大衆はコントロールされるべきである

「大衆酒場」とか「大衆演劇」、「大衆小説」とかにつきまとう、「大衆」とは何者か?

産業革命によってヨーロッパで発生したのが、「労働者階級」というひとたちだった。
とくに、本家本元の英国では、ハッキリと位置付けられて今にいたっている。
その支持基盤が、「労働党」というわけだ。

これより少し前に、あたらしく「ジェントルマン」という階級が生まれた。
新興の、富裕層という意味である。

いつでもどこでも、金持ちにはひとが群がる。
気分によってはあわよくば、何かにありつけるかもしれないからである。
その中には、当然ながら、貧乏貴族も仲間入りして、自分の地位をジェントルマンの財力をもって、よりよくしたいと目論むからである。
もちろん、ジェントルマンからしたら、貴族の家名を継ぐひとと懇意になれば、それだけ箔がつくというものだ。

英国の富裕層が、どうしたことか「登山」を趣味にしたのは、そんな淡い期待を抱きながら、パーティを組んだのかもしれない。

そんなわけで、狭い英国から飛び出せたのは、世界を支配した大英帝国の威信をかけた旅でもあった。

そうして、目指したのが、ヨーロッパ・アルプスの中心地、スイスであった。
主たる産業が、「傭兵」という当時のヨーロッパ最貧国とも考えられるスイスに、金持ちたちが道楽で登山に来たのである。

これが、スイスにおける山岳地方の観光開発のはじまりだ。

山と景色しかないど田舎でも、威信を背負い込んだ英国紳士たちはロンドンの邸宅と同様の快適さを要求した。
ただし、見返りは、当時の泣く子も黙る、スターリング・ポンドの金貨であった。

あくせく働いても、滅多にお目にかかれない金貨が、容易に手に入る。
これで、スイスは、ヨーロッパの金持ち御用達の観光地となり、貧乏人は相手にしなかったのである。

しかしながら、同時期に一方で、労働者階級という巨大な集団も生まれていた。
これが、「大衆」なのである。
よって、給与所得者となった大衆が息抜きをすると、それは「団体観光旅行」となったのである。

『細うで繁盛期』に登場する、二つのタイプの旅館は、保守的な「福原屋」と、近代的で革新的な「大西館」という対比設定だったけど、福原屋の顧客イメージは、「富裕層」であったのに対して、大西館は、「大衆」であった。

川端康成の、『伊豆の踊り子』とは、本宮ひろ志の『俺の空』の主人公、安田財閥の御曹司、安田一平バリの書生が一人旅の中で知り合った、自分の意思とも家族の事情ともしれぬ、踊り子との、身分を超えた淡い話なのである。
当時の日本は、まだ身分社会であった。

つまり、書生が定宿にしたのは、福原屋の方で、大西館ではない。

 

しかして、戦後のわが国は、財閥解体と農地解放で、書生のような生活ができるものは滅亡させられたのである。
これが、大西館の成功理由だし、細うで一本で衰退の一途だった山水館経営を再生・復興させることができたことの時代背景なのである。

つまり、わが国の戦後観光地には、消滅した富裕層は来なかった。
これが、大衆迎合型でしかない、わが国観光地の誕生物語なのだ。

すると、昨今いわれ出した、「格差社会」とは、もしやラッキーなのではないか?
棲み分けがハッキリするからであるし、福原屋タイプの復権ともいえる。

ところが、わが国におけるいまの富裕層とは、大衆の中で育ったひとたちばかりだから、安田一平の感覚を若い時分に経験していない。

これが致命的なのである。

さらに致命的なのは、原作中でも福原屋に跡取りがなく、細うでの人物を評価された主人公・加代が跡を継いだものの、その加代の後継がどうしたかはわからないで物語は終わった。
おそらく、時代の流れとともに、大衆化の道を歩くしかなかったと想像できるのだ。

つまり、客だけでなく、提供者にも、富裕層の扱いがわからない、ということになっている。

そうなると、正しいコントロールを誰がするのか?となって、残念ながら、欧米人に分があるのである。

その欧米人は、プロパガンダの名人だ。

彼らはいまでも身分社会に生きていて、支配者たるものとはなにかを自覚している。

それゆえに、大衆をコントロールするのは当然であり、それを支配層が行う義務があるとかんがえている。
なぜならば、自分でかんがえることをやめた集団が、大衆だからである。

だから、「大衆」のことを「マス」と呼んだものが、いつの間に、「マス・コミ」とか、「マス・メディア」というようになった。

そして、これらが仕掛けるのは、言葉を変えて、「PR」とかともいったけど、少しはかんがえる大衆が、その腐臭を嗅ぎ取った。

それだから、もっと上手になさい、となったのである。

大衆を騙して儲けるのが過去の歴史だったけど、大衆を正しく導いて、生活を向上させるなら、大衆はコントロールされるべきである。

だから、あくまでも、「倫理」が問われるのである。

失敗ができない悲惨

「失敗は許されない」

むかし観ていた、『科学忍者隊ガッチャマン』とか、『仮面ライダー』とかで、悪の親分が手下の怪物に、ヒーローたちを倒せと命じるときの常套句だった。
あるいは、外国のスパイ物とかでも、同じように命じて、失敗したら仲間内で厳しいリンチ処刑が実行されるものだった。

これらの共通に、「硬直した組織」という状態がある。

あるいは、上からの命令は絶対、とか、最近では、ミッション、とかとも言っている。
それで、命じる側もたいていが、組織内昇格したひとの場合がおおい。

では、「失敗」の定義とはなにか?

万事を尽くしても、所期の目的を達成できなかったときのことだ。
だから、評価者が問うのは、「万事を尽くしたのか?」となる当然がある。

しかしながら、そんな中身の評価はそっちのけで、表面上の「結果」しかみないのである。

たとえば、「結果こそがすべてだ」と、言葉にできる人物がトップだと、組織は硬直化をはじめる。
ビジネスの場なら、「結果こそすべてだ」はあり得ず、「プロセス管理こそがすべて」なのである。

そうでなければ、「改善:カイゼン」すべき仕事のやり方も発見できない。

ところが、どんなにプロセス管理に気を配っても、未知への挑戦ならば、結果の「失敗」はあり得る。
ここで、「表面しかみない」か、「中身をしっかりみようとする」かで、大違いとなるのだ。

プロセス管理に問題がないのに所期の目的を達成できなかったとき、というものには、中身に新しいノウハウが修得できた、「経験値」という、金銭では買えないような価値が形成されているものだ。

つまり、組織活性化のタネができている。

よって、再挑戦ができるのである。
これが、進歩のメカニズムの基本なのだ。
なぜなら、科学がそれなりに発達した現代では、たとえ紙一重でも、ひとりの天才ではなく、組織としての「経験値修得」がえらく重要になってくるからである。

世にある失敗の9分9厘が、「手抜き」によるもので、定義にある、万事を尽くしていないから、それは失敗ではなくて、サボタージュというのが本当なのだ。
プロセス管理の中身をみれば、すぐにわかるものを、みない上司も手抜きに加担しているのである。

