今さらの「安倍政権」を評価する

妙なことだけど、安倍政権というと「第二次」からをふつうは指すようになった。
これは、小泉純一郎政権の後を継いだ「第一次」の影の薄さがあるからだろう。

民主党政権の後に登場した「第二次安倍政権」への世人の期待は、「第一次」のときとはぜんぜんちがっていた。
ちなみに、第一次安倍政権の次は、福田康夫、麻生太郎がそれぞれ1年間ほどやって、民主党への政権交代になった。

このときの「妙」は、第一次小泉内閣で上司だった福田康夫官房長官を差し置いて、官房副長官だった安倍氏が後継内閣の首班になって、その後を福田氏が「継いだ」ことにある。

それが、もっと「妙なこと」に、わたしにはベートーヴェンの『ロマンス第1番ト長調』(作品40)と、『ロマンス第2番ヘ長調』(作品50)との関係が連想されてしまうのである。
なんだか、「1番」が地味で、「2番」に人気があることも連想の原因だ。

どちらも、「バイオリンと管弦楽のためのロマンス」ということであったけど、いまではもっぱら「バイオリン・ソナタ」に編曲された方が一般的な演奏になった。
しかも、作曲の順番は、2番が先で1番が後という不思議もある。

ベートーヴェンといえば、「古典派」とその後の「ロマン派」の中間に位置していて、初期のころは古典派、それがだんだんと「ロマン」に転じていくので、橋渡しのような役回りをした。

この曲ができた時代背景は、ナポレオンが「独裁」をはじめるときと合致している。
交響曲で言うと「2番」と「3番:エロイカ」の間にあたる。
ナポレオンへの憧れで創った3番の題名「ボナパルト」を荒く削り取って、「エロイカ:英雄」と書き直した逸話は有名だ。

もちろん、「ロマンス」とは、「甘美」という意味で、小品ならではの気品にも溢れている。
この曲を背景に、口説かれた女性はいかほどの数にのぼるのだろうか?
いや、ロマンチックな乙女は、自分の頭の中で「再生」して、自己演出に酔っているにちがいない。

さてそれで、安倍氏をベートーヴェンに例えているわけではぜんぜんないけれど、小泉氏が「ぶっ壊す」と絶叫していた、自民党が、ほんとうに壊れたのが第一次安倍時代から麻生時代といえるのではないか?と言いたいのである。

このブログでは、田中角栄が「被告人」でありながら、自民党の「乗っ取り」に成功し、その成果を竹下登にかすめ取られたときに、「終わった」と言ってきた。
派閥はあってなきものとなり、ぜんぶが経世会の利権方式となったのである。

こうして、角栄の愛娘である眞紀子は、自民党からスポイルされて、民主党政権にいったのである。

元来、自民党内の二大派閥とは、大銀行が合併してできた「旧行」の人事体系とおなじで、合併後の新入社員が頭取になるまで残るようなものだった。
吉田茂の自由党と岸信介の民主党の系統が、さらに細胞分裂したのだから、それぞれのDNAは、「祖先のDNA」を同じくしている。

銀行とちがうのは、派閥の看板がいつまで経っても消滅しないことにある。
ただし、上述のように、「やり方=金銭・利権で管理する」という方法は、どの派もおなじで、その源泉を派によって異にするから、消滅しないのである。

だから昔とおなじ、なのではなくて、「ちがうことができない」ということが、国民にとっての不幸のはじまりなのである。

それでもって、「憲法改正」という「甘言」をもって、安倍氏が選挙の陣頭指揮をとれば、何回やっても「圧勝」したのは、国民が「OK」を出しているからである。
しかし、8年もかけて、このひとは「できなかった」のだ。

このことの「損失」は、計算が難しい。
ここに、「時間価値」も加えないといけないからである。
ましてや、自国内の計算では済まず、外国の成長を含めた事情も加えるならば、「計算不能の損」をわが国にもたらした張本人だといえる。

それで、次の菅内閣は1年で終えた。
岸田政権が長期政権になる予想をするものは誰もいないなか、参議院選挙「前後」での交代も十分に予想できるほど、「支持されない」という難がある。

まともな「野党」が存在すれば、政権交代が起きる第一次安倍政権の状況とよく似ているけれど、不幸にもそんな野党が存在しない。
これには、野党への最大支援をしてきた「労組」の責任を、国民が「どうしてくれる」と問うても答えることができない不幸が痛い。

そんななか、憲法改正論議が進み出しのは、あろうことか国民を強制支配するためという、本来の改憲議論とはちがうことが喫緊の「目的」になってきている。

それもこれも、安倍氏の「未必の故意」による。

あえていえば、わが国に「明文憲法」は必要ない。
世界最古の王朝が現存するわが国にあっては、不文憲法で十分なのである。
これを、「保守」がいわないのは、「えせ」だからで、自民党の保守派とは、えせの集団に成り果てた。

しかるに、これらはぜんぶ「戦後の占領」がつくったDNAなのだった。
GHQのポチ=吉田茂しかり、CIAエージェント=岸信介しかり。
これからどうやって脱却するかが、わが国の未来を決める。
その意味でのレジスタンスをはじめないと、間に合わない。

近隣の独裁者が、わが国を舌なめずりして眺めているけど、ベートーヴェンのように「表紙を書き換える」ことでは済まないのである。

自民党は労働者の味方か?

このブログで何度も指摘しているように、用語の用法をちゃんと定義しないと、何を言っているのかわからなくなることがある。

わが国における政治用語の問題は、定義されずになんとなく使われているから、議論が混乱して、深くかんがえることが「面倒になる」のである。
つまり、「わざと」混乱させて、世人の思考を停止させたい、ということのあらわれなのである。

厄介な言葉は二つある。
一つが、「右翼(派)」に対する「左翼(派)」というセット。
もう一つが、「保守」に対する「革新」というセットだ。

結論から先に書けば、「自由主義」に対する「社会主義・共産主義」というセット一つで済ますことが出来る。

これも何度も書いたけど、ここでいう「自由主義」の「自由」とは、なにをやっても個人の好き勝手だということの自由放任の自由ではなくて、他人から命令されないという意味の「自由」をいう。
だから、「お互い様」ということだ。

わが国で、ワクチン接種の「強制」ができないのは、政府から個人への「強制」が、上記の「自由」を侵害するからである。
国家や公務員を規制するための国民からの命令が、民主主義の「民主」を示す「憲法」だから、即座に「憲法違反」になるために「できない」のだ。

ところが、変な「憲法改正」論議が進んでいて、政府が「緊急事態」を決めたならば、個人は政府の命令に従わないといけない、という条項を加えようとの企みがある。

これこそ「改悪」で、「リベラル(自由主義者)」がこぞって反対しないといけないものを、わが国の用語で「リベラル」は、とっくに「革新」という意味に変換されてしまった。

ヨーロッパ各国にこの「条項」があるのは、たいがいが「内乱」を経験した国にあって、アメリカは「南北戦争:シビル・ウォー:Civil War:内戦)をやったけど、憲法に緊急事態条項は「ない」ので、「別途」、緊急事態法を制定したのだった。

上述の「セット」を見ればわかるように、「革新」は「保守」とのセットなのだから、「リベラル」と「革新」が混じるのは、定義の境界を超えてしまう「めちゃくちゃ」なのである。

ときに、今回話題のワクチンがぜんぜん効かない。
二度で効くという話が、いつの間にか三度目になっている。
ちなみに、接種先進国のイスラエルでは、四度目接種を国民に要求していて、さしもの国民も「?」になってきたという。

さらに不思議が、ワクチン接種者がPCR検査陽性になる、というニュースが流れていることだ。

ワクチンとは、弱毒化させた病原体を体内に入れることで、自己免疫作用から、本物の病気にならないようにするのだから、「感染させる」というのが、本来の効果である。
だから、PCR検査で陽性になって当たり前ではないか?

