いまどきの「防災無線」考

わたしが子供のころの横浜市中心部(西区)は、いまでもある古河電工の当時は工場(いまは研究所)から、「時報のサイレン」が鳴っていた。
もしや空襲警報のサイレンもこれだったのか?
生まれる前のことなのでしらないで生きている。

それで、横浜市には「防災無線のスピーカー」が設置されていなかったので、工場が研究所になったら、ずいぶんと静かになった。
しかし、令和2年から、どういうわけか小中学校を拠点にした、防災無線を設置しはじめたのである。

幸いなことに、わが家がある地域には設置されていないので、いまのところ静かさは保持されている。
なのでたまに地方へ旅して、防災無線を通じた「下校の放送」やら、「音楽」を聞くと、全体主義的な雰囲気を味わえる。

ときに、徘徊中の老人を探す放送があったり、その後無事保護された旨の放送があって、とりあえず「よかった」とはおもう。
この「牧歌的」な感じがいい、というひともいれば、ただの騒音だとおもうひともいる。

それで、裁判になったこともあった。
とりあえず、行政側は「無罪」で、「原告は敗訴」することになったようである。
しかし、原告の希望は通って、「音を出さない」ことが認められている。

防災無線だから、ずっと音を出さないのではなくて、「試験放送の音」のことをいう。
つまり、あの「音楽」や「下校の放送」は、防災無線システムの「試験放送」だったのである。

すると、徘徊中の老人を探す放送はどんな位置づけなのか?
たぶん、「よかれ」として「応用」した、「試験放送」だとおもわれる。

なので、「騒音」を止めさせたいというひとは、原告になって敗訴して裁判費用を負担すれば、とにかく「試験放送」をやめてもらえる、というルールができたというわけである。

にもかかわらず、千葉県富津市で、24日、この防災無線が「騒動」となった。
この原因は、市の防災安全課に寄せられた「苦情」の処理だ。

「騒音」とした苦情に、「廃止」を決めたら、「文化」だという反対の苦情が殺到して、こんどは「廃止を撤廃」したのだった。
それでかんがえついた「苦肉の策」が、「下校の放送」と「時報の音楽」が1時間違いだったのでこれを「統合」するとした。

なんだかなぁの結論になったのである。

ここで、ちょっとかんがえたいのは、「市議会」の存在が見えないことだ。
もちろん、「市長」はどう判断したのか?という意見もあるようだ。
ただ、「市長」は、「行政の長」だから、防災安全課の決定とは、そのまま「市長の決定」を意味する。

だから、市長が「聞いていない」なんてことになると、たちまちよくある「組織の意志決定問題」になる。
このことを「忖度」したのかはしらないけれど、ニュース報道はここには触れずに、「担当者」の回答としている。

すると、「大マヌケ」は、「市議会」になる。

市民からの意見がことなる苦情に、完全しらんぷり=役人に丸投げ、しているからだ。
まさに、「市議会」での議論にふさわしい「議題」ではないか?
これぞ、市民の「生活密着」問題だからである。

これは、「大袈裟」ではなくて、わが国の民主主義が、ぜんぜん機能していないことの実例なのである。
なんのため、だれのための「議員」で、なんのため、だれのための「議会」なのか?がそのまま問われるからである。

この「お客さん」感覚に、違和感すら感じない「市民」という「住民」たちのお目出度さ。
おそらく、役人に向けた「批難」が起きているだろうけど、このばあいは役人をバカにする話ではない。

むしろ、市民たちが民主主義を理解していないことの「深刻さ」が、よほど「痛い」のである。

すると、富津の市民たちはバカなのか?
そうではない。

もっと大きな、「巨悪」が見えてくるのである。
それが、国家が仕込んだ「非民主主義」に仕向けたる「国民教育」の悲惨なのだ。

その被害者が、市民であり、議員であり、担当した役人なのである。

ならば、わが国の「公教育」を仕切っている文部科学省がバカなのか?
確かに、日本国民は、国家公務員「界」という世界における、「最低カースト」にあたる役所が、文部科学省だという位置づけをしらなければならない。

しかしながら、べつだん文部科学省を擁護するつもりは毛頭ないが、国家公務員試験の成績で最低ランクばかりを毎年採用させられている、ということもしらないといけない。

つまるところ、「東大卒」はおなじでも、卒業時成績という「序列」における最低の集合体が、文部科学省を構成しているのだ。
それゆえに、風俗好きな「変なひと」が事務次官になって、「天下り斡旋で違法行為」をして解任されても、公衆の面前に臆面もなく出てこられる神経だけはある。

ところが、そんな「カースト」をつくったのが、GHQなのだ。

占領軍が去ったわが国は、主権回復したことになっているけど、ほんとうは、在日米軍によってずっと占領されている。
在日米軍とは、わが国を防衛するためにいるのではなくて、第一義としてわが国をいまだに「軍事占領」しているのである。

その被占領下の国民意見が割れたとき、議会が機能しないのも、占領目的に適っていることをしらないといけない。
これぞ、「防災無線」が「無意味」の意味なのである。

経産省「DX研究会」の噴飯

かつて日本の「財界」を代表するのは、経済団体連合会(経団連)、日本商工会議所、日本経営者団体連盟(日経連)、経済同友会(同友会)の、いわゆる「経済4団体」といわれる組織があった。

2002年(平成14年)5月28日に、経団連と日経連が統合して、一般社団法人日本経済団体連合会が誕生して今日に至った。
なので、いまは「経済3団体」になっている。

ところで、「日経連」とは、「財界労務部」とも揶揄されたことがあった。
その理念は、「健全な労使関係の構築」と明記されていて、もっぱら政府に「経済政策」を促した経団連とは別の意味で「貴重な存在」だった。

だから、国をあげての「団体交渉」を、総評や連合とやっていた。
つまり、労働組合にとっての「カウンターパート」だったのである。

それで、この「合併」時期は、第一次小泉純一郎内閣(2001年4月26日~2003年11月19日)だった。
なお、小泉内閣は第三次(2006年9月26日)まで続く。

経済財政政策担当大臣が、「民間」から初入閣した竹中平蔵氏だった。
2004年(平成16年)7月、第20回参議院議員通常選挙に自民党比例代表で立候補し70万票を獲得しトップ当選して、大臣の肩書きから「民間」がとれた。

そんなわけで、国民の多数がこのひとを「支持した」ようになっているけど、1億人のうちたったの70万人でしかないことにも注意がいる。
詳しい経緯を解説したものがないけれど、経団連と日経連の合併を画策したうちに、竹中氏もいただろう。