「これは最新技術」だと消費者にアピールする宣伝はまだしも、技術の現場の本音では、この30年、新しい画期的な技術は誕生していない。
この「殻」を破った者が、次世代の成功者となる。

この意味で、「失敗」を認めるか、認めないかという「方針」のちがいが、分かれ道となるのである。

許されない、ではなくて、もっと厳しい、「失敗を許さない」世界の典型が、「官需」にある。
例えば、「原子力ムラ」とか、「宇宙ムラ」とかとよぶ、「ムラ(村)社会」がそれだ。

どうしてそうなるのかは、簡単にして明瞭で、「税金」という名目の、「公金」が投じられるためだ。

しかし、公金の所有権は、広く国民にあることになっているので、じっさいは誰のものかがわからなくなって、これらの事業に関わるひとたちは、みな、「自分のカネ」ではないために、「占有権」を行使している。

それだから、余計に、「公平性」だとかいう、綺麗事を先にたてて、そのえらくテキトーな運用を誤魔化すのである。

この誤魔化しのプロフェッショナルが、たいがい東大法学部を優秀な成績で卒業して、国家公務員総合職試験を優秀な成績でパスした高級官僚たちなのである。

小学校からとにかく勉強づけで生きてきただけの生物だ。

文部省が定めたカリキュラム(「学習指導要領」)の範囲内だけが、このひとたちの優秀さの根源であって、この範囲を超えることは、思考もできない。
なぜなら、思考せずに(疑問をもたずに)、ひたすら決まった範囲内での正答率を高める訓練しか受けてこなかったからである。

戦後日本人の、致命的な勘違いによる悲喜劇は、こんなひとたちを、「優秀」とか、「頭がいい」とかとプロパガンダされて思い込まされてきたことにある。

それでもってこれまた、役所に就職したら、「行政法」という巨大法典の範囲「だけ」で生きていくことになっている。

いつも、「範囲」があって、これを超えることがはじめから想定外なのだ。

しかし、チェックすべき国会が機能しないように、「小選挙区・比例代表制」なるインチキに選挙制度を変えたから、以来、明治期よりも酷い国家資産の私物化・簒奪・窃盗を白昼堂々行っても、一切お咎めなしの役人天国になったのだった。

それゆえに、学校の成績が一生の財産であると、こんどはウソのような思い違いをして、「官尊民卑」を貫こうとするのだ。

残念ながら、「官需」という世界だけに、カネを出すのも「官」なので、「民」は奴隷のような扱いとなる。
しかし、そこは悪代官と御用商人の結託で、おおいに「手抜き」が容認されるのである。

「官需」では、一般人には知る由もない、高度な技術だからだといって、「一品もの」の部品を特注する。
しかし、どうして汎用製品ではダメなのか?についての証明は無視される。

これで、万倍もの単価になっても許されるのだ。

その理由は、これまで問題なかったから、とか、無事故だったから、ということでの「信頼」なのである。

なんと、技術の話が、「有職故実」になっている。

 

もっといえば、汎用品を試すのが面倒だし、一品ものだから得られる利益にならない。
役人の方は、「大型プロジェクト」から、「大型」がとれたら、手柄にならないのだ。

国民が参加しない民主主義体制なので、役人は経費削減を要求しない。
まったくもって、サボタージュで潰れた「ソ連型共産主義」をわが国は採用している。

国民は失敗の原因すら正確には知らされない(たとえば、ロケットの打ち上げ失敗原因とか、フクシマの事故原因がいまだに「津波」だと誤魔化す)で、また、「失敗」ではなく「手抜き」だったとしてもなにも知らないままでいさせられるので、適当にガス抜きができたら元の木阿弥の繰り返しなのである。

そうやって、後術開発をしている風情で、技術の化石化(有職故実化)がはじまる。

旧東ドイツが90年代まで製造していた、「迷車」とは、「トラバント(Trabant)」だ。
東ドイツは、技術開発予算を投入していたのに、製品までいかないのは、「官需」に吸い取られたのである。

そんな風習が、民間の深いところにまで拡散して、格好良く、「失敗は許されない」という阿呆経営者が後を絶たないでいるのは、日本経済の悲惨にまでなっているのである。

旧「芝浦見番」に行ってきた

港区の公式HPによると、いまは、「伝統文化交流館」という無粋な名称が先で、あとから、『港区指定有形文化財「旧協働会館」』という、教育的な表記になっている。
説明文に、ようやく、「昭和11年に芝浦花柳界の見番として建設された、都内に現存する唯一の木造見番建造物です」と、その正体を明らかにしている。

「見番」とは、花街にあった3業態の、「置屋」「料亭」「待合」(これらは「水平分業」だった)を取りまとめ、芸者の取次や遊興費の清算をする施設のことで、花街機能の司令塔をいう。

場所は、芝一丁目。

町内でかつての花街を彷彿とさせる建物があるのは、この建物だけで、駐車場やら土地の区割りが、昔をほんのりイメージさせるだけだ。
近所の置屋だった「割烹い奈本」は、マンションビルになって、ポツンと一軒、住宅街で営業を継続している。

もちろん、そうやって意識して眺めてみてのはなしで、なんとなく歩いていたら気づかないだろう。

日本橋からの東海道=国道1号線と、JR線のルートをみると、元から陸だった東海道に対して、明治5年に開通した、「陸蒸気」は、『千と千尋の神隠し』のシーンのように、あんがいと「海上」を走っていた。
「盛り土」ならぬ、埋めたてで、線路だけを通したのである。

だから、鉄道ができる前のこの辺りは、ぜんぶが海だった。

たとえば、JR田町駅の新橋よりにある、本芝公園からJR線路をこぐって、「港区立芝浜小学校」方面に抜ける通路の坂は、むかしの浜を下る坂なのである。
高輪ゲートウェイ駅ができるまであった、泉岳寺から同様にJR線路をこぐる、やたら高さがなくて首をすくめるようにして歩いた通路も、かつては小舟が通るためにあったのだ。

地形としてわかりやすいのは、京浜急行「北品川駅」周辺の、旧東海道から海側にむかう道が、ぜんぶゆるやかな降りの坂道なのも、その先が海だったからである。
京浜急行に、「大森海岸」という駅があるのも、まさに、「海岸」だったからついた駅名だ。

なお、いま「北品川」というのは、日本橋から最初の、「品川宿」のことだ。
旅に出る知人・友人の「お見送り」、あるいは、「今上の別れ」と称して、ここでどんちゃん騒ぎをやっていたのが、江戸っ子だった。

余談だが、そんな昔を守る京浜急行が、さいきん「仲木戸駅」を改め、「京急東神奈川」として、あたかもJRに媚びたのは、たいへん残念なことであった。
東海道「神奈川宿」の由緒からしたら、JRの「東神奈川」という呼び方が、歴史破壊だからである。

そんな地名は、どこにもなかった。

江戸時代、この宿場内に将軍の宿泊施設、「神奈川御殿」があって、その門があった一帯を「仲木戸」と呼んでいたのである。
大名向けの「本陣」が、宿場毎の最高格式というのは、ふつう、だけど、神奈川宿の格式は、ふつうではなかった。

明治政府が江戸幕府の実績を消そうとした、国策が、鉄道省 ⇒ 国鉄 ⇒ JR の文化破壊の使命でもあるのを、いまどき私鉄が迎合するのはいかがなものか?

