教育委員のリコール選挙

なんでも選挙をすることが「いいこと」なのか、「悪いこと」なのか、あんがいと難しい問題である。

たとえば、身近な「行政」の、市町村でかんがえると、役所の「下請け機関」になっているのが、町内会や自治会である。
この組織の執行部をどうやって決めるのか?といえば、形式的には立候補制である。

しかし、たいがい「やり手」がいないので、むかしの「隣組」の流れからなる、10軒単位ほどの「班」から順繰りに「班長」になったひとたちが集まって、「役員」を形成することになっている。
それで、「くじ引き」をして役職を決めることもある。

ところが、「高齢化」で、10年に1回のはずの「班長」のなり手が、「若手」になって3~4年で順番がきている。
「80歳を超えたから、勘弁してくれ」といわれたら、「そうですね」になってしまって、50代からがしぶしぶなるのである。

一方で、「なりたがる」という現象もあって、特定の「政党支持者」だったり、「宗派」のひとだったりするのだ。
それで、町内会や自治会で「宣伝」や「布教」をやって、おおいに迷惑がられることもある。

けれども、「なり手」がいないから、面倒でも我慢する、というストレスが発生するのである。

コロナ前に、別の町内のひとたちとの定期的な懇親会があって、そこでの雑談で「市議会が機能していない」という問題について話題になったことがある。

横浜市は、人口がざっと370万人で、行政区は18区、市議会は87人の議員からなる。
小学生のとき「分区」があって、10区から14区になったけど、さらに分区されたのは、「田舎」の人口が激増したからである。

わたしが生まれた昭和36年の人口は、130万人強で、14区になった昭和44年は、210万人強となっていた。
なお、市中心部の人口減少(まん中が空洞の「ドーナツ化」と呼んだ)は、30年代の終わりからすでにはじまっていた。

人口と議員数については、むかし朝日新聞が人口当たりの議員数を「機械的」に全国一律基準で増やすのが「民主主義だ」と主張していた記事を覚えている。

朝日の主張だから「逆神」なので、そんなはずはない、が正解にちがいない。
それに、地方議会は全国一律「一院制」ということが固定化されて、それが、「常識」になってもいる。

そんなわけで、「各区内の町内会や自治会」の会長を、議員としたらどうか?と言ったのは、「上院議員」というイメージだったけど、だれからも賛同されなかった。
そんなことをしたら、「その筋」のひとたちがこぞって「会長」になってしまう「危険」がある、というのである。

さらに、町内会の「規約」を変えて、「終身制」にされたらどうする?と心配するのだけれども、どうやって規約を改定するのかの手続きも変えないとできない。
むしろ、「危険」だから、緊張感があっていい、と言ったら、そんな「生活」は嫌だ、という。

でも、現状の「下請け機関」の困った実態はどうやったら改善できるのか?
既存の地元議員たちは、こんな懇親会にかならず顔を出すけれど、確かに「まとも」な見識を聞いたことがなく、むしろ役人の原案に「賛成する」のが、「議員たる者の常識」らしい。

だから、「どっちもどっち」なのである。

そんなわけで、わたしは「呆れた」けど、みなさんから「呆れられた」ので、雑談はこれでやめて後は諸氏のお話を聞いているふりをしていた。
「下請け」が嫌なのは、楽して暮らしたいのにそれができないから、という一点での「ぼやき」に過ぎない与太話だったのである。

さて、民主党のアメリカがわが国に導入した「教育委員制度」というのも、かんがえてみれば日本人はみごとに「換骨奪胎」して、教育委員会という行政組織はあるけど、とうとう「教育委員長」をなくして、役人がなる事務局長たる「教育長」がトップになった。

市民から選ばれるだけでも面倒なのに、なりたくもない「長」にされたりしたら、楽な生活ができないので、お役人様に任せるという、江戸時代の伝統がいまに生きる。
これはこれで、「合理的」であったのは、こないだまでの世代には厳しい「職業倫理」があったからである。

そんななか、民主党の牙城のひとつ、カリフォルニア州で、鉄壁を誇る民主党支配のサンフランシスコ市教育委員7人のうち、「長」を含む3人が、7割以上が「賛成」という圧倒的多数で「リコール」された。

なお、残りの4人がリコールされなかったのは、就任後の期間が短く、リコール対象にすることができない事情だけだという。
ならばどんな「新人」が選ばれるのかも、今後の興味になるのである。

なんでも「公職」なら、選挙をするのがアメリカの仕組みなので、住民は「楽ができない」という面倒を「ふつう」にしている。
こんな仕組みにしたのは、「民度の低さ」からであるけれど、水の流れのごとく、「高いところから低いところへ」と、わが国もなってしまっている。

前にも書いた、バージニア州知事選のように、「教育問題」がいまのアメリカのキーワードになっているのは、民主党の極左が推進する「批判的人種理論」への市民の反発という「常識」に、振り子が大きく振れているからだ。

これを、「目覚め」というならば、残念ながらわが国の方は、「深い眠り」という「安穏」にずっと浸っていたいという願望が優っている。
もしや、「意識不明」なのかもしれないけれど。

アメリカ人が優れているのではなくて、わが国民が「やばい」のである。

大分県臼杵市議の孤独な戦い

市議会における、「マスク着用の申し合わせ」はあったけど、一人で反発して、「鼻だし」から「マスク未着用」という段階的「抗議」をしている議員がいる。

「鼻だし」状態のときでも、議会本会議はもとより委員会でも、発言を議長及び委員長に拒否されて、とうとう昨年に市を相手取って民事提訴に至った。

地元テレビ局やその他でも、この「ニュース」を扱っていて、ネットでは「辞任せよ」とのコメントが圧倒的多数に見える。

「ニュース」としての扱いは、慎重かつ巧妙に、いわゆる「提訴されない防御」をしながら、視聴者には「憎悪」を促す、まさにジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年)にある「真理省」の役割を果たしている。

この意味で、わが国が「まとも」な民主国家を次世代にも伝える、という「保守思想」があれば、全入となって授業料も無料化しようという事実上の「義務教育」状態になった高等学校における、「公民、現代社会、倫理、政治・経済」のどれか、あるいは、「現代国語」で、『1984年』は必修の課題図書に指定しないといけない。

つまり、『1984年』を知らない日本国民は「いない」という状態にすることが明るい未来をつくるのである。

なお、近年では、生徒に日和って「選択科目」になってしまっている「理系」のうち、せめて「生物」ならば、副読本として、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界:Brave New World』(1932年)を課題図書にするとなおよい。

   

とはいえ、残念ながら『Brave New World』のドラマ作品は、シーズン1で打ち切られたので、続きは原作を「読む」しかない。
また、ドラマ作品のビデオは英語版であるから、日本語で視聴するなら「配信」しているのを観るしかないことになっている。

ついでに、この作品で重要な道具立てになっている、精神安定飲料「ソーマ」については、わが国戦後近代文学の金字塔と三島由紀夫が評した、『家畜人ヤプー』にも「おなじもの」が登場する。
ながく「絶版」となっていた、巨匠、石ノ森章太郎による「劇画版」も2010年に復刻(全4巻)されている。

