50年ぶりに低い失業率

1969年以来だから、ぴったり50年、半世紀ぶりに低い失業率を達成したのは、現代のローマ帝国、アメリカ合衆国である。
「栄光の60年代」をかざる数字は、どのようにしてできたのか?
それは、民主党なのに減税をやったケネディ大統領の遺産だった。

世界には「景気」にかんする二つの価値観がいまでもある。
「インフレ」対「失業」だ。

大恐慌の発信地でもあるアメリカ人には、時代をいうときに「恐慌前と後」という感覚が根強い。
これは、日本人にとっての「戦前・戦中と戦後」とでわけることに似ているが、戦勝国なのではなしが大恐慌までいくのである。

「先の大戦」といったとき、京都人が「応仁の乱」というほどの「時間感覚」ではないけれど、各国ごとの「時代感覚」はちがう。

もちろん、戦後の日本をおそった経済混乱は、戦時国債の紙切れ化にともなう一大インフレで、最高600%程度だったといわれている。
ドイツ人は、第一次大戦の敗戦で「真性ハイパーインフレ」を経験した。このときの最高は一兆倍ともいわれている。

喫茶店に入店したときのコーヒーの値段が、店をでるときに二倍になっていたなどという逸話はまだあまい。
パン一個の値段が、100マルク!でもすごいけど、これが一年後にいくらになったか?

教科書に、紙幣をリヤカーに積んで買いものにいく風景や、薪のかわりに炉にくべる写真がのっていた。
薪を買うより紙幣の方がよく燃えて、安かったからである。

そんなわけで、なぜか第二次大戦の戦勝国は「失業」を優先的に怖れて、敗戦国は「インフレ」を優先的に怖れる傾向をもっている。
戦勝国の英米で70年代におきた、「スタグフレーション」が深刻だったは、景気が悪いのにインフレになった。

国民に政府が、とにかく職をあたえようとしたら、市場に貨幣がふえてインフレになったのだ。
これを退治すべく登場したのが、サッチャーとレーガンであった。
コンビを組んで、似たような自由化を主とする経済政策を推し進めた。

真逆をいったのがフランスのミッテラン社会党政権で、どちらが優位なのかと当初は論争にもなったが、時間とともにミッテランもサッチャーとレーガンのやり方をマネしたから、もう論争にもならなかった。

世界の工場として絶好調だったわが国は、苦しむ英米を上から目線で眺めていた。
もちろん、世界の工場の役目が永遠につづくものと信じて疑わなかったからだ。これは、おなじ敗戦国のドイツもおなじだった。

そんなわけで、西側経済の牽引車は、日本とドイツという機関車の「重連運行」だったのを、まさに「自慢」していたし、国際会議でも英米が日独にけん引されることを望んだのである。
いまからすれば、機関車よりもモーター車を複数もつ電車のほうがずっと効率的だと、だれもおもわない不思議があった。

レーガン減税で息を吹き返したアメリカと、あいかわらずの強い日本に対抗するために、ヨーロッパが「徒党を組んだ」のが「EU」である。
これで、西側に三極構造ができたのは、東側の経済を無視できたからでもあった。

それで、経済の強いドイツが域内貿易で一人勝ちの大儲けをしたら、大損した南の国々が破たんしそうになった。
ドイツの凋落はここからはじまる。旧東ドイツへの負担だけではすまなくなった。

日本の凋落はもっと深刻で、頼れる者がいないからと、あろうことか政府に頼ったので、自滅の道を確実に歩んでいる。
サッチャーとレーガンが頼った「ハイエク」を、日本人はほとんど読んでいない不思議がある。

経済学部の入試に数学を要しない「文系」がふつうなのは、かつてわが国で経済学とは、「マルクス」のことだったからである。
いまでも、数学を要しないのは、教授たちが楽をするためだとうたがっている。

やたら数学ができる学生がいたら、かんたんに論破されてしまうかもしれない。
けれども、経済は、ほんとうは人間の営みだから、数学モデルの限界があるのではなかろうか?ともかんがえる。

もちろん、モデルの限界をしるための数学がひつようだ。

かつて、サミュエルソンという天才が、数学を駆使してつくったモデルに経済学者たちが驚嘆したのは、その意味で「いい時代」だったのではないか?

残念なのは「マルクス」にいったひとたちで、完全に「文学」か「宗教」の世界にはいったままでてこない。
間の「哲学」が欠如しているから、やっぱり「理屈」にならないのである。

50年ぶりの低い失業率は、こんどはトランプ減税の効果である。

いったいいつ、わが国で「減税」が議論されるものか?
「マルクス」にいったひとたちの与党いがいの党にも、ぜんぜん期待できない。

けっきょく、政治なんだなぁ。
国民の資質のちがいにちがいない。

マスクをして挨拶する感覚

「不気味なマスクの着用」について前に書いた。
顔認証の技術がすすんで、セキュリティー対策にも応用されるのは、来年の東京オリンピックでも宣伝している。

世界でもっともこの技術研究がすすんでいる国は、自由主義圏にいたらできない「テスト」が、できるからである。
かんたんにいえば、「個人情報」を保護するのではなくて「収集」するためである。

だれが、いつ、どこで、なにを、しているのか?
ついでに、なんで、がわかればもっとよい。
これを、監視カメラの画像から本人特定をすればよい。

ソ連が崩壊した理由には、国民監視のコストがかさんだことが、軍事競争の敗北に直結したからである。
外国との交渉は、外交の延長線上に軍事があるのは世界の常識だ。
けれども、その前の国内事情として、国民が政府の敵だというかんがえになったから、最優先したのであった。

いつ逮捕されるかわからない。
これは、ノーベル文学賞をとった、ソルジェニーツィンの『収容所群島』の書き出しのメッセージである。
理由は逮捕してからかんがえる。

こういう国を「全体主義」という。
それへの抵抗が、香港デモであるから、素顔のデモ参加者たちがいなくなって皆マスクで顔を隠すようにしている。
あれは、はたして日本製なのか?が気になるところだ。

アジアの国から、日本はまだ憧れをもってみられているらしく、若いひとたちのファッションに「マスクの着用」があるらしい。
女性なら、すっぴんを隠す効果もあるから、近所へのちょっとした外出なら、わざわざ化粧をせずともマスクをすればいいのは便利だ。

マスクといえば白だとおもったら、黒やその他の色もある。
乾燥注意報が連日発令される、冬の太平洋側は、喉のためにマスクをするひともおおいだろう。
就寝用のマスクさえあるから、機能分化しているのだ。

