1954年農産物貿易促進援助法

これは、アメリカの連邦法である。
法律の内容から、「余剰農産物処理法」といわれて、法律番号から、「PL480」ともいう。

なお、「PL」とは、同国法体系にあっての「Pub.L.」のことで、「the general public (public laws)」の略、つまり、もっとも一般的な「公法」をさす。

この法律は、さまざまな変遷を経て、2008年に「平和のための食糧法」になり、その「目的」から、「輸出市場開拓」の文字が削除されている。

つまり、戦後の食糧難のときから、輸出市場開拓を日本でしていたことの「根拠法」なのだ。
そして、わが国では「学校給食」による消費として活用された。
その具体的な食材が、「パン」と「脱脂粉乳」だった。

もちろん、「パン」の原材料は「小麦」なので、米から小麦への転換を強要されたという見方もできる。
マクドナルドの絶対的戦略が、子供のうちに味を覚えさせること、とおなじで、一生の「食」を支配することになるからである。

これは、消費者に「習慣性」を植え付ける、という意味の企業行動である。

いわば、「麻薬」とまではいかないけれど、意図的に「依存症」にさせる、意志のことだ。
じっさいに、小麦に含まれるグルテンには、脳に快楽物資の分泌を促す作用があることがわかっている。

「人類は皆兄弟」だから、おなじ動物だとかんがえてはいけないのは、「人類史」における、「環境適応性」が、人種や民族によって異なるからである。

アフリカを起源とする、ホモサピエンスは、どうやって地球上に拡散したのか?という壮大な物語がある。
地球儀をイメージすれば、北と南といった「縦方向」に移動するのと、東西といった「横方向」のどちらに移動するのか?

いま住んでいる土地が、なんらかの理由で住めなくなって移動をかんがえたとき、「気候」といった「環境」がなるべく変わらない場所に行くのが、いちばん「楽」な選択だ。

もちろん、「徒歩」をもってする移動だから、はじめは大きな変化に気づかない。
それでも、「縦方向」を選ぶのは、なにかの事情があったともかんがえられる。

 

そんなわけで、広大といっても巨大な「島」のアフリカ大陸から出るには、いまのイスラエルやサウジアラビアを通過しないといけない。
なので、この場所が、その後の人類の「分岐点」となるのである。

なお、地球には自転があるので、太陽はかならず「東」から昇る。
ゆえに、「光」を求めた人類は、東に向けて横移動したとかんがえるのは、説得力がある。
しかし、変わり者は「沈む」方向に向けて移動したのだろう。

さてそれで、当時のイスラエルやサウジアラビアの地域が、どんな気候だったのか?を調べると、あんがいといまのような「砂漠」ではない。
ただし、乾燥傾向にあったから、食糧とする穀物は「小麦」であった。

だから、人類は小麦という植物がなかったら、世界中に拡散することはできなかったろう。
しかしながら、小麦には必要なタンパク質や栄養素が足りない。

それで、家畜の乳や肉をもって補ったし、オリーブ・オイルから脂質を摂った。
また、絶対不可欠の「水」の確保が困難なので、ぶどう酒から水分補給した。

これが、生存をかけたときの「食欲」だ。

水代わりのぶどう酒は、「酒」なのでアルコールが入っている。
これによって、腐敗を防ぐだけでなく、人間側の機能も強化されて、この地域の人々は、絶対にアルコール分解できる能力をもったのである。

ゆえに、のちにヨーロッパ地域に移住した白人種たちは、生存能力としてアルコール耐性をもつのである。
逆にいえば、アルコール耐性がない個体は、淘汰される運命にあったのだ。

なので、羊とワインがそのまま「宗教」のなかでの絶対的要素になった。

さてそれで、東に移動したひとたちのゴール地点が日本列島だった。
当時の海水面は、いまよりも150メートルばかり低かったので、到達するには航海を要しない。
されど、日本列島の東には、太平洋があるから、どん詰まり、なのだ。

いつから米を栽培したのか?
縄文遺跡からでてきた籾をDNA分析したら、万年単位のむかしになるのである。
それで、揚子江沿岸の米との類似性が確認された。

伝播ルートは、北回りの朝鮮半島経由ではなくて、直接、ということがわかったのは、朝鮮半島にみつかる米が、ずっと新しく、別種だからである。
加えて、米の栄養素は、小麦と比較にならないほど豊富なのである。

それで、日本人は乳や肉を食べずにやってきた。

水も豊富だから、ワインを必要としないばかりか、和食にワインはあわない。
これが、わが国でワインが普及しない理由だし、キリスト教も普及しないのである。

それに、米から作る酒だって、貴重品だからお供えする「御神酒」になって、自分たちでは飲まない。
それで、日本人は世界的にアルコール耐性がない民族になった。

こうしたことの「破壊」が、自国ではなく外国の国内法で実施された。
しかも、その「余剰農産物」とは、なんと「残飯」扱いにもなる「品質」だった。

そうやって、日本人が「羊=家畜」にされた。

署名したのは、「アイク」、共和党アイゼンハワー元帥である。
しかして、大統領退任時に、「ディープステートの支配」を口にした最初のひとだった。

【憶測】auサイバー攻撃?

この記事は筆者の【憶測】なので、「裏」がとれていないから、読者の暇つぶしにもならないことをあらかじめお断りしておく。
なら書くな、という意見もあろうが、筆者の「暇つぶし」なのだ。

2日の深夜1時とか2時にはじまったという、「auの通信障害」についての【憶測】であり、「妄想」である。
結論から先に書けば、タイトルの通り「サイバー攻撃」ではないかと疑っている。

わたしがこの障害に気づいたのは、たまたま用事があってかけた友人への通話ができなかったからだ。

「通話不能」になったけれど、最初の発信後には、聞いたことがない「警告音」がした。
それで、もう一度、今度はスマホを耳に当てずに画面をみたら、「相手先電話番号が不使用」と表示された。

そんなはずはない。
友人は、この春に最新機種変更と同時に大手キャリアからauへ、MNP(モバイルナンバーポータビリティー:Mobile Number Portability)したばかりなのだ。

別の友人の固定電話にかけてみたら、テレビのニュースでやっていたと教えてくれた。
たまにはテレビのニュースも役に立つことがあるようだけど、「通信障害発生」だけを伝えていたらしい。

それで、ようやくネット検索してみたら、「原因不明」と「発表」されていた。
障害発生から12時間以上が経過しても、なお、「原因不明」だということが「ニュース」なのだ。

なぜなら、本当に原因不明なら、それは、「対処不可能」の意味になるからである。
つまり、通信会社として、自社設備の不具合は確認しても、その不具合がなぜ起きたのかがわからない状態だと「発表した」ことになる。