「ライバル」というものは、人間の精神構造上でも非常に重要な存在である。
トップを目指す、という競争で、ライバルがいるといないとでは精神的な緊張が変わるからである。

すなわち、労働組合にとって、強力なライバルである日経連の消滅は、灯台を見失ったも同然になるので、じつは組合潰しの戦略なのだといえる。

以来、邪魔者の勢力を減衰させた経団連は、国家予算を求める「乞食集団」へと変容して、かつての「財界総理」とは、「乞食の親分」に成り下がったのである。
これは、国側からした「奴隷化」のはじまりにすぎない。

そんなわけで、経産省は、平成30年9月7日付けで『DXレポート』なる、「官庁文学」を発表した。
「DX」とは、「デジタルトランスフォーメーション」のことだ。
日本政府は、もはや日本語を使用しない。

結局のところこの「官庁文学」では、あたらしい「恐怖」を描いた。
この「恐怖をあおる」ことが、国民支配の重要な心理戦でのキーワードなのである。

しかしながら、もっとすさまじい「恐怖」による支配を、コロナで実践して成功させたから、令和になってあらためて「DX」をはじめるという。
穿った見方をすれば、はるか「格下」の厚生労働省が得た「コロナ利権」がうらやましくてしかたないのだろう。

なので、このところ、製油所の廃止とか、経済産業省が張り切っている。

もちろん、「第一義」は、国民利益のはずもなく、「省益」につきる構造になんらの変化もない。
よくも参議院選挙直前で、こんなことができるものだと感心するが、それこそが国民意識との乖離の顕在化にすぎない。

それでもって、経済産業省様は、2025年にアホな民間企業がデジタル化に追いつかず、どえりゃー経済損失を被ることになる、と叫んでいるのである。

それで、国家予算でこれらを克服してやるから、有りがたいと思え、と。

これに乞食になった経団連が、(お代官様)ありがとうごぜぇますだ、といって拝んでいるの構図なのである。

遠山の金さんより酷いことが、21世紀日本の現実だ。

予想される経済損失を被るのは、個々の民間企業である。
しかも、経済産業省様の「お怒り」は、そんな損失がでることすらアホウな民間企業が気づいていないことだという。

大きなお世話なのである。
国家はこのようにして「肥大化」することの典型だ。
ならば、財源はなんなのか?
法人税収だけでやる、なんてことは微塵もないだろう。

すると、カウンターパートとしての経団連が消滅したら、経済産業省も衰退するのではないか?
逆に、経済産業省が消滅したら、経団連はどうするのか?

なんだか、かんがえるのが楽しい。

殿さまキングスの大ヒット曲『なみだの操』(1973年)にある、
「あなたの決してお邪魔はしないから」には、高度成長の「核心」があった。
役所も、民間企業事業の決してお邪魔はしない、という矜持があった。

というよりも、役所の「体制」が、間に合わなかった偶然が、まさにラッキーだったのである。
しかし、役所の民間への介入体制を着々とつくって、これを完成させたのが、田中角栄通産大臣だった。

そんなわけで、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」のごとく、田中角栄の亡霊がいまだにこの国を支配している。

だからか、20日、十倉経団連会長が発言した、少子化=労働参加率の低下と定義したうえでの、「外国人の労働参加率を高める」という言い方は、「なぜ少子化しているのか?」を問わない、弥縫的な安易さを追及したいという話で、そこに哲学も何もない。

こういった原因追及の甘さが、DXも役所頼みになる「財界」の堕落を象徴している。
経済のことに国が介入するな、といった役人から第二代経団連会長になった石坂泰三の爪の垢でも、と思う昨今なのである。

テキサス州共和党の反乱

全米50州で、「唯一」独立国だった、という歴史を誇るのが今のテキサス州だといわれている。

いわゆる「先住民=むかしはインディアンと呼んだ」をどうしたかとか、「カメハメハ王朝」のハワイをどうやって奪ったかとが考慮の対象にないのは、「白人国」というくくりがあるからだ。

だからこそ、「別格」としてのテキサスは、「州」としてもいまだに「別格」を自負している。
それは、「併合条約」(1845年:和暦では弘化元年~弘化2年)という外交の結果として、合衆国に「編入された」という歴史的事実に基づいている。

なお、併合後も一度再独立(1861年)したことがあって、南北戦争後の1870年に再編入されて今日に至っている。

つまるところ、この「併合条約」での「併合条件」が不履行になったとき、合衆国からの「離脱」も元独立国の権利として担保されていることを示す。

それで、21日配信の「Newsweek」によると、テキサス州共和党は16日~18日にかけてヒューストンで党大会を開催し、綱領についての議論で、テキサス州の再独立のための住民投票実施を要求、とある。

ちなみに、「Newsweek」(1933年創刊)といえば、「TIME」(1923年創刊)に次ぐ、ニュース雑誌だけれども、2010年に、「1ドル」で売却された経緯がある。

音響機器メーカー大手のハーマン・インターナショナル・インダストリーズの創業者シドニー・ハーマンがオーナーだ。
「日本版」は、1986年に創刊されている。

当然だが、これまでも再独立の議論はあって、たいがい連邦政府が民主党政権のときに「盛り上がる」傾向がある。
じっさいに昨年、共和党州下院議員が「テキジット(Texit)」(テキサスとエグジット=離脱を合わせた造語)の可否を問う住民投票の実施を求める法案を提出した経緯がある。

つまり、ずっと「くすぶっている」ままなのだ。

しかして今回の党大会では、前代未聞の「決議」があった。
それは、「記事内」で下記のように批判されている。
「2020年の大統領選挙で広範な不正が行われたとする、ドナルド・トランプ前大統領の根拠のない主張への変わらない支持を表明した」。

その「決議」とは、現在のジョー・バイデン米大統領は「合法的に選挙で選ばれていない」ことだ。

なんと、現職大統領の正統性を「否定」したのである。

記事では、相変わらず「根拠のない主張」としているけれど、根拠が「ありすぎる」のと、その「闇が深すぎる」ことぐらい、外国人のわたしにもわかるから、また得意の「捏造」かとあきれるのである。

なにしろ、地区選挙管理委員会ごと買収されている疑惑が晴れないままだし、当局による捜査や司法も機能していないのだ。
その「不正」の規模が、想像を絶するのに、「Newsweek」のような「老舗マスコミ」も機能していない。

日本人の感覚になじまない「銃規制への反対」も、アメリカ建国の歴史を「保守」する立場からしたら、いかんともしがたいのだろう。
もっとも、面積が「広すぎる」という物理条件で、警察に通報しても到着まで数時間かかるかもしれないともなれば、頭でかんがえることではないのかもしれない。

ネットの広告で、死亡事故が絶えない急峻な山道で、事故を激減させた「警告看板」の話がある。
従来の「スピード落とせ」ではなくて、「事故発生の場合、救急車到着まで数時間を要します」。

民主党が優勢の都市部における、「銃規制」の正義は、日本より遅くとも警察がやって来てくれることが前提なのだろう。
しかし、共和党が優勢の地域は、人口密度がぜんぜんちがうのだ。
この人口密度の薄さをイメージできるのは、北海道だけではないのか?