ただし、この作品自体が「成人向け」なので、まだ高校生には刺戟が強すぎるし、その「エログロ」具合は、ノーマルな成人にもかなりのものであるから、目にするには覚悟がいる。

『1984年』や『すばらしい新世界』とは、わが国が国として、ぜんぜん民主主義国家を目指していないし、マスコミがいう「民主主義」とは、共産党の「民主集中制」の「民主」を言っているにすぎないことに気づくための「教科書」なのである。

『1984年』での、「ダブルスタンダード」に基づく、「ニュースピーク」という、国民の論理的な思考を封じる「語法」の解説なのだ。

また、『すばらしい新世界』での、家族の解体が遺伝子操作によるところまで進行するという話は、かつての「優生主義」の究極で、次世代の「母」になる女子生徒には必須の事前知識を与えるから、「家庭科」における副読本にするのもよい。

すると、「フェミ」がいうことの本質が、じつは「女性の敵」だという逆転になっていることにも気づくであろう。
ここを、「突いて」からかっているのが、前に書いたネットで人気の「ちくわ【あるある】」の瞬間芸なのである。

よって、これらの図書や映画は、わが国の「主流をなすひとたち」から推奨されるわけもなく、むしろ、これらを「知らない」国民にすることに、「使命感」すらあるはずである。

個人的経験だが、とある現役東大生(政治学専攻)が、4年生になっても、上記作品の存在すら「知らなかった」のに驚いたことがある。
しばらくしてから、メールで「読破して驚いた」という「お礼」のメッセージをもらった。

まじめな学生ゆえの反応なので、かえって本当に東大の政治学専攻課程で、ジョージ・オーウェルもオルダス・ハクスリーも、さらにいえば、ディストピア小説の「はじめ」にあたる、トマス・モア『ユートピア』も教えていないのかと疑った。

いや、東大生は、教師がいうまでもなく「読んでいるはず」という「前提」があるにちがいない。
しかしそれは、極めて「不親切」であって、やっぱり「知らない」ままの「エリート」を量産したいのではないかと確信するのである。

そんなわけで、大分県臼杵市の若林純一市議は、「知っている」側の「小数派」だから、想像以上の「孤独な戦い」をしているにちがいない。

札幌市議会での「議長選出」を巡る「ピエロ」がいたけれど、若林市議の場合は、はるかに政治哲学的本質を衝いている。

人間を支配するのは「恐怖」である。
これに気づいて実行したのが、ヒトラー、スターリン、毛沢東、それにカンボジアのクメールルージュだった。

選挙で選ばれた議員たちが集団で、「マスクをしない」というだけでの言論封殺をすることの重大性に気づいていないことの恐怖。
それを支持する、ネットコメントを書き込むひとたちの、全体主義への「無防備」と、それが全体主義であることの無自覚という恐怖。

その「条件」になっている、マスクがウイルス感染を予防するという「科学」の適当な解釈に至った恐怖、あるいは、「エセ科学」を信じる野蛮の恐怖。

もちろん、日本が戦争に打って出るように仕向けられた、米英による資源締付けの恐怖だってあるし、バイデン氏が一方的に煽る「戦争への恐怖」は、いまやっていることだ。

これらに通じる「戦い」だということに、気づかない「自覚なき可哀想な奴隷たち」が、若林市議を非難するひとたちなのである。

どんな「判決」がでるのかに、興味が涌くことの意味は、すでにある、「司法」への疑いからのことである。

地方裁判所の裁判官を言うのではない。
最高裁判所で、国民審査の対象にもならない、「事務総局」がやっている全国裁判所の裁判官「人事」における、統制の恐怖なのである。

事務と組織が互いに「進化」して、これに通信の進化が掛けあわさってできてきたのが、「効率的な統制」であった。
その事務と組織をとりまとめる者の、(役人の)匿名性が、顔出し名さらしの政治家を無力にしてしまう。

若林市議の「まとも」が日本人の「まとも」にならないことが意味するのは、残念ながら「全体主義の完成」なのである。

台湾海峡危機が、どんな恐怖をもって日本人を野蛮にさせるかも、これから起きることである。
国防の必要と野蛮は別なのである。

「こども家庭庁」反対の建白書

17日、自民党の会合で「設置法(案)」が了承されたことで、事実上の「設置」が確定した。
来年、2023年4月に発足するという。

なお、「庁」なのでどの「省」の外局なのかとみたら、納得の「内閣府」だった。
まことに、不気味な役所であるから、不気味な「こども家庭庁」にふさわしい。

「字面」で文句をいうのはムダな議論に思えるかもしれないけれども、あんがいと「意味」がある。
「こども」なのはなぜか?ということがその「性格」を自白しているのである。

「子供」なのか「子ども」なのか「こども」なのか、それとも「小人」?

「こども」と書いて「子供」を避けているのは、「共」の字の意味にあると、かんがえる。
武将が戦闘開始を告げる、「者共かかれ!」の「共」が、差別的用語であるという悪い発想をするひとたちがいるのである。

子供にも「人権」があるから、「共」の字を「使ってはならない」という。

けれども、日本語で「子供」のことを「こども」というから、「子ども」にもしないで、「こども」と表記するように言い出した。
だから、「大人」に対する「小人」を、「こども」というのもいけない、という「ことば狩り」になったのである。

こんな「ものいい」はナンセンスだとして、一笑に付しながら「切り捨てる」ことが、すっかり左翼政党になった自民党にできなくなったのである。

一見、どうでもいいような「表記」ではあるけれど、すでにこの「表記」にたっぷりと「悪意」が込められている。

では、この「庁」の目的はなにか?
検索したら、「自民党のHP」がヒットした。
タイトルは、『子供政策の司令塔創設へ こども家庭庁設置法案の概要について説明受ける』である。

説明を受けたのは、党「こども・若者」輝く未来創造本部の下に設置されている「こども・若者」輝く未来実現会議、という「会議体」である。
それで、説明したのは、「関係省庁」だと記載されている。

肝心の目的については、「子供政策の司令塔となる「こども家庭庁」を内閣府の外局として設置するのが目的」だとあるので、「設置するのが目的」に読めるけど、枕に「個人として等しく健やかに成長することができる社会の実現」とあるから、きっとこのことだろう。

この時点で、すでに「大きなお世話」である。
「個人として等しく健やかに成長すること」が、どうして国の役所の仕事なものか。
障がい者福祉の充実に勤しむ方が、まだまともである。

この会議体のひとたちの関心がどこにあるかは、次の文に書いてある。
「庁の設置に伴い、各省庁への勧告権などを有する内閣府特命担当大臣を設置する方針」だと。

つまり、大臣ポストが増える、ということだ。
それに、「各省庁への勧告権など」ということは、省庁の上に省庁をつくることを意味している。
ならば、なんのための「内閣」なのか?

