トランプ「弾劾失敗」の残念

訴追した連邦下院の持ち時間は、100%消費したのに、弁護側の持ち時間はたっぷり半分も余して「結審」し、判決は57対43で過半数はこえたけど、憲法規定の「2/3」に届かず、「無罪」となった。

「有罪」には、17人の共和党側からの「裏切り」がいないといけなかったし、裁判開始にあたって、「違憲」の動議があり、この議決の裏切りは6人しかいなかったから、結果はみえていた。

弁護側の初日、ひとりの弁護士の論点が「変だった」ため、この時点で裏切りがひとり増えて、さらにもうひとりが加わって、当初の5人から7人になった。
このひとたちは、「地元」の共和党から、激しい批判をあびていて、「辞職勧告」も地元共和党から決議されはじめている。

アメリカの選挙は、「党内の予備選挙」を経てから正式の候補者になる。
なにも、大統領選挙だけの仕組みではない。
これが、「近代政党」の「近代」たるゆえんだから、わが国の政党は、この意味で「全党」が近代政党ではない。

裏切り者は全員、次回の選挙で消えゆく運命を自分で選択したことになった。

すこしさかのぼって「外野」の状況を解説すれば、弁護団への「脅迫」があったのが、初日の「不調」の原因とみられている。
144人の憲法学者たちが、連名で弁護団の弁護士資格の「剥奪」をいいだしたのだ。
この筆頭に、元ハーバード大法学部長がいる。

しかしながら、民主党員だけど現職のハーバード大法学部教授が、違法な脅迫である旨の警告を発した。
筋を通すひとが残っていた。
ハーバード大学の名誉にも貢献したことだろう。

それにしても、「残念」なのは、弁護団が持ち時間を使い果たさなかったことにある。
トランプ氏の、見た目とはちがう上品さがここにある。
「完膚無きまで」相手を追いつめない。

「無罪」を勝ち取るだけが、この裁判の目的なのか?
仮に「有罪」になったら、被選挙権の喪失だけでなく、場合によったら別件で捕まって、身柄拘束する挙にでないともかぎらないのが、相手の本性なのだ。

何度も書くが、社会主義者=かならず全体主義にするひとたちは、自分たちが「理論的に正しい」と、その理論・思想を一方的に信じているので、歯向かうものを容赦しない、という特性をもっている。

あの、昭和元禄まっさかりの1971年から翌年までに、仲間を連続リンチ殺害した、「連合赤軍」だって、あるいは過激派の「内ゲバ殺人」だって、おなじ行動パターンなのだ。
自分しか正しい者はいない絶対者だから、歯向かうものは殺してもいい。

これが、「無神論」なのだ。
絶対神はいない。
なぜなら、自分が絶対神だからである。
これが、国家レベルに組織化されると、指導者が神格化される理由だ。

すなわち、そんな相手との闘いなのだから、弁護側は徹底的に潰さないといけないはずだ。
にもかかわらず、これを、「しない」おっとりさが歯がゆいのである。

例によって、トランプ氏は弾劾裁判中も、自身はゴルフ三昧をやっていた。
それで、記者に「大丈夫か?」と聞かれても、余裕綽々ではあった。

強い意志と信仰をもつ彼は、けっして自分を信仰の対象とはしない。
絶対神が彼のなかにいるから、政治的余裕なのではなくて、「神のご加護」を本気で信じているのだということが、ようやくわたしにもわかってきた。

すると、「無神論」あるいは、「近代合理主義」(神の存在に懐疑的)のひとたちからしたら、トランプ氏の存在が、きっと不気味になるはずだ。
それが、政治的になにかを企んでいる、と勘ぐるしかなくなるからだ。
けれども、彼の企みとは、神と共にある、ことだけなのだろう。

そうしてかんがえると、イエス・キリストが説いたように、隣人を愛し、叩かれたらもう一方の頬を差し出すがごとくの態度の意味も、一貫性のあるものとなる。
なるほど、アーミッシュたちが、救世主だと認定したわけがわかるのだ。

さてそれで、これから、なにが起きるのか?

トランプ支持者のなかにも多数いるはずの、「近代合理主義者」たちの期待に、どのように応えるのか?
民主党の、白を黒とする企ては、トランプ弁護団によって粉砕された。
証拠提出された「ビデオ」の、悪意ある「編集」こそが冤罪づくりという犯罪行為であったと論破されたのだ。

しかし完全論破されながらも、議会の過半数が「有罪票」なのである。
このモヤモヤを、どうやって晴らすのか?
次は、スッキリさせることがどうしても必要になる。
あたかも、キリストが奇跡を起こすようにだ。

一方で、民主党の残念は、どんな形で歪むのか?
最初から歪んでいるから、もっと歪むことは確実だ。
犯罪を正義にしてでも、何が何でも、トランプ氏をおとしめる。
それこそが、彼らの行動原理そのものだから、止まりようがない。

あたかも、時季はずれの、「過越祭」のようだ。
どちらの陣営も、ドアに自陣のマークをつけろ、と。
さもなくば、皆殺し、である。
さては、どちらを選択すべきかが問われだした。

モーゼの警告に従わなかった、エジプト王の長男が息絶えたごとく。

他民族の宗教祭りが、わが国にもやってきた。

わが国も病気を利用して、政府の意向に従わないと「科料」をくらう時代が到来した。それよりも、だれも「憲法違反」をいわないから、ほんとうは憲法が殺された。
感染防止に効果がないことは承知でも、効果があることにするのは、国民に命令したいからである。

どちらを選択するのか?
自由か?
強制か?

けれども、年内にあるはずの衆議院選挙(10月に任期切れ)で、選択肢がない、という絶望的困ったがある。

左翼の主張と内輪げんか

こないだ紹介した『TIME』誌の2月4日号の記事、「The Secret History of the Shadow Campaign That Saved the 2020 Election」で、民主党勝利の「手柄」についてさんざん自慢したばかりであったけど、こんどは、いつものように「内輪もめ」を開始した。

ただし、この記事で持ち上げられた、「最大の功労者=全米労働組合」は、早くも新政権が打ち出す政策で、「大量失業」の窮地に追いこまれてしまっている。

誰のために?何のために?
組織をあげて不正をしても、正義のためなら法を侵しても許される、という図らずも「不正」の事実だけでなく、病気の利用やらなんやらという「手口」まで記事にして公開したのは、勝者の奢りとしかいいようがない。

さほどに、この選挙の勝利とは、勝者に多大なメリットをもたらすものに違いなかったはずなのに。
あゝそれなのに、それなのに、アメリカ人は失業し、不法移民を留めおくとは。