もちろん、京浜急行の、「神奈川」駅が、神奈川県の由来となる由緒正しきものだから、国鉄は困って、「東」をつけて誤魔化したのであった。

そんなわけで、文化財には、地名なる「無形」も含まれる。

極左、美濃部都政がやった、江戸の地名廃統合という、文化革命も、その理由は、3ケタの郵便番号では届きにくいからという、屁理屈で、7ケタ郵便番号ができたときに、旧町名をぜんぶ復活させていたら、たいしたものだったのにとおもう。

歴代都知事、なかでも、保守といわれた石原慎太郎だって、なにもしなかったのである。
皇室に尊敬の念を1ミリも抱いていなかった、石原慎太郎の長男が、強制引退させられた伸晃である。

こんなあれこれを、下地にして、芝浦の町を歩くと、東京モノレールの無粋から、「東芝」がなくなることの栄枯盛衰も、まさに、「うたかたの夢のごとき」なのである。

この手の木造文化財は、もう、おなじに再建できない。

だから貴重なのであるが、使われた部材だけでなく、職人すらいないだろうし、手間をかんがえたら、とうてい往年の細かい仕事は、資金があっても割に合わないことになる。

こうした再現建築の最高峰は、名古屋城「本丸御殿」になるのだろう。
全国の自治体は、余計な経済施策をただちにやめて、各地毎の歴史から、ここぞの「再現」をまともにやった方が、はるかに効率よく後世に価値を残せる。

まぁ、「現世利益」を謳う邪宗が政治権力をもっているから、むりかもしれないが、それがそのまんま、「なんとか割」とかの、刹那的な消費につかわれて、なにも残さない。

だがこれぞ、「現世利益」の具現化策なのである。

この「見番」近くに、港区の近代的無機質な公共施設が鎮座している。
予算が尽きたとき、この施設がどれほど荒廃するのか?は、たとえば、ヨーロッパの首都(EU本部がある)、ベルギーはブリュッセルの中央駅をはさんである、南駅と北駅のホームに立てば実感できる。

エスカレーターはひしゃげて、エレベーターはとっくに動かない。

さては、見番の二階で、艶やかな「をどり」でも観てみたいが、いまは自由に休憩できる場所だった。

まさかのトランプ下院議長?

3日に、アメリカ憲政史上初となる、連邦下院議長が解任された。

マッカーシー米下院議長は、自身の解任の動きに、「やれるものならやってみろ」と強気の発言をして、共和党の「フリーダムコーカス」のメンバーを刺激してしまった。
そもそも、今年の1月に中間選挙後の新議会が発足しても、100年ぶりに議長が決まらない事態となったのは、この「フリーダムコーカス」が条件闘争を開始したからだった。

ウソを垂れ流す日本のマスコミは、「過激派」とか「強硬派」と、民主党だか、RINO目線でしか語らないが、「フリーダムコーカス」は、基本的に、「保守派」なのである。

しかし、アメリカという国における、「保守派」というのは、なにか?というと、日本や英国のような歴史ある国とちがって、なかなかに面倒な定義となる。

それぞれのお国の歴史や事情による相対的ないい方が、「保守」なので、絶対的な定義が難しいのだ。
日本でも、まだ自民党のことを、保守党だと思いこんでいるひとが多数いるように、だ。

それでも、人造国家アメリカの場合は、「建国の理念=合衆国憲法」を保守するひとたちのことを、保守派という。

議長解任には議員の1名から発議できる、という新規定を呑んでも議長に就任したのは、マッカーシー氏に他ならなかった。

なんとなく頼りがいがないこのひとは、重大な局面で間抜けさを出したのである。
もともとRINOなのではないか?という疑惑が払拭できないひとではある。

それでもって、後任人事の予定がつかないなかでの解任決議になったので、誰が後任になるのか?という大問題になっている。

ここで、妄想が膨らむのは、アメリカ合衆国憲法には、下院議長が現職下院議員でなければならないという規定はないからだ。

つまり、アッと驚く下院議長に、トランプ氏の名前が挙がって、まさかの投票となって過半数を超えたら、これまた憲政史上初の、議員ではない民間人の議長就任となるのだ。

現職の下院議員からしか下院議長は選べない、というのは、日本人的な多数決の発想(これを、「民主主義」の原則だと信じている)で、彼ら(アメリカ建国の父たち)とはちがう。
国民が選出した議員たちが、たとえ民間人でも多数決で議長に選出したら、それは有効だ、という発想なのである。

「戦後民主主義」という、体制転換を信じ込まされてきた日本人は、あたかもGHQがつくった日本国憲法とは、アメリカ合衆国憲法を参照にしたはずとの思い込みがあるが、ぜんぜんちがう。

むしろ、レーニンが定めたソ連を作り直した、「スターリン憲法」が下敷きなのである。

だから、時間がたてば経つほどに、共産化する。
これが、赤いGHQ(アメリカ民主党政権)が仕込んだ、日本解体のシナリオなのである。
ついでに、マスコミやらマスコミの御用学者がしきりにいってきた、「マルクス・レーニン主義」も、「スターリン(独裁)主義」を隠蔽するための方便である。

スターリンも、彼を批判したその後のひとたちも、とっくにカビが生えた、「マルクス」や「レーニン」さえ持ちだせば、なんとか辻褄があうことを利用しただけである。

しかし、今回のアメリカ下院での出来事は、ほんとうにトランプ氏を議長にするためか?は怪しい。
なぜなら、正直が取り柄のトランプ氏本人が、マッカーシー議長を支持する表明をしていたからである。

これには、トランプ氏なりの目論見があって、わたしには、安倍氏と盟友関係を装ったことと似ているように思えてならない。

マッカーシー氏がRINOとの「つなぎ役」をするのに、適任だからである。
この「コウモリ君」は、機を見るととたんに機敏に行動する癖があるのを見抜いてのことだとおもうからだ。

バイデンが大統領に就任して、トランプ氏がフロリダの別荘に引きこもった際、共和党内を牛耳るのがトランプ氏だと気づいたら、さっそくワシントンからフロリダを訪問して、ご機嫌伺いしたのもコウモリ君らしさがわかるものだった。

彼は、トランプ政権に非協力的だったのだ。

しかして、アメリカの政界は、思想的にトロツキー派の民主党と保守的な共和党は相容れない関係軸にあるようだけど、「戦争屋」という点では、ご同業者が多数いるのである。
これが、両党で共通の「ネオコン」なのだ。

ブッシュ家、クリントン家、オバマ家、バイデン家がそれだし、チェイニー家もそうだったが、リズ・チェイニーは共和党予備選で敗退し、政界から追放された。

アメリカの「国難」は、おそろしく深刻で予算も審議できない状態だから、「トランプ下院議長」への期待が高まっているのである。

これで、バイデンとカマラ・ハリスをホワイトハウスから追い出せば、国家の序列第3位の下院議長が大統領に就任する。

そんなばかな!

