フローで観る日英の共通

先日書いた、イタリアとの比較の続きである。

「EU脱退:ブレグジット」のお仕置きとして、グローバル全体主義者の大富豪たち(金融資本家)から追い詰められているのが、今の英国だ。

何度も書くが、英国を支配しているのは、伝統ある議会でも、もちろん、「君臨すれども統治せず」の王室でも、政権与党でもなく、中央銀行たる「イングランド銀行」を支配してから、世界支配へと飛躍した、ロスチャイルド家とその閨閥である。

ブレグジットの実行犯となった、ボリス・ジョンソン氏は、とうとう国会議員も辞任して一般人になった。
ただ、彼は、国際刑事裁判所に提訴されて、その翌月に突如、「全コロナ規制の撤廃」を議会で宣言して逃げたかに見えたけど、そうではなかったらしい。
コロナ・ロックダウン中にパーティーをしていたスキャンダルは、表の理由にすぎない。

なんだか、首相公邸でパーティをしていた首相の息子のような与太話なのである。

いまごろになって、ボリス・ジョンソン内閣で保健相だった人物が議会証言して、当時の英国政府のコロナ対策は完全なる失敗だった、とぶちまけて、国民を唖然とさせている。
日本政府には、未来永劫、不可能なことだろうけど。

それから、保守党党首選挙で勝利した、トラス氏は、減税と財政出動を公約にして当選したのに、首相になって公約を早速実行に移したら、金融市場が突如動いて、トラス政権を葬ったのだった。
国際金融資本の広報紙ともなった、日本の経済新聞も、「財源なき減税と財政出動の無謀」と書いて、論点をすり替え、国際金融資本によるおカネの暴力を隠したのだった。

そんなわけで、なんと英国の首相に、インド系の人物が選出される歴史上の初めて(10月25日)が起きたが、エリザベスⅡ世女王はしらずに昇天(9月8日)した。

英国のインド支配を「保守」しようとするなら、保守党の首相にインド系の人物が就任するとは、「世も末」とみているのではないか?
じっさいに、スナク氏の経済運営はにっちもさっちもいかないで、25年まであるはずの次期総選挙まで、とにかく「繋ぐ」ということしかなくなっている。

ここまで英国が弱ったのは、自然エネルギー、とくに「風力発電」に依存したことが、ことごとく裏目にでたのである。

気がつけば、「風」が吹かなかった。

元はといえば、ドル箱だった北海油田の枯渇にあるという。
しかしじっさいは、例の二酸化炭素削減という、いまさらに気のふれた思想的傾倒による人為なのである。
地球によかれ(の嘘)、が、人間の生活には(ほんとうに)よくなかった。

しかし、もっとほんとうのことは、地球も何も関係なく、国際金融資本が儲かるだけが、地球環境保護運動の目的なのである。

英国の失敗を無視して、わが国でも1兆円を洋上風力発電建設につかうことが決まったのも、単なる環境破壊だけど、中東産油国が石油をアメリカのポチであるわが国に従来通り売ってくれない可能性の「保険」にもならない愚策だ。

科学ではなく政治であるけど、単なる金儲けのための「詐欺の仕掛け」なのだ。

ここに、「騙すより騙される方が悪い」という、中世以来の格言が生きてくる。

なぜなら、ヨーロッパ中世とは、詐欺・略奪・冒険が富を生む社会で、誰もこれを道徳的に咎めなかった時代だからである。
つまり、21世紀の現代も、じつは中世社会のままなのである。

人間の道徳的成長がなくとも、科学と技術の進歩だけで産業革命を起こしたはずの英国で、その後、革命的な技術をもった産業が生まれなかったのはなぜか?

植民地からの富の収奪、という、帝国主義の成功が、自分で何かを作り出すことをやめたからである。
やめるだけでなく、寝て暮らそうとした。
これが、第一次大戦前からはじまる、「福祉国家建設」というトンチンカンだった。
そうやって、世にも不思議な、「英国病」に罹患したのである。

「揺り籠から墓場まで」

この国家依存が、保守党・労働党の、あろうことか、「善政競争」に転落したのは、国民がばらまかれる政府のカネを、もっともっとと乞食より貪欲に要求したからである。

「民主主義」の危険は、こうやって現れて、結局、自滅するのである。

マーク・トウェインは、『王子と乞食』を1881年(明治14年)に書いたが、ときの先進国筆頭の英国では、国民あげて乞食になったのだった。
この乞食国民の根性に根本から喝を入れたのが、70年代にやっと登場したマーガッレト・サッチャーだった。

いまでも彼女の政策を根深く恨むひとがいるのは、生き残った完全なる乞食民なのである。

しかして、いま、英国ではインフレ対策のために、高金利がやってきて、年収の半分以上が住宅ローンの返済負担となった。
英国債の金利は、6%になっているけど、もっと上がると予想されて、短期国債と長期国債の金利が逆転して、短期の方が高金利になっている。

ちょうど国王が代わったことは、偶然でもなく、かつてチャールズ王太子(「皇太子」ではない)は、ロスチャイルドに上から目線を投げつけた「報復」でもあるのだ。
こうやって、いったんサッチャーによって目覚めた国民を、どんどん国家依存の乞食にさせている。

次期政権党になるはずの、労働党は、すでに「住宅ローン対策」なる、徳政令を発表し、国民はこれを歓迎していると国際金融資本の手先は報道している。

日本の「ただほど高いものはない」という格言すらしらない愚民化した英国民は、自らを『1984年』の生活へと追い込んでいるのである。
いまの情勢は、確かに保守党の凋落は疑いもないが、労働党はもっと酷い選択肢なのだ。

そんなわけで、英国民の悲劇は、確実に次に日本にやってくる。
それを自公は忠実に実行するだろうし、労働党にあたる自公に代わる政党が存在しないのも、もはや不幸ともいえないのは、英国民の選択肢がない事実とそっくりだからである。

わたしが「参政党」に期待するのは、消去法も何も、この政党「しか」ないという意味の、一択だからなのである。

この意味で、英国に参政党は輸出可能なのだ。
その前に、バイデン政権がいつどうやって終わるのか?が、今後の世界を決める。

アメリカも英国同様に、長・短国債金利が逆転していて、あと1年ほどで不況になると予想されているから、大統領選挙の真っ最中にあたる。

いまや、世界は、反バイデンの国が地球人口の半分をとうに超えて、親バイデンの国がわずか数カ国となっている。
日本が、まさかの少数派にいるのは、第二次大戦の三国同盟的な状態だともしっていていい。

もうとっくに「新しい日本人」になった

世界的に有名な調査会社、ギャラップ社の、「ワークエンゲージメント(仕事満足度)意識調査」で、わが国は、「満足」と回答した比率が、イタリアと並んでわずか「5%」と、世界最低を記録したことが話題になっている。

