アメリカ民主党は「禁止」されるか

戦後、西ドイツでは、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者)党は、禁止されて、東西ドイツ統一後のいまでも有効であるし、当局による取締がおこなわれている。
その理由が、人類社会に厄災をもたらしたことにあるのは、日本人だっておおくのひとがしっている。

それに、イタリアのムッソリーニが率いる「ファシスト党」をくわえて、「日・独・伊・三国同盟」を結んだことの「痛さ」とは、わが国の歴史の痛恨をいう。
なお、ムッソリーニは、あんまりの「極左」だったから、イタリア共産党から「除名」されて、ファシスト党(超極左)を設立した経緯がある。

昭和14年(1939年)、平沼騏一郎内閣は、「独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という談話を発表して総辞職に至る。

「日本外交の国際認識の欠如」のもっとも顕著な例として、いまでも語り継がれている。
しかし、この翌年の9月27日、ベルリンと東京で三国間条約が調印された。当時は、帝国議会での批准を要しない。

「日本外交の国際認識の欠如」というフレーズは、いつ(戦前・戦後)でも、何回でも使える、驚くほど便利ないいまわしである。

つまり、日本(人・国)は、「外交音痴」ということなのだ。

国が外交音痴なのは、職業外交官に依存しているからである。
職業外交官とは、外務省の外交官試験合格者たちをいう。
わが国には、職業軍人がいない建前があるから、外交官の頭脳には「軍事」も必要なのだけど、戦前・戦中の軍人依存があったから、戦後の日本外交官に「軍事」が抜けているし、興味もないから研修もさわり程度で済ますのだ。

戦争とは外交の延長にある。

これが、戦争を繰り返してきた欧州の常識で、クラウゼヴィッツの『戦争論』(ナポレオンの国民軍についての研究)は、いまだって必読の書に変わりはないし、マキャベリの『君主論』も彼の地域のひとたちには同様である。

  

大使館に派遣される、「武官」がいる、とはいえ、本国における自衛隊制服組が、首相官邸の敷居を跨ぐのにどのくらいの時間を要したか?
つい最近まで、制服組トップは官邸に入ることすら許されなかったのだ。

これを、以前、「新・平安時代」だと内輪に書いたことがあった。
藤原氏一族が支配した時代、貴族たちは、血に穢れた「侍」たちを忌み嫌ったから、「大将」やら「少将」の肩書きは一族に与えても、本物の武官たる「侍」には、下級の地位しか与えなかった。

これが、東の平将門、西の藤原純友の乱となる。

現代の「侍」で「穢れ」の対象になっている、自衛隊が乱を起こすのではないか?
「起こせ!」と叫んで、失笑がかえってきたのが三島由紀夫事件だった。
その話の延長に、『皇帝のいない8月』(1978年)があった。
はたして、「荒唐無稽」と切り捨てられるものか?

 

名画と名高く、バーグマンの美女ぶりが印象に残る、『カサブランカ』(1942年)の背景にある、「緊張」は、ナチスの傀儡といわれたフランス・ヴィシー政府が支配するモロッコにおける人間ドラマで、登場人物たちの背景もえらく複雑だけど、「アメリカ参戦」と重なる観客の背景も計算されているのだ。それで、アカデミー賞3部門を受賞した。

そこであらためて、「連合国」をかんがえてみると、基軸は英・ソ・米(ずっと「中立」といっていた)ということで、本当は、「英・ソ」の連合なのである。
戦後「鉄のカーテン」ができて、あたかも「冷戦勃発」となるけれど、どうして「ソ連」と連合したのか?

こうやってみると、がぜん「チャーチルがあやしい」のだ。
英国保守党の「黒歴史」が、チラチラする。
大英帝国の、既存ルールを無視して、都合がいい新規ルールをつくる行動原理と習性がみえてくるのだ。

「赤い帝国」となった、ソ連や中共が、大英帝国のやり方を学んだということがよくわかるというものだ。

「人類に厄災」といえば、わが国に原爆を2発も落したばかりか、通常兵器にあたるという焼夷弾(粘性のある油が主)だって、民間人を焼き殺すための兵器だ。

水をかけても消えないし、顔など皮膚についたら、どんなに拭っても取れないで焼けるだけだ。
木と紙で作った家に住む日本人を殺戮したのは、アメリカ民主党政権であった。

昭和20年5月24日の空襲で、慶應の小泉信三塾長、翌日の「山手大空襲」では、ギリシャ哲学の田中美知太郎博士が大やけどを負って、ご両人とも顔が崩れるケロイドの後遺症が残ってしまった。

ならば、どうしてアメリカ民主党は禁止されないのか?

いまやっている「トランプ弾劾裁判」は、アメリカ民主党禁止のための「わざと」かもしれないと勘ぐりたくなる。

その意味でいえば、「言論戦」や「思想戦」が起きているのである。

わが国には、なんでもいえる「言論の自由」を金科玉条のごとくにいうひとがいるけれど、「ナチス禁止」には反対しない。
それにくわえて、たいがいが「反米」だけど、その対象は、共和党なのであって民主党ではない不思議がある。

それは、国内にあって、共産党を禁止しないことにあらわれる。

かつての社会主義圏だった東欧諸国はもとより、共産党を禁止している国は多数ある。
むしろ、共産国でないのに「共産党」が議席を持つ国は、日本とフランス「だけ」なのだということもしっていていい。

酋長のJBが活躍する

いまやネット界は、「伏せ字」が流行している。
あたりまえだけど、誰だって直接的ないい方をしたいのに、それができないから工夫する。
「検閲」があからさまにおこなわれているからである。

わが国の歴史で、あからさまに検閲がおこなわれていたのは、先の戦争中のことである。
昭和13年の「国家総動員法」から、関連法が整備された。
一本の法律だけで国民を締め上げることはしない、ということは、いまでもおなじ政府のテクニックである。

このときは「軍:このばあいは陸軍」が、検閲をしたけれど、検閲をされる側(たとえば新聞社)は、社内に検閲担当者をおいて、陸軍の検閲による印刷差し止めを回避した。
やり方は、陸軍の検閲官より内部検閲を厳しくしたのである。

しかし、こうした内部検閲をはじめる前は、軍の検閲官に印刷を差し止められたりして、経営上困ったことになった。
物資欠乏のなか、貴重なインクと新聞紙がムダになって、おどろくほどの経費がかさむからである。

検閲が初期の頃、印刷の植字を急いで抜いたのが、「伏せ字」になって、すき間が白く空いたので、なくなった文字数をかぞえては、文字を埋めるパズル替わりにして楽しんだという。
それから、社内検閲がはじまると、原稿そのものを「差替え」するから、読者は「伏せ字」を見る機会がなくなった。