というわけで、ジム・ジョーダン議員(司法委員長)が立候補した。

それでもどうなるのか?
一寸先は闇なのであるが、世界はこの人事に注目している。

iPadアプリで散財する

「コンピューター、ソフトがなければタダの箱」とは、80年代のパソコン泰明期に詠まれたサラリーマン川柳の傑作のひとつである。

OSもまだ定まっていない時期だったのもあって、メーカー各社が、まさに群雄割拠していた。

「家電」で世界を席巻した、わが国家電メーカーも、まだ、「パソコンとは家電だ」という思い込みが強かった。
それは、社内で「哲学」するひとが少数しかいなかったせいだろう。
この哲学の欠如が、いまにつづく、「家電業界崩壊」のはじまりだったのでは?と疑っている。

それで、「家電リサイクル法」を許し、消費者との関係性を壊してしまった。
まことに、「偽善」の恐ろしさでSDGsなどに熱心で、いまだグローバル全体主義の魂胆に気づかいないのはもはや病的な政府依存症である。

それまで、「キーボード」といえば、楽器のことであったし、日本人には馴染みが薄かったのが、タイプライターだった。

パソコンよりも先に、おおいに普及したのが、日本語ワードプロセッサーだったのは、英語を打つための、タイプライターとおなじキー配列のキーボードのはずなのに、なんと日本語文章が作成できるという、「画期」があったからである。

それまでは、公文書用に、日本語タイプライターがあったけど、本物の活字を打ち込むのだから大型で、およそ家庭用ではなかったし、膨大な配列を覚えるだけでも特殊能力だった。

英文のタイピストも、日本語のタイピストも、女性向けの軽作業と目されていたけれど、企業の中の需要(役所へ提出する書類作成)として、日本語タイプライターには侮れない強さがあったのである。

あれから40年。

まさに、時代は変わったのである。
いかに事務作業の効率化を図るか?については、手を抜いても高品質が維持できる方法の普及となって、ハードたる機器と、アプリと呼ばれるようになった、機能特化型ソフトウェアの組み合わせを、どれだけしっていて、それを使いこなせるのか?に実質的に変換された。

パソコンの方は、圧倒的なウィンドウズと、アップル、それとオープンなLinuxの3種類に集約されたかに見える。
しかし、アップルには、iPadというハードと、iPadOSなる組み合わせで、Androidとは別世界の機能を提供している。

わたしは、スマホは安いAndroidで割り切っている。
どうせ、長くて4年しかもたないからで、6年もつとはいえ、1年あたりに換算しても高価なiPhoneはいかにiPadと同期が取れても、所詮は老眼の身ゆえにスマホで作業をするつもりは毛頭ない。

「M1Mac」が世に出た時に、数年ぶりどころではない時間が経過して、かつては「Mac・Fan」だった自分が恥ずかしくなるような、「進化」に驚いたのだが、やはり、Macはビジネス用には向かない。
マイクロソフトのオフィスとの互換性が、ずっとよくはなったけど、フォントが一致しない致命的な問題が解決されていないので、客先にマックで作ったファイルをそのまま納品するわけにはいかないのである。

それで、サブスクの、「Windowsエミュレータ・ソフト」をMacに入れれば、MacがWindows・Machineにもなるけれど、だったら素直にWindows・Machineを購入した方が簡単だし、どうせサブスクなら、AWSという手もある。

そんなわけで、二度手間になるのを承知でのモバイル作業なら、「仕込み段階=下書き」は、iPadでやって、仕上げをウインドウズ・マシンでやればよい。
あわよくば、PDFでの納品ならば、iPadで済むし、逆に校正チェックを返すなら、PDFに手書きができるipadの方が便利である。

さて、例によっていまさらだけど、世の中には、「要領のいいひと」がたくさんいて、いろんな意味で感心すること然りなのである。
たとえば、「コピペ」を効率化することが、正しい手抜きの第一歩なのだという主張には、まったく反論できない。

そのためのiPadアプリが、「Yoink」なる、定番(現在買い切り800円・ファミリーリンク可)なのである。
なお念のため、ファミリーリンクとは、家族がそれぞれiPad端末とかを持っていたら、誰かひとりが当該アプリを購入したら、共用できるという、ありがたいサービスである。

ついでに、9月には、iPad OSが、「16代」から「17」にバージョンアップして、だんだんとパソコンライクなマルチタスク機能が充実している。
ために、画面の小さな機種では、いよいよ字が読めない、という老眼オリエンテッドな世界からは真逆になっている。

「重い」のは承知で、リュックに入れているのは、12.9インチと、10.5インチの2台である。

これらが、デュアル化したらなぁ、と思うけど、いまはできない。

なお、マックをメインにしたら、iPadをサブ・ディスプレイにすることはできるし、ウィンドウズマシンでも可能だというけど、わたしには、だからなんなんだ、なのである。

話はPDFに戻って、買い切り6000円という、高額アプリ『PDFelement』をこれもいまさらながら見つけた。

「無料」だけどアプリ間を行き来する手間がかかるやり方に慣れているせいか、これだけで完結する、のが気持ち悪いと感じる自分がいる。
それでも、スキャナリングには、カメラアプリをつかうから、それ以降、が一本化されているわけだ。

アイデア整理にたまにつかっていた、マインドマップのアプリ群が、なんと有料化だけでなく、サブスク化していた。
無料はあきらめて、買い取りアプリを探したら、『SimpleMind Pro』が、1500円だった。

これを、『Yoink』を介して、録音とメモができる『Notabilty』(サブスク1480円/年)にペーストすれば、重要な取材の構成メモがノートの上にできるのである。
買い取りの定番ノート『GoodNotes5』が、「6」になって、やっぱりお前もか!とサブスクになった。

当面は、「5」も使えるので、ムダな抵抗としりつつも、「6」にはしないで、『Notabilty』のサブスクをポチったのである。

あゝ、必要だから、という気持が優先して、有料課金の奴隷になっている自分がいる。

アメリカ国家予算と連邦下院議長解任?

