東京都を訴えた。

ネット上で、評価できるのは「TBS NEWS」だけが、会見の様子を「編集なし」でぜんぶをアップしていることである。
とはいえ、33分程度の短さだから、これは業界関係者ならずとも、一般人だって「観るべき」ものだ。

その理由は単純で、戦後最大の「事件」が、コロナ・パンデミックだし、この対策にまつわるまっとうな「反抗」であるからだ。
にもかかわらず、報道他社の対応には誠意がみじんもない。
せいぜい「3分」程度にまとめているけど、「まとめ」になっていないのだ。

法律論では、憲法における「言論の自由の侵害」も提訴理由に挙げている。
このことに「言及しない」のは、報道の対極にある「ワイドショー」であった。

「損害賠償」という狭い世界でのはなしにしたい。
そんな「要望」が、出演者たちに指示されて、「敗訴」をにじませたムダな抵抗にしたいらしい。
「支持」ではなくて、「指示」である。

だから、日本人は、ぜったいにワイドショーを観てはいけない。

あいにく、テレビがないから、念のためにチェックしたワイドショーも、そのままぜんぶを編集なしでネットにアップしているのを観たのである。

誰かが録画してネットにアップをしても、すぐさま削除させるから、NHKの放送はネット上でも観ることはできない。
受信料を払っていても、オンデマンドだって有料なのだ。
二重請求ではないのか?

グローバルダイニングの社長は、業界仲間と一緒に訴えることも模索したらしいけど、かなわなかったという。
ある意味、業界の「ふぬけ」を曝露した。
しかし、かれのいう業界とは、飲食業界のことだろう。

6万円/日のお金がもらえて、「助かる」お店と、「はなしにならない」お店がある。
経営規模による対応策に差がないのは、行政側が仕組んだ「わざとの分断策」であるのに、「緊急で時間がなかった」という言い訳がまかり通っている。

日本の官僚がその気になれば、どんなに細かいことだってやり遂げるのに。

飲食店よりもっと「密」な、理美容やマッサージなど、いっさいの補償がない業界は、じっとガマンするしかない。
「中小零細企業」が、どんな就業分布なのかを政府がしらないはずはない。

つまり、見殺し、という結論を導いたのである。

それは、ウィルスに罹患することでの「見殺し」ではなくて、社会的抹殺という意味での見殺しである。
今回の提訴理由で、トリガー(引き金を引いたきっかけ)となったのは、「時短命令」発令理由として都が文書でしめしたことが、言論の自由に抵触するのである。

SNS等で、「時短要請に応じない」ことを拡散し、他社に悪影響(応じないことの拡散)を及ぼす恐れがあるから、当該店舗を経営する会社に発令したのだ、と。
すなわち、社長がいう「みせしめ」なのであって、これは、「見殺し」ではなくて、積極的に営業妨害する、という権力の濫用のことだ。

そこで、社長は、命令の「科学的根拠の提示」も求めている。
「立証責任」は、命じる側にあるからである。
このことは、重大である。
なぜなら、科学的根拠はほぼない、とかんがえられるからである。

すると、都は国への責任転嫁を図ることになるだろう。

しかし、国は国で、都がいう「病床の数」が、国家基準でなく都の独自基準だったことを盾に、言い逃れを図るにちがいない。
緊急事態宣言の発令根拠は、「病床の不足」による、「医療崩壊の回避」でしかないからである。

このことから、本提訴の「狙い」がわかるというものだ。

国と都を「分断させ」て、どちらも「論理破たん」に導くこと。
損害賠償として請求したのは、「104円だけ」なのは、こうした「狙い」からすれば理解できる。
そして、狙い通り論理破たんが明らかになると、雨後の竹の子のように、いっせいに訴訟が起きることだってありえる。

ドイツで200兆円の集団訴訟(テドロス氏ほかへの「個人賠償責任訴訟である」)が準備されていることの日本版である。
そうなると、たとえば尾身氏とか、大臣としてではなく個人としての西村氏とか、おなじく日本医師会の会長個人とか、さらにワイドショーで煽った専門家とかプロデューサーが、相手になるかもしれない。

なるほど、それでワイドショーは、この提訴をあくまでも「損害賠償訴訟」として扱って、「敗訴」してほしいと要望しているのだとすれば、つじつまがあうのである。

ならば、この裁判は、今後のニュースでもちいさく扱われることになる。
これを、「弁護団」はどうするのか?
一方で、個人賠償責任がとわれる可能性がある立場のひとたちは、とにかくパンデミックを拡大しないと自分たちがやばい。

そんなわけで、国は解除したけれど、ますます国に依存する県などは、これを援護するべく、ちいさな数字を巨大化させて、できるだけ大袈裟にしようとするだろう。
そのご褒美は、国からの「予算(予備費)」なのである。

さっそく、宮城県が?