むしろ、ワクチン接種しても、陰性ならばそちらの方が問題だ。
なお、無症状者が他人に感染させる、という論拠の研究成果は、いまだに存在していないし、PCR検査陽性=感染ではない。

教育が進んでいるはずのイスラエルで、その国民が混乱するのは、「恐怖」という精神的なものに人間が負けている、ということではないのか?
すると、「ホロコースト」を経験したことの意味が、活かされていないという残念になるのである。

つまるところ、ワクチンをむやみやたらに打ちたい、というのは、政府の側の科学的根拠に乏しい「強制」だ。
しかるに、日本政府も20兆円分のワクチンを前払いで購入したので、予算消化とおなじで「無駄なく使い切る」ことをしないと、国民から叱られる、という「恐怖」の条件反射が、なんだか正当化の根拠になっている。

その「恐怖」が、せっせと国民の腕に針を刺す目的になっていないかと疑うのである。

さらに、昨年末(先月)、政府は「無料PCR検査」を、ドラッグストアで実施するように予算づけした。
ドラッグストアには、1回1万円の収入があるから、歩行者に「どうぞどうぞ」と勧めることになるだろう。

世の中に「ただほど高いものはない」と、乞食になることを嫌った先人達は言っていたけど、すっかり乞食にさせられた日本人は、「コスパがいい」とかいって喜んで陽性になって、二週間も隔離されるのだ。

こんなことを「国民のため」という政権は、自民党と公明党だけれども、他の野党で反対する者がいないのは、国民から「自由」を奪うことをしたい、「全体主義」が蔓延したからである。

他人から命令されない自由を奪う者は、自由主義者のはずはないから、必ず社会主義・共産主義の信奉者である。
ロックダウンを繰り返しても、なんの「防疫」効果はないけれど、政府のアリバイにだけはなる。

ところで、世界的に社会主義が流行ったのは、資本主義批判ということに成功したかに見えたからである。
ここでいう「資本主義」と、「産業資本主義」は区別したい。
つまり、社会主義・共産主義がいう「資本主義」とは、彼らの批判に都合がいい定義でできた、資本主義という「用語」なのだ。

逆に、本来の「産業資本主義」は、労働者を大切にしないと成りたたない。
「やる気」がない社員ばかりなら、その企業体の事業はうまくいくわけがないからだ。

だから、ちゃんとした経営者は、社員を大切にした。

ところが、社会主義・共産主義に染まったかんがえの「資本主義」憎しをイメージしたとたんに、そんな経営者でも従業員は「敵視」してしまうし、従業員から経営者に「昇格」してなる日本の労働慣行では、今度は経営者になった元従業員が、後輩の従業員を敵視するのである。

これには、「自分は安全地帯にいる」という、優越感もそうさせる。

いまの自民党は、すっかり看板の「自由」の定義を忘れてしまったので、労働者のために、と言いながら、本音では「票」と野党の分断という政治をしたいだけの集団に墜ちてしまった。

これを、「保守」を自称するものたちが、何を保守するのかも忘れて、威勢のいいことを言うひとに期待するという、残念な構図になっている。

一番重要な「自由」を失いかけているのに。

前代未聞のレッドチーム認定

人間万事塞翁が馬

なにが「いいこと」で、なにが「わるいこと」なのかは、「因果」が巡ってわからなくなることがある。
だから、すごくわるいこと、という認識をしたら、それは、「いいこと」につながるのである。

「因果」とは、原因の「因」と結果の「果」をいう。
ちゃんと順番通りで、「果因」とはいわないけれど、「因果因果因果。。。」と続くのが人生だから、結果自体が原因になって、「果因」となってしまうことだって、考え次第ではあり得ることだ。

たとえば、希望する学校への入試に合格して「よかった」と喜んでいたら、とんでもない同級生や教師に「当たる」ことで、とうとう登校拒否になったり、多数を押しのけて就職した有名企業で「エリート」を気取っていたら、「左遷」の憂き目を見たりする。

けれども、学校にいかないで「オタク」になったら、「カリスマ」になってしまったり、「左遷」されたら、本社で「政変」があって、無傷な自分が呼び戻されたりと、それこそ何が起きるかわからないのが人生なのである。

これをむかしは、「お天道様が見ている」といったものだが、いまの日本人には通じなくなった。
この原因は分かっていて、「欧米化=グローバル化」の毒が国民の「脳」に廻ったのである。

さすれば、そのうち「国粋化=ナショナル化」に揺れ戻すことだってある。

このことは、日本以外で長く生活すると「日本」が客観的に見えてくるものなので、海外在住の日本人の方がずっと「古風を好む」からなのである。
だから、海外在住の日本人の数が増えると、「日本の価値を再発見」するひとの数が自然と増える、ということになる。

ただし、放浪のようなことだけではなくて、ちゃんとした職業人としての海外生活が、もっとも「気づく」ポイントなのである。
なぜなら、相手(日本人には外国人)との関係で、教養がある相手には、必ず「日本」を説明しないといけない場面にあたる、という切実な事情があるからだ。

よくあるパーティーでの軽い会話の暗黙のルールは、政治と宗教や性を話題にするのはタブーにあたるから、必然的に「歴史」や「文化」が話題に乗って、教養人ほど日本の「特異性」をおもしろがって(興味深いから)知りたがる。

「日本文明」という、ほとんどの日本人が意識しないし、学校で教わることがない「文明」の存在を、相手が意識しているのである。
ちなみに、学校で教わらないというのは正しくなく、教えない、という意志が働いているのは、GHQの命令を律儀に文科省が守っているからだ。

ここで、「中身のない話」をしたら、どんなに外国語に堪能でも、次回会ったときに相手にされることはない。

簡単にいえば、無視される。
「時間のムダ」という判断が、シビアな行動となるのが日本人とは異なるからである。

そんなわけで、岸田内閣を構成する重鎮たちが、外国政府から無視されだしたという前代未聞が起きている。
ここでいう「重鎮たち」とは、岸田文雄首相、林芳正外務大臣、茂木敏充自民党幹事長「など」(たとえば、「人権なんか関係ねー」と言った、林幹雄幹事長代理とか)を指す。