「年度」というかんがえは、基本的に、任意なので、1年間であればいつからでもいい。

わが国は、国も民間企業も、だいたい、4月1日から翌年3月31日としている。
もちろん、民間企業にはすきに決めることができるから、これ以外だって問題はない。
アメリカの企業の場合には、あんがいとカレンダー通り(1月1日から12月31日)もふつうにある。

ついでに、ドラッカーは、「期間損益」というものを、その著書、『すでに起こった未来』(ダイヤモンド社、1994年)で否定していた。

企業活動は基本的に、永続するもの(「ゴーイング・コンサーン」という)だから、1年単位で期間を切ることに何の意味もなく、かえって、「決算」なんてどうにでも表記できるから、こんなものを信じてはいけないと説いた。

国家予算は、民間企業の期間損益よりもややこしい。

おおくのひとは、税収をもって民間企業の売上とみなす悪い癖がある。
学校教育における、重大なウソのひとつである。

国家は、税収で賄ってはいない。
むしろ、税収で賄っているなら、それは、おどろくほど古風な国である。

じつは、国家にはさまざまな収益機会がある。
まずは、手数料収入だ。
それにいろんな財団やら法人を設立して、収益を得ている。

たとえば、道路公団とか、乳製品とかのご禁制に相当する物品輸入における関税やら、手数料は、これら関係財団を通じて、上納される仕組みがあるが、見返りに役人が下ってその一部を報酬としてさらっていく。

大規模なのは、国債発行による、紙の現金化だ。
これには日銀とかの中央銀行が、国家のATMの役割をしている。

しかし、現代の現金とは、単なる数字のデータのことである。
個人だって、通帳には数字が印字されているだけで、残高分の現生をみたことがあるひとはいない。
住宅ローンが通って、いったん数千万円が通帳に書き込まれても、それは数字だけなのだ。

銀行口座から現金を引き出すならまだしも、送金とか振込とかは、ぜんぶ数字が動くだけで終わる。

そんなわけで、国の「出納」は、民間企業よりもややこしいのである。
それで、「証紙」やらを購入させて、手数料収入としたから、どんな行政サービスがいくらの収入になっているのか?をみるには、また面倒が発生する。

「証紙」の収入と、申請用紙に貼られた数を一致させないといけないけど、こんなことを誰がやっているのか?
つまり、売上げ管理をするものも、仕組みもないのである。

そんなわけで、どの国も適当なのが近代国家というものだ。

その代表格のアメリカ合衆国は、予算年度を10月1日から翌年9月30日としている。
とりあげず、議会は「45日間のつなぎ予算」を通して、国家行政が停止するのは1回は回避した。
しかし、この短い期間で、予算案ぜんぶが議会を通過するのか?といえば、かなり厳しい。

アメリカの予算案は、わが国の適当な一括案とはちがって、何本にも別れているのだ。

とくに次年度の柱は、
・歳出削減案
・ウクライナ支援
・国境警備 となっている。

なかでも巨額なのは、ウクライナ支援だが、これには共和党トランプ派だけでなく、民主党にも消極派が多数いる。

実質的に、アメリカらからの支援が止まれば、ウクライナは和平をするしか選択肢がなくなる。
つまり、「平和」に貢献する予算となる。
これを阻止したい勢力とは、戦争屋なのである。

だから、戦争屋をあぶり出す予算案となっている。

しかし、45日間で決められないかもしれないのは、共和党トランプ派が、グズグズしているマッカーシー米下院議長の解任を、並行して発議する可能性があるからだ。

今年はじめ、あたらしくなったアメリカ連邦下院議会は、議長選びで紛糾したのはニュースになった。

もちろん、アメリカもわが国のマスコミも、アメリカ民主党のプロパガンダ機関なので、これを共和党の「党内抗争」としてだけの方向から描いていた。

一面だけをいえば、正しいが、全体を報じないという意味で、プロパガンダである。

マッカーシー氏は、いわゆるRINO(Republican In Name Only:戦争屋)なので、トランプ派からしたら、議長になるべきひとではない、という基本認識があったのである。
それで、「条件闘争」になって、さまざまな条件を呑んだ協定に署名させて、やっとこさ議長に就任できたのである。

マッカーシー氏がそこまでしたのは、「お飾り」とみなされるわが国の議長とちがって、絶大なる権限を付与され、なおかつ、大統領・副大統領につぐ、アメリカのナンバースリーになるからである。
この権限を超えてまでしっかり悪用行使した、前任者の民主党ナンシー・ペロシ氏は、その「悪名」を議長職に残した意味で、歴史的な人物だった。

就任から10カ月が経過して、ぜんぜん協定を守っていない、という怒りが、トランプ派からの解任要求になっているのである。
そのまた証拠が、この予算案への甘い対応(バイデン政権のいうがまま)だ、ということなのである。

そんなわけで、戦争を止めさせたいトランプ派と、戦争でもっと儲けたいという派との攻防なのであるが、マスコミは、戦争でもっと儲けたいに与して、利益を得たいとかんがえている。

現場のウクライナのひとびとの悲惨なんて、関係ないのである。

ただし、予算が尽きれば、アメリカという巨大ロボットの活動が停止する。
プーチン氏にとってもそうだが、「これでいいのだ」という覚悟が、こんどはトランプ派とのチキンレースになったのである。

道徳的に立派な目標は失敗する

わが国の戦前における大陸進出がそうだったように、あるいは、戦後なら、アメリカが行ってきた二極(米ソ)代理戦争だったベトナム戦争のように、あるいは、ソ連なき後の一極覇権下におけるイラク戦争など、その失敗を挙げるのに枚挙にいとまはない。

むかしなら、「米帝反対」と叫んでいたサヨクの視線があったろうに、いまは、グローバル全体主義のなせる業だとわかった。
そうしたら、共産党までがウクライナ支援に賛成するという、「逆神の大ヒント」があるのに、だれも気にしなくなったのは、みんなでグローバル全体主義に染まっているからである。

だから、いろんな「もの」や「こと」がなぜ失敗するのか?をかんがえると、その答えは簡単で、世界の価値観が全体主義に統一されてきているからである。

その実験場で、平時にしていま最悪の状態にあるのが、英国で、次がわが国だ。
英国のばあいは、北海油田を棄てて「風力発電依存」をして、自分から経済を破壊したし、わが国の場合は、ワクチンなる毒薬をもって、政府が国民を殺傷している。

厚労省が、HPにあげたわかりにくい数値は、「詳しくは自治体にきいとくれ」という、かつての「駅前留学」の宣伝文句のようにして、全体を隠す全体主義をやっている。

かつては、欧米とわが国の価値観もぜんぜん違うものだった。
これを、敗戦によって完全に「標準化」を謀る再構築をされてしまったのが、いまのわが国の姿なのである。

もちろん、善意を装った悪意であって、戦勝国たちは自ら突きつきた、「ポツダム宣言」を、勝手に拡大解釈とねじ曲げをやって、「国際法なんてない」ことことがわかるほどの、古代ローマ張りの「征服者」として振る舞ったのである。

それが、ダグラス・マッカーサーという特異な性格の人物をシーザーと同格に据えた、文民統制の文民側(アメリカ民主党)の意図なのである。

まっ先に180度の転換を強いたのが、わが国の教育制度だったのは、「あたらしい日本人」を生産するためで、いわゆる受験エリートたちは、新「体制派」にならざるを得なかった。
自ら、この体制の申し子だからである。

その矛盾が、「全共闘」になって、いっそうの撹拌をやったのだった。

しかし、誤解されては困るのは、戦後の「体制派」とは、なにも当局の与党だけを指すのではなくて、既存政党や既存組織すべてに籍をおく人たちぜんぶをさすことにあるのだ。

たとえば、もっともアウトローに分類されるはずの、志位和夫日本共産党委員長だって、ちゃんと「東京大学卒」という意味の体制派なのであるし、祖父は志位正人陸軍中将という「体制」そのもののひとだった。