こういうわけで、日本のマスク文化は、理由はさまざまでも国内はもとより外国にも「輸出」されている。
さいきんでは「白人」でマスクをしているひとをみかけるから、このひとはきっと、母国に帰ると「変人」あつかいされるだろう。

「あちら」では、あいかわらずマスクは病院等に限定して着用するものだという「きまり」がある。
なので、この日本文化に慣れたひとは、日本への哀愁がつのるはずだ。

しかし、マナーということからすれば、人前で挨拶をするときに、マスクを着用したまま、というのはいただけない。

昨日、わたしの住む地域では、ウォーキング大会が開催された。
おもむろにスタートしないのが、わが国の文化で、大会責任者からの「挨拶」という「儀式」をする。
その後、路上での注意事項の説明があって、準備体操をしてから出発となる。

ここで、区役所の健康担当主任と、地域センターの保健士が「挨拶」をした。
ふたりとも「マスクを着用したまま」である。

これぞ「ザッツ・お役所」。
これは、個人的な感性という気がしない。
おそらく、このひとたちは「職場」においても常時マスク着用の習慣があると予想できるからだ。

むしろ、じぶんの汚れを外にださない、という意味で「丁寧なこと」という「倒錯」があるのかもしれない。

しかし、はなしを聴く側からすれば、声がこもって聞き取りにくくなるとおもわれるのは、公園でマイクがないなかの肉声によるからだ。
参加者の年齢が比較的高いことを考慮すれば、挨拶をする側から聴衆をみた瞬間に、マスクをとるのが「配慮」というものだ。

案の定、声がこもって聞き取りにくかった。
なにをいっているのかわからないが、聴く側もちゃんと聞く気がないから、おあいこか。
80歳にならんとする町内会長の挨拶は、声が通って聞きやすく、参加者への配慮に満ちていたのと対照的だ。

これはきっと、職務と権利がすでにわからない状態なのではないか?

それは、ふたりとも、急な坂道やながい階段で、マスクをはずしたからわかった。
息が苦しくなって、マスクが邪魔になったからだろう。

こうした態度を、みんながみている、みられている、という感覚も無いはずだ。
それでいて、休日出勤の手当をもらうにちがいない。
この手当の源泉が、参加者住民たちが負担する市民税や固定資産税なのに、それもわすれて、申請だけはわすれない。

衛生のプロだから、歯磨きに歯磨きペーストはひつようなくて、なにも付けずに磨けばよいと「指導」しているけれど、そんな不織布のペラペラのマスクでなにを防禦できるものかといえば、できるはずがない。

日本には医療用マスクの性能規格基準が存在しない。
これだけでも、マスク文化と相反するのだ。
ではどうなっているかといえば、ASTM(米国試験材料協会)が医療用マスクの素材条件を定めているのでこれを準用している。

すると、N95以上の機能があってはじめて「効果」があるのだ。
「99」や「100」になると、こんどは「呼気抵抗」もたかくなって、安静時でも息苦しさを感じるマスクになる。

けっきょく、たんなる「マナー違反」が、「専門家」によって、正々堂々とおこなわれているのだ。

嘆かわしい。

自動運転の前に信号を

プロのドライバーなり、プロが運転する自動車の運行をあずかる会社にどんなデータが集積されているかの詳細はしらないが、信号機と渋滞の関係をどのように分析しているのだろう?

交通管理に関する技術の研究開発を行う公益法人、日本交通管理技術協会はどうかんがえているのだろう?
システムとしての信号と、単体で独立している信号があるけど、単体独立型の信号も、交通システムの中にふくまれている。

システムとしての信号は、おもに幹線において「連動」するタイプで、道路交通情報をセンサーがキャッチして、信号機の制御をおこなっている。

赤信号がはるか向こうまでみえて、一斉に変わったり、順々に変わったりして流れをつくっている。
逆に、信号ごとに赤で停車させる「制御」もしているのは、速度をだしやすい道路の安全性を確保するためだともいう。

そうはいっても、運転手は人間だから、自分の行く手を「赤信号」で阻まれることを「避け」ようとする心理もある。
それで、昨今は「黄色」が「注意」ではなく、「突っ切れ」になっている。

だから、進むたびに「赤」制御がはたらくばあい、けっこう「イライラ」もつのることがある。
そこに、トロトロはしるクルマがいると、あおり運転さえも誘発しないかと心配になる。

それに、下手に信号機のない横断歩道で、歩行者のために停車しても、対向車が止まらないので、あんがい歩行者の危険を誘発することもあるし、後続車から追突される危険もある。

これは、クルマの性能がよくなったのに、人間の性能がそのままか低下したことによるミスマッチではないのか?

人間の性能の低下の理由に、さいきんでは「ミネラル不足」がつよく疑われている。
食品に含有されているはずのミネラルが、土壌の酷使と化学肥料の大量投入で、ちょっと以前に比較してもぜんぜんないのである。

むかしの子どもがそろって「嫌い」だった「ニンジン」も、あの「風味」がなくなって「甘み」がふえたのは、ミネラル含有量が劇的に変化したからである。

これに、ミネラル・バランスもなっちゃいない「ファストフード」を習慣的にたべていれば、しらないうちにミネラル欠乏症になる。

ミネラルは、人間の体内で合成されることがないので、食事で摂取するしかないが、「生きるため」の教育をわすれて、「机上の知識」に偏向してしまったので、男女ともに「親」になる準備ができないで社会人になる。

それが「キレル子ども」をつくっているともいわれている。
「常動障害」もおなじ、「脳」の活動に支障があるのである。
それで、小児科医のなかで「ミネラル強化療法」として、子どもにミネラルサプリメントを飲ませる「治療」をすると、かなりのスピードで改善するという。

すると、おとなだって人間だから、「ミネラル欠乏症」になれば、「キレたり」「落ち着きがなくなる」はずである。
おとなが子どもより深刻なのは、からだが大きい分、「欠乏量」も「大量」になって症状をつくるからである。

そんなわけで、信号やトロトロはしるクルマに「イラつく」なら、ミネラル不足を意識してみるのもよい。
「発症」しているかもしれない、とおもうことで、「イライラ」が改善されれば「まだ安心」だが、ノーコンならかなりあやしい。

自動運転やらAIやらと世の中はかまびすしいけど、信号機というインフラとの関係がいまひとつ明確ではない。
きっと、信号機からの信号もキャッチして、運転制御をするのだろうけど、単体独立型はどうなのか?