いまさら残念ながら、労働組合は、利用されるだけ利用されて、あっさりと棄てられた。
どういうわけか、暴動をしていたひとたちも、「カネよこせ」と叫んで、こんどは民主党への攻撃を開始したのも、金の切れ目が縁の切れ目ということで、利用されただけだったことに気がついた。

こんなことなら共和党を支持すればよかった、と遅きに失したけれど、間違いに気づいたのは不幸中の幸いだ。

アメリカが生んだ偉大な経営者のひとりであり、「経営学」の祖のひとり、チェスター・バーナードの唱えた「協働」を、経営者として実践してきたトランプ氏に気づかなかったことの不明が、いまの労働組合にブーメランとなったことが骨身にしみたことだろう。

1980年に日本でも大ベストセラーになった、フリードマン夫妻の『選択の自由』は、どの書店にも山積みされていて、当時のサラリーマンがこぞって読んでいた。

もしや、その後にやってきた、「バブル」とは、フリードマンの直截な表現を誤解したからだったかもしれない。
それが「反動」となって、「新自由主義=憎し」に変換されたなら、辻褄はあうけど、「読解」に値しない「誤解」のままという恨みがある。

シカゴ大学で同僚だったハイエクは、フリードマンと一緒に扱われることがよくあるのも、「誤解」である。
ハイエクの深みは、フリードマンの荒っぽさと一線を画す。
ただし、フリードマンの文章は、ハイエクよりずっとわかりやすい。

ハイエクの著作『自由の条件』をカバンからだして首相就任記者会見をはじめたサッチャー氏とコンビを組んだ、レーガン大統領は、フリードマンを実質的経済顧問にしていた。
なお、日銀もフリードマンを顧問にしていたけれど、その提言を活かすことはなかった。

「小さな政府」では都合が悪い、きっと、大蔵省が自民党政治家をたぶらかしたのだろう。
わが国は、「大きな政府」を、いまでも「国是」としている。

『選択の自由』には、「消費者団体」が消費者のためになるとは限らないという事例や、「労働組合」が労働者のためになるとは限らないという事例も「章」をたてて書かれていた。
いまやっと、アメリカ人はフリードマンの解説を苦く思っているに違いない。

さて、宿敵トランプ政権打倒を成功させた自負と安心感からか、こんどはテレビ局の免許取消がはじまった。
社会主義者(かならず全体主義になる)とは、自分の「理論」が絶対だとして譲らないという習性がある。譲ると粛正されるからである。

それで、「BBC」と「CCTVの海外放送」が、双方の国で放送免許を取り消している。
わが国の「NHK」は、かすりもしないから、「BBC」よりよほど悪辣だとかえって素性がばれた。

イギリスでも国民のBBC批判は高まっていて、この点はNHKと似ている。
アメリカ大統領選挙報道では、あの偏向のCNNと、あらそって偏向ぶりを見せたのがBBCだったけど、国際放送としてNHKを視聴するひとがいないからか、NHKの話題は薄い。

そんなBBCが、どうしたことかウイグルでの「問題」を、ちゃんと放送した。
わが国は、外務省が「人権問題はない」としているから、NHKも「ない」ことにしている。

人権よりもカネが欲しい。人権では食っていけない。
世界が呆れるいい分でも、いくらでもいう「非道義国家」に成り下がったから、「日本はいい国だ」といって国民をなだめる放送をする。

余計なお世話なのである。

イギリスがCCTVの海外放送を免許取消にしたのは、(外国)政府当局が放送内容をコントロールしているなら違法(政治宣伝にあたる)だという法律がもともとあったからである。
どうやら、この条文の存在にイギリス人が最近気がついたようだ。

アメリカ民主党に肩を持った、昨日の友が今日の敵になったのである。

どちらの放送局も、「真実を伝えている」と言い張っているのが、笑いを誘っている。

アメリカ民主党は「禁止」されるか

戦後、西ドイツでは、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者)党は、禁止されて、東西ドイツ統一後のいまでも有効であるし、当局による取締がおこなわれている。
その理由が、人類社会に厄災をもたらしたことにあるのは、日本人だっておおくのひとがしっている。

それに、イタリアのムッソリーニが率いる「ファシスト党」をくわえて、「日・独・伊・三国同盟」を結んだことの「痛さ」とは、わが国の歴史の痛恨をいう。
なお、ムッソリーニは、あんまりの「極左」だったから、イタリア共産党から「除名」されて、ファシスト党(超極左)を設立した経緯がある。

昭和14年(1939年)、平沼騏一郎内閣は、「独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という談話を発表して総辞職に至る。

「日本外交の国際認識の欠如」のもっとも顕著な例として、いまでも語り継がれている。
しかし、この翌年の9月27日、ベルリンと東京で三国間条約が調印された。当時は、帝国議会での批准を要しない。

「日本外交の国際認識の欠如」というフレーズは、いつ(戦前・戦後)でも、何回でも使える、驚くほど便利ないいまわしである。

つまり、日本(人・国)は、「外交音痴」ということなのだ。

国が外交音痴なのは、職業外交官に依存しているからである。
職業外交官とは、外務省の外交官試験合格者たちをいう。
わが国には、職業軍人がいない建前があるから、外交官の頭脳には「軍事」も必要なのだけど、戦前・戦中の軍人依存があったから、戦後の日本外交官に「軍事」が抜けているし、興味もないから研修もさわり程度で済ますのだ。

戦争とは外交の延長にある。

これが、戦争を繰り返してきた欧州の常識で、クラウゼヴィッツの『戦争論』(ナポレオンの国民軍についての研究)は、いまだって必読の書に変わりはないし、マキャベリの『君主論』も彼の地域のひとたちには同様である。

  

大使館に派遣される、「武官」がいる、とはいえ、本国における自衛隊制服組が、首相官邸の敷居を跨ぐのにどのくらいの時間を要したか?
つい最近まで、制服組トップは官邸に入ることすら許されなかったのだ。

これを、以前、「新・平安時代」だと内輪に書いたことがあった。
藤原氏一族が支配した時代、貴族たちは、血に穢れた「侍」たちを忌み嫌ったから、「大将」やら「少将」の肩書きは一族に与えても、本物の武官たる「侍」には、下級の地位しか与えなかった。

これが、東の平将門、西の藤原純友の乱となる。

現代の「侍」で「穢れ」の対象になっている、自衛隊が乱を起こすのではないか?
「起こせ!」と叫んで、失笑がかえってきたのが三島由紀夫事件だった。
その話の延長に、『皇帝のいない8月』(1978年)があった。
はたして、「荒唐無稽」と切り捨てられるものか?

