中央構造線露頭でかんがえる

日本列島は,おおきく弓なりの形をしている.なかでも「本州」のまんなかあたりではっきりと反りかえっていて,その延長線に北海道も四国も九州も,果ては沖縄もある.
これは,はるかむかしに,地殻がうごいてできたというから,ふだんはまったく意識しないことだ.

地球という星が太陽系にうまれて46億年といわれているが,星として死んだわけでもなく,いまでも活発な活動をしている.
わたしたちは,そういう星に住んでいる.

日本の本州にある「南アルプス」と呼ばれている山岳地帯は,地球上でもっともはやく動いている地域として世界的に有名だ.それは,年間4ミリメートルで高くなっているからだという.
山が高くなっている!

10年で4センチメートル,100年で40センチメートル,1000年で4メートル,10000年で40メートルになる.このままいくと,100万年で4000メートルになるから,いまの高さを加えれば,ヒマラヤ並になる.

もっとも,インド大陸が衝突してできたヒマラヤも相変わらず隆起していて,こちらは年間2ミリメートルだ.日本の南アルプスがヒマラヤを抜き去るのに何年かかるか,各自計算されたい.ちなみこの計算を,小学校では「旅人算」と呼んで中学入試の定番になっている.

ひとの一生がいかに短いものかというよりも,ひとの存在を無視した地球という星の物質的活動である.
この活動のおおもとは,太平洋の海底に噴き出すマグマだという.

われわれが住む地面の30キロメートル下には,ドロドロに溶けたマグマの対流がある.
なぜそんなドロドロのマグマがあるのか?といえば,46億年前に火の玉のような星だったからである.つまり,この星は,46億年たっても,いまだにぜんぜん冷えていない.

陸地より地殻が薄い海底に裂け目ができて,そこから吹き出したマグマが「プレート」になって滑ってくる.そして、ご存じのように海溝で沈み込み再びマグマになる.
このプレートに乗っかった丹沢島が500万年前に,伊豆島が50万年前に本州のまん中に衝突した.

丹沢島は本州の地殻の下に潜り込んで上には丹沢山地から秩父山地をつくり,もぐり込んだ下は甲府盆地に到達した.どちらの山にも,しっかり神社がある.
神奈川県と山梨県の縁は深いが,地面の下でつながっている.
それでか,丹沢の相模平野側に出る温泉と,甲府盆地笛吹川沿いの温泉の泉質が似ている.

伊豆島の衝突では,地上に皺ができて,それが南アルプス,中央アルプス,北アルプスをつくったというからすさまじいエネルギーである.
南アルプスが世界的スピードで高くなっているのは,衝突して伊豆半島になった伊豆島がいまもぜんぜん「止まっていない」ということだ.
南アルプスの山頂付近からは,貝殻などの化石がみつかっているから,伊豆島衝突前のその前には,海底にあった証拠である.かつての海底が2000メートル以上も隆起した.

伊豆半島の付け根,三島にある「三嶋大社」には,伊豆島衝突の伝承があるから不思議である.
どうやってむかしのひとは「伊豆島」が本州に衝突したことを識ったのか?
しかも,いまだにめり込んでいるのだから,三嶋大社の信仰は現在進行形である.
「不思議」と認識した「不思議」がここにある.

本州を南北に真っ二つに分断しているのは,有名な「糸魚川静岡構造線」で,この線で本州は折れ曲がっている.諏訪湖の諏訪大社上社前宮,諏訪大社上社本宮は,不思議と真上にある.
一方,諏訪湖は伊那谷へ中央高速道路がほぼ真上を走る「中央構造線」が交差している.
これより西側は,まるで魚の中骨のように分断線が走る.この線で地下構造がまったく異なっているというから驚きだ.

中央構造線がわかりやすいのは天竜川で,国道152号がある.
伊勢湾から紀伊半島を分断して,四国山地,そして九州を分断し沖縄につづく壮大な地質構造のちがい.豊岡稲荷も,伊勢神宮も,高野山もこの線の上にあるのは偶然か?

中央構造線が,地上に顔を出しているのが数カ所ある.
とくに,長野県下伊那郡大鹿村にある「露頭」は有名で,ここには唯一の「中央構造線博物館」(村営)がある.

わたしが不思議なのは,どうしてここが「一大観光地」になっていないのか?である.
ものすごく「地味」なのだ.
「露頭」の現場を観るための道も,「露頭」そのものも,なんだここは?というぐらい「地味」を通り越して「素っ気ない」.

ほんらい「観光」には理解のための知識が必要だ.
神社仏閣とて,そもそもの意味をしらないと建物を観ても価値がわからない.
仏像だって,「印形」の知識があればグッとわかりやすくなる.
つまり,「観光」には,ひとの知識欲を満たす,という要素が不可欠なのである.だから,教育的なのだ.

現地こそ,という要素と事前知識が組み合わさって,観光の価値は俄然高まるのだが,「余暇」の要素が強すぎるのがわが国の「観光」の姿である.
「中央構造線露頭」のような,地球レベルでも珍しい場所はどうあるべきなのか?
幸いにして手がついていないから,ぜひヨーロッパ人にプロデュースを依頼するとよい.

どうやら「この分野」は,われわれ日本人にはプロデュースができない.
それは、「目的合理性」の追求が論理的でないからだろう.
反省しても,批判しても,できないものはできない.
できるひとを呼んでくるのがせめてもの「合理性」というものだ.

デパートで観光できるか?

地方都市の中心にあって,生きのこっているデパートでも,そのおおくが青息吐息のようだ.
入店すれば,おおくが「東京の真似」をしているから,「あゝ」とおもってしまう.
東京のデパートが青息吐息だから,その「真似」をすれば悲惨になるにきまっている.
デパートがいつの間にか「リスク回避」を是として,徹底的にリスクを排除したら,利益がでなくなったのである.

「小売」をするのがデパートの真髄である.
だから,大規模小売店舗立地法という名の法律で規制もされている.
この商売で,リスクを回避した方法は,不動産業への転換を意味した.
自分で商品を仕入れて売る,という小売の原則をやめて,売り場面積を売ることにしたからである.

「リスクは回避するもの」という思想の蔓延が,大企業を中心にダイナミックな活動を阻害している.
「リスクとは利益の源泉である」ことをすっかりわすれた,異様な思想だということに気がつかない.「利益の源泉を回避する」のだから,儲かるはずがない.