今回の党大会で、もうひとつの衝撃は、同性愛を「異常なライフスタイルの選択」と表現しているほか、「トランスジェンダーのアイデンティティを認めようとするあらゆる活動」に反対すると宣言したことだ。

アメリカナイズされたわが国でも、このことは今どきならば衝撃になるだろう。

しかし、「倭人」にまでさかのぼれば、古来日本人は「おおらか」であった。
『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条に「初見」があるとされている。
すなわち、「おおむかし」から、ということになっている。

すると、いまさら「規定」することの意味に、日本人は戸惑うのである。
しかしながら、「西洋」で、男女を問わず「同性愛:Homosexual」と定義されたのは、1896年である。

『日本書紀』が「完成」したのは、760年と習うから、ここを起点としても1000年ちがう。
キリスト教の大義名分から「悪」とされることが、そもそものちがいの原点だ。

ここにも日米における、「保守」のちがいがある。

それにしても、「公党」が、国家元首を否定した。
その相手が、わが国の「宗主国」だから、わが国の政府も揺れることになる。

対岸の火事ではない。

2022参議院選挙は天王山

「天下分け目」といっても過言ではない、過去にない重要な参議院議員通常選挙が今日22日に「公示」され、7月10日が投票日となる。

「国政選挙」といっても、直接的に「政権選択」をする衆議院議員選挙とはちがって、「たかが参議院」というのがこれまでだった。
わが国の「国会」は、かろうじて「二院制」を維持したけれど、実質的に「一院制」に近いのは、衆議院の優位性が憲法で決められたからである。

GHQによる「憲法草案」では、「一院制」だったけど、日本側が強く「二院制」を求め、あっさりこれを認めた経緯がある。
ある意味、いま、これで国民は「助かっている」から、根性ある先人に感謝していい。

戦勝国のアメリカがつくった憲法なのに、上述の経緯ばかりか、ぜんぜんアメリカ合衆国憲法とは構造もちがう。
それは、「戦勝国のアメリカ」とは、アメリカ「民主党政権」を指すからである。

つまり、アメリカ民主党に都合のよい国に、強制的に改造させられたのだ。

そのアメリカ民主党とは、何度も書くが、スターリンに追い出されたトロツキー「一派」が亡命して乗っ取った、世界革命を目指す「グローバル全体主義」の集まりなのである。

いつもの「発言の切り取り」で、グローバル全体主義のためのプロパガンダに余念がないマスコミは、プーチン氏の「スターリンを尊敬している」という部分だけで、東ヨーロッパの「反プーチン感情」の醸成に成功した。

ロシア国内向け発言とはいえ、たしかにスターリンを持ち上げるのはいかがかとおもうけど、プーチン氏による「スターリン評価」の本質は、「ナショナリスト」だったこと一点に絞られる。

いわゆる「マルクス・レーニン主義」とは、世界革命のための「国際共産主義運動」の中心軸だ。
国際共産主義運動こそ、グローバル全体主義の本質である。

つまるところ、スターリンはレーニンの主義をねじ曲げたナショナリストの英雄なのであって、その権力の源泉が共産主義を道具にした独裁者だった。
それでもって、プーチン氏は、共産主義を「否定」した上でのスターリン評価をしたから、ただナショナリストであることを強調したのである。

このことに気がついた、ハンガリー人とルペン氏に投じた4割のフランス人は、アメリカ共和党の「MAGA運動」に親和性を抱いている。
それゆえに、二期目の勝者であるマクロン氏とて、あからさまなグローバル全体主義を主張できなくなったのである。

19日投開票のフランス国民議会(下院、577議席)で、マクロン氏の与党が過半数割れしたことを、日本のマスコミは「左派連合躍進」と報道したけど、相変わらず「極右」と書くルペン氏の「国民連合」は、6議席から89議席(約15倍)という「大躍進」で第三勢力になったことに触れない。

ちなみに、「左派連合」もよくいったもので、これには共産党も含まれている。
つまり、「極左連合」と表現すべきだ。
フランスは、国民分断の「股裂き状態」なのだ。

さてわが国に話をもどすと、外国と比較するにあたって、衆議院とは議会下院、参議院とは議会上院のことである。

アメリカでも、連邦予算については下院に優位性がある。
では上院の「上たるゆえんは?」といえば、「外交」と「人事」についての優位性があることだ。

アメリカ連邦議会は、下院議員の任期は2年で、4年毎の大統領選挙と同時に選挙があって、2年後には中間選挙があるから解散はない。
上院議員は、3グループに分かれていて、おなじく2年毎にグループで改選されるから、当選したら6年の任期となっている。

それで、6年間じっくりと「外交・条約」と「連邦高官人事」を見張っているのである。
だから、大統領の与党と上院議会の多数党が「ねじれ」たら、その大統領の政権を「レームダック」と呼ぶのである。

なお、アメリカでは過半数をとれば「通過する法案」と、上院における本会議で議決を決めるための60票ルール(上院議員は、100名)、大統領の拒否権を拒否するための上下両院で3分の2を要するなど、あんがいと「過半数」では足りないことになっている。

わが国では、アメリカの上院ほど参議院に優位はない。
しかしながら、「ねじれ」たばあいの政権運営は、かなり厳しいことになるのは、1989年(平成元年)を皮切りに、2000年代で頻発した。

そうなると、「両院協議会」を開いて、衆参両院から10名ずつの委員を選出し、協議案が出席協議委員の3分の2以上の多数で議決したら、それがまた、衆参両院本会議にかけられることになっている。