こないだは、蛇が高圧線鉄塔を登って「感電」したら、ショートして停電したという事故があった。
だから、電力会社の技術者は今後、ネズミ返しならぬ「蛇返し」の発明を促される、ということになる。

これが、原因解明と予防対策の論理的帰結だ。
しかしながら、原因が不明ならば、復旧どころか予防もできない。

同日17時になって出した、プレスリリースによれば、原因を「設備障害によりVoLTE交換機でトラヒックの輻輳(ふくそう)が生じております」と発表したから、報道各社はこれをそのまま「原因」として報道したのだった。

もちろん、「電気通信事業法」を管轄する総務省は、同法に基づいて、「早期復旧を指示した」というニュースも出た。
台風接近中の沖縄方面の早期復旧に向けた作業を、特に指示した、という。

一方で、利用客から苦情が殺到しているという。
電話とショップでの怒号に対応と報道しているのは、利用者をバカにしているか利用者がバカなのかが「不明」だ。

電話で苦情をいう利用者は、NTTの回線からかけているのだろうか?
わざわざショップに足を運んで怒鳴っても、復旧するはずもない。

そんなわけで、なんだか「フクシマ」と似た様相を呈している。
監督官庁の意味のない「指示」とか、もっといえば、やっている感だけの無責任で、「悪いのは事業者」という構造にしている滑稽がある。

もちろん、事業者は利用客に謝りたいが、なによりも「お代官様」に謝ることを優先させるのは、今後のさまざまな「嫌がらせ」をマイルドにしたいからである。

さらに「役所」からすれば、もしもサイバー攻撃だとしたら、「サイバーセキュリティ」の政策的不備を国民から糾弾されかねない。
それがまた、外国からの攻撃ならば、外務省やら防衛省の問題になって、ばあいによっては内閣府がしゃしゃり出る可能性まであって、「省益」を損ねるのだ。

外務省が役に立つはずもなく、ましてや防衛省にいたっては、自衛隊へのサイバー攻撃だけでも対処に汲汲としているけれども、「新規予算を得る」ための口実を与えてしまう。
それは、総務省の「予算減」になりかねないからだ。

現に、内閣府の警察庁がサイバー分野を「国家警察化」すると決めたのには、とりあえず「出向先」を確保したけど安心できないのだ。

さて、「サハリン2」の件で、プーチン氏が「一方的に奪取する」と憤る国民がいるのも、なんだか電話会社に怒りの電話をするがごとくの滑稽がある。

たとえアメリカ・バイデン政権から命じられても、ウクライナに一方的に肩入れしたわが国が、当事国のロシアから「敵国認定」という国際法上の手続きを「合法的に」されたことの、「想定される事態」にすぎないからである。

むしろ、敵国認定後、すぐさま「サハリン2」から「撤退」しなかった、日本企業の経営者が、「未必の故意」あるいは、「善管義務違反」で株主から責任追及されない不思議がある。

これらの企業経営者たちの「安心感」は、どこからやってくるのか?
これぞ、経団連とつるんでいる自民党幹部の「保障」を信じた成果なのではないのか?

もっと強烈なのは中国の「国防動員法」(2010年)における、「有事認定」だ。
これは、あちら側が「認定」したら、中国進出外国企業の経営資源(ひと、もの、カネ、情報)を、「国有化できる」とした法なのである。

つまりは、進出した日本企業は、会社ごと「人質」になっている。
けれども、2010年(平成22年)以降に撤退を決めた企業よりも高度技術も含めて進出を決めた企業の方が多い。

つまるところ、自社資源を貢ぐ経営者が「名経営者」になるという、おどろくほどの「倒錯」があるのだ。

さては、なぜに「auだけだった」かも含めて、国民は相当に「疑う」ことをしないといけなくなっている。

これが、わたしの【憶測】の根拠であって、「妄想」なのである。

日本版無血名誉革命2022

このブログで何回か取り上げた「参政党」の、創設者である神谷宗幣氏が、選挙期間中に巡回街頭演説を沖縄(6月24日)・九州全県でおこなっている。

これまで集まったひとの数の「最低」は、佐賀県鳥栖市の200人あまりであった。
とはいえ、なにせ人口74,000人の街である。
どうして、鳥栖を選んだのかはしらないけれど、ここを選挙区としているのは、原口一博衆議院議員だ。

長崎(6月27日)⇒佐賀⇒大分⇒宮崎⇒鹿児島⇒熊本と廻って、福岡で締めくくり、沖縄・九州巡回を終えるという。
1日は鹿児島と熊本で街頭演説をしていたが、屋根のある熊本のアーケード街には800人程度の聴衆が熱気を帯びて集まっていた。

熊本市の人口は、鳥栖のちょうど10倍、74万人ほどなので、かえって鳥栖の集まり方が人口比で「異常に多い」ことがわかる。
けれども、平日金曜日の昼下がりに、参議院選挙の街頭演説にかくも多数の聴衆が集まるという現象は過去にあっただろうか?

まちがいなく、「なにか」が動き始めているのである。

神谷氏が自身で語っている、九州・沖縄全県巡回の理由が、「白村江の戦い」(663年:天智2年)以来、「国難」のために立ち上がるのは「九州人」だという、歴史に基づいている、と。

もちろん、宮崎(日向)には「天孫降臨」という、わが国の「原点」がある。
近代では、明治維新の重要な動きは、「九州」を発信地にしていた。

それゆえに、佐賀戦争から西南戦争まで、旧武士たちは新政府に何が不満で立ち上がったのか?ということは、あまりにも重要なことなのに、「政府側」に立つ歴史観では「反乱」とされて学校で習うことになっている。

こうした「事実をねじ曲げた歴史」に対して、「修正」を求めるのは「まっとう」なことだけど、歴史を利用して国民支配を永久化したいひとたちには「都合が悪い」から、これを「歴史修正主義」として排除するのである。

すなわち、いまの九州人の3代から4代前にやったことが、当事者達の子孫すら忘れかけていることに、これを思い出させるという「戦略」が、この巡回の意味なのである。

それで、幼少時に祖父母から聞いた話の記憶を「確認したい」という欲求が
聴衆を集合させている。

80年代に国民ドラマになった、『おしん』が、佐賀の姑にいびられたのは、あまりにも高森和子の演技がすさまじく、作り物のドラマのはずがドキュメンタリー化するという、「倒錯」までしたのだった。

当時の佐賀県知事が、県観光協会の代表も兼ねて、NHKに公式抗議したことのトンチンカンは、佐賀人のトンチンカンを基盤にした、ポピュリズムであった。

「作者」の橋田壽賀子氏は、なぜに「佐賀」をわざわざ選んだのか?
それこそが、「伝統的日本」の名残が強く残っていたからであった。
もちろん、嫁いびりの伝統のことではない。

