当世経営一代女

小嶋(岡田)千鶴子の話である。

「岡田屋呉服店」から「ジャスコ」そして、「イオングループ」を創った伝説のひとは、創業一家六代目の長男、卓也ではなくて、その姉、千鶴子なくしては語れない。

その千鶴子には、『あしあと』、『あしあとⅡ』という著作があるが、どちらもグループ内と取引先など関係者に配布された「非売品」のため、彼女の「評伝」は、『イオンを創った女』を読むしかない。

ただし、中古品サイトやオークションサイトに、ときたま「出品」されている。
売ってしまう、という行動は、この本の価値を理解しないからか、理解してコピーを撮ってから、高額の現金を手にしようという「二度おいしい」を思いついたかのどちらかだろう。

けっこう、いいお値段をつけている。

こないだ「会社は学校なんだよ」を書いたけど、女史はこれを本気で実施した。
そのために、自身が「驚くほどの勉強をした」というのだから、並みの学者では歯が立たないだろう。
なにせ、「実務」として「理論」を活用したのだ。

イオンが驚異的な成長を遂げたのは、「社長」との「棲み分け」をしていたからだという「説明」には、説得力というよりも「納得力」がある。
これぞ、「ナンバー2」の鏡だ。

 

通産官僚から作家になった堺屋太一の出世作は、『油断』(1975年)で、「本物」との関係でいえば実にタイムリーだったけど、これを執筆して発表した時点では、現役の通産官僚だった。
余談だが、大阪万博の担当官でもあった。

それから10年、1985年に出たのが『豊臣秀長-ある補佐役の生涯』である。
第二次オイルショック(1979年)の影響から抜け出せない、「日本以外」の先進国(特に英米)は、スタグフレーションに悩んでいて、「プラザ合意」で円高になった年である。

円高=ドル・ポンド安という意味だ。
それは、円から見てドルの価値が「半減」するという破壊力で、後の「バブル」の遠因となった。

その「変化」の大きさゆえに、当時は、「リストラクチャリング:事業の再構築」がブームになりかけていたから、用語としてもちゃんと「リストラクチャリング」とか、「事業再構築」とかと書いていた。

もちろん、本来の言葉の意味通りの用法なので、日本人に「まじめ」さがまだ残っていたのだが、空前の好景気(あとで「バブル」とわかる)で、すっかり浮かれた「脳」では、もう面倒くさくて、「リストラクチャリング」を正面から取り組む企業経営者が絶えたのだった。

バブル崩壊という宴(うたげ)のあとに残った「無惨」で、無責任を貫くための「窮余の策」が、「人員削減」なのであるが、これに「リストラ」という、「新語」を発明して、すっかり定着してしまった。

このあたり、言語能力として「悪知恵」だけは働いた。

そんなわけで、わが国は、これ以来ずっと、止まらない衰退が続いているのである。
要は、「リストラクチャリング」をしないといけないのに、社名やらの看板をつけかえる程度の「痛み」を「改革」と呼んできた。

だから、『豊臣秀長』の話は、「リストラクチャリング」思考で読まないといけないのである。
織田家という「コングロマリット」における、子会社社長が「秀吉」で、社長の才覚を磨いて実行指揮するのが「ナンバー2」の役割なのである。

それゆえに、「ナンバー2」を失うと、組織が弛む。
わかりやすい企業の例では、「本田技研工業」の、本田宗一郎と藤沢武夫の関係もしかり、なのである。
世界のホンダは、本田宗一郎のワンマン・独裁ではぜんぜんなかった。

すると、この30年間で、わが国企業に「ナンバー2」がいなかった、ということがわかるのである。
もっといえば、ナンバー3にもなれないような人物が、トップになり続けた悲劇だ。

これは、会社が「学校をやめた」から、ともいえるのだ。

ひとは勝手に成長なんてしない。
むしろ、放置すれば退化してしまうものだ。

こういう目から、女史の履歴を確認すれば、60歳で一線から身を引いて、今年105歳になったのだから、45年前のことである。
つまり、「1976年」になるから、『油断』が出た翌年だ。