たいがいの「社会調査」というものは、インチキだから、にわかに信じる必要もないけれど、「話題にする」ことが目的のばあいもあるので、今回のこのブログ記事もそれに則っているといえるから、あちらの思惑通りに乗っかっている。

ただし、このブログの筆者は天邪鬼なので、その辺のひととは見解がちがう。
なぜなら、その辺のひとがいう「処方箋」が、今様の流行、「賃上げ」に結びつけて迎合しようとするからである。

もちろん、インフレに対する生活苦は、仕事満足度に影響する。
しかし、インフレだからイコール賃上げというのは、あんがいと「下策」なのである。

「物価上昇=インフレ」という間違った定義が、賃上げによってより悪化するのは、企業が価格転嫁をはかることになって、挙げ句にこれがインフレ(このばあい、「物価上昇」)・スパイラルになるからである。

けれども、インフレとは、何度も書くように、通貨価値の下落なのだ。

だから、ふつうは中央銀行が、市場にあふれている通貨を引き上げる「金融引き締め」を実施しないといけないのに、日本国債の金利負担が政府財政を圧迫するので、なんと「金融緩和」しかできない。
これは、インフレ促進策だ。

賃金を上げるよりも先に、金融引き締めをしないといけないけど、それができないのが、日本経済のヤバさなのである。
しかも、金融引き締めをすれば、ふつう景気は悪化する。

「いい子」でいたいために、責任をとる覚悟をもったひともいないから、にっちもさっちもいかなくて、もうどうにもとまらない、のである。

わたしは、この状態を確認することで、日本は、「新しい日本人」によって運営されていると確信するのである。

もちろん、ここでいう「新しい日本人」とは、グローバル全体主義の信者である。
さらにグローバル全体主義者は、外国人移民をもって、「新しい日本人を増やす」としている。
わざわざ外国人を呼び込まなくとも、とっくにこの国は、「新しい日本人」ばかりになったのである。

結論をここで書けば、世界最低の仕事満足度になったのは、グローバル全体主義による共産化が起きたので、旧ソ連の労働者たちとおなじで、まじめに働くとバカをみることがふつうだと気がついたからである。

しかし、同率のイタリアは様相を異にするとかんがえる。

こないだ、「イタリア人は覚醒したのか?」に書いたように、メローニ政権によって、反グローバリズム全体主義が、イタリアに芽吹いたからである。

EU委員会やECB(ヨーロッパ中央委銀行)からの、いうことをきかなければイタリア国債を買ってやらない、というあからさまな脅迫に、目覚めたイタリア国民が、自ら国債を購入するという「異変」になったのである。

すると、イタリアの低い仕事満足度は、どこに原因があってのことなのか?が気になるのである。

おそらく、イタリア財界の企業経営者を中心にした、これまでの延長線上にあるEUとECBへの迎合行動が、慣性の法則でとまらないからではないのか?
もちろん、これには世界的闇の勢力である、イタリアマフィアの「保守性」も関係するだろう。

だから、メローニ政権は、マフィア経済との決別も公約にしている。

ふつうにかんがえたら、「できっこない」ことを、政権が正面からやろうとしているのだ。
一種、地に落ちるところまで落ちたことが、とうとう国民をして、「復活」しかない形になったともいえる。

長い間、ローマ時代はもちろん、中世からルネッサンスで得た蓄積で、豊かすぎたイタリアは、昨冬のエネルギー危機で、とうとう喰えなくなって路上で倒れるようになったのである。

ひるがえって、わが国の落ち方は、この意味でまだ「甘い」のである。

それが、自公政権が進める惰性の政策(「総括原価方式」をやめない)で、7月から電気料金が大幅に値上げされることになっていて、あろうことか、クーラーを我慢した高齢者などが熱中症で倒れる夏になることが「予定」されているのだ。

「電力を制するものは、経済を制する」
ゆえに、商工省から通産省になるときに、電気事業連合会と結託したのがCIAのエージェントになる契約で、死刑を免れて巣鴨プリズンから出た、商工省のドン、岸信介だった。

人殺しの政府は倒すべきものだという、アメリカ合衆国憲法修正第2条にある、(連邦)政府に対する潜在的抵抗権を、なぜに日本国憲法に書かなかったのか?は問うまでもなく、日本国民は日本国政府の永遠の奴隷として固定されたのである。

そしてその日本国政府は、明治維新で、闇の勢力の永遠の奴隷にされたのだった。
ここでいう、闇の勢力とは、ロスチャイルドであり、その手先、ジャーディン・マセソン商会を指す。
なお、この代理人が三井財閥で、ロックフェラーの代理人が三菱財閥だった。

けれども、イタリア人にできて日本人にできないことはない。
むしろ、日本人の方がよほど可能性を秘めているのは、イタリアに比較して、まだ歴史が単純だからである。

後期高齢者の諸先輩方からしたら、仕事満足度が5%というのは、意味不明にちがいない。
しかしてよくよくかんがえたら、その上の明治生まれの諸先輩たちから鍛えられかつ洗脳された、良くも悪くも「国家観」があったことを思い出さないといけない。

新しい日本人に、国家観は希薄なのである。

これがまた、イタリア人との決定的で残念なちがいなのだった。

後日、ロスチャイルドからお仕置きを受けている、英国について書くこととする。

「戦後史」はいつ書き換わるのか?

戦後生まれは当然として、もう90歳代に突入した「戦中(生まれ)派」も、物心がついたときには、とっぷりと「戦後教育」を受けている。

昭和20年9月以降の小学生はもとより、「新学制」がはじまった昭和22年の新学期からは、完全に「戦後教育」に移行した。
だから、昭和15年生まれだけでなく、昭和フタケタ生まれならば、自分が「戦後教育」を受けていることもわからなかったろう。

なので、現在、この世に生きている日本人は、ほぼ全員が戦後教育の洗脳をされているとかんがえて差し支えない。

明治の教育も、かなりの変遷を経ている。

しかし、明治の教育の変遷とは、初等教育における変遷がドラスティックなのではなく、学制における頂点の大学教育が主にドラスティックに変わったのである。

幕府が定めた、「昌平坂学問所」の土地を引き継いだのは、今の、「東京医科歯科大学」だけど、一般には、「東京大学」へとつながっているというのが定説である。
それで、「官立東京大学」は、1877年(明治10年)に設立された。

しかしながら、まだ「東京」ともいわれていなかった、1858年(安政4年)に福沢諭吉は江戸に慶應義塾を設立していて、その主たる教育方針が、「実学」であったことを特徴とする。

「近代化」という最高水準の要請は、1839年から42年までの、「アヘン戦争」による、清国の無惨があったためだ。

これは、清国がやっていた伝統の「科挙」の価値を吹っ飛ばした。

6世紀の「隋」の文帝から始まる、約1300年やってきた、「科挙」の真髄とは、「古典の教養試験」であったが、ヨーロッパ近代をつくった、「科学」と「技術」に歯が立たないことを、あまりにもわかりやすい形で露呈してしまったのである。

なお、官僚を2タイプに分けたのがマックス・ウェーバーで、「家産官僚」と「依法官僚」がある。
中華帝国は、皇帝のもの、という原則だから、政府たる朝廷に仕える官僚とは、皇帝個人のための「家産官僚」採用のための「科挙」だった。

それで世は、明治維新という政変で、科挙を一度も実施したことがなかったわが国で、腸捻転のようにねじれた科挙(高等公務員試験:欧米では、「中国式試験」という)を採用していまに至るものを、誰も「ねじれている」といわないねじれになったのである。

ついでに、わが国の官僚は、あたかも、「法衣官僚」だというけれど、ほんとうか?
皇室をものともしない、「家産官僚」に落ちていないか?