追伸:
グローバルダイニングでは、裁判費用支援のクラウドファンディングもはじめていて、サポーターは、1800人をこえて、すでに目標額(1千万円)を達成した。
けれども受付はおわっていないので、念のため。

天気と冬の水羊羹

お彼岸の「春の嵐」がようやく過ぎた。
20日土曜の「中日」にお墓参りにいったひとは、ほっとしていることだろう。
あるいは、「天気予報があたった」と。

いい悪いの議論をやってもいいと思うことのひとつに、天気を国家が独占することを決めた、『気象業務法』(昭和27年8月1日)がある。
わが国が独立したのは、同年4月28日だから、独立後にできた法律である。

しかも、「附則」をみると、7月31日に2本出ていて、1本目が「公社法の施行の日から施行する」とあって、同日2本目に、翌日の「8月1日から施行する」となっている。
気象業務は「公社」扱いで「専売」を意図したのかもしれない。

ついでにいえば、ゴールデンウィークに「独立記念日」を入れない理由もしりたい。

昨年9月の巨大台風10号の「予報」にあたって、ネットではアメリカ(ハワイ太平洋軍)とヨーロッパの気象情報を訳して、衛星写真付きでつぶやいたひとに、「気象業務法違反?」の「返し」があって、台風そっちのけで大議論が巻き起こったものだ。

おもしろいことには、この法律に疑問を呈するニュース記事が、なんとあの「NHK」がだしている。
しかも、「WEB特集」という形態なので、ネットブラウザで検索しないとでてこない。

放送局が放送しないで、記事としてだす不思議。

気象庁やら日本気象協会に忖度したのだろうか?
それで、東大とJAXAが開発した「洪水予報」を、気象庁が「許可しない」ことを報じている。
この理由がまた、論理破たんをしているけれど、東大でも理系は文系卒業者にかなわないことをおしえてくれる、「好例」になっている。

そういえば、小学生が難関という「気象予報士」に合格したという、明るいニュースがあったけど、本人が予報をするときに、おとなの世の中の理不尽にあたること確実だから、おじさんとしてはなんだか哀しくもある。

気象予報士が予報していい「範囲」が、この「業法」でさだめられているからである。
それらの規制は、ほとんどが70年前基準なのである。
そんなわけで、ちゃんとした気象情報は、アメリカ軍が発表するものがいちばん正確なのである。

さてそれで、すっかり、空気もゆるんで春の気分になってきた。

季節の贈り物によく選ばれた「水羊羹」は、お中元の定番でもあった。
つめたく冷やして食べるので、夏向けの贈答品になったのだろう。

すると、冷蔵庫が普及しないと冷やせないから、あんがい最近の「常識」なのだ。
それに、缶切りを必要としない、パカッと開けるちいさな「缶詰」が、いっそう贅沢さをあらわしていた。

かつて来日した外国人が驚いたことの定番に、どこにでもある自動販売機とそこにある、ちいさな「缶コーヒー」(かれらは「コーヒーの缶詰」といっている)がよく指摘されていた。
そうなのだ、ほんのちょっとで食べきったり飲みきるものに、わざわざ「缶」をつかう贅沢。

前にも書いた、「丁稚羊羹」は、正月休暇の丁稚さんが故郷に帰省するときに、店の女将さんがよこしてくれた、ボーナス代わりのひと品だった。
いまでも、練り羊羹が高級品なのは、小豆と砂糖のかたまりだからである。

むかしとちがっていまは、国産小豆のほうがよほど高級になったけれど、むかしはとにもかくにも砂糖が高級だった。
とくにサトウキビからとれる「白砂糖」は、精製して白くなる逸品で、わが国では沖縄の名産だし、北は北海道のてんさい糖がこれにつづく。

どういうわけか、北と南の先端でしかとれないから、貴重だったのである。
もちろん、北海道でとれるようになったのは、開拓使が渡ってからのことであるし、台湾が日本だったときは、台湾の砂糖「台糖(台湾製糖株式会社)」がなんといっても有名だった。