大臣間のコミュニケーションの「なさ」を告白している。

驚くべき役人主導を、あたかも内閣の「目玉政策」のごときにするのは、「悪意」としか考えられない。

しかして、この記事はここで終わって、詳細は自民党機関誌『自由民主』の「購読」を申し込まないといけないけれど、なんと「有料」なのである。

国民からの税金を源にする、「政党助成金」をしこたまもらっている「公党」が、法案の事実上の「通過」を意味する会議の内容を、広く国民に伝える意思がない、あるいは自らこれを「拒否」しているのである。

おそらく、「党機関紙」を、「売文」して生計を立てている「新聞」と同じだと勘違いしているのだろう。
いや、確信的に「同じ」だと考えているにちがいない。
責任者たる「広報本部長」は、あの河野太郎氏だから、納得できる。

どこまでも、トンチンカンなのだ。

さて、日本人は小学校や中学校で、『アンネの日記』を読むように推奨されて、成績優秀な「いいこ」ほど熱心な読者となるように仕向けられる。
半世紀前の、アニメ『魔法使いサリー』(原作:横山光輝、放送:1966年12月~68年12月、キー放送局:NET)では、登場人物の小学生少女たちが樋口一葉の『たけくらべ』に憧れるのと、大違い、なのである。

1978年、テレビシリーズ『ホロコースト-戦争と家族』は、メリル・ストリープの出世作となった。
日本でこのドラマは、テレビ朝日(旧「NET」)が4日間(1978年10月5日~8日)にわたって放送した。

日本・ドイツ・イタリアの三国同盟が問題にされ続けているのは、ドイツとイタリアの「ファシズム」があるからだ。
なお、「ファシズム」とは、ムッソリーニの「ファシスト党」を語源として、ヒトラーの「ナチズム」とは厳密には分けている。

そこで、学校の授業では「教えない」ことになっているけど、検定済み教科書には、「戦前・戦中の日本はファシズムの時代だった」という記述があって、おとなには「そういうこと」になっている。

日本における「ファシズム」が、中途半端だったのは、もちろん「よかった」ことになるのは、この両国と比べたら「マシだった」という意味ではあるけど、どうして完全一致しなかったのか?は、わが国に「ヨーロッパの歴史を基盤とする共通価値」がなかったからである。

それは、ハンナ・アーレントの大著『全体主義の起源』を読めばわかる。

しかし、戦前・戦中よりもはるかに「欧米化」した、バブル崩壊以降のわが国は、だんだんと「ヨーロッパの歴史を基盤とする共通の価値観」に侵蝕されて、すなわち一方で「日本の歴史を基盤とする共通の価値観」が失われてきたので、よりアーレントの解説が役立つという「困った」になったのである。

その嚆矢ともいえるのが、「条例文に書くことに失敗した」神奈川県における『禁煙条例』の「原案」だった。
この「案」では、「家庭内禁煙」と「罰則」がセットになっていた。
もちろん、起案したのは神奈川県の役人で、専門家に見せて検討させたのは、ときの知事、松沢成文氏だった。

さしもの専門家たちも、個人宅に官憲が訪問し、喫煙をみつけては罰則を科すのは「ファシズム的」だということで、この案はなくなったのだ。

国家権力はどこまで「個人」あるいは、「個人の生活」に介入できて規制できるのか?
誰からも命令されない「自由」とは、水と油なのである。

ましてや、本件で扱う内容は、「臭いものに蓋をする」程度しかできない「行政」の限界は、最初からある。
それを、万能化しようという企ては、ファシズムなのだ。

自民党は、ファシズムかナチズムに傾いている。
恐ろしいことだという認識を国民がしだしたとき、ほぼ「完成」させているから、恐ろしいのである。

子供のためにも、家庭のためにもならないのが、「こども家庭庁」の本質なのである。

カナダがこわれちゃう

カナダといえば「メープルシロップ」が浮かぶけど、その他には?と、たたみ込まれたらしばし「絶句」してしまう。
植村直己がまさかの遭難という「報」があったのは、1984年2月13日のことだ。

その現場、マッキンリー山(現デナリ山)は、米国アラスカ州にあるので、カナダではない。
日本人には、米国本土とカナダ、それにロシアから「購入した」アラスカとの境界がはっきりイメージできないのだ。

中東やアフリカもそうだけど、国境線やらの「境界線」が、まっすぐなのは「人為」の証拠である。
現地にいけば、フェンスすらないこともしばしばだ。
ランドマークもないから、「地図」に直線を書いて「境界」とした。

英仏が「犬猿の仲」なのは、フランスから来た「征服王」にやられたのを発端に、原住民のケルト語とフランス語が交わってできのが「英語」だというから、よほど「根深い」のである。
もっとも、その前にローマがやってきてもいる。

さらにさかのぼれば、「中央アジア」の発祥で、馬と馬車(車輪がある)をともなって移住してきたひとたちを祖先にするのが「ケルト」だから、モンゴルよりもぜんぜん早い。
シーザーが戦った「ガリア」は、別系統のひとだというけれど、どうなっているのか。

ずっと新しいのに車輪がなかった、李氏朝鮮と中央アジアとの関係もどうなっているのか気になるところだけれども、ここでは論じない。

そんなわけで、カナダも「英連邦」で、女王陛下の名代たる「総督」が、いまでも着任している国だ。
いまでは下火になった、「フランス語圏」のケベック州独立運動は、北アイルランド紛争に似て、過激だったのである。

さて14日、トルドー首相は、戦争と国内暴動以外で初めてとなる「緊急事態(戦時特措)法」を発動した。
対象は、どうやら「トラック野郎たちのデモ」である。
しかしながら、彼らも彼らを支援するひとたちも、どこにも「暴動」はしていない。

けが人もなく、むしろ手をつないでダンスを踊っていたりしているのだ。

デモへの支援寄付金を、今様の「クラウドファンディング」で募集したら、すぐさま10億円を超える資金があつまったけど、最初の「プラットフォーム」が「ユーチューブ」や「ツイッター」のように、裏切って、集まった資金は「内規に触れる暴動資金」と勝手に認定した。

それでもって、自分らが支援する団体に資金を振り分けると発表したので、「詐欺だ」と大問題となって、結局は寄付者のもとに「返金」することになったから、経営者の暴走を弁護士が修正させたのだろう。
「送金手数料」も一緒に返したので、運営者は大赤字になるという「天に唾する結果」となったことでわかる。

なお、同社は、猛威を振るった「BLM運動」の資金集めには、いまだになもしない、という「正常運営」をやっていることもばれて、一般人の脳裡に刻まれることにもなって、プラットフォームとしての信用を自ら壊した。

こうなると、二番手がでてくるのがアメリカで、キリスト教系のプラットフォームが手を挙げたら、ふたたび「11億円」を超える資金が集まった。
これに、カナダの裁判所が「違法判決」を出すトンチンカンが、火に油を注ぐことになった。

プラットフォームは、アメリカにあるので、カナダの判決は痛くも痒くもない、というわけである。
ついでに、アメリカ側の「州」も州民が自由意思で寄付したことを根拠に、カナダ側の裁判所に「抗議する」ことにもなったから、「寝た子を起こす」ようなはめにおちたのである。