「コンプライアンス」の重要性が、いつの間にか強化されて、社内での専門部署が当時の社内検閲のごとく、機械的にしか動かないとどうなるか?は、容易に察しがつく。
その「弊害」も、ほんらいは経営者の経営力の結果だけど、圧倒的多数の残念な経営者は、当該部署の責任者に詰め腹を切らせるから始末が悪いのである。

もちろん、コンプラの不祥事を報じる側もおなじだから、「検閲担当者」の方法を聴き出す話が、あたかも本人たちの意志で実行したように印象づけるのである。
「担当者」は、「社命」によってやっていただけなのに。
だから、ちゃんと「責任者」にも取材しないといけないのだ。

これを、「愚直」にやったのが、ハンナ・アーレントの歴史に残る仕事『 エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』だった。
それで、この作品を書き上げた彼女を映画にして、あんがいと、全共闘世代に受けたのが、映画『ハンナ・アーレント』(2012年)だ。

映画の作中に登場する、アイヒマンは、本物の裁判映像からの「出演」をさせる工夫がされているのも話題になった。
組織の中での、中間管理職としての「陳腐さ」が発見された。
これは、人類共通の発見だった。

 

そんなわけで、いま実施されている巨大テック企業たちによる「検閲」も、実行責任者の「陳腐さ」が予想されるのである。

しかしながら、伏せ字や読みかえなどの工夫が、それなりに普及すると、それ自体が「用語」に変化する。
これを、「AI」による検索と競争する、ということが現実になったのである。

それで、いま大統領「らしきひと」を、「JB」と表記することがあたらしい習慣になったし、大統領のことを「大酋長」と読み替えるのだ。

1952年の『人生模様』(20世紀FOX)という映画は、あの「オー・ヘンリー」の短編集から、名作を5本選んで、これを当時の有名監督たちが一編ずつを担当した、アンソロジーになっている。

1.「警官と賛美歌」:ヘンリー・コスター監督
2.「クラリオン・コール新聞」:ヘンリー・ハサウェイ監督
3.「最後の一葉」:ジーン・ネグレスコ監督
4.「赤い酋長の身代金」:ハワード・ホークス監督
5.「賢者の贈り物」:ヘンリー・キング監督

「警官と賛美歌」には、マリリン・モンローが街娼でチョイ役だけど、味のある演技をみせている。
この映画は彼女の人気が、直前の『ノックは無用』で盛り上がってからだから、端役なのにクレジット・タイトルは大きい文字表記になっている。

オー・ヘンリー(本名はウィリアム・シドニー・ポーター)は、1910年(明治43年)に47歳の若さで没しているので、作品は、日本の明治時代にあたるアメリカを舞台にしている。
だから、この映画は、作家の死後40年以上経ってからの「時代劇」でもある。

さてそれで、4番目のエピソード、「赤い酋長の身代金」は、なんだか後の『ホーム・アローン』(1990年~2012年)シリーズを彷彿とさせる。

妙にひとがよく上品な二人組の犯人が、土地持ちの金持ちの子どもを誘拐して身代金を稼ごうという魂胆だけど、捕らえた子どもが「ハンパない悪ガキ」だった。
彼の名前が、「JB」で、犯人のおとな相手に、「酋長」ごっこを要求するのだ。

不可思議な「縁」があるのは、『ホーム・アローン2』(1992年)に、当時既にテレビのトーク番組で人気を得ていた、トランプ氏が「チョイ役」で出演している。
もちろん、その後に大統領になるとは誰も想像しなかっただろう。

このシーンは、ニューヨークのプラザホテルでロケをした。
トランプ氏は当時のオーナーで、自分の出演と引き換えに撮影を許可したというエピソードもある。
それが、カナダのテレビの映画放送で、この場面をふくめていくつかを「カットした」ことが話題になった。

そして、今年、全米俳優組合に加入していたトランプ氏除名の動きに先手をとって、「こんな組合なら辞めてやる」と手紙を書いて脱退したのも、ニュースになった。

日米のメディアは、反トランプ一色なので、「おとしめる」ことしかしないという、別の「筋書き」もある。
これに、フリーの記者たちも売文のために日和るから、「クラリオン・コール新聞」も、一歩まちがうと、にも読めるのだ。

オー・ヘンリーが想像もしないドラマが現実になっている。

「昔の日本人」とは?

むかしはこうだった。
年寄りがよくいうセリフである。

かんがえてみればあたりまえで、齢を重ねれば誰だって記憶の厚みが増すものだ。
「齢(よわい)」とは、記憶の重なりをいうのである。
だから、人生経験がたかだか10年とか20年では、「むかし」といってもたいしたことはない。

ご本人には気の毒だけど、1992年のバルセロナ・オリンピックの水泳でいきなり金メダルを獲得した、岩崎恭子氏(当時14歳)が、「今まで生きてきた中で一番幸せです」といって失笑を買ったのは、その人生の「薄さ」であって、だれも「若さ」を笑ったのではなかった。

しかしながら、今年43歳になる本人が、おなじセリフをいったなら、もうだれも失笑なんてしない。
それよりも、アスリートのアスリートたる時間の短さとその頂点の瞬間に、ひとびとの想いが重なるであろう。

ここには、人生の「時間」の意味がしみじみとにじみ出るのである。
そして、「時間」とは、あんがい残酷なものだと。
万人に容赦なく平等に流れる時間は、いっさいの妥協なく一方通行で戻ることは決してない。

若い時分に、時間は残酷だといっても、その意味を理解はできない。
むしろ、ありあまる時間をもてあそぶのがふつうなのだ。
この感覚が、若者文化をつくりだす。
いまの年寄りも若い頃がそうだったように、である。

それで、たまにやってくる「戦争」が、若者にありあまる時間の感覚が間違いであることを教えた。
そうかんがえれば、オリンピックが4年に1度なのも、オリンピックをめざす若者には、時間の感覚を正しく教えるにちがいない。

だとすれば、上述の若き岩崎恭子氏の発言は、オリンピックへの出場準備からの「管理された時間」をおもえば、本人なりの率直な言葉になるのは理解できるし、「平和の祭典」の意味もわかるというものだ。

小学校でも当時の学童日本記録をだしている。
すると、中学1年で100m・200m平泳ぎで「2冠」を達成してから、彼女はおそらく「強化選手」になって、管理の対象になったのではないか?
だとしたら、同級生たちが時間をもてあそぶときに、それどころか時間に追われる毎日だったと思われるのだ。

以上が、すでにひと世代30年ほど前の「昔」の日本の一コマである。
さてはもっと前ならどうなのか?
わたし自身の人生を通過させて、その前をみるのなら、いまや「日本人の記録」となっている古い映画のなかでも「名作」のセリフを参考にしてみようかとおもう。