自分で売らずに,他人に場所貸しして家賃をとろうという算段だから,家賃がちゃんと払える借り手でなければこまる.それで,成功している業者にばかり声かけしたら,全国どこにいってもおなじ商品やブランドばかりになった.
これを,民営化したJRが全国の主要駅ビルで展開したから,駅からちょっと歩く老舗のデパートはますますたち行かなくなったと前に書いた

わが家では,地方都市に旅行すれば,できるだけ地元のスーパーマーケットとデパートには行くことにしている.
いわゆる「ご当地もの」の発見が,楽しいからである.
この「ご当地ものの発見」という行為が,立派な「観光」だからである.

だから,外国旅行に行ってもおなじである.
商品そのものだけでなく,売りかたや配置など,日本のスタンダードなやり方がすべてではないとよくわかる.
もちろん,外国なら「ご当地もの」ばかりだから,それは楽しい.
なによりも,生活感がはっきりとしてくる.

その中でももっとも興味深いのは,やはり食品売り場である.
これで,一般家庭の「冷蔵庫のなか」が想像できる.
近しいひとへのお土産も,珍しくておいしいものはよろこばれる.
そういったものを見つけるのは,現地でしかできないから,風光明媚な名所旧跡よりも魅力がある.

地方都市のデパ地下は,以上の意味から楽しみな場所なのだが,残念なことがふえてきた.
「ご当地もの」の貧弱である.
外国人をふくめた観光客が,全国に広がっているといわれる昨今,またまたなにを勘違いしているのか政府に依存した「誘致合戦」という「予算ぶんどり合戦」がはげしいけれど,誘致した観光客を「がっかり」させるなら,逆効果になりかねない.

これをわたしは「嫌われる努力」と呼んでいる.
英語教育に絶望的な失敗をしているわが国では,外国人=言葉の壁というパブロフの犬がでてきて,うそみたいに腰が引けるのである.
ところが,そんな自分が外国に行って,現地のスーパーマーケットやデパートで買い物に苦労などほとんどしない.

つまり,「売る気があるのか?」という感情が湧いてくるのが日本の地方デパートなのである.
たとえば,味噌醤油.
この伝統的食材は,地方色が豊富で,味のバリエーションはすばらしい.
全国共通大メーカーの商品もあっていいが,地元色が皆無の売り場はいかがなものか?

さいきんは,わが家の近所のスパーだって地方のちゃんとした味噌醤油をおいている.
だからこそ,知らない銘柄を見つける価値がある.
なにも,デパートで観光地の売店にあるようなものを売れというのではない.
地元密着を期待しているのである.だから,地元のひとが買う商品でなければ価値がない.

むかし,札幌をはじめて訪問したとき,地元の住民になった家内の友人が案内をかってでてくれた.
それで,北海道のさまざまな物産を土産にしたいといったら,「デパートが一番」といわれた.
観光客に有名なところで,道民は買い物をしない,と.

いわれてみればもっともで,横浜に生まれ住んで半世紀,市内観光地の売店でなにかを買った記憶がない.
品質と価格のリーズナブルさは,なるほど地元民を相手にするデパートがもっとも信頼できるものだ.

それ以来,札幌に行ったらかならずデパートに行く.
ところが,さいきん,地方都市のデパートがつまらなくなっている.
「想定客とリスク」が狂うと,観光にもならない.
もったいないはなしである.

出国税

来年2019年1月7日から,千円の「出国税」が国籍をとわず徴収されることになった.
これをわたしは「出国税A」と呼ぶことにしている.
すでに「出国税B」があるから,順番が逆なのだが,なぜか2015年7月1日からはじまったこちらはマスコミも話題にしない.それで,あえてAとBの順番をかえて区別しただけである.

「出国税A」の税収は,どの省庁かは関係なく,観光客の「おもてなし」のためにつかわれる,という政府の宣伝によって,「観光業」では降ってくるお金に興味津々のむきもあろうが,何回だまされたらわかるのか?
マスコミでは,どんなタイプの「業」に恩恵(得)があって,どんなだとない(損)のかにかまびすしい.これまでなかった税なのだから,損も得もあったものではない.
乞食のような発想はいかがなものか?腹立たしいばかりである.

アメリカの独立戦争は,新大陸住民を無視して英本国による一方的な「紅茶への課税」が原因であったことは有名である.もちろん独立の気運があったことは確かだが,この一件が「トリガー」になった.
さほどに,「税の徴収」について英米人は敏感なものなのだが,日本人は鈍感である.せいぜい,「消費税反対」というキャッチフレーズが長年いわれつづけているだけだ.

「税」にかかわる人びとは,一般的に優秀である.
そもそも,あたらしい「税」を発案するひと.既存の「税」の制度をいじくるひと.そして,とかく頭脳戦になる「税」を徴収するひと.これらが,地方自治体をふくめて政府側にいる.
おおくの場合,これら政府の「岡っ引き」を引き受けているのが「税理士」で,クライアントの利益よりも税務署の意向を優先させるしかない.

これは、「士業」がからめとられている「試験」と「開業後」の「制度」が,政府によって仕切られているからで,けっして個々の「税理士」やその他の「士」の責任ではないから念のため.
それで,各士業は,管轄する役所に住所がある「有資格者」の名札を掲示して,所長の配下である「岡っ引き」であることを「明示」している.

法曹会のように,「(司法)試験」と「開業後(裁判官,検察官,弁護士)」が分かれているほうが健全な制度だが,他の「士業」では採用されていない.
つまり,(税務・会計士)試験があって,受かると,会計士,税理士,監査監督官,租税徴収官になるようなものだ.

しかし,根本的な問題は,税制の複雑さ,それゆえの「専門性」にある.
だから,だれでもわかりやすい税制が望ましいとしたのはハイエクであった.
たとえば,所得税は「(所得ではなく)『収入』の一律10%」というだけのシンプルさに統一すれば,上に書いた「税」にかかわる優秀な人びと全員が,「税」にかかわらなくてよくなる.かんたんにいえば「失業」するから,「転職」するしかない.これが,社会維持のコストを下げ,かつ,優秀な人びとが付加価値生産に関わるようになるから,社会の利益自体を上げることになる.

この指摘はもっともで,残念ながら,会計士も税理士も,職業上,社会の「付加価値生産」にかかわっていない.つまり,付加価値生産のための歯車でも潤滑油でもなく,本来は必要ないかもしれない生産システムの外にある「チェック制度」にすぎないのである.当然に役人もしかりである.
生産性をあげるには,シンプルな税制にせよ,と一言もいわないわが国「財界」は,とっくに痴呆化している.