 

名画と名高く、バーグマンの美女ぶりが印象に残る、『カサブランカ』(1942年)の背景にある、「緊張」は、ナチスの傀儡といわれたフランス・ヴィシー政府が支配するモロッコにおける人間ドラマで、登場人物たちの背景もえらく複雑だけど、「アメリカ参戦」と重なる観客の背景も計算されているのだ。それで、アカデミー賞3部門を受賞した。

そこであらためて、「連合国」をかんがえてみると、基軸は英・ソ・米(ずっと「中立」といっていた)ということで、本当は、「英・ソ」の連合なのである。
戦後「鉄のカーテン」ができて、あたかも「冷戦勃発」となるけれど、どうして「ソ連」と連合したのか?

こうやってみると、がぜん「チャーチルがあやしい」のだ。
英国保守党の「黒歴史」が、チラチラする。
大英帝国の、既存ルールを無視して、都合がいい新規ルールをつくる行動原理と習性がみえてくるのだ。

「赤い帝国」となった、ソ連や中共が、大英帝国のやり方を学んだということがよくわかるというものだ。

「人類に厄災」といえば、わが国に原爆を2発も落したばかりか、通常兵器にあたるという焼夷弾(粘性のある油が主)だって、民間人を焼き殺すための兵器だ。

水をかけても消えないし、顔など皮膚についたら、どんなに拭っても取れないで焼けるだけだ。
木と紙で作った家に住む日本人を殺戮したのは、アメリカ民主党政権であった。

昭和20年5月24日の空襲で、慶應の小泉信三塾長、翌日の「山手大空襲」では、ギリシャ哲学の田中美知太郎博士が大やけどを負って、ご両人とも顔が崩れるケロイドの後遺症が残ってしまった。

ならば、どうしてアメリカ民主党は禁止されないのか?

いまやっている「トランプ弾劾裁判」は、アメリカ民主党禁止のための「わざと」かもしれないと勘ぐりたくなる。

その意味でいえば、「言論戦」や「思想戦」が起きているのである。

わが国には、なんでもいえる「言論の自由」を金科玉条のごとくにいうひとがいるけれど、「ナチス禁止」には反対しない。
それにくわえて、たいがいが「反米」だけど、その対象は、共和党なのであって民主党ではない不思議がある。

それは、国内にあって、共産党を禁止しないことにあらわれる。

かつての社会主義圏だった東欧諸国はもとより、共産党を禁止している国は多数ある。
むしろ、共産国でないのに「共産党」が議席を持つ国は、日本とフランス「だけ」なのだということもしっていていい。

酋長のJBが活躍する

いまやネット界は、「伏せ字」が流行している。
あたりまえだけど、誰だって直接的ないい方をしたいのに、それができないから工夫する。
「検閲」があからさまにおこなわれているからである。

わが国の歴史で、あからさまに検閲がおこなわれていたのは、先の戦争中のことである。
昭和13年の「国家総動員法」から、関連法が整備された。
一本の法律だけで国民を締め上げることはしない、ということは、いまでもおなじ政府のテクニックである。

このときは「軍:このばあいは陸軍」が、検閲をしたけれど、検閲をされる側(たとえば新聞社)は、社内に検閲担当者をおいて、陸軍の検閲による印刷差し止めを回避した。
やり方は、陸軍の検閲官より内部検閲を厳しくしたのである。

しかし、こうした内部検閲をはじめる前は、軍の検閲官に印刷を差し止められたりして、経営上困ったことになった。
物資欠乏のなか、貴重なインクと新聞紙がムダになって、おどろくほどの経費がかさむからである。

検閲が初期の頃、印刷の植字を急いで抜いたのが、「伏せ字」になって、すき間が白く空いたので、なくなった文字数をかぞえては、文字を埋めるパズル替わりにして楽しんだという。
それから、社内検閲がはじまると、原稿そのものを「差替え」するから、読者は「伏せ字」を見る機会がなくなった。

「コンプライアンス」の重要性が、いつの間にか強化されて、社内での専門部署が当時の社内検閲のごとく、機械的にしか動かないとどうなるか?は、容易に察しがつく。
その「弊害」も、ほんらいは経営者の経営力の結果だけど、圧倒的多数の残念な経営者は、当該部署の責任者に詰め腹を切らせるから始末が悪いのである。

もちろん、コンプラの不祥事を報じる側もおなじだから、「検閲担当者」の方法を聴き出す話が、あたかも本人たちの意志で実行したように印象づけるのである。
「担当者」は、「社命」によってやっていただけなのに。
だから、ちゃんと「責任者」にも取材しないといけないのだ。

これを、「愚直」にやったのが、ハンナ・アーレントの歴史に残る仕事『 エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』だった。
それで、この作品を書き上げた彼女を映画にして、あんがいと、全共闘世代に受けたのが、映画『ハンナ・アーレント』(2012年)だ。

映画の作中に登場する、アイヒマンは、本物の裁判映像からの「出演」をさせる工夫がされているのも話題になった。
組織の中での、中間管理職としての「陳腐さ」が発見された。
これは、人類共通の発見だった。

 

そんなわけで、いま実施されている巨大テック企業たちによる「検閲」も、実行責任者の「陳腐さ」が予想されるのである。

しかしながら、伏せ字や読みかえなどの工夫が、それなりに普及すると、それ自体が「用語」に変化する。
これを、「AI」による検索と競争する、ということが現実になったのである。

それで、いま大統領「らしきひと」を、「JB」と表記することがあたらしい習慣になったし、大統領のことを「大酋長」と読み替えるのだ。

1952年の『人生模様』(20世紀FOX)という映画は、あの「オー・ヘンリー」の短編集から、名作を5本選んで、これを当時の有名監督たちが一編ずつを担当した、アンソロジーになっている。

1.「警官と賛美歌」:ヘンリー・コスター監督
2.「クラリオン・コール新聞」:ヘンリー・ハサウェイ監督
3.「最後の一葉」:ジーン・ネグレスコ監督
4.「赤い酋長の身代金」:ハワード・ホークス監督
5.「賢者の贈り物」:ヘンリー・キング監督

「警官と賛美歌」には、マリリン・モンローが街娼でチョイ役だけど、味のある演技をみせている。
この映画は彼女の人気が、直前の『ノックは無用』で盛り上がってからだから、端役なのにクレジット・タイトルは大きい文字表記になっている。

オー・ヘンリー(本名はウィリアム・シドニー・ポーター)は、1910年(明治43年)に47歳の若さで没しているので、作品は、日本の明治時代にあたるアメリカを舞台にしている。
だから、この映画は、作家の死後40年以上経ってからの「時代劇」でもある。