いま、イオングループがあるのは、女史による社員教育の成果としかいいようがない。
そして、いまは、最後の世代が引退する時期を迎えている。

だから、これからが、「正念場」だということがわかるのである。

BIS:国際決済銀行の闇

国際決済銀行(BIS:Bank for International Settlements)とは、世界各国の中央銀行の中央銀行といわれて、世界に君臨する、実は民間銀行なのである。

それぞれの国には、中央銀行があって、その国内の銀行の決済を仲介している。
たとえば、わたしたちが他行あて送金をするときには、かならず「日銀システム」を通じて決済されているのだ。

自行の支店間でのやり取りなら、自行システムで決済するけど、相手が他行ともなれば、そうはいかない。
それで、自行から他行のシステムにアクセスして、直接送金しているかのように思っているけど、そうではないのだ。

自行から日銀システムにつなげて、国内全部の銀行がもつ「日銀口座」のなかで「振替」ているのである。
もっといえば、送金元の自行の日銀口座の残高が減って、送金先の他行の日銀口座の残高を増やしている。

これが、「送金」の仕組みなのだ。
もし本当に「現金で送金」するなら、街中の道路は現金輸送車だらけになっても不思議ではない。

なので、日本から「国際間」の銀行送金をするときには、日銀からBISのシステムにつなげて、世界の中央銀行が持っている「BIS口座」に「振替」て決済しているのである。
それで、国際決済銀行というのだ。

この銀行の本店は、スイスのバーゼルにある。
国際金融の中心は、相変わらずスイスにあるのだ。

しかし、この銀行は、各国の中央銀行がそうであるように、やっぱり「民間企業」なのである。
だから、「利益」がないといけない。
それがまた、実に「強欲」だからびっくりしてしまうのである。

第一の闇は、トップならぬ一般職員採用の闇だ。
なんと、この銀行の行員には、「無税特権」がついている。
すなわち、外交官が無税になるのと同じなのである。
ちなみに、わが国に赴任してきた各国外交官は、消費税だって無税だ。

どこで、どういった条件で採用しているのか?
日本の大学生で、金融機関に就職希望するなら、まずはBIS、次に日銀、それから、メガバンク、あるいは外資という「常識」でないといけないのではないか?

でも、BIS職員になるための情報がなさすぎる。

戦前・戦中という時代に戻ると、列強のなかの一国だったわが国は、BIS設立にも参加していて、「資本金」も出資している。
出資したのは、日本銀行と横浜正金銀行であった。

なお、横浜正金銀行とは、外国為替を専門に扱う銀行で、後に「東京銀行」となるから、「横浜銀行」とは系統がちがう。

さて、いまでも日本銀行は民間企業だけれども、BISへの出資をしたので、経営陣に日本人も参画し、さらに職員にも日本人は採用されていた。
そのほとんどが、日銀と横浜正金銀行からの「出向」だったのである。

では、なぜに設立されたのか?にさかのぼると、なんと、ベルサイユ条約の履行が最初の目的なのであった。
すなわち、第一次世界大戦での敗者となったドイツからの、巨額な「賠償金」を回収するための銀行だった。

それで、わが国も「連合国側」の「勝者」だったから、この銀行の設立にかかわったのである。
当時のドイツ軍が駐屯していた、青島を連合軍として攻略したのがわが国で、「濡れ手に粟」の勝ち組になったといわれている。

しかし、「青島攻略作戦」は、わが国で最初にして最後の「物量戦」で、驚くほどの機材と工兵をもって、陣地の工事を敢行し最新鋭の長距離射程を誇る大砲を固定するぶ厚いコンクリートの上に設置した。

これで、敵軍「背後」からの一斉射撃で双方とも兵を交えることなく撃滅したのだが、費用対効果ではまったくもって「濡れ手に粟」どころではなく、この後一貫して物量戦を「やらない戦法」の開発に躍起となって、第二次大戦で敗戦となった。

すなわち、わが国の敗戦理由の一つに、この青島での「割に合わない」物量消耗戦があったのだ。

ちなみに、ドイツ人が愛してやまない「ビール」を製造するために、青島にもビール工場を建てていた。
これが、「戦後」に、日本のビール会社が運営し、さらには「青島ビール」になったのだった。

興味深いことに、根が真面目で律儀なドイツ人は、おそろしく巨額の賠償金の返済にあえいだのだが、当初の完済時期は、1989年だったのである。
これがもとで、ナチス政権になったけど、なんとナチスは踏み倒すどころか、一度も「遅延」すらさせずに返済に勤しんでいた。

さらに、連合国側も、あるいは枢軸国側になるわが国も、BISの運営においてナチスの幹部も理事として招聘し、あろうことかドイツ軍の軍備増強にあてる資金の融資もしていたのである。

これは一体どうしたことか?