しかし、協議がまとまらないばあいで、「予算」、「条約」、「総理大臣の指名」は、衆議院の議決に優位がある決まりなので、アメリカ議会とはまるでちがうのである。

日本の場合の「ねじれ国会」は、自民党を中心にした与党体制の劣化でもある現象で、国民意識の多様化に政治がついていけないことの証左でもある。
なんだか、「ダメ会社」と似ているのである。

なお、アメリカの政党と議員の関係は、あんがいと「個別的」だ。
日本の既存政党が「常識」としている、「党議拘束」という概念がない。
党派を超えて、議員は独立した議員としての判断で決議にのぞむ。

ゆえに、「造反」があっても、党としてできることは、地元選挙区の党員が決めるしかない。
「党中央(の人事権)」という共産党的概念がアメリカの政党にはない。
だから、「党首」が誰だかはっきりしない特徴もある。

しかしそうはいっても、次期選挙の「予備選挙」において再選されたら、党員は本選挙を全力応援する仕組みになっている。

この点で、党議拘束を常識とするわが国の政党は「全体主義」を是としている。
むしろ、「党議拘束」は、憲法43条に違反していないか?

今回の参議院選挙の特徴は、保守系新党が話題を振りまいている点にある。
これを、自民党参議院議員の和田政宗氏が党内に警告している。
マスコミによる内閣支持率の高さに浮かれていたら危ない、と。

もっといえば、自民党を支えてきた「岩盤保守層」の「流動化」という悪夢だ。

とはいえ、国民側の閉塞感からしたら、とっくに自民党を見限って、民主党政権にしたのだ。
その民主党政権があんまりだったために、「仕方なく」再び自民党に投票するしか「選択肢」がなかった。

あえていえば、政権選択とは関係ない参議院なので、お気軽に「浮気」ができるのである。
そして、新しい選択肢があることが、過去の選挙と「決定的なちがい」となっている。

もしや「地滑り的な結果」ともなれば、あれよと政権崩壊するやもしれぬ。
じつは、将来を決める「天王山」が、まさかの今回参議院選挙なのである。
そしてこれが、世界情勢をも変えるかもしれない。

大統領選挙で勝ったはずのフランスのマクロン政権が大敗して、どこと「連立」あるいは「提携」するのか?にも、日本の動静が影響しないはずがない。

むろん、11月のアメリカ中間選挙に、日本人がおもいもつかないほどの影響を及ぼすだろう。

つまるところ、「天王山」とは、日本国内ばかりか、世界のことなのである。

与党ゼロの「超党派議連」発足

5月24日の報道によれば、近く「子どもへのワクチン接種を慎重に考える超党派議員連盟(仮称)」が発足予定であるとして、発起人は、自民党:山田宏、立憲民主党:川田龍平両参院議員が共同発起人となっていた。

それからなにがあったのかは不明だけれど、今月9日に「子どもへのワクチン接種とワクチン後遺症を考える超党派議員連盟」が発足した。
名称から、原案にあった「慎重に」が削除され、「ワクチン後遺症」が追加された。

発起人は以下のとおり。
衆議院議員:
阿部知子(立憲民主党:神奈川12区:藤沢市)、
源馬謙太郎(立憲民主党:静岡8区:浜松市中区、東区、南区)、
多ヶ谷亮(れいわ新選組:南関東ブロック:千葉11区)、
辻清人(自民党:東京2区:台東区、中央区、文京区、港区)、
中島克仁(立憲民主党:南関東ブロック:山梨1区:甲府市、韮崎市等)、
野間健(立憲民主党:鹿児島3区:阿久根市、出水市等)、
山田勝彦(立憲民主党:長崎3区:佐世保市、大村市等:九州)

参議院議員:
川田龍平(立憲民主党:比例区)、
須藤元気(無所属:比例区)、
芳賀道也(無所属:山形)

なお、「呼びかけ人」の参政党・松田学氏、同党のアドバイザーである井上正康氏(大阪市立大学名誉教授)等も参加し、厚労省発表データの「改竄問題」のきっかけをつくった名古屋大学名誉教授の小島勢二氏、さらに、泉大津市長の南出賢一氏が出席していた。

上述のとおり、立憲民主党が目立つけれども、ちょうどおなじタイミングで、その立憲民主党が岸田内閣不信任案を衆議院本会議に提出したため、発起人たる衆議院議員の発足総会への参加はなかったという皮肉がある。

また、自民党の辻氏の名前はあるが、党からの指示だかで実質的には、単なる「名前貸し」状態になった。
注目すべきは、連立与党の公明党と共産党の参加が「ない」ことである。

「超党派」といっても、「共産党外し」はよくあることだから、公明党が誰もいないことは、自民党の少なさと相まって、与党は「無関心」であることを表明したも同然なのである。

すなわち、ワクチン推進の与党と、これを牽制する野党という構図になっている。

この場での、小島勢二名古屋大学名誉教授による「講演」で、まず、自身の専門についての自己紹介があった。
白血病や再生不良性貧血といった難治性血液疾患や固形腫瘍の研究・治療を専門とし、臨床医師をしながらの教授職を勤め上げた異色のひとだ。

総会の司会を務めた川田議員の挨拶に続いて「登壇」した小島先生についての川田氏からの紹介で、上に書いた「データ改竄疑惑」を、小島先生から得た情報をもとに川田氏が国会質問した旨の説明もあった。

これまで、誰が質問したのか不明だったけど、ようやく「本人」が判明し、それがまた、「薬害エイズ」の被害者たる川田氏だったことは、久しぶりのよいニュースである。

立憲民主党の「前身」である、「民主党」に所属して、孤軍奮闘していた故石井紘基議員のことを思い出した。
石井議員に「暗殺疑惑」があるのは、政府の闇中の闇である「内閣府」についての「国政調査権」を発動したから、という「うわさ」があるためだ。

じっさいに、石井議員は、こうした活動をやっていたから、いまだにスッキリしない「疑惑」になっている。
これを、「ドキュメンタリー番組」として放送していた。

2003年8月13日(水)深夜2時43分~3時38分放送のフジテレビ『第12回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『日本病』の正体~政治家 石井紘基の見た風景~』だった。

この歴史に残るだろう「名作」を、まだテレビは制作できた時代だった。
しかし、その放送時間が、あまりにもあんまりなのである。
どのくらいの「視聴率」で、どのくらいの国民が「たまげた」かは、想像にかたくない。

ただ、わたしはこの「深夜番組」を、観ていた。
あまりの衝撃に、眠気どころか目が覚めたのである。

同様に、この「議連」が、今後どうなっていくのか?が気になる。
さほどの「闇」に手を突っ込んでいる気がしてならないからである。

川田氏は、冒頭の挨拶で、参議院選挙後にあたらしく議員になったひとびとにもこの議連への参加を呼びかけると発言していた。
けれども、あたらしく議員になるひとがどんな立場から選ばれてくるのかにかかっている。

つまり、国民が決めることになっている。

なんだか、誰も観るはずのない時間帯での放送のように、とりあえずアリバイとしての存在になっては困るのだ。
けれども、もうこうした活動を報じるテレビも消滅したから、じつはもっと酷いことになっている。

これがまた、日本の悲劇なのである。
肝心要の国民を寝かしつけたい与党のひとたちが、なにをたくらんでいるのか?