さてそれで、4番目のエピソード、「赤い酋長の身代金」は、なんだか後の『ホーム・アローン』(1990年~2012年)シリーズを彷彿とさせる。

妙にひとがよく上品な二人組の犯人が、土地持ちの金持ちの子どもを誘拐して身代金を稼ごうという魂胆だけど、捕らえた子どもが「ハンパない悪ガキ」だった。
彼の名前が、「JB」で、犯人のおとな相手に、「酋長」ごっこを要求するのだ。

不可思議な「縁」があるのは、『ホーム・アローン2』(1992年)に、当時既にテレビのトーク番組で人気を得ていた、トランプ氏が「チョイ役」で出演している。
もちろん、その後に大統領になるとは誰も想像しなかっただろう。

このシーンは、ニューヨークのプラザホテルでロケをした。
トランプ氏は当時のオーナーで、自分の出演と引き換えに撮影を許可したというエピソードもある。
それが、カナダのテレビの映画放送で、この場面をふくめていくつかを「カットした」ことが話題になった。

そして、今年、全米俳優組合に加入していたトランプ氏除名の動きに先手をとって、「こんな組合なら辞めてやる」と手紙を書いて脱退したのも、ニュースになった。

日米のメディアは、反トランプ一色なので、「おとしめる」ことしかしないという、別の「筋書き」もある。
これに、フリーの記者たちも売文のために日和るから、「クラリオン・コール新聞」も、一歩まちがうと、にも読めるのだ。

オー・ヘンリーが想像もしないドラマが現実になっている。

「昔の日本人」とは?

むかしはこうだった。
年寄りがよくいうセリフである。

かんがえてみればあたりまえで、齢を重ねれば誰だって記憶の厚みが増すものだ。
「齢(よわい)」とは、記憶の重なりをいうのである。
だから、人生経験がたかだか10年とか20年では、「むかし」といってもたいしたことはない。

ご本人には気の毒だけど、1992年のバルセロナ・オリンピックの水泳でいきなり金メダルを獲得した、岩崎恭子氏(当時14歳)が、「今まで生きてきた中で一番幸せです」といって失笑を買ったのは、その人生の「薄さ」であって、だれも「若さ」を笑ったのではなかった。

しかしながら、今年43歳になる本人が、おなじセリフをいったなら、もうだれも失笑なんてしない。
それよりも、アスリートのアスリートたる時間の短さとその頂点の瞬間に、ひとびとの想いが重なるであろう。

ここには、人生の「時間」の意味がしみじみとにじみ出るのである。
そして、「時間」とは、あんがい残酷なものだと。
万人に容赦なく平等に流れる時間は、いっさいの妥協なく一方通行で戻ることは決してない。

若い時分に、時間は残酷だといっても、その意味を理解はできない。
むしろ、ありあまる時間をもてあそぶのがふつうなのだ。
この感覚が、若者文化をつくりだす。
いまの年寄りも若い頃がそうだったように、である。

それで、たまにやってくる「戦争」が、若者にありあまる時間の感覚が間違いであることを教えた。
そうかんがえれば、オリンピックが4年に1度なのも、オリンピックをめざす若者には、時間の感覚を正しく教えるにちがいない。

だとすれば、上述の若き岩崎恭子氏の発言は、オリンピックへの出場準備からの「管理された時間」をおもえば、本人なりの率直な言葉になるのは理解できるし、「平和の祭典」の意味もわかるというものだ。

小学校でも当時の学童日本記録をだしている。
すると、中学1年で100m・200m平泳ぎで「2冠」を達成してから、彼女はおそらく「強化選手」になって、管理の対象になったのではないか?
だとしたら、同級生たちが時間をもてあそぶときに、それどころか時間に追われる毎日だったと思われるのだ。

以上が、すでにひと世代30年ほど前の「昔」の日本の一コマである。
さてはもっと前ならどうなのか?
わたし自身の人生を通過させて、その前をみるのなら、いまや「日本人の記録」となっている古い映画のなかでも「名作」のセリフを参考にしてみようかとおもう。

監督 小津安二郎『長屋紳士録』 昭和22年(1947年)4月完成の松竹映画。
未亡人役の飯田蝶子が語るラストシーンだ。

「考えてみりゃあたしたちの気持ちだってずいぶん昔とはちがってるよ。
自分一人さえ良いきゃいいじゃすまないよ。
早い話が電車に乗るんだって人を押しのけたりさ、人さまはどうでもてめえだけは腹いっぱい食おうって了見だろ。
いじいじして、のんびりしてないのはあたしたちだったよ。」

いまでも相づちをうつところだ。
すると、74年前のひとのセリフといまが一致する。

一体全体、日本人が日本人らしかったのは、いつのことだったのだろうか?
このセリフからみえるのは、「戦中」かその前の「戦前」だ。
当該の場面で、相づちをうちながら聞き入っている登場人物は、目の前の長屋に住まう役の小沢栄太郎と、同居人役の笠智衆のふたりである。

作品中の設定年齢は不詳だけれど、生年が飯田蝶子は1897年(明治30年)で50歳、小沢栄太郎は1909年(明治42年)で38歳、笠智衆は1904年(明治37年)43歳たちのかけ合いだ。

全員が明治生まれだから、やっぱり近代日本人は、明治の頃を原点にして、それ以前を「昔」として感じていたのだろう。
だとすると、夏目漱石の頃の人間模様が、がぜん興味深い。

そこで、『坊ちゃん』を詳細に時代考証した研究成果を発見した。
『「坊ちゃん」に見る明治の中学校あれこれ-国民的名作を教育史から読み直す-』藤原重彦、2019年、である。
版元が「ウニスガ印刷」となっているけど、電子出版されてから紙の本となったものだ。

「中学(5年制)」というところがミソなのだ。
本文に説明があるけれど、当時中学校に進学できたのはおよそ1%。
義務教育の「尋常小学校」は、いまの4年生まで。
その上の2年制の「高等小学校」でさえ、なかなかいける時代ではない。

飯田は高等女学校(中学校に相当)へ入学するも、すぐさま中退した。
小沢は中学校で胸を病み、笠は東洋大学印度哲学科を中退している。
つまり、このひとたちは、当時の「エリート」だったのだ。

演じた庶民は、そのほとんどが小学校の10歳、あるいは高等小学校(いまの小学校)の12歳で社会に出ていた。
だから、「昔は」というときのおおくは、小学校を出てからの社会をいったのだ。

どうやら、学校教育だけで教育されていたのではないことは確かなのである。

「、のようなもの」の建国記念の日

「建国記念の日」とは、国家にとって一番重要な日である。
近代国家なら、次が「憲法記念日」だ。

あんまり知られていないことに、わが国の「憲法」は、国会で認証されていないという秘密がある。

1946年(昭和21年)11月3日(明治天皇の誕生日:「明治節」でもある)に、日本国憲法は「公布」された。
これによって、「帝国議会」が「国会」となり、国会に「衆議院」と「参議院」が定められた。