交通量が極端に差のある郊外の県道などと、生活道路が交差する場所には、「感応式」の信号をよくみかける。
流量がおおい道路の信号をなるべく変えずに、合流するクルマの安全をはかる優れものだ。

いったい全国の信号機は、どのくらいの電気代がかかっているのか?
例によって、トータルで資源量を観察しないで、稼働中だけをみるから、信号機にも「LED」が採用されている。
これで、「節電」しているという「非科学」がまかりとおるのも、「脳」へのミネラル不足からなのか?

ほんとうは「エコ」なレジ袋を追放して、国民に不便を強いることを「正義」だとする「環境省」には、集団でミネラル不足のうたがいがあるけれど、どうしてガソリンが無駄になっているかもしれない、信号制御が話題にならないのか?

クルマのエンジン性能における「省エネ」よりも、役人の性能がひくすぎるわが国では、ガソリンの垂れ流しが問題にならない。
もちろん、停車するとエンジンが自動的にとまる機能があると、ミネラル不足でそこしかみないから、もっとも負担になる「バッテリー」を無視できるのだ。

信号で止まるたびにエンジンも止まって、発進のたびに発動機をまわすのがほんとうに「エコ」なのか?
この機能に耐える巨大バッテリーを積んで走り、その寿命による交換コスト負担は、エコノミーでもエコロジーでもない。

不要バッテリーの後始末に、いったいどれほどの環境負荷があるものか?

新宿人と浅草人

東京が「東京市」といわれていたのは1943(昭和18)年6月30日までで、それ以降は、いまとおなじ「東京都」になった。

江戸の範囲はいまよりずっとせまかったのは、1878(明治11)年にできた「15区」をみれば、それがわかる。
・麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区。
これらをあわせて「市」になったのは、1889(明治22)年だ。

1932(昭和7)年になって、隣接する5郡82町村を編入して、あらたに20区ができたから、ここから1947(昭和22)年までは、「東京35区」の時代だった。

さいしょの15区は、いまのなに区かをみれば、おおよそ「江戸」の範囲がわかる。
千代田区(麹町区・神田区)、中央区(日本橋区・京橋区)、港区(芝区・麻布区・赤坂区)、新宿区(四谷区・牛込区)、文京区(小石川区・本郷区)、台東区(下谷区・浅草区)、墨田区(本所区)、江東区(深川区)。

新宿区、墨田区、江東区は、さいしょの15区のほかに近接の町をさらに編入してできている。
すると、もとの15区が8区になって、あとから郡部15区がくわわって、「東京23区」になったことがわかる。

それが、品川区、目黒区、大田区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、練馬区、足立区、葛飾区、江戸川区である。
これらの「区」は、「江戸」ではなかった。

西の境界にあたる「新宿区」から先の「膨張」と、東の果ての「葛飾区」の「取り込み」という極端がある。

これが、メガシティー東京の「顔」である「新宿」の新宿たる「あたらしさ」だ。
西へ膨張する街の、始発でもあり終着なのは、そのまま鉄道路線がしめしている。

一方、なんだか「古い」イメージの「葛飾区」は、ギネス入りした最長シリーズ『男はつらいよ』の舞台「柴又」が象徴している。
南の江戸川区とならんで、東の境界はそのまま江戸川で、この先は千葉県になる。

いわば、さいしょの15区からみれば、渋谷さえも「郡部」で、「葛飾郡」が東京だという不思議すらあったのではないか?
新宿とならんで、渋谷がターミナル駅になっているのは、「膨張」のエネルギーがそうさせるのである。

いまさら「目黒のさんま」をもちださなくとも、いまではむかしの面影すらない街が、やっぱり「郡部」だったのは「落語」における「リアル」である。

会社の先輩のご母堂は、日本橋蛎殻町のうまれで、大森の農家に嫁ぐとき、近所のひとたちと「今生の別れ」をしたという。
「そんな遠くへ行っちゃうのかい。もう一生会えないね。」といって手を取りながら泣いて別れを惜しんだという。

このエピソードも、たかが戦中のことなのだ。

そんなわけで、街道の宿場町はことごとく「江戸の外」の扱いだ。
品川、板橋、千住。
新宿だって、「内藤新宿」は大正になって「四谷区」にやっと編入されている。

「新宿」や「渋谷」の「あたらしさ」は、その先に膨張する住人たちの「あたらしさ」がつくっている。

70年代のなかばになる「昭和50年代」、いまからすればシリーズのまだ半分にもなっていない新春の「最新作」案内もかねて、有名なインタービュー番組『徹子の部屋』に、渥美清と倍賞千恵子がそろって出演している。

このふたりは、できあがった作品を「かならず劇場で」一緒に観るという。
映画会社の「試写室」ではないのか?との質問を一蹴したのは、「お客様の反応を観るため」だとキッパリ言い切ったのが印象に残る。

映画の出来不出来なら、監督の責任で、現場でじぶんたちは監督の指示にしたがっている。
プロの俳優としては、なによりも観客の受け止め方を知ることなのだと。

それで、新宿と浅草の、両方の映画館に行って、その反応のちがいを観察するのだという。
それは、新宿と浅草とで、観客の「質」がちがうことが理由であった。

どんなふうにちがうのか?
食事のシーンで、帰りがおそい「寅」に腹を立てた「おいちゃん一家」が、「寅」の分の御馳走をたべてしまって、楽しみに帰ってきた「寅」と一悶着がはじまることを例にして、渥美清が解説していた。

新宿の映画館では、帰りがおそい「寅」がわるいのだから、怒りだした「寅」は、さらにわるい、となる。
ところが、浅草の映画館では逆で、どうして「寅」のためにすこしでも取り置きしないのか?「おいちゃん一家」は冷たい、という反応だと。

新宿は「あたらしい日本人」、浅草は「むかしの日本人」がいるからおもしろい。
こんなことを意識しながら演じ手をやっている、と淡々とかたっていた。

おおくの出演俳優たちが物故した『男はつらいよ』を、どうやら最新技術を駆使して、「新作」を制作するらしい。

なんだか「新宿」と「浅草」で観たくなってきた。

IMF専務理事の「もっと消費増税を」

先月25日だから、10日ほどまえ、日本の記者とのインタービューで、今年の秋に就任したばかりのクリスタリナ・ゲオルギエバ氏(66)が、日本の消費税について2030年までに15%にするひつようがあると述べたことが報道された。

このひとの前職は、世界銀行のCEO(最高経営責任者)だった。

はて?
ゲオルギエバ氏は、ブルガリア人である。
くわしい経歴はしらないが、世界銀行の設立は1945年で、設立をきめたのは1944年(戦争中)の「ブレトン・ウッズ会議」であった。