「北政所」から「大奥」になって、「奥さま」になる。
「主婦」という位置づけが、まったくもって「官房長官」だったのである。
主人たる男は、「外」で生きるが、「内」は、「全権」を奥さまが掌握する。

この「内・外関係」が、どの家庭にもあったから、亭主は給料袋を袋ごと「家内」にわたしてお小遣いをもらって生きていたのだ。

ゆえに、おしんは自分の息子世代の「内・外関係」に悩むことになる。

これが、80年代、バブル前までの「日本人の暮らし」だった。
バブル後の30年で、その「家族」が破壊されたのである。
やったのは「政府」であって、責任は「政権党」にある。

なんども書くが、これぞジャン・ジャック・ルソーが説いた「アトム(核)化」であって、その後のいまに至るまで、共産主義・全体主義に利用されることになる。
だから、「核家族」なのである。

そしていま、「核個」という「ひとり暮らし」の時代になった。

アパートにひとりで暮らすことではない。
おなじ屋根の下にいても、家族の人間関係が「バラバラ」になったのである。
まさに、ルソーの思惑通りの社会になった。

そんなわけで、これを推進する政府・与党に対抗するのが、参政党だと神谷氏は明確に位置づけている。

選挙公示前と後とでの、街頭演説の「質的ちがい」に、「政権構想」についての説明があるのも、「戦略的」なのだ。

公示前にはいえなかったことを、いまいっている。

その第一条件が、党員数の拡大である。
2月に街頭演説を開始したころの党員数は8,000人だったが、1日の発表で73,000人になっている。
おそらく、投票日には10万人ほどになると予想できる。

参政党の仕組みは、わが国初の「本格的近代政党」だから、既存政党の仕組みとは逆で、党員からの提案を基本にしている特徴がある。
端的にいえば、アメリカ共和党・民主党の仕組みを取り入れているのだ。

よって、政策が議員から党員に押しつけられることはない。
党員から議員に政策を押しつける形式なのである。

そして、議員はこれを拒否できない。
党員投票には、ブロックチェーンが用いられているから、不正もできない。
それで、党員が決めたことを議員がやらないなら、議席を失う党規になっている。

神谷氏の党員数の目標は、「当面」100万人だという。
そして、100万の党員が「事業」をおこなう計画だ。
政府がやらないことを、「党内」でやる。

たとえば、自然栽培の農産物を党員(=会員)が購入する仕組みを作って、農家に農協からの脱退を促す、とか。
新規の農業事業者と、党が予約契約して収穫前に販売量を確保する、とか。

政党が商社機能を持つのは、共産党の「生協」のパクリだが、ずっと今風でなお、党員に専門知識を活かすビジネスも提供する。
やるのは、党ではなくて「党員=会員」だからである。

これは、あたらしいコミュニティづくりなのである。

さてそれで、神谷氏は「大戦略」として、第一ステップが今回の参議院選挙だと披露した。
わが国で無名の政党が「国政政党」になる方法は、唯一、参議院全国比例で議席をとるしか方法がない。

それはまた、現実にそうであるように、「国政政党」でなければ、大手マスコミが報道しないからである。
そこで、今回の参議院選挙を「橋頭堡」とする。

来年春の統一地方選挙に、「国政政党」として多数の候補を出すと明言するのも、「国政政党」になれば「政党助成金」を得ることができるからだ。
そうやって、向こう3年内に来るべき「衆議院議員総選挙」を準備して、一気に「政権与党」になるのだという。

自公連立に加わる、という意味ではない。
政党としての自公を、葬る、という意味である。
なお、神谷氏に「既存野党」は、眼中にない。

この3年間の「スケジュール」は変わらない、「既定」なのである。

聴衆は、自公政権の崩壊に期待して「熱狂的声援」を送っている。
「民主党」を選んだ失敗を覚えているのはもちろんだ。
しかして神谷氏も声を大にして返すのは、「党員になってください」なのである。

つまり、静かなる「日本版無血名誉革命2022」が、すでにはじまっているのである。

電力逼迫と食糧危機

電力会社は電気を売って生きている。
だから、電力逼迫とは、商店でいえば「欠品」のことをいう。

食糧危機は、農家がつくる食糧が足りなくなることをいう。
この場合の「農家」とは、国内・外国、それぞれを指すけれど、足りないのはやっぱり「需要」とのギャップで生じる「欠品」だ。

さてそれで、わが国のばあい、電気は経済産業省、食糧は農林水産省が「管轄」していて、どちらも「自由経済」での「自由経営」をさせていない。
いわば、「ソ連型」を踏襲している。

相変わらず「国家統制」の対象だからである。

わが国では、どうしてソ連が国家破たんしたのかの原因追及が国民に常識として普及していないのか?といえば、日本政府にとって「やぶ蛇」になるからである。

80年代に、「世界で最も成功した共産主義国」と評価されたのは、わが日本国であった。
これには、「世界一優秀な官僚」を輩出させる、という教育の成果もあったのだ。

いやむしろ、計画経済の実行には、「優秀な官僚」は不可欠だ。

すなわち、わが国は、「ソ連を支えたロシア人」より、数倍も優秀な官僚たちがいたことが重要な事実なのである。
だから、中国人がわが国で学んだのであって、いまの首相がいう「国家の宝」が中国人留学生だというのも、功績と貢献に対する本音の披露にすぎない。

このことはことのほか重要だ。
わが国の共産主義・全体主義「体制を輸出」していたら、政権与党が共産主義・全体主義に染まったのである。

これを支える教育機関が、東京大学などの「旧帝大」なのである。

しかしながら、計画経済は、理論的に「不可能」をとっくに証明されている。
わが国ではあまり有名ではないけれど、いまもある「オーストリア学派:ウィーン学派ともいう」のミーゼスが、1920年(大正9年)に発表している。

その要諦は、「価格」という「情報」にある、と。

すなわち、国家がする計画経済(=統制経済)では、「価格」が存在しない。
国家がなにをどれくらい生産するのかを決めるので、そこに「価格」が自由経済の「価格」として表現されることがないからだ。

つまるところ、「りんご」を今年は100万トン生産すると決めて、それを1個100円で消費者に販売する、と決めたら、「そうなる」経済なのだ。
なので、50万トンしかできなくても、消費者には100円で販売される。

ならば、欠品して需要が高まればどうなるのか?
価格は100円のままで、「欠品」するだけ、なのである。
だから、ソ連名物の光景は「行列」であった。
町を歩いていて「行列」があれば、とにかく自分も並んで待つ。