それで、1947年(昭和22年)5月20日に、日本国憲法に基づいて第一回国会が招集され、現在の第204国会へと続いてきた。
これは、日本国憲法が帝国議会で制定はされたけど、その新憲法が新しく定めた今の国会での承認を、「されないまま」であることを意味する。

ただの「手続き論」ではないかというひともいるやもしれないけれど、民主主義とは「手続き」を重視する主義なのであるから、嘘みたいに重要なことが放置されている国になっているのだ。
つまりは、「、のようなもの」としての「憲法」と「国会」があるということだ。

言葉を整理すれば、「憲法、のようなもの」が、「国会、のようなもの」を定めて、そこが国権の最高機関とされている、ということになる。

絶対多数を誇る与党が、憲法議論を内輪でして、国会でしないままにしているけれど、聞こえてくる議論に、「国会での憲法の承認」がないのも、わが国自体が「、のようなもの」であるからだといえる。
つまりは、「国、のようなもの」ということだ。

日本国という、「実態」があるのはあるが、「実体」がない。

だから、全部がぜんぶ、「、のようなもの」になってしまうのは、国の根幹が「、のようなもの」だから当然だ。
「軍、のようなもの」が「自衛隊」だし、「議員内閣、のようなもの」も、高級役人が仕切っている。
そうしたら、とうとう「病気、のようなもの」が流行りだして、「自粛、のようなもの」で「強制」している。

「政治家、のようなもの」が、「決断、のようなもの」をして、地方の「知事、のようもの」が、「藩主」となって、国へ「要請、のようなもの」の「命令」をしたら、「緊急事態宣言、のようなもの」が発令された。

だからといって、生活のなにが変わるかといえば、「飲食店、のようなもの」だけ、営業時間を短縮させられ、時間外にも営業していようものなら、警察官が「営業許可証を見せろ」と、「嫌がらせ、のようなもの」を堅気の経営者にしている。

そうして権力行使に飽きてきたら、今度は「知事、のようなもの」が、勝手に「解除宣言、のようなもの」をいい出した。
「国、のようなもの」は、47もある都道府県に、いちいち対応できなくなって、「中央集権、のようなもの」が崩壊しだした。

平成21年(2009年)の雑誌『Voice』9月号の「特別寄稿」は、民主党代表(当時;記事直後の総選挙で首相になる)の「私の政治哲学」が、いま、そのまま「実現」しているのである。

この記事を読めば、鳩山氏がよく(受験)勉強されたのはわかるけど、およそ理系(東大計数工学科卒)とは思えない、思考の「飛躍」による「支離滅裂」に改めて愕然とする。

その「愕然」には、この記事の原稿をもとに、ニューヨークタイムズ紙が同年8月6日の電子版に「New Path for Japan」という見出しで英語翻訳掲載
し物議を醸した、ことも含まれる。

すなわち、いまのアメリカ民主党の支離滅裂の原因、のひとつにこの論文があるかもしれないとおもうのだ。

先週4日に、有名な(左派系)週刊誌、『Time』 に掲載された、「The secret history of shadow campaign that saved the election 2020.」という記事の、民主党擁護(「選挙不正は正義」だから許されるという主張)の「支離滅裂」に通じているからである。

鳩山由紀夫氏にとって政治家としての「師」は、吉田茂と岸信介の間にあって、どっちつかずのような「鳩」といわれたひとだけれど、祖父、鳩山一郎であるというのは自然だし、「ヨーロッパ統合の祖」クーデンホフ・カレルギー(日本名;栄次郎:母が日本人)への傾倒は、納得できるものである。

カレルギーの『汎ヨーロッパ』(1922年)の翻訳者は、鳩山一郎に相違ない。
なお、版元が鹿島出版会だけでなく、翻訳者に鹿島建設中興の祖、婿養子の鹿島守之助がいるのも、ゼネコンらしい思想背景とつながるから興味深い。

その後カレルギーは、『全体主義国家対人間』(1935年)もだして、ソ連とナチに激しい批判を展開した。
彼は、資本主義が深刻な社会不平等を生み出すことを憂いたまではいいが、その解決に、「博愛=友愛(鳩山は「友愛」をとる)」という「道徳」に解決方法を求めてしまった。

おなじオーストリア人にして、真性自由主義者のハイエクと、ここではっきり分岐する。
ハイエクは、「閉じた社会(道徳が通じる)」と「開かれた社会(自由競争)」とを「別物」と分けることで、別個のルールをもとにした冷徹なる批判と解決の方向論をすすめたし、ヨーロッパ統合に懐疑的で、むしろ全体主義化に警告を発していたのであった。

なお、友愛は「fraternity:フラタニティ:ラテン語で「兄弟」」という
意味になって、キリスト教をはじめとする各種慈善団体によく用いられることでしられる。

わが国の元は反社会主義「友愛会(1912年結成のやはりキリスト教の影響があった)」が徐々に社会主義に傾倒し、後の日本労働総同盟となって、1940年に産業報国会に吸収された経緯がある。

鳩山由紀夫氏の地元、北海道にも「友愛思想」は根強く普及している。

「閉じた社会」=「ローカルで伝統的な社会」だから、このことをあらかじめ承知なら問題ないけど、グローバルに通じるのだと勘違いしてはいけない。

言葉が共通でも、細かいところで「違う」のは、地域ごとに伝統もちがうからである。
それで、無理やり一緒にしようとするから、よかれが、「全体主義」に転じるのである。

わが国も、アメリカも、「建国」についてかんがえるときがやってきたのだ。

「森発言」の混乱

日本に「森さん」はたくさんいる。
だから、どちらの森さんですか?と確認することと、なにをお話になったのですか?と内容も確認しないといけない。

いま「国際的騒動」になっているのは、森喜朗元首相で、現職の東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長のご発言である。
では、なにをお話になったのかといえば、以下がその「全文」である。

「これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。
 女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。
 私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです」。

で、「女性蔑視」だということになって、国内はJOC会長から、経団連会長も一斉に「おなじことを非難」しているようだけど、本当なのか?文科省に日和っているだけではないか?
さらに、なんでかボランティアが500人辞退したとか、芸能人の聖火ランナー候補も辞退を表明したのは、早とちりではないのか?