戦後すぐにはじまった「冷戦」で、世界銀行にソ連は条約批准をしなかったので出資金をはらわず、「鉄のカーテン」の向こう側に引きこもった。
穴ぐらから出てきたのは「冷戦終結後」である。

つまり、衛星国のブルガリアだって、親分の意向があるから世界銀行とのつきあいなんてしないし、できない。
その前に、「共産圏」なのだから、「資本主義の経済学」をまなべるのは、政府から特別な許可をうけて「敵情研究」としてしかできなかったはずだから、国中で指で数えられるほどしかいないはずだ。

彼女の年齢からすれば、30代の半ばで「自由化」したから、ほんとうに「自由主義経済」が「理解できている」とかんがえていいのだろうか?と素朴な疑問がわく。

おなじ疑問が、いまはレームダックのドイツ・メルケル首相にある。
彼女は、サッチャー女史とおなじ「化学者」出身だけれど、東ドイツのひとなのだ。
やっぱり、人生で重要な知識をえる時代に、もっとも「優秀な社会主義国」に生きていたのだ。

そうはいっても、ドイツ人は政府のいうことに懐疑的なヨーロッパのなかにあって、断然、政府のいうことを信じる傾向があるひとたちだ。
いまは、ヒトラー時代を全否定するが、ヒトラー以外の政府なら信じて依存する。ヒトラー時代も、東ドイツの優秀さも、政府依存では同じ民族だ。
ここが、かつての同盟国、わが国と似ている。

さて、世界銀行とIMFは兄弟のような関係で、戦後世界に関与してきた。
途上国のインフラ融資を主とする世界銀行の融資のおかげで、東海道新幹線、名神・東名高速道の資金ができた。

当時の日本は、「途上国」だったのである。
いまの日本人は、このことをそっくり失念している。

そして、「先進国」になってから、こんどは「資金提供」の側にまわった。
この組織の決定には、出資「額」と出資「率」とで、投票数がきまることになっていて、一位がアメリカ、二位が日本、三位が中国となっている。

総裁人事では、基本的な「きまり」として、アメリカ人がなることになっている。
IMFのトップである専務理事は、ヨーロッパ人が「きまり」になっているから、フランス人からブルガリア人になったことでもわかる。

簡単にいえば、米欧でトップを「独占」しているのである。
まさに、戦後の西側戦勝国体制の申し子として、いまだに続いている「しきたり」なのだ。

IMFは、国連の専門機関になる。
この機関の議決権も、基礎票にくわえて出資額ごとに一票がくわえられるようになっている。
やはり一位はアメリカで票数割合では16.52%、続いて日本の6.15%、三位は中国で6.09%(2018年)だ。

日本からの幹部として、副専務理事が97年から連続して選出されている。
2011年になって、中国がアジア枠の副専務理事を要求したが、二名とすることで日中軋轢を回避している。

それでは、いったいだれが日本人で副専務理事になっているかといえば、歴代全員が財務官僚なのである。
世界銀行が「民間人」を基本としていることに対して、IMFは「公務員」なのが国連機関らしい。

これで、就任したばかりのひとが、日本の消費増税をくわしく語れた理由がわかった。
「セリフ」を書いたのは、日本人の元財務官僚にちがいない。
どこまでも、財務省に忠誠をちかうひとたちだ。

「IMF」という、あたかも「権威」をつかった、あくどいプロパガンダである。

彼女は、日本が10月に10%へ消費税率を上げたことに「政府の景気対策のおかげで円滑に実施できた」と評価したという。
おどろくほどのとんでもない認識である。
すでに「消費減少」が数値で報告されていて、来年が懸念されているのに。

「日本政府は余計なことをして社会主義・共産主義化せずに、自由主義体制にもどることで、国民負担を軽減させよ。そのために減税せよ。」
これが、「体制転換」を経験したひとがいうただしい「セリフ」だろう。それを言わない、言わせせない理由とはなにか?をすこしかんがえればよい。

かつて、小沢一郎氏がいった「シャッポは軽くてパーがいい」をそのままやらせる根性は、われに間違いなしと豪語してはばからない日本の財務官僚ならではではないか。

ブルガリアは世界一の「人口減少国」になっている。
少子でも高齢化でもなく、若くて優秀なひとたちが他国へ移民してしまうからである。

三年ほどまえ、ルーマニアとブルガリアを旅したが、30年前までの「失政」の爪痕は深刻だった。
かつての盟友両国の国境は、ほぼドナウ川なのだが、これが「橋のない川」なのだ。

数本しかない橋の両端のたもとに入国と荷物検査所がある。
たった数カ所で間に合うほどに、大規模な「貿易」すらない。
バルカン半島の複雑さを、よくもソ連は力で押さえつけたものだ。

むしろ、根性が曲がっている当時の英米の戦争指導者たちが、わざとスターリンに押しつけたのではなかろうか?
ヒッチコック監督の『バルカン超特急』は、ドラキュラのふるさと、ルーマニアのトランシルバニアの山岳地帯にある小さな駅から物語がはじまる。以下は、淀川長治解説つき。

古代ローマの端っこだった「ローマの国」だから、「ローマニア」が「ルーマニア」と、ロシア語に採用された「キリル文字」をつくった「ブルガリア」の仲は、いまでも悪い。
「ローマ字」に親しい日本人が、ルーマニアで読めた看板が、橋をこえてブルガリアに入った途端に読めなくなる。

中央アジアからやってきたモンゴロイドのブルガール人がつくったからブルガリア。南隣のギリシャ同様、オスマントルコにやられまくったが、首都ソフィア空港は、トルコエアーとルフトハンザがターミナルを二分していて、自国の航空会社の肩身はせまい。

自国が衰退しているのに、国際機関でえらくなるのはどんな気分なのだろう?
もうすぐ、日本人官僚もそれを味わうだろうが、厚顔無恥だから、心配はご無用と突っ張るにちがいない。
それよりも、中国に席を独り占めされることを気にするだろう。

じぶんさえよければよいからである。

全米税制改革協議会議長の来日

アメリカ共和党の強力な支持母体のひとつである。
この会の主張はシンプルだ。

「能力のない者に
  税を預けてはいけない
 
 悪事につかわれる」

能力のない者とは、政府(役人たちの集団)のことであり、
悪事とは、国民の利益に反することである。

もともと、独立戦争の原因が「紅茶への課税」を、本国のイギリス国王が「勝手にきめた」ことであったから、アメリカ人の心持ちには、「税」にたいする「抵抗」がある。

もちろん、「悪事」の「悪」には、キリスト教の「道徳」が基盤になっている。

教科書でならったように、イギリスを追われた「ピューリタン(清教徒)」が大西洋をわたってできたのが、アメリカのはじまりだから、アメリカという国は宗教的な国家なのだ。
つけくわえれば、「ピューリタン革命」と「名誉革命」を経ていることもベースにある。