さてそれで、アヘン戦争の衝撃は、儒学とか、古典なんか役に立つはずがない、となった。

それで、中途半端にヨーロッパの伝統「リベラルアーツ」をとりあえず真似て、「教養課程」なる珍奇を編み出した。
いわゆる欧米の大学は、4年間を全部リベラルアーツにあてて、専門課程とか高等職業教育は「大学院教育」と相場が決まっている。

貴族がいまでもいるヨーロッパは当然に、アメリカでも富裕層の子供は、「学位(修士・博士号のこと)」を取得するのが、ふつうなのである。

逆にいえば、これら「学位」がないと、政府や企業でも絶対に幹部になれないから、日本以上の「学歴社会」を構築して、支配層と被支配層の身分制を維持することに執心しても、支配層は平然としているのだ。

それで、アメリカの大学は、日本の数倍の学費を州立大学でも徴収して、貧乏学生は学生ローンを抱え込んでいる。
あたかも好好爺のようなバイデン政権は、学生ローンへの「徳政令」を出そうとして、若い有権者を買収しようとしたが、共和党の下院議会がこれを拒否した。

大学当局が、国からの援助分をそっくり「学費値上げ」で巻き上げること確実で、より苦学生の学業継続を困難にさせると予想したからである。

わが国もあわてて、「法科大学院」なる高等職業教育制度の真似っこをしたけれど、立法爆発をさせたわが国の膨大なる法体系には、A.I.がもっとも向いている状況になっている。
わが国では、新法を起案するのに、過去の法律との整合制をとるが、たとえばアメリカならば、新法が優先されるというルールがある。

このために、やたら古い忘れられた法律が、突如として効力を発揮して、まるで地雷のように関係者が呆然とすることもあるのだ。

そんなわけで、慶應義塾の人気に「官立学校」たる東京大学が日和って真似て、学問よりも「科学」と「技術」の習得に力点を置いて150年ほどになったら、思想も哲学もない、「不思議の国:産業優先社会:社会主義計画経済体制」になったのである。

これを、東宝の稲垣浩監督が、すっとぼけて皮肉ったのが、森繁久彌と原節子に演じさせた、『ふんどし医者』(1960年)である。

将来夢見て長崎での医学留学を終えて江戸に戻る途中、川止めにあったことで、あたかも本人の人生が曲がったようにみえるけど、曲がったのは世間の方だった。

いま、ようやく「その筋」で、明治維新の怪しさが取り沙汰されて、いわゆる純粋国内問題にしてきた従来の島国根性的な狭い範囲の解釈は否定され、英・米・露・仏・蘭の攻防戦のひとつの舞台としての視線が提供されている。

そのひとつの力作が、学者ではない歴史家(ビジネスマン)の渡辺惣樹『日本開国』(草思社、2016年)がある。

明治維新にして「これ」だし、国家予算の裏金(特別会計)で贅沢をした長州(萩藩)閥より、ずっとあくどい薩摩閥の私服のこやし方(アヘン戦争を仕掛けた「ジャーディン・マセソン商会」からの裏金)も、「ご維新」を原点としている。

すると、「戦後史」なるもののほとんどが、GHQ擁護の「嘘八百:プロパガンダ:嘘の一般情報」だとわかるのである。

たとえば、戦後・占領中の大事件にして未解決になったままで放置された、下山事件は、その闇の深さ(ドン深闇)から風化させられないのは、ジャーディン・マセソン商会の初代日本人「番頭:支配人」だった、吉田健三(吉田茂の養父)からあふれ出る「人(血)脈」の不可解が、GHQ内の派閥争い(民政局:Government Section:GS:社会主義者、対、参謀第2部:G2:自由主義者)と化学反応してできた「澱」にみえるからである。

マスコミが無視し、あるいは、賛美する「戦後」こそ、日本人が、歴史を忘れた民族にさせられているのである。

   

一般情報の価値

公表されて特に報道されている情報のことを、「一般情報」という。

なので、毎日の新聞やニュース番組で扱われた、すべての情報は、「一般情報」である。
いまでは、公的文書もそれぞれの役所が、HPにPDFファイルを貼りつけて公表しているので、当然ながら一般情報になっている。

しかし、各役所の一存で、これらの閲覧期間が切れてしまうと、どこにいったかを調べるのが大変で、むかしのものほど隠れてしまうのである。
なので、国会図書館とか国立公文書館の機能強化は重要で、地方なら県立やらの自治体図書館の重要性は、この意味で増大しているけれど、あまり議論されているとはいえない。

なにしろ、一般人が一般情報を全部記憶することは不可能だからだ。
それで、自分でダウンロードするなりの、「デジタル・タトゥー」(「魚拓」ともいう)を録っておくのひと手間が必要になってきている。

もちろん、新聞ならそのまま保存する方法もあるが、「検索できない」ために、ただの「古新聞」になって、廃品回収の対象になる。

それゆえに、情報の専門家たちは、自身の専門分野に該当する記事を、後からも検索できるような工夫をして保存する。
こうして作り上げれば、ただの情報の山だったものを、「データベース化」することができる。

この手法を、知の巨人、梅棹忠夫が、『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)に書いてくれている。

パソコンが存在していなかった時代なので、「情報カード」を活用した手法だけれども、この「情報カード」だって、商品名には、「京大式」とあった。
つまり、「梅棹式」のことである。

梅棹先生が、自分用に大量に印刷注文したものを、許可を受けて商品化した、というのが順番である。

それで、このカードを整理するための「箱」も、商品化されたのである。

 

パソコンが個人でも購入できるようになったのは、NECが1981年に発売した、「PCー8800シリーズ」が始まりで、その後の84年に出た、「PC-9800シリーズ」は、わが国を代表する名機になったことに異論はないだろう。

当初、「BASIC」で動かす必要のために、ふつうのサラリーマンが業務上の要請から、このプログラミング言語を学ばないといけなかった。
それで、パソコンを諦めたひとたちが続出したのである。
そんな、おとなを横目に、悪ガキたちはサッサとマスターしていたのである。