後に三井製糖になって、「スプーン印」はいまも健在だ。
ちなみに、台糖はペニシリン培養技術から、後にファイザーと組んで、1955年に台糖ファイザー社ができて、ファイザーの日本法人となっている。

そんなわけで、国産砂糖の生産は、原材料の生産がないとできないので、高額な「関税」とともにある。
沖縄と北海道の農場を保護する名分で、そうなっている。

色が似ているけれども異なるもの。
それは、チョコレートだ。
さいきんは、「生チョコ」がとにかく高級で、好まれている。
材料はカカオと砂糖、それに乳。

こうしたものが、贅沢だから好まれるのを否定はしない。
でも、どこからやってくるかを、どうしたことか、地球環境や人種差別とかに過敏なひとたちがぜんぜん発言しないのも不思議である。

ここに、ご都合主義の匂いを感じる。

石垣島とか、伊豆でも挑戦がはじまっているのは、国産カカオの栽培である。
いまでも、カカオは西アフリカのガーナを中心に栽培されているけど、それは気候「だけ」が適しているからではない。

人力による管理と収穫が必要だからである。

チョコレートの苦味とは、このひとたちの労苦の味なのである。
西アフリカがどんなところか?
ほんのちょっとでもいいから、かんがえるのがいい。
ガーナのひとはチョコレートを常食しているのか、も。

すると、女将さんからもたされた羊羹を、溶かして薄めて水羊羹にした、かつての日本人の気持ちもわかるのである。

「やめられない」ことの本質

「惰性」のことである。
わたしはをこれを、「社会的な『慣性の法則』」と呼んでいる。

「慣性の法則」は、物理でいう「運動の第一法則」といういい方もある。
『物体に力が働かない場合、物体は静止し続けるか、等速度運動する』。

結論を先にいえば、社会的な慣性の法則がはたらいて、「自己目的化」する。
これが、「やめられない」ことの本質だ。

たとえば、わが国には「NHK問題」がある。
このための「政党」だって複数設立されて、国会議員だっている。
国営化とか民営化とか、むかしから議論はかまびすしいけれど、ぜんぜんそうならないし、NHK自体はこの間もしっかり肥大化している。

「受信料」が問題になるのは、いまでは納得できない強制ばかりか、強引な契約勧誘があるからだ。
さらに、ネット環境が「受信料請求の根拠」になりそうな雰囲気が漂っている。

しかし、ことの本質は、「存在の自己目的化」なのである。

きっぱりいえば、「廃止」がもっとも望ましい。
その上で、どうやって解体し、残余の資産を受信契約者に返還・分配するか?が問われるのである。
ために、「オークション」をすればいい。

とくに番組コンテンツは、ひとつずつオークションにかければいい。
さすれば、数年もかからずに、「NHKの番組」という記憶も消え去るのである。

こうしてかんがえると、「白紙化」という作業は、あんがいと「生産的」なのである。
この効果を狙って、「業務(仕事)の棚卸」をおこなうことがある。
そのために、「業務フロー図」を書き出すことが有効とされている。

たまにでも、定期的でも、職場ごとに「業務フロー図」を書くのがいい。
初めてのばあいには、驚くほど時間と手間がかかるので、経験者はだれもが「驚く」のである。

毎日やっていることを紙の上に書き出すだけの業務フロー図が、はたと止まって「書けない」ということの発見が、実はおおきな「気づき」になる。
これを見た経営者が、唖然とするのは2パターンある。

1:うちの従業員はバカばかりだ。
2:なんてこった。これは経営がなっちゃいないということだ。

だいがいは、「1」のパターンである。
そんなひとほど、経営者としての自分の業務フロー図をまったく書けない。
それにはもっともらしい理由があって、「ルーチン業務がない」すなわち、定式化できない、というのも「パターン化」されている。

しかも、書く気もないから、書く前に上記の理由をあげて、ぜったいに書こうとしない。
直感的に、書けないことがばれるのを畏れるからではないか?とおもわれる。

そんなわけで、ほぼほぼ確実に、業績不振が恒常化している企業や、業績は悪くないけど社内の人間関係がなんとなくうまくいかない会社の、典型となるのである。
そして、やがて悪くなかった業績に陰りがやってくるものだ。