監督 小津安二郎『長屋紳士録』 昭和22年(1947年)4月完成の松竹映画。
未亡人役の飯田蝶子が語るラストシーンだ。

「考えてみりゃあたしたちの気持ちだってずいぶん昔とはちがってるよ。
自分一人さえ良いきゃいいじゃすまないよ。
早い話が電車に乗るんだって人を押しのけたりさ、人さまはどうでもてめえだけは腹いっぱい食おうって了見だろ。
いじいじして、のんびりしてないのはあたしたちだったよ。」

いまでも相づちをうつところだ。
すると、74年前のひとのセリフといまが一致する。

一体全体、日本人が日本人らしかったのは、いつのことだったのだろうか?
このセリフからみえるのは、「戦中」かその前の「戦前」だ。
当該の場面で、相づちをうちながら聞き入っている登場人物は、目の前の長屋に住まう役の小沢栄太郎と、同居人役の笠智衆のふたりである。

作品中の設定年齢は不詳だけれど、生年が飯田蝶子は1897年(明治30年)で50歳、小沢栄太郎は1909年(明治42年)で38歳、笠智衆は1904年(明治37年)43歳たちのかけ合いだ。

全員が明治生まれだから、やっぱり近代日本人は、明治の頃を原点にして、それ以前を「昔」として感じていたのだろう。
だとすると、夏目漱石の頃の人間模様が、がぜん興味深い。

そこで、『坊ちゃん』を詳細に時代考証した研究成果を発見した。
『「坊ちゃん」に見る明治の中学校あれこれ-国民的名作を教育史から読み直す-』藤原重彦、2019年、である。
版元が「ウニスガ印刷」となっているけど、電子出版されてから紙の本となったものだ。

「中学(5年制)」というところがミソなのだ。
本文に説明があるけれど、当時中学校に進学できたのはおよそ1%。
義務教育の「尋常小学校」は、いまの4年生まで。
その上の2年制の「高等小学校」でさえ、なかなかいける時代ではない。

飯田は高等女学校(中学校に相当)へ入学するも、すぐさま中退した。
小沢は中学校で胸を病み、笠は東洋大学印度哲学科を中退している。
つまり、このひとたちは、当時の「エリート」だったのだ。

演じた庶民は、そのほとんどが小学校の10歳、あるいは高等小学校(いまの小学校)の12歳で社会に出ていた。
だから、「昔は」というときのおおくは、小学校を出てからの社会をいったのだ。

どうやら、学校教育だけで教育されていたのではないことは確かなのである。

「、のようなもの」の建国記念の日

「建国記念の日」とは、国家にとって一番重要な日である。
近代国家なら、次が「憲法記念日」だ。

あんまり知られていないことに、わが国の「憲法」は、国会で認証されていないという秘密がある。

1946年(昭和21年)11月3日(明治天皇の誕生日:「明治節」でもある)に、日本国憲法は「公布」された。
これによって、「帝国議会」が「国会」となり、国会に「衆議院」と「参議院」が定められた。

それで、1947年(昭和22年)5月20日に、日本国憲法に基づいて第一回国会が招集され、現在の第204国会へと続いてきた。
これは、日本国憲法が帝国議会で制定はされたけど、その新憲法が新しく定めた今の国会での承認を、「されないまま」であることを意味する。

ただの「手続き論」ではないかというひともいるやもしれないけれど、民主主義とは「手続き」を重視する主義なのであるから、嘘みたいに重要なことが放置されている国になっているのだ。
つまりは、「、のようなもの」としての「憲法」と「国会」があるということだ。

言葉を整理すれば、「憲法、のようなもの」が、「国会、のようなもの」を定めて、そこが国権の最高機関とされている、ということになる。

絶対多数を誇る与党が、憲法議論を内輪でして、国会でしないままにしているけれど、聞こえてくる議論に、「国会での憲法の承認」がないのも、わが国自体が「、のようなもの」であるからだといえる。
つまりは、「国、のようなもの」ということだ。

日本国という、「実態」があるのはあるが、「実体」がない。

だから、全部がぜんぶ、「、のようなもの」になってしまうのは、国の根幹が「、のようなもの」だから当然だ。
「軍、のようなもの」が「自衛隊」だし、「議員内閣、のようなもの」も、高級役人が仕切っている。
そうしたら、とうとう「病気、のようなもの」が流行りだして、「自粛、のようなもの」で「強制」している。

「政治家、のようなもの」が、「決断、のようなもの」をして、地方の「知事、のようもの」が、「藩主」となって、国へ「要請、のようなもの」の「命令」をしたら、「緊急事態宣言、のようなもの」が発令された。

だからといって、生活のなにが変わるかといえば、「飲食店、のようなもの」だけ、営業時間を短縮させられ、時間外にも営業していようものなら、警察官が「営業許可証を見せろ」と、「嫌がらせ、のようなもの」を堅気の経営者にしている。

そうして権力行使に飽きてきたら、今度は「知事、のようなもの」が、勝手に「解除宣言、のようなもの」をいい出した。
「国、のようなもの」は、47もある都道府県に、いちいち対応できなくなって、「中央集権、のようなもの」が崩壊しだした。

平成21年(2009年)の雑誌『Voice』9月号の「特別寄稿」は、民主党代表(当時;記事直後の総選挙で首相になる)の「私の政治哲学」が、いま、そのまま「実現」しているのである。

この記事を読めば、鳩山氏がよく(受験)勉強されたのはわかるけど、およそ理系(東大計数工学科卒)とは思えない、思考の「飛躍」による「支離滅裂」に改めて愕然とする。

その「愕然」には、この記事の原稿をもとに、ニューヨークタイムズ紙が同年8月6日の電子版に「New Path for Japan」という見出しで英語翻訳掲載
し物議を醸した、ことも含まれる。

すなわち、いまのアメリカ民主党の支離滅裂の原因、のひとつにこの論文があるかもしれないとおもうのだ。

先週4日に、有名な(左派系)週刊誌、『Time』 に掲載された、「The secret history of shadow campaign that saved the election 2020.」という記事の、民主党擁護(「選挙不正は正義」だから許されるという主張)の「支離滅裂」に通じているからである。

鳩山由紀夫氏にとって政治家としての「師」は、吉田茂と岸信介の間にあって、どっちつかずのような「鳩」といわれたひとだけれど、祖父、鳩山一郎であるというのは自然だし、「ヨーロッパ統合の祖」クーデンホフ・カレルギー(日本名;栄次郎:母が日本人)への傾倒は、納得できるものである。

カレルギーの『汎ヨーロッパ』(1922年)の翻訳者は、鳩山一郎に相違ない。
なお、版元が鹿島出版会だけでなく、翻訳者に鹿島建設中興の祖、婿養子の鹿島守之助がいるのも、ゼネコンらしい思想背景とつながるから興味深い。