相手にしてくれるのは、レッドチームの国「だけ」になっている。
ちなみに、このレッドチームの国内には、3種類の立場がある。
「党員」、「政府関係者(軍を含む)」、「それ以外」だ。

党が国家を指導する、という絶対原則が貫かれているから、政府関係者でも党員ならば、党員でない政府関係者よりは「上」という、序列問題は別にある。
これは、「それ以外」でも適用される。
たいがいの有名企業経営者が党員なのだ。

しかも、この党の「序列」については、人間がつくる一般的な「ピラミッド型」の組織とはちがって、犬がつくる「直線型」の組織における序列とおなじに決まっている。
つまり、「同格者」がいないのである。

なお、日本における「官僚の序列」も同様に「同格者」はいない。
ただし、決め方は、「号俸・等級順」と「先任」という機械的な組合せによっているので、すぐさま「整列」できる。

「党」は、さらにもっと犬とおなじで、とにかく「序列」をつくらないと落ち着かない、という習性が組織を維持するための条件になっている。
なので、たとえ外国人であってもこれら三名とかが、どんな順番に序せられているのか?は、「党外秘」の事項になっているにちがいないし、本人たちも知らない建前があるだろう。

でも、「隠れ」とか、「秘密」とかがつく「党員」ならば、話は別である。
ちなみに、昨年の総裁選に出馬して、自身の一家の生業がレッドチーム頼りだとバレた、河野氏は、「党員バッジ」をつけた写真も曝露されてしまったけれど、撮影時の「サービス」かもしれず、その真偽は定かではない。

ここに来て、日本の首相がアメリカ大統領に面談できないばかりか、オーストラリア首相からも拒否されて、外相は、カウンターパートの国務長官、外相からも面談を拒否されている。

なお、自ら定めた厳しいコロナ規制における「隔離」をもっても、菅首相に会いに来日したオーストラリア首相は、このとき、「日本は重要だから」と理由を述べて、帰国後は首相官邸で2週間の「自主隔離」を課した、のに。

さらに、北京オリンピックの「外交ボイコット」表明を、「遅れた」と岸田首相は攻撃されたけど、もっと「遅い」ドイツは、新年5日に外務大臣が「訪米」してしまって、わが国外相とは「別格」の扱いを受けた。

つまるところ、わが国政府と与党トップが、白昼堂々、「同盟」の重要相手国から、「レッドチーム認定」を受けてしまっている。
将棋で言えば、「雪隠詰め」状態なのである。

だからもっとレッドチームに媚びへつらうのか、それとも自由陣営に戻るのか?という「選択」が、政府・与党の「最重要優先事項」になっている。

なんだか、夏の参議院選挙が、どんどん混迷していくだろうと外野でもわかるから、どんな「因果」が飛び出すものか。
それより早く、岸田政権は持つのか?という政局の問題になりそうな。

ただし、アメリカ民主党に染まっているのに、なぜだか「保守の星」になった、「高市政権」に期待感はぜんぜんない。
むしろ、思い切り裏切られて非難ごうごうになるはずなのだ。

日本の保守派の「知能を疑いたくなる」のが目に見えている。

自民党の旧態依然とした「序列」が、人材枯渇をわざと創って、共和党と連携できる政治家の台頭を邪魔しているとしか思えない。

「敵は内」にいるものなのだ。

1年後の1月6日

日本時間だと7日にあたる。

毎年おなじ、「もう七草か」といいつつ、七草粥をいただく家がどれほどあるのかしらないけれど、今年は2月1日が旧暦の元旦にあたるので、2月7日が「本来の七草」である。

昨年の大事件は、アメリカ国会議事堂への「襲撃」という前代未聞で、仕掛けたというトランプ大統領が、その後のわずかな任期をもって、四年で二度目の「弾劾」をされて、いずれも否決という前代未聞もあった。
この「事件」では、死者もでているから、ただのデモとはいえない。

忘れてならない事実は、この日ワシントンD.C.に集結した人々の数は、百万人ほどで、その理由が「トランプ支持」と「不正選挙への抗議」であったことである。
そして、大手メディアが「ひとの波」の映像とはまったく別に、多くて「数万人」、少なくて「数千人」となにを見ているのか不明な「アナウンス」をしていたことも「事実」であった。

とにもかくにも、あれから1年が経過した。
それで、昨年の暮れ(といっても先月)に、フロリダの別荘からこの日に記者会見すると発表したのである。

当然だけど、今年の11月に実施される、中間選挙の「前哨戦スタート」という位置づけだろう。
すでに、民主党の大敗・共和党の大勝が予測されているのは、各種調査の結果からの分析である。

しかしながら、その調査や分析が機能しない世の中になっている。
ましてや、選挙投票用紙の偽造とか、郵政投票の不正、それに集計機の怪しさなど、選挙管理の大問題がどのように是正されるのかにかかっているともいえる。

これには、大富豪から選挙管理組織への「寄付」という、カネまでが絡んでいるし、それを捜査しないという司法・検察の闇にまで疑惑が広がって、収拾がつかないカオス状態がある。

トランプ氏個人と、彼の企業に対する「犯罪を暴く」と公言した、ニューヨーク市検察長官を、トランプ氏側が提訴するに至ったのも、民主党による「国策捜査」というあからさまによるものだ。

社会派のドラマを、生で観ている感覚になるのである。

さて、民主党の大敗予測には、ペロシ下院議長の「落選」も含まれている。
彼女が下院に設置した、「1月6日委員会」は、徹底的にトランプ氏が扇動したことを「罪」とすべく活動していて、「投獄」を最終目的と明言するものだ。

ところが、調査が進んで深掘りがはじまると、首謀したのが民主党側ではないかという証拠が出てきた。
「語りに落ちそう」なのだ。
これをまた、トランプ氏が指摘して民主党支持者の民主党離れを誘発している。

その証拠的調査結果を、CNNが報じたので話題になっている。
この「放送局」は、トランプ氏を落選させたのは自分たちの功績であると自画自賛したのだから、いったいどんな「調査結果」なのかと思いきや、12月末にした調査集計は驚愕に値する。

民主党支持者層の「半数」が、20年大統領選挙への「不信」があって、調査時で「来年(本22年))」の中間選挙での投票行動をきいたら、4割が共和党に投票すると答えた、と報じたのだ。
おなじ質問で、共和党支持者の回答は圧倒的に自党への支持だから、現時点での共和党有利は、「圧倒的」といえる。

この衝撃的な調査結果を、CNNが分析したところによると、以下の通り。
第一に、バイデン政権のこの1年の成果が、あまりにもお粗末だ、という不満がアメリカ中に蔓延していること。
第二に、ビッグテックのSNSがやった、「言論弾圧」が、逆効果になっているということ。

要は、人の口に戸は立てられぬ、ということわざ通りのことが起きている。

「口コミ」に代わって大発展した「SNS」が、現職大統領のアカウントを一方的に永久凍結して「口封じ」したり、「利用規約」をどんどん変更して、一般人の投稿を規制するばかりか、やっぱりそのアカウントを凍結するなどの「不正義」に、利用者達は「自分の生の口」で主張しだしたから、もう誰にも止められないのである。

つまり、SNSの「進化」は、「使い分け」という「分化」によっている。
たわいもない話題はSNSを使うけど、政治信条やらの「肝心」な話をする自分の「個人情報防衛」のためにも、「生の口」にした、ということだ。

文字だけでなく、デジタル化された通信においては、「音声」も自動解析されているからである。
ましてや、家庭用「スマートスピーカー」が激安販売どころか「投げ売り」状態なのは、全部の会話を聞かれている、という事実における「気持ちの悪さ」に消費者が気づいたからである。

タダでも売れない。

そこで、為政者は、国民の選択肢を狭めるような政策を推し進めることになって、ここでも「選択の自由」を求めるひとたちとの攻防がはじまる。
これは、「自由圏」における「必然的なメカニズム」なので、確実に起きることだ。

「必敗」状態におかれた民主党左派はどうするのか?