じれったいものである。

『人間の条件』と企業経営

ハンナ・アーレントの鋭い考察には定評がある。

大著、『全体主義の起源』をはじめとして、彼女の本は、どれも「ぶ厚い」。そして、「深い」。
大論争を巻き起こした、『イェルサレムのアイヒマン』での彼女を扱った映画、『ハンナ・アーレント』(2012年、ドイツ)は、翌年、岩波ホールを皮切りに各地の小映画館で上映された。

どうしたことか、「全共闘世代」に人気の映画だったように思う。
「反ナチス」や「反ジェノサイド」という、表向きが事前の共感を生んだのだろう。

横浜でも単館上映があって、滅多にない「整理券」が配られる盛況ぶりで、結局断念し、別の日に再度、今度は早めに劇場に足をはこんで無事一ケタの整理券をゲットした。
この回も、立ち見のひとがいた。

このブームはきっと、『アンネの日記』が影響しているかと思われる。

実際に、ポーランド旅行をしたとき、アウシュビッツ(博物館)に、行かなかったのは、40人中わずかに二組の夫婦だった。
そのうちのわが家は、「本体」と合流した昼食で、興奮覚めやらぬ同行者たちから、「ポーランドに来てアウシュビッツに行かないとは、信じられない」と言われたし、別の日本人ツアー客と一緒になったときは、高校生の娘のたっての希望でアウシュビッツを見学にきた、と自慢する母親もいた。

かくして、ヨーロッパにおける「ユダヤ問題」が、あたかもドイツの敗戦で「解決した」と思いこんでいる日本人の浅はかを、とうとう夕食で解説するはめになった。
もちろん、イスラエルを建国したユダヤ人たちが、こんどは、パレスチナのアラブ人をどうしたのか?についても言わざるを得なかった、けど。

それでこんどは、アラブ側に思い切り肩入れしたのが「日本赤軍」だったことを、皆さん忘れていた。
真面目ゆえに、学校教育で「感覚的サヨク」に仕立てられるメカニズムをぜんぜん意識していない無邪気さが、かえって危険なのである。

あの「石油ショック」の原因である「中東戦争」がなんたるかを、すっかり忘れていることに、逆に驚くしかなかった。
「中東のひとたち」は、ただただ「好戦的で恐ろしい」という。
そしてそこにいるのが、典型的「善男善女」なのである。

この驚くべき「無関心」が、一方で「興味」さえあれば、その確認に「聖地」を訪問する。
まさに、「アニメファンの若者」と同じ行動が、「観光」であり、「観光名所」なのである。

では、こんな日本人が「特殊」なのか?といえば、そんなことはない。
ただ、アウシュビッツを訪問したい、という部分だけを切り取れば、『アンネの日記』を追体験したい、という「ファンタジー」が先行しているだけだろう。

この意味で、「日韓」は、まるで兄弟国である。

そんなわけだから、映画『ハンナ・アーレント』は、大きく事前期待を裏切ったのではないのか?
なぜなら、もし「強く共感した」ならば、アイヒマンと東欧のユダヤ社会を同時に批判した彼女の主張を少しだけ応用すれば、「反コロナ対策」になって結実したはずだからである。

それが、わが国ではぜんぜん「ムーブメント」にならないのだ。

『人間の条件』は、法哲学者でドイツ文学者の仲正昌樹による「解説本」がある。
原著原題は、『Vita Activa(活動的生活)』だという指摘から入る。
だがしかし、この「解説本」も約500ページの「大著」になっている。

 

活動的生活とはなにか?
それが、「人間の条件」だということからの日本語版になっている。
大きく3つの要素からなっている。
それは、「労働」、「仕事」、「活動」の三側面という。

なかでも、「労働」が「軽減される」という「変貌」を遂げたのが、20世紀も後半になってからの、「オートメーション」の普及だったのである。
このことは、肉体を酷使するのが「労働だ」という人類共通の概念を「解放した」のではなくて、「仕事」や「活動」に多大なる変化をもたらした。

たとえば、「週末」や「休日」の「楽しみ」を変えた。
肉体を酷使する「労働」の時代、それから「解放する」のは「余暇」だったけど、労働が軽減されると、「余暇」での「活動」の価値も軽減されてしまったのだ。

簡単に言えば、「メリハリのない生活」がふつうになった。

これが、「労働者の団結」を弛緩・緩和させて、その結果、労働組合の組織率が「低減」することになったのである。
そしてまた、「余暇」での「活動」が、逆に肉体を酷使したり、あるいは肉体をもっと使わない方向へと分化してとうとう「分極化」した。

だからそれが、「観光」にも影響するのは、当然なのである。
前者が「体験型」となって、後者が「バーチャル」になった。
「旅」とはなにか?
それが人生にどんな影響を与えるものか?の哲学が改めて問われている。

これが、「旅行会社」という事業が立ち行かなくなった、真の原因となる。
ネットから簡単に、宿や交通手段の予約ができるようになったから、というのは、事業衰退の必然性ではなくて、トリガーにすぎないのだ。

哲学に価値を認めず、ただ現世利益だけを追及することが、社会全体の衰退を招いていることに気づかないなら、歴史は「民族滅亡」のパターンだと教えてくれている。

「情報戦」という戦争

情報戦(information warfare:IW)という戦争がある。

これは、「見えない戦争」なので、のんきに生きていると気づかない。
「戦争」だから、「攻防」がある。
「もっぱら防ぐ」ことを、「専守防衛」と四字熟語にしたけれど、「情報」にはぜんぜん通じない。

