去年のGWの話題を振り返った

歴史の「変わり目」にあたって、ひとはそれに「なかなか気づかない」といわれてきた。

「大災害」があればわかりやすいけれど、それは、「被災者」に限定されてしまう傾向がある。
「当事者」でないと「なかなか気づかない」ものなのだ。

今回の「新型コロナウイルス禍」は、おそらく「感染症」としては、小規模な被害でおわる可能性が高い。
なにしろ、毎年のインフルエンザに比較すれば、罹患者数も死亡者数も10000分の1程度であるからだ。

すると、明らかに「人為による被害」の方が、よほど深刻な悪影響を作りだしているということだ。
しかも、自然災害よりひどい「全国一律」だから、全国民が「被災者」になってしまった。

過去の歴史で、「人為による被害」として、悪影響の最たるものが「戦争」だった。
その理由はなんであれ、人間の「欲望」によっていた。
支配欲や征服欲、そこから派生する掠奪の「うまみ」もあったろう。

今回の「人為による被害」の発端はなんだろうか?
経済政策のちょんぼ(たとえば昨秋の消費増税)を誤魔化すため。
あるいは、自己顕示欲からの「指示出し」。
しかし、一般人には「生存欲」がもっとも強かった。

とにかく死にたくない長生きしたい。
たいした流行ではなくても、「治療法がない」ことが大問題なのだ。
この「生存欲」が、政府や為政者たちの「欲をあおって」、ますますこれをマスコミが利用した。

さまざまな「欲」のぶつかり合い、これこそが本質である。
ウィルスは、そのトリガーを引いたにすぎない。

かくも「生存欲」が優先する時代は、かつてあっただろうか?

われわれは、もう一度しっかり「歴史」を学ばないといけない。
そこに、生存欲よりも重要などんな「価値」があったのか?の確認である。
つまり、生きる意味であって、ひいては人生の意味である。

このまま、「ただ生きている」ことに価値があるとして、たとえ個人が突きつめなくても、そのベクトルに多数のエネルギーがくわわると、「一点追求」という方向と力がうまれる。

すると、映画『マトリックス』のリアル社会における人間たちが、ただカプセルに横たわって、このまま一生を終わるということが、むしろ「望ましいこと」になってしまうのだ。
それが、生体エネルギーを取りだす、「発電所」だったとしてもだ。

すなわち、「飼い殺しでもいい」、という価値観が、生存欲が最高の価値だとする発想と直結する。
「脳をだますプログラムでしかない」としっていても、「快楽」をもとめて仲間を裏切るシーンが用意されている周到さにも、ただ納得するのである。

はたして『マトリックス』はもはや「古い映画」になってしまったが、ここで紹介された「未来」とは、じつは「現在」のことではないのか?

ならばと、昨年のゴールデンウィークを取材した数々の映像を、たった1年後のいま、振り返ってながめれば、おそろしく「古い」と感じてしまう。
いつものGW同様に、だれもが連休をなんの不安もなしにたのしんでいる光景を、いま、どう評価できるのか?

鎌倉の海岸に、他県ナンバーの車がきても県営の駐車場を利用できないようにすると「決めた」県知事を止められない県議会。
これから派生して、「正義」の逆転がはじまったから、他県ナンバーの自動車を「あおる」地元民の運転手がでてくる。

いまどき、なんで他県からくるんだよ。けしからん。

ウィルスがどうやってひとに感染するのか?を「正しく」いわずに、それが、あたかも「空気感染」にまで拡大解釈されて、近くにいる他人を疑うように仕向けることが「正義」になったのである。

これぞ「アトム化」だ。
アトムとは、古代ギリシャの哲学者デモクリトスなどが提唱した「原子」のことで、これを後世の、ジャン・ジャック・ルソーが、「社会」に応用して、人びとがバラバラになって、物質的な「個」になることをいう。

彼は、地縁も血縁もなくなって、共同体もない社会を理想化したのだ。
「個」だけの人間で構成される社会である。
すると、そこに、あたらしい支配のための価値社会が誕生する。
それが、「唯物論」を基礎におく「共産主義社会」なのである。

わが国は、とっくに地縁も血縁も薄くなった。
江戸時代の各藩とて、幕府によって「国替え」がさかんにおこなわれ、大名の地縁を断つことに専念したのは、支配者層と被支配者の分断が、幕府に都合がよかったからである。

これに、「養子縁組」という方法で、「血縁」も重要視されないようにした。
紙に書いて、役所に届け出ることで、赤の他人が家族になれる。
血縁をつなぐ「結婚」と「養子」とは、決定的にことなるのだ。

そんなわけで、「共同体」としての「会社」が唯一のこった。
会社に愛着ができるのは、家庭の血縁が壊れたからである。
その家庭がある、地元共同体(町内会や自治会)活動に興味もないのは、とっくに地縁がないからだ。

「会社に行くな」というのは、ウィルス感染の「おそれ」に名を借りた「共同体破壊」の「人為」である。
これは、「リスク管理」ではなく、「アトム化」の推進なのである。

もう二度と、昨年までのゴールデンウィークのような光景がみられなくなる。

つぎに来るのは、誰かにいわれて、「行楽に行きましょう」という号令に従う「ひとの群れ」に変容するからなのである。

旅館業法を無視する主務官庁

宿泊事業者には、「事業免許」がひつようで、わが国にはその根拠法がふたつある。
圧倒的多数で、事実上これしかない状態になっているのは、旅館業法による許可である。申請窓口は、地元保健所。

圧倒的小数で、事実上もはや新規許可がおりないのは、風営法による許可である。窓口は、地元警察署。
風営法による許可を得ていたのは、むかしの「連れ込み旅館」であった。

老朽化による建て替えをすれば、旅館業法での許可申請しかできなくなっているので、「連れ込み旅館」のようであっても、法的にそうでない施設がふえていて、全部が旅館業法によるようになるのは「時間の問題」になっている。ようは、寄せられている。

むかし、教職員組合の全国研修会予約を受け付けた大手ホテルが、政治団体からの街宣車などがやってくることを理由に、一方的に予約契約を破棄して、事実上研修会の開催ができなかったことがある。
これが裁判になって、ホテルが負けた。

研修会場となる宴会場の予約契約解除よりも、参加者の宿泊予約が、ホテル側の一方的都合で破棄されたことが問題になったのである。
なぜなら、ホテル側が一方的都合で予約を「拒否」できる理由が、旅館業法に定められていて、これに「該当しなかった」からである。

第五条 営業者は、左の各号の一に該当する場合を除いては、宿泊を拒んではならない。
 一 宿泊しようとする者が伝染性の疾病にかかつていると明らかに認められるとき。
 二 宿泊しようとする者が賭博、その他の違法行為又は風紀を乱す行為をするおそれがあると認められるとき。
 三 宿泊施設に余裕がないときその他都道府県が条例で定める事由があるとき。

ということで、昨今の新型コロナウイルスに関して、「感染者」を旅館業法のうえで営業しているホテルなどに収容しようとして、国家行政サイドが、「客室の確保」をしているのは、どうかんがえればよいのか?