これぞ、「惰性の経営」なのである。
経営者が会社経営に、「影響力」という「ちから」を行使しないので、物体ならぬ「組織」が、完全に「運動の第一法則」に従うことになるのである。

こうしたばあい、経営者個人のかんがえも、たいがいが整理されていない。
ようは、「なにをしたいのか?」という、運動のもとになる思想がない。

人間行動のエネルギー源は、動物としてのエネルギー源である食べ「もの」のほかに、欲求という脳がもとめる「こと」がある。

日本語だと、「もの」と「こと」が、妙に曖昧になるのは、日本語は目的語の語順を問わないからだともいえる。
この点、英語などは、日本語の「助詞」にあたることばがない代わりに、語順がその役を担っている。

もっといえば、日本語は主語からして、ぜんぜん語順を気にしない。
どんな語順であろうとも、意味がおおきく変化することはない。
ところが、おおくの外国語は、そうはいかないのであって、語順に「厳密さ」がもとめられる。

だから、「ひと」⇒「もの」という順番が固定されている。
人間が「もの」やら「こと」を、かならず制御するという、言語的な特性は、そのままその言語を母語とする人間の思考パターンなのである。

歴史学の大家トインビー博士が、世界文明の分類に、「日本文明」を独立して示したことの背景には、こうした言語特性もふくまれる。
これを、トインビー博士の日本贔屓と解した日本人学者がいたのは、悲喜劇であった。

すると、曖昧さの良い点をもっと意識していいのだけれども、その前に、他文明との「ちがい」をしっていないといけない。

どうやら、「慣性の経営」が、わが国をとりまく人たちとの競争で不利になるなら、それを改めるのはきわめて重要なことになる。
しかし一方で、上記の「2」だって、立派な気づきなのである。
江戸時代の大店の主人でも、きっと気づくことだろう。

すると、こないだ書いた、自分の考えを整理するマインドマップが、やっぱり「便利」なのである。

緊急事態宣言は解除になったけど、かならず「惰性の政治」は続くから、じっくり観察することも、マインドの整理に役立つのである。

お彼岸前に桜が咲いた

開花予報は、ソメイヨシノを対象にするので、早咲きの桜についてはいちいちいわないことになっている。
けれども、近所の桜がとっくに咲いたので、いつもの年とはちがう、まばらな光景になっている。

いつもなら、ソメイヨシノとほぼ同時に開化するのである。
だから、べつの種類だったことにはじめて気づいた。

横浜市中心部からやや離れた場所、東海道の宿場でいえば「保土ケ谷」に、山と谷のエリアを整備して、高校球児には有名な、保土ケ谷球場もある県立公園がある。
このあたりは、「桜ヶ丘」といって、路線バスがまるで桜のトンネルを走っているようであったけど、ほぼぜんぶ伐採された。

太った老木が倒れる危険と、クルマの邪魔になるのもあるけど、沿道住民には、花びらと落ち葉の処理がきらわれたようである。
だから、伐採してもあたらしく植えることがなくて、地名だけがのこった。

桜がない桜ヶ丘という無惨になったのであるけれど、狭くて危険なバス通りでの掃除から解放された住民は、あんがいと、ホッとしていることだろう。
街路樹に落葉樹を選ぶときは、それなりの覚悟がいる。

道路を管理する側は、どうやって街路樹の選定をしているのだろう?
まさか気分ではないだろう。
でも、「お役所仕事」だからとすこしうたがう。
植えるときと剪定するときの予算は別にちがいない。

それに、管理者がちがう。
国道、県道、市道。
まぁ、勝手にうまくやっている。

地球が温暖化しているという「刷りこみ」が脳になされているから、今年は首都圏で交通マヒを起こすような積雪がなかったし、桜もはやく咲き出したから、「温暖化」なのだとおもいがちだけど、いかがなものか。

数十億年単位の宇宙に浮かぶ「地球」という惑星と、だいたい100年もない人間の寿命を一緒くたにしたら、でたらめになる。
太陽の黒点だって、11年周期だから、人間の寿命からしたら手の指の数で足りる「経験」しかできない。

それに、一般人は、「あぁ、あのときは黒点がたくさんあったから」という記憶方法はしていない。
ましてや、新聞に「昨日の黒点数」という記事もない。
ようやくネットで探せばわかる程度なのである。

地球表面の気温の変遷については、地層からかなり正確に推定できる。
その年代の植生がわかるからである。
シダ類がおおければ、湿潤で温かいし、針葉樹ならだいぶ冷え込んだ時代だとわかるのである。

面白いことに、温暖の限界もわかっている。
できたてホヤホヤの地球は火の玉だったというから、これは除く。
生命誕生からどうなっているのか?