そしてその「ピューリタン」が「清教徒」といわれるのは、「清い」ひとたちだからで、それは「極度に潔癖」で「まじめ」なひとの比喩でもある。

いま国内で話題の「花見」だって、「極度に潔癖」ではなくてもおかしなことだが、「倒閣」が実現しないのは、「受け皿」がない、というもっと酷いことが現実だからである。

むかしは「清濁併せ呑む」のが、おとなの姿だったけど、いまは「濁」だけを無理やり呑まされて、気分どころか「脳」の調子がわるくなってきた。

そこで、全米税制改革協議会の議長が来日して、「減税イベント」が先月23日に東京で開催された。
じっさい「減税」は、「世界潮流」なのであるが、「逆神」ニッポンは、とにかく世界を無視する、あるいは、孤立するようなことばかりをしている。

どういうわけで「財界」も「労働界」も、消費増税に賛成したのか?
「労使協調」はいいけれど、ここまでするものか?
年金財源確保のためという、将来の給付を担保したいのならば、税ではなくて自分で貯めればよいのである。

しかし、日本人はとうとう政府依存の中毒症になって、ギャンブル依存症と同様に、政府の年金が不安だから政府にお金を預けようとしてしまうのである。

これは、競馬で負けたひとが、べつのギャンブルに手を出さず、なぜかまた競馬で勝とうとするのと似ている。
パチンコでもおなじ。なぜか、パチンコの負けはパチンコで取り戻そうとするのだ。

カジノの問題で、ギャンブル依存症対策が最重要だと、これまた擦り込まれたが、とっくに公的年金というギャンブル依存症になっている。
だれがこれを「治療」してくれるのか?

とはいえ、自分で貯めるにしても、わが国の金融機関という金融機関が、保険会社もふくめてまるごと「金融庁」という「能力のない者たち」が支配して、儲からないことばかり、コストが増えることばかりをやらされて、虎の子資産を預けようにも不安でしかたない。

これに、日銀という親方が、あろうことか過去の人類史にない「マイナス金利」というジョーカーをきってきた。
「ルール違反だ」と叫ぶ経済学者は皆無で、むしろ「ジョーカーあり」の「(屁)理論武装」をする。

こんな「悪手」は「二歩」のようなものだから、即刻「負け」になるのに、なんでもありのむちゃくちゃが平然とおこなわれ、これをやらせているのが「政権」という「政治」なのだ。

銀行に預けたところで金利もつかない。
預かった銀行は、貸出先がない。
リスクをとって将来性のある会社に融資したくても、金融庁が「不動産担保をとれ」と命令する。

若いひとがたちあげる「ベンチャー企業」に、差し出す不動産担保などあるはずがない。
それで、「かぼちゃのなんとか」という不動産事業に突っ走ったのが静岡県の銀行で、とった担保を水増しまでしたのだった。

これは、金融庁の犯罪「教唆」ではないのか?
とも、だれもいわない。
「報復」をおそれるからである。

ピューリタンにみるように、イギリスだけでなくヨーロッパでは、かつて酷い政治がおこなわれて、民衆はずいぶん痛めつけられた。
教会でさえ、民衆から収奪する存在だった。
だから、彼らは政府を全面的に信頼しない、信頼してはいけない、ということをしっている。

そうしたことの結晶が、アメリカ合衆国なのである。

わが国だって酷いことはたくさんあったけど、ほとんど全員が、おどろくほど「貧乏だった」から、酷いことの酷さが伝わっていない。
ほんとうは、もっと「一揆」のことをしるべきなのに、ときの支配者にまかせる「楽さ」が優先する。

政府と生活が、もともと分離していても変化がゆるく、貧乏にかわりがないからどうでもよかったのだ。
しかし、「豊かになった」ので、政府と生活が分離したままではすまなくなって、しかも、世の中の変化が速くなっている。

そんなわけで、わが国では、政府によって、いまよりもっと国民が酷い目にあってはじめて「新しい一揆」がおきるのだろう。

香港でのできごとは、未来のわが国の姿なのである。

官営カジノ失敗の予感

どこにつくるのかまだ決まっていないが、「制度」だけは先行している。
1日、カジノで儲けたひとの課税逃れをさけるため、事業者に外国人客にも「源泉徴収」をさせるというニュースがきた。

日本の「官僚」が、かくも劣化してとはおどろきだ。
いまになって競馬などの「官営ギャンブル」と、すりあわせをしたのだろう。

入場に身分証の提示をもとめるのだから、カジノの敷地内は関(イミグレーション)外の「租界」であるとすれば、「免税地域」という「特区」になぜしないのか?しかも、入場料も徴収する。

もっとも近い「マカオ」とどう競合するのかをかんがえないのは、マーケット意識ゼロの「徴税役人」こそである。
わが国でもっとも「優秀」とされる法学部出が、こぞってなるのが「徴税役人」だから、かれらからみたら、一兆円もの大金を外国から投じる者が「バカ」にみえることだろう。

ましてや、そのうち社会問題になること必至の、大負けしたひとからの容赦ない「取り立て」も、人生をたかだか博打で棒に振る「愚か者」の自己責任にしかみえないはずだ。

大学で、じぶんより成績がわるかった同級生たちがなる「弁護士」に、「金利過払い金問題」でビジネスをつくってあげたが、まもなく時間切れになるから、カジノの取り立てというあたらしいビジネスをつくってあげるのは「友情」だけではない「憐愍」だろう。

それでいて、国と立地のある自治体とで、収益の3割を折半して、濡れ手に粟の不労所得をえようという魂胆で、カネの行き先は、国会に報告義務のない「特別会計」になっている。
どんな「豪遊」を目論んでいるのだろうか?