第六条 営業者は、宿泊者名簿を備え、これに宿泊者の氏名、住所、職業その他の事項を記載し、当該職員の要求があつたときは、これを提出しなければならない。
2 宿泊者は、営業者から請求があつたときは、前項に規定する事項を告げなければならない。

第十一条 左の各号の一に該当する者は、これを五千円以下の罰金に処する。
一 第五条又は第六条第一項の規定に違反した者

なお、命和元年6月15日より施行の改正によって、罰金の上限は「50万円」に引き上げられている。
ついでにいうと、政府の「e-Gov」によると、「最新」に更新されていない。

そんなわけで、罰則が強化されているものの、「軽症者」を「受け入れろ」というのは、自己矛盾もはなはだしい。
また、「宿泊者名簿」の義務とは、チェックイン時に本人に記入をさせる「レジストレーション・カード」のことで、もともとが「感染源」を探るためのものである。

つまり、どうして旅館業法の所管が「保健所」なのか?という理由が、まさに「伝染病」をおそれたからである。

たしかに、医療機関をパンクさせてはならないという社会の要請を無視するわけにはいかない。
けれども、宿泊施設は、そもそも「病院ではない」から、問題は従業員への二次感染を防止するための手段がなくてはいけないし、大型クルーズ船であったように、宿泊者どうしだって安全性を確保しなければならない。

これをさせずに、ただ「受け入れろ」というのは、宿泊業にかかわるひとたちに対する「差別」にならないか?

今回の「パンデミック」でわかったことは、政府や地方自治体が、そろって感染症対策についての事前マニュアルがなかったことを示したことである。

つまり、厚生労働省の旧厚生省が、なにもしていなかったから、中央集権体制のわが国では、地方自治体もなにもしない、ということになっている。

江戸時代の幕藩体制に劣るのだ。

もっとも多数の「感染者」(ほんとうは「患者数」が重要なのだが)がでている東京都をかんがえると、江戸時代なら北と南の両町奉行は切腹ものだし、藩にあっては、「不届き」としてお取り潰しの憂き目にあうだろう。

都知事や各自治体の責任者は、その責任の「軽さ」に感謝すべきである。

しかし、宿泊施設従業員への配慮のなさは、まったく別で、おそらく配慮しなかったのではなくて、「意識もしなかった」のだとおもわれる。

法律を主管する、主務官庁として、まったくなっちゃないどころではない。
すなわち、「誰のため」「何のため」ということすらなく、「場あたり」の「対処」しかないことを示したのだ。

わが国のトップ学歴の「官僚は優秀である」ということと、「法治国家」ということも、じつは「イリュージョン」だったとなれば、まさに、「このあと」をかんがえると、「なんらかの変革」の時期がやってくるのはまちがいない。

それが、いっとき、われわれの暮らしやすさがうしなわれようともだ。

生きていくのに「覚悟」がいることになった。

「えんがちょ」で感染予防する

「安全と安心」について前に書いた。
「安全」には、科学の知識が「必須」だが、「安心」には、科学は「無用」である。

今回の新型コロナウイルスも、基本的には「空気感染しない」のだが、ほとんど「えんがちょ」状態になっている。
それが、「他人との接触を8割減らすべき」という不可思議な表現から「自宅待機要請」になって、ひろく世間に誘発されている。

突然でてきた「諮問委員会」というのも、緊急事態宣言を出すか出さないかを事実上決めるひとたちなのだが、どういうふうに委員に就任したのか?とか、どうやって選んだのか?ということも、それから、どんなひとたちなのか?ということもよくわからない。

なので、きっと「えらいひとたち」にちがいない、という「安心」でしか、このひとたちが決めることに根拠はない。
それで、上述の「8割削減」ということも、突然でてきたが、「どうやって?」がアナウンスされないから、バカで正直な与党の幹事長が「できっこない」といってしまった。

きっとこれは、言い間違いで、「俺は聞いていないからわからない」といいたかったのだろうが、ふつうのひとより見栄っぱりなので、「わからない」がいえなくて「できっこない」になったのだろう。

つまり、「官邸」のほうが「党」よりも「優先順位」が高いことを示す、組織用語としての「聞いていない」がポロリとでたのだと解釈すれば、わかりやすい。
自民党は、「党」として、なにもしていないことが、これでよくわかるのだ。

一定の思想をもったひとたちが、発生源の国の「党」が絶対であることに憧れるのは、ある意味ただしい。

このことは、自民党という政党が、所属議員たちの集合体でしかなく、ふだんその議員たちは個別に活動しているけれど、なにかのおりに「党議拘束」という「強制力」で、孫悟空の頭の輪っかのごとく締め上げることをしているだけなのだ。

すると、世間で生活している「党員」の存在は、あってなきがごとくとなる。なるほど、個人の議員が議員個人の事務所で「党費」を負担するから、名前を書けば党員になれてしまうので、金銭的負担は必要ない。

だから、自民党員のおおくが、自分が党員登録されていることも気がつかないでいるかもしれないし、いつ「離党」したかもしらない。
それでいて、党員獲得ランキングのベスト10とワースト10を発表するというのは、目的合理的に合致しないが、おカネをつかったことだけはわかるから、なんだか江戸幕府の「小普請組」みたいなのだ。

これは、「えんがちょ」以下の意識下、つまり党員が無意識におかれていることになる。
でも、ぜんぜん問題にならないのは、行政官僚が「政策」を仕切っているからだ。

民主党政権が失敗の憂き目をみたのは、「政策立案」のための自前のシンクタンクをもたずに、自民党とおなじくこれを官僚にやらせたから、政治家がいっていることと政策が「分裂」して、なにがなんだかわからなくなったことが原因だろう。

つまり、政治家が世界標準の政治家らしく振る舞おうとしたが、まったく行政官僚に指導的立場をとることができなかった。
けれども、構造的にみれば、これは当たり前だ。
その当たり前の前提になる、シンクタンクを自前に持つ政党が相変わらず皆無だから、へんなことばかりが起きるのである。