その後カレルギーは、『全体主義国家対人間』(1935年)もだして、ソ連とナチに激しい批判を展開した。
彼は、資本主義が深刻な社会不平等を生み出すことを憂いたまではいいが、その解決に、「博愛=友愛(鳩山は「友愛」をとる)」という「道徳」に解決方法を求めてしまった。

おなじオーストリア人にして、真性自由主義者のハイエクと、ここではっきり分岐する。
ハイエクは、「閉じた社会(道徳が通じる)」と「開かれた社会(自由競争)」とを「別物」と分けることで、別個のルールをもとにした冷徹なる批判と解決の方向論をすすめたし、ヨーロッパ統合に懐疑的で、むしろ全体主義化に警告を発していたのであった。

なお、友愛は「fraternity:フラタニティ:ラテン語で「兄弟」」という
意味になって、キリスト教をはじめとする各種慈善団体によく用いられることでしられる。

わが国の元は反社会主義「友愛会(1912年結成のやはりキリスト教の影響があった)」が徐々に社会主義に傾倒し、後の日本労働総同盟となって、1940年に産業報国会に吸収された経緯がある。

鳩山由紀夫氏の地元、北海道にも「友愛思想」は根強く普及している。

「閉じた社会」=「ローカルで伝統的な社会」だから、このことをあらかじめ承知なら問題ないけど、グローバルに通じるのだと勘違いしてはいけない。

言葉が共通でも、細かいところで「違う」のは、地域ごとに伝統もちがうからである。
それで、無理やり一緒にしようとするから、よかれが、「全体主義」に転じるのである。

わが国も、アメリカも、「建国」についてかんがえるときがやってきたのだ。

「森発言」の混乱

日本に「森さん」はたくさんいる。
だから、どちらの森さんですか?と確認することと、なにをお話になったのですか?と内容も確認しないといけない。

いま「国際的騒動」になっているのは、森喜朗元首相で、現職の東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長のご発言である。
では、なにをお話になったのかといえば、以下がその「全文」である。

「これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。
 女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。
 私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです」。

で、「女性蔑視」だということになって、国内はJOC会長から、経団連会長も一斉に「おなじことを非難」しているようだけど、本当なのか?文科省に日和っているだけではないか?
さらに、なんでかボランティアが500人辞退したとか、芸能人の聖火ランナー候補も辞退を表明したのは、早とちりではないのか?

特徴的なのが、日本メディアから外国に伝わって、彼の偏向報道で有名な「ニューヨーク・タイムズ紙」も大々的報道をしたというから、なんだか仕掛けが「わかりやすい」のである。
もちろん、アメリカ合衆国の与党民主党は、党をあげて「けしからん」と青筋立てているはずで、きっとIOCにも圧力をかけるだろう。

とはいえ、森氏の発言を「切り取って」しまうのは、「いつもの手口」でフェアじゃない。

発言内容は、委員などの要職に欠員があると、文科省(大臣ではなく役人)がしゃしゃり出てきて、能力はどうでもいいからとにかく女性理事を増やして4割程度の構成比にしろ、と押し付けることを皮肉った話にしか聞こえない。

それに、森氏の意見じゃなくて、誰かのいい分を代弁している。
現職国会議員時代から、この森さんは他人のいい分「しか」いわないことで、地元石川県でも有名だったお人好しの「代議士」なのである。

あゝなるほど、そういえば、経団連だったかどこだったか、女性管理職の比率とか、取締役の構成比で女性を「優遇せよ」といっていた、「経済団体」があったっけ。
会員企業がぜんぜん従わないのを、憤慨したひともいたけれど、そんな数あわせの基準で重職に選ばれる女性に失礼だろう。

本来の「フェミニスト」なら、「森さんよくいった」ということなのではないのか?
ぜひ、上野千鶴子さんに聞いてみたい。
横浜市民なら、森より一本木が少ない、女性市長の林さんの民間企業での経歴のことだと想像するのだ。

次に、「森ゆうこ」というひともいる。

このひとは、国会で元官僚だった原某というひとの「悪事」をでっち上げて、ついでに本人の住所を公に曝してしまった。
もちろん、原某氏は、すぐさま事実無根の名誉毀損で訴えたけど、なんと、国会での議論にはこれを妨げる法がないから、国会外のことで裁判にでるしかなかった。

つまるところ、国会議員たるもの、一般市民を個人攻撃するような言動を国会議論でするはずがない、というきわめて常識的な想定が、おどろくほどかんたんに破られたのである。
しかも、このひとは、国会内外において、一度も自分の言動の不始末に謝罪も反省も述べていない。

おなじ「森さん」のことだけど、言葉の「重み」と、とるべき「責任」がぜんぜんちがう。
このような人物が、国会議員であることが、日本の恥、世界の恥なのである。

まさか、この森さんを真似っこしているのが、アメリカ連邦下院議長のペロシさんか?
いや、そんなわけないだろう、けど、似たもの同士はいるものだ。

そして、この春資本金を減資して中小企業になる「毎日新聞」も、でっち上げの同罪だとつけくわえておこう。
この新聞社は、この森さんからの情報の裏もとらずに、「一面囲み」で連日掲載するという「売文」をしたのだった。

さらにもうひとりの「森さん」は、「森まさこ法務大臣(当時)」だ。

彼女は、苦学してアメリカにも留学した弁護士で、地元は福島県のいわき市である。
自民党が野党だったときの、東日本大震災における原発事故について、国会質問で、泣きながらときの民主党政権に噛みついた「正義の人」だった。
その迫力と論理は、久しぶりに見応えのあるものだった。

しかして、満を持しての初入閣に、「法務大臣」というのは適任ではなく重すぎたのか。

「検察人事」にたいする混迷は、痛々しいものだったし、米国からは「親中」の警告までくらってしまった。
もしや、「女性枠」で入閣しちゃった、というわけではあるまい。
その辺り、森元首相はOBとしてどうみていたものか?

文部省だけでない、全省庁あげて「ディープ・ステート」になったのを、「官僚国家」という日本語をつかうのである。
これをほんのちょっと暴いたひとをおとしめて、舌舐めずりするひとたちの「邪悪さ」ほど、見るに堪えない。

もう、テレビや新聞は目にしない方がいい。
癌をかかえて奮迅する森老人を、いたわる「人」は誰もいないのか?