いいたいのは、共産党云々ではなくて、「公党」としてあれば、「体制派」に含まれる、ということである。
ようは、当事者の意志とは関係なく、体制にまるごと呑み込まれるようにできているのである。

すると、人間の頭でかんがえる、「理想社会とはどんな社会なのか?」も、体制からの発想という意味になって、最初から矮小化するものだといえる。

西尾幹二渾身のシリーズ、『GHQ焚書図書開封』(全12巻)は、戦前の、「大日本帝国」における体制の中で書かれたものが、戦後のGHQによる、征服を受けて、体制転換した我が国には向かないとして、「焚書(没収・発禁)」された図書の記録である。

つまり、いまの体制からしたら、間違いなく「反体制」の図書類なのである。
これらになにが書いてあったのか?は、「公平・公正・中立」をいうなら、嫌でも目を通しておかないといけないのである。

卑近な例になるが、いつの間にか、「エロ本」の定義が変わって、「ヘアー解禁」なる変事がふつうになったのは、ただの「時代の流れ」だけが理由なのか?

あるいは、「チャタレイ事件」(昭和26年)では、『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳した伊藤整と出版元の社長に、「わいせつ物頒布罪」が問われ、最高裁判所は上告を棄却して、東京高裁の有罪が確定したのだったが、1996年(平成8年)に、「なし崩し」で完訳本が新潮社から出版されている。

最高裁の決定はどうなったのか?
どうして、新潮社にはおとがめがないのか?これも、「時代の流れ」だけが理由なのか?

いまの「AV」と比べたら、わが国初のハードコアだった、武智鉄二監督作『白日夢』は、谷崎文学を映像化した、まったくの「文芸映画」にちがいない。

どうしてこうなったのか?は、GHQが設定した、当初の「体制」が、もともと無理と邪悪だったために、「革新」と「反動」の揺れもどしで、地震でいう「液状化現象」が、社会で起きた結果といまだ進行中の、目視できる姿なのである。

要は、「3S政策」の仕上げに入ったのではなかったか?

別の例をいえば、フィリピン・プレートに乗っている、「伊豆島」が、本州とぶつかって、「伊豆半島」になったけど、いまだに本州を圧していて、それでできた南アルプスが、地球最大の隆起(4mm/年間)をしているのと等しい。

ちなみに、インド島がユーラシア大陸に衝突してできたヒマラヤの隆起は、2mm/年間だから、数億年後には、南アルプスがヒマラヤを超える高さになるのは、確実なのである。

そんなわけで、最初の設定を間違えると、たとえそれが数ミリとか、角度でいえば数秒もなくとも、長い時間のうちに、どんどん離れていくのは、なにも物理現象だけでなく、人間のつくる社会もおなじなのである。

だから、まともな理想論とか、むかしからの道徳をかざすと、GHQが勝手に設定した「原点と方向性」との違いとなって、たいがいが失敗の憂き目を見るのである。

ところが、それならGHQが設定したオリジナルを忠実に実行すれば成功するにちがいない、とはならないのは、わが国の歴史から民族性からなにからなにまで、無視して設定したのがこの「オリジナル」だから、これも成功しようがない。

なんのことはない、わが国は、八方塞がりなのである。

それなら、初めから、を設定し直す必要があるという結論になるのは、子供でもわかる。
でもできないのは、それ自体がもう、「反体制」の話になる必然があるからだ。

だから、八方塞がりなのである。

すると、この八方塞がりを国民の常識にすることからはじめて、ようやく「体制の殻を破る」話ができる状態になるのである。
残念ながら、相当に「痛い目」にあわないと、八方塞がりだとも感じないから、困ったものなのである。

先日書いた、全米自動車労組のストライキに、トランプ氏が労組幹部と会合を持つと発表したら、その会合の直前にバイデン氏が慌ててデトロイトにやってきて、「このストライキへの全面的な支持」を表明するやいなや、ワシントンにとんぼ返りした。

トランプ氏の方は、演説会を用意していて、労組のひとたちが多数参加し、「バイデン批判」に拍手喝采を浴びせていた。

自分の政権がやった四年間の業績を改めて自画自賛すると、聴衆は「そうだった!」と思い出したのである。
この意味で、バイデン政権とは、もしや「消える前のろうそくの輝き」なのかもしれないし、「悪政」による「痛み」を国民が知り、目覚めるチャンスだったのだともいえる。

すると、このバイデン政権にベッタリの自公政権の輝きの意味も見えてきた。

大臣になったら「勉強します」

毎度のことながら、新内閣が発足したり、内閣改造人事があったりすると、新任の大臣が記者会見することになっている。

このところ部数の解約が著しい新聞社は、組織的な命令で、全員に同じ質問をぶつける、という「恒例行事」を、内輪で楽しんでいるようだけど、それが部数解約の歯止めにも何にもならない不思議があって、質問させられる係にされた記者のロボットのような対応が、とにかく印象に残るようになっている。

このひともきっと、「一流大学」を卒業したいわゆるエリートなのだと、自他ともに認めているのだろうから、それが上からの業務命令に従う、サラリーマンの悲哀なのだといえばそのとおりだ。
しかし、こんな「晴れ舞台」で、実家では親や親戚が、記者の方に注目して観ているかと想うと、なんだか胸が痛むのである。

そんな異様な雰囲気の会見場で、「初入閣」という議員ほど、あたかも「謙虚さ」をアッピールしたいのか?どういうわけだか、「これから勉強します」というひとが絶えない。

似たようなことでは、新人が当選して、いきなり自治体の首長にでもなると、「行政手腕が問われる」とかなんとか、マスコミの上から目線が炸裂するものだ。

大臣は下から目線で、自治体だとマスコミが上から目線で書き立てるこうした、両極端なコントラストが、国民の脳に刷り込まれて、もう誰も反応しなくなった。

それならば、民間企業で新任課長が、「これから勉強します」と部下にいったらどうなるのか?
別段、これが課長ではなくて、部長でも社長でもおなじだ。

組織に、どうして、「管理職」が必要なのか?を問えば、「管理職とは何者か?」という問題を先に解かなければならない。

日本企業は、ふつう、新卒で採用されて、右も左もわからない新人たちが一斉にスタートラインを切って、あたかも「出世競争」がはじまると思い込んでいる。
目指すは、会社幹部で、できれば役員(取締役)への昇格=出世なのであろう。

大企業ほど、学歴社会だという思い込みもあるが、大学卒でなければはなから出世競争に参加もできない、とかんがえるのは浅はかの極みである。
実力が認められれば、高卒だろうが中卒だろうが、あるいは大学院卒だってかまわない。

ちなみに、国家公務員やらだと、これが逆転して、「高卒(大学中退)」で、つまり、大学在学中に「国家総合職」に受かって入省したら、先輩を数年抜いての上司になる。
院までいって、総合職に受かりました、では、学部の後輩にも年次で抜かれたことになるのである。