「えんがちょ」がいつできたのか?は詳しくわかっていないが、かなり「古い」ことは確かだ。
あの独特の人差し指に中指をからませるのは、「印(いん)を結ぶ」意味があって、平治物語絵巻にひとびとが生首をみてこれをしている図がのこっている。

「不浄」つまり、「穢れ(けがれ)」を防禦するための「印」であって、高度成長期の子どもには、「バリアー!」と叫ぶあたらしい「えんがちょ」もあった。ただしこれは、「防禦」だけで、他人にえんがちょをうつす効果はない。

わが国の古代からの信仰の三大要素、「穢れ=禊ぎ(みそぎ)」、「言霊」、「怨霊」のなかの基本をなすのが「穢れ」である。とにかく「禊ぎ」をもって穢れを払わないと落ち着かない。
現代的な「清潔感」や「衛生」とはぜんぜんちがう、「安心」をもとめるのである。

それが、マスク着用の「義務化」になってでてきている。
一般に販売されている、医療用ではないマスクには、咳やクシャミの症状があるひとが、他人へ飛沫を飛ばさないための「配慮(エチケット)」としての価値と、花粉を防ぐという機能とがあるだけだ。
あえていえば、なにも症状がないひとが着用する効果として、じぶんの口を、汚染されたじぶんの手で触らない、というぐらいしかない。

飲食のときには、外さざるを得ないけど、もはや入手困難の貴重品になっているから、飲食後はふたたび着用するし、猛者はアゴにマスクを移動させて、そのまま食べていたりする。

これらは、まったく危険だが、だれも気にしないのは、「効果」に期待しているのではなくて、「バリアー!」とか「えんがちょ」になったからである。

マスク着用をしていないと、入店させないということは、じっさいにはとんでもない無謀なことだといえるが、「えんがちょ」なのであるから、もはや科学や理屈など通用しない。

つまり、21世紀にあっても、日本人は日本人であるということをあらためて確認できた。
世界に冠たる「宗教国家」なのである。

まさかの原油マイナス$40

なるほどね。

史上初のマイナス価格がついたのは、4月先物で、決済日は21日である。
商品先物には、株とちがって「決済日」がある。
そして、この日に、「現物」がやってくる。

通常なら、どこかのタンクに入れてもらって、これを「現物」で売ることになるのだが、自粛の影響で工場がとまったから、貯蔵タンクが一杯になってしまった。
それで、おカネを払って引き取ってもらうことになって、原油が「産廃」のような事態になった。

ついた値段がマイナス40ドルという、「前代未聞」である。
だれが引き取って、どうしているのか?の報道はない、けど。

来月5月の先物は、一応20ドルの値がついているけど、どうなるかはわからない。
ただし、現物のスポット取引もあるし、石油市場は世界中にあるので、われわれのガソリン代や電気代がすぐさま安くなるということにはなりそうもない。

マイナスをつけているのは、アメリカの「市場」ばかりである。

石油価格がおかしくなってきたのは、サウジアラビアとロシア、それに石油純輸出国になったアメリカの三つ巴が発端である。
アメリカが、石油純輸出国になったのは、シェール・オイルのおかげであるが、こちらは採掘にコストがかかる。
しかし、石油価格が60ドルをうわまっていれば、採算がとれるというから、「高価格」というトレンドで成り立つという弱点がある。

一方、ロシアは、石油と天然ガス「しか」これといった外貨獲得手段がなくなった。あとは、武器だ。
資本主義になれなかったツケである。
なので、ロシアの意図は、EUへのエネルギー支配という「切り札」を持ち続けることだが、それには適度な「高価格」が望ましい。

サウジアラビアの思惑は、石油王としての地位の維持と、それにともなう中東・アラブ圏の盟主の地位の安定化にほかならない。
宿敵、イスラエルとイランをにらんでいるものの、頼りはアメリカしかない。

しかし、これが揺らいだのは、アメリカが中東の石油を必要としなくなってしまったからだ。
そんなわけで、アメリカ軍まで引き上げるモードになって、とうとうアフガニスタンと和平を結ぶところまできた。

そうはさせじと、サウジが反対するロシアを振り払って、一国で「増産」したのは、石油価格を低下させて、アメリカのシェール・オイル事業を潰そうとしたのである。
けれども、あんまりの「損」がかさんで、やっぱりロシアと協議して「減産」をはじめた矢先だった。

世界ではやりだした病気のせいで、肝心の「需要」が激減してしまったのだ。
この減り方が、とんでもないレベルなのだ。

三者三様、どちらさまも、相手は「地下に眠る天然資源」である。
「減産」とか「増産」とかいって、コントロールしてきてはいるが、「停止」はない。
むしろ、地下から出てくる状態を「止める」ことができないのは、井戸のパイプが圧力にもたないからである。

すると、今度は、石油会社の体力勝負になることまちがいない。
経済でいう「体力」とは、そのまま「資本力」のことである。
資本力とは、「資金調達力」でもあるし、「信用力」のこという。

自己資本が足りなくなれば、株式を発行するか、他人から借りるしかない。
アメリカのシェール・オイル会社は、サウジが「増産」したときに、一社が破たんしている。

かれらのおもな資金調達方法は、高金利の社債である。
シェール・オイル事業は、市場価格が高値安定で成り立つという「リスク」が、債券価値を低下させるからだ。
あんまりの「高金利」だから、一般に「ジャンク債」ともいわれる。
したがって、すでに興亡の戦場は、石油市場から債券市場という「場」に移っている。

アメリカのFRBが、債券を直接購入する方法で、「金融緩和」したというニュースは、このことをいう。
しかし、世界の債券市場そのものが「巨大バブル」になっている。
その金額は、「リーマンショック」の比ではない。

石油という、「現物商品」が、金融商品になったのが「先物」である。
それが引き金になって、津波のように世界経済を襲うことになりかねない、重大な局面にあるといって過言ではない事態になった。

この「津波」のエネルギーは、世界で起きた「需要減」なのだ。

まさに、「本物」がやってくる直前に、海岸の水が、はるか沖まで引いていくようなことがはじまったのである。

「結果としての利益・利潤」をもとめずに、「目的としての利益・利潤」を追求する典型が、「先物」を含めた「デリバティブ」といわれる「金融関連商品」である。
もちろん、「株式」だって、デイトレーダーという「目的としての利益・利潤」を追いかけるひとたちもいる。

かつて、土光敏夫が倒産しかかった東芝の社長になったとき、彼は、自社株で報酬を受け取っていた。現金の支出をすこしでも減らし、自分の仕事の成果の責任をまっとうしようとしたからである。
引退したとき、大量の東芝株の価値は、とんでもない金額になっていた。

おなじ「株式を購入する」という「行為」なのに、「結果としての利益・利潤」を求めるのと、「目的としての利益・利潤」を求めるのとでは意味がちがうのである。

この、土光敏夫のようなひとを「キャピタリスト(本物の資本主義者)」というのである。

ここに、これからの「あたらしいかんがえ方」のヒントがある。

資本主義の先祖帰りは可能か?