これを救ったのが、「MS-DOS」を世界標準にした、マイクロソフトの「Windows」だったけど、その前に世に出たりんごのマークの、「Macintosh」の使いやすさに、世界が驚愕したのである。

初期のMacから搭載可能だったアプリの、「カード型データベース」は、これを使いたくてMacを購入するほどの「検索機能」がすごかったのである。
しかし、あの可愛い墓石型のMacでさえ、当時は100万円越えの高嶺の花だった。

とはいえ、データベースを構築するには、とにかくデータを入力しないといけない当たり前がどういうわけか軽視されて、そもそも何が知りたくてデータベースを構築するのか?という根本が曖昧だったから、パソコンなんて使い物にならない、という評価まであったのである。

まったく日本的になって、「ワープロ専用機」なる単機能パソコンがよく売れたし、パソコンへの恨み節として、「ソフト(ウエア)がなければ。唯の箱」と揶揄したフレーズが、ときのおじ様たちの溜飲を下げたのだった。

いまでは、検索エンジンに出てくる最初のページが検索結果だということになっている。

ために、お金を払ってページのはじめに自社HPが掲載されるようにして、販売機会を買っているので、ことによるとユーザー画面の最初のページは、「広告」だらけになって、結局、次ページ以降を見ないといけなくなった。

つまり、何を知りたいのか?が曖昧なままで検索すれば、むかしならエラーになったものでも、何かが引っ掛かるので、それを鵜呑みにすると、ゴミ情報が脳に書き込まれる時代になったのである。
その新機軸がときたま嘘をつく、チャットGPTのなのである。

そんなわけで、あふれかえる一般情報に、われわれは溺れそうな状態(とっくに溺死しているかも)で生きているのである。

しかも、検索エンジンを提供している企業が、その企業の都合ばかりか、その企業経営者の思想選考によって、一般情報もオープンではなくなっている。

英語で検索すると出てくる情報が、日本語だとヒットしない、というのは、英語でも全部がオープンではないのだから、日本語しか使えない多くの日本人は、知らないうちに恐ろしく狭い情報空間に押し込められているのである。

もちろん日本政府だって、こんな不利な状況を知っているだろうに、何も無かったことにして実質放置して、その情報統制を容認しているのである。
政府や政権与党ばかりか野党にも、都合がいいからだ。

誰でも知っているはずの一般情報がこの有様なので、専門家がしたり顔で流す情報も、あたかもその専門家の独自見解かと思いきや、やっぱり一般情報なのである。
しかも、そのネタ情報の選定と解説が、特定の思想や方面の要請に基づいているとしたら、もはや一般情報ともいえず、ただのプロパガンダになる。

この意味で、残念ながら一般情報でさえも、個々人が自分で選定しないといけなくなったし、データベース化もしないといけない面倒なことになっている。

そして、この面倒をかけないで安穏としていれば、たちまちのうちに、情報弱者として、「迷える子羊」にされてしまうのである。

それだけでなく、屠殺場にきちんと並んで待つことが美徳にもされるのを、さも自分たちは他国人より「民度が高い」と自慢してしまう究極の自虐が流行っているのである。

辛抱が無責任の根拠

日本の集団主義を、なぜか全体主義とはいわない不思議があって、なのに「連帯責任」をとらされるのであった。

もちろん、連帯責任をいいだして、これを実行するのは、「上の立場からの命令」になっている。

なので、この「上の立場」がどの立場なのか?によって、配下の組織における連帯責任の責任範囲が変化する。

たとえば、組織上の最底辺にある最小単位の組織長が、連帯責任を問えば、その最小単位の組織構成員にだけ、連帯責任が問われて、なんらかの「痛いめ」にあうことになっている。
しかし、その組織長も、そのまた上の組織長から連帯責任を問われれば、横並びの最小単位がぜんぶ責任範囲になるのである。

すると、こうした組織は、とうとうトップが連帯責任をいいださない限り、だれも連帯責任を問うものがいなくなって、無責任化する。
そのときの精神状態は、「我慢して仕事をやる代わりに責任はとらない」という、自然発生的な「バーター取引」にトップ以外の全員が染まっているのである。

このような組織を第三者が観れば、「トップの責任」が問われることになるのだけれど、利害関係が薄い第三者なら、べつだんトップにあえて忠告もしない。

そうやって、このような組織は、それなりの時間をかければ、たいがいが「自己崩壊」するものだ。

それでほんとうに自己崩壊して、企業倒産ともなれば、トップから組織構成員の全員が失業する。
自分も失業していい、とかんがえる構成員ばかりなら、ほんとうにそうなるが、何人かは失業は困る、という意志がはたらいて、トップにもの申すことがある。

背に腹はかえられぬ、ということでの切羽詰まった状況である。

ここで、気がつくトップと、かえって反発するトップとに分かれるのが世の常で、どちらにしても時間切れが、資金切れとなって、倒産が免れないことがある。

だから、時間切れが資金切れとはならないタイミングで、気がつくトップがいるときだけ、救われることになっている。

ただし、失業しても再就職先がちゃんとしていれば、いったん失業した方がよかった、ということがあるのも人生なのである。

さて、このように「禍転じて福となる」ようなことは、あんがいたくさんあるし、「福が仇となる」こともあるものだ。

すると、時間の経過とはなにか?が、変なことになるのである。

わたしたちはふつう、過去から未来に時間が流れていると思いこんでいる。
しかし、川の流れのように、時間は上流の未来から流れてきているのである。

だから、過去が新たに福となったり仇となるのである。
つまり、未来の出来事が過去を書き換える。

よくよくかんがえれば、変なことではなくて、そういうことなのである。

さてそれで、「辛抱」を辞書で調べると、つらさを(かなり長期間)じっと我慢する、また、つらい仕事をじっと耐えて勤めること、とあって、類語に「我慢」がある。

しかし、「我慢」は、仏教で,『強い自己意識から起こす慢心(おごり高ぶる心)』のことだから、意味が逆転しているようにみえる。

では、ひとはなぜ「辛抱するのか?」をかんがえると、ころは、「強い現状肯定」の意志なのである。

そのために、個人の「我」を棄てるように、子供時分から訓練させるのが日本人だ。
こうして、「(周りの)他人に迷惑にならなければなにをしてもよい」と、親が子供に道徳教育もするけれど、その意味を親がどこまで自分でわかっているかといったら、かなり疑問がある。

要は、環境依存した価値観を持つことで、自己滅却をすれば、なにか良い評価をされる、という、やっぱり他人からの評価に強く期待するのだから、仏教の「我慢」に近づくのである。

それが嵩じて、なにもかんがえずに、周辺に迎合すればなんとか生きていけるとかんがえる。
ここまでしかかんがえないから、これを、「浅はか」というのだけど、周辺のほとんどぜんぶのひとたちが、「浅はか」だから、その「浅はか」にあわせることが、もっとも居心地のいい生活環境となるのである。