戦後占領期に行われた「シャウプ勧告」は,まさに,従来日本の「複雑な税制」と「運用上の不公平」が指摘されたのだったが,これを「骨抜きにする努力」が,独立日本のとった選択だった.
裏返せば,アメリカ人は「シンプルな税制」と「公平」が,その価値観の根底にあることがわかる.
なるほど,それこそが独立戦争の精神というものだ.

国家の都合が官僚の都合に変換されて,国民はそれを押しいただく,という発想とは真逆なのだ.
ところが,ここにきて,フィンテックという進歩で,制度変更ではなく,技術によって制度が攻撃される事態が予想できるようになった.
決済を現金に依存しているのは,もはや「後進国」とみなされるようになったからである.

日本は「先進国のトップ」にいなければならない,と信仰している,国際ランキングではもはや世界から相手にされない国内最高難度の学校出身者たちが,みずから「エリート」であることのプライドをかけて,「電子決裁先進国になる」として民間への命令づくりがはじまった.

売上金の入金が電子化されれば,取引先の他社との決済も電子化しないと効率がわるいというが,自社の売り上げにならない他社取引とは,他社からみれば「売上」だから,お互い様のはなしである.「経費」は他社の売上にすぎない.
すなわち,銀行が要員削減に血まなこになっているように,企業も経理を中心とした事務職のおおくが,不要になる可能性があって,その最後の壁が「納税計算」になる.
ここでは,自社内の「経営会計」にはふれない.

各国税制が,プログラミングの手間として評価されるようになるはずだ.
そのことが,本社をどこにするかという問題を引き出して,投資活動のおおきな判断材料にもなるだろう.
ここでは,「税率」以上に,制度設計における「解釈」や「煩雑さ」がおおきな評価項目になるから,「シャウプ勧告」が生き返る.

いまなら妄想にすぎないが,トヨタ自動車の本社が,たとえばシンガポールになってもおかしくない.
「税」という国家による「搾取」が,企業活動の原資を奪うなら,株主利益を優先させると本社設置場所の選択も経営上の課題になるのは当然だからだ.

そうなると困るのは国家や地方自治体である.
それで,ひそかに「出国税B」が生まれている.
これは,正式には「国外転出時課税制度」といって,国外に転出する1億円以上の株式などを有する資産家などを対象に、その含み益に対して所得税を課税するものだ。

「資産家」が前面に出ているから「お金持ちの個人か」と,人びとの関心をうすめたが,「(株式)など」,「(資産家)など」の,「など」がポイントなのである.
「個人」だけでなく「法人」も対象にしてしまえば,どうなるか?
いまは「個人」が対象だが,しっかり国外転出までに「納税管理人」という「税理士」を選出すること、所轄税務署へ届出書の提出をすることが必須だから,ちゃんと「岡っ引き」に仕事を与えている.

さておそろしきは,「入国税」である.
「出国税B」を課税されて外国へ転居しておわりではない.人生ははかりしれない.
それで,帰国しよう,となったら「入国税」を開発するかもしれない.
それまで外国で稼いだ分に課税する,という構想だ.

外国で稼いだ分は外国で課税されるはずだから二重課税だといったところで,相続税はなくならない.所得税を負担して残ったお金で家を買って死んだら相続税がくる.
それで,相続税を廃止する国がでてきた.
毛色がちがう例では,スウェーデンの「イケア」創業家は,オランダに移住した.それで,金づるの金持ちが逃げ出さないようにスウェーデンは2004年に相続税を廃止したから,ここでも重税化の日本は逆をいく.

いま,資産家が海外移住すると,山田長政のように帰国したくても帰国できなくなるかもしれない.つまり,キャピタルフライトは面倒になっている.
だからそもそも出国するな,ということだ.

どんな時代にも政府は「奪う」ものである.
それにしても,とうとう,わが国は「鎖国」をはじめようとしている.

名勝千駄木旧安田邸

東京都指定名勝になっていて,いまは公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈されている.
関東大震災にも,また,近所も焼けた戦災でも焼けず,東日本大震災にも耐えたが,ことしの9月から来年の10月まで,耐震補強工事のために閉館がきまっていて,昨日8月4日だけ防空壕が公開されるというので訪問した.

ボランティアガイドの説明とパンフレットによるとこの家は,大正8年に豊島園の創始者藤田好三郎氏によってつくられ,大正12年に安田財閥の創始者安田善次郎氏の女婿善四郎氏が買い取り,子の楠雄氏が相続した.つまり,楠雄氏は善治郎の孫にあたる.平成7年に楠雄氏が亡くなって翌年,幸子夫人が寄贈をきめたとある.つまり,ついこの間のいまとおなじ「平成」時代はじめまで,実際に暮らしていた家である.

その保存状態は,大正時代の建築当時が「そのまま」になっていて良好だ.
すなわち,エアコンもウオシュレットも電気冷蔵庫もない.
つまり,この家での暮らしとは,およそ現代の生活ではなかったと想像できる.
主人の楠雄氏は,とくに文化財の保存に熱心だったのだろうか?おそらくそうではあるまい.
手を入れる必要を感じなかったのではないか?と想像する.

京都金閣寺に隣接した「長成庵」は,昭和11年の建物だから,旧安田邸のほうが古いが,贅沢さにおいては上をいく.しかし,軒のつくりなどはおなじであった.
ここも実際に住まいとしていた.旧安田邸とはちがって,居住空間における現代性・先進性におどろく.
メーカー直接発注のシステムキッチンは,オリジナル・デザインの統一もふくめてまさに「システム」を構成していた.
日本の大メーカーも,やればできる,のである.

「一日限定」の防空壕公開とあってか,たいへんな入館者で,玄関はごった返していた.
朝からひとが絶えない,とは受付での弁.入館料は500円である.
手荷物は預けることになっていて,かつての来客の付き人がやすむ玄関横の6畳間がクロークなのだが,やや混乱気味だった.

ボランティアのガイドがそれぞれについて,一通り案内と説明をしてくれる.その後は自由見学になる.
たまたま,ガイドの数がたりなくなって,洋間とサンルームをとばして先行するグループに合流せよとの指示で,別のガイドに飛ばした場所の説明をあらためて聞くことになった.

このブログで何度も指摘しているから自分でもしつこいとおもうが,ボランティアの心意気はすばらしいのだが,説明の品質が一定ではないという「難」がかならずある.
「いちばん詳しいガイドが,団体ツアーに同行していて今日はいないんです」という説明も,内部関係者以外には不要な情報である.
ガイドは有料にして「プロ」を要請すべし,と繰り返しておこう.