前回の復習。
「資本主義の精神」から資本主義が生まれた。
資本主義が生まれて、社会のみんなが尊敬する金持ちたちが、社会のために「投資」して、それが「産業革命」になったのである。

俗説になっている、産業革命から資本主義が生まれたのではない。

このことの「順番」の理解は、「絶対」をともなうほどに重要だ。
あたかも、2+3×4=14となればよいが、20になったら「✕」がつくほどに明解で、そのひとの一生を決めるほど、ここを間違えてはいけない。「順番」の重要性は、ときに「絶対」がある。

ところが、資本主義が生まれたときは、「結果の利益・利潤」であったものが、勃興した産業革命を通じて、伝統的な「目的としての利益・利潤」を追求することに戻ってしまうひとたちがでてきた。

最初から、自分だけが儲けたい。
この精神は、「資本主義の精神」ではないことは、前回説明した。
しかし、人類史を占めてきた「目的としての利益・利潤」の追求は、人間の「性(さが)」でもある。

だから、本来は、「資本主義の精神」という新しい「発想」をもったひとたちが、こうした古い「性(さが)」に対して、抵抗しなければならないのだが、もうひとつ、「資本主義の精神」を支えるかんがえに「自由主義」がある。
もちろん、「自由主義」とは、「自由放任主義」ではないのだが、古い「性(さが)」のひとたちにはかんたんにつうじない。

こんな議論をしていたら、ずいぶん酷いことを平気でする「資本家」がたくさんでてきた。このひとたちは「資本主義の精神」を持っていないけど、「資本」だけはもっている。
それで、「資本家」はいけない、ということが転じて、「資本主義がいけない」になってしまった。

それが、「啓蒙主義」をつうじて宣伝されて、フランス革命からロシア革命にまでなったのだ。
けれども、70年でロシアも革命をやめた。
このとき、資本主義の勝利だと思い込んでいたのは、資本主義国家のアメリカ人だった。

そのアメリカでは、じつは資本主義が衰えていた。
なにも、わが国が経済を席巻していた「だけ」が問題ではなかった。
それは、「資本主義の精神」の劣化があったからである。

顕著にわかる事例はふたつある。
ひとつは、共産主義が崩壊したロシアに、アメリカ人の「コンサルタント」(ノーベル賞学者も多数)が、ロシアの資本主義化を手助けしようとしたのに、ぜんぜんできなかった、という事例。
これは、いまだにできていない。

もうひとつは、経営者が自社の富を独占して、高額報酬を得るかわりに、設備投資を怠り、わが国などとの競争に敗れた事例である。
たとえば、自動車なら、「アイアコッカ」とかが典型例だ。
おのれの経営力を自慢して、超高額報酬を得たが、その企業の命運も食い尽くしてしまった。

アメリカ人が、「資本主義の精神」を失念してしまっている。
これが、「事件」でなくてなにが「事件」か?
ソ連の崩壊をその10年前に「予言」していた、碩学、故小室直樹にいわせれば、「なっちゃいない」はなしだ。

 

この本の「シナリオ通り」に、あのソ連が「ほんとうに」崩壊した。
その後にでた、『ロシアの悲劇-資本主義は成立しない』は、じっさいにソ連が崩壊した、1991年12月よりも2ヶ月「早い」、同年10月に出版されて、「ほんとうに」この本の「シナリオ通り」、ロシアは「マフィア経済」の闇に落ちてしまって、いまだに「そのまま」である。

おそるべし、「資本主義の精神」なのである。

さて、ソ連が崩壊した1991年当時のアメリカ大統領は、パパ・ブッシュであったし、そのパパ・ブッシュが来日したときは、アメリカ自動車業界もやってきて、日本に文句をいうだけではなかったけど、宮沢喜一首相にして突っぱねたのが印象的であった。あまりのショックに、首相主催晩餐会で倒れたのが記憶に残る。

パパ・ブッシュは、レーガン大統領の副大統領だったから、共和党である。しかも、彼は、「主流派」の中心人物だった。
共和党主流派とは、グローバリズム推進派を指すけども、それゆえに資本主義の精神を「気にしない」ひとたちなのである。

党内で対抗するのが「保守派」であって、このひとたちには建国の伝統「茶会党」もふくまれるし、キリスト教長老派という、清教徒の流れがある。
すなわち、資本主義の精神を理解しているばかりか、「なくてはならない」とかんがえるひとたちだ。

ちなみに、キリスト教長老派で、熱心な信仰をしていることで有名な政治家に、台湾の李登輝(本名は岩里政男)元総統がいる。
日本名から中国式に強要されたのだから、本名は日本名という、「順番」がある。

現職の、ドナルド・トランプ大統領も、「保守派」なのだ。
彼がいう「財界のアメリカ回帰」とは、外国から戻ってこいという意味と、資本主義の精神を取り戻せ、という意味とがあるとおもわれる。

これは、たいへん重要なことをいっているのだと理解できるだろう。

「アメリカ・ファースト」とは、正統・資本主義回帰のことなのだ。
かつて「成立」したときの、「結果としての利益・利潤」を求める「正しき資本主義」である。
その精神を鼓舞する、近年にない大統領がトランプなのである。

すると、わが国の資本主義は、だいじょうぶなのか?
ひとつだけエピソードをいえば、一昨夜放送された、池井戸潤原作の『下町ロケット・総集編』(第三夜完結編)がちょうどいい。
5年前のドラマシリーズを三回にまとめたものの最終回だ。

この中で、阿部寛扮する主人公が、小泉孝太郎扮するNASA出身の宿敵に、決めセリフを吐くシーンで、「技術だけではダメだ」といって「資本主義の精神」をとうとうと語る場面がある。
原作を読んでいないからわからないが、原作にあるのか?それとも脚本のオリジナルか?

