神奈川県歌舞伎鑑賞教室

26日、毎年開催されている「教室」に行ってきた。

主催は、国立劇場、かながわ伝統芸能実行委員会(神奈川県)である。
なお、国立劇場とは、独立行政法人日本芸術文化振興会、が正式名である。

「歌舞伎」といえば、「歌舞伎座」(松竹)が最高峰とされているけれど、ついぞ以前までの情報では、外国人は「National Theater(国立劇場)」だと勘違いする傾向があった。
わたしの個人的な経験でも、国立劇場は、文化事業としての「埋もれた作品の復活・再演」に主軸をおいていて、「興行」の歌舞伎座とは一線を画していたものであった。

だが、長い歴史の中で、「埋もれた作品」とは、ようは、面白くないから埋もれてしまった、のであって、たとえば「250年ぶりの再演」と謳っていたら、250年間以上「当たらなかった」という意味となる。

よって、演者や舞台構成員の研究活動には価値があるのだろうが、観客には厳しいのである。

そんなわけで、国立劇場=面白くない、が擦り込まれてしまった自分がいる。

西洋のオペラの場合、王侯貴族向けなのか、それとも庶民向けなのか、によって、内容がハッキリことなるが、庶民向けに応じて傑作を繰り出したのがモーツアルトであった。
なかでも『魔笛』の完璧さは、驚異的ともいえる。

総合芸術として、オペラでは舞台の大道具からなにからの造りについても、そのデザイン意図などが解説されるが、歌舞伎ではあんがいと説明が省略される不親切がある。
江戸の庶民はこれをどのように観ていたのか?が気になるのだが、総合芸術としての感覚が薄いのはやっぱり歌舞伎自体がそもそも庶民向けだからか?

とはいえ、実際に「みせる」には、アートマネジメントという分野が決め手となることに洋の東西にかわりはない。
これを、メトロポリタン歌劇場は「ライブビューイング」として劇場スタッフのお仕事も公開しており、それでもって、寄付を募っている。

日本の輸入元の松竹は、歌舞伎のライブビューイングをやっているが、これは輸出向けなのか?

さてそれで、今年の「教室」での演目は、『仮名手本忠臣蔵』から「五段目:山崎街道鉄砲渡しの場、二つ玉の場」と、続く、「六段目:与市兵衛内勘平切腹の場」である。
なお、演目前の「解説」が、「教室」の「教室」たるゆえんで、「解説 歌舞伎のみかた」がじつは本題なのである。

もっとも、歌舞伎鑑賞には、「イヤホンガイド」も必須で、劇中のポイントを同時に的確に解説してくれる。
むかしは1000円が相場であったが、演目が二段(三場)だけなので500円とお手ごろなのも、「教室」にはふさわしい。

だが、イヤホンガイドのもう一つのメリットである、役者のセリフ音声がクッキリ聞こえる機能が割愛されたのが「半額」の理由だったかもしれない。
演者の心理や場面の解説音楽としての「義太夫節」でなにをいっているのかを「字幕」で出す試みがあったが、舞台から目線が離れるのでわずらわしくもあった。

イヤホンガイドに絞り込むべきだろう。

二日間で四回公演なのは、午前の部(Aプロ)が学生、午後の部(Bプロ)が社会人という区分けであったからで、Aプロでは勘平役が中村橋之助、Bプロでは中村芝翫となっている。
当代の芝翫は配偶者が三田寛子であるから、当代橋之助はこの夫婦の長男である。
つまり、親子がBプロとAプロで競演する。

もっとも体調不良で休演していた芝翫の復活も本公演の話題になっている。

とかく歌舞伎を理解するために「梨園」の血筋がどうなっているのか?を前提としてしらないと、役者同士の関係から役柄からさえも、鑑賞のためにひつようとなる知識なのである。
このへんは、「シェークスピア」とか「オペラ」における役柄の適材適所とはまたちがう、みどころであるけれど、そこまでの「解説」はなかった。

だが、「解説」の場面で『国宝』を観た客に挙手させたので、「血筋」のことをしっている客は多かったようである。

しかして総じて高齢者が目立ったのであるが、前席を占めた高齢者たちの「会話」がセリフを聞きにくくするハプニングがあった。
クラッシック音楽なら、「アウト!」である行為・行動であるけれど、この緩さがまた「歌舞伎」なる庶民向け芸能の本質的な「テキトーさ」なのではある。

映画館でも、上映中にスマホをあけるひとがいるけれど、開演前に注意書きを手にした係員が客席を巡回しても、スマホ画面から抜けられない「中毒者」が多数いたのにやや驚いた。
爺・婆にして、これである。

終演して聞こえてきた爺・婆の声で、「酷い話だ」があちらこちら聞こえたのも意外であった。

そもそも『忠臣蔵』自体が、理不尽だらけの酷い話なのである。
これを、幕府の検閲から逃れるために鎌倉時代の設定にすることからはじまって、「面白おかしく当たるように」再設定されたのが、『仮名手本忠臣蔵』だから、『テス』のような行き違いの理不尽だってしっかり用意されている。

忠臣蔵の「外伝」としての『東海道四谷怪談』だって、まったく酷い話なのだ。

イヤホンガイドでは、本作はしっかり「カネと色にまみれた物語設定」だと解説している。
人生の最晩期になって、これがわからない御仁たちの幼児性が、よほど酷い話なのである。

こうした「教室」にやってくる観客の質の悪さを確認できるのも、現実世界理解には良い体験なのであった。

総じてこれらの高齢者は、「団塊世代」であって、迷惑な「全共闘世代」なのである。

過激なことをあえていえば、わが国の敗戦ショック(集団アノミー)が育てた被害者的で気の毒な存在だが、人口の巨大な塊=多数派ゆえに、この世代がつくりだした破滅的な思想・文化の揺り戻しが、現代の世代間ギャップの原因にもなっている。

気の毒というのは、一生、正気を取り戻すことのない世代の狂気をいう。

そういえば、『国宝』の時代設定も、主人公がざっと昭和25年生まれなのであった。

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