とはいえ,見学者側にも問題なしとはいえない.
「安田財閥」と聞いてもピンとこない母娘.それで,「金融系ですか?」と母が質問し,「そうですねたとえば『明治安田生命』に安田が残っています」とガイドがこたえたら,ふたりとも反応しなかった.「みずほ銀行」といえばよかったのに.

こうした邸宅がどんどんなくなっていく.
新しくつくられることがなくなったから,差引計算ではなくて単純に引き算だけでよい.
お金持ちがマンションに消えている.
それで,職人も材料もなくなっていく.

応接室の贅沢さはすばらしい.
日本の高級ホテル客室で,この部屋に対抗できるものは一部のクラッシックホテル以外ないだろう.
すると,世界都市東京には存在しないという意味になる.

だから「文化財」になる.
都内のホテルで,文化財にあたるものがあったとしても,レベルがちがう.
では,この家に匹敵する宿をつくろうとしよう.
かならず,「採算があわない」と経営者はいいだすだろう.

なぜ採算があわないのか?
一泊の設定料金が「安い」からである.
ところが,「安くしないとお客が来ない」とくだんの経営者はいい張るだろう.
想定客が「安田善四郎」でも,「安田楠雄」でもない,見学にやってきて「財閥」と聞いてもピンとこない「一般人」になっているという間違いに気がつかない.

それは,経営者自身が「一般人」の生活をして,「一般人」の価値観しか想像できないからである.
これを「貧乏くさい」という.
だから,お金持ちを平然とやっかむ.
これを「貧困なる精神」という.

安田善次郎とて,富山から江戸に奉公人としてやってきた一般人だった.
ジャパニーズ・ドリームが乏しくなったことこそが,社会の貧困である.
旧安田邸の庭先隣地は,「文京区保険サービスセンター本郷支所」という「近代建築」がある.
安田邸の玄関から退去しようとすれば,かならずこの建物のみすぼらしい姿が目に入る.

時代が経てば価値をますます高める家.
どうやっても,時代が経てば価値をますます低下させる公共の近代建築.
これが,建てた瞬間から価値がなくなる近代プレハブ一戸建て住宅の象徴でもある.

旧東欧ソ連衛星国の首都にはそれぞれ,スターリンから贈られた「文化科学宮殿」という超高層建築が伝統的様式美を否定してそびえ立っている.
社会主義時代をしる世代は,「爆破せよ」と主張し,若い世代は「べつにどうでもよい」とおもっている.壊すにもお金がかかるから,「社会主義」の観光名所として稼いでいる.

いろんなところにお金をつかいまくることができるうちに,このサービスセンターを隣地の文化財に見合ったセンスで建て替えることをしないのか?
あっ,しまった!
文化財に指定しているのは「都」で,みすぼらしくみっともない建物は「区」であった.

どうやら,この縦割りこそがみすぼらしくみっともないことの元凶であると確認した.
ならば,住民側からうったえるしかない.
公益財団法人日本ナショナルトラストが,区の建物を「爆破せよ」とはぜったいにいわないはずだし,それが高度成長期のお役所建築です,といって観光名所にもならない無価値である.

他人依存ではなにもできない.

ジオパークの貧困

なにも「ジオパーク」にかぎったことではないから,このテーマのおおきなタイトルは,「わが国観光地の貧困」でもいい.
しかし,「ジオパーク」にしたのは,より焦点がしぼられてわかりやすいとおもったからである.
それは,かねてからのわたしの主張である,観光業は「総合芸術的な産業」すなわち,「六次産業」である,という「定義」に遠いからである.

まずは「ジオパーク」の意味と意義.
意味は,日本ジオパークネットワークのHPによると,『「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」とを組み合わせた言葉で、「大地の公園」を意味し、地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができる場所をいいます。』とある.
意義は,『地球科学的に価値のある地質や地形を保護・保全し活用していくプログラムの実施』だと,目代邦康・笹岡美穂「地層のきほん」誠文堂新光社,2018年,にある.

もとは,「世界遺産」をやっているユネスコがすすめているもので,国内には「ユネスコ世界ジオパーク」が9カ所,「日本版ジオパーク」が34カ所ある.これに,候補がまだあるから,将来的には増えるだろう.
世界の「世界ジオパーク」は,35カ国に127カ所というから,日本以外には118カ所あることになる.

いわれてみればもっともなのだが,ふだん意識しないで生活しているから,地震大国の日本に住んでいても,「地球の構造」についてはあんがい知識がないものだ.
海洋のプレートが大陸のプレートの下にもぐり込んで,その摩擦ではねかえりが起きると地震になる,とはよく聞く説明である.

山の岩石が崩落したり,雨で川に流れ,それがやがて海に行くことも,だれでもしっている.
ところが,海の下では,もぐり込んだプレートがまた地球の内部にもどって,溶けてマグマになるということをすっかりわすれている.
あらためて,ダイナミックな造山活動や火山活動で,また別の地表にでてくるから,すごく長いレンジで「岩石」も対流して循環しているということを聞くと,感心するのである.

世界ジオパークがある国の数でいえば,一国の比率は3%弱であるが,わが国の世界ジオパーク数の比率は7%になるから倍以上の重みがある.
これは,地球という星で,日本列島という場所がかなり複雑な構造になっているので,珍しい地層が随所にみられるからだという.

東西には「糸魚川静岡構造線」で分断され,ここから分岐した「中央構造線」が紀伊半島から四国,九州を南北に分断している.これに太平洋とフィリピン海プレートが押し寄せているのは,小松左京のSF傑作「日本沈没」でも紹介された.


さいきんでは,千葉県市原市養老川に地磁気逆転の地層発見で,これを国際的な年代呼称として「チバニアン」とするかが話題になっている.
当該地層の露出面は私有地だったが,市原市が買収して国の天然記念物にするという話題もくわわっている.

こうしてみると,「地球の歴史」を目の当たりにするというダイナミックな「観光地」たりえるのがわかる.
ところが,おおくが「看板程度」の「放置」で,なんだかわからない観光客が押し寄せるが,これを「産業化」するという試みがない.
ヨーロッパの事例をみると,彼我の差に驚くから各自検索さるとよい.

つまり,ジオパークの意味と意義を組み合わせれば,「地球科学的に価値のある地質や地形を保護・保全し,地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができるように活用していくプログラムが実施される場所」と「目的を定義」すると,これを忠実に実行している国と,そうでない国とに分類できそうだ.
決め手は「プログラム」の有無である.