特徴的なのが、日本メディアから外国に伝わって、彼の偏向報道で有名な「ニューヨーク・タイムズ紙」も大々的報道をしたというから、なんだか仕掛けが「わかりやすい」のである。
もちろん、アメリカ合衆国の与党民主党は、党をあげて「けしからん」と青筋立てているはずで、きっとIOCにも圧力をかけるだろう。

とはいえ、森氏の発言を「切り取って」しまうのは、「いつもの手口」でフェアじゃない。

発言内容は、委員などの要職に欠員があると、文科省(大臣ではなく役人)がしゃしゃり出てきて、能力はどうでもいいからとにかく女性理事を増やして4割程度の構成比にしろ、と押し付けることを皮肉った話にしか聞こえない。

それに、森氏の意見じゃなくて、誰かのいい分を代弁している。
現職国会議員時代から、この森さんは他人のいい分「しか」いわないことで、地元石川県でも有名だったお人好しの「代議士」なのである。

あゝなるほど、そういえば、経団連だったかどこだったか、女性管理職の比率とか、取締役の構成比で女性を「優遇せよ」といっていた、「経済団体」があったっけ。
会員企業がぜんぜん従わないのを、憤慨したひともいたけれど、そんな数あわせの基準で重職に選ばれる女性に失礼だろう。

本来の「フェミニスト」なら、「森さんよくいった」ということなのではないのか?
ぜひ、上野千鶴子さんに聞いてみたい。
横浜市民なら、森より一本木が少ない、女性市長の林さんの民間企業での経歴のことだと想像するのだ。

次に、「森ゆうこ」というひともいる。

このひとは、国会で元官僚だった原某というひとの「悪事」をでっち上げて、ついでに本人の住所を公に曝してしまった。
もちろん、原某氏は、すぐさま事実無根の名誉毀損で訴えたけど、なんと、国会での議論にはこれを妨げる法がないから、国会外のことで裁判にでるしかなかった。

つまるところ、国会議員たるもの、一般市民を個人攻撃するような言動を国会議論でするはずがない、というきわめて常識的な想定が、おどろくほどかんたんに破られたのである。
しかも、このひとは、国会内外において、一度も自分の言動の不始末に謝罪も反省も述べていない。

おなじ「森さん」のことだけど、言葉の「重み」と、とるべき「責任」がぜんぜんちがう。
このような人物が、国会議員であることが、日本の恥、世界の恥なのである。

まさか、この森さんを真似っこしているのが、アメリカ連邦下院議長のペロシさんか?
いや、そんなわけないだろう、けど、似たもの同士はいるものだ。

そして、この春資本金を減資して中小企業になる「毎日新聞」も、でっち上げの同罪だとつけくわえておこう。
この新聞社は、この森さんからの情報の裏もとらずに、「一面囲み」で連日掲載するという「売文」をしたのだった。

さらにもうひとりの「森さん」は、「森まさこ法務大臣(当時)」だ。

彼女は、苦学してアメリカにも留学した弁護士で、地元は福島県のいわき市である。
自民党が野党だったときの、東日本大震災における原発事故について、国会質問で、泣きながらときの民主党政権に噛みついた「正義の人」だった。
その迫力と論理は、久しぶりに見応えのあるものだった。

しかして、満を持しての初入閣に、「法務大臣」というのは適任ではなく重すぎたのか。

「検察人事」にたいする混迷は、痛々しいものだったし、米国からは「親中」の警告までくらってしまった。
もしや、「女性枠」で入閣しちゃった、というわけではあるまい。
その辺り、森元首相はOBとしてどうみていたものか?

文部省だけでない、全省庁あげて「ディープ・ステート」になったのを、「官僚国家」という日本語をつかうのである。
これをほんのちょっと暴いたひとをおとしめて、舌舐めずりするひとたちの「邪悪さ」ほど、見るに堪えない。

もう、テレビや新聞は目にしない方がいい。
癌をかかえて奮迅する森老人を、いたわる「人」は誰もいないのか?

そのくせ、「オリンピック利権」には集まるのだから、隣の大陸を指したはずの、「昆虫化」をわが国もしているのだ。
甘い物に本能的にむらがる行動しかできなくなった、日本人が「自壊している」のである。

洋犬と和犬は同じ犬ではない

外国からやってきた犬を、「洋犬」といい、わが国古来の犬を、「和犬」という。

洋犬はさまざまな犬種が認定されているけど、元は「猟犬」が多い。
これらを、「軍用犬」や「警察犬」、はたまた「盲導犬」などの役務犬にするべく改良してきた歴史があるのはご存じのとおりだ。

一方で、和犬は基本的にすべて、「猟犬」として人間と共存してきた。
なかには、土佐犬や秋田犬のように「闘犬」に仕立てた犬種もいるけど、元は猟犬で、その他もやっぱり猟犬である。
もっとも小型の和犬、「柴犬」のDNAを調べたら、世界の犬でもっともオオカミに近い「原始的な犬」であることが確認された。

そんなわけで、プロには柴犬の飼育は困難でしられ、およそ「愛玩犬」にもっとも遠い犬種ではあるけれど、なぜか日本では普及度が高いので、あんがいとふつうの家に、しかも室内犬として飼われている。
ただし、人間の生活側から見た「問題行動」が多いので、双方の不幸が懸念される犬種でもある。

一般に、和犬よりも洋犬の方がずっと「飼いやすい」と評価されている。
このことは、躾しやすい、という意味でもある。
犬と人間とについては、何度も書いたけど、そもそもが、信頼関係と主従関係が重要なのは、洋犬であろうが和犬であろうがおなじだ。

しかし、人間生活における変化で、「愛玩犬」という使役犬の需要が、猟犬や番犬の需要より高くなってきた。
つまり、人間の仕事を補助する、という役目から、人間の心を癒やす、という役目に、人間の要求が変わったのである。

本来、犬側にとっては、こんな人間の一方的な要求の変化はお構いなしのはずだけど、犬という動物を万年単位で支配してきた人間だから、強制的なる遺伝操作によって、人間に従順な個体だけを選んで繁殖させることを繰り返す「努力」をした。

もちろん、この努力は続いているけど、その成果がいま各家庭にいる「飼い犬=愛玩犬」となっていることは間違いなく、さらに、そのほとんどが「洋犬」なのである。

しかし、そうはいっても、ロボットではない生体だから、飼い慣らせない飼い主がたくさんいて、いったん噛みつきや吠えの癖をつけたら、「癒やし」どころかストレスの毎日がやってくる。
人間にとっての「破壊行動」もおなじだ。

それで、世にいう「ドッグ・トレーナー」という職業人に、頼る、という飼い主が絶えないばかりか増えている。
ドッグ・トレーナーというプロに聞けば、やっぱり「柴犬」を敬遠するのは、成果がでにくいので手間の割に料金を請求できないからだともいう。