そして、その生活環境が、学校生活から職場生活へと拡大したら、今度は生活環境全般から圧迫されるようになった。
これが、管理社会の誕生となって、合理主義でもって強化されたのである。

「リクルート・スーツ」なる。統一的なファッションがその象徴的な存在となった。

わたしの時代はまだ、男女とも学生が着るスーツに、いまのような「統一デザイン」はなかったし、デパートがまだ頑張っていて、全国的な洋服チェーンと対抗していた。
ために、わたしの生まれて初めての背広は、デパートのイジーオーダーで生地から選んで作ったものだった。

だから、学生がフォーマルな服装で集まっても、いまのような、なんとなく喪服のような状態でなかった。
しかし、みんなとおなじ、を協調したいというニーズが、リクルート・スーツを生んだのだろうし、これに逆らうスーツを着ている学生も皆無だ。

大手人材会社が主催した就活イベントで講演を依頼され、みんなとおなじであることの居心地のよさは、無責任の衣服による主張になる、とかと話したら、二・三人が質問にやってきて、「ふだんの疑問がスッキリした」と目を輝かせていた。

わたしなら、こういう人物を採用したいと思ったけれど、採用担当者が無責任なら叶わないことなのか?

まことに、病理は深いのである。

「増税ありき」の増税の意味

防衛費増額のための増税が議論になっているけれど、これに復興税から転用したらどうか?というアイデアに、被災地から「戸惑いの声」があがっているという。

国民が「総乞食」にさせられたことの、まじめな議論だといえる。

たとえば、「LGBT法案」の強行採決にあたって、首相は、「異次元の少子化対策」を行うという議論のすり替えを発言した。
みごとな、左翼思考の発言だから、左翼はだんまりを決め込んだ。

では、異次元の少子化対策とはなにか?と問えば、「こども家庭庁」の予算を、いまの「倍」にすることだという。

この役所が発する利権にかかわる、すべの乞食は、これを歓ぶだろうけど、こども家庭庁の予算が倍になると、どうして異次元の少子化対策になるのか?は、まったく意味不明だ。

すると、「少子化対策とはなにか?」を定義しないといけないのだが、一般にかんがえられる、「出生数の増」ではなくて、「どんどん少子にさせる対策」だとすれば、意味が通るのである。

ただ、上の首相発言には、あたかも「出生数を増やさないといけない」といった話があったから、大嘘つきが首相をやっているか、あるいは、自分の言動の意味が自分でもわからないひとが首相をやっているかのどちらかとなる。

どちらにしても、まともではない。

あらためて、「国家の三要素」を確認しよう。
・領土などの「領域」
・国民(恒久的な住民のこと)
・排他的な主権としての権力

すると、特定の領域にいる国民としては、政府には外国に対して排他的な権力を行使してもらって、領域を保全してもらわないと安心して恒久的(何世代にもわたって)に住んでいられない。
そのために、近代国家は、「国軍」を組織するのである。

なお、国家の上位に君臨する「党(ふつうは共産党)」の支配する国のばあいは、「政府の国軍」ではなくて、「党の軍(人民軍とかという)」で、対外的にも、(党員以外の国民を支配するために排他的な意味で)対内的にも、こうした軍が、国内外に、にらみをきかせているものだ。

なので、民主的な政府をもつ国は、ほとんどが「国軍」であるから、政府に従うので、ときに「政府軍」ともいう。
しかしながら、わが国のばあい、憲法であたかも国軍を保持することすら禁じられているようにもなっているから、あくまでも「自衛隊:Japan Self-Defense Forces」と自称している。

このため、外国がどんなに「日本軍」だと認知していようが、わが国の事情は、あくまでも国軍ではない、という時代認識でいえば「平安時代」とまったくおなじ状況になって70年以上をすごしてきた。
朝廷の官職にあった、「近衛府」は、左・右の二つがあって、それぞれの長官を大将、以下、中将、少将としていたけれど、宮中警護のためであったから、軍とはいえない。

さすがに自衛隊をそこまでとはいえないが、アメリカの武器を購入・消費する組織、というへんな位置付けになっている。

このところ、日本海から黄海周辺がきな臭く、波が高まってきてから、アリバイ特区としての防衛装備予算をつかうことが、まるで国防力を増すような錯覚を国民に与えているけど、ほんとうに領域を保全することができるのか?については、まったくあてにならないのが自衛隊なのである。

しかし、軍産複合体がつくっている、アメリカ民主党バイデン腐敗政権から、ウクライナがもう打ち止めだから、日本周辺で緊張を高めるようにするので、武器を買っておいてね、といわれたままを計上している。

世界の金融富豪から、日本経済の大発展はここまでといわれて30年。
日本政府もおカネがなくなってきたので、従順な子羊の国民から搾り取ることに専念して、とうとう「五公五民」にまでなったため、震災復興予算から流用する案がでたのは、良心的な財務官僚がいたからだろう。

けれども、復興増税という、およそ経済学的に破綻した方策を、これみよがしに実行したので、原発の補助金で生きてきた乞食たちには、いっそうばら撒くことで、史上最悪の原発事故でさえチャラにしようとしたのであった。

経済学的には、福島県全部を、「完全自由経済特区」に指定して、役所から戸籍係以外の役人を撤退させたら、いまごろはどんなに活況を呈していることか?
すっかり乞食の幸福に甘んじていた、福島県人たちが、あくまでも「共産主義体制」を望んだために、とうとう全国的迷惑になってきて、それがまさかの、国防予算に影響するまでになったのである。

とはいえ、上に書いたとおり、アメリカ製武器を買うことだけの工面なので、大勢に影響ないのであった。

ただし、とっくに、ない袖は振れぬ状態になっているのに、いつまでわが国政府は、わが国民から搾り取った税金を、あたかも「世界銀行ATM」のごとく、世界の皆さんが勝手に引き出せるままにしておくのか?