その理由は単純で、ドイツが返済できなくなると、BISも倒産しかねないからであった。
なぜなら、BISの利益の半分以上が、ドイツからの賠償金入金であったからだ。

ということは?
この「銀行」の経営者たちには、どんな倫理観があったのかを問えば、「利益至上」という結論になる。

しかして、この「銀行」の経営者たちとは、各国中央銀行のトップなのである。
だから、各国中央銀行は、自らの利益をもって倫理とする「拝金主義」を是とすることになる。

すると、世界は拝金主義が正義なのだ、という武士の血を引く日本人にはがっかりする結論となるのだ。

そこで、日本人が抱く、「カネ以外の価値にこそ本当の価値がある」というのは、美しいが拝金主義の絶対多数の中では、かえって危険な発想である。

そこで二つの「対応策」がとられてきたと考えられる。
1. 日本人をコントロール下に置くには、その「カネ以外の価値」を重視させて、貧乏生活の理由とさせれば、永遠に奴隷化できる。
2. 日本人を日本人によって支配させるために、支配層には「拝金主義」をたたき込む。

なるほど、これが腹黒い欧米人の作戦だった。
1は順手の合気道、2は逆手の柔術とすれば、欧米人の腹黒さの「濃さ」と「深さ」もわかる。

さてそれで、「日本人」はどうする?

拙著シリーズ「新刊」のご案内

本ブログのテーマに付けている、『「おもてなし」依存が会社をダメにする(観光、ホテル、旅館業のための情報産業論)』(文眞堂、2015年)を皮切りに、昨年の『ケースで読み解く デジタル変革時代のツーリズム』(ミネルヴァ書房、2020年)に続いて、本作『人が活躍するツーリズム産業の価値共創』(成山堂書店)が発刊された。

  

「おもてなし」以外は、共著で、その共著者も、日本国際観光学会会長の島川崇神奈川大学教授、一般社団法人サービス連合総研事務局長の神田達哉氏のお二人は共通で、ゲストに「専門家」の「トリ」を依頼するという構成で、本作は、日本旅行から日本大学国際関係学部の矢嶋敏朗准教授にご参加頂いた。

自画自賛すれば、「よくできている」と思うので、ほんの少しでも「社会貢献」ができたと自負している。
それは、「本作」自体のことであるのは当然としても、執筆者としては、自身の中にある「想い」があるものだから、「一連のシリーズ」というイメージで書いている。

だから、やや大仰にいえば、わたしの今のところの「三部作」なのである。

これが、「四部作」とか「五部作」になるかどうかは、今・現在ではわからないけど、とある「実験」を試みる算段をしていて、それが成就すれば、少なくとも「四部作」になる可能性はゼロではない。

このブログの読者なら、もう察しがつくだろうけど、これら「シリーズ」でわたしの一貫しているテーマは、「ひと」と「組織」のことである。
だから、「何部作」になっても、このテーマから外れることはないし、もし外れたら、「違うジャンル」を書いた、という意味になって、このシリーズから離れたということになる。

さてそれで、「新刊」のことである。
執筆陣は、上述した4人で、わたし以外?は皆信頼できる人物だ。
この四人には、とある「共通」があるのは、本作を一読すれば明らかだけど、先にいえば、「業界衰退」の危機感なのである。

宿泊業や旅行業、それに物販をひっくるめた、観光産業のことである。

この「現象」の原因を、わたしは「ひと」と「組織」にあると考えているから、「シリーズ」なのである。
それだから、解決法も、「ひと」と「組織」に注力しないと効果はあがらないと主張する「シリーズ」になっている。

これには重大な「新規条件」が加わってきたので、過去よりも一層のこと「解決困難」になると予想できる。
それが、「人口減少社会の到来」という「条件」なのである。
何度も書くが、平和時に人口が減少するのは、天変地異以外、人類史上で初めてだ、ということを忘れてはならない。