すると、それ以外の犬種は?といえば、洋犬なら「楽」というこたえがある。
また、一方で和犬なら「柴犬」ばかりが話題になるのは、その他の和犬、たとえば甲斐犬とか紀州犬とかを「室内愛玩犬」として、さすがに飼おうというひとがいないからである。

以上の話は、別の角度からみると、洋犬と和犬のちがいのようでいて、じつは「人間のちがい」をあらわしている。
それは、どちらも「猟犬」というタイプの使役犬ではあるのに、「猟のやり方」がちがうからなのだ。

ヨーロッパ諸国が原種の洋犬が仕込まれた猟とは、基本的に猟師が仕留めた獲物をくわえて持ち帰る、あるいは、猟師の指令で獲物を追いつめる、という仕事を担当する。
「回収する」という意味の英語「retrieve」から、「レトリバー」という名の犬を作ったのが典型例だ。

一方で、日本独自種の和犬をつかった猟のやり方は、山に犬を放って、犬が勝手に駆け巡りながら獲物を見つけ、これを猟師のいる方向へと追いこんだり、獲物を足止めさせるために噛みついて、吠えることで場所を知らせる仕事を担当する。
つまり、犬が猟師にとどめを「刺させる」のだ。

こうしてみればわかるとおり、洋犬は徹底的に人間の命令に従うようになっているし、和犬は見方によっては、人間が犬に使われているともいえる。

最近の洋犬は、首輪にGPSをつけて猟をするけど、これにスピーカーもつけて、猟師が鳴らすと戻らせるコマンドにもなっている。
これが、「できない」のが和犬なのだ。せいぜいGPSをつけて、犬がどこにいるかを知ることしかできない。

和犬がどうやって猟師の位置を把握しているのかいえば、最初に猟師がここにいる、と示すからだが、わからなくなってしまうこともある。
それで、猟師は自分から山に入って探さずに、指定した場所に通えば多くは遭遇できるけど、そうはいかないと野犬になる。

洋犬の従順さはDNAに仕込まれていて、和犬の自由さもDNAに仕込まれている。
だから、和犬を洋犬のように扱うことはできない相談なのだ。
これが、愛玩使役の「飼育困難」の理由である。

洋犬は、「飼い主が快適」な躾を教えることが第一だけど、和犬は、双方の「信頼関係を結ぶこと」が躾よりも重要な第一で、それからやっと躾という順になるのである。
このひと手間が、スキルのない飼い主には困難をきわめる。

なんだか、上司と部下のよくある関係のようだ。
あんがいと、優秀なタイプに「和犬型」が多いのだけど、スキルがない上司には取扱ができないで、いまは「洋犬型」をかわいがる傾向がある。

わが国が成長していた時代、全員が和犬型で、これから出世するには一皮むけて猟師にならないといけなかった。
それは、部下に上手に「使われる」ということであった。

なんでも命令型は、やっぱり効率が悪いのである。

キリンHDの社会的責任

企業活動を制約するかんがえ方に、「企業の社会的責任論」というものがある。
企業からすると、「社会的責任を負うこと(負わされる:被害意識として)」としてとらえられるものだ。
これには、いわゆる「企業悪玉論」という背景もある。

その「企業悪玉論」を生んだのは、高度成長さなかの「公害」や「食品」、「薬害」など、予防コストを惜しんだ、「利益優先主義」が社会からの猛烈な批判を浴びたからであった。

さらにその後に追い打ちをかけて、決定的となったのが、石油ショック時の、石油元売り各社による「価格カルテル」の摘発があったし、物価上昇局面と物不足からの、「総合商社」による「買い占め」問題への批判だった。

ただし、冷静に思い起こせば、「トイレットペーパー・パニック」のように、消費者の側も、けっして「冷静」とはいえなかった。
これは、「うわさ」が「デマ」に変換されて、なぜか、石油不足 ⇒ 紙不足 ⇒ トイレットペーパーがなくなる という順での「買い占め行動」を誘発し、それが爆発的拡大をした。

ついぞ半年前のティッシュペーパーや紙マスクの不足だって、これとあんまりかわらない事情からの「買い占め行動」となったし、東日本大震災のときのコンビニがカラになったのもおなじだ。

つまり、企業を批判しながら、自分たちは「防御行動」だと自分にいいきかせながら、しっかりと買い占め行動をすることに、矛盾はないと発想しているのである。
それに、買い占めの対象になるのが、たいがいは「単価の安い物品」という特徴もあって、なんだか貧乏くさいのである。

これは、重要な事実だ。

興味深い例に、大統領選挙をめぐる暴動など、混乱が予想されたニューヨークのスパー・マーケット店内が、買い占め行動によって「カラ」になった、というわが国マスコミの「現地レポート」に、ニューヨーク在住の日本人が、「クリスマス前」とか、「週末のいつもの光景」だと曝露したものがある。

あたかも、日本人の買い占め行動の常識と、アメリカ人とくにニューヨーカーも、「おなじ」だというレポートは、これを信じる日本人を端からバカにしているか、アメリカ人もバカにしているものだった。
けれども、現地日本人の曝露をしらないで、「アメリカ人もおなじ」だと思い込んだひとも多かろう。

これが、「グローバリズム」を推進する、「グローバリスト」たちの所業なのである。
「人類」はおなじ価値観だ、という決めつけは、恐ろしいほどに「薄っぺら」な発想だ。
左・右を問わない、全体主義者は、「人類は皆兄弟」というスローガンを、美しい理想だと信じているものだ。

そんなわけで、薄っぺらなひとたちの薄っぺらな発想で、企業組織も汚染され、企業の意思決定も薄っぺらとなる。
まさに、「企業はひとなり」。
すべての企業は、人間が所属する組織でできているからである。

だから、企業を眺めるときに、その規模や有名度とかで勝手に判断してはいけないのだ。
個々人の集合体が企業をなすので、薄っぺらな発想が組織を支配しているなら、どんなに高学歴の個人も、けっして逆らえない力学がかならず作用する。

ニュースになっているキリンホールディングスとは、ようは「キリンビール」だ。
すなわち、わが国を代表する「財閥」、三菱グループの主要企業でもある。
三菱鉛筆以外の「三菱」は、ぜんぶ三菱グループの企業群である。

当該企業が、どんな情報分析のもとにミャンマーにおける「軍系との提携解消」を判断し、それでどうしたいのか?がわからない。
現状、報道だけしかないのが大不満だ。
以下の「推測」は間違っている可能性もあるのでご承知おきを願いたい。

この企業の判断とは、クーデターを起こした軍との関係を断ち切る、ということだ。
すると、クーデターを起こしたことが、民主主義には「悪」だから、このままでは企業の社会的責任が果たせない、ということだろう。

すると、この企業組織を構成するひとたちを代表するトップは、「軍と民主主義」についての判断をしたも同然ということになって、拘束された民主派を企業として支援するという、きわめて政治的な判断と行動だということになる。

今回のミャンマー(元は「ビルマ」)での出来事は、ミャンマーという多民族国家の複雑さと、これにかかわる歴史の複雑さいうマグマの爆発でもあると前に触れた
英米を中心にする、「民主派」への大支援の背景に、彼らのアジア支配という歴史がからむし、わが国のかつての「占領」だってからむのだ。

スー・チー氏の父、アウンサン将軍(建国の「父」ともいう:日本名は面田 紋次(おもた もんじ))が、最後に敗色濃厚な日本を裏切ったのだという事実が意味するのは、その判断の前までは、日本と「べったり」だったということである。
はてさて、当時のビルマが独立したのは、どこからか?