民間でむしろ、学歴だけで人材活用の判断をする企業体なら、将来不安となるのは今どきの企業間競争時代ならではなのである。
だから、『四季報』でも眺めてみて、取締役に高卒の文字を見つけると、本人の力量と会社の力量の両方をあれこれかんがえさせられるものだ。

しかして、そのような場合のおおくは、「専門職」としての評価なのであろう。

もう20年以上前になるけれど、香港の高級ホテルの人事制度を調べに行ったことがある。
とある企業では、サービス専門職のトップや料理人のトップは、「取締役待遇」としての処遇だった。
実際の取締役ではないから、法的責任はないけれど、「同格」としての報酬が用意されていた。

専門職をまっとうするための知恵だとの説明に、感動すら覚えたものだ。

不得意な財務やら法律論の知識は、専門職の最高峰を維持するには不要だからである。
むしろ、そんなことではなくて、後進の育成こそが企業体存続のための重要職務として指定されていたのである。

昭和の敗戦まで、家族主義がふつうにとられていた日本企業は、「企業一家」であった。
そこにいわゆる「ヤクザ=任侠映画」の素地がある。
まさに、「義理と人情」が、美しい道徳であった。

これが、無機的なアメリカ・スタイルになったのは、いまの日本経済の光と影の、影ばかりの原因だろう。
「アメリカかぶれ」の悪弊がみてとれる。

しかし、アメリカ・スタイルにだって少しはいいところもある。

それが、組織運営におけるセオリーの「MTP」だ。
これは、体系的でなおかつ、心理学の応用がふんだんになされている。

管理職とは、MTPを基準としたら、あんがいと職人技=専門職的なのである。
つまり、組織管理の専門職という意味でだ。

日本企業の場合、社内事情に通じた入社年次からの頃合いをみて、管理職にさせるので、管理職になってから管理職の教育をする企業もある。

これを、入社時から徹底させる企業と比べたら、競争にならないのは誰にでもわかるけど、やらない企業が多数あって、「わが社の人材はイマイチ」とかと嘆く幹部がいるのは、もうそれ自体が、「患部」である。

選挙に当選することだけが仕事になった、国会議員という世襲体制で、大臣になってから勉強しますが通るのは、世襲だからだし、これで問題ないのは、「党の専門部会」が、大臣に命令するからだ。
しかし、これを批判する立場の、「記者」が、管理職とは何かを知らないで社内昇格して管理職をやっている。

国民は、こんな阿呆に付き合えないと、そっぽを向くばかりだ。
新聞やテレビは観ないに越したことはないものの、国会議員はそうはいかない。

とにかく選挙にいかない国民が多数いることで、世襲ができてシャッポに据えともなんとかなるのである。

「国会議員世襲禁止法」とかを立案できるひとがいなくとも、まずは世襲議員以外に投票することからはじめないと、なにもはじまらないゆえんだ。

裁判所が「立法」する法治国家だってさ

27日、水俣病被害者救済法(特措法)に基づく救済を受けられなかった128人が、国や熊本県、原因企業チッソに損害賠償を求めた訴訟の判決が大阪地裁であった。

この裁判の勝ち負けではなくて、ちょっと引っかかるのが釈然としないので書いておく。

なんだか、裁判長はどんなひとかを書きたてるなど、過去にはあまりみなかった記事があるようだけど、それはそれで結構なことである。

裁判結果で特集しないで、着任・任官したら書いて欲しいとはおもう。

ただ、宗主国アメリカで起きている、「司法の武器化」とは事情がことなる。
アメリカの場合、検察官と裁判官の任官制度に、「選挙」がある。

それで、たとえば、「ソロス・チルドレン」なる、多額の選挙資金をもらったその筋の活動家が、地方検事になったり、州地裁の裁判官になったりして、特定思想のもとに偏向した起訴と判決をだすので「武器化」といわれている。

さらに、民主党・バイデン政権の司法長官も、バリバリの活動家だから、国家の連邦検察官までもが、「武器化」に加担している。
もちろん、こうした法をもっての武力を行使する先は、もっぱら共和党トランプ派である。

だから、裁判でも有利なのは、反トランプをかかげるひとたちになって、見えないアメリカの分断を推進しているのである。

「同盟国」と呼ぶけど、実質植民地のわが国の場合は、フランスがいまでもアフリカでやっているほどのあからさまともちがう、巧妙な仕掛けでもって支配されている。

それは、「独立ごっこ」で、あたかも日本が独立国として、自分で決めている、という風情を醸し出すように、国家機構が設計されているのであった。

その大本に、「日本国憲法」がある。

わたしのように、昭和30年代の生まれには、小学校の高学年で、文部省『あたらしい憲法のはなし』なる、副読本が配布されて、旧憲法をしらない小学生に「上書き」しようとした洗脳があった。
いまは、青空文庫化されて、電子ブックで無料で読める。

なので、日本国民の総意ではないけれど、いちおう日本人の、伊藤博文が、横浜市金沢区野島に建てた、「旧伊藤博文金沢別邸」で大日本帝国憲法を起草したことになっているので、アメリカ人達が数人でよってたかって書いた「日本国憲法」よりは、日本の憲法だったといえる。

もちろん、伊藤やら山県有朋やらの「元勲」たちが、一等地のすきな場所に多数の「別邸」(といえども邸宅)を建てることができたのは、「特別会計」からの実質国家資金の横領だった。
このひとたちは、いまの官僚に通じる、国家のものは自分のものという感覚の「元勲」なのである。

なお、旧伊藤博文金沢別邸の悪名高き制度でしられる、「指定管理者」は、公益財団法人横浜市緑の協会という邪悪な市職員の天下り組織で、伊藤邸の説明から、「大日本帝国憲法起草の地」の説明をしていない「わざと」がある。

なんだか、この「緑の協会」と、東京の「緑のおばさん」がダブって見えるのは、気のせいか?
まぁ、なんだかしらないが、電車の二等車を「グリーン車」というのも、あやしいけれど。

そんなわけで、大日本帝国憲法を国民になかったことにしたい、という意図がチラチラするけど、これはこれで、「歴史を忘れさせる」ための、立派な全体主義的洗脳行為である。

けれども、自公政権は、とっくに宗主国アメリカ民主党の全体主義を推進しているので、とにかく民主党・トルーマン政権がGHQに命じてできた、日本国憲法を絶対的な、「不磨の大典」としないといけないのである。

このためだけに、日本社会党という便利な存在があった。

そして、そのための司法部門の行政機構が、最高裁判所事務総局だ。

わが国のすべての裁判官の、「人事」を司る「局」だけど、責任者は「事務官」と、「最高裁判所事務総局規則(昭和22年12月1日最高裁判所規則第10号)」で決められている。

最高裁の判事や判事を代表する、長官が人事をやっているのではないし、この規則を決めたのが、占領中の昭和22年だということに気づけば、わが国の意向で決めた規則ではないこともわかるのである。