さて、イケメンで有名な、ジャスティン・トルドー首相は、親子で首相に就任したひとでもある。
父の、ピエール・トルドーが首相在任(1968年~79年)中に生まれた子が、ジャスティンである。

ピエールのときに、ケベック州独立運動にともなう国内暴動に対する「戦時特措法適用」をしたので、親子で「戦争以外」でこの法を適用したことになった。
ちなみに、名前からもわかるとおり、「フランス系」だけど、ケベック独立には反対していた。

親子共に「党首」に就任したその党は、「自由党」とは名乗るけど、ぜんぜん「自由主義ではない」というのがおかしい。
現状の最大野党は、「保守党」であるけども、こちらもあんまり「保守主義」ではないのは、本国のいまのイギリスと同じだ。

じっさいに、10州あるうちの5州は戦時特措法適用に「反対表明」していたというから、連邦政府の強行突破的な話になっている。
この法と、「テロ対策法」がセットで、カナダ政府に反対する者の銀行口座や電子取引の「凍結」も実施予定というから、このような「法整備がない」わが国からしたら、小説や映画のような「恐怖政治」が実現している。

どうやって、「反対者を特定して口座凍結ができるのか?」の方法が、とっくに政府にある、という意味だ。

「法整備」は、あるなしでなく、「法の中身」が重要だという教訓となっている。
国民を縛る意味での憲法改正も、トンチンカンだから気をつけたい。
民主国家の憲法とは、国民から政府への「命令書」なのだ。

たぶん何もしないわが国外務省は、カナダ人に日本をアッピールするチャンスなんだけど。

若きトルドー氏が、党首に選出(2013年)されたとき、記者から「理想の国はどこか?」と質問され、「中国のような独裁国家」と返答している動画が「発掘」されている。
たとえ冗談でも、「やばい」発言であることは間違いないけど、どうやら「まじめ」な回答だった。

カナダも今年は、地方選挙の年にあたっている。
国民の選択は、もうギリギリのところまできている。

ポータブル・無線・スピーカー

旅に出るとき、なにを持っていくのか?
あるいは、なにを家に置いていくのか?

出張ならそれなりの「道具」としてのパソコンとか、周辺機器は必須だろうけど、個人旅行なら、少しは身軽になる。
ただし、「リラックス」したい、という願望を果たすのに、どれほどのこだわりを持つかによって、その荷物も変わるというものだ。

日本が元気で、さかんに「新製品」を輩出していたころの「画期」をなしたのが『ウォークマン』であったことは、いまでは、「伝説的」でもあるけれど、たしかに、「録音機能がない」という「テープ・レコーダー」という概念には驚いた。

だから、SONY「以外」のライバルメーカーからは、録音機能が「ある」製品が続々と出て、それが「差別化」になっていたのである。
「レコーダー」なのだから、「録音機能がない」のは、あり得ないという常識が、しばらくは消費者にもまだあったのだった。

しかし、どちらにしても、「聴く」ための機器は、「有線のヘッドホン」にかわりはなかった。
それで、「インナー型」でも納得できる音質のイヤホンをつくったのも、やっぱり「SONY」だったのである。

ステレオ・コンポーネントの普及から、カセット・デッキも同時に普及して、音源は「LPレコード」であっても、いわゆる「ダビング」して、「カセットテープ」に録音した。

これを、「再生専用機」で聴くわけだから、「ウォークマン」を持っているということは、その辺の「モノ」を十分に所有している、という証でもあった。

また、「カセットテープ」の材質である「磁気体」にえらくこだわった「高級テープ」もたくさんできて、あーだこーだと選択に迷ったのである。

こうした一連が、面倒くさい(当時の)「高齢者」などは、その財力にものをいわせて、最初からプロが録音した製品の、「ミュージックテープ」を買って、これを聴いていた。
どうせ、LPレコードからの自前の録音ならば、必ず針が拾うノイズがあったからである。

その意味で、「おとな買い」ではあったけど、ジャンルとして「演歌」中心であった残念がある。
だから、「CD」が出たときの驚きは格別だった。

いまでは、ダウンロードさえ「古い」状態で、電子ブックならぬ「音楽配信」では、やっぱり「アマゾンミュージック」がダントツの状態になった。

「アップルミュージック」がいまいちなのは、アップル製品(iPhone、iPod、iPad)を聴くときに無線のブルートゥース機器を使うなら「コーデック方式」が、「アンドロイド」の高音質に劣るからである。
なお、ウォークマンを席巻した「iPod」も、先頃「新製品開発中止」のニュースがあって、すでに「時代遅れ」になってしまった。

それにしてもダウンロードが「アメリカ発」となったのは、「著作権」に関わる「既存法」を、あたらしいビジネスに適応させることに成功した、「議会第一主義」の成果なのである。
日・欧(EU)ともに、官僚主導の「行政第一主義」だから、「既存法」を「保守」することが優先されて、新しいビジネスに適応させることができない。

そんなわけで、アメリカで大流行した、「既成事実」という「外圧」がないと、なにも変えないことが、作り手にも消費者にも足かせになっている。
これが、「規制緩和」の重要なファクターだったけど、なんだかよくわからない「議論」になるのが、日・欧の「いまでも」なのである。

だから、「規制領域がない」分野での、「ものづくり」になるのが、わが国の宿命となったので、「SONY」は、超高級「ウォークマン」を出すしかない。

一台30万円というお値段を聞いて、「たまげた」のは、ビジネス・ソリューションで画期を成すのではなく、やっぱり「音質」の高級だったからで、当該機器に適合した「超高級ヘッドホン」もシリーズ化の予定であるという。

今どきは、小中学生も両耳にヘッドホンなりイヤホンをつけて歩いているけど、自転車で事故ったときの加害者になったら、驚く額の賠償を命令される「判例」が常識だから、人生の破壊危機をつくる機器にもなっている。
これをやめさせない、親(さいきんは「保護者」という)は、なにをかんがえているのか?