そのくせ、「オリンピック利権」には集まるのだから、隣の大陸を指したはずの、「昆虫化」をわが国もしているのだ。
甘い物に本能的にむらがる行動しかできなくなった、日本人が「自壊している」のである。

洋犬と和犬は同じ犬ではない

外国からやってきた犬を、「洋犬」といい、わが国古来の犬を、「和犬」という。

洋犬はさまざまな犬種が認定されているけど、元は「猟犬」が多い。
これらを、「軍用犬」や「警察犬」、はたまた「盲導犬」などの役務犬にするべく改良してきた歴史があるのはご存じのとおりだ。

一方で、和犬は基本的にすべて、「猟犬」として人間と共存してきた。
なかには、土佐犬や秋田犬のように「闘犬」に仕立てた犬種もいるけど、元は猟犬で、その他もやっぱり猟犬である。
もっとも小型の和犬、「柴犬」のDNAを調べたら、世界の犬でもっともオオカミに近い「原始的な犬」であることが確認された。

そんなわけで、プロには柴犬の飼育は困難でしられ、およそ「愛玩犬」にもっとも遠い犬種ではあるけれど、なぜか日本では普及度が高いので、あんがいとふつうの家に、しかも室内犬として飼われている。
ただし、人間の生活側から見た「問題行動」が多いので、双方の不幸が懸念される犬種でもある。

一般に、和犬よりも洋犬の方がずっと「飼いやすい」と評価されている。
このことは、躾しやすい、という意味でもある。
犬と人間とについては、何度も書いたけど、そもそもが、信頼関係と主従関係が重要なのは、洋犬であろうが和犬であろうがおなじだ。

しかし、人間生活における変化で、「愛玩犬」という使役犬の需要が、猟犬や番犬の需要より高くなってきた。
つまり、人間の仕事を補助する、という役目から、人間の心を癒やす、という役目に、人間の要求が変わったのである。

本来、犬側にとっては、こんな人間の一方的な要求の変化はお構いなしのはずだけど、犬という動物を万年単位で支配してきた人間だから、強制的なる遺伝操作によって、人間に従順な個体だけを選んで繁殖させることを繰り返す「努力」をした。

もちろん、この努力は続いているけど、その成果がいま各家庭にいる「飼い犬=愛玩犬」となっていることは間違いなく、さらに、そのほとんどが「洋犬」なのである。

しかし、そうはいっても、ロボットではない生体だから、飼い慣らせない飼い主がたくさんいて、いったん噛みつきや吠えの癖をつけたら、「癒やし」どころかストレスの毎日がやってくる。
人間にとっての「破壊行動」もおなじだ。

それで、世にいう「ドッグ・トレーナー」という職業人に、頼る、という飼い主が絶えないばかりか増えている。
ドッグ・トレーナーというプロに聞けば、やっぱり「柴犬」を敬遠するのは、成果がでにくいので手間の割に料金を請求できないからだともいう。

すると、それ以外の犬種は?といえば、洋犬なら「楽」というこたえがある。
また、一方で和犬なら「柴犬」ばかりが話題になるのは、その他の和犬、たとえば甲斐犬とか紀州犬とかを「室内愛玩犬」として、さすがに飼おうというひとがいないからである。

以上の話は、別の角度からみると、洋犬と和犬のちがいのようでいて、じつは「人間のちがい」をあらわしている。
それは、どちらも「猟犬」というタイプの使役犬ではあるのに、「猟のやり方」がちがうからなのだ。

ヨーロッパ諸国が原種の洋犬が仕込まれた猟とは、基本的に猟師が仕留めた獲物をくわえて持ち帰る、あるいは、猟師の指令で獲物を追いつめる、という仕事を担当する。
「回収する」という意味の英語「retrieve」から、「レトリバー」という名の犬を作ったのが典型例だ。

一方で、日本独自種の和犬をつかった猟のやり方は、山に犬を放って、犬が勝手に駆け巡りながら獲物を見つけ、これを猟師のいる方向へと追いこんだり、獲物を足止めさせるために噛みついて、吠えることで場所を知らせる仕事を担当する。
つまり、犬が猟師にとどめを「刺させる」のだ。

こうしてみればわかるとおり、洋犬は徹底的に人間の命令に従うようになっているし、和犬は見方によっては、人間が犬に使われているともいえる。

最近の洋犬は、首輪にGPSをつけて猟をするけど、これにスピーカーもつけて、猟師が鳴らすと戻らせるコマンドにもなっている。
これが、「できない」のが和犬なのだ。せいぜいGPSをつけて、犬がどこにいるかを知ることしかできない。

和犬がどうやって猟師の位置を把握しているのかいえば、最初に猟師がここにいる、と示すからだが、わからなくなってしまうこともある。
それで、猟師は自分から山に入って探さずに、指定した場所に通えば多くは遭遇できるけど、そうはいかないと野犬になる。

洋犬の従順さはDNAに仕込まれていて、和犬の自由さもDNAに仕込まれている。
だから、和犬を洋犬のように扱うことはできない相談なのだ。
これが、愛玩使役の「飼育困難」の理由である。

洋犬は、「飼い主が快適」な躾を教えることが第一だけど、和犬は、双方の「信頼関係を結ぶこと」が躾よりも重要な第一で、それからやっと躾という順になるのである。
このひと手間が、スキルのない飼い主には困難をきわめる。

なんだか、上司と部下のよくある関係のようだ。
あんがいと、優秀なタイプに「和犬型」が多いのだけど、スキルがない上司には取扱ができないで、いまは「洋犬型」をかわいがる傾向がある。

わが国が成長していた時代、全員が和犬型で、これから出世するには一皮むけて猟師にならないといけなかった。
それは、部下に上手に「使われる」ということであった。

なんでも命令型は、やっぱり効率が悪いのである。

キリンHDの社会的責任

企業活動を制約するかんがえ方に、「企業の社会的責任論」というものがある。
企業からすると、「社会的責任を負うこと(負わされる:被害意識として)」としてとらえられるものだ。
これには、いわゆる「企業悪玉論」という背景もある。

その「企業悪玉論」を生んだのは、高度成長さなかの「公害」や「食品」、「薬害」など、予防コストを惜しんだ、「利益優先主義」が社会からの猛烈な批判を浴びたからであった。

さらにその後に追い打ちをかけて、決定的となったのが、石油ショック時の、石油元売り各社による「価格カルテル」の摘発があったし、物価上昇局面と物不足からの、「総合商社」による「買い占め」問題への批判だった。

ただし、冷静に思い起こせば、「トイレットペーパー・パニック」のように、消費者の側も、けっして「冷静」とはいえなかった。
これは、「うわさ」が「デマ」に変換されて、なぜか、石油不足 ⇒ 紙不足 ⇒ トイレットペーパーがなくなる という順での「買い占め行動」を誘発し、それが爆発的拡大をした。

ついぞ半年前のティッシュペーパーや紙マスクの不足だって、これとあんまりかわらない事情からの「買い占め行動」となったし、東日本大震災のときのコンビニがカラになったのもおなじだ。