「中間選挙」という制度を創った、建国の父たちの先見性におののくばかりではないだろうに。

11月8日の投票日まであと、10ヶ月。

マトリックス4部作で正月

「正月映画」という、「季節もの」があった。

たいてい「娯楽映画」のシリーズが話題になって、夏休み映画とは雰囲気で一線を画していた。
ただし、年に2回公開された、『男はつらいよ』は別格である。

「洋物」の定番は、『007』だ。
ショーン・コネリーの後を継いだ俳優達は、自分なりの「007」を演じるために、相当の苦労をしたと思うけど、なかなか「成功」した俳優が出なかったのは、やっぱり難しいからだろう。

それを俳優のせいだけにできなくなったのは、「米ソ冷戦の終結」で、明らかな「敵」の存在をイメージできなくなったことにも原因があるかと思う。
そこで出てきたのが、「人類の敵」としての宇宙人とかだった。
そしてもうひとつの「敵」が、「機械」になったのである。

なかでも発想の「画期」にあたるのが、『マトリックス』(1999年)だった。
この作品と、『ダビンチコード』(小説は2003年、映画は2006年)の共通は、前に書いた。
それは、続編『マトリックス リローデッド』(2003年夏)での「発見」による。

「グノーシス」が共通だった。

皆殺しにあったというから、詳しいことはわかっていないというけれど、キリスト教初期の「グノーシス派」は、いわゆる『聖書』の嫉妬深い「神」ではなく、もっと「上」の「神」を信仰して、『聖書』の「神」を「悪魔」扱いしたから「邪教」とされて滅ぼされたという。

つまり、神界に「階層」があって、「入れ子構造」なのである。

機械が人類を「生体発電」として「培養する」のが現実世界で、「培養中」の人類には、機械が用意した「プログラム」によって、「仮想世界の夢」を見ながら生きている。
よって、そのプログラムを作った者が、「全てを支配する」という構造だ。

しかして、現実世界の人類は、「培養」から逃れて「抵抗する」。
ところがその「現実世界」も「抵抗」も、はたまた、「主人公」すら、プログラムされていると、「創造主」によって教えられることになる。
より複雑な「入れ子」なので、1回観ただけではこの「理屈」についていけない。

そしてついに『マトリックス レボリューションズ』(2003年冬)の「三部作」で、「完結」したかに見えたのであった。
ところが、『マトリックス レザレクションズ』(2021年冬)で、「復活」した。

この間、18年。

一作目からは22年が経過しているので、導入には、過去の振り返り、という「おさらい」がある。
そして、現実世界は、ヒットが欲しい「会社」からの強い要請があって、あたかも「本作」が作られた、という「経緯」すら、「入れ子」の中に取り込んでいる。

その「時間経過」での現実に、三部作の監督・脚本は、ラリー&アンディ・ウォシャウスキー「兄弟」だったけれども、この間に「姉妹」になっていた。
そして、4作目の本作は、「姉」の単独作品となった。

また、「アカデミー賞のあたらしい選考基準」(2024年以降)で書いた「基準」に準拠していることも「新しい」のである。

そもそもが、第一作目で表現された、「プログラム・イメージ」が、「縦方向の文字」が流れ落ちてくるところから、「日本趣味」が見てとれる。
「漢字とカタカナ」を模しているからだ。
日本人には、たまに落ちてくる「日」の字が目につく。

当時の監督兄弟の日本好きが随所にあるのも「観もの」なのだ。

さいきんは、劇場の設備が進化したので、上映中の足元照明がちゃんとコントロールされている。
なので、上映中に席をはずすのは、足元の危険とトレードオフの関係になるから、「エンドロール」で席を立つひとが少なくなった。

どうしてエンドロールで席を立つのかといえば、昔の映画館は大混雑していて、立ち見どころか床に新聞紙を敷いて観ていた。
それで、本編が終わったら、一斉に退場する混雑を嫌ったひとが、エンドロールになったらすごすごと退場して、混雑の緩和になったのである。

その意味で自己犠牲的なのだけど、どんなひとたちがこの作品にかかわっているのかについて、興味ない、という意思表示でもある。
これが嵩じて、エンドロールで席を立つことが、なんだか優位にある、という一種のマウンティングにもなったかに思う。

そうした点で、暗闇のなかで席を立つひとがまだいるのは、なかなかに興味深い行動なのだ。
それで作り手は、エンドロールに工夫を凝らす。

本作は、アクション映画の性格もたっぷりあるから、やたらと「スタントマン」の名前がたくさんあって、きっとこの中に自分の名前があるひとは、目をこらして観ているにちがいない。

延々と続くエンドロールの理由は、もうひとつ、コンピュータ・グラフィックスの担当者達の名前だ。
誰がどの場面を担当したのかしらないけれど、どこまでが現実の撮影で、どこがちがうのかという「入れ子」にもなっている。

そんなことをかんがえたら、どれもこれもがコンピュータ・グラフィックスのお世話になっているだろうから、この世がすでにマトリックスの世界でもある。

けだし、おそるべき人殺しアクションが続くのは、なんだか昔の『ゾンビ』(1978年)を彷彿とさせるから、子供に観させる映画ではない。

しかして、「現実世界」に戻るための赤いピルを選ばないと物語がはじまらないが、「マトリックスの架空世界」での幸せ感・安心感に留まりたいので青いピルを飲むひとの方が圧倒的だろう。

なんだか、あのワクチンのような機能がある。

だから、この映画を観ている我々は、青いピルを飲まされた側にいる、という立場に自然と=強制的にされているのも、この映画の「仕掛け」になっている。

エンドロールを全部観れば、そのことがわかるのだ。

江の島神社の初詣

日本の「モン・サン・ミシェル」といえば、やっぱり「江の島」である。
「近所」なのに、何年ぶりか忘れるほどの来島である。

どちらが、「ご本家」なのかは議論してもせんないけれど、どちらも「祈りの島」になっている共通がある。
ただし、「伝わるところ」によれば、江の島神社の方が150年ほど早い。