いやはや、こんなかんたんで、やられっぱなしの仕組みにも気づかない、日本国民がバカなだけなのだ。

それがまた、外国人観光客から、ニッポン凄い!と評価されて歓んでいるから、救いようがないのである。

日本の経済特区

70年代に、なんども失脚しては復活した奇跡の男、鄧小平が最後に実権を握ってから、「改革開放政策」がスタートしたのは、もう「歴史」になった。

ときに、日本でも、「MADE in CHINA」ブームになったのである。

わたしは、このとき小学生から中学生にかけてのことだった。
横浜には、いたるところに、「中国物産」がワゴンで売られていて、とにかく安かった。
日本的でない、きつい黄色の箱にはいった「鉛筆」は、1ダース12本入りで、100円もしなかった記憶がある。

もちろん、消費税なるものは存在もしなかった。

あれだけ商品が並んでいても、だれも見向きもしなかったのは、ちゃんと、「安かろう悪かろう」の法則が成立していからだけど、その品質の劣悪さを楽しんだわたしは、かなりのひねくれ者である。

この鉛筆の一番の思い出は、芯の中に砂粒が混入していて、書いていると突然書けなくなって、下手をすると紙が破れたのであった。
しかしながら、たまにある1本ではなくて、ほとんど全部のことだったので、これはこれで、一定品質だったのである。

このような鉛筆が大量生産されていることが珍しかったから、わたしは、その他の実用品でも、「MADE in CHINA」とあれば、ずいぶんとお小遣いを投じたものだ。
そして、「これならつかえる」を探したのだったが、とうとう当時はみつけることができなかった。

「100円ショップ」がでてきたのは、とっくにおとなになってからのことである。

それで、共産党がやっていた、計画経済体制のままでは、改革開放政策がうまくいかない、ということになって、「経済特区の制度」が発明された。
その地区内だけ、「規制を撤廃する」という、全体は計画経済体制だけど、ほんの一部を「自由化する」という、安直といえば安直な発想である。

香港返還にあたって、英国のサッチャー首相が、香港の自由が心配だという声に、中国が香港になる、と発言したのは、いまではおおきな間違いだったけど、当時のかんがえ方はサッチャー女史の方が的を射ていて、改革開放政策で中国は民主化も自由化もするという、根拠なき期待があったのだった。

しかし、共産党はそんなヤワなことをかんがえたり実行するはずもないという根拠をもって、ヒトラーができなかった「千年帝国」の野望を、しっかりと確実に実施しているのは、感心するしかない。

だから、「特区」はあくまでも「特区」であって、全土に拡大することもない、のである。

こうした「特区」のやり方は、中国の影響力がある、計画経済体制の国々がこぞって採用している。
台湾・ベトナム・フィリピン・マレーシア・ミャンマー・カンボジア・ラオス・タイがあるけれど、ちゃんと、日本もはいっている。

ただ、これらの国々は、タイ以外、かつてわが国が占領した欧米列強の植民地で、戦後になって独立した共通がある。
わが国が独立におおいに貢献したのは事実としても、それが、計画経済体制ばかりになったのは、わが国が戦後もずっと計画経済体制だからである。

安倍政権がやろうとした、「加計学園」の岡山理科大学に獣医学部を設立する問題とは、じつは、「国家戦略特区」としての位置づけであったものだ。

どうして、獣医学部をひとつ創設することが、「国家戦略特別区域」でやらないといけないのか?とか、そもそも、「経済構造改革」の一環にあることだとするのが、「特区」だから、獣医学部をひとつ創設することが、どうして「経済構造改革」なのか?ということの「根の深さ」こそが、わが国全体の問題なのであった。

それでかしらないが、いまは「特区」とはなるべくいわずに、「地方創生」という用語を編み出して、「内閣府地方創生事務局」が管轄している。
なお、シャッポには、内閣府特命担当大臣(地方創生担当)がいる。

念のため、わが国には特区は二種類ある。
・国家戦略総合特区(7カ所)
・地域活性化総合特区(41カ所)

ほぼ全国にあるこれらの対象区域が、中国のように大発展しないのはなぜか?

答はかんたんで、「アリバイ特区」だからである。
つまり、ぜんぜん「特別」なんてないのだ。
全国にわたる、「岩盤規制」を守るための方便にすぎない。

その方便の代表が、「加計学園の獣医学部」だった。

マスコミと野党は、安倍首相と学園経営者との個人的関係を攻めたてたけど、何のことはない、「岩盤規制」を維持することに執念を燃やしたのである。

なぜなら、そこにある「利権」が崩れたら、戦後構築してきた利権のネットワークが、ほんとうに壊れてしまうことをおそれたからである。
いわば、「蟻の一穴」にみえたのだろう。

つまるところ、利権の吸い上げ方が、中国共産党の芸術的仕組みのレベルにぜんぜん到達できない、後進国レベルにあるのが、わが国の実態で、これをやめるなんてことは、利権で暮らすひとたちには許せないことなのである。

これを、野党(口火を切ったのは福島瑞穂議員だった)にやらせたので、わが国利権構造の根の深さと広がりを示すのである。

わが国の経済が世界的に珍しく、30年も衰退しているのは、「特区」がないのではなくて、全国が規制だらけで、自由な経済活動ができないからである。

それを、前に、山梨県の事例で書いた。

いまや、山梨県が全国になった、のである。

日本は、ソ連型の共産主義・全体主義国家だ。
この前提となる重要認識すらもてないで、国の経済戦略に依存するのは、学習能力がなさ過ぎる。

いま、小学校で「発達障害」をいわれて、「薬物治療」を命じられる子供が増加しているのは、「国」全体が発達障害に陥ったからなのである。

「物理学」という呼び名の「哲学」

人間はかんがえることで生きている動物だから、かんがえることをやめたり、できなくなってしまうと、「廃人」になる。

残念ながら、事故や病気で、かんがえることができないなら、本人とは関係なく、家族や関係者がどんなに悲しんでも、どうにもならない。
しかし、それでも家族や関係者がいろいろかんがえることをやめないのは、それが人間だからなのである。

この意味で、「神頼み」になるのも人間だからだ。

人間しか宗教をもたないのは、他の動植物には、宗教をもてないからで、その境界が、「思考」の有無(可能性)なのである。
もっとも、人間以外の動物であれ、植物であれ、「必要性がない」という理由までを範囲としたら、たしかにそれでもちゃんと環境適合して生存したのである。

BBCがまともだった時代、科学番組の看板プロデューサーだった、Sir・デイビッド・アッテンボローが制作した番組はどれも素晴らしかった。
なかでもわたしは、『旅をする種子』には感動を覚えた。

思考して突きつめようとすれば、おのずと「哲学」となる。

それで、「哲学の専門家」が出てくるようになるのだが、そこにはざっと二種類の哲学者がうまれる。

・過去の哲学がどんなかんがえであったかを整理してまとめるひと
・じぶんで哲学するひと

どちらも、「哲学者」と呼んでいる。

「万有引力の法則」を発見したことや、「微分法」をかんがえついたり、「光のスペクトル」をみつけた、アイザック・ニュートンは、現代では、「物理学者」としてあまりにも有名だけど、本人は生涯、「自分は哲学者」だと認識していた。

ニュートンの時代に、「物理学」という学問分野はなかった、のである。

それよりも、リベラルアーツの最上位、「哲学」と。下位にある「数学」とを比較すれば、彼が自身を「哲学者」だと認識したことのふつうの方がわかりやすい。

もちろん、ヨーロッパの伝統に従えば、哲学の上位には、絶対的なタブーとしての「神学」があった。

それで、あのガリレオ・ガリレイは、宗教裁判にかけられて、ローマ教会が彼の名誉を回復したのは、2009年2月15日のことで、死後367年経ってのことだった。
ちなみに、ローマ法王(ベネディクト16世)が、「地動説」を認めたのは、この前年、2008年のことである。