それで、「情報鎖国」にするように政府が仕向けて、マスコミのコントロールをしている。

どうして政府によってマスコミがコントロールできるのかといえば、マスコミ側の経営が行き詰まったからだ。
「事実を伝える」よりも、「ポリコレ:political Correctness」を優先させた、「活動家」たちによる「編集方針」で、経営を悪化させてしまった。

もっといえば、「経営」を放棄しても、「特定思想」の宣伝機関になろうとしたことが、最大の原因なのである。

日本人は、新聞を読まなくなることはない。
日本人は、テレビを観なくなることはない。

こうした思い込みが、安定の衰退を招いていたのに、インターネットを舐めたのである。
あたかも、かつての「映画人たち」が、テレビをバカにしたように、である。

SNSによって、「いま起きている」ことが、そのまま一般人が生配信する時代になった。
むかしなら、一般人が撮影した「現場写真」を、新聞社が買い取ったけど、いまは、直接配信者が試聴回数を稼いで現金化している。

だから、公衆の目前で起きている「大事件」ほど、生中継されるようになった。
ここでの「解説」は、撮影者本人によるけれど、なによりもそのことの正否より映像として印象づけがされるのだ。

視聴者は数時間後のテレビや、翌日の新聞をわざわざ購入して読む必要がなくなった。
もちろん、これらの記事には、「ポリコレ解説」もついて回って、それ自体が「ノイズ」になったのである。

それで、「購読料」や「広告」による収入よりも、政府の「広報予算」や、なによりも世界に類例がない「記者クラブ」に対する、政府の援助が、多大な「埋め合わせ」の要素になったのである。

そんなわけで、正しい躾をした主人に、犬が勝手に従うようになるごとく、マスコミも勝手に政府の「犬」になった。
これがいま起きている、マスコミによる「情報鎖国」のメカニズムなのだ。

あんがいといまだにマスコミ情報に依存しているひとが多くて、「世論形成」ができる状態にあるので、政府にはたいへん都合がいい状態が出来上がっている。
逆にいえば、国民に都合の悪い状態にある。

それがまた、外国からの情報戦に「連敗」という状況をつくっている。

一般にこうした行動と結果を、「プロパガンダ」というのである。
なのでいま、わが国は「プロパガンダ花盛り」である。
ところが、これが「世界同時進行」という人類初がある。

一口に「情報」といってもさまざまなので、分野が広すぎる。
たとえば、経済でいうと「価格」も立派な「情報」だ。
「トマト1個100円」という情報を、ふつうに「判断」して、安いとか高を超えて、購入するかしないかも決めている。

もし、アメリカで「トマト1個50セント」ならば、100円=50セントともとらえることができるから、200円=1ドルだろうと判断できる。
これは、「通貨」も「価格」という情報で比較していることを意味する。

日本国内「だけ」で一生過ごすからと、外国のことに関心はないひとがいてもかまわないけど、そのひとも外国から輸入したもので生活しているなら、「自動的」にこうした「情報」に巻きこまれているのである。
つまり、逃れることはできない。

さてそれで、アメリカもEU当局も、金利を上げる、と発表したけど、日銀総裁は金利を変えないと言い切った。
これで、日本円は「円安」になる。
ドルやユーロは自動的に、円より強くなることが決まった。

すると、ドルやユーロをもっているひとは、日本での「商品」は、自動的に「値下がり」しているように見えるはずだ。
ロンドンのシティを訪問したわが国の首相は、日本投資を促したけど、これは外国人には「バーゲンセール」の呼び声に聞こえただろう。

その商品とは、経済の三要素ぜんぶにかかわる。
すなわち、資本・労働・土地だ。

一方で、日本人が海外旅行をするのを、なるべくさせないような努力もするだろう。
「外貨」が国外流出するからである。

一体全体、与党と政府はなにをしたいのか?
ここまで「情報戦」に負けまくると、「わざとか?」と疑いたくなる。
もしも、「わざと」ならば、それはれっきとした「売国行為」だ。

国民には「悲惨」しか残らない。

さてどうする?

「仕組み」で病気にさせられている

国民と政府が乖離して、政府は国民を支配してときには命も奪う恐ろしい存在になる、なんてことはソ連とかの全体主義国家でしかあり得ない、とおもって生きてきた。

ある意味、指導力がない政治家が、「国民のみなさん!」といったり「国民のために」ということを半分バカにしながら信じ、「優秀な官僚」が支えているから大丈夫だともおもっていたから、ろくにかんがえることもしないで済んだ。

しかし、どうもおかしい、ということに気がつきだしたのである。

ある程度の「訓練」とか、じぶんで「やってみる」ことを繰り返しているとできてくるのが「思考実験」だ。
これは、「習慣化」するので、いったんできるようになると、こんどは「やめられない」ということになる。

「実験」というと堅苦しいから、もっといえば「妄想を膨らます」のである。
「妄想」なので、ばかばかしいというひとがいる。
しかしそうではない。

逆に、もしそんな発想があるなら、ためしに「妄想」してみたらいい。
「妄想もできない」自分にもっと驚くはずである。
これを、「頭が硬い」とか、むかしは「トンカチ」といったのだ。

頭の中の「思考」は、どんどん膨らむけど、そのうちなにがどうなっているのかに自分の頭がついていけなくなる。
それが面倒くさいようにおもうので、思考をやめる。
これが、「思考停止」なのだ。

デジタル機器が進化して、自分の思考を描いて記録するツールとして、「マインド・マップ」ができた。
紙に手書きでもいいけれど、圧倒的に便利なのがデジタル・ツールだ。

スマホでできるから、電車の中で時間つぶしのゲームに興じるより、よほど自分のためになる。
これを、「妄想ゲーム」といってもいい。

書きとめる必要は、浮かんだ発想が次から次へと連続したり、飛んだりして複雑化するからである。
それで人間の脳は、興味の強さや実現可能性を優先するので、書きとめないとこれらの優先順位から漏れた発想が「消滅」してしまうのだ。

つまり、マインド・マップの重要な機能は、漏れをなくすばかりか、あんがいと後からみたら、その「漏れ」のなかに「ひらめき」があったりすることを発見できることにある。

常識を超えることができるのである。

さてそれで、「国民皆保険」という「(社会主義)制度」があるから、たいがいの日本国民は病気になると「保険証」をもって医療機関に受診する。
なので、この「医療機関」とは、「保険医療機関」のことをさす。
保険医療機関は、厚生労働大臣の「指定」機関のことでもある。

それがどうした?ふつうじゃないか?