わが国では,「登録」には熱心なのだが,「その後」がない.
「世界認定」なのに,ほぼ日本語だけの説明看板をたてて,周囲に駐車場と休憩所を整備する.よくできて「博物館」を建設するが,展示の工夫があまい.これに,入札かなにかで売店営業がゆるされるが,とくにこれといったものがない.
簡単にいえば,わくわく感がないのである.

たとえば,世界遺産になっているポーランドのヴィエリチカ岩塩坑は,13世紀から現代も採掘がつづく,坑道総延長300kmの世界最大規模をほこる場所だ.
必須の各国語ガイドによる観光は,最低2時間.博物館を含めれば3時間以上を要する.
チケットはネットでも予約販売(大人2600円ほど)しており,現地での直接購入もできる.
直近の古都クラクフからのバスツアーなら,半日がかりになる.

なんと,坑内には子どもが合宿できる施設もあって,もちろん教室もある.
ここで,ちゃんとした体験と歴史や岩塩ができたしくみなどをしっかり学べるようになっていた.
そして,売店では塩グッズと石鹸ばかりがあるが,どれも「オリジナル」であるから触手が動く.
お支払いはキャッシュレスだ.
周辺の地上にも宿泊施設があるのは,より深い体験のためという.
これが「プログラム」である.

世界でも有数な「ジオパーク資源」があるのに,こういった「プログラム」をふつうに提供する場所が皆無なのが日本である.
明治政府がやったように,「お雇い外国人」に,観光地の開発企画を依頼したほうがいいのではないか?

「退屈な日本」とは,観光庁の外国人観光客アンケートの衝撃的な結果であった.
ならば,観光庁長官から手始めにお雇い外国人にすべきだろう.
これもできないのは,「目的の定義=理念」があいまいだからである.
だれのための「観光」なのか?

自社のありようとしての経営理念をわすれると,とんでもないことになる証左でもある.

旅行業法緩和はいかされているか

ことしの1月,改正旅行業法が施行された.
趣旨は,地域に限定した知識のみで取得可能な地域限定の旅行業務取扱管理者の資格制度の創設と,1名の旅行業務取扱管理者による複数営業所兼務の解禁,である.

これまでは,国内および海外旅行の手配業務ができた,「総合旅行業務取扱管理者」と,国内のみの,「国内旅行業務取扱管理者」の二種類の資格があったが,これに,「地域限定旅行業務取扱管理者」を新設して,資格取得の試験範囲も緩和して宿がある地域限定のツアーができるようになった.
さらに,兼務が可能になったから,観光地としてカバーできる.

「宿の旅行業務」は,国によっては高級ホテルでオリジナルツアーがあったり,宿泊客の要望に応じてホテルが直接旅行を手配したりと,柔軟な対応が可能なばあいがあるが,当然,わが国では「柔軟」ではなかった.
今回の「改正」は,その意味で外国をキャッチアップしたものともいえる.

だから,そういった国からの訪日客対応はもちろんのことである.
これらの人びとからすると,日本での旅行を日本に来てから宿で申し込むのが困難であったろうから,自然に,「不便」と評価されていたろう.

また,地方の観光地にある宿では,「ホタルツアー」や「星空ツアー」と称して,自前のバスをつかって当概地を案内する,ということが「法的に」できなかった.
こうしたことは,「旅行」になるからだ.じっさい,「ツアー」につかった送迎用の自家用バスで不幸にも事故が発生して,保険が適用されなかった例があると記憶している.「送迎」という状況ではなかった,と判断されたのだ.

だから,今回の改正でのつかい勝手緩和は,宿には朗報のはずである.
しかし,積極的に新制度を利用しようという宿を聞かない.
なぜだろうか?
第一に,人手不足があげられる.
第二に,面倒なのだろう.
第三は,収益増が具体的に見込めないから.

じつは,宿泊業は旅行業にタッチしない,という業界不文律がなんとなく生きているのではないかとうたがう.
これは,お客様目線での発想ではない,業界の習慣だった.

法改正の根拠に,観光庁観光産業課の資料では,
1.地域体験・交流型旅行商品に対するニーズの高まり。
2.ホテル・旅館等が自ら旅行商品を企画・販売したいとの要望。
と書いてある.
主語が具体的にだれなのかが気になる.

ところで,同時に通訳案内士法も改正されている.
こちらは、有償でサービス提供ができる唯一の資格だった「通訳案内士」の独占がなくなったことが一番の変化だ.
つまり,無資格者でも有償でサービス提供ができる,ということになった.

背景は,外国人観光客の増大というが,おそらく東京オリンピックのボランティアガイドを合法化するためではなかろうか?
じっさい,従来の資格試験が難しく,英語以外の言語の通訳不足が原因であるとの指摘もあるそうだ.ならば,「級」を設けるのかと思いきや,こちらはずいぶん思い切った印象である.

そんな難しい試験を突破した従来の資格保持者は怒らないのか?
日本は本音と建て前の二重社会であるが,この資格も有名無実化していた.
無資格者の営業を排除する取締が,ほとんどされず,「ヤミ」が横行していたからである.

しかし,今回の改正は,従来資格保持者にとって有利な展開になるかもしれない.
名称を引き継ぐ「全国通訳案内士」という呼称が唯一の独占になるが,「プロに依頼したい」ということになると,この呼称に行きつくことになるからだ.

「進んでいる」はずの海外事例をみるには,アマゾンプライム・ビデオ「ペテン観光都市」が紹介するさまざまな手口が参考になる.

日本は遅れていて安心安全.
しかし,これは言語の壁で相手をだますほどの語学力がないことが大きな原因ではないか?
国内の募集団体ツアーで行く観光なら,ちゃんとしたガイドの説明をきくことができるが,個人旅行だとどこにどうやって申し込めばいいのかもわからない.

観光庁がすすめている「通訳案内士登録情報検索サービス」は,閲覧対象者が事業者に定められていて,これには「個人」がない.
日本観光通訳協会のHPには,一般人がつかえる通訳ガイド検索システムがある.
これをみると,もっと,日本人のための観光ガイド,という案内があっていいとおもう.
良質な情報には報酬がともなう,のをよしとすべきだが,つかい勝手にかんする事前情報もほしい.

もしかしたら,宝のもちぐされをしているのかもしれない.