うまくすれば、順番通り何かを買うことができるからである。

すると、この行列に何時間か並んで待つということも、「生産性」のなかに含まれるので、あらゆる物資が「欠品」したソ連経済の不効率は、自由経済の比較になろうはずもない。

ちなみに「不効率」とか、「効率」をいうときは、投入資源と産出資源との割合をもっていうのである。
時給1000円のひとが、1時間行列に並んで、りんごが1個100円で買えたら、そのりんごを得るための効率は1100円になる。

1976年9月に、当時最新の戦闘機ミグ25で函館空港に亡命着陸した、ベレンコ中尉は、アメリカに行ってからの手記に、「故郷の駅に腐敗したりんごが山積みになっているのをみて、計画経済に絶望し亡命を決意した」とある。

計画経済の計画が困難で不可能なのは、生産にまつわる投下資源の種類や量に関する計画だけでなく、輸送などの流通に関する計画もしないといけないけれど、これらを官僚がすべてをまとめあげること自体、できっこない、のだ。

対して、自由経済では、「価格」によって「自動調整」される。
「需要と供給」を取り持つ唯一の「情報」が、「価格」だからである。

そんなわけで、電力逼迫の原因は、例の「想定外」も含めて、なんやかんやと理由探しに忙しいけど、経産省官僚による計画経済の失敗なのである。
昨今、わが国官僚の劣化が指摘されていることの表面化だが、ソ連崩壊からひと世代30年を経ての「破たん」は、それなりに立派だったと評価しようとおもえば評価できるものだ。

もちろん、「農水省」も同様である。
世界シェアにおけるウェートが高い、ウクライナとロシアの小麦に端を発したとはいえ、一方のロシアは肥料の原材料資源国でもある。

すなわち、生産計画を策定するうえで欠かせない「肥料」についての逼迫も「想定外」だというも同然なのである。
まことに、往年のソ連経済の状態がわが国にある。

しかして、こんなシステムにしたのが、近衛内閣以来の「革新官僚=計画経済を目論む官僚」が政治家になってつくった自民党の無様なのである。
その筆頭が、A級戦犯として死刑判決があったのに生きのびた、岸信介であった。

もちろん、「独立回復後」にすぐさま国会の全会一致で、「戦犯の名誉回復」をしているので、わが国に「戦犯」は存在しない。
その後ろにいる「革新官僚」が、一度も糾弾されたことがないこと自体、国民の無関心があるからだ。

その意味で、岸を嫌った国民が起こした「60年安保」こそ、「中途半端」だったと、いまいちど見直す必要がある。

残念ながら、国民が酷い目にあうのも無関心の結果責任なのである。

シン・日本国憲法の「かたち」

明治77年が敗戦国になった年数で、敗戦国になったときから77年が「今年」にあたる。

ぜんぜん憲法改正のはなしが進まないのを、いまさら云々するのも飽きがくるけど、念のため書いておこうとおもう。

結論から書けば、わたしは「明文(成典)憲法」が日本に必要なのか?という疑問をもっている。
たとえば、「非成典憲法」といえば、イギリスが思い浮かぶ。
しかしながら、「マグナ・カルタ」も「権利章典」も「明文」なのだ。

わが国では、現代的意味とはちがう「17条憲法」がある。

これを、「近代国家」のなかでどう扱うのか?ということは、意外と議論されていない。
それよりも、むしろ「有効」だというかんがえ方がある。

それはまた、「マグナ・カルタ」とおなじだということもできるのだけれど、「非成文憲法」として「取り込む」という方がより妥当だとおもうのである。

さてそれで、「憲法」とはなにか?をかんがえると、二通りの選択になるようにおもう。
一つは、「近代」とくに、「アメリカ合衆国憲法」に観られる「国民権利の大典」だ。

この発想は、国家権力と国民の別を定めた「啓蒙主義」がはじまりで、言い出しっぺとしては、ホッブス、ロック、ルソーなどがあげられる。
とくに、ホッブスの『リヴァイアサン』(1651年)を嚆矢とする。

その1651年、日本では「由井正雪の乱」が起きている。

日欧とか、日英の歴史を並行して語ることをしない「作法」ができているけど、比較して評価するには、基準となる哲学が必要だ。
それで、欧州やら英国のことなら、当事者の哲学を基準にして、日本基準はいったん無視する。

ところが、「日本のこと」になると、欧州やら英国の哲学を基準にして語ることが多いのである。
それでたいがいが、「日本は遅れている」ということにしてしまう。

もちろん、「哲学」は、歴史や文化を背景にするので、いきなり外国の哲学をわが国にあてはめても、それは、「ナンセンス」というものだ。
だから、なにがどう「遅れている」のか?ということを無視したら、これを、「自虐」というのであり、また、「宣伝」ともいう。

一方でふつうひとは、権威ある言論を信じる。
それが、「権威」の権威たる理由だからだし、社会のなかでの役回りとして、ぜんぶ自分で調べる時間の節約になって、情報を手軽に受けとることが合理的だからである。

ここに「虚飾」と「宣伝」があるとバレだした。

つまり、「権威」すら造られたもので、それには一定の方向からの「演出」まで伴っていたのである。
だから、別の方向からの情報は、一方的に無視することで、圧殺し「なかったこと」にした。

こうした「宣伝」を、「プロパガンダ」という。
心理学者フロイトの甥、エドワード・バーネーズの歴史的著作が、『Propaganda』(1928年)で、わが国では2010年に「翻訳書」がでた。

この「時間差」も、味わい深いのである。

「人間万事塞翁が馬」。
なにが禍で、なにが幸福かはわからない。
もちろん、「禍転じて福と成す」ことができればいいけれど、人生には「取り返しのつかないこと」もある。

それが、「コロナ禍」だ。

これで、日本政府の本性がむき出しになって、日本国民と政府とは「相容れない」ことがわかったのである。
たとえば、「取り返しのつかないこと」でいえば、ワクチン後遺症である。

それがまた、中学生とかの若年層にも被害者をだした。

ひるがえれば、ハンセン氏病患者の隔離政策からずっと、政府は「間違いを冒し」続けている。
「薬害」を認めたところで、被害者が健康を取り戻すことはない。

いまや、データ捏造までもがバレて、複数回接種したひとより未接種者の方が「感染しない」ことまでわかっている。
ところが、そもそも「PCR検査陽性」のことを、「感染」といって決めつけたから、何が何だかわからなくなったのである。

ほとんど「宣伝」されていないことに、「今回の病原体としての新型コロナウイルス」は、いまだに「特定されていない」という、驚愕の事実がある。
すると、「PCR検査陽性」という意味すら、ほとんどないばかりか、最初から「幻想」にすぎない。