モン・サン・ミシェルが、見た目で「江の島」のようになったのは、陸地からの道路を作ったら、潮の流れが変わって、島周辺に「砂」が溜まってしまったからであった。
それで、2009年にこの道路を撤去して、あらたに橋がかけられた。

江の島は、これとは別に、境川河口の形状によって砂州が変化するということと、関東大震災の地震による「隆起」もあって、今のようになったという。
でも、その形状を変えたのは、陸地側の「片瀬漁港」の整備による堤防の設置だろう。

わたしが子供のころ、境川の河口は海に突き出した堤防もなく、もっと奥にあって、片瀬西浜の海水浴場から江の島大橋の柱まで泳いでいったもので、猛者達は橋をくぐって鎌倉側の東浜まで往復していた。
いまは、途中から歩いて橋まで行けるほど砂が溜まってしまった。

それでか、砂の撤去のための「浚渫(しゅんせつ)作業」が行われていて、橋のたもとには大きな砂山ができていた。
すると、フランス人がやった「撤去」をせずに、ちまちまとムダな抵抗をしているようにも見える。

おそらく素人目にも、片瀬漁港の堤防を撤去しないと、なんにもならないだろうに、と。
ならば、片瀬漁港はどうなるのか?という話になるけど、何人の漁師がいて、後継者はどうなのか?ということもちゃんと議論すべきだろう。

これを、「しない」、「できない」のは、とっくに「利権」となっているからだ。
目と鼻の先に「腰越漁港」があるけれど、そことの統合なんて、「ダメヨ、ダメダメ」としか話題になっていないかもしれない。

その腰越漁港も、なんだか昔より堤防が海に突き出しているように見えたのは「錯覚」なのか?

そんなわけで、またまた「持続可能」なる「用語」の、まったく信用できないご都合主義の「用法」をイメージしながら、大船から乗ったバスが、渋滞で動かない中の景色を見ていた。

焦点を手前の江の島大橋歩道橋にやれば、蟻の行列のような状態であまたの人間が歩いていて、浮世絵の江島弁天参拝図とそっくりだ。
あと数分後には、自分もこの中のひとになるわけだから、心の準備をすることになる。

正月は、八幡宮がある鎌倉中心部は交通規制が厳しく、マイカーは通行できない。
それに、2日と3日は、国道1号線を封鎖する箱根駅伝の「余波」から、海岸通りの混雑は毎年のことだろう。

だから、用事がないのにこの辺にマイカーで来ることのムダは推して知るべしなのだけど、どういうわけかそれが毎度の混雑となる。
江の島は、島だから、当然に行き止まりなので、駐車場の容量がいっぱいになれば、それ以上は「出る量」とおなじ量しか入れないという道理がある。

それでもって、大渋滞になるのは、いったいどんな用事があって島内に自動車を進めるのか?
ナンバーを眺めると、けっこう「湘南」と書いてあるのが、一層の不思議感を醸し出すのである。

「湘南」のひとは、そんなに江の島が珍しいのか?

しかし、湘南地方と自動車ナンバープレートの湘南にはズレがある。
これがまた、役所による密かな「文化破壊」の証拠なのである。
湘南地方に永く住む当事者達に言うと、最初は笑うけどどこがちがうのかと聞けば、かならず「納得」するものだ。

そして、この「勘違い」の方が「本当」になることの「恐ろしさ」に気づくのである。

このことは、美濃部亮吉という、父の「威」を借る狐がやった、郵便番号導入時の「町名変更」という文化革命とおなじなのだ。
「江戸八百八町」は、郵便番号で破壊されたのではなくて、都知事によって破壊され、忘れ去られることになったのである。

そして、郵便番号が、3ケタから7ケタになるときに、復活させなかったから、とうとう「東神田」とか「東日本橋」なる、奇妙きてれつな町名が「ふつう」になってしまった。

さて、江の島神社の初詣は、三宮あるけど一番近い「辺津宮(へつみや)」で大半が折り返し、その先の「中津宮(なかつみや)」、さらに、「奥津宮(おくつみや)」の全部をお詣りするひとがどれほどの割合か?

北鎌倉の駅前、といっても境内に駅が出来た円覚寺には、国宝の洪鐘(おおがね)横に弁天堂があって、江の島の弁天様と「提携」しているとある。
しかしながら、頼朝からはじまる「日本三大弁天」の江の島神社の弁天様は、明治の神仏分離・廃仏毀釈で、「改めて」弁財天を祀ったことになっている。

島にあった「仏」とは、京都仁和寺の末寺、岩本院のことで、この寺院が神社を管理していたのである。
その江の島に鹿児島の最福寺(1989年(平成元年)創設)から、「関東別院」として、1993年(平成5年)に創建された「江の島大師」がある。

古代からと現代とが交わった、祈りの島なのであった。

「フロー」と「ストック」の攻防

「会計」でいえば、売上から費用を引き算する「損益計算」が、「フロー」を扱って、そこから得られた「利益」を「資本」とくっつけて「貸借対照表」にすると「資産の状態=ストック」がわかるようにできている。

で、どっちが重要なのだ?

という質問に、「決算書」では、先に「ストック」を表示するページ構成になっている。
ところが、あくまで「フロー」しか気にしない経営者や経営幹部もいる。

これはなぜかというと、社内での管理が「簡易的」に「フロー」だけでやっているのを忘れて、ついに「全部」に変換されてしまうからである。
だから、ストックを気にしなくても問題ない、ということではなくて、ストック「そのもの」のことを無視してはばからない、ということになるのだ。

そこで、自社事業に「素人」の「社外取締役」が、「ストックを話題」にすると、プロパー役員の顔が引きつったりする。

ときに、会計の専門家からすれば、「そんなバカな」ということだし、ふつうの「株主」だって、「そんなバカな」と思うだろうけど、「そんなバカな」ことが、ふつうになって世の中は動いている。

昨年の暮れ16日に日経新聞が、東京証券取引所が、新しい「市場」をスタートさせることを「改めて」報じたのは、ほかにニュースがなくて紙面を活字でムダに埋めるためだったかどうかはしらないけれど、とっくに決まっていることを「あたかも新しい」というニュアンスで報じたのだった。

それでもって、今年の4月1日からスタートする。
これまでの「東証一部上場」とか「二部」とかは終了して、「プライム」とか「スタンダード」というカタカナ表記になる。

この「振り分け」の基準が細かく決められているので、「解説本」が売れるにちがいない。

個人的見解を言えば、なんだか「デノミ」のような気がするのだけれど、通貨単位を変えるデノミとは「ちがう」というご専門の厳しい指摘はあえて無視して、「本質はおなじ」といいたいだけなのである。
どの「市場」に振り分けられても、その企業価値自体はなんら変わらないからである。

しかし、昇格したら昇格したで、企業価値が増えた、というひともいるだろうし、降格(2割ほど)したらしたで、企業価値が減った、というひとがいるかもしれない。

このときの「企業価値」とは、「株価換算」(時価 × 発行株数)でいうことがふつうなので、フローでストックを評価するという、すごいことになるのである。
あえていえば、「ハチャメチャ」で、「めちゃくちゃ」なことである。