こんなところが、この作品の「人気の秘密」なら、日本の資本主義も捨てたもんじゃない、のである。

奇跡の資本主義

資本主義について何度か書いてきたが、これからはじまる「恐慌」的「大不況」の「心の準備」のために、念押ししておきたいので、しつこいけれど書いておく。
なお、長いので「連載形式」になるとおことわりする。

もう、わが国は、戦後世代のひとがほとんどになったので、戦後の「資本主義」が、「本来の」資本主義だと思い込んでいる。
その「戦後」のイメージも、とっくに「一面の焼け跡」や「闇市」ではなくて、「高度成長の昭和」になっている。

『三丁目の夕日』は、1974年9月から2013年4月まで、小学館の『ビッグコミックオリジナル』に長期連載されていた、西岸良平の人気作品だ。
2005年に公開され、2006年にかけてわが国映画賞を「総なめ」した、『ALWAYS 三丁目の夕日』の原作である。

これが、「昭和のイメージ」をいまに決定づけたといえるだろう。

しかし、わが国は、明治になって資本主義を導入し、「産業革命」をアジア地域で初めて成功させたという、「神話」がある。
これをもって「日本人の優秀性」をいうひとがたくさんいる。
このときの「日本人」とは、誰のことか?と問えば、だれもが「明治の日本人」というだろう。

これが、「神話」になる問題なのである。
そのときのことしか「見ない」で、「見えることだけ」で決めつけてしまう態度が、いまのコロナ・パニックをも産むからである。

また、現在の政府がかかげる、「第4次産業革命」という「倒錯」にいたる原因にもなるのだ。
内閣府の『経済財政白書・世界経済の潮流等』の「日本経済2016-2017」の第2章にある。

なにが「倒錯」しているのか?
まずは、順番である。
あろうことか、日本政府は、産業革命を、「18世紀末以降の水力や蒸気機関による工場の機械化である第1次産業革命」(前掲より抜粋)と書いているのだ。

前提に「十分条件」がない、「必要条件」だけの文になっている。
第一に、資本主義が成立したから、産業革命が起きたのだ。
このことが示す重大な「誤解」は、資本主義そのものに対する「誤解」も含まれている。

それは、資本主義の成立要件が、「資本と技術だけ」であるという「誤解」である。上の引用もこのことを明確に示している。
これを「作文」した、まさに、わが国官僚とそのブレーンが、「スターリン主義者」であることを告白したも同然なのである。

なぜなら、資本主義の成立要件が、「資本と技術だけ」であるということが、スターリンの「五ヵ年計画」の「根本思想」だったからで、この「思想」が彼の死後も継続し、ついには「ソ連崩壊」の原因となったからである。

カネと技術革新さえあれば、産業革命が起きる。
しかも、そのカネは「国家」が提供し、技術革新も「国家」が推進するのだと断言する。
まさに、スターリン主義のことをいう。

なんという「浅はか」であろう。
資本主義の成立要件で、絶対に欠かせないのは、「資本主義の精神」なのである。
この「精神」とは、「勤勉なる労働が、自己の魂の救済になる」という「信仰」に起因しているのだ。

そして、この「信仰」が、「結果としての利益・利潤」を「道徳」として社会が認めたことで、資本主義が成り立った。
「目的としての利益・利潤」ではないことが、人類史上の「画期」なのである。

人類史という長い目でふり返れば、「資本主義」は、18世紀という「時期」に、初めて、しかも一回だけ、まずは英国などのヨーロッパ地域で「成立」した。
つまり、古代から17世紀まで、人類は一度も「資本主義」を経験したことが「なかった」のである。

けれども、驚くなかれ、日本における資本主義の精神を言い出したのは、なんと、本家のヨーロッパよりもぜんぜん早い、天正9年(1579年)生まれの、鈴木正三である。
詳細は、山本七平『日本資本主義の精神』をご覧あれ。

鈴木正三のことは、わが国の資本主義をかんがえるときに、また語りたい。

世界史の興亡は、あまたの国や帝国が出現し、その栄耀栄華を極めながらも滅亡をくりかえす。
驚くほどの富と権力を手にしたひとたちのだれもが「目的としての利益・利潤」を「当然」としていたのだ。

だから、いまでいう「詐欺」や「掠奪」だって、ついこの前までは「ふつうのこと」だった。それで、「だますよりだまされる方が悪い」という変なことが格言にもなるのである。
「目的としての利益・利潤」のもうひとつの典型は、ギャンブルで賭けるひとである。ギャンブルの場で働くひとのことではない。

これが、たまたま、カソリック教会への不満が爆発し、その勢いで支持された「カルバニズム」という激烈な「信仰」から、コペルニクス的価値観の大転換が起きたのが「資本主義」である。

それが、「結果としての利益・利潤」の扱いだった。
形だけ教会に行って「免罪符というお札」を買えば救われるのではなくて、「本気で祈る」ことにこそ価値があると思い詰めた。

これには、ヨーロッパの人口を半減させた、「ペストの大流行」も影響しているのだ。
そして、本気で祈る清楚な生活と、他人が喜ぶ生真面目な製品づくりをしていたら、あろうことか「利益」が手元に残ったのである。つまり、意図しないのに「儲かってしまった」のだ。

他人のため、というかんがえ方が利潤をもたらす。
これは、いいことなのか?それともわるいことなのか?
一心不乱に祈りを捧げる行為とおなじように、一心不乱に労働したら利益を得るのは「いいことだ」になった。

そして、勤勉さにこそ価値があり、結果としての利益・利潤が、「勤勉さの証」になったのである。
だから、結果としての利益・利潤を蓄えた「金持ちが尊敬される」世の中になって、このひとたちが、社会のために「投資」した。

その投資対象が、だれもが腰を引くような最新技術でもあったから、それが産業革命になったのである。
つまり、単に資本と技術があっても、産業革命は起きないし、じっさいに17世紀までの人類社会に産業革命は起きていない。

おおもとを見失うと、「浅はか」が正面にでてきて、決して成功しない。
資本主義の精神に興味がない、わが政府の「計画」が、成功するわけがない、ということになる。

初期の資本主義とは、こういうものであったことを忘れてはいけない。

このことを力説したのが、ヤマト運輸の中興の祖、故小倉昌男の『経営学』である。
「サービスが先、利益は後」とは、「結果としての利益・利潤」にほかならないから、「正統・資本主義」の教科書でもある。

制度がつくるデータ

「インフルエンザ」の場合には、「注意報」と「警報」が用意されている。
全国約5000カ所の定点医療機関を受診した、1週間ごとの患者数(「感染者数」ではない)を把握する仕組み(制度)ができている。