1943年(昭和18年)のことで、当然だが大英帝国からの独立である。
これは、2年前のマレー半島上陸作戦からによる。
『怪傑ハリマオ』の時代なのだ。
そして、彼は、実在の人物だ。

  

ビルマ独立義勇軍(いまのビルマ国軍:ミャンマー軍)を組織したのも、日本であったけど、現地人の創設者は、アウンサンであった。
独立後のバー・モウ政権下、彼は国防相になって、ビルマ国民軍に改組したのである。

さてそれで、キリンの判断の意味とは?
薄っぺらな、「コンプライアンス」としての「いい子になりたい」でなければよいのだけれども。

訓練された「市民」がいない

平和な時代に平和に暮らしていると、市民としての訓練をどこにも受ける機会がない。
家庭内、そして学校生活から、社会に出ても、誰も訓練してくれないのだ。
それは、意識的に訓練を受けたひとが皆無なので、訓練教官をやるひとも、できるひとも、やろうというひともいない。

この点、しっかりしているのは社会主義者のみなさんで、こちらは訓練を受けて、立派な「プロ市民」へと成長する。
意識的に訓練をするひとと、意識的に訓練を受けるひとがいる。
それが、「一生」にわたるので、いつかはちゃんと「次世代」も訓練して絶やさない努力がはらわれている。

ただし、一世を風靡した70年安保の炎も、全共闘世代というひとたちが高齢化して、ちょっと前の「アベガー」とか、リュックに「安倍政治を許さない」と書いたステッカーをつけて静かにあるいていたけれど、安倍退陣で、影をひそめてしまったのが残念だ。

このひとたちの子どもや孫たちは、はたして引き継いでいるのかと心配になる。
恥を恥とも思わずに、行動する勇気には敬服するのだ。
こうしたひとたちすらいなくなるのは、とてもよくない危険なことである。

わたしは、全共闘世代の下で、ビートルズにも間に合わなかった、哀しき「ウルトラマン世代」である。
なので、連日生中継された、浅間山荘事件の異常に、おののいた方である。
学習塾でさえも、授業中にラジオの中継をつけていた。

中学も3年生になったら、ベイ・シティ・ローラーズが流行ったけれど、こんどは自分がすこしおとなになっていて、同級生たちも盛り上がってはおらず、もっぱら1年生が興奮していた。
あんがいと、世代間のちがいを認識した最初だったのだ。

そんなわけで、会社員になって驚いたのが、『ウルトラマン研究序説』(1991年)だった。
わざと「序説」で終了すると書いているのも潔かった。
ウルトラマンと敵対する怪獣(宇宙生物)たちの生物学的研究、それに科特隊(科学特捜隊)のモチベーションなど組織研究や正義についての哲学。

サブタイトルには、「若手学者25人がまじめ分析」とある。
もう30年も前の「若手」のことである。
いまならきっと、中堅も超えて「大御所」になっているにちがいない。

何回か書いたけど、学者というのは万国共通で、勉強エリートのひとたちがなる「職業」である。
各国で、入試や卒業についての基準はことなるけれども、学部学生から大学院に進学して、そのまま研究室にはいる「ふつう」がある。

だから、一般的な学者は、職業(ビジネス)人としての経験がない。
それにわが国の場合、高級官僚の「無謬性」を担保するための用意だてとして、官費で「博士号」をとらせる習慣が役所にある。
明治の頃のやり方を、令和になってもやっている。

これが、各大学に官僚出身の教員が採用される素地でもある。
もちろん、大学経営側の思惑は、文科省をふくめた役所とのパイプづくりという下心もあってのことだ。

つまり、突きつめると、学生のため、ではない。
あるとすれば、優秀と見越した学生を、自分の出身母体である役所に採用させることだろうけど、ほんとうに本人はそれでいいのか?
もちろん、公務員試験に受からないと、その先はないけど。

興味深いのは、日本の国家公務員は、最初に入省した「本省」に忠実となる訓練は受けるけど、国家に忠実となるような訓練は受けない。
役人人生には、「転勤」がつきものだけど、霞ヶ関のビル間を、「出向」といって転勤することだってある。

「◯◯省」から「✕✕省」や、「△△委員会」へ出向するのだ。
最強の出向先は、「内閣法制局」で、参事官以上の幹部ポストなら連続5年以上を勤めると、退官後「弁護士資格」が与えられることになっている。
司法試験を受けないで日本の弁護士になるのは、大学の法学教授をやる道と二通りしかない。

なお、外務省には、最高裁判事(国際法)になる道があって、たいがいが「条約局長」経験者から選ばれることになっている。
だから、事務次官からアメリカ大使になるばかりが出世ではない。

こうしたことをよくよくみれば、官界の世間離れが尋常ではないことだけがわかるのだ。
つまり、彼らは彼らとして、市民としての訓練をその職業人生で受けることはない、という事実である。

すると、学者と官界がダメとなれば、政界もあやしくなる。

なにしろ、投票する国民も、市民としての訓練を受けることがないからだ。
あえていえば、「他人に迷惑をかけてはいけない」という、あたりさわりのないことに落ち着いて、リスクを避けることだけが行動基準になってしまった。

それで、コンプライアンスといういい方で、「法令遵守」(「順守」とも書く)を最重要事項にしたから、意思表明もできなくなった。

わが国の当代最強ともいわれる、元検事にして弁護士、郷原信郎氏のいまとなってはやや古い事例だが、本質的な議論を堪能できる一冊である。

これを読んで思うのは、法哲学と経済哲学、経済哲学と社会哲学という個々ではなくて、「面」として総合的にかんがえる訓練をされていない、という実感なのである。
これこそが、現代社会を生きる市民としての訓練のカリキュラムではないのか、と。