世間や他人との協調のために自己否定し、自分を見失う人間ばかりの社会となっている。
集団主義的=全体主義的社会で、管理と支配がしやすいのは、確信的偽善で善意を訴えることができる、すなわち、偽の道徳、をもって本人に自主的な行動だとおもわせるメカニズムが作動するからである。
それでも自分は何者なのか?という根本的な不安が解消されるわけでもないのは、そもそも自分とは何者なのか?は「自分ではわからないもの」だからである。
このブログでは、ときたま「量子論」にまつわる話題を書いているが、「量子もつれ」が実験で確認されて、いよいよ「わからないこと」がわかってきた。
たとえば、量子の中の「電子」が原子中のどこにあるのか?についての大議論で、電子は確率論的にあることはある、けれど、どこにあるかは特定できない「重ね合わせ状態」にある、というのが結論なのである。
このことが、「原子」のなかの実際なので、地球も含めた宇宙の物質は全部この結論に従うこととなっている。
むろん、人体も物質のなかの一部だし、脳が量子コンピュータかもしれないことで、「意識」すら、量子論の議論のなかにある。
つまり、「自分とは何者なのか?」とする「(自己)意識」も、電子が原子の中のどこにあるのか?とおなじく、どこにあるのか?という問題となっているのである。
だから、肉体を失った瞬間(つまり「臨終」のとき)、意識はどうなるのか?をかんがえることになって、さいきんの仮設では、「意識=重力」だという議論まである。
臨死体験と量子論が近接していて、とうぜんに宗教(教義)とも関係する。
まったく、『マトリックス』で表現されたごとく、個体の幻想が共鳴・共振によって全体の共通認識になっている世界なのである。
すると、「自分探し」をしたいなら、量子論を学ぶことがもっとも近道なのである。
自分とは何者なのか?という問いは、宇宙とはなにか?とおなじ問いになるからである。
ニートになって家でボンヤリと自分とは何者なのか?を問うならば、おなじ時間をつかって、量子論の勉強・研究をした方がいいというのは、ニート生活を否定したいからではなく、それが実利にもなるからだ。
その思考過程を文学にしたら、アシモフを超える作品が誕生するかもしれない。
かつての「登校拒否」が、いまは「不登校」といわれるようになったけれども、いまだ不登校を選択した子供の方が異常視されるのは、多勢に無勢の絶対的民主主義だからか?
もしや、不登校の方が正常で、毎日他人から管理されに登校できる方が異常ではないのか?と思考実験したら、量子論のごとく正常と異常のちがいの曖昧さに気づくのである。
だから、管理したい側は、管理される側にあたかも自由があるがごとく宣伝する。
しかして、管理される側は異常値やら統計的な外れ値に敏感となり、自己責任の判断で、管理する側が定た正常値の範囲に自分をおくように努力することになっている。
それでもって、異常値あるいは外れ値にあると管理する側からの指摘によって、順応するのか拒否するのかという二択を迫られるのである。
以上のようになっているものだ、と認識すれば、「自分探しの強要=自分らしさの追求」とは、じつは管理側に都合よく「ふるいにかける」行為なのである。
その管理画の意図とは、当然に全体主義社会に変革することである。
そうやって、絶対王政ならぬ現代の絶対民主主義によって、管理される側は蟻地獄に落とされるのだが、そんな状況を「自ら率先して選んだ」ということにするから、まったくの蟻地獄なのである。
これを、1906年(明治39年)に、夏目漱石が『草枕』の冒頭に書いた。
こんなことを、6年前にも書いていた。