このブログでは、何度も書いているが、現代人に擦り込まれた、「神学=迷信」といった前提における、「神学論争=水掛け論=永久に結論が出ない」という認識が常識になっているのである。
わが国では、「禅問答」と結びついての感覚が含まれるので、やっぱり西洋とのニュアンスが微妙にちがう。

そんな単純で野蛮な西洋だけれども、ここから西洋的合理主義がうまれた。
その代表が、ルネ・デカルトで、『方法序説』(1637年:三代家光の時代)が決定的となったのである。

「われ思う,ゆえにわれあり」

意味は、すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない、ということだと解釈されている。

つまり、デカルトの発想は、個人主義を疑わなかったのだった。

しかし、あろうことかデカルトがいうとおり、「科学が進歩した」ら、とうとう量子力学が誕生して、意識そのものも量子によることがわかってきた。

しかも、その量子は、たえずゆらいでいて、その存在は「確率」でしかないのである。

すなわち、この世のすべては「バーチャル」だという、にわかに信じがたいことが、現代における最先端科学の結論になっている。

もちろん、このデカルトの言葉を論破したのが、カントだった。
カントは、「疑うこと」がリアルで、自分の存在がバーチャルではないか?と指摘したのだ。

しかし、事ここに至って、最先端の量子力学研究者たちは、2500年前の釈迦の哲学に行き着いた。

なかでも、日本で有名な、『般若心経』における、「空」の概念が、量子論的宇宙の構成と合致するという。

理論で予想されたブラックホールが、いまや観測されるまでになって、その内部に吸い込まれた物質の末路が量子にまで分解されるものの、「穴の内側」にある「壁」に、吸い込んだ物質の記録が書き込まれるという理論になっている。

これから、宇宙の壁、という一大記録(アカシックレコード)の存在がいわれ出したのだ。
これには、全宇宙の記録がある、という。

ならば、釈迦の頭脳にどんなことがあったのか?も、いつかはみつけることができるのだろう。

さいきんでは、得体のしれなかった「重力」の大本が、「万有引力の法則」ではなくて、全方向から降り注ぐ量子の打ち消しあった後の重みではないかともかんがえられるようになってきたし、時間も、量子でいえばデジタルのように、超微細に分断されているかもしれないという。

しかも、ふつうは、過去から現在、未来へと一方的に流れるのが「時間」だとしていた(光陰矢のごとし)ものが、未来から流れ出ているのだという話になってきている。
あたかも、われわれは、鮎釣りのごとく川に入って、上流からの水流に逆らっているように、時間をやり過ごしているのだ、と。

なるほど、最先端科学は哲学的なのである。

日本の体制転換

わが国が、社会主義計画経済体制から、いつ、自由主義経済体制へと体制転換するのか?をかんがえたとき、当然ながら参考になるのは、いちはやくこれを果敢に実行した中国である。

鄧小平が実権を握ったとき、上記の、「御用学者たち」が活躍したのであるから、やっぱり政治が先なのである。

中国の先見性から遅れて、ソ連圏の歴史的破滅となった、「体制変換」で、ソフトランディングに成功したのは、ポーランドだった。
社会主義国で「敵の研究」のために、自由主義経済を極秘で研究していたのが、レシェク バルツェロヴィチ(Leszek Balcerowicz)氏(民主ポーランド財務大臣、ECB総裁を経てワルシャワ経済大学教授)だった。

邦訳された著書、『社会主義、資本主義、体制転換』は、日本語版序文に、現代「日本に役立つ」として、わが国の社会主義体制を示唆している。

すると、本来であれば自民党がこの役割をすればいい、とかんがえるひとがたくさんいることはわかっているのだが、いまさらそんな期待を自民党に抱いていていいのか?と自問したい。

なにせ、その自民党政権が、狂ったように、「立法爆発」させて、とうとう家族破壊まで開始した。

法律がたくさんできるということは、規制がたくさんできるということだ。
そして、規制がたくさんできるということは、公金チューチューのための予算がたんまりつくこともセットになっている。

なんとか財団とか、なんとか協会が設立されて、またまた役人の天下り先が増えることも意味する。

わが国における「国会」が、法律工場であると同時に、国家予算の審議機関であることの意味は、まさにこうした仕組みになって、国民の自由(財産の処分もふくむ)を侵害するための機構に陥ってしまったのだ。

規制で自由が奪われて、徴税で財産権(可処分所得)も減らされる多数に対し、それをうま味とする少数の者たちだけが肥る社会だ。

鄧小平のおそるべき智恵は、支配と富の分散の絶妙をやってのけたことにある。
この意味で、自民党の親中派とは、たしかに「いまよりはまし」の体制転換派ともいえる。

とはいえ、日本のばあいは、とにもかくにも、「民主主義」でないといけない。

その民主主義が「機能する=動く」には、なにがひつようなのか?をかんがえると、ベースにあるのは、国民が政治を監視する、という態度を仕組み化することにある。

これを、戦後教育世代(=「団塊の世代」ともいう)以降の日本人は、「選挙」だと信じ込まされてきたのである。

誰に?
GHQにだ。

昭和40年代(1965年~75年)まで、つまり1947年~49年生まれの「団塊の世代」が選挙権を持つまで、わが国のあらゆる選挙の投票率は、だいたい8割を超えていた。

この団塊世代という、巨大な人口の「塊(かたまり)」の動向が、当時は「若者文化」とか「ヤング」といわれて、その層の厚さゆえに、さまざまな消費シーンで威力を発揮したのだが、おなじように選挙にも威力を発揮したのである。

それが、「棄権」だった。
選挙(=政治)なんかに興味はない。
投票所に行くくらいなら、パスして遊びに行く。

旧制の学校教育を受けていた親世代は、投票してから出かければいい、といってもきかなかったのである。
しかも、敗戦時おとなだった親世代の生活には、GHQが禁止した「隣組:五人組」の制度があったのだ。

これは、本来は、近所どおしの「互助組織」であった。
それを、近隣の監視システムにしたのが、戦時体制という全体主義だった。
それでもって、戦後ものこったのが、町内会における「班長制度」やら、ゴミ集積所の掃除当番とか、「防犯連絡所」という持ち回り看板だったのである。

「遠くの親戚より近くの他人」、が、そのままの生活があった。

なので、ずっと近所が近い生活だったし、娯楽も限られていたから、みたくなくとも行動がみえたものだ。
それに、どこかへ旅行へ出たら、かならず近所にも土産を配って、どこにいってきたのかも自然と報告しあっていたのである。