つまり、企業を批判しながら、自分たちは「防御行動」だと自分にいいきかせながら、しっかりと買い占め行動をすることに、矛盾はないと発想しているのである。
それに、買い占めの対象になるのが、たいがいは「単価の安い物品」という特徴もあって、なんだか貧乏くさいのである。

これは、重要な事実だ。

興味深い例に、大統領選挙をめぐる暴動など、混乱が予想されたニューヨークのスパー・マーケット店内が、買い占め行動によって「カラ」になった、というわが国マスコミの「現地レポート」に、ニューヨーク在住の日本人が、「クリスマス前」とか、「週末のいつもの光景」だと曝露したものがある。

あたかも、日本人の買い占め行動の常識と、アメリカ人とくにニューヨーカーも、「おなじ」だというレポートは、これを信じる日本人を端からバカにしているか、アメリカ人もバカにしているものだった。
けれども、現地日本人の曝露をしらないで、「アメリカ人もおなじ」だと思い込んだひとも多かろう。

これが、「グローバリズム」を推進する、「グローバリスト」たちの所業なのである。
「人類」はおなじ価値観だ、という決めつけは、恐ろしいほどに「薄っぺら」な発想だ。
左・右を問わない、全体主義者は、「人類は皆兄弟」というスローガンを、美しい理想だと信じているものだ。

そんなわけで、薄っぺらなひとたちの薄っぺらな発想で、企業組織も汚染され、企業の意思決定も薄っぺらとなる。
まさに、「企業はひとなり」。
すべての企業は、人間が所属する組織でできているからである。

だから、企業を眺めるときに、その規模や有名度とかで勝手に判断してはいけないのだ。
個々人の集合体が企業をなすので、薄っぺらな発想が組織を支配しているなら、どんなに高学歴の個人も、けっして逆らえない力学がかならず作用する。

ニュースになっているキリンホールディングスとは、ようは「キリンビール」だ。
すなわち、わが国を代表する「財閥」、三菱グループの主要企業でもある。
三菱鉛筆以外の「三菱」は、ぜんぶ三菱グループの企業群である。

当該企業が、どんな情報分析のもとにミャンマーにおける「軍系との提携解消」を判断し、それでどうしたいのか?がわからない。
現状、報道だけしかないのが大不満だ。
以下の「推測」は間違っている可能性もあるのでご承知おきを願いたい。

この企業の判断とは、クーデターを起こした軍との関係を断ち切る、ということだ。
すると、クーデターを起こしたことが、民主主義には「悪」だから、このままでは企業の社会的責任が果たせない、ということだろう。

すると、この企業組織を構成するひとたちを代表するトップは、「軍と民主主義」についての判断をしたも同然ということになって、拘束された民主派を企業として支援するという、きわめて政治的な判断と行動だということになる。

今回のミャンマー(元は「ビルマ」)での出来事は、ミャンマーという多民族国家の複雑さと、これにかかわる歴史の複雑さいうマグマの爆発でもあると前に触れた
英米を中心にする、「民主派」への大支援の背景に、彼らのアジア支配という歴史がからむし、わが国のかつての「占領」だってからむのだ。

スー・チー氏の父、アウンサン将軍(建国の「父」ともいう:日本名は面田 紋次(おもた もんじ))が、最後に敗色濃厚な日本を裏切ったのだという事実が意味するのは、その判断の前までは、日本と「べったり」だったということである。
はてさて、当時のビルマが独立したのは、どこからか?

1943年(昭和18年)のことで、当然だが大英帝国からの独立である。
これは、2年前のマレー半島上陸作戦からによる。
『怪傑ハリマオ』の時代なのだ。
そして、彼は、実在の人物だ。

  

ビルマ独立義勇軍(いまのビルマ国軍:ミャンマー軍)を組織したのも、日本であったけど、現地人の創設者は、アウンサンであった。
独立後のバー・モウ政権下、彼は国防相になって、ビルマ国民軍に改組したのである。

さてそれで、キリンの判断の意味とは?
薄っぺらな、「コンプライアンス」としての「いい子になりたい」でなければよいのだけれども。

訓練された「市民」がいない

平和な時代に平和に暮らしていると、市民としての訓練をどこにも受ける機会がない。
家庭内、そして学校生活から、社会に出ても、誰も訓練してくれないのだ。
それは、意識的に訓練を受けたひとが皆無なので、訓練教官をやるひとも、できるひとも、やろうというひともいない。

この点、しっかりしているのは社会主義者のみなさんで、こちらは訓練を受けて、立派な「プロ市民」へと成長する。
意識的に訓練をするひとと、意識的に訓練を受けるひとがいる。
それが、「一生」にわたるので、いつかはちゃんと「次世代」も訓練して絶やさない努力がはらわれている。

ただし、一世を風靡した70年安保の炎も、全共闘世代というひとたちが高齢化して、ちょっと前の「アベガー」とか、リュックに「安倍政治を許さない」と書いたステッカーをつけて静かにあるいていたけれど、安倍退陣で、影をひそめてしまったのが残念だ。

このひとたちの子どもや孫たちは、はたして引き継いでいるのかと心配になる。
恥を恥とも思わずに、行動する勇気には敬服するのだ。
こうしたひとたちすらいなくなるのは、とてもよくない危険なことである。

わたしは、全共闘世代の下で、ビートルズにも間に合わなかった、哀しき「ウルトラマン世代」である。
なので、連日生中継された、浅間山荘事件の異常に、おののいた方である。
学習塾でさえも、授業中にラジオの中継をつけていた。

中学も3年生になったら、ベイ・シティ・ローラーズが流行ったけれど、こんどは自分がすこしおとなになっていて、同級生たちも盛り上がってはおらず、もっぱら1年生が興奮していた。
あんがいと、世代間のちがいを認識した最初だったのだ。

そんなわけで、会社員になって驚いたのが、『ウルトラマン研究序説』(1991年)だった。
わざと「序説」で終了すると書いているのも潔かった。
ウルトラマンと敵対する怪獣(宇宙生物)たちの生物学的研究、それに科特隊(科学特捜隊)のモチベーションなど組織研究や正義についての哲学。

サブタイトルには、「若手学者25人がまじめ分析」とある。
もう30年も前の「若手」のことである。
いまならきっと、中堅も超えて「大御所」になっているにちがいない。

何回か書いたけど、学者というのは万国共通で、勉強エリートのひとたちがなる「職業」である。
各国で、入試や卒業についての基準はことなるけれども、学部学生から大学院に進学して、そのまま研究室にはいる「ふつう」がある。

だから、一般的な学者は、職業(ビジネス)人としての経験がない。
それにわが国の場合、高級官僚の「無謬性」を担保するための用意だてとして、官費で「博士号」をとらせる習慣が役所にある。
明治の頃のやり方を、令和になってもやっている。

