嘆息の東京大空襲から79年

1945年3月10日未明、約10万人が焼き殺された「東京大空襲」が実行された。

あまりにも酷いから、各地の空襲が霞むようになっているけど、横浜だっていちおう「横浜大空襲」(同年5月29日昼間)があって、1万人ほどが殺されている。

アメリカ人の研究を、「最先端テクノロジー」というなら、戦争における「費用対効果」を研究することも「最先端テクノロジー」に含まれる。

しかし、もっと上位概念にあたる、「倫理」や「道徳」についての議論は、ここにはないことにも注意しないといけない。

戦後の日本国と日本人は、そんな「科学技術(テクノロジー)」と「物量」に負けた、と認識して、せめて「科学技術」では負けないと頑張る人種と、優秀ゆえに「特攻志願」したり、将校やらに率先してなってかえって心が折れた人種と、ただ緊張からの解放に弛みまくった人種という、ざっと3種類に分類できる。

それだから、「特攻崩れ」とかがアウトローになって、「愚連隊」に変容し、さらに裏社会の「本業」にもなったのである。

きれい事の表面しか国民にみせないために、「科学技術」に向かった人種と、ただ緊張からの解放に弛みまくった人種しか扱わないのが、「戦後」のなかでも現在になったのは、戦争の当事者世代が、ほぼ消滅したからできることである。

たとえば、『プロジェクトX』とか、朝の『連続テレビ小説』とかが、その典型になっていて、まだまだ復員した多数がいた時代では、こんな甘ちゃんに反発を喰らうだろうから。たとえば、『兵隊やくざ』とかで、陸軍内の風刺をやって弛んだ一般(元兵卒)に「ウケた」のである。

しかしながら、「海軍」は、シラッと戦争責任から逃れ、東京裁判でも海軍人はひとりも起訴すらされなかったし、天下の愚将、山本五十六を、「大提督」としていまだに宣伝している。

なので、陸上自衛隊は、旧陸軍の制度を一新したが、海上自衛隊は、旧海軍をしっかり継承していて、それは「起床ラッパ」からしておなじなのである。

とうとうお子ちゃま好きのローマ法王が、しびれを切らして、ウクライナに敗戦を認めよ、といったのは、すでにウクライナの兵卒が、40万人も殺されてしまったのを、宗教人として見ていられない、ということなのだろう。

この点で、わが国の宗教人はまったくの情弱か、偽物である。

しかし、ゼレンスキー氏もユダヤ人(ユダヤ教徒のことを「ユダヤ人」という)なので、どこまでローマ法王の言葉を信じるかはしらないし、もっと兵を!という強制化法案すら審議中なのである。

さてそれで、当時のアメリカの最先端テクノロジーは、日本家屋が木と紙でできている、ことで「焼夷弾」を発明する。

これはベトナム戦争では、「ナパーム弾」に進化するが、東京大空襲などで使用されたのは、「M69焼夷弾」という型名がある、「クラスター爆弾」である。

1個の大きさは、直径7.6㎝、長さ51㎝、重量は2.7㎏という小型だが、中身は粘度のあるゲル化したガソリンで、付着すると拭ってもその粘度(ベタベタ)のために簡単には取れないようにできているから、命は助かっても酷い火傷を負うのはこのためだ。

東京大空襲だけで、327,000発が使われているけど、彼らの作戦は、爆撃対象地域の外周にばらまいて、その内側の面積ぜんぶを焼き尽くす、というものである。

なお、1機のB29には40発の爆弾中にクラスターとして、1520発が搭載されていた。

そんなわけで、はなから皆殺しを目論むものだから、りっぱな「ジェノサイド」をやったのは、アメリカ軍の方であったけど、人間社会は一度もアメリカに罪を負わせておらず、一言の謝罪もないのは、原爆とおなじなのである。

これがいま、ジョージア州で起きた看護学生が不法移民に殺された事件に関して、バイデンが一般教書演説でいった「イ・リーガル」についての非難が左翼界隈で起きていて、あのペロシ婆さんは、被害者家族への見舞いの言葉がないことに一切触れず、「アン・ドキュメンツ」と言うべきだったとほざいている。

それでバイデンは9日、MSNBCのインタビューで「イ・リーガル」といった失言だけを詫び、やっぱり被害者家族への見舞いの言葉はなく、むしろ、犯人に詫びたことが問題になっている。

この程度なのである。

日本人が、アメリカ民主党にジェノサイドされたのは、ウクライナのように仕掛けられて乗せられたことが原因なのだ。

そうかんがえると、失敗の責任をとらされた?ヴィクトリア・ヌーランドとは、アメリカ民主党的には、みごとな「保守派官僚」だともいえる。

わが国政権与党や野党のいまは、そんなアメリカ民主党の子会社になって、10日、わけがわからぬ「慰霊祭」をやっているのだった。

せめて、アメリカ大使を招待するくらいの気概が欲しいが、きっと外務省が邪魔をするにちがいない。
だが、国民にアメリカ大使を招待したが断られた、という情報が必要なのである。

殺されたひとの人権は限りなくゼロで、殺したひとの人権は限りなく尊重する。
これが、全体主義・左翼が行き着く、常識であり道徳なのである。

そこにあるのは、支配側は安全地帯にいて、下々はどうなっても構わないという、強烈な選民意識と差別主義があるので、これをダブルスタンダードで隠すのが「差別反対運動」なのだった。

最後に、昨日、わが家の近所の横浜市立小学校に、半旗がかかっていた。

「3.11」ということなのだろうが、10日はなにもなく、ましてやこれまで5月29日に横浜市内で半旗をみたことがない。

半旗が哀悼の意を表する国際儀礼のひとつだと小学生に教育するのは結構だが、歴史感覚が狂っていてなんだかなぁなのである。
自然災害だと半旗を掲げるが、人災ましてやジェノサイドだと掲げない、というのは教育なのか?

はたして、校長の独断なのかも不明だが、これが横浜市教育委員会の指示であるなら、酷い話なのである。

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