さらに、わたしの「危機感」は、無責任なマスコミがつくりだす「世論」が、あたかも本当の「正解」をいっているように見せて、組織運営をつかさどる幹部の脳を冒す活動が、従来とはちがって「躊躇しない」ことがふつうになったことである。

そして、それが、「学者」にも多大な影響を与えて、「学問の追及」から、「利益の追求」へと、静かにシフトしていることの「恐怖」すら感じざるをえなくなってきた。

これは、「権威の失墜」を意味する。
すると、誰の意見が正しいかを図る、もっとも手軽だった「大先生」の存在が霞むことになるので、いよいよもって「価値相対化」が進行する。
個々人が自分で判断するという、文字どおりをしないといけなくなったのだ。

これは大変面倒なことで、社会的コストがあり得ないほどに高まっている。
こうした状況に疲れたひとたちは、「わかりやすい=安易」に流れる。
そして、それが、「民主主義社会」で「多数」になれば、恐るべき「全体主義」を生みだすのである。

 

これが、「コロナ」という「架空の実験」で、現実になった。
マスクの強要しかり、検温しかり、さらに、ワクチン接種の義務化しかり、だ。

どれもこれも、「効果」なんてない。
病原体としての新型コロナウィルスの存在が確認できていないのだから、このイリュージョンは、PCR検査という「タネ」でコントロールされているだけだ。

しかしながら、「専門家」が、ありもしない専門知識の披露という詐欺行為をやっても、おとがめすらなくなった。
たとえば、無症状のひとが他人に感染させる、ということを証明した学術論文だって、世界で1本もないのに、という事実をどうするのか?

100%の確実を求める一般人とは、リスク管理ではなくて「リスクの完全回避」を要求しているのである。
このことが、「産業」に与える影響は計り知れない「コスト」を要求することになるのである。

たとえば、ホテル建築の安全ばかりか、提供される「食の安全」だって、過去に定めた「基準」だけで議論されない、ということを示唆している。
もっといえば、それが、「SDGs」や「脱炭素」という、驚くべきコスト増を「正義」に転換させる「PCR検査」と同義になるということだ。

では、このコストは誰が負担するのか?
全ての製品は、必ず末端の個人が購入する商品になるのだから、全人類が負担することになる。

実は「新しい搾取」がはじまったのだと、暗に書いたので、本稿は「ネタバレ」ならぬ「ネタばらし」であった。

電子ペーパー「クアデルノ」

特許庁の電子ペーパーに関する調査は、2012年に公開されている。
これによると、「電子ペーパー」というジャンルの特許を最初にとったのは、なんと「松下電器産業」で、1969年のことであった。
その翌年に、「開発中止」を決めている。

それからだいぶ経った、1987年にいまの「製品」につながる、「マイクロカプセル型」の特許を取得したのも、日本企業のエヌオーケーという会社である。
この10年後に「E Ink社」がアメリカで設立された。

それで、「E Ink社」の方の「歴史」をみると、MITの学生がアイデアを出したことに端を発して云々という話になっていて、日本での歴史には一切の言及はない。

2004年になると、松下電器産業とソニーが「電子書籍端末」を発売した。
アマゾンが「E Ink社」と組んで、「Kindle」を発売したのが2007年のことである。

ついでに書けば、富士通が「カラー電子書籍端末」を発売したのは、2009年ということになっている。
そんなもん、あったっけ?

いまさらだけど、「e-ink」というのは、電子的にインクのような粒子を制御して文字や画像などを表示する技術のことで、液晶などと比べたら、圧倒的に「目に優しい」し、一度表示させた画面には通電の必要がないので、最低限の消費電力しか要しないことが特徴となる。

これが、本物の「紙」にインクで印刷したのと同じ原理で、人間の目に見えるのだから、「書籍」に適していることは間違いない。
すなわち、「目に優しい」とは、「目が疲れにくい」という意味なので、長時間の読書に十分人間の方が「耐える」のである。