そうやってできた、「横並び」の心理が、家電の三種の神器にもなって、急速に普及したのである。

しかしながら、戦後教育世代(=「団塊の世代」)は、すっかり「自分だけ主義」を、欧米の「個人主義」と勘違いして、一票の価値を軽くみるように育ったから、自分ひとりぐらい棄権しても大勢に影響ないとかんがえるのがふつうになったのである。

けれども、民主主義における「監視」とは、ふだんから地元政治家の言動を監視することなので、これを制度化しないですすめたGHQの「日本民主化」とは、破壊的な悪意があったといわざるを得ない。

つまり、しっていてやらなかった「わざと」なのだ。

それでもって、アメリカではふつうの、一般人の政治活動への参加が、日本では胡散臭いもの、とされて、日本人は政治参加といえば選挙投票だけに限定されたし、政党も政党組織の組織化をやらず、政治家本人の後援会をもって組織と呼ぶことにしたのだ。

この方法が続く限り、わが国で民主主義の方法による「体制転換」は起こり得ない。
「システム」がないからである。

すると、ずっと溜まったエネルギーはどうやって抜けるのか?といえば、よくある三等国での「政変」しかないという悲惨となる。

ここに、中国やらの外国が、「騒乱に乗じて」と、舌なめずりして待っているとすれば、もはや絶体絶命の危機が準備されている状態となっているのである。

自民党が近代政党ではないために起きる、予想される悲劇である。

茂木幹事長が発表した、2022年末の自民党員数は、112万人というけれど、党になんの影響も、主たる活動もなんにもしない「党員」とはなんなのか?
アメリカの共和党RINO(Republican In Name Only)どころじゃない、完全名ばかり党員の112万人なのだ。

どんなにシャンシャン大会をやっていても、中国共産党が立派にみえる。

自民党員の無能が、わが国を亡国に追い込んでいる。

日本の株価が上がっている不思議

むかし、『コント55号のなんでそうなるの?』という30分の人気テレビ番組があった。
1973年から76年までの三期に分けて、日本テレビ系で放送されていた。

高度成長の歴史をとめた?、第一次オイルショックによる大不況は、1974年1月の「月次報告」から「観測」がはじまるので、会社が倒産して泣きたいひとたちがこの番組で笑っていたのである。

日本経済にいいところがないのは、15日に財務省が発表した、「5月の貿易統計速報」でも、22ヶ月連続の、「貿易赤字」であることでもわかる。
ただ、この1兆3725億円の赤字が、前年同月比では、42%縮小したことが明るいニュースになっている。

いま、後期高齢者以上の皆様には、そもそもわが国が恒常的な貿易赤字国になっていることさえも、信じがたいことだろう。
現役の頃に、「巨大な貿易黒字をどうするか?」に苦慮した記憶が刷り込まれているからである。

今回の赤字幅縮小の主たる原因は、原油と天然ガスの輸入量が減ったことで、また、ウクライナ戦争で高騰した原油価格が落ち着いてきたことも挙げている。
ドル建ててで、前年同月を19.9%下回ったけど、為替レートは4.8%の円安なのに、円建て価格も16.1%下がったのは、バレルあたりで34.7%も下がっているからである。

すると、どうして輸入量が減ったのか?が気になるところである。

生産部門の生産量や、稼働率が減ったのではないか?と心配になるからだ。
しかし、「なんでそうなるの?」というのは、電気代の高騰なのである。
輸入量と価格をかけあわせた輸入額の減少が、高騰する電気代と見合わないからである。

電力業界を仕切っているのは、ご存じの通りの、あの「経産省様」である。
いまの経産大臣は、国民に強制的な権力を行使するのが趣味とおもわれる、西村康稔氏で、通商産業省環境立地局調査官で退官しているが、官僚として最初の配属は、資源エネルギー庁石油部計画課であった。

おそらく現在の、資源・燃料部、政策課であろう。
キャリア官僚にみられる、外国留学で国際政治経済学での修士があるのは、その後のキャリアと関係しないのも、また現代的お役人様の特徴である。

税金で学位をとっても、国家に貢献しないのである。
だから、たっぷり税金を投じる、東京大学法学部の卒業生には、民間に「任官」することを義務化すべきなのである。

まぁ、だれが大臣をやろうが大差ないのが官僚制の官僚制たるゆえんなので、チョンぼってる河野太郎も大臣をクビにはならない。
悪いのは官僚なのだ、ということが、自民党政権を支えている一方で、局長にもならなかった人物が大臣を任命されても平気でいられるのは、同期や後輩官僚とねんごろだからである。

ではいったい、わが国の電気代はどうなっているのか?
速報とはいえ、貿易統計の示すところとぜんぜんちがう価格体系があって、さらにまた夏に値上げが予定されているし、なんと、西村大臣は、東京電力管内における、「夏の節電」を公式に要請するにいたっている。

電力会社の社長ではなくて、経産大臣がいうことの意味は、趣味を超えていないか?
つまり、越権である。

これにまた、「なんでそうなるの?」といわない、東京電力の株主が不思議なのである。
ものをいう株主ならば、早々に、経産大臣を裁判に訴えるだろうに。

しかしながら、訴えても得にならないからだとかんがえればその通りで、わが国の電気代は、「総括原価方式」で算出するのを通産省から経産省がしっかり引き継いでいるからである。
その大本が、国家総動員法による「日本発送電」体制を、「GHQポツダム政令」による、「電気事業連合会」としての強制改変だった。

これをやったのが、電力の鬼、松永安左エ門だった。
松永をしれば、東北電力会長におさまった白洲次郎の小物ぶりと、彼にまつわるプロパガンダがよくわかる。

この「総括原価方式」とは、電力会社の経費を「総括」して、つまり、「ぜんぶ」を、原価にして、それに一定報酬を足して料金を決める、という方式をいう。

なので、電力会社はぜったいに損をしないばかりか、経費増はどうでもいいのである。
それだから、わが国の電力会社はこぞって(=電気事業連合会)、産油国から世界最高価格で原油を買い付けているのである。

すると、これを許す政府と政界に、なにが起きるのか?は、恐るべき巨大利権になるのは当然なのである。

そこで、歴代の通産大臣、経産大臣の自民党派閥を、チャットGPTにきいた。
石破派、二階派、麻生派、竹下派、小泉派、安倍派と出てきて、ようはみんなでたらい回ししているのがわかるのである。

そんなわけで、こんな状況なのに、「なんでそうなるの?」と株価の高騰をかんがえたら、円安の中で日本株を購入しているのは、外国人投資家28%、機関投資家28%なのである。

つまり、日本企業が買いたたかれて事実上買収されている。

日銀が新総裁になっても大きく舵を切れないのは、日本株(日本企業)の防衛を日銀がやっているからか?とおもわれるのである。
この意味で、日本企業はこの事実上の買収からどのように自己防衛するのか?が問われている。

いま小学生やらの孫・子の世代が、就職先に日本企業がない、ということになりかねないのである。

株価高騰でよろこんでいるばあいではないのだ。