こうして、なんだかよくわからないで接種したひとが、「取り返しのつかないこと」になったのである。
しかも、あくまで「任意」であったものを、あたかも「義務」のごとくにしたのも政府であった。

それでも、「悪いうわさ」がたつのを怖れた医療機関や老人施設は、家族と面会させない「予防措置」をとって、最期を看取ることすら拒否することで、とうとう家族の分断までも成功させた。

こんな人権侵害があるものかと憤っても、だれも聴く耳すらなくなったので、憲法の一字一句に拘る無意味になっている。

日本の歴史で、日本人がどうして政府を信じて疑わなかったのか?といえば、こないだまでの「幕藩体制」における「武士」が、「農工商」を裏切らなかったからである。

明治政府には、その根幹に「裏切り」があったけど、表面上は繕った。
それが、戦後になって完全破壊されて、日本人から政府を分離させたのである。

世界最長2000年も継続する「王朝」をもってすれば、たかが数百年のイギリスが「非成典憲法」でやっているのに、わが国では「成典憲法」にしないといけなくなったのは、この「破壊」の成果なのである。

すなわちそれは、日本人が日本人とはなにか?を忘れたことの、「表現」なのであるけれど、「一字一句」の議論を永遠にやっていたい破壊者たちが、新しい憲法を阻止するという、「保守」の姿でもある。

ならば、「非成典憲法」にする、と決めてしまうことも、覚悟なのである。

幻想の「永遠なるもの」

むかしからある、からといって今後もずっとある、というわけにはいかない。

けれども、ひとは、「希望」と「現実」が一緒くたになってしまうほど、特に自分のことは「希望」が優先するので、悪くかんがえることもやめてしまうものだ。

そうやって、家族も家も、仕事もなにも、永遠に続くと勝手に解釈して、「放置」するのである。
だから、突然、その「終わり」がみえてきたとき、かならず狼狽して冷静さを失い、最悪の事態になってしまうことがある。

これは、そのときになって「最悪をかんがえた」結果なのだ。
ひとは、自分がかんがえたことを実行するからである。
まさに、『ゴーストバスターズ』(1984年)での、「マシュマロマン」のごとくである。

ほんの一瞬でも、頭に浮かんだら、それが現実になってしまう。
まさか、この期に及んで「マシュマロマン」をイメージしたら、そうなった、というのはお笑い種ではないのだ。

脳とは、量子コンピュータであるという「説」は、意識が量子でできているという意味なので、宇宙空間を満たしている「ダークマター」やら「ダークエネルギー」とは、量子のことだという仮説になんだか説得力があるのである。

しかし、人類はまだ、その量子がなんだか特定できていない。

なので、現時点で量子として宇宙空間をさまよっている「意識」が、「永遠なるもの」にもっとも近い。
ただし、宇宙自体が永遠なるものかどうか?すらわかっていない。

将来のどこかの時点で、こうした「仮説」が証明されたら、人類が発明した「宗教」のほとんどが消滅する可能性もあるし、復活する宗教もあるやもしれぬ。

すると、「正しさ」ということを軸とした、証明された事実と合致しない宗教の信者と、合致するひととの間で、想像を絶する対立が生まれる可能性があるし、合致しない宗教のなかでも、どんな「崩壊」が起きるのか?

よくある科学における「もしも」であるのが、次の二題だ。
・もしも月が突然消滅したら
・もしも地球の自転が急に止まったら

どちらも、地上では悲惨が起きるとかんがえられている。
つまり、「かんがえた」ひとがいる。

あんがいとしられていないのは、太陽に対する地球の公転にあたって、地球と月は、あたかもダンスを踊るように、「ブレ」ながら公転している。
恒星でいう「連星」のようになっている。

しかも、月ができたのは、別の星が地球に衝突して、えぐれた地球の一部が剥がれて月になったという説がいまでは「定説」となっている。
だから、アポロ計画で持ち帰った「月の石」が、地球のそのへんにある石とおなじ組成だった、のだと。

一方で、地球側は、衝突によって内部が露出してかく乱された。
ために、本来はずっと内部にあったはずの物質が地表に出てきたというのである。

ちなみに、人類がこれまで掘った「穴」で、最深のものは、1万2261メートル(およそ12㎞)である。
日本記録は、新潟県にある6310メートルだ。

90年代に1万メートル級を目指した「日本列島における超深度掘削と坑井利用観測(JUDGE)計画」はあるものの、その後進展がないのは、「科学技術」の研究予算配分に、「役に立つ」という条件がついたためである。
それでもって、「文系」の官僚が予算を牛耳っている。

もう一つの「急に自転が止まったら」どうなるか?は、偏西風がとてつもない「風速」になって地表を襲う。
それに、赤道の円周は約4万㎞だから、これを24時間で割れば時速になる。

4万㎞ ÷ 24時間 ≒ 1700㎞ となる。

音速は、秒速約340m だから、時速(3600秒)にすると、約1225kmだ。
つまり、地球はマッハ1.4の超音速で自転している。

なので、急に止まると、慣性によって、ありとあらゆる地上のものはすっ飛んでいく。
残念ながら、人類などは生存できない。

ありがたいことに、地球の自転が急に止まることはない。
これが、「現実」だからかんがえることすら「ムダ」だというひとがいるけれど、果たしてそうなのか?

うつろいゆく時間とともに、老いていく「現実」を無視できるひとはいない。
ただ、若いときは除いて、という条件があるのは、「若さ」とは「時間を気にしない」時期をいうからである。

しかしていま、小学生が「老後」をかんがえる時代になった。
これこそが、「老化」なのである。

過去・現在・未来とは、個人の短い一生のことではなくて、「人類史」という観点からのことをいう。
すると、「永遠なるもの」がほとんど存在しないことに気づくのである。

あるのは、なんと「精神=意識」なのである。

なるほど、われわれの意識が宇宙にあるとすれば、それすら「幻想」かもしれないけれど、「永遠なるもの」にもっとも近しい。

まことに不思議なものである。

一次産業復活は農水省廃止から

世界の食糧危機と、国内の食糧危機は分けてかんがえるひつようがある。

これは、「昭和恐慌」と「世界恐慌」を分けてかんがえることに似ている。
あたかも似たような時期に、「恐慌」という字で書けることが起きたから、時間感覚も含めて原因がぜんぜんちがうのに、後世のわれわれは一緒くたにしたくなるからである。

もちろん、第一次産業も「グローバル化」しているから、世界の影響を受けている。
しかしだからといって、国内オリジナルの問題を混ぜてしまったら、なにがなんだかわからなくなる。