「音楽が生活の一部」になったのはよしとして、旅先での楽しみにするには、「持参する」ということに留まっている。
蔵を改装して客室にした宿では、最新のスピーカー・システムが完備されていたので、DVDを持参して自宅ではあり得ない大迫力を体験したことがある。

いまどきは、「ミニシアター・システム」を設置して、自宅で「ふつう」を買っているひともいるだろうけど、「宿」がついていけてない。
隣室との「壁」が薄いと迷惑になるから、小出力のポータブル・スピーカーがちょうどいい。

映画が観られるホテルでも、大画面と音響のセットが揃う部屋はめったにないのだ。

これをどうするか?
あるいは、テレビを置かない、モニターだけの「シンプル」で、スピーカーの設置はある、という「経営判断」もあっていい。

なぜなら、高給をとる富裕層ほど、テレビを観ないからである。
とっくのとおに、テレビ・ニュースを観ることのムダを知っている。

フランス大統領選挙のゆくえ

4月10日が一回目投票日の、フランス大統領選挙だけど、あんがいと日本で話題になっていない。
もう、あと2ヶ月を切っている。
なお、一回目で過半数の得票者がないばあいは、24日に上位二名の決選投票となる。

アメリカの軍産複合体が仕掛ける、怪しげな「ウクライナ危機」という「目先」の問題だって、NATOをどうするのか?に直接関係する。
なにしろ、フランス人の「へそ曲がり」は、加盟したり脱退したり、再加盟したりと、忙しいのである。

NATOが設立された1949年に加盟した「原加盟国」で「本部」もパリだったけど、第二次大戦の英雄、ド・ゴール大統領が「アメリカ主導」にへそを曲げて、1966年に「脱退」した。
以来、何回か「復帰」を画策する大統領はいたけれど、2009年、親米だったサルコジ氏のときにやっとこさ「再加盟」していまに至っている。

だから、「もしや再脱退?」はあり得るのだ。

それに、ブレグジットならぬ「フ」レグジットも議論されているのは、軍事分野のNATOに対して、政治・経済分野が「EU」なのだから、当然すぎる。
この点、イギリスは、NATOに留まって、「それとこれ」を分けたけど。

イギリス人の野蛮と、フランス人の異様なストイックさが分けるものなのだろう。

日本人は当事者だから、あんがいと理解できないのだけれども、「フランス人は日本がお好き」なのである。
よくいわれるのが、「ジャポニズム」で、100年以上前の19世紀後半に現れた絵画などでの「日本趣味」がある。

これに、「アニメ」や「コミック」のサブカルが、見事に「ネオ・ジャポニズム」をつくりだしたのは、日本の出版社による「努力」だろう。
フランスには「BD:バンデシネ:bande dessinée」という「漫画」があったのも重要な共通の文化基盤だ。

漫画は子供がみるものでおとなは興味を示さない、を壊したのは、マクドナルド式に、子供へのアプローチに成功して、一生の「顧客」に変えたのだった。
そうやって、日本以外でフランスが世界一「コミック」を購入する国になった。

人口6700万人の国で、年間4700万冊の販売実績がある。
日本で出版される「単行本」のほとんどが、フランス語訳がついて売られているので、その「マニア」ぶりがわかるというものだ。

それなのに、情報ギャップがいまだにあるのは、伝統的日本とサブカルという「特定ジャンルしか」発信していない、というわが国側の「無作為」があってのことである。
観光庁がやるべきは、「ここだけ」で、あとは「やってはならない」と決めるべきだ。

つまり、現代フランス人も、自己中というフランスの伝統において、日本を勝手に解釈して、自己満足しているのである。

ネットでは、「ボンソワールTV」をやっている、驚くほど上手な日本語を話すフランス人女性が、「日本大好き」目線から、日本向けに情報発信しているのが、たいへん参考になる。(上述コミック情報も)
しかも、彼女を撮影する側にいるのが、日本人の夫なのだから、めったに「大ズレの変なこと」は言わない。

けれども、ちょっとずつの「変」が、この動画の魅力ではある。

たとえば、高校からの日本留学での経験から、日本人女子への憧れを語る回では、「制服」があることの珍しさだけでなく、その「着こなし」のかわいさや、「部活」がないフランスでの学園生活のつまらなさを指摘するばかりか、日本人の「かわいい鼻」や「白い肌」について熱く語っているのだ。

「高くて大きい鼻」は、彼女の美意識では「過剰」で、不細工なのだ。
それに、白人の荒れた肌を疎んで、どうしたら日本人女性のようにきめ細かくて白いきれいな肌になれるのか?ということを、真剣に研究したいという。

そしてそれが、生まれ変わったら絶対に日本人になって生まれたい、とまで高揚するのだ。
コロナがおさまれば、日本に「帰国する」計画があるという。
きっと、細かい点までの「情報ギャップ」を埋めることになるだろう。

そのとき、心境にどんな変化が生じるのか?それとも確信を深めるのか?

彼女の夫が日本人だという生活環境は、きっと「ふつうじゃない」ので、ふつうのフランス人がどこまでの「日本趣味」なのかは、残念ながらわからない。

さて、マスコミがいう「極右」の候補で、5年前の前回に決選まで「善戦」したマリーヌ・ルペン氏とは一線を画す、もうひとりの「極右候補」が、エリック・ゼムール氏だ。

ここで、マスコミが「極右」というときは、「保守派」と解釈するのが妥当だ。
ついでに「左派」といったら、「極左=共産主義者」のことを指す、それぞれが、「用語」になっている。

もちろん、フランスのマスコミも基本的には、「左派」だ。

このゼムール氏は、アルジェリア・ユダヤ系移民の二世であるから、生粋のフランス人ではない。
しかしながら、成績優秀で、パリ政治学院の卒業生だ。
それから新聞記者になって、評論家になったひとである。

ちなみに、旧植民地アルジェリアの支配利権を維持したい側と、ド・ゴールとの話を、サスペンス小説にしてセンセーションを巻きおこしたのが、フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』(映画は1973年)であった。

 

フランスは革命以来、その「政治の混沌」がずっと続いて、もうすっかり「お国柄」にまでになっている。

ついでに、「ここは地の果てアルジェリア」の一節で有名な、懐メロ『カスバの女』(1955年)でいう「カスバ」とは、首都アルジェの「城壁」(アラビア語で「カスル」、英語で「キャッスル」)を指して、壁に囲われた典型的な城壁都市のことである。

日本も同様だけど、「優秀」といわれることの判断を、「入学や卒業した学校名」に求めることに、ほとんど意味がないばかりか、それらの学校出身者ばかりが、官界・政界にいることが、ずっと「混沌」の原因と結果ともいえるのである。

そんな事情は横にして、ゼムール氏は選挙演説で、フランスが見習うべきは「日本」だと明言しているのである。
移民を受け入れない、失業率の低さ、貿易黒字、わずかばかりのインフレ。
これに支持者たちが、「熱狂的声援」を送っているのだ。

日本人には、エスプリが効きすぎた「褒め殺し」にも聞こえるけれど、相対的に「まだまし」というのも事実なのだろう。

現実路線を採用して、過激さが薄くなったと却って支持者の不満を得ているものの、相変わらず人気のルペン氏とゼムール氏の支持をあわせると、半数に迫るので、左派で独裁色を出した若き現職にとっては「楽勝」の選挙ではない。

まずは、日本に生まれてよかった。
いや、「おフランス」に生まれないでよかった?