これを、さも当然としているところに、現代資本主義の弱点がある。

いったん基本の状態に戻して考えれば、たとえば、マックス・ヴェーバーが説く、ドイツのプロテスタントたちで、石工という職業人達の間(組合:ギルド)で起きた、資金の融通を、資本主義の嚆矢としたことがあげられる。

仲間うちで、資金が足りないひとにみんなでおカネを融通してあげたら、受注のタイミングと合致して得た利益のうちから、「配当」を出したのだった。
それでもって、出資者が出したおカネより多くを、自分は出資した「だけ」なのに得たのである。

ここで重要なのは、話の「順番」なのだ。
困っている仲間うちでの助け合いから、個々人が手元資金を出したら、資金を得たひとがそれを「増やして」、結果として、「配当」を出したのだ、という「順番」だ。

わが国のなかにある、「信用組合」と同じなのだ。
いや、信用組合がこれを真似たのだ。

しかしながら、これを繰り返すうちに、話の「順番」が変わる。
利益「配当」が欲しくて、おカネを出すようになったのである。
これが、「銀行」だ。
本来の「受け取り利子」とは、「配当の利回り」のことを指す。

だから、優秀な銀行は、たくさん配当を出せるひとに貸すことで、他の銀行よりも多くの利子が支払えるので、そんな銀行ならたくさん預けたい、というひとがでてきたのである。
日本では、昭和恐慌までの銀行がこれだった。

そして何よりも重要なのは、もう一つのルートとして、「株式」の発明があったことだ。
人類初は、オランダ「東インド会社」が最初とされている。
これが、投資「リスク分散」の名案としての「証券化」だったのだ。

だから、株式にも投資利益の分配としての「配当」が含まれている。
けれども、「順番」がすっかり逆になってしまって、株式自体への投資が値上がりや値下がりする「相場」を形成することになった。

こうして、銀行も証券会社も、完全に「順番ちがい」を「正業」とすることになったのである。
そして、銀行融資よりも直接に資金を調達できるので、企業は株式を印刷して発行したがるようになった。

これでは銀行は困るので、中央銀行の庇護の元に、国家による支配を求めることになったのである。
こうして、もっと儲からない、自業自得になった。

そこで、デジタル通貨がどうなるのか?が今後の問題になる。
場合によっては、資本主義のやり方が変わるかもしれない。

そもそも、銀行から融資を受ける必要があるのか?とか、電子化しても株式を発行する必要があるのか?とか。
あるいは、不動産会社とか自動車会社が自前のデジタル通貨を発行して、不動産や自動車のローンに使わせて流通させることを狙うかもしれない。

はっきりしていることは、デジタル人民元がシステム的にも先行していることだ。

各銀行も自前のデジタル通貨を発行して、フローとストックの両方にコミットしたいだろうけど、政府と中央銀行はこれを許しそうにない。
フローとストックの攻防は、金融全体主義によってコントロールされ、自由を阻まれているのである。

そして、最も強力に金融全体主義をやっている国のデジタル通貨が、世界で最初に流通するかもしれないと言われているのである。

ところが、「デジタル絵画」の世界では、ブロックチェーン技術を用いた、「所有権」の売買が一般化している。
所有者の「名」が刻まれていく。
人気の絵画の価格が、億円単位になることも珍しくないが、それは、「所有者の名前が刻まれる」という権利を売買しているという意味なのだ。

デジタル絵画がデジタル通貨になっているのではないのか?
これは、フローとストックの結合だからである。

もはや、マネーロンダリングも可能になっているから、当局をして発行を躊躇させるのかもしれない。

ICC:OTP-CR-473/21

この、「OTP-CR-473/21」とは、ICC(国際刑事裁判所:International Criminal Court)が、昨年12月6日に「受理」した、「裁判の事件番号」である。

「国際」がつく「裁判所」は、もう一つ、同じくオランダのハーグにある、ICJ(国際司法裁判所:International Court of Justice)で、こちらは国連(連合国)の「常設機関」になっていて、もっぱら「国家間」の紛争を扱う。

なので、ICCが「個人」を扱うのとは異なるし、主旨も「国際刑事裁判所ローマ規程(略して「ローマ規定」)」という「国際条約」によっているから、ぜんぜんちがう「裁判所」なのである。
成立したのは、2002年という「新しさ」がある。

ちなみに、わが国は2007年に批准、加盟しており、国内法も整備されている。
ついでに、この条約に加盟していないのは、アメリカ、中国、ロシア、インドなどがあるから、あんがいと「まだら模様」である。

アジアでは、シンガポールやタイも加盟せず、フィリピンは脱退している。
シンガポールは、最高刑に「死刑がない」ことを理由にしていて、ぜんぜん「死刑廃止」志向をしていない。

個人が犯した「刑事事件」を管轄するけど、それはどんなものかといえば、対象となる犯罪は以下の4項目(順不同)である。
・集団殺害犯罪(ジェノサイド)
・人道に対する犯罪
・戦争犯罪
・侵略犯罪

なんだか、どこかで聞いたことがあるのは、第二次世界大戦「後」の、「ニュルンベルク裁判」とか、「東京裁判」で、いきなり出てきた「犯罪」を扱っているからである。

この二つの裁判のインチキは、それまでに確立していない「概念」をもって敗者を「裁く」という、いわゆる「リンチ」としての不正義が、いまだに問われ続けていることだ。
さいきん復刻した、英国政界の重鎮だったハンキー卿の指摘は、きわめて妥当な議論である。

なんだか、アヘン戦争の不正義について、当時の英国議会の議決(数票の差)における敗者の主張のような「歴史に対する正義」の伝統を主張しているのである。
まったくの「カネに目がくらんだ不正義の戦争」のために、いまの香港問題がある、ともいえる。

しかしながら、「時間」というものの経過による「事情の変化」は、そのまま法の概念にもなって「定着」すれば、それはもうハンキー卿の指摘から遠くなって、正当化される。
つまり、「過去の二つの裁判への批判」とは別に、これより「後」のことは、適用されてしかるべきこととなるのである。

それでか知らないが、連合国で、イギリスとフランスが「ローマ規定」に加盟していて、日独という敗戦国も加盟している。
けれども、過去二つの裁判で主たる追求をやったアメリカは、批准をしないことを表明しながら「署名」して、ブッシュ息子政権では前代未聞の「署名撤回」まで言い出したのであった。

この「批准をしないことを表明して署名する」というのは、アメリカの「お家芸」で、「国際連盟」のときのウィルソン大統領(1913-21年)しかり、「京都議定書」のときのアル・ゴア副大統領(1993-01年)しかりなのである。

どういうわけかわが国は、「署名した」ことだけがニュースになるという、浅はかなことを「お家芸」としている。
これは、行政のトップが署名したら、議会が承認しないはずはない、という行政万能主義が主流で、民主主義の根幹である「議会」を「軽視・蔑視する」という伝統にもとづく発想なのである。