ところが、すべての保険医療機関では、すべての医療行為を「保険点数」で計算し、それをもって「保険請求」することになっている。
この「請求」のうち、「本人負担割合」だけを患者が請求されて負担するけど、「それ以外」は、医療保険に請求して、保険から支払われるのだ。

いやいやそれで?

つまり、わが国の保険医療機関にいる、医師・歯科医師、薬剤師は、「保険点数表」にある業務が「すべて」なのである。
これをプラスの意味でも、マイナスの意味でも逸脱したら、たちまち「不正請求」になるからである。

そしてこの「保険点数」は、全国一律という社会主義に基づくので、地域差も医療機関の設備差も無視される。
だから医師は、「データ」しか観ない。
「データ」とは客観情報なので、それが「保険点数」による診療根拠だからだ。

これが、わが国から「名医」が消えた理由でもある。

となると、わが国の「医学部」や「歯学部」「薬学部」は、ぜんぶ「保険点数」の支配下になる人材を教育していることになって、たとえば、「最高峰」の東京大学医学部とは、保険点数の「設定」に重要な職務があるという意味になる。

患者からすれば、自分の病状がどの「点数表」に適合するかの「診断」がされて、その「点数表」にあるとおりの医療行為と薬の処方を購入している「だけ」となっているのだ。

これは、「完全マニュアル化」だ。

「あなただけ」の医療とは、絶対にならない「仕組み」なのである。
「症状の組合」せが、「個人別」というだけだからだ。
つまり、「症状」が細かくユニット化されていて、あとは「足し算」なのである。

すると、もうひとつ重要なことに気づくのは、症状がないと保険点数の計算ができないから、「予防」ができないのである。
逆に、症状をつくると保険点数が増えるから、医療機関は収入が増える。

そんなわけで、どこにも「引き算」が入り込む余地がないので、わが国の国家予算の半分が医療費になったのである。
しかし、だからといって、誰も困らない、のは、社会全体で負担するという社会主義そのものだからだ。

国民からしたら、「五公五民」どころか、「六公四民」状態までに負担させられているのを、「源泉徴収」されるので気づかない勤め人もおおい。
江戸時代なら一揆が頻発しそうなのに、それもないのは、江戸時代より「愚民化」も成功しているからである。

世界一緩い食品添加物や農薬が認可されているわが国の「食」が、国民の健康を蝕んでいても、「国産信仰」を宣伝している。
これも「仕組み」のなかに含まれているのである。

与党は「予備選挙」をしていない

なんでも「アメリカナイズ」されるのはいいことではないけれど、外国から輸入せずにはおけなかった「民主主義」という「制度」では、その「本家」の真似をするのは「理」にかなっている。

戦前に民主主義はなかったという「主張」が、なんとなく通っているけど、なにかの話題で「大正デモクラシー」が出てくると、「いかがわしい」とか「ニセモノ」とかのイメージが先行するのも、「洗脳」の効果なのである。

ならば、「戦後」アメリカが直接教えてくれた「はず」の民主主義なのに、どうして政党は「予備選挙」をしないのか?ということをあんまりいわない。

むしろこれは、「党員」という組織構成員の存在理由にまでなってしまう、重大な欠陥なのである。
逆にいえば、予備選挙をしないで公認候補を決める政党は、党員の意見を聴く場がない、ということだから、なぜに党員になるのかが不明となる。

そこを誤魔化している典型例が、自由民主党の党員に与えられた、「総裁選挙」への「選挙権」なのだ。
公式HPには、以下の記述がある。

「入党すると、あなたも自民党総裁選で投票することができます。
総裁選挙の前2年継続して党費を納めた党員の方は、総裁選挙の有権者になります。」

党員として「他にできること」の記載がない。

よくわからないのが、「党費を納めた党員」とあって、「党費」については、

「一般党員 年額4,000円、家族党員 年額2,000円、特別党員 年額20,000円以上」

としか記述がない。
すると、「党費を納めた党員」とわざわざ書くことの意味が、「党費を納めない党員」がいると白状しているようにも読める。

たしかにわたしも知人に頼まれて、「名簿」に署名したことがあって、それだけで「党員」になったようなのである。
「ようなの」は、党費を負担するのは立候補予定がある政治家が、「党費を負担する」からであった。

どうやら、どんな方法でも「新規入党者」を多数獲得したら、それが立候補するにあたっての「業績」になるらしいのである。
なので、政治家が「自腹」で党費を払って、あたかも「署名活動」のようにして、誰でもいいから党員を集めたことにする。

それで、署名をした側は、党員になった「ようなの」だけれど、それっきり「何もない」という、「ようなの」である。
つまり、「党員になった」はずなのに、党からパンフレットの一枚も送られてこないし、選挙のための電話すらない。

これはこれで、「個人情報保護」に合致しているのだけれども、形式主義がここまでだと、この活動の生産性は皆無である。
むしろそのバカバカしさを、一般人に啓発するようなものだから、政党活動としてはマイナスにならないか?

それでもって、入党には条件を課している。

「お申込みには、紹介党員が必要です。お知り合いに党員がいない場合、ご地元の支部にご相談ください。」

紹介者がいないといけない、という理由がまた不明だけど、いなければ地元の支部に聴けという。
これも、穿った見方をすれば、「党費を払って」くれるような殊勝なひとなんていないからだと思えば、「もったいぶり」も理解できる。

しかも、唯一の権利たる「総裁選挙」だって、その都度ルールが変わるので、「一票の価値」すら「党員本人」にはわからないのだ。
もちろん、総裁選挙のルールについて党員が意見をいう場はない。

こんな組織のどこが「民主主義」なのか?
アメリカ人は、どんな立場からこれを「戦後・民主主義」といったのか?