これが、各大学に官僚出身の教員が採用される素地でもある。
もちろん、大学経営側の思惑は、文科省をふくめた役所とのパイプづくりという下心もあってのことだ。

つまり、突きつめると、学生のため、ではない。
あるとすれば、優秀と見越した学生を、自分の出身母体である役所に採用させることだろうけど、ほんとうに本人はそれでいいのか?
もちろん、公務員試験に受からないと、その先はないけど。

興味深いのは、日本の国家公務員は、最初に入省した「本省」に忠実となる訓練は受けるけど、国家に忠実となるような訓練は受けない。
役人人生には、「転勤」がつきものだけど、霞ヶ関のビル間を、「出向」といって転勤することだってある。

「◯◯省」から「✕✕省」や、「△△委員会」へ出向するのだ。
最強の出向先は、「内閣法制局」で、参事官以上の幹部ポストなら連続5年以上を勤めると、退官後「弁護士資格」が与えられることになっている。
司法試験を受けないで日本の弁護士になるのは、大学の法学教授をやる道と二通りしかない。

なお、外務省には、最高裁判事(国際法)になる道があって、たいがいが「条約局長」経験者から選ばれることになっている。
だから、事務次官からアメリカ大使になるばかりが出世ではない。

こうしたことをよくよくみれば、官界の世間離れが尋常ではないことだけがわかるのだ。
つまり、彼らは彼らとして、市民としての訓練をその職業人生で受けることはない、という事実である。

すると、学者と官界がダメとなれば、政界もあやしくなる。

なにしろ、投票する国民も、市民としての訓練を受けることがないからだ。
あえていえば、「他人に迷惑をかけてはいけない」という、あたりさわりのないことに落ち着いて、リスクを避けることだけが行動基準になってしまった。

それで、コンプライアンスといういい方で、「法令遵守」(「順守」とも書く)を最重要事項にしたから、意思表明もできなくなった。

わが国の当代最強ともいわれる、元検事にして弁護士、郷原信郎氏のいまとなってはやや古い事例だが、本質的な議論を堪能できる一冊である。

これを読んで思うのは、法哲学と経済哲学、経済哲学と社会哲学という個々ではなくて、「面」として総合的にかんがえる訓練をされていない、という実感なのである。
これこそが、現代社会を生きる市民としての訓練のカリキュラムではないのか、と。

社会を壊したらまっ先に自分が

「自業自得」のことを最近では「ブーメラン」というようになった。
けれども、ブーメランだとやや「タイムラグ」があるから、同時進行のなかで、まっ先に自分に影響が及ぶなら、やっぱりただの「自業自得」だ。

「マスコミ」あるいは、「メディア」の中心に、新聞があった。
ラジオやテレビがなかった時代から、ある、からである。
それだけでなく、音声を聞けるのとちがって、新聞は情報の受け手が「字」を読めないといけない。

つまり、その社会において、「識字率」が高くないと、じつは成立しない商売でもある。
だから、いまだに新聞を発行する会社は、自社をメディアの中心、あるいは「頂点」だと自負しているはずである。

困ったことに、わが国は、江戸時代から教育熱心で、ふつうのひとが字を読めた。
これは、あんがい農村でもいえて、少なくとも自分の名前は書けもした。
「読む」と「書く」は、意味がちがうことに注意したい。

読めるから、自動的に書けるにならないのだ。
もちろん、武士が読み書きする文書や、「漢籍」をスラスラと一般人が読めずとも、仮名交じりならなんとかなった。
これが、世界的に驚愕される「貸本屋」が成立した原因である。

それで、書く方は、「代書屋」という稼業があったのである。
これがいまでは、「行政書士」、「司法書士」と看板をかえただけだから、現代のわれわれも「自由自在」に書けることになっていない。
うっかりすると損失を被るのは、江戸時代だっておなじだったのだ。

それでもとりあえず、仮名を習えば、なんとかなった。
秀吉の直筆は、ほとんど仮名で書いてある。
産業構造が大変化した明治期になって、小学校制度ができたけど、よかったことは国家予算が足りないから、地方では地元の負担になったことだ。

それで、地元の篤志家たちが資金を提供して校舎を建てた。
場合によっては、教師も雇ったから、私塾にちかい。
貧困になやむ長野県が「教育県」といわれたのは、篤志家がたくさんいて、地元の将来を子どもに期待したからである。
それで、いま「文化財」になっている、いまではあり得ない立派な校舎が残っている。

外国はもっと大変で、ヨーロッパ語族は「文字の名前」と「発音」が一致しないため、話せても別に訓練しないと読み書きができない。
アラブに至っては、文語と口語のちがいがいまも残るので、新聞や雑誌を「読める」だけでも教養人である。
日本にあてはめれば、大和言葉で新聞や雑誌が記述されていると思えばよい。

戦後の占領期、日本人の路上の靴磨が客待ちの時間に新聞を読んでいるのを見て、米兵たちが驚愕したというエピソードは真実である。
「文字を読める教養人」が、なぜに路上で靴磨きをしているのか?理解に苦しんだというのは、彼らの故郷の常識にあわなかったからである。

そんなことをかんがえると、イギリスにある新聞が、「高級紙」と「大衆紙」とに分類できることの意味もわかる。
元は「小さなサイズ」を意味した「タブロイド」が、ゴシップ記事を一面にだす新聞の紙面の大きさ規格であったため、「タブロイド判」といえば「大衆紙」という意味に条件付けられて、これがアメリカにも日本にも伝来したのだ。
最近では、タブロイド判だからといっても、ゴシップを扱わない「携行しやすい」新聞もある。

本来は、「社会の木鐸」を旨としたのがジャーナリズムのあるべき姿ではあるけれど、安易な啓蒙主義で政府批判をもって「社会の木鐸」を任じていたら、これがもっと安易に自己目的化した。
それで、何が何でも「政府が悪い」をやることに、イデオロギーが加わった。
採用されたのが、自由主義でも資本主義でもなくて、これらに反対の側にある社会主義となった。

マルクスのいう、資本主義から社会主義に歴史の必然として「移行する」のが正しいとしたのなら、本来の社会主義者は徹底的に資本主義を押し進めればよいものを、なぜか資本主義を攻撃して、既存社会を破壊することを目的にする「革命ごっこ」に自己陶酔した。

マルクスは資本主義の内部矛盾にこそ、社会主義への歴史の必然を見たのにだ。

なにを焦っているのか、このようなひとたちが、とうとう自分たちの都合でニュースを報道するようになった。
都合によるから、ニュースではなく一方の立場からの宣伝になったのだ。
そして、望み通り、資本主義社会の崩壊がはじまったら、なんと、購読者たちの財力が衰えて、まずは「夕刊」を契約しなくなり、ついには購読をやめるに至った。

都合よく社会を見る目しかなくなったから、四半世紀も経ってのいまさら、インターネットの普及が原因だと噴飯物の勘違いをしている。

ここにきて急速に解約が進んでいるのは、経済力だけでなく、「購入に値しない」という、商品としての価値を失ったからだ。
アメリカでは、CNNが経営危機に陥った。
大統領選挙における一方的な放送が、視聴者の反発を買って、選挙前の44%にまで視聴率がなくなった。

身売りの話が出始めたけど、もしやCNNをトランプ氏がM&Aするかもしれない。
ならば、こんどは真逆の放送局となるのか?