これと過去の発生状況をもとに、基準値をもうけて、各保健所ごとに注意報や警報がだされるのである。
それで、マスコミ各社は、注意報や警報の報道にあたって、40万人基準をもうけている。

だいたい毎年のインフルエンザの罹患者数は、1000万人で、そのうちおよそ1万人以上が死亡している。
だから、40万人を超えたところが、注意報の発令タイミングになるのである。

ざっと、国民の10人にひとりが罹患する勘定になっている。

ちなみに、インフルエンザの時期には、「風邪」も流行する。
こちらも、毎年およそ1000万人が罹患するから、ほぼ同時期に、2000万人がなんらかの症状を訴えて生活しているのが、わが国の秋から冬にかけての状況だ。もちろん、「風邪」の主たる原因は「コロナウィルス」であるが、おおくが「土着型」といわれている。

PCR検査は、「コロナウィルス」を特定するが、その内訳をしめすことはできない。
なので、新型か土着型かの区別は不可能だから、本当に「陽性」であっても、「診断」は医師が症状を診て決めることになる。

これが、「感染者数」だけで判断してはいけない理由なのだ。

ところが、わが国のマスコミは、インフルエンザの注意報の基準である「週40万人」の「患者数」ではなく、「1日40人」の「感染者数」から報道を開始した。警報は「週100万人」の「患者数」で出る。
「1万倍」もさば読み、かつ、週と日と、患者数と感染者数を「混在」させているのは、どういう「報道基準」によるものか?

「未知のウィルス」だから、という言い訳をしても、数字の表現は「あんまり」である。
しかも、統計的に間違った「図」をもつかっている。
それは、ふたつある。

ひとつは、「数」をしめす「Y軸」の目盛りに「対数」をつかわないことだ。
「パンデミック」とは、ネズミ算どころか、指数関数的に広がる状況をいう。

ひとりから複数人が感染し、これらのひとがまた複数人ずつに感染させるからである。
だから、「Y軸」をこれにあわせないで、「ふつうの目盛り」にすると、より強烈な印象をあたえるグラフになってしまうのだ。

もうひとつは、「累計」をいってはいけないのがルールだが、平然とこれをしめすことだ。
インフルエンザの注意報も、週ごとの数字ではあるが、これを「累計」はしない。

なぜなら、「ふえるばかり」にみえるからである。
累計をだすなら、治癒した数もしめさなければならないが、ふつう、患者は治癒したと医療機関に報告しない。
だから、余計な情報だというばかりか、不安をあおるだけになるのである。

今回の病気が収束したあと、わが国のマスメディアは、総じて厳しい批判にさらされることになるのは「確実」である。
国民から、信頼されない、という自爆を連日やっているのは、いかにも「愚か」である。

そのマスメディアに便乗しているのが「政府」や「政治家」なのだから、始末がわるいのだ。

さらに、わが国の医療機関が、初動における反応が鈍かったのは、感染者の受け入れにおける消極さが目立った。
「医療機関が赤字になる」という、診療報酬制度こそが、ボトルネックとなったからだ。

高齢化によって、ずいぶんと「医療」が、花形産業になるような記事が踊ったことがあったが、これぞ「ちょうちん記事」ではなかったか?

わが国のタクシー業界が、実質「国営」状態なのは、「Uber」が許可されるかされないか以前に、「料金体系」と「クルマの台数」が、運輸局によって定められている「業界」だからである。
すきな料金体系を届け出ればよい、ということではなく、当該地域の料金体系を国が決めるのである。

おなじ状態が、医療で、診療報酬制度というものと、薬価とでがんじがらめなのである。

官僚主義がはびこるEUでも、各国議会の議決は無視される。
EU委員会という、役人集団が決定したものを全地域に命じるからである。

そんなわけで、イタリアやスペインで酷いことになったのは、医療予算の削減が「医療崩壊」をまねいたといわれているが、「新型コロナ」と診断書に記入すると、診療報酬が増額されるという、EU委員会の「対策」が効いたようである。

なので、入院患者のだれかれにも「記入する」ということで、「パンデミック」になってしまった。
まるで「まんが」なのである。
ほんとうのところはどうだったのか?は、もう誰にもわからない。

「診断書」に記載されているからで、どれがほんとうの「診断」なのか?は、もはや「神のみぞしる」ところとなったのだ。
さすが、ラテンの血である。

ドーバー海峡の向こう側では、首相が感染する事態となったが、英国人からしたら、離脱していてよかった、と胸をなで下ろしていることだろう。

自粛しているのに減らないの?

初めて緊急事態宣言が出たのは、今月7日で、大都市を含めた7都府県だった。10日が経っても感染者が増えているのはどうしてなのか?

このウィルスによる発症の潜伏期間は、グラフをイメージすれば、長くて2週間程度とはいうけれど、もっとも多いのは5日ほどだったはずだから、とっくに「自粛」の「効果」がありそうなのに、なぜなのか?の説明がない。
それで、こんどは緊急事態宣言を全国に拡大するというのは、どういった因果関係があるのだろうか?

10万円を国民に配るはなしが、まるで連立与党の片方のおかげで成立しそうになっているのを、自民党の一部議員が「主張を無視された」と憤慨しているのは、中小企業には「融資」というだけでなにもしない冷たさが、説明なく繰り返されるのと大変にている。

つまるところ、行き詰まったのである。

わが国は、政治家や政党による「統治」が、完全に行き詰まってしまった。
それは、役人の代弁しかできないひとたちが、寄ってたかって大臣をやっているだけになったからである。
しかも、野党の存在価値がほとんどない。

代議士の「代」は、役人の「代」だった。

昨日は、ネット配信されている『虎ノ門ニュース』に出演した、武田邦彦先生が、科学者のデータの見方を講義していた。
それも、これまでのインフルエンザについてのデータをつかっているので、気がつかない事実も説明していた。

ウィルスは、強いものとそうでないものが勢力争いをする。

そもそも「コロナウィルス」というのは、あまたの種類があるもので、いまでも「風邪」の原因であることがしられている。
人類が、延々とつき合ってきているウィルスの一種である。
これに対抗するのが、インフルエンザウィルスで、100年前には、やっぱり「風邪」だとおもわれていた。

有名な「スペイン風邪(H1N1亜型インフルエンザ)」は、1918年~20年にはやって、全世界の死者数は、少なく見積もって1700万人、多くて1億人といわれている。
こうしてみると、いまはやっているのは、驚くことに「たいしたことない」のだ。