こういうのを、「ちゃんぽん」といっていた。
「ちゃんぽん」の語源には所説ある。
とにかく「混ぜる」という意味からきている。

「長崎ちゃんぽん」といえば、誰でもイメージできる全国区の「郷土料理」になった。
しかして、その具材や麺自体、あるいはスープの原材料が、どこまで「国産」といえるのか?は、なかなかに難しい。

このところ大問題になっている、「肥料」や「農薬」などの必需品にして消耗品の「高騰」や「品不足」で、これらがまたどこまで「国産」といえるのか?もなかなかに難しい。

農産物の原材料で、100%国産といえるのは、「水と空気」ぐらいになっているのだ。
「土」はあるけど、これに「肥料」をくべないといけないので、100%とはとうていいえない。

「水」も、水源地が外国人によって購入されている。

しかも、「空気」だって、「二酸化炭素肥料」という「こやし」がないと、園芸作物ができない。
「甘くておいしい」メロンやトマトなどには、温室内の「二酸化炭素濃度を上げる」ことが有効なのである。

グローバル全体主義が支配している世界のなかで、わが国の政権与党もこれに与しているので、農業から二酸化炭素排出を減らすための「補助金制度」を設けるという、ほぼ「ルイセンコ状態」という噴飯ものに堕ちている。

ルイセンコという人物の「悪名」は、人類の反面教師として忘れてはならない。
それは、「科学が政治に利用される恐怖」を意味するからである。
もっといえば、「政治に科学が屈すること」なのである。

世界でマスクを外せない、いまや「唯一の国」となった日本で、マスクを着けることの科学的根拠を挙げて、マスクを外すことの科学的根拠を示さないことを批難しているひとがいる。

このひとは、マスクを外すことの科学的根拠を本当に知らないのか?それともリサーチ力がないのか?もっといえば、「常識」を知らないのか?もわからないけど、ルイセンコ化している自身の愚かさに気づかない。

この意味で、コロナ禍初期にいっていた、東京都医師会のマスク着用の無意味とか、その後の日本小児科医会の「警告」も全部無視できる。
ただし、東京都医師会のマスク着用への「転向」も、ルイセンコ化といえるから、グズグズの議論になったのである。

一事が万事これだから、一次産業をあずかる「農林水産省」という役所のなかも、当然にルイセンコ化しているのである。
それが、上述の「二酸化炭素排出制限」を農業に課すということになる。

もっと悪辣なのは、この制限に協力する補助金を得ようとした場合の条件に「団体申請」という仕掛けを仕込んでいることだ。
これで、個人経営に徹した農家を排除した「一石二鳥」がある。

こうした「憲法違反」を、平然とする役所があるのは、政治が機能不全を起こしているか、政治が率先してやらせているか、あるいは、これら「両方」のどれかである。

役所は設置しないけど、役人のスタッフを配置する、いわゆる「無任所大臣」がいる。
役所の設置には「設置法」を制定しないといけないから、「無任所大臣」はときどきの「都合」でできる便利さがある。

たとえば、「少子化対策担当大臣」とか、「ワクチン接種推進担当大臣」とか、「拉致問題担当大臣」とか。
なんだか、「やっている感」を出すための、意識的・能動的な「ムダ」が見え見えだ。

「検討氏」として名を馳せている、現政権が「こども家庭庁」の設置を決めたのは、無任所大臣「ではない」ことに力点がある。
しかし、「増える一方」の状態を、「行政の肥大化」というから、「減らす」視点もなければならない。

ただし、それには「国民目線」を前提としないといけないけれど、「国民目線」を意識した政権(与党)ではないので、あくまでも「政権の都合」で肥大化するしかない。

つまり、国民はこの国のコントロールができない状態に押し込まれた。

「少子化対策」とは、「少子化推進」のことで、「ワクチン推進」は、今後集団訴訟になるかもしれない。
訴える先は、国際刑事裁判所だ。
「拉致被害者担当」だって、被害者家族のガス抜きというおぞましさだ。

つまり、「その気もない」ことに担当大臣や設置法が制定されている。

なので、食糧危機の対策として、もっとも「有効」なのは、農林水産省の廃止なのである。
ただし、ここに勤務する役人は、国家公務員としての「身分保障」があるから解雇できない。

国民は、このひとたちが退官するまで雇わないといけない。
じつは、このことがもっとも深刻な問題なのである。
しかしながら、新規採用をなくしたら「時間の問題」なので、「省内各部署」はそのままに、新聞でも読んでのんびり過ごしてもらうことだ。

仕方ないから、なんにもしないで一生を過ごしてもらう。
なにかしたくなったら、退職金も払って退官してもらえばいい。
「穀潰し」なんていってはいけない。
この役所が機能することが、最大の「穀潰し」になるからである。

こうやって、食糧危機を回避するのである。

地方消費税「減税」の公約

消費税について、なぜか一口で「消費税」という。

しかし、消費税は「国税」(7.8%)部分と「地方税」(2.2%)部分とでできていて、合計10%となっている。
かんたんにいえば、地方税部分を「減税」すれば、令和元年10月1日より前の税率に戻れる計算になる。

ここでいう「地方消費税」とは、都道府県税のことだ。

すると、22日に公示された参議院選挙で、「消費税廃止」とか「消費税減税」を「公約」にしている野党が推した、知事は、どうなっているのか?

【公約】
立憲民主党:税率5%への時限的な消費税減税を実施
日本維新の会:消費税の軽減税率を8%から段階的に3%(状況により0%)に引き下げる。その後、消費税本体は2年を目安に5%に引き下げる
国民民主党:賃金上昇が物価+2%に達するまでは消費税を5%に減税する
日本共産党:消費税を5%に緊急減税
社民党:消費税を3年間ゼロ

【知事】
岩手県(民主党)、
山形県(無所属:(支援)民主党・社会民主党・日本共産党)、
静岡県(立憲民主党・国民民主党)、
滋賀県(民主党)、
沖縄県(自由党)※(⇒民主党)、
埼玉県(国民民主党)、
千葉県(無所属:(支援)立憲民主党や国民民主党、日本維新の会)

なお、消費税とインボイスの廃止を公約にしている「れいわ新選組」と、とくに消費税に触れていない「NHK党」からは、知事がいないため省略する。

以上から観ると、「地方消費税」についての言動が皆無なのに、国税の方は勇ましい公約を掲げている「理由」がわかる。

要は、最初から「やる気がない」のだ。

できもしない「公約:マニフェスト」を掲げて、有権者の票を獲得しようという作戦とは、「詐欺」あるいは、「掠奪」にひとしい。
このことに憤慨している有権者が、「無党派層」という最大規模になって、選挙に「行かない層」なのである。