トランプ氏の信仰と正直は、「まっとうな」放送局にするだけで、ビジネスとしての復活をさせるだろう。

しかして、このことが、業界の脅威になるかもしれない。

夢追い人にロマンはない

「ロマン(ROMAN)」とはフランス語で意味は、感情的、理想的に物事をとらえることをいう。
これから、「ロマンス(ROMANCE)」に派生して、男女のこともいうようになった。

近しかったらさぞやうっとうしいだろうベートーベンが書いたえらく甘美な曲、『ロマンス』(1番、2番)は、ロマン派音楽の小品だが傑作の部類にはいるだろう。
ベートーベンは、明らかに「恋」に飢えていたはずで、聞くものをすべて「ロマンチック」にさせるのは、魅力なのか魔術なのか。

「ロマンス」の元は、ラテン語で「ロマンス語で書かれた物語」をいう。
なお、いまでもロマンス語群から「ロマンシュ語」を公用語にしている国に、スイスがある。

ちなみに、欧文フォントとして不可欠な「ヘルベチカ(Helvetica)」は、ふたりのスイス人が作成した(1957年)もので、スイスの公式国名のラテン語表記、「Helvetia(ヘルヴェティア共和国から)」に由来していて、意味は「スイスの」である。

日本人はなんだか、「スイス」と聞いただけで、ロマンを感じてしまうのは、「刷りこみ」ができているからだ。
スイスがヨーロッパ最貧国ともいわれた時代、周辺各国に傭兵として雇われる以外に、まともな産業がなかったのである。

いまスイスは傭兵を禁止しているけれど、バチカンの「衛兵」は、スイス人の「傭兵」が、歴史的にも「例外」としていまだに務めている。
プロテスタントのなかでも、激烈な「カルヴァン派」を生んだスイスにあって、カソリックの総本山で働くことは、どんな気持だったのか?

いや、「傭兵」だから、やっぱりおカネ目当てだったろう。
だとすると、雇い続けたバチカン側は、いったいどんな了見だったのか?
もしや、「契約に忠実」という評価がすべて、だったのかもしれない。
詳しい方に、是非ともご教授いただきたいものだ。

なお、マックス・ヴェーバーの有名な『プロ倫』がいう、資本主義の精神は、プロテスタントではなくて、むしろ、「イエズス会」にあるのだという説があるのは承知している。

わたしの勝手な解釈になるかもしれないけど、雇い主に忠実でないと、「傭兵」という商売は成り立たない。
群雄割拠したヨーロッパでの「スイス傭兵」は、有名だったがゆえに、戦場ではスイス人ばかりが死闘したという話もある。

スイスアルプスの谷は日本アルプスの比ではない険しさなので、谷向こうの「隣村」と、人的交流はほとんどなかったのが、かえって感情移入せずにすんだのも、このビジネスがスイスで成立した要因だったとおもえるのである。

しかも、これが、国としての、「主たる産業」だった。

そんな歴史をふまえて、「永世中立」のスイスは、ヨーロッパの嫌われ者になっている。
スイス傭兵を雇った側は、決してスイス人を尊敬しなかったからである。
しかも、豊かさを増していく過程での、スイス人の徹底した合理的思考に、周辺各国はぜんぜん「ロマン」を感じていなかったのである。

とくに、南のイタリア側は、イタリア内では豊かな「北イタリア」になっていて、もともと貧困の南イタリアとはぜんぜんちがう「国」だったけど、独特の「あけっぴろげ」さという、人生の意味を深刻にかんがえない風情にあふれている。

だから、スイス人とイタリア人は、仲がいいわけがなく、それは、スイス国内のイタリア語圏が「浮いている」ことでもわかる。
よくもこんな違和感ばかりで、おなじ国を維持しているものだし、なぜかイタリア編入も求めないのだ。

つまり、ここにも「ロマン」はない。

あるのは、民衆の「見識」なのである。
これが、スイスであろうがイタリアであろうが、「国柄」をつくっている。

「国柄」に「お」をつけると、「お国柄」となって、なんだか急に話が日本国内ローカルになるのは、長い安定の「幕藩体制」を思い起こさせるからだろう。

秋田県と山形県といってもピンとこないけど、秋田藩の佐竹と米沢藩の上杉といえば、その「お国柄」が浮かび上がってくるから不思議である。
これは、全国で通じるものであるけれど、「天領」という全国共通との不一致も興味深い。

たとえば、電車で京都から10分で着く大津は、天領でもあり、膳所(ぜぜ)藩でもあった、隣どおしが一緒になって「市」になっている。
天領の天領たる自慢は、幕府直轄という「権威」だけれど、膳所藩の藩域に行けば、天領とは別の活気が「お国柄」を示す。

大津駅と膳所駅間は、散策しながら歩くにはちょうどいい距離なので、石山詣でのついでにお勧めしたい。
東海道を歩くもよし、琵琶湖畔にでるもよし。
たぶん、人柄もちがうのだろうと想像させるから、ここには「ロマン」がある。

はてさて、イギリス人へのアンケートで、島国なのにどうして日本と自国の「コロナ死亡者数」が、かくもちがうのか?が発表されている。
イギリス10万人超、対、日本5千人超が与えられたデータである。

・スコットランドだけで日本よりも多い。
・日本人は政府の言うことを聞いて、ちゃんと守るから。
 ⇒ イギリス人は、政府の言うことを聞かないし、守らないから。
※このデータがおかしい、という回答はなかったようである。

WHOが各国に通達し、わが厚生労働省(新型コロナウイルス感染症対策推進本部)も都道府県・保健所設置市・特別区に「事務連絡」(2020年6月18日)をだした。
もう半年以上も前だけど、おかしな記述がみつかって話題になっている。

『新型コロナウイルス感染症の陽性者であって、入院中や療養中に亡くなった方については、厳密な死因を問わず、「死亡者数」として全数を公表するようお願いいたします。』

おそらく、イギリス人は勘違いしている。
政府とは関係なく、現場医師たちの「死亡診断」におけるモラルのちがいだろう。
イギリス人医師は、政府(WHO)に忠実で、日本人医師は自己の「プロ意識」に忠実なのだ。

ここに「ロマン」はない。
ただし、WHOと政府には、ロマン「しか」ない。