もちろん、カジノ会社の法人税だって、ふつうに徴収することになるのは「事業会社」として当然だ。
これが「二重課税」にならないのは、ヤクザも青くなる「ショバ代」徴収を合法として「着服」するからである。

どの自治体も、住民の「反対」を無視して誘致に走るのは、こんな天からお金が降ってくる「事業」は、かつてなかったからである。
それで、住民がどうなろうが、役所の予算が潤沢なら「ばら撒いてやる」からありがたくおもえ、と幕藩体制でもかんがえなかった発想をしている。

そもそも「経済特区(略して「特区」)」とは、中国の改革開放政策にあたって、ときの最高指導者、鄧小平が推進したものだ。
つまり、国中が「共産体制下」にあってにっちもさっちもいかない、ガチガチの統治制度だらけだから、特別に風穴をあけて、自由経済地域として「指定」したのである。

これはうまいやりかただと、日本でもまねっこしてはじめたのは、日本もおなじ「共産体制下」になっていたからである。
べつのいい方で「官僚社会主義体制」とマイルドにいいかえているのは「文学」センスである。

きっと、政府の「カジノ調査団」は、世界各地のカジノをあるいて、じっさいにいくらすったのかしらないが、大勝ちしなかったもんだから、大勝ちしたひとから「徴税する」と発想できるのだろう。

すると、カジノでのチップ代は領収書がもらえないので、官房機密費があてられたことだろう。
ならば、少額でも勝ったなら国庫に返還すべきだが、そんな細かいことをされたらこんどは「入金」が面倒だから、じぶんの財布にいれたはずでもある。

豪勢な建物や奇抜な運送手段(候補地の横浜では、港にロープウェイをかけるそうである)などを用意して、キラキラなエリアを演出したい。
そのために、はたまた税金を投入するというのは、カジノ投資者からしたら、笑っちゃうほどに脳が溶けているとおもうだろうから、きっとじぶんの脚をつねってこらえているはずである。

国民資産をひろく吸い取るためにやってくるひとたちを、国民資産をつかって歓迎するとは、ほとんど「原始人」である。

そんななか、先月29日(一昨日)、北海道知事が候補地で初の誘致断念を決めたのは、理由はどうあれ「まずまず」であろう。

さいきんはやりの野崎まど作『バビロン』には、神奈川県に第二の首都になる「地域」という意味で、「新域」というエリアがでてくる。
相模原市、八王子市、町田市などの、「神奈川県内」にまっさらな「特区」ができて、そこに日本国内のさらなる「国内」ができたという想定だ。

  

コミック版、さらに、現在放送中のアニメ版がある。
作品自体「有害小説」という分野になるとの評価があるのは、子どもには刺激が強すぎるし、大人にもあわないひとがいるからだろう。
ましてや、どうやら「3巻」で完結しないらしい。

ちなみに、八王子市、町田市をふくむ「三多摩(北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡)」は、1893(明治26)年3月31日まで「神奈川県」だった。

注目の一点は「新域」という発想である。
従来からの規制のなにもかもを取り除いてしまう。
選挙制度も、選挙権、被選挙権ともに「規制」がないから、小学生だって投票も立候補もできる。
乳幼児がいれば、親が二票以上を握っていることを「許す」のである。

ほんらい、カジノという「悪所」は、江戸の吉原がそうだったように、大門をくぐれば身分がひらたくなる特別な空間ですらあったのだから、幕府権力も及ばない場所だった。
それは、高度な「自治」があったからであったものを、1957(昭和32)年4月1日の「売春防止法」施行によって、1612年以来の灯が消えた。

約350年もつづいた「吉原」の最後の夜も、だれもが翌日に「廃止」されるとはおもえない盛況だったという。
しかし、翌晩は、全店閉店のあっとおどろく「消沈」だった。
かくも国家権力がおよぶと、「自由」がなくなるのである。

新吉原女子保険組合が編纂した『明るい谷間』(1973年、土曜美術社)は、1952(昭和27)年刊の翻刻で、当時の「遊女」たちによる「文集」である。
その中身の「文学性」の高さには、おどろくばかりである。
永井荷風を代表するように、「客」に「教養」があったからである。

現代のカジノは、開業する前から役人たちが「消沈」させているのは、はたしてなんのためなのか?
当の本人も気づいていないことだろう。

もちろん、「客」に「教養」も必要ない。
ただ、客のカネを吸い取るマシンなのである。

政治が死ぬと、こうなる。

引きこもるおとなたち

年末をむかえて、どちらさまも来年度の町内会・自治会の新メンバーをきめる次期になってきた。
むかしは、町内会・自治会に加入するのは「あたりまえ」だったけど、いまは「任意」という名目が実質になって、歯抜け状態になっている。

各組の班長も、むかしは番地順に総当たりだったけど、高齢化もあって拒否されるから、なんだか早く順番がまわってくるようになった。
それで、班長から組長や役員をえらぶので、地元の「主」がいるなら固定的だが、いまどきの集合住宅だと難儀する。

古い町はとにかくなんでも、「主」が仕切るのがしきたりだ。
これはこれで、新規の住人がいじめられる事例が全国で発生する問題になっている。
わが国がいまだ封建社会であることを、奇しくもあらわす事例だ。

しかし、都会の集合住宅は別物で、「民主主義」ゆえの「面倒」が発生するのである。
法的な根拠がある「住宅管理組合」には、「資産価値の維持・管理」という目的があるけれど、町内会・自治会は「任意」かつ「住民相互扶助」という目的が成り立たない社会になってきている。

しかし、それでも「機能している」という前提にあるのが「自治体」という役所で、下部組織として便利に利用している。
だから、住民の側には役所に「利用されている」という意識がめばえて、よりいっそう町内会・自治会活動が「ムダ」におもえるのである。

すなわち、町内会・自治会の役員などを経験すればするほど、役所の町内会・自治会への支配(わずかな補助金をだす手法)が理解でき、その手先になることに疑問を感じるようになるメカニズムになっている。

ある意味、中学校の生徒会のようなもので、生徒が自主的に決めているようにみえるけど、じつは職員室が指示をだして、生徒たちに活動させているのだ。
快適な役所の空間から、末端の住民からはみえない、連合会組織などの上部組織をつうじて命じているので、よくにている。

そうかんがえると、わが国の役人たちによる住民支配の構造が学べるという意味で、町内会・自治会の役員を経験するのは役に立つことがある。

町内会・自治会の会合に地元政治家は入れないから、末端においても「政治」は住民から切り離されて、「行政」が住民と「寄り添っている」のである。
これは、ほんらい、逆ではないのか?