さらに驚くことに、重要なデータは、今回のウィルスが「頑張っている」ので、通常ならはやるはずの、インフルエンザがぜんぜんはやらないことが起きている。
昨年の秋から年末は、いつも通りのインフルエンザ発症があったのに、だ。

これは、「のどの奥の狭い面積」における「陣取り合戦」で、ことしはやるはずのインフルエンザウィルスが、新型コロナウイルスに負けたことが原因だと指摘する学者がいるのだ。
シャーレにおける細菌やカビの培養実験で、特定のものが他を圧倒する現象とおなじだ。

いつもなら、1万人以上がインフルエンザで亡くなるのだけれど、今年はその5分の1ほどで収束してしまった。
たとえば、愛知県は3月20日の報道で、昨年12月に発令した「インフルエンザ警報」を解除している。

かわって、「新型」で亡くなってしまうのは気の毒だけど、全体数では、いつもよりぜんぜん少ないのだから、「風邪」というおおきなくくりでみると、被害の実態は意外にも「軽い」ということになる。

さてそれで、自粛しているのに患者数が減らないのはなぜか?
先日も書いたが、感染者は検査自体の件数と確度によるから、これで一喜一憂しても意味がない。
ただしく、「診断」された、「患者数」でみるべきだろう。

10日間かけても「新規患者数」が減らない?
すると、「自粛」という方法の「効果」をうたがうのが「科学」の発想になる。

憶測をふくめてさまざまな感染原因がいわれているが、改めて確認したいのが、「飛沫感染」と「接触感染」だということなのである。

おおくのひとがマスクを着用していて、咳やクシャミを素でするひとがみられないなか、いちばん疑うべきは、「接触感染」である。

これは、ウィルスが付着しているなにかに、「手」で触ることが第一の原因で、その汚染された手で、自分の「目」や「口」などの「粘膜」に触ることで感染するのである。

公共の場における不特定多数が触るものを触って、その手で自分の「目」や「口」を触ってはいけないのである。

では、公共の場における不特定多数が触るもので、もっとも危険なのはなにか?
武田邦彦先生は、「トイレ」をあげた。
せっかく石けんで手洗いしても、蛇口の水栓にまた触らないといけないし、ドアも開けないと出られない。

しかも、トイレは「飛沫感染」の可能性もあるという。
大便後の排水で、飛沫が9メートルも飛ぶというから深刻である。前に使った感染者が、便器に蓋をしてから排水するとよいのだが、蓋がないのが公共のトイレにたくさんある。

もしや、これまで感染したひとは、公共の、あるいは店舗内のトイレで飛沫感染と接触感染のダブルで感染していた可能性がある。
なるほど、自粛の効果は、公共のトイレを使わないことにあるかもしれない。

個人でもわかりやすいのが、「東京都感染症週報」がある。この中の「患者および死亡後診断」の数に注目すればよい。
あおるだけあおる、マスコミ報道に惑わされないための「予防」になるので、チェックするとよいだろう。

宗教の復活はあるか?

とうとう「大恐慌」に匹敵する経済的打撃だと、IMFがいいだした。
「リーマン級」を口にしていた日本政府は、どちらが甚大か判別できる能力があるのか?とりあえず、全国に緊急事態だと発布はしたが。

世界銀行とIMFについては前にも書いた。
両者は「つるんでいる」ので、米と欧とでトップを独占分担しているのだが、出資金がでかいわが国からも「副」がつくタイトルで、もっぱら財務官僚の出世コースになっている。

IMFのトップである「専務理事」は、かならず欧州から選ばれるルールで、いまはブルガリア人だ。
このひとは、世界銀行からやってきた。物心がつくまで社会主義国だったので、世界銀行もIMFも、お里がしれる。

なので、「世界恐慌」をいうのは、「副」がついた日本人のお役人様と、さぞや財務省幹部が事前だか事後にやりとりをしていることだろう。
なにせ、まさかの事態出現で、このひとたちが「死守すべき」消費税が危うくなってきているからである。

自民党内でも、消費税を当面の間ゼロにする案を提案しているグループがでてきて、先月3月11日に西村康稔経済再生担当相に要望書を手渡している。
どうして「経済再生担当相」が相手なのかしらないが、財務大臣ではない理由をしりたい。

NHKが1997年1月から3月に放送した、『人間大学』は、「新しい科学の見方」というタイトルで、講師は村上陽一郎国際基督教大学教授(当時)だった。
テキストはアマゾンでいまも古書が手にはいる。

肩書きは重くても、「本物の学者」というひとは、あんがい少なくて、むしろ、学内とか学会とかの「政治が本業」のひとが学者を「名乗っている」ことがおおい。
この意味で、村上陽一郎氏は、数少ない「本物」であろう。

難しいことをやさしく解説してくれることができるのは、本物のあかしである。
教える側本人の実力がなければ、教えられる側が納得する説明はできない。

さて、この講義のなかで、「科学の誕生」というはなしがある。
ヨーロッパの歴史には、中東・アラビアの知見もふくまれているが、「魔術」から「科学」への変遷には、キリスト教との決別という事件が必須であった。

つまり、宗教による「真理」から、宗教を排除した「真理」の追求へ転じることが「近代」には必要だったのである。

そこで、「学問」とはなにか?という問題が起きる。
これを、三タイプにわけて説明されているが、便宜的に国名を用いるのは、説明を強化するための手法だとあらかじめ説明している。
・ドイツ型:学問のための学問
・イギリス型:紳士の教養
・フランス型:有用性

フランス型はフランス革命という、これまたキリスト教・教会人の処刑・排斥をともなう「支配者の排除」をやったことから、革命政府のメンバーは従来からの被支配者のみであった。
気がついたらそれでは、国家運営がままならない。

こうして、いまにつづく、「官僚養成校」がつくられたのは、科学の有用性を行政に利用したい側面が強かったからだ。
すると、わが国は「フランス型」だということが示唆されている。
列強からの侵略をふせぐ急速な近代化を促進するために、武士だけでは間に合わない事情が、フランス型にさせた背景であろう。

しかし、近代化=資本主義化のためには、ヨーロッパの歴史をさかのぼって、資本主義の「精神」を導入しなければならない。この精神がない状態を「武士の商法」だとお笑いぐさにして習っている。
そこで、明治の賢人たちが発明・開発したのが、「日本教」という天皇を「神」とする「宗教思想」であった。

もちろん、「日本教」は、GHQによって否定・棄教の対象になったから、わが国でいうほんらいの「保守」は、日本教の復活を目指すことになるはずで、結党当初の自民党がそれだった。
左からの「政教分離」というスローガンによる攻撃に、あえなく撃沈されたのが、この政党の能のなさである。