梅干しは効く

県外だが有名な温泉なので,経験しにいってみた.
山道の途中,何台もの自動車とすれ違って,おおくが他県ナンバーだったから,この温泉の帰りなのだと推測した.
しかし,時間はまだはやい.
「もう帰っちゃうのか?」と,いぶかしくおもった.

行ってみてわかった.
この温泉は,内湯と露天とがあるが,圧倒的に露天がおおきい.
湯温はぬるめで結構なのだが,まさに「露天」で,屋根がない.
すさまじい夏の太陽が照りつける温泉であった.

そして,なぜか内湯の湯温がたかく,こちらはそれなりに熱い.
だからか,はいっているひとはほとんどいないし,すぐに出ていく.
外にでても,日陰をもとめて落ち着かない.
さて,どうしたものか?

棚に,むかしながらの編んだ笠があった.
雨用なのだろかとも思うが,かぶって露天にふたたび挑戦した.
頭と顔周辺にはあきらかな効果があるが,肩から胸・背中は無防備で,ジリジリする.
湯より熱い太陽光を浴びて,とうとう我慢ができなくなってあがった.

休憩所では,「日陰がない」とか「夏は簡易な方法でも屋根をつけられないものか」という声がきこえた.
どちらも,女性の声であったから,どうやら女湯も平等におなじ構造らしい.
山の上の眺望がすばらしい温泉なのだが,ひとは眺望に五分で飽きる.
京都市中の有名旅館は,中庭をもつが外の眺望は望むべくもない.

二時間ほどしたら,体調に異変をかんじた.
宿周辺の街を散歩していたら,なんだかふらふらするし,暑いからでる汗ではない,じっとりとした汗がでてきて,力がはいらない
そのうち,気持ち悪くなった.
ちょうどこの街一番のデパートがあったので,迷わず入店した.

「ああ涼しい」
どこかにベンチはないか?と探すと,エスカレーター横に発見した.しばらく休んですこしよくなったので,店内を散策した.
地下の食品売り場に,「ほかでは買えません」と書いた紙の下に「練り梅」のパックだが口が工夫されていて,そのまま絞り出してもキャップがついている.「無添加」だが「塩分20%」と案内書きが添えてある.
減塩志向だから倦厭されるのだろか?
いまの自分にピッタリで,これはいい,と早速手に取り,ついでに「有機野菜」のきゅうりを購入した.

宿に戻って,きゅうりに練り梅をたっぷりつけて食べた.
「うまい!」
どちらもいけるが,練り梅がいい.
食べているうちから元気がでてきた.

梅の主成分といえばクエン酸である.
梅干しを作るには塩漬けにするが,梅の実だけで梅エキスがつくられる.
できあがりは,およそ1/10になるから,手間も含めて高価なのである.
梅干しも手間がかかる食品だが,夏にできるからよくしたものだ.

クエン酸と塩分が,急速に体調を整えてくれた.
これを体験できたから,あの温泉の「効用」とも言えなくはない.
人間万事塞翁が馬.
こういうこともある.

復活したので,ふたたびデパートへ.
ネットで本品がみつからないことも確認した.「ほかでは買えません」はウソではなさそうだ.
しっかりくだんの練り梅を追加購入した.

日本の「魚食」の危機と黒船

この国では体積の単位「リットル」が,国際ルールの「L」ではなく「ℓ」か「l」がつかわれているのが不思議だと先日書いた.
はたして,日本国憲法98条は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」とあるから,いかがなものか?と突っかかりたくなる.

しかし,たとえば1949年のジュネーブ4条約では,条約条文に国民への教育・普及義務が課せられているが,わが国では防衛省のHPに掲載あるのみである.
この一連の条約の3つめは「捕虜」に関するルールだから,「知らないまま」だと本人の命にかかわる.

HPに掲載していることをもって,教育・普及義務を果たしている,というのは強弁にならないか?
スイスの教育・普及の実態は,以前も書いたが邦訳されている.

このように,あんがい日本政府は国際的な取り決めを守っていない.
これが,「ブラック・ジャパン」のすがたなのだ.
これをマスコミも報道しないから,国民は蚊帳の外にいる.だから,われわれは,知らないうちにかごの鳥になっている.

「優しい政府」が守ってやるから,「余計なことは,国民に知らせる必要はない」という時代錯誤のパターナリズムが,「ブラック・ジャパン」をつくっている.
「わたしたちは平和国家で,なにも悪いことはしていません」と,メフィスト・フェレスは叫ぶ.
そして,日本人は政府から保護される「羊の群れ」に落ちぶれて,目が覚めない.

いよいよ開催まで2年を切った東京オリンピックだが,この大イベントにも引き継がれているルールがある.それが「持続可能」というキーワードに象徴される「食」にまつわるかんがえ方である.
東京オリンピック組織委員会は,国際基準から「実質離脱」した内容の「食糧調達基準」を発表した。

とくに顕著なのが,水産物資源の漁業分野,つまりは「魚」である.
ずいぶん前から指摘されていて,このブログでも書いたが,略奪的な漁業からぜんぜん卒業できていないわが国は,とっくに水産資源の「持続『不』可能」な状況におちいっているのだ.

喫煙状況を「オリンピックで来日する外国人に恥ずかしくない」ようにと,禁煙が叫ばれていながら,島国の海洋国家である日本が,漁業では掠奪国家だと自白せざるをえなくなってしまった.
おなじ島国の英国は,ロンドンオリンピックで100%の達成をやりとげている.

その英国はEUからの離脱をはかり,日本は「持続性」から離脱する.
英国は国民の意志として離脱をきめた.
日本の離脱は,国民の意志なのだろうか?政府依存で,とんでもないことになったのではないか?

日本以外の「先進国」では,消費者をして「持続可能」が強く支持されているから,乱獲はもはやありえず,科学的な管理漁業が常識として推進されている.
わが国の消費者が,「いいものを安く」と要求するのとは一線も二線もことなる.これはもはや70年代の価値観であろう.

ところが,よくよくかんがえると,「持続可能」ということの背景には,「子孫への確実な継続」という思想があるのだ.
いま,この時代を生きるものだけがいい思いをして,それを子孫に引き継ぐことができなくても別にいいではないか,という刹那主義ではない.

わたしたちがふつうに食べている食料を,末永く未来にも引き継ぎたい.
未来のひとたちにも,ふつうに食べることができるようにしておきたい.
そのために,今できることを確実に実行しておく.
これは,「保守主義」の真髄思想である.