だから、官憲に逮捕された「だけ」で、社会的地位をなくす。
悪役(プロレスでいう「ヒール:Heel」)である、日大理事長へのリンチがこれである。
本来なら、起訴されてもまだ「辞めてはいけない」のは、「有罪が確定」したときまでのお楽しみなのである。

逆にいえば、逮捕されただけで「悪人だ」と決めつけられて社会的地位を失って、もしも「無罪」だったらどうするのか?ということになる。
日大法学部の見解を聞いてみたいところだ。

けれども、わが国の刑事裁判は、起訴されたら「99%以上」の確率で、有罪判決がくだされるから、検察官様の行政裁量である「不起訴処分」こそが、本当の「判決」に値するという、江戸時代のような「お目こぼし」がふつうになっている。

それを国民感覚にしようと擦り込んだプロパガンダが、「捕物帖」とかの時代劇であった。
それで逃げおおせる輩に対する「暗殺」が、『必殺シリーズ』として、庶民の溜飲を下げる「ガス抜き」の役を果たしたのである。

そんなわけで、はなから劣化している欧米システムを真似っこした振りをして、政府に都合がいいように変えた悪智恵でできた「日本」がある。
しかし、政府は敵だという意識が、「名誉革命」以来の英国の伝統なので、しつこく「判決」を求める闘いをするのだ。

「OTP-CR-473/21」の原告は、ハンナ・ローズ弁護士を筆頭に、マイク・イードン元ファイザー副社長や、天体物理学者のピアーズ・コービン氏ほか3名で、被告は、ボリス・ジョンソン首相以下の関係閣僚、ビル・ゲイツやワクチン製薬会社の社長達、WHO事務局長やファウチ博士、それに世界経済フォーラムの会長など、世界的に「有名」なひとたち「個人」だ。

もちろん、提訴の理由は、この裁判所があつかう4項目のうち、戦争犯罪を除いた3項目になっている。
・ワクチン被害やマスクによる低酸素・過呼吸、PCR検査の発癌性は、ジェノサイド。
・「陽性者」の監禁やそれにともなう富と事業の破壊、さらに、ワクチンパスポートなどはアパルトヘイトとしての、人道に対する罪。
・個人の経済生活の解体・破壊とエリート集団による政治と金融の支配は、侵略の犯罪。

マスコミは報道しないけど、英国国内裁判を通じて、この裁判所にやってきた「経緯:門前払い」からすると、ドイツでの大規模集団訴訟(ライナー・フーミッヒ弁護士)と、これと「連携」している日本での訴訟(南出喜久治弁護士)も、ICCに持ち込まれる可能性がある。

労働党政権で首相をやった、トニー・ブレア氏は、この提訴が受理された後、「ワクチンを接種しない者は『バカ』だ」と言って、被告人への援護射撃をしている。
全党が一致している絶望に、英国民は驚きかつ怒っているけど、日本も同じ状況にある。

じつは、「司法」がすごいことになっている。

【2022年頭】続・道徳と倫理を問う年に

謹賀新年。

昨年は、「【2021年頭】道徳と倫理を問う年に」だったけれども、今年は「いよいよ」を付けて「続」としたい。

「いよいよ」には理由がたくさんあって、先ずは北京オリンピックの「後」からの「台湾危機の予測」があることがあげられる。
けれども、これには「ウクライナ危機」という問題もくっついていて、アメリカは「二正面作戦」を強いられている。

この二箇所が同時に「破裂」したら、いきなり、「第三次世界大戦」という小説のような話になってくる。

ところが、「これまで」とちがってヤケにリアルなのは、バイデン政権という「歴史的不安定」があるからだ。
昨年の秋口から、トランプ人気が盛り上がってきて、今年11月の中間選挙で「トランプ派」となった共和党が圧勝する体制を整えている。

しからば、北京オリンピック後から中間選挙までの「期間」が、近年稀にみる「危険期間」となること必定なのである。

この選挙、勝てば「タフ」なトランプ氏が実質的に議会を担う、という意味もしかりだが、前回選挙の「負け」からの「勝ち」とは、その「定義」を変えてきていることが大きい。
つまり、従来から目標としていた「州単位」での「勝ち」ではなくて、「市」、「郡」単位という、住民目線での「勝ち」を重要として目標設定しているからである。

ちなみに、アメリカの選挙は、州単位だと、州知事、副知事、州務長官、州司法長官、それから、教育委員会の委員、さらには野犬捕獲員とかと、数千ある「公職」が「みな選挙の対象」だから、ぜんぜん日本とはちがうし、「州」でもちがうのである。

当然ながら、「そうはさせじ」という勢力があるので、どんなふうに「阻止」するのか?という問題が発生する。
この「そうはさせじ」という勢力には、当然ながら敵対する国家だって含まれる。

すると、もっとも手っ取り早い民主党の「負けない戦略」とは、「戦争」なのだ。
「戦時政権」は、絶対的優位に立つことになるので、劣性をひっくり返すことにもなるし、「臨戦態勢」のためだといえば、「何期」だってできるかもしれない。

それが、前回「第二次世界大戦期」の、「前例」だ。
フランクリン・ルーズベルト政権は、1933年~1945年の12年間もあって、4選後に死去して昇格したトルーマンは、再選して1953年まで続き、その後共和党のアイゼンハワーとなった。

つまり、20年間もの期間が、民主党政権だったのである。

それでもって、さすがに1951年に米国憲法修正第22条ができて、「2回まで」と規定されたのだった。
だから、憲法による制度が出来てわずか70年あまりしか経っていない。

こんなことを忘れる民主党員はいないだろうし、左翼は「永久政権」を目指すものだからその機会を狙っているはずでもある。
日本人にとっては、大東亜戦争の「開戦前から独立回復」しても1年後まで、ずっと、「民主党のアメリカ」を相手にしてきたことは、重大な事実なのである。

その民主党の「不道徳」は、結党以来一貫している。
この党は、ヨーロッパでも喰えない無法者達の集団から誕生したのだ。
いまなら、絶対に大統領になれっこない、ルーズベルトは、有名な「レイシスト」であり、「人種改良論者」であった。

そして、改良すべき人種の中に「日本人」がいたのも事実だ。
この「改良」は、いつ誰によって中止されたのか?
じつは、「放置」されているのである。

いま、民主党の言う「平等」とか「反白人」というのは、ルーズベルトの延長にある「主義」の「言い換え」のことで、これに社会主義・共産主義が結合して、いまの「先進的運動(たとえば「BLM)」になっている。
もちろん、伝統的に武器商人やらと結託していることも「前提」にある。

共和党がその理念を放棄して、金持ちのための政党といわれたのは、ウオール街とか武器商人とかと結託したからで、その本質が民主党と同じになってしまった。
その典型が、ブッシュ親子だったし、いまは「RINO」(名ばかりの共和党員)という。