けれども、これを続けているのは、ずっと植民地だからである。

そうやってみたら、本稿冒頭の判決は、とうとう裁判所が「立法」までしてしまっての「救済」なのである。

残念ながら、敗訴した国やら県とは、「行政機構」のことである。

しかしながら、こうした判決がでても、およそ「自分事」としてかんがえもしない、「立法府:国会」の機能停止が、三権分立を「わざと」破壊している。

つまるところ、水俣病の認定にかかわるエリア指定を、国会が「法改正」をもって拡大させれば、こんな裁判すら必要ない。

つまり、原告には踏んだり蹴ったりの話(裁判費用と時間のムダ)で、国民として他人事ではないのは、生活のあらゆる面で、起こりうる「被害」に対しての無責任が、選挙を通じて選んだはずの議員たちによって白昼正々堂々とおこなわれているからである。

なので、『あたらしい憲法のはなし』を読まされて感じた、子供ながらの違和感が、こんな形で出てきたことに、いまさらながら釈然としないのである。

そのときの、先生のドヤ顔が、「君たちこれはウソだよ」といっていたのかもしれない。

ポーランドの領土拡大願望

歴史上、三度も亡国したポーランドは、甘いショパンの音楽とあいまって、大国の割には弱っちいイメージがあるけれど、その実は、やっぱり、ヨーロッパ人らしくあんがいと凶暴な素顔がある。

そうでないと、群雄割拠するヨーロッパでは、大国として生存できないからである。

池田理代子の、『天の涯まで』は、全3巻と短いが、そんなポーランドの気概がきっちり表現された、名作だとおもう。

  

とにかく、「列強」という国々によって、つまり、プロイセン(ドイツ)、オーストリア=ハンガリー二重帝国(神聖ローマ帝国)、それとロシア(ソ連)にやられまくったので、ポーランド人は、心情的にこれらの国々が大嫌いなのである。

とくに、ドイツとロシアが嫌いだ。

おなじソ連衛星国の境遇で、「ハンガリー動乱(1956年)」のときも、ポーランド人がどこか他人事だったのは、神聖ローマ帝国以来の恨みがあるからだった。

このあたりは、「観念的」で、はまり込む、日本人インテリともちがう。

江戸期には、「漢籍かぶれ」から、大陸に完全敬服する学者が多数いたのも、「ソ連かぶれ」で、どんなに悲惨が伝わってきても動じない、向坂逸郎のようなひとが崇められるのも日本なのである。

当然、戦後の多数を形成する常識人達は、「アメリカ(民主党)かぶれ」しているのであるけれど、自覚がない、という歴史的共通が、あぁ本性が変わらぬ人間なのだ、とも思わせるのである。

人類史を構築してきた、パワー・ポリティクスによれば、「力の空白地帯(「真空地帯」ともいう)」には、かならずやなんらかの「(国家的)パワー」が入り込むものだ。
あるいは、周辺よりも弱いエリアをみつけたら、そこにも水が流れ込むように浸入する。

これが、「自然」のエネルギーの流れと似た、人間のパワーバランスの作り方なのである。

さらに、数千年前からとかの古くからひとが棲みついたような場所なら、血筋も含めての興味が涌くのは、収穫物よりも強い衝動をもたらす。

おそらく、ドイツから続いて原生林が広がっていたポーランドも、ワーグナーの大作、『ニーベルングの指環』の、3日目、『ジークフリート』にあるような森の中の暮らしがあったはずだ。

これが、ポーランドとバルト三国(とくにリトアニア)が見つめる「西ウクライナ」への視線なのである。
なぜなら、16世紀から17世紀のヨーロッパで最も大きく、最も人口の多い国のひとつであったのが、「ポーランド・リトアニア共和国」だったからである。

正式には、「ポーランド王国およびリトアニア大公国」、という。

この両国の結びつきは、1573年の「ワルシャワ連盟協約」を根拠とする。
それで、いま、ポーランドとリトアニアは、この「ワルシャワ連盟」の21世紀版を構築しようとしているのである。

もちろん、この域内に、「西ウクライナ」も含まれるのである。
仮想の、「ワルシャワ連盟共和国」だ。

ただし、この両国を分断して、ロシアの飛び地、カリーニングラードがバルト海に面してある。

ポーランドは、第一次大戦が終わって、独立を回復するやいなや、「西ウクライナ」に進軍して、この地域をポーランド領とした。
それが、第二次大戦で、ドイツとソ連によって分割されて、三度目の亡国をすると、西ウクライナは、ドイツ領になって終戦を迎えている。

スターリンは、東ドイツまでの版図を得たので、ポーランドに西ウクライナを付けて、社会主義ポーランドとはせずに、西ウクライナと縁が薄いロシア語圏の東ウクライナを合併させて、これを、「ウクライナ」とした。

それで、国としたのではなくて、「ロシア共和国」に取り込んで「(共産党)直轄」としたのである。

スターリンという、いまなら脳に障がいがあったのではと疑いたく特異な人間は、まさに悪魔さながらの発想で、「分断をもって統治・支配する」という方法が大好きだった。

時間はさかのぼって、ポーランドが西ウクライナを獲った後、いまのウクライナのその他の地域では、おそらく共産党が仕掛けた、「ホロドモール(大飢饉)」(1932~34年)が起きて、阿鼻叫喚の地獄と化す。

穀倉地帯のはずの、ウクライナでの悲惨だ。

これが、反ソ・反共の恨みにならない方がおかしいけれど、そこに、ポーランドを奪ったドイツが支配した西ウクライナから、ナチス親衛隊がやって来るのである。
そうして、ソ連からウクライナ独立をいう軍隊と、反ソ・反共のナチスが組んでしまったのだった。

もちろん、敗退前の元気さで進軍してくるときに、親衛隊がこの地域のユダヤ人らになにをやったのか?は、当地の一般人を弾圧したどころの話ではない。
なにしろ西ウクライナは、ポーランド領だったのである。

ヒトラーのモスクワ攻めは、ナポレオンが原生林を切り開いてつくった、「ナポレオン街道(いまは一般国道)」のルートと、西ウクライナから北上するルートの二つで、後者のルートで活躍したといわれているのが、ウクライナの「コサック兵」だった。

なぜにコサック兵が、赤軍とともにドイツ軍と戦ったのか?に関しても、暗い話があるにちがいない。

一応念のため、スターリンは、ドイツのモスクワ攻めを「大祖国戦争」と呼んでいたのは、なかなかのプロパガンダであった。

そんなわけで、ポーランドが急速にゼレンスキー政権と険悪になってきた背景に、西ウクライナの最併合があるのだという話になっている。
しかし、こんな手のひら返しは、かえって不審を招く。

なにか、一般人には目に見えない、変なことが画策されているのかもしれない。

それが、ポーランドとリトアニアによる、カリーニングラード奪還戦だとしたら、これに、イスラエルがタイミングを計ってイランを爆撃したら?まさかの第三次世界大戦になる。

そんなばかな?