「保守主義」とは,駅伝競走のように,過去から現代がバトンを預かり,預かった現代人がそれを磨いてよりよいものにして未来に引き渡す,これを,永遠に繰り返すことを信条とする.
ただ,かたくなに「保守」するだけなら,それは「伝統主義」として区別しなければならない.
「伝統工芸品」が,その時代ごとにアバンギャルドであったからいまに生き残り,さらに現代生活にマッチングさせようと努力する姿も「保守主義」を追求しているのだ.

北欧からはじまった漁業先進国は,漁業における「オリンピック方式」という,早い者勝ちの漁獲方法をやめて,「個別割当方式」を苦労して採用した.
苦労したのは,北欧だって,だれもが割当をおおく欲しがったからである.
済んでみれば,漁業者も納得の方式におちついた.自分の割当量が決まっているから,無理して漁にでなくてよいし,漁船のシェアまでできるから生産性まで向上した.それで,漁業が成長産業になったのである.

最初の取り組みは,水産資源をしらべる機関を政府から独立させて,なお,研究成果を第三者が監視できるようにしたことだったという.そして,この費用を消費者が負担している.
なるほど,日本の研究機構は水産庁の予算に完全依存しているから,政府の好む数字をつくる機関になった.
科学が政府に依存するとでてくる,ルイセンコ化という悪夢である.

このまま放置すれば,いまの少年少女たちが中年になるころには,国内で獲れた魚を口にできなくなっているかもしれない.
すでに,サンマが,イワシが,そしてサバがあやしくなっているし,居酒屋で定番だったホッケ焼きをみなくなった.

もう忘却のかなたになったのが,ニシンだろう.
なかにし礼の傑作,「石狩挽歌」は1975年.
この唄の光景だけでなく,唄自体が風化の危機にある.若いひとにはわかるまい.

獲れるだけ獲る.その野蛮さがダイナミックな曲とマッチした.
そして,無計画の無残をなにもかんがえずくり返した結果の荒涼と脱力.
いま,地元は観光資源「ニシン御殿」の保存に汲汲としていることだろう.
観光地としての掠奪もくわわって,みごとな「挽歌」ができた.

この「挽歌」は全国の漁村に響き渡って,日本の漁業は典型的な衰退産業になっている.
おなじ地球で,かくも真逆な現象があらわれた.
絶好調の北欧諸国は,日本漁業を反面教師にしたと公言してはばからない.
「日本すごいだろ!」と外国人に自慢するのはやめた方がいい.

東京オリンピックにおける「日本の食」が,どのように外国から糾弾されるのか?
この「糾弾」こそが,黒船である.

黒船なくして改革なし.
日本人とは,かくも自己改革ができない民族である.
しかし,このさい黒船に依存するしかない.
さもなくば,ほんとうに将来,日本人は日本の魚を食べることが不可能になる.

少子化で人口減少の国は,とうとう,子孫への引き継ぎという思想まで減少させてしまった.
「そのうちなんとかなるだう♪」
絶望的な無責任を,先進国からの批難というお叱りでただしてもらいたい.

はっか油

あんまり暑いので,なにか「涼しい」入浴剤はないかとさがしていたら,「はっか油」をみつけた.
それは、日用品の棚にひっそりとあった.
北海道の北見を訪問したとき,ご当地名産品でいろいろ買い込んだのを思いだした.
残念ながら,「思いだした」くらいだから,普段づかいしていなかった.

棚の横に,はがきのような紙がぶらさがっていて,一枚取ると,それはハッカ油の使い方案内だった.
「これはいい!」
ということで,購入をきめた.この手の「情報」が,決め手になる瞬間である.

さっそく,湯船に数滴たらして入浴した.
「涼しい!」
湯温は設定温度の最低,38度である.
さいきんは銭湯にも「無感湯」というコーナーがあって,これが36度から38度に調整されている.さいしょ,なんだ水かとおもうが,じっくり入っていると,湯からあがってもかなりの時間汗が引かない.

この猛暑で,プールの水温が36度になって,子どもがのぼせるため使用中止を決めた学校があいつぐというニュースがあった.
わかるわかる.
体温との温度差がないから,「無感」になるが,熱はしっかり入っているのだ.からだが小さい子どもには,かなりの影響をあたえるはずだ.

高齢者の熱中症が多発するのは,自分が「無感」になってしまうからだ.
気温の高さを感じない.しかし,しっかり「熱」は体内に入っているから,不調に気がついたときには手遅れというケースが問題になっている.
だから,やたら高温の湯が銭湯にある.このくらい熱くないと,入った気がしないというのは,高齢者なら「無感」の危険な兆候である.子どもが熱くてはいれないのは,プールのニュースとおなじである.

そこでか,さいきんは「ぬる湯」が人気である.
自宅だと電子書籍リーダーをジプロックにいれて,お風呂で読書をたのしんでいる.
はっか油を数滴たらしただけで,鼻腔が壮快な香りで満たされて頭がすっきりするから,読書にさらによい.

公衆の浴場で,この手の物品の持ち込みが「禁止」されているのは,衛生などさまざまな意見があるようだが,「持ち込み自由」としてそれを「売り」にしている施設もある.
個人的には,「ぬる湯」なら「読書」をセットに「寝湯」でくつろぎたい.
防水機能のある電子書籍リーダーが欲しいが買わないのは,まだまだ「禁止」の施設がおおいからだ.「書見台着き」の湯船がある施設があれば,通うかもしれないのだが.

もらった案内のとおりハッカスプレーをつくろうと,無水エタノールと精製水も購入したが,あんがい大変なのは「スプレーボトル」を探すことだった.
エタノールとペットボトルは反応してしまうから,材質の確認に手間取った.
つかえるのは,「ポリエチレン(PE)」,「ポリプロピレン(PP)」,「ポリ塩化ビニル(PVC)」である.

100均では,おおくが「ポリエチレンテレフタレート(PET)」なのでつかえない.容器が反応で破損するか,プラスチックが液体に溶け出してしまうからだ.それで,「アルコール使用不可」という表示もされている商品があるのは丁寧だ.
ならば,「アルコール使用可能」という表示があればわかりやすが,これがない.それで,「PE」,「PP」,「PVC」の表示を老眼で確認するから根気がいるのだ.

ようやくみつけたが,それなりのお値段で売っていた.
いそがないなら,アルコール除菌スプレーなどを使い切って,その容器を再利用すれば間違いない.ただし,夏がおわらないうちに使い切れるか?
この手のアルコール入りスプレー商品は,容器代がばかにならないのだとわかったから,使い捨てるのはもったいない.