政権を担ってきた自民党でさえ「これ」だから、野党はこの都合がいい仕組みをそっくりそのまま「コピー」しても、国民から批判される筋合いはない。
責任を自民党に転嫁できるからである。

そんなわけで、わが国の政党で、党員が「民主的」に、党運営にかかわるような仕組みになっている政党が皆無のままでやってきたのである。
しかしながら、アメリカの選挙制度についてわかってきたら、「予備選挙」のあたりまえに、ようやく日本人も気づきはじめた。

たとえば、RINO(Republican in name only:名ばかりの共和党員)として、「地元の党組織」から「拒否」されたのが、元副大統領の娘である、リズ・チェイニー連邦下院議員(ワイオミング州)だ。

とはいえ、彼女は空前の選挙資金を集めていて、「除名」されても8月に行われる予備選挙に出馬することを表明している。
共和党も民主党も、「党員以外」の人物ですら予備選挙に立候補できて、党員候補と「ガチ」で闘う。

この「敷居の低さ」が、「本家」のやり方なのである。

なぜならば、投票するのが党員だからで、もしも党員以外の候補が予備選挙を制したら、それはもう「正規の候補者」として本戦に臨むことをだれも拒否できないばかりか、党組織をあげて当選を目指す。

もっとも、州によってはもっと敷居が低くて、民主党員が共和党予備選挙に投票できる「ローカル・ルール」を定めた地域もある。
なんだかよくわからないけど。

できるだけ、「適材」を発掘することを優先させるのが「前提とする建前」なのである。
なかなかに、「進化論」的なのである。

これが、わが国に全くない。
むしろ、「進化を止めて」環境適合を拒否しながら、集団で絶滅してしまうことを望んでいるのか?ともおもえる。

「リスク」に対する、「勇気のなさ」なのである。
アメリカ人は、リスクをコントールしようと努力する。
日本人は、とにかくリスクを回避する。

じつはリスクは利益の源泉だから、リスクを回避することは、みすみす利益を失うことなのである。

それがまた、失われた30年の原因にもなっている。

「鬼退治」の鬼

「鬼」は、意外にも「日本だけ」のものなので、外国人にはわからない。
一応「demon」と英訳するけど、どうしても「悪魔」という概念に変化してしまうのだ。

善と悪、明と暗との「二元論」は、人類最古のゾロアスター教の教義だから、キリスト教にも影響したし、仏教にも影響した。
けれども、長い年月と地理的隔絶の間に、それぞれがそれぞれに発展して、別の概念になったのである。

ことに、日本の場合、最新のDNA分析から、縄文人の再評価が著しくて、その「古さ」と「独自性」が維持されたことの「特別」が、人類史の書き直しにまで議論がすすんでいる。

ざっくり、3万5千年ほどの「血の連続性」が、現代日本人にまで絶えることなく続くことが確認されてきたのだ。
すると、「皇紀2600年」というレベルすらはるかに超える。

それで、「ホツマツタヱ」にある、「皇祖」が1万年前に存在したという「お話し」も、眉唾ではなくて科学的分析の対象になりだしたのである。
だとすると、人類最古の文明は、なんと「日本文明=縄文」ということになるため、世界の研究者が大注目しているのだ。

もちろん、人類の発祥が、「アフリカ」を起点とすることに変わりがないので、どうなっているのか?という大問題はある。
それがまた、議論を呼んでいる。

さてそれで、「鬼」である。
「鬼」とは何者なのか?
当然ながら「所説」あるけど、「説」だけでなく、「鬼」自体もたくさんの種類が「いた」ようだ。

この「いた」には、物理的・物質的な「存在」の意味もあるが、精神的・宗教的な意味もある。
なので、「demon」とイコールにはならない、日本だけの「鬼」になるのである。

昨年4月に95歳で亡くなった橋田壽賀子氏といえば、『渡る世間は鬼ばかり』(1990年~2019年まで通産511回)の作者だった。
もっといえば、『おしん』(1983年~84年)という「お化け」もある。

その橋田さんが書き下ろした『おしんの遺言』(2010年)に、「鬼」についての記述がある。
「鬼が住むか蛇が住むか」「鬼に金棒」「鬼の目にも涙」「鬼のいぬ間に洗濯」「鬼も十八、番茶も出花」「渡る世間に鬼はない」。

それで、『渡る世間は鬼ばかり』とした理由を、「鬼ばかり」と思わないと何事にも鈍感になって、ついつい、いい加減な暮らし方をしてしまう、というメッセージを込めた、と。

つまり、「緊張感」のある生活のため、ということだろう。

しかし、「よく考えてみると、鬼というのは、自分の心のなかにもいると思うのです。」として、「相手を鬼と思ってしまえば、自分も鬼になってしまいます。」と綴っている。

身近な例を挙げて、「鬼の夫」の世話に追われて時間がない。どうしたら時間を無駄にしないで、限られた時間のなかで効率よく脚本を書くという仕事ができるのか、その方法を会得しました。
鬼の主人のおかげで、私はずいぶん得をしました。

心持ち次第、ということなのだ。

昨日の15日、ユーチューブ番組で「新党討論SPECIAL」として、「新党くにもり」と「参政党」の2名ずつ4名での約2時間にわたる討論がライブ配信されて話題になっている。
好評の司会は、情報戦略アナリストの山岡鉄秀氏だった。

いわゆる「保守新党」どうしなので、立ち位置がそもそも似ている。
この意味でいえば、自民党内の各派閥の立ち位置とか、政権与党である自民党と公明党のそれぞれの立ち位置と比べて、ずっと「近い」のである。

だから、「討論」なのに、互いに「補完・捕捉」しあった議論になったことが、これまでの党派による「対立構造」と違うのである。
この点が、「新しかった」といえるだろう。

しかも、その近さゆえに、政権与党への「ダメ出し」について、一致しているのだけれども、これまでの「左」からのダメ出しではないことが、また「新鮮」なのである。

参政党は、街頭演説でも明言しているように、「鬼」が誰だか特定している。
それは、各国政府を超越した存在の「グローバル全体主義」を標榜する人物や団体(たとえば、「ダボス会議」や「国連」)だ。

この点で、与党にターゲットを絞っているのが「新党くにもり」だという「違い」がわかる。
つまり、「鬼退治」の相手(このばあい「次元」)が違う。

意見のすれ違いは、ここに絞られた。

すると、「鬼」になっている与党とか、その上位概念を相手にするから、「既存野党」は全部が議論の対象にもならないのである。

つまり、これは、「自民党が既存野党を飲み込んだ」という構図の現れなのである。
ゆえに、いよいよはじまった参議院選挙で、自民党やらの「街頭演説」や「宣伝カー」による「街宣」が、やけに「陳腐」に聞こえるのである。

こんな国に誰がした?
それは、「われわれ国民だ」という「本音」をはっきりいうのは、かつてタブー視されてきた。

「鬼」は、国民の「心」に宿っているのである。
それが、「今だけ」「自分だけ」「おカネだけ」だと。

政権選択ではなくて、「良識の府=参議院」にふさわしく、「道徳観」が争点になっている。
このばあい「心を鬼にして」かかってほしいものである。