だいたい40℃ぐらいまで、なのである。

60℃とか、70℃、ましてや、100℃なんてことはない。
こんな気温だったら、地上生物は絶滅して、いまの人類に進化なんてしない。
植物も生息できないから、エサがないこともある。

機械化された人類文明が原因とされる温暖化より、人類登場前の恐竜時代のほうがずっと暖かかった。
このときの二酸化炭素濃度も、いまよりずっと高い。
それで、巨大化した植物が草食恐竜のエサになった。

ではなぜ二酸化炭素濃度がいまよりずっと多かったのか?
それが、「わからない」のである。

一説に、植物が食べた、というものがある。

地球創世記の二酸化炭素濃度は、95%だった。
いまは、0.041%である。
植物が光合成で食べ尽くしたとすると、二酸化炭素は「減りすぎ」ていないか?

その植物が地層の中で変成したら、石炭とか石油になったのだから、これらを燃やす(酸化させる)と二酸化炭素にもどる。
放火でなくて、自然発火で大規模山林火災がおきるのも、足りない二酸化炭素濃度をあげるための「自然現象」だとすれば、人智を超えた世界での「調整」だともいえる。

これをまた、人為で「脱炭素」という「政治」がある。

むしろ、いまより寒い「氷河期」のほうがずっと深刻だ。
2018年、南極で「氷点下97.8℃」という理論的最低温度にちかい記録的な寒さが観測された。
ひとがそのまま呼吸したら、数回で肺が凍結して即死するという。

寒冷地は、すべての動物の食べものの基本となる植物が育たない。
だから植物がないところに、動物はいない。
しかし、「専門家」からしたら、いまだって「第二期氷河期」なのである。

氷河期なのに温暖化を心配するとはどういうことか?

まさに、「国際政治」なのである。
温暖化の恐怖には、めざす政策を後押しさせる効果がある。
たとえば、原発推進だ。
でも、原発だろうが、電気自動車だって、動いているとき「だけ」をみれば、「クリーン」だけど、建設や製造に要する資材のための資源やエネルギー消費を加えたら、ぜんぜん「クリーン」じゃない。

前に、「新幹線はエコじゃない」を書いた。
建設に要する資材は、原発どころじゃないし、「保線」は毎晩千人単位でおこなっている。
でもやっぱり、運転中「だけ」は、「クリーン」にみえる。

それでも、飛行機より「便利だから」利用するのである。
アメリカでは、純粋民間事業としてテキサス新幹線が着工になる。
これを、民主党政権が支援するという。
共和党の牙城テキサスだから、これも「政治」なのだった。

原子力を制御できない

むかし夢の船舶として、「むつ」という名の原子力船があった。

いま、世界でも原子炉をつかって動かすのは、もっぱら「軍用艦船」ばかりで、航空母艦と潜水艦に採用されている。
もちろん、わが国にはない。

軍用で、建造・運用しているのは、
・アメリカ
・ロシア
・イギリス
・フランス
・中国 の5カ国で、国連の安保理常任理事国「だけ」となっている。

このひとたちにできて、なぜわが国でできないのか?
もちろん、軍用に限ってのことではない。
商用船での実用は、世界のどこ(アメリカ、西ドイツ、ソ連、日本)もやめている。

西ドイツと日本という、国連の「敵国」も開発していたことが印象にのこるのだ。
つまり、これら主たる戦争当事者の7ヵ国「しか」手をだしていない分野なのだ。

目線を「陸」にあげれば、たちまち「原子力発電所」となる。

軍艦に積極的採用をしているアメリカは、「スリーマイル島事故(1979年)」以来、新規建設に消極的になっていたけれど、2012年に承認されて話題になったものの、やっぱり積極的ではないから既存原子炉の稼働率はかえって上昇している。

その路線でいけば、ドイツは原発の全廃を2011年に国会決議=法制化し、暫時撤廃をおこなって、いわゆる、「再生可能なエネルギー」へのシフトを全面採用した。
これで、電力輸出国から輸入国となって、民間レベルでかつての4倍の電気代が請求されることにもなった。