これでようやく,ハッカスプレーをつくってつかえるようになった.
アルコール1,精製水9の割合で,水をくわえる前のアルコールにはっか油を垂らすとよくなじむ.
さて,何滴垂らすとよいのか?10滴,15滴,20滴.
これこそが,自作のたのしみである.だが,何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」.

はっか油は虫除け効果もあるから,網戸にスプレーしてもよし,かゆみ止めにもなるから,虫刺されにもスプレーできる.
ドライブの車中,足下や室内にスプレーすれば,もちろん頭すっきりである.
原液は一本20ミリリットル(mL)で700円ほど.いったい何リットル(L)のスプレーがつくれるのか?

これは,ことしの楽しい収穫であった.

蛇足だが,体積の単位「リットル」の記号を学校では,「ℓ」(エルの小文字)とならった.
国際ルールは「L」(エルの大文字)になっている.
なんと,わが国は,リットルの記号もガラパゴス化している.

豪華は質素・簡素・貧弱の反対語

困ったことに,「質素を旨とする」といわれると,「清廉」なイメージからこの国では「道徳的によいこと」に変換される.
江戸幕府の政策はいまにいきていて,「倹約令」が背景にあるとかんがえられるが,そのまたルーツをたどると,平安時代の「服制」にいくから,「冠位十二階」がおおもとになるのだろうか.
現代の「叙位」における「位」にのこっている.

明治以降は,資源も資本もない国が,列強の餌食にならないように「富国強兵」をスローガンとするが,それはけっして「富国」でも「強兵」でもなかったからである.
先に「強兵」は達成したが,それを支える意味でも,とにかくずっと「富国」にはなれなかった.
ワシントン軍縮会議が,それを悲痛に物語っている.
だから,「欲しがりません,勝つまでは」といった「倹約」が,政治的にも美徳とされた.

もちろん,外国人にもつうじるもっとも有名なものは「茶道」の「わびさび」文化だから,秀吉の黄金の茶室という「例外」が,質素を豪華に転換させたすくない例である.
だから,この国では,上も下も「豪華」とは逆のものが大好きなのだ.
それでか,絢爛豪華な桃山文化が,なぜか日本文化史の上で浮いた感じになるのだ.

2016年に来日した,サウジアラビアのムハンマド副皇太子が皇居にて天皇陛下と会見した写真が,アラブ世界で「衝撃的」だと話題をよんでいた.
それは,会見の場となった皇居新宮殿の部屋が,あまりにも「質素」で「簡素」だったからである.

あちらの方面では,絢爛豪華な金ピカこそが富と権力の象徴なのだから,この「衝撃」はたしかに理解できる.
これを,究極の「ミニマリズム」だと評するのもわかるが,日本人の目にはこの部屋の「豪華さ」がわかるから,はなしは複雑だ.

白木の材木に,超絶的なカンナをかければ塗装はいらない.
ニスを塗るのが常識のひとたちには,説明しても理解がむずかしい.
だから,日本のそうした技術と選び抜かれた材料の贅沢さは,日本料理とにている.
日本人は,美の世界にも質素と簡素をもとめるのだ.

日本が国家として「威信をかけた」はずの,皇居新宮殿建設は,設計者の吉村順三が途中辞任している.「国家予算」という制約と,「建築家」と「発注者(宮内庁)」との関係整理ができない官僚的な性質とがまざっている.
国立競技場の再建にあたって,イラク人建築家のザハ氏ともめたのも,半世紀前の吉村のパターンとおなじではないかと建築史家の五十嵐太郎氏が指摘している.

とまれ,皇居新宮殿は,外国製をつかわない国産の材料と技術に芸術を駆使した,当時としては最高の建築だった.きっと,いまでもそうだろう.
1968年(昭和43年)落成.当初予算90億円,最終総額130億円だった.
これを民間でやったのが,昭和45年に完成した帝国ホテル本館であった.
やはり建設費用の増大で,二年連続赤字となったものの,その気概は立派なものだ.

昭和の成長期,田中角栄が「今太閤」といわれたように,それは「昭和元禄」とも自称して,桃山時代もおりまぜてのむき出しの金ピカこそが富と権力の時代だった.
有名温泉ホテルの自慢が「黄金風呂」だったのもなつかしい.
そして、金ピカの頂点がバブル期だった.

ところが,頂点のバブル期でさえも,日本人は世界のひとが思い描く「絢爛豪華」を味わってはいない.せいぜい,味もわからぬままに一晩で「ドンペリ」や「ロマネ・コンティ」を抜いた本数を争ったりした程度であった.
外資系とは比べるべくもない貧弱なボーナスと,ベンチャー投資がなかったからである.つまり,古い体質のままの頂点だった.

バブルが崩壊して,外国から「ハゲタカ」がやってくると,彼らは不良資産を買いあさりながら,それを事業化し成功させた.
その売却益の莫大さに,日本人はおどろいてやっかんだ.
こうした成功の報酬を,外資はきっちり社員に還元するから,向こう三代の孫までが一生カリブ海の島で遊んで暮らせるボーナスを得たひとは少なからずいる.

日本のバブル崩壊と鉄のカーテンの崩壊は,ほぼ同時期である.
それで,日本人は世界の動きを見失った.
国内のてんやわんやに東西冷戦の終結の意味がわからなかった.たぶんにいまもわかっていない.
そして,1992年(平成4年)に,中国は「社会主義市場経済」を表明した.

日本の不景気はここから続くから,「絢爛豪華」をじつはだれもしらない.
92年は,地球環境サミットもあった.ここから「エコロジー」がくわわる.
これに,企業の経費削減と政府の公共事業削減が「倹約令」になって,「もったいない」が時代の標語になった.

かんたんにいえば,「貧弱」すなわち貧乏くさくなるのだ.
平等が大好きなひとは「格差」を強調するが,「おもてなしの国」で海外最高評価のホテルは,東京のパレスホテル以外に国内資本のホテルはなくなった.
ホテル経営者も,国際的水準での「絢爛豪華」をしらないからだ.

島のリゾートコテージに家族で一ヶ月滞在すると,日本円で1億円という施設は,世界中にちらばって存在している.
ここの「絢爛豪華」さとは,どんなものか?
建物だけではないのは当然だ.

「コスパ」を気にするひとをターゲット顧客にしていないことだけは確かである.
それに,数量×単価というかんがえが確立している.
わが国は,官民挙げて「数量」だけを追求し,「単価」をないがしろにする.
「貧乏暇なし」の原因がここにある.