これを、元通りの結党理念に戻したのがトランプ氏だったのである。
だから、既存の「利権勢力」は徹底的にトランプ氏を貶めるけど、気がついた民衆は彼を熱狂的に支持するのである。

そんなわけで、3月から10月までの間が、目を離せないことになる年になることは、もう決まっている。

この根底にあるのが、「道徳」と「倫理」なのである。
だから、いよいよ、「善と悪」、「明と暗」との対立が、決戦となるかもしれない。

しかし、こんなことは日程的にもとっくにわかっているから、水面下では激しい攻防戦がはじまっているにちがいない。
それが、あたかも「モグラたたき」のように、あたかも「偶然」とか、「何の脈絡もなく」とかという状態で、われわれの目にする事件になっているはずだ。

たとえば、石油やエネルギー問題、それから、脱炭素、コロナ対策、領土、民族自決、韓国大統領選挙、ロシア、NATO、TPP、参議院選挙、インフレ、スタグフレーション、などなど。

だから、ひとつひとつの「事件」にかまけていると、本質を見失う年になる、ということがはっきりする。
それが重要なのは、他人事ではなくて、かならず自分事になるからである。
しかも、「生存」にかかわることになりかねない。

物騒な年がはじまるから、「気を確かにして」、今日から365日後の年末の「無事」を祈りたい。

【大晦日】来年の高まる期待

【2021年大晦日】
先日、唖然とする演説をバイデン氏がやって、首をかしげるアメリカ人がさらに増えたというから、支持しない側からすればあながち非難することもできない。

それは、バイデン政権の1年を自画自賛した内容で、「過去のどんな大統領もなし得なかった、驚くほどの目覚ましい経済的成果を出した」だった。

トランプ政権が成し遂げた、空前の経済発展の成果ではなくて、その「破壊」を自ら賞賛したのである。
車社会のアメリカでは、この1年のガソリン価格の高騰は、ほぼ全部のアメリカ人の生活を直撃した。

国境に殺到して入国した「不法移民」は、200万人を超えたというが、生活のための奴隷的労働に就かざるを得ないため、従来からの「合法移民」がしていた仕事を奪うことになって、正直者が損をするように仕向ける政策が成功している。

また、コロナ禍をもって、生活保護家庭への「手厚い手当」をしたために、家族数にもよるけれど、月収で50~60万円を「もらえる」ことになったから、どちらさまも遊んで暮らすことを選択して、労働をやめた。
こうして、トラック・ドライバーが激減して、国内流通が停滞した。

エネルギー価格の高騰と流通の停滞による「物不足」が、需要と供給という大原則に直接働いて、既に年率で6%もの、石油ショック時以来の「インフレ」がアメリカを襲っている。

悠然とおっとりがたなでいたFRBも、「一時的」という言い分をあっさり捨てて、インフレ退治のための「金利上昇」を誘導しはじめた。
不況下のインフレをスタグフレーションと呼んで、70~80年代のアメリカを苦しめたけど、いまの政権は、この状態を自らすすんで作り出そうと「努力」している。

これを、正面から「破壊工作だ」というのが、「MAGA(MAKE AMERICA GREAT AGAIN)を標榜するトランプ氏が率いる共和党である。

ここにきてバイデン政権の「目玉政策」である、巨大な福祉政策に、民主党上院議員も離反して反対を表明したから、法案そのものが「頓挫」してしまった。
なお、この上院議員には、民主党内からの強烈な圧力がかかっているといわれていて、「党議拘束すべき」という話まで飛び出した。

これを言うのは「日本人ジャーナリスト」である。
なぜなら、そもそもアメリカ人に「党議拘束」という概念はない。
アメリカ人は、議員の「ひと」を選んでいる。
その「ひと」がどの政党に属するかは、後先で言えば「後」なのである。

これがわが国とアメリカ政治の「真逆」の構造だから、わが国の構造を基準にすると、「党議拘束」が発想される。

たとえば、リズ・チェイニー氏は、地元の共和党から事実上の「除名処分」を受けたけど、彼女自身は、来年の中間選挙のために「共和党予備選挙」に出馬するのは「自由」なのだ。

それが証拠は、昨年の大統領選挙で民主党予備選挙のトップにあった、バーニー・サンダース上院議員は、最後まで民主党員ではなかったし、いまでも民主党員ではない。
それに、大統領候補から突然辞退したのも、民主党から高級別荘を貰ったからと、本人が認めているのは、これも「自由」だからだ。

このあたり、日本人の発想にはないことが、アメリカ人の発想にはある。

さて、上述した重要法案に反対を表明しているのは、民主党「中間派」だという話もあるけど、「派」なのになぜか一人しかいない。
ただし、いまの連邦上院は、50対50と民主・共和のイーブンなので、このままなら議長を務めるカマラ・ハリス副大統領票で民主党が過半を占める。

だから、たった一人の造反でも、議案が通過しないのである。
ところが、アメリカの歴史では、上院はもっと「多数決にシビア」だった。
当初は、7割の賛成がないと議決できなかったものが、とうとう単純多数決になったのである。

一方で、トランプ氏の活動は、自身が「富豪」であることからも、「野に下る」から資金が尽きる、ということにはならなかった。
なによりも、カネではなくて「票」が欲しいひとたちが、トランプ氏の「推薦状」を手にいれるための「MAGA契約署名」に躊躇しない。

トランプ氏に忠誠を尽くすのではなくて、活字化されているMAGA理念に忠誠を尽くすという文書への署名なのである。

それに、わが国とはレベルのちがう「寄付文化」がある。
「キングメーカー」としての「独裁」を言う「反トランプ」のジャーナリストは多いけど、少なくとも田中角栄のようなカネで釣る方法ではない。

やっぱり、「富豪」は、貧乏でなくとも「カネ」を欲しがる凡人とは、考え方も行動様式も「ちがう」のである。

 

これが、良くも悪くも「富豪」がいなくなったわが国との違いだ。

そんなわけで、トランプ氏が掲げる「MAGA」が支持を拡大して、とうとう民主党員にもいる「保守派」に賛同者が出始めているという。
各州のみならず、市や郡といった選挙区でも、「MAGA」を支持するひとたちが予備選挙の準備をしていて、共和党内の「反トランプ派(主流派)」の排除が行われている。

また、連邦下院では、中間選挙に出馬しないと表明し「引退」する現職議員が現時点で23名もいる。
共和党候補に勝てない、という判断だろう。

残念ながらわが日本では、自国の政権や野党にもまったく期待ができなくなったから、「宗主国」たるアメリカに頑張って貰わないといけないという情けない事態になった。

その情けない組のリーダーである岸田氏が、あろうことかバイデン氏に謁見できないというのは、実は親中のバイデン氏からしたら、日本はレッドチームに先に行け、という指示なのかもしれない。

はたして、年初のオリンピックが終わって、11月の中間選挙でMAGAが勝利しようとも、その間にわが国の命運は尽きている可能性もある。

だから、ギリギリ、崖っぷちの「期待」なのである。
真剣に、「よい新年をお迎えください」と言いたい年の瀬である。