来年のバレンタインデー

キリスト教が世界的に、世にも珍しいほどに、「普及しない」わが国のひとたちが、「無宗教」だという「デマ」が「思い込み」になって久しい。

たとえば、映画『ミッション』(1986年)は、日本でも上映されたけど、いまいちピンとこないのは、作品中で改宗した「原住民」以下が日本人だからかもしれない。

悪名高きイエズス会を美化したのは承知でも、同年のカンヌ映画祭でグランプリを獲ったし、音楽も現代の巨匠、エンニオ・モリコーネだったから、「感動」はあったのに。

 

それでもって、とうとう「猿」にされたけど、これを、「よろこんで観る」のも、また日本人なのであった。
第一作は1968年。

それからシリーズ化されても、ぜんぜん日本人に「自覚」がないので、しびれを切らすことにもなって、2001年に最新作がつくられた。
どう観ても、豊臣秀吉とその軍団になっている。
でも、やっぱり日本人は、決して「不快」にならなかったのだった。

暖簾に腕押し,糠にくぎ、馬耳東風、はたまた、豚に真珠か。
それともやっぱり、「和を以て貴しとなす」なのかもしれない。
この意味で、妙に、キリスト教的「慈愛の精神」がある。

 

過ぎたれば、で失敗したのが、先の戦争、ということになっていて、いまでは、なにが「過ぎたれば」だったのかさえもわからなくなっている。

1955年、インドネシアのバンドンで開催されたから、「バンドン会議」というけれど、反帝国主義、反植民地主義を唱えたアジア・アフリカの29か国が集合して、なぜか日本も招待された。
恐る恐る会場にいけば、「満場の拍手」で迎えられたという「伝説」がある。

戦闘で負けたけど、戦争では負けなかったのだ。

こんなことを、記憶喪失したので、ちゃんと「供述不能」になる、という「症状」が現れて、今日に至っている。
それで、こんどは、正反対の「過ぎたれば」をやりだして、近隣諸国からはバカにされ、「親日だった」台湾までもが呆れて相手にしてくれない。

そんなこんなで、今を生きることにした。

これを、「現世利益」というので、これを標榜する宗教団体との親和性ができたのである。
とにかく、「いま」がよければそれでいい。
だからもう、孫や子の時代がどうなるかも気にしないし、子がいないから責任を感じることもない。

むしろ政府は、楽な生活を保障すべきだと思いこむようになったのである。

さてそれで、バレンタインデーの発祥は、神戸の製菓店「モロゾフ」が、居留外国人向けに「チョコレート」を贈ることを提案した、とある。
1936年(昭和11年)のことであった。

モロゾフ一家の悲劇は、自身の名前をつけた会社が、事実上「乗っ取られる」という運命が待っていることで、相手は「清廉潔白」のはずの日本人である。

なお、初代モロゾフ氏は、「白系ロシア人」であったから、いまでいう「ベラルーシ」の出身である、ということではなくて、「赤軍」の「赤」ではない、という意味だから注意がいる。

つまり、反革命の「亡命ロシア人」だった。

ときに、二年前の昭和9年は、天保以来といわれる「飢饉」となって、東北地方における「惨状」は、筆舌に尽くしがたいものだった。
米価が復活したのが、昭和11年だったのである。
それから、二年後の昭和13年には、「国家総動員法」が施行された。

さて、取締役だったモロゾフ氏が日本人経営者(社長)に不信を抱いたのは、33年(昭和8年)のことだった。
原因は、帳簿を見せてくれない、ということで、モロゾフ氏との契約では、利益に応じた報酬の支払いがあったのである。

それでもって、袂を分かつことになったのは、36年の夏のことであるから、「バレンタインデーのチョコレート」は、じつに「苦い味」がしたことだろう。

こうして、会社を追われた氏には、41年まで「モロゾフの商号使用の禁止」まであったけど、これを、泣く泣く「のんだ」のは、ソ連への強制送還をすると脅されたからであった。
いわゆる「日本で散々な目にあった」のである。

この件で、日本の裁判所は、「大津事件」のような気概を見せなかった。

なんだか、長崎の「グラバー邸」で有名な、武器商人トーマス・グラバーの長男、倉場富三郎氏の「神戸版」のような話なのである。
こちらの「悲劇」は、もっと話が大きくて「自殺」という最悪の結末だったけど。

戦後の高度成長になって、バレンタインデーのチョコレートが一般に普及したのは、それが、「女子から男子へ告白」という日本ローカル・ルールがついて、翌月の3月14日が「返礼」の日となるという「独自の文化」になった。

「第二次性徴」が男子より早いおませな女子には、ここ一番、の日になったのである。

そうやって、聖バレンタインとはぜんぜん関係のない、楽しいイベントになった。

さてそれで、流動化する世界にあって、この平穏が永遠のものと思いこんでいる節がある、現代日本人は、「来年も」幸せなバレンタインデーを迎えられるのか?

一抹の不安を覚える昨今なのである。

ロシアをNATOに加盟させる

ことには、「発端」というものがあって、ときにそれは、「歴史」のことを指す。

「ウクライナ危機」を、アメリカがいうから、「茶番」なのである。
一方の当事者のロシアは、「ウクライナ危機」とはいわず、「国家存亡の危機」といっている。

日本人からすると、一種の「ZM」があるという表現がある。
「ZM」とは、「ざまぁみろ」の略である。
それは、「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して、満州(国)に攻め込んできたことの「裏返し」になっているからだ。

今回の「ことの発端」とは、1991年にワルシャワ条約機構が「解体」したことによって、旧東欧圏が「軍事的真空地帯」になったことだ。
それで、最初の動きになった問題は、「東西ドイツの再統一」による、旧東ドイツのNATO加盟だった。

これには、双方の「同意」が元にあった。
90年にゴルバチョフとアメリカのベーカー国務長官(ブッシュ「父」政権)、それに西ドイツのコール首相との間で取り決めた「東ドイツ以外NATOは東方に拡大しない」があったけれども、「くち」約束で「文書はなかった」痛恨になったのだった。

93年には、エリツィン大統領がアメリカのクリストファー国務長官(クリントン政権)と会談した際に、クリストファー氏が、「アメリカは東欧諸国のNATO加盟は認めない」と発言したが、翌年、クリントン大統領自身が「NATO拡大」をエリツィンに直接伝えた、という経緯がある。

もちろん、エリツィン氏は「緩衝地帯が必要だ」として大反発している。
明治政府がかつて、朝鮮半島を南下するロシアとの「絶対的緩衝地帯」として「死守」したのと、状況がそっくり「同じ」なのである。
そのエリツィン政権を引き継いだのが、プーチン氏だ。

なお、アメリカは、2008年(ブッシュ「息子」政権)で、ウクライナを「EU」に誘うという「越権行為」をやっている。
なんだか、衣の下から鎧がちらつく話で、さすがは軍産複合体の代弁者ブッシュ家である。

しかも、NATOは2014年になって、最初の「約束の解釈」は、「東方とは東ドイツのことで、それ以外の東欧圏を指してはいない」との見解を発表し、「事実上の反故」だったものを「正式」にした。

そんなわけで、プーチン大統領が「欧米はいつもうそをいう」といっているのには、「筋」としてはあっているのである。
だから、わが国の側からすれば「ZM」なのだ。

しかしそうはいっても、「ZM」では済まない、当時はなかった「新しい事情」が極東で起きている。
それが、「台湾危機」であり、「尖閣問題」ひいては「沖縄防衛」というわが国の「死活問題」に直結していることだ。