野党の「嘘」は、常に批判の対象となる与党に「有利」となる当然がある。

つまるところ、自・社の対立構造に見せかけた、「談合政治」をやっていた「55年体制」があったけど、いまは「与野党の対立」そのものが「談合」になって、社会党の役回りを「全野党」が演じているにすぎない。

これを、「プロレス化」というのである。

本物のプロレスファンには申し訳ないが、プロレスの醍醐味とは、事前シナリオに基づいた「試合」を、「興行」していることにある。
それゆえの、大胆な技を、観客は楽しんでいる。

もっとも、わが国伝統の「相撲」だって、もとは「神事」として「奉納」するものだったから、これが後に、境内での「興行」となった。
それがさらに発展して、「番付」ができたものだ。

だから、文部省管轄で「スポーツ」になった瞬間に、本質的な相撲のプロレス性を自己否定させられて、すべての「残念の根」ができた。
これを上塗りしたのが、「公益財団法人」になったことだった。
「一般」のままか、「株式会社」にしたら、よかったものを。

プロレスはこうした「利権化」から免れた。
それがまた、「健全性」を保持する理由なので、プロレスファンの「ファンたる理由」に納得できるのである。

しかし、「国政」とか「地方自治」の、「プロレス化」はいただけない。

圧倒的な与党に、歯が立たない野党。
にもかかわらず、マスコミはあたかも「対等」のように扱い、与党も野党からの批判をされないような「へりくだった態度」をとっている。

これは、与党にとって「プロレス状態」が望ましいからだ。
あたかも、野党からの「チョップ」が与党にダメージを与えたように見せることで、大衆が「溜飲を下げる」ようにすることが、与党の支配を強固にするからである。

そうやって、とうとう与党から、選挙という概念が消えた。

なので、国民選択にとって重要な決定を、選挙の「争点」とすることもしないで、どんどん「勝手に」重要なことを決めてしまうことになったのである。

つまり、国民は完全に「蚊帳の外」にいる。

どうして選挙が与党にとって関係ないのか?かは簡単な理屈で、選挙を何回やっても、「与党が勝つ」構造が完成したからである。
逆にいえば、野党が負け続ける構造が完成した。

圧倒的な「無党派層」は、呆れて選挙に行かないために、投票率が半分以下になったのだ。
すると、利権を維持したくて必ず投票に行く小数派が、多数を獲得することになったからである。

これは、あたかも「ナチスの台頭」プロセスに酷似していて、当時のドイツで圧倒的な「自由主義者」が、あまりに呆れて、あるいはバカにして選挙に行かないで放置していたら、小数派による圧倒的支持で、政権を奪取されたのだった。

それから、この圧倒的な自由主義者へのこれ見よがしの弾圧で、とうとう「ああなった」のだった。

分母を全有権者としたら、前回衆議院選挙での自民党の支持率は、20%もない。
おそるべき「弱小政党」が、圧倒的議席をもっている。

すると、野党とは、「蟻」のような存在でしかない。
わが国は、かつてのワイマール共和国の様相を呈しているのである。

内緒の植民地「ニッポン」

あまりにも影響を受けたのに、日本人がしらない「1494年」の出来事は、スペイン帝国とポルトガル王国が結んだ「トルデシリャス条約」の締結だ。

きっかけとなったのは、この2年前、1492年にコロンブスが「インド」を発見して「帰還」たことだった。
それで、スペインとポルトガルで、「新世界」への冒険航海が盛んになったのである。

貪欲で白人以外を人間だと認識していないひとたちだから、この「冒険」の意味は「征服」なのである。
それでまた、「新地」における「布教」という大義名分が、教皇庁の利益にもなったので、新領土所有権に教会がお墨付きを与えることに介入した。

こうして教会は、「教皇子午線」を地図上に設けて、スペインとポルトガルとに事実上の「境界」を与えたのだった。
しかし、「不利」を感じたポルトガル王からのクレームで、スペインとの間に設けたのがこの「条約」になった。

それから教皇が代替わりした1506年に、この条約を教会も認めたのである。

すなわち、スペインとポルトガルが見つけた「新地」への「領有権」に対するローマ教会の権威づけだから、勝手に領土宣言されてしまう「現地民」には、理解不能のルールをただ押しつけられることになったのである。

まさに、「天から」おしつけられた。

これに不満を持ったのは、ローマ教会を信じるフランスだったし、そもそもプロテスタントの国は、はなから相手にされていない。
それで、フランス、それからスペインの飛び地だったけどプロテスタントのオランダやイギリスとかのヨーロッパ諸国が、「領土争奪戦」を繰り広げることになったのである。

ただし、繰り返すが、カソリックだろうがプロテスタントだろうが、これら「現地民」が人間だという認識を持っていないことの傲慢は、いかんともしがたい。

まさに、「貪欲」で血に飢えた白人たちが、アメリカ大陸に押し寄せて、それからインドを目指してアフリカ大陸に食指を動かした。
ブラジルを先に手にしていたポルトガルは、この「条約」によって、南米をあきらめて、挙げ句に日本まで来たのである。

人口が少ないポルトガルは、植民地支配に本国人を投入できなくなって、スペインが優勢になり、そのスペイン無敵艦隊がイギリスに負けたことで、インド支配の権利も取られる。

ただし、これらは支配者の争いで、被支配者には無関係だった。

宣教師を「植民地化」の先遣隊としたスペイン・ポルトガルのパターンに気がついて、豊臣秀吉が1587年(天正15年)に発したのが、「バテレン追放令」だった。

おおくの日本人が、奴隷として東南アジアにいた白人に売られたことが、秀吉を激怒させたという。
なお、現代スペインに、日本人の末裔が万単位でコミュニティを形成しているのは、「天正の少年使節」たちの子孫だ。

日本が本格的に「鎖国」できたのは、ヨーロッパからやってくる当時の艦船の武装では、わが国幕府の武力にかなわなかったからだ。
この意味で、「鎖国」とは、「完全中立」ともいえる。

だから、「黒船」の装甲と武装に、幕府側が「歯が立たぬ」と驚いたのである。
これはこれで、武器についての知識が幕府にあったからだった。

さてそれで「明治維新」となるけれど、明治新政府がヨーロッパ諸国とすでにできていた巨大金融資本の「傀儡」だったことは、さいきんになって明らかになってきた。

各国と結ばされた「不平等条約」には、領事裁判権すらないことでしられているけど、そんな国は「植民地」なのに、「独立していたアジアで唯一の国」と自慢している。

ヨーロッパのパワーバランスの都合で、ロシアに鉄拳を喰らわせたいイギリスが仕掛けたのが、「日露戦争」で、その戦費を「貸し付け」したのが、ロンドン・シティの国際金融資本家たちだった。