投資家として有名な「ジム・ロジャーズの日本衰退論」については、先月も書いた。
これを裏づける、たいへん身近なケースを体験したから書いておく。

町内会・自治会の班長をきめるにあたって、いったん承諾した二人の子持ちのお父さんが、名簿署名を拒絶して家にひきこもってしまったのだ。
チャイムを押そうがノックしようが、でてこない。
仕方がないので、一軒とばして80代でも元気な一人暮らしのお年寄りに頼んだら、あっさり引き受けてくれた。

別の班では、60代の夫婦ふたり世帯が「順番」になるのだが、とうとう県や市の広報紙から回覧板もいらないので、ぜったいに引き受けないと拒絶した。
そこまでして「強制」するのは「任意」にならないから、やっぱり一軒とばして80代があっさり引き受けてくれた。

「順番」だから一年早まるだけだ、という80代。
逆に、来年になったら生きているのもわからない、とも。

断ったひとたちの面倒くさいという気持もわかるが、自分か断ったらだれに順番がまわるのか知らないはずもない。
だから、「かんがえない」ことにしているにちがいない。

不便だったむかしは、隣近所と生きていたけど、便利になったいまは、じぶんたちの世界で生きていける。
たしかに、わが家だって全世帯にくばられる、県や市の広報紙をいつからか読んだことがなく、そのまま「古紙用」の袋に一直線だが、それで「こまった」ことがない。

その意味で、県や市という「自治体」と、住民生活が「分離」している。
もっと「分離」している地元政治家は、ひっつける「糊」として、税金をばらまくことに専念するしかなくなった。

台湾の李登輝(岩里政男)元総統のいう「公」の概念が失われ、「私」しかなくなったのが、戦後の「日本」だから、この意味でも戦前・戦中と戦後は別の国になっている。

いまや「公」の概念は、ロングテール状態で、なんとか「完全消滅」を免れているが、それは「極小化」の「微分状態」だともいえる。

子どもを前にして、「公」を棄て、自室に引きこもれる精神状態は、むかしだったら「異常」とされただろう。
しかし、そんなことはおかまいなしで、「引きこもったほうが勝ち」になるのである。

こんなおとなたちをみながら育つ子どもが、おとなになったらなにをしでかすのか?
わざわざジム・ロジャーズにいわれるまでもないことだ。

残念だが、そういう国になっている。

歴史がうごく師走

令和元年の師走である。
そして、来年はオリンピック・イヤーということになっている。
高度成長下の前回と、衰退期の今回は、グラフにすると「正規分布図」のような「山型」の裾になっている。

富士山でいえば、本当の火口ともいえる「宝永山」にあたるのが、田中角栄内閣の絶頂で、それから頂点のバブル経済によって上り詰めたら、砂走のごとく落ち込んでいまにいたる。

東京オリンピックや、大阪万博をやると、あたかも日本経済がふたたび繁栄するのだ、というかんがえは、「因果」をさかさまに捉えた、勘違いをこえるバカバカしさがある。
原因と結果という順番を逆にするからである。

その発想の由来は、ケインズ理論による「有効需要の創出」だろう。
社会に「需要がない」のなら、政府がなんでもいいから「需要をつくれば」、景気はよくなるという「あれ」である。
このかんがえを採用して、世界大恐慌の大嵐を乗り切ったのが、ヒトラーのアウトバーン建設に代表される巨大公共事業であった。

第一次大戦の敗戦による賠償金で、ドイツは経済破綻寸前だった。
そこに、巨額な公共投資をしたら、たちまち財政破綻して、ドイツはヨーロッパ最貧国になるとおもわれた。

ところがどっこい、失業者たちに仕事と賃金がいきわたって、たちまち経済復興してしまった。
これが、国民が熱狂したナチス支持の経済的側面である。

スターリンのソ連での「五ヵ年計画」の「大成功(という嘘)」と、ヒトラーのドイツの「大成功(という本当)」とで、ほんとうはどちらも政府主導の「社会主義」なのだが、日本の軍・官エリートたちは、「これしかない」と思いこんだのである。

戦争に負けて、軍のエリートは一掃されたが、官のエリートは無傷だったから、わが国はアメリカの指導のもと、官も解体されるはずが「なぜか?」されないで、そのまま「社会主義体制」がつづいた。

一昨日の11月29日に亡くなった、大勲位の中曽根康弘氏は、その一掃された軍のエリートのひとりだ。つまり、本当は「社会主義者」で、もっといえば共産主義に近かったが、それでは選挙に勝てないから、「右をよそおう」ことにした「芸人」である。

ところがあいにく、悲願の「内閣総理大臣」になる前の、いまはない「行政管理庁長官」で、あろうことか「自由主義政策」である、国鉄や電電公社、専売公社などの「民営化」をするはめになった。
世界を、サッチャーとレーガンによる「新自由主義」を基本にる「自由主義革命」=「反共産革命」が、席巻していたからである。

成り行き上、レーガンと盟友関係になったのだけれど、果たして本気だったのか?「芸人」は素顔をなかなか明かさないが、たまにポロリと変なことを言った。
靖国参拝で「私人として」とわざわざ言って、閣僚の「公式参拝」が以来一度もできなくなったりしたから、高等な「芸当」をみせてくれた。

さて、ケインズ理論が対応できる「条件」がある。
それは、利子率(名目金利)が一定以下になると、「流動性の罠」にはまって「金融政策が効かなくなる」ことだ。
ヒックスは「2%以下」と言っている。

そんなわけで、わが国はとっくに「流動性の罠」にはまっていながら、アベノミクスは効くはずのない「金融政策」に依存して、さらにオリンピックと大阪万博をやるという。
「アホノミクス」と呼ばれるゆえんだ。

政府がかならず関与するケインズ理論は、広義の社会主義である、と批判したのはハイエクで、そのハイエクの「自由主義」が、ただいま現在の世界の主流であるけれど、これを「徹底的にきらう」のが、日本政府で、洗脳された日本人一般だ。

歴史がうごくとき、時代を象徴したひとが世を去るのは、譲位があったからなにも「天皇」だけではない。
戦後昭和の大歌手、美空ひばりが平成元年(昭和64年)になくなったのも因果をかんじる。

さてそれで、100歳をこえた中曽根康弘氏の死去は、昭和の前後と平成をみつめたひとの人生だった。

今月は、わが国にとってとんでもなく重要な期限が、大晦日に設定されている。
・北がいう米朝協議の期限
・在韓米軍経費負担の大幅増について韓国側の回答期限
である。

北・南とも、半島の情勢を左右する。
わが国の存続にとってきわめて重要な、太平洋戦争以来、朝鮮戦争後つづいた従来の「地図」がかわる可能性がある。

これはまさに、中曽根氏が持つ従来の常識の「廃棄」がひつようになっているという意味でもあるから、彼は彼とともに「かんがえ方」も一緒に葬られることになったのだともいえるだろう。

そんななか、花見の善し悪しをグダグダ議論しているわが国は「亡国」ということを忘れたようだ。
ずっとむかしからあるからと、未来永劫、ひとつの国家が、自動的に継続するようなことは、人類史にない。