つまるところ、「ウクライナ」での「もしも」が、そのまま、「二正面作戦」となって米軍兵力といえども厳しい資源配分となるから、「台湾」を手にいれて、秋の大会で「現代の皇帝」になりたいと切望しているひとにとっては、千載一遇のチャンスとなる「構図」になっている。

バイデン氏の「親中」の、驚くべき「一石二鳥あるいは三鳥・四鳥」がここにある。
「不発」にはなったけど、「ロシア・ゲート」で一時はトランプ氏を追い込んだものの、最近の「捜査」では、民主党への疑惑に転換しつつある。

それに、反攻に出たトランプ氏が名指しで攻撃する、「バイデン一家」の「ウクライナ疑惑」をすっ飛ばすことができてなお、中間選挙前に「戦争」となれば、「現職有利」が確定する。

そしてなによりも、軍産複合体に面目躍如し、アジアでは「皇帝」の称号まで段取り着けて差し出すわけである。
「党」からたっぷりもらった「おカネ」の返済として、これ以上のものはない。
老人の「律儀」が、とんでもないことになる。

おそるべき「邪悪さ」だ。
これぞ、アメリカの「民主党」なのである。

翻ってわが国は、歴代最長を記録した安倍政権で、同じく最長の在任期間だった、岸田外務大臣の「無能」が光るのである。
このひとに、どんな「国家観」があるのかを、質問してなにを言うのか?怖くてきけない。

ロシアは、ヨーロッパなのかアジアなのか?
少なくとも、ウラル山脈の西側はロシアというヨーロッパである。
なので、プーチン氏は、いまさら「ソ連」と同じに「仲間はずれ」にしないでほしいという願望があるはずだ。

すると、本当は、NATOに加盟したいのかもしれないし、経済的困難が続くロシアにとっては、スペインやイタリア、ギリシャのように「EU加盟」も魅力的かもしれない。

なお、軍事同盟に加わることの具体的意味は、武器弾薬の「規格」を「統一」することである。
このことが、ロシアの軍産複合体には屈辱的になるから、できない、ということに思えるし、「規格」が軍事境界をつくっているともいえる。

ただし、これを、「克服」する試みで成功しようとしているのが「党」の悲願とする国なので、その「党」を追いつめるには、ロシア製兵器の規格がアメリカと同じになることの、戦略的意義は巨大なのである。

一方で、NATOの当事者である、ドイツとフランスは、共に、ウクライナの加盟に「反対」しているから、アメリカ・バイデン政権の「ひとり相撲」の様相が目立ってきている。

そこで、「現代」における、「人類の敵」は、いまオリンピックをやっている国を支配して、トップを「皇帝」に据えようとをしている「党」なのであることを思い出せば、いまロシアに目を向ける意味はない。

ならば、わが国は、ロシアをひとまず「G8」に加えて、「包囲網」の巨大な「蓋」になってもらうことがよほど重要だ。
そのための「条件」として、ウラル山脈の東側に「円流通」の許可をもらう代わりに、「北方領土問題を棚上げ」しても、平和条約を結ぶ「手」だって考えていい。

さほどに、南方に危機が迫っているのだが、北方領土と台湾とでは「価値」がちがいすぎるのだ。
わが国への「物資」のほとんどが、台湾海峡を通過して届いている。
ここが「敵の手」に落ちたら、日本国は事実上の「消滅」となるからである。

お尻に火がついているのは、ウクライナや台湾どころか「わが国」なのだ。

加えて、永久凍土の下にあるシベリアの石油は、わが国の「民間企業」が持っている「掘削技術」なくしては、得ることができない。
それで、産出した石油の「半分」をそのわが国企業は「手数料」として得ているのである。

ロシア人には残念ながら信用がないルーブルではなくて、「円」も使えるようにすれば、わが国にはもっと大きなメリットだって拡がるのだ。
そうやって、「経済圏」をつくってから、北方領土問題を考えてもいい。

そんなわけで、現状でロシアを敵にするのは「下策の下」であるから、ロシアを敵に「したがる」ひとたちが、真の「敵」なのだと認識すれば、よくわかることになっている。

プーチン氏は、とっくにお見通しだろうけど、ロシア国内「世論」という、「煽り」情報に踊らせているのが、「ソ連時代」と真逆の現状だ。
これも、「情報戦」なのである。

ジョンズホプキンズ大学の研究成果

「医学大学」の世界的名門校である。
ハーバード大学は、とっくに「あちら側」にいるので、「まとも」なら米国1位(実質世界一)という評価も間違いではないだろう。

先頃発表された最新の研究成果が、話題になっているけれども、都合が悪いマスコミは、ほとんど取り上げないという「いつも」がある。

結論から先にいえば、「ロックダウン政策に効果なし」というものだ。

当初は、「大きな効果が期待されていた」し、その効果予測を英国やら世界の大学が「発表」して、政府の背中を押していた。
たとえば、「流体力学」で、一個の人間を「粒」として考えて、その粒が触れた「別の粒」が「感染」して、どんどん拡大するという「モデル」でのシミュレーションをやったのである。

これは、映画『ゾンビ』(1979年)の、「荒唐無稽」と同じ「仕組み」であったので、やっぱり「荒唐無稽な計算結果」となったのである。
つまり、「簡単に感染する」という「ルール」が、「無症状」を無視することになったからである。

さらにこれには、重大な「欠如」がある。
・診断をするのは、医師であることの無視
 ⇒ 突如WHOが指定した、PCR検査という「手品のタネ」に依存した
・無症状でも「保菌者」は、他人を感染させるという「未確認情報」に踊った
 ⇒ 無症状者が他人に感染させることを「証明」する、研究成果はいまだに存在しない

すなわち、「法律:医師法による診断は医師の専権事項」を、政府が「違反」し、「科学:存在しない研究成果」を、専門家が「無視」したことの「成果」だといえる。

このような、「犯罪」に対して、昨年12月、国際刑事裁判所に英国人弁護士が提訴し、受理されたことは書いた。
「刑事裁判」なので、「被告」はぜんぶ「個人」であるから念のため。

なお、同様の「裁判」は、ドイツと日本(両者は「提携」している)でもはじまっているのに、どこも報道しないで、「ないこと」にしている。
これはこれで、「職業倫理にもとる」ということになって、新聞もその子会社のテレビ局も、部数や視聴率を軒並み落として「経営危機を自分で」つくっているのである。

それでもって、とうとう、CNNのトップが辞任を発表した。
7割もの「契約数の激減」の責任だとして、当然のことといわれているが、「表面上」は、もっと酷いセクハラやら社内不倫やらの「醜聞」を辞任理由にしているのである。

CNN(Cable News Network)は、その名のとおり、「ケーブルテレビ」で、「ニュース専門」を謳った、世界の魁けのような存在で、世界の大ニュースを「そのまま」放送することでの「信頼」で巨大化した。

しかし、その「信頼」を、テレビドラマで観ているような「邪悪さ」で視聴者を裏切って、筋書きどおり「契約数」を失ったのである。
日本(提携先はテレビ朝日)では、「ご同業」が、「傷のなめ合い」をする「配慮」にたてけているから、きっとニュースにしないだろう。