ヨーロッパのパワーバランスの都合で「亡国」したポーランド人は、宿敵ロシアさえなかったら、「我々の隣国は日本だ」と明言している。
彼らは、地図の不要部分をシワをよせるように圧縮して観る感覚をもっている。

結局のところ、この日露戦争の莫大な借金を返すことが、「日本イジメ」の材料にもつかわれて、第二次大戦の原因になったともいわれだした。
それがまた、第一次世界大戦の莫大な賠償金を抱え込んだドイツとの連携となった、と。

そのドイツは、「信号機内閣」というウルトラ連立で、左派から右派まで取り込んで組閣したら、ウクライナ危機を利用して、あらたな軍事大国になろうとしている。

つまり、アメリカの影響力をヨーロッパから除きたい、という「戦後秩序」の変換をあからさまにしている。
内政・外交・軍事ともに、「大失敗中」の民主党バイデン政権の「弱み」につけ込んでいるやにみえる。

一方の敗戦国、わが国は、そのバイデン政権のいいなりをやっている。
「支配されることの歓び」=「奴隷の幸せ」の追求をしているのだ。

そんな日本政府の奴隷になった国民は、やっぱり「植民地」のなかに住んでいる。

小中学生に響く政治演説

選挙前の2月から街頭演説をはじめた「参政党」は、10年以上の歳月をかけた「下準備」を経ていると自己説明している。

記念すべき「初回」は、埼玉県の川越で行われた。
そもそも関心が薄い参議院選挙だとしても、選挙の5ヶ月も前からの「街頭演説」に、いかほどのひとが聞き耳を立てるのか?
素人でも容易に想像できることである。

しかしながら、「それでもやる」には、戦略があってのことだという。
もちろん、「マスコミが自分たちを報道しない」ということを「前提」にしたことだった。

なぜに「報道しない」とわかるのかはかんたんで、日本における「保守」を自負するからであって、場合によっては「極右」とレッテルを貼られることも覚悟しているからである、と。

創立者で、党事務局長の神谷宗幣氏によれば、25年前に留学先での外国人との討論で、自分が日本人として日本の歴史も国の将来のことも「かんがえたことがない」ことに気づいた瞬間に、「危機感が生まれた」との告白がある。

ここが神谷氏の話で、わたしが一番「共感」することだ。

ほとんど40年前になった、エジプト勤務で、出席を強要されたパーティーでは、「壁のシミ」になることに徹していたのに、同僚の先輩が外国人を紹介してくれるという「ハプニング」があった。

そもそも立食形式のパーティーなんて、映画の中のことでしかなかったので、その「作法」についても、せいぜい「宗教」と「性」の話はタブーであることぐらいしかしらない。
それになにより、「英語で話す」ということが最大のネックなのだ。

このときの外国人は、典型的英国紳士であって、その後わたしは業務上でもこの人物に助けてもらうことになるとは思わなかった。
縁とは不思議なものである。

それでもって、もっぱらの「話題」は、「日本史」だったのである。

彼の興味が、「世界一古い王朝」としての「日本」だったからである。
またこの人物は、ちょっと変わっていて、ずいぶんとへりくだっていた。
わたしが知る由もない、「英王室」の「情けない話」を例にして、「日本の場合」を質問されるのである。

これがまた、週ごとに持ち回りでやるパーティーでのシリーズ的質問になってしまったので、「日本史」の参考書を取り寄せることにもなった。
それでいつの間にか、彼の友人だというアメリカ人も加わって、なんだか歴史講座的なことになったのである。

こちらは背中に冷や汗をかいているけど、わたしの「解釈」が面白いらしくて、ときには「からかわれているかもしれない」と思うほどだった。
ただし、酒の席のことだから、あんがいと適当でよかったし、アメリカ人はただ「フムフム」とさも珍しそうに聴いているだけだった。

このときによくわかったのは、自分が自国の歴史をしらないということの「深刻さ」で、学校で習う歴史の「役立たず」も骨身にこたえた。
「歴史」は、人間の生活が積み重なったものだから、たとえばこのときの英国人が例にしたのは、シェークスピアの『リチャード三世』とかのエピソードだ。

おそらく、彼のわたしを試す「引っかけ問題」だったのだ。

しかし、たまたま、『リチャード三世』は赴任前の、1980年、池袋サンシャイン劇場での、いまでは「伝説」となった舞台(尾上辰之助・美輪明宏・范文雀)を観ていたから、彼の話についていけたばかりか、「パンフレット」の解説を覚えていたことであんがい詳細に語れたラッキーがあった。

逆に、このことで彼を驚かせたのが、「その後」になったのである。

つまり、「歴史」は、やたらと「すそ野」が広いことをしったのである。
いわゆる「古典」も、歴史のなかにある。
どうして「歴史」が、「暗記物」になるのか?は、わが国の学校教育の大問題なのだ。

「歴史」をしらいないで、英語ができてもなんら人間関係がつくれない。

そんなわけで、神谷氏や吉野氏の演説にある「日本の歴史=国史」は、聴衆の「民族の記憶」を呼び起こすのだろう。
それがまた、小中学生に拡散していることの「根拠」にもなっている。

すでに、小中学生もスマホを持っている「あたりまえ」があって、彼らはSNSの動画(とくに若者は「TikTok」)を観ているのだ。

参政党の街頭演説の特徴に、聴衆からの質問コーナーがある。
これまでの街頭演説の場でも、小中学生が質問して、その本質をついた内容は、おとなの聴衆を緊張させ、その回答ぶりに拍手喝采する構図があった。

23日、選挙戦2日目の神谷氏は、千葉県入りして3カ所での街頭演説とホールでの演説会をこなす熱量があった。
千葉駅前には、500人以上の聴衆がいて、小学生と中学生が質問した。

小学生(5年生)は、「道徳の授業」で嘘をついてはいけないと習うのに、それを教えている文部科学省や政府が「嘘」をついていると参政党の演説でしった。
それで混乱してしまったわたしはどうすればいいのでしょう?だった。

40歳までの若年層の死因のトップが「自殺」という国の、本質をつく質問だ。
また、人口比でアメリカ人の「6倍の精神疾患」を抱えているのも日本だということの「原因」ともいわれる、歴史認識と精神形成の関係がある。

中学生の質問は、選挙権はまだないけれども、参政党を友人たちに拡散させる有効な方法はなにか?だ。

神谷氏のそれぞれへの回答は、動画で確認(1時間14分26秒あたりから)されることをお勧めする。
なお、神谷氏「お薦め」はこちら