日本教も人為であったが、これをつぶした「天皇の人間宣言」も人為による「フランス革命」的な、処刑を伴わない「処刑」であった。

GHQは自分で棄教命令を出したのに、あんがい緩くなったのは、昭和天皇が偉大すぎたからでもある。
反日の権化のはずだった米軍の将官たちが、こぞって天皇に帰依したのは、「無私」という「普遍価値」を現世で実行している唯一の人間(家系)だったことに気がついたからである。

しかし、ゆっくりと確実に、かれらが撒いた日本教を破壊する「毒」が日本人にまわって、その重大さに気づくものが小数派になっている。
「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし(なぜ天皇は人間となってしまわれたのか)」と嘆いた三島由紀夫が、ことの本質に身もだえて抵抗した唯一の日本人だった。

そこに、新型コロナウイルス禍が襲ったのだ。
これはもはや、医学的でも物理的・科学的事象でもなく、社会的事象に転換された。
それは、「死」に対する宗教的哲学という免疫の「なさ」が主因である。

生まれたからには必ず死ぬ。

この厳正な事実に、世界中の人間社会が向き合えていないのだ。
それが、パニックを発生させ、差別をも生んでいる。

自分の人生を、取るに足らない人生だとおもえない。
「個」がなにより重要だというのは、ある意味ただしいが、ある意味まちがっている。
支配者だとおもっていても、しょせん「蟻の一匹」にすぎないのである。

自分の「個」が大事なら、他人の「個」も認めなければならない。
この「寛容さ」こそが、宗教的哲学への回帰をうながすのである。

21世紀のいまも、あいかわらず、「科学は哲学の配下にある」のだ。
科学も人間の営みであるからである。

緊急事態だからわかる価値

緊急事態だから、アルコール消毒液がなくなった。
それで、緊急事態だから酒造メーカーが高アルコール度数のスピリッツを製造して、消毒液の代用品にと提供している。
アメリカなどの外国では、緊急事態だから、政府が酒税を免除するばかりか製造を支援するけど、わが国はしっかり課税していて製造の支援もなにもしない。

どこが、緊急事態なのか?

買い物で使い回しをする「エコバッグ」などでは、ウィルスが付着しているかもしれない。それで、緊急事態だから、衛生的なレジ袋を積極的に配付することにしたのはアメリカのスーパーマーケットだ。
わが国では、緊急事態なのにレジ袋の有料化の普及が着々とすすんでいる。

どこが、緊急事態なのか?

横浜市の役人は、保育園の保育士に症状が出て、検査をしたら感染していたことを「隠蔽」しようとしたという。
保育士は、症状がでた時点から園を休んでいるが、これを発表しようとしたら「やめるように強く指導された」として、市内保育園園長会が書面で市に対して抗議したことがニュースになって、ネットでは大炎上している。

さて、この「事件」は、なにが問題なのだろう?
登場するのは、横浜市の担当者。厚生労働省の「ガイドライン」と、本件発覚後の厚労省の対応。それに、横浜市長が行政側。
保育園側は、当該保育園の園長と園長会である。

そもそもの発端は、園から連絡した横浜市の担当者が、厚労省の「ガイドライン」にしたがって、保護者に連絡する必要なしとしたのは、症状があってからの欠勤と検査で陽性がでるまでの間が10日間あるための判断だとかんがえられる。
それと、もう一つは、保健所の確認が必要だということがある。

アメリカでも、ウィルス検査にあたって当初、保健所でのチェックが義務づけられていたが、「遅い」という問題と、検査キットの新旧問題がかさなって、結局は民間病院でも検査が認められ、一気に検査をうけるひとが増えた。
実際には、このことが「感染者」が「ふえた」大きな理由でもある。

そんなわけで、わが国は、保健所という役所で「確認」しないと、認められない、ということが、今日でも起きていたということである。ただし、この場合の「確認」とは、感染者の行動経路などのことをいう。
だから、保護者に説明する内容について、丁寧な指導が必要だったものが、横柄ゆえに「隠蔽指示」にとられたのである。

しかし、報道各社が一斉に報じるということから、肝心の厚生労働省が、はしごをはずした。
それで、横浜市長も、対応のまずさを認めた、ということである。

さて、本稿冒頭の事例から、横浜市の「事件」まで、どれもこれも「はぁ?」というものなのだけれど、もっとも重要な問題が隠れていて、ぜんぜん表に出てきていないことにお気づきか?

「政治家の不在」である。
もっといえば、「議員」と「議会」に、ぜんぜん「存在感がない」のである。

「酒税」とは、字にあるとおり「税」のことだから、酒税法で決められた徴収しか役人にはできない。
ならば、議員が議会で、大急ぎ酒税法の改正を仕上げなければならないのになにもしないのは、議員が法案を書けないからできないのだ。

わが国における、「レジ袋の有料化」の強制は、前にも書いたとおり、「法がない」状態で実施を決めた。
誰が?役人たちが、である。
つまり、「税」に匹敵する負担を国民に押しつけるものを、「省令等の改正だけ」でやる、のである。

これを、止める合理的な方法が、ない、という国にわれわれは住んでいる。

横浜市の「事件」は、前述の通りだが、ここにも議員や議会の陰もない。
これはいったいどうしたことか?

議員や議会が、なにもできないようになっているからである。
だから、なにもしない、のではない。
あくまでも、蚊帳の外、なのである。
それで、定数は86人いる。

さてそれならそれで、どこから手を着ければいいのか?
残念ながら、横浜市の条例なんて関係ない。
中央政府の「省令」から「通達」までの、命令の仕組みを変えるしかない。
どうやって?

じつは、国会も、国会議員も、おなじ構図のなかにいる。

これが、わが国の「仕組み」なのである。
おもに、自民党と社会党がつくってきた仕組みである。
だが、ほんとうは、歴代の役人たちが、連綿として緻密につくりあげた「迷宮」である。

三十年前の、ほとんどバブル期に東欧で起きていた「他人事」が、ようやくにしてわが国を蝕んでいることに気づくのだが、どうやっていまの東欧諸国のようになれるのか?

「秩序の崩壊」をただ待つのか?
それとも?

ようやくにしてわが国の、追求すべき「価値」がみえてきたような気がする。

ただし、今回の保育園の園長さんたち(約700施設)には、今後、当該役人からの嫌がらせがずっと続く懸念がある。
ここに「エネルギー」がたまるのも、覚悟して「よし」とすれば、よい世の中になるきっかけになる。

民主主義だからである。