一方で、積極的なのはフランスと中国である。
そのフランスは、チェコとともに電力不足のドイツへ電力輸出をおこなっている。
両国の「ドイツの電源」という立場は、相手の産業や生活の首根っこを押さえることになるので、なにかと強力に作用するのだ。

しかも、フランスの原子力発電は全体の75%ほどもあるから、ドイツはじぶんの原発をやめたけど、結局、原発で発電した電気を外国から買ってきて使っていることになっている。

こうした、おかしさ、に妙に賛同するのがわが国の体質で、さすがはかつての日独同盟の心の繋がりは生きている。
わが国で、電気自動車への転換に積極的なひとたちは、充電のための電気をどこで発電しているのかに頓着しない。

もちろん、いまなら政府から補助金がもらえるので、いつもらえなくなるかはしらないけれど、太陽光パネルで発電した電気で自家用車に充電するのが、「持続可能」だという。
その太陽光パネル製造に、どれほどの電力を使うかにもぜんぜん頓着しない。

「世界の大企業ランキング50社」に、わが国企業でランクインしているのは、とうとうトヨタ自動車「一社だけ」になった。
まるで大学ランキングのような姿だけれど、国際会計基準を基にするので比較ルールは厳密である。

都合がいいルールをつくることに長けているのは、なんといっても「アングロサクソン」だ。
人種はちがうけど、アングロサクソンとたいへん親和性がある発想をするのが中華思想で、こちらは「じぶんだけ」がルールだ。

そんなわけで、電気自動車への「転換」がトレンドになっている。

これは、世界の業界が、トヨタ潰しを図ったという状況証拠なのであるけど、わが国を貧乏にしたい経産省やその取り巻きの政治家たちは、電気だ水素だといって、やっぱり自国の自動車(内燃機関)産業をいじめるのである。

どこかで観てきたような構造だ。

発症直後から、「ワクチン開発」を推進したのに、そっくりなのである。
国産の開発がないのは、学術会議という政府てづからの政治団体が、生物科学兵器になるとして、研究させなかったからである。

とはいえ、そもそもウィルスの存在からうたがわしい。
「環境にいい」という甘言も、そもそもをかんがえれば、エネルギー保存の法則も、質量保存の法則も無視した、エセ科学なのである。

あの「3.11」から、10年経った今年。
結局のところ、事故処理がどうなっているのか?の情報はなかったし、どうして事故が発生したのか?の冷静で、コンセンサスがとれる報道もなかった。

少なくても、「津波」が原因ではないのだけれど。

それでいて、政府は原発を「安全が確認された」と強弁し、再稼働させたい。

3.11以前から、「原子力行政」には不思議があって、推進する立場の経産省内に「原子力安全・保安院」なる「規制担当」の役所があった。
事故直後、作業着のうわっぱを着て毎日記者会見していた「えらいひと」は、技術にうとい文系だったことがあとからわかった。

これら一連の「お粗末」が、文系エリートだけの情緒によって準備されていたものを、根本から変えた、ということになってはいない。
そしてとうとう、裁判で再稼働か阻止かがあらそわれるようにもなった。
裁判官は、とうぜんに「文系」である。

ドイツ人の「合理主義」は、情緒に流れているのか?
でも、日本人の「情緒主義」は、なにも変わっていない。

これが、原子力船を失敗させた、両国民それぞれの「習性」なのである。
だから、原子炉を「制御」できないとしたときの対応がちがう。
ドイツ人は、合理的判断として原子炉を棄てた。
日本人は、情緒的だから、電気代が高くなるのを嫌がる。

ドイツ人は、トヨタにかなわないことをしって、電気自動車を推進し、日本人はトヨタが潰れることはないと「信じ」ているか、無頓着で、無邪気に「欧米追従」している。

外国には、日本がいう、電気自動車の「阻止」もある。

外国がいう、電気自動車とは、バッテリー搭載自動車をいう。
日本がいう、電気自動車とは、静止衛星で発電した電力を直接自動車の屋根パネルに供給して自動運転するものをいう。
だから、貴重資源をつかうバッテリーを必要としない。

なるほど、原子力を日本人は制御できないから、宇宙で電気を制御しようというアイデアは日本らしい。
けれども、これにも外国がついてこれない。

世界のほんとうは、おそるべき「トヨタ生産方式」なのである。
情緒と論理が融合した「方式」を、真似ても「できない」からである。