しかし、まったくニュースにしないのも「バレバレ」になるので、「契約数」とは言わずに「視聴率」の激減をいうはずだ。
なぜなら、「NHK様」への忖度があるからである。

ついでに「噂」を書いておくと、トランプ陣営がCNNを「買収する」という、希望的観測もあるので、「もしも」が現実になったら「事件」だ。

ところで、ジョンズホプキンズ大学の発表は、社会学や統計学の分野における「教授たち」の研究成果である。
この意味で、わが国の大学は、「機能不全」を起こしている。

もちろん、わが国の「医学部」にも、社会学や統計学を専門とする教授はいる(現横浜市長は、横浜市立大医学部の統計学教授だった)だろうけど、「医局」の教授を差し置いて、めったにこれら「傍流」がしゃしゃり出ることができないのではないか?と疑うのだ。

このあたりが、「製造第一主義」と同じ発想だ。

「技術開発部」と、「生産技術部」それに「生産現場」が三位一体をつくっていて、「マーケティング」や「アフターサービス」が軽んじられる、「古い考え」がいまだに残っているのと「同じだ」と言いたいのである。

そんな「メーカー企業はない」という反論には、あっさり降参する。
しかし、「サービス業」では、こんな発想が、「ふつう」なのである。
医療系もサービス業にあたるから、「製造第一主義」というのは、製造業を飛び越えて「感染」しているのだ。

まぁ、あえて「反論」すれば、わが国の製造業は、90年代以来、「ソリューション」をつくれないままになっていて、わが国製造業に席巻されたアメリカ人が「ソリューション」に活路をもとめて繁栄しているのと対照的になってしまって、(たとえ奴隷的でも)人件費の安い外国での「製造」しかできていないことをどう考えるか?ということはある。

つまり、ジョンズホプキンズ大学の「発表」が意味するのは、「すそ野」のレベルの高さを、世界に示したのである。
しかして、この発表の「信頼性」が第三者にも確認されたら、「政策変更」という巨大事象となること確実で、ひとびとからのさらなる「信頼」を大学は得ることができるのである。

ここに、わが国の大学は気づかないほど愚かではないだろうけど、国公立はもとより私学だって、大学(助成金)予算を支配する文部科学省が、政府に楯突くことを許さないから、「恐ろしくてできない」ことになってはいないか?

げに恐ろしきは、「政府依存」ということの「自滅」なのである。

ウーピーが「差別」で炎上

もはや「左翼」というよりも、いまオリンピックをやっている「党」に支配されているといった方が正確になったのが「ハリウッド」だ。

『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990年)でアカデミー助演女優賞、『天使にラブソングを』(1993年)で主演して一躍人気者になった、ウーピー・ゴールドバーグの発言が「炎上」している。

 

なにを言ったのかといえば、「ホロコーストは人種差別が原因ではない」という一言だという。
彼女は黒人なので、「ユダヤ人も多くは白人だから、白人同士でやったこと。だから、原因は人種差別ではない」というのには、説得力がある。

しかし、「ホロコースト博物館」とかの関係者や、「その筋」のひとたちが絶叫マシン化しているようだ。

ウーピーが読破したかどうかは知らないけれど、別の「その筋」で有名になっているのは、イェール大学の歴史学者、ティモシー・D・スナイダー教授が書いた、『ブラックアース』や『ブラッドランド』などである。

   

このひとの特徴は、言語にたけていることで、ロシア語をはじめ東欧諸国の言語をふくめて十数カ国語に精通していることだという。
それで、各国の研究書を直接読破、横断して、あたらしい歴史的発見をしている。

ここに、注目すべき指摘があって、それが、「ヒトラーの思考の解析」における、驚くべき「ホロコーストの真実」なのだ。

1923年、「ミュンヘン一揆」によって有罪になったヒトラーは、バイエルンにある「ランツベルク刑務所」に収監された。
彼が入る前から、この刑務所の「政治犯」は、懲役の免除などあんがいと自由な状態になっていた。

それでか、ここでの8ヶ月間で、『わが闘争』を構想し、口述していた。

しかして、その脳裡には、どうしたらドイツが英国やフランスのような「植民地大国」になれるのか?を熟考していたのである。
もちろん、「第一次大戦の敗戦」での巨額賠償があることも、知らないはずはない。

それに、残念なことに、「後発」のドイツには、地球上で植民地にする「空き地」はもはや存在していなかった。
そこで、彼が目をつけたのが、「アメリカ民主党のやり方」だったのである。

これが、先住民を皆殺しして、彼らの土地を奪い、生き残ったひとを奴隷にする、というものだ。
そうやって手にいれた土地を、「破格の廉価」で支持者に分け与えたのが、民主党初の大統領アンドリュー・ジャクソン(第7代)だった。

そしてそれが、ヒトラーの脳裡には、ドイツ内外のユダヤ人であり、ポーランド人、チェコ人であり、ロシア人に見えたのだった。

実際に、教授の分析によれば、「ホロコースト」の対象になったのは、ドイツ国内のユダヤ人よりも、その外にいたひとたちの方が多数だったし、彼らを捕らえたのも、ドイツ人よりはるかに多い、外のひとたちだった。
分け前に預かりたい、多数を「利用する」ということまで真似たのだ。

そんなわけで、ウーピーの意見は、(はからずも)的を射ている。
しかし、これはこれで、民主党の黒歴史への強烈な皮肉になるから、ハリウッドの現状からしたら、冷たい風が吹いていることだろう。

だから、「炎上」させているのは、このひとたちだといえそうだ。

ただし、彼女は「映画人」として、業界で最低評価を受けたから逆に栄誉ある、『ヒラリーのアメリカ』(2016年)を観ていたかもしれない。
監督・脚本・主演は、「陰謀論者」とウィキで書かれている、右派評論家にして作家のデニーシュ・デソーザである。

この作品は、なにしろ2016年大統領選挙の直前に公開されるという、(政治的)タイミングもあって、「その筋」のひとたちの間で「物議」を醸したし、デソーザ氏も選挙資金の件で逮捕されて、その後、彼をトランプ大統領が恩赦しているのである。

ところで、最近、アメリカで「ミリオンセラー」を記録しているのは、マーク・レヴィン著『アメリカのマルクス主義』だ。
残念ながら、彼の著作の邦訳は1作しかない。

レヴィン氏は、大学を2年も「飛び級」して卒業し、法学博士になったひとで、共和党保守派の論客でもある。
若くして閣僚の顧問を務め、人気のラジオパーソナリティである。

車社会のアメリカでは、テレビよりもラジオの格の方が高い。

なんだか、「保守」というよりも、「自由主義」の復権が目立つのである。

その意味で、自身を「保守」しないといけなくなった「左派」たちが、何かを「しでかす」ために妙なエネルギーを溜めこんでいるなら、それはそれで「危機」となる。

ウーピーへの「攻撃」も、その一端なのかもしれない。