アメリカがかつて許さなかった「日本の自主防衛」を、トランプ政権は「やれ」といっている、戦後初の政権である。
はたして、この一大チャンスを、わが国は活かせそうにないことが大問題なのだ。

この「存亡」を意識して、国民が意思表明する台湾の総統選挙も、新年の1月にあるのに、日本のマスコミは詳細を伝えない「自由」を、例によって発揮している。

オリンピック・イヤーが吹っ飛ぶような、不穏さが新年早々にやってくることが決まっている。

官僚が辞めている

大型台風の前日に、国会質問を出した、出していない、という言い訳合戦になったのは、SNSで中央官庁の「国会班」のだれかが「遅い」とか「帰れない」とつぶやいたことではじまった。

「国会班」とは、全省庁にあって、衆参両院からの「質問」に対して、「政府答弁」を書き上げる部隊のことをいう。
国会会期中は自動的に役所に詰めることが「必要」になるので、24時間体制の過酷な職場である。

企業でいえば国会は、株主総会のようなものだけど、むかしは数十分でおわった株主総会も、いまなら数時間から半日、ながくても一日でおわる。
ところが、国会はだんぜん長いので、総務部の「想定問答づくり」のたいへんさの数百倍のたいへんさが国会班にやってくるのである。

どうしてこういうことになっているのか?といえば、「行政府」に実権がある国だからである。
大正デモクラシー以来、わが国政党政治の「欠陥」は、政党内にシンクタンクが「ない」ために、行政府の官僚が、「政策の企画立案」をしているので、政権与党にいても官僚頼みになるしかない。

かつての「みんなの党」が、珍しかったのは、政党が外部シンクタンクに政策立案を依頼したことにある。
オーナー党首だった渡辺喜美議員みずからが、このことを自慢している。

つまり、既存政党は、外部シンクタンクにさえ政策立案を依頼しない、ということである。
もちろん、政権与党は上述のように、それを官僚組織に依存しているから、全国津々浦々、すべての「自治体」も役人が企画立案をしているのは、政党の中央にないものが地方組織にあるわけがないからである。

高級官僚になることの「魅力」は、この「政策の企画・立案」が任されるからである。
その資格を得るには、いちばんむずかしい公務員試験に合格することで、そのために、いちばんむずかしい官立の大学の法学部に入学することであった。

つまり、受験戦争の元凶のひとつに、高級官僚になる、ための方法として「てっぱん」が存在する。
子どものころから、勉強一筋がんばって、ひとたび高級官僚に採用されれば、ろくな仕事をしなくても、入省後のお気軽な人生が約束されたも同然だからだ。

しかし、そんなひとばかりでなく、ちゃんとした「こころざし」ある若者だっている。
けれども、その純粋な「こころざし」とは、天下国家はじぶんが動かすということだ。

民主主義が定着しているならば、「議員」をめざすのが「筋」というものだが、「議員」はお飾りにすぎないと、若い時期に確信するのが優秀さの証明だから、学校を出てもだれも「議員」を目指さない。
そのかわり、中央の役人として課長ぐらいの肩書きで、次官、局長ににらみをきかす「議員」になるのだ。

これは、一種の「下剋上」である。
しかし、次官、局長の「老獪」さは、かつての部下を「先生」と呼びながら、自省の省益に役立つように「仕込む」のである。
それは、出身省庁からの「情報統制」で可能になる。

どんなにこころざしがあっても、数年もすれば出身省庁の実態からかけ離れるので、むかしの「つて」をたどって情報をいち早く得て、党内議論でのイニシアチブをとりたい。
さすれば、一目置かれ、党内序列があがる。

これこそが、こころざしを達成するための近道だと思い込まされるから、情報統制されるとじぶんの価値がなくなるほどに思えるのは人間の心理である。
こうして、下剋上のはずが、省庁の手先になる仕組みがある。

徳川幕府を倒した明治政府とは、あたらしい幕府だった。
「幕閣」とは、三権を握るひとたちのことで、将軍だって大奥にこもっても、政治がちゃんと動いたのは「歴史」がおしえてくれる。

これができたのは、「鎖国」をしていたから、幕府は国内だけみていればよかったが、「黒船」で外国との交渉を余儀なくされたら、たちまち体制が揺らいだのは、「トップ」はだれだ、「トップ」に会わせろと外国側から「強要」されて、はたと気づいたのである。

「将軍」と「天皇」のどちらが「トップ」なのか?と。

そんなわけで、明治政府とは、外国人にトップは「天皇」だということを基準に、政府自体は「幕府」とおなじ、幕閣ならぬ「維新の功労者」という「仲間うちだけ」で三権を握ったのである。

この体制を崩さないように、慎重に書き上げたのが「明治憲法」である。
この「憲法」のコンセプトは、さらにあたらしい幕府をつくらせない、という決心に基づくので、天皇以外の中心がなく、ぜんぶバラバラの体制なら「安全」とした。

総理大臣にだって、閣僚任命権も罷免権もない、あんまりバラバラで「決まらない」から、戦争遂行にじぶんでたくさん役職兼務した東條は、戦後に「独裁者」だと批難されるが、東條の本音は独裁者なんて「不可能」な設計が明治憲法にされていたといいたかっただろう。

日本国憲法は、明治憲法とは別物になったが、無条件降伏した「日本軍」とはちがって、条件降伏した「日本政府」の官僚機構は「無傷」だったから、そのまま三権支配を維持していまにいたるのである。

昨日、香港人権民主主義法がアメリカで成立し、フランス、イタリアやイギリス、ドイツにカナダ、オーストラリアでも同様の法律ができそうなのに、わが国で「議論すら」されないのは、「人権民主主義法」を管轄する「役所がない」から、企画も立案もされないのである。政治はとっくに死んでいる。

そんなわけで、あたらしい鎖国をしているわが国だから、政府官僚という幕閣の完璧支配が、野党の言い分まで奪うから、国会質問といってもなにを質問すべきかがわからないので、さまざまな「イチャモン」の波状攻撃しかできない。その「イチャモン」への「答弁書」を夜を徹して書かねばならないバカバカしさが永久に続くのがこの「体制」なのだ。

これに「嫌気」がさした、優秀な官僚が辞めている。
優秀な人材が、役所からいなくなることを「危機的」というひとがいるけれど、民間にやってくるのはいいことだ。
それに、民間活動のじゃましかしない「政府」が弱体化するのは、ぜんぜんわるいことではない。

官僚を民間へ「追い込み猟」をする野党は、「この一点」だけだが、国民のためになっている。

めでたしめでたし。