技術的には先行していたのに、電子書籍端末というビジネスで「完敗」したことに、冒頭の特許庁の調査では以下の「欠如」をその理由を挙げている。

1.明確な市場提供イメージに基づく開発と資源の集中、
2.自社の電子インクを前提とした周辺技術の確立と当該電子インクの基本技術の特許権利化、
3.ビジネスを見据えた海外への展開、
4.電子コンテンツ産業の発展に伴うビジネスモデルの変化

「電子書籍」と「端末」に分けて考えていない、という「欠如」があるのは、「縦割り」のお役所仕事であるからだ。
問題は、「文化庁」が管轄する、「著作権」なのであった。

つまり、我が国では、端末が先に出来たけど、それに載せて電子的に読書利用するための著作権の概念がなかった。
このことは、音楽は、レコード盤やCDで販売するもの、という概念が硬くて、「配信・ダウンロード」するものになるのにかかった手間と同じなのだ。

そして、この「手間」をかけているうちに、アメリカ企業が世界規模でのシェアを確保してしまったのである。
音楽ではアップル、書籍ではアマゾンという具合に。

しかし、「権利」について厳しいアメリカで、どうして「先行」できたのか?
それは、著作権を持っている「既得権者」にも、「民主主義」が根づいているからである。

逆に、「広く薄く」とれた方が「増える」という発想もある。
なんだか、「消費税」のような話なのである。
アナログなら、コピーを制御することは困難だけど、元がデジタルなら容易にコントロールできる。

このメリットに、アメリカ人の既得権者は気がついて、行動が早かったのである。
我が国の伝統的「産業優先思想」では、今の権利を護ることに集中した。
それが、「ウォークマン」で世界を席巻したソニーが、「iPod」に完敗した理由である。

さてそれで、そのソニーが先行したのは、「電子ペーパー」という「メモ帳」分野の端末であった。
製品名は、「DPT-RP1」という無機質で、とうとう販売中止になってしまった。

犬型ロボットで明暗を分けたのは、ソニーの「aibo」とNECの無機質だったと記憶している。
NECはいま「waneco(ワネコ)」で成功しているから、失敗は成功の素に変えた。

だから、電子ペーパーの分野では「外野」の、NECからしたら、「DPT-RP1」と聞いて、おいおいどうしたソニーさん、になったはずである。

それでもって、どういうわけか、富士通がソニーから供給を受けて、これを、「クアデルノ」と命名し、この夏には「第二世代」が発売された。
作っているのはソニーだろうけど。

メモがとれる電子端末なら、まっ先に「iPad」が浮かぶ。
しかし、便利さの裏に、「目が疲れる」という大問題があって、長時間の利用は厳しいのである。
だから、「e-inkのiPad」が欲しい。

「クアデルノ」は、大きさが違う二種類がある。
「A4」サイズとその半分の「A5」で、2万円の価格差がある高価な方の「A4]が欠品している。

この端末の最大の特徴は、「PDF特化」である。
競合の端末では、この「割り切り」がない。

ダウンロードするのもPDFなら、手書きで書いた新規メモもPDFとして保存される。
パソコンとかで、様々な書類(ウェブ上の画像も)を、PDF変換すれば、この端末で「読む」のは当然で、「手書き書き込み」もできて、それをまたPDF保存できるのだ。

ただし、キーボードなどによる「活字変換」はできない。
手書きも変換してくれないから、ワープロ的利用はできない。
そのかわり、第二世代ではワコムの「無電源スタイラスペン」が使えて、書き味は抜群だし、画面が階層構造になっているから、テンプレートを自作することもできる。

紙のサイズで「A4」が主流なのは、世界で我が国だけという特徴があるので、まさに「日本市場向け」というニッチさがある。
紙の書類をそのままの大きさで扱えるメリットは、確かに魅力的だ。
企業内の「ペーパーレス化」の最終兵器になって、欠品しているのか?

2~3ヶ月待ちとの表記があるとはいえ、「お取り寄せ」で数日待てばやってきた意外があった。

出口のないエディター沼

文章を書く、という行為でもっとも一般的な「道具」といえば、「ワードプロセッサー」というジャンルで、そのものズバリの名前がついている。
あまたあるアプリの中でもその代表格は、「Word」であるけども、PCの性能が向上しても文字数が増えると「重くなる」という現象が嫌われる。

ワープロは当初より「多機能化」という進化を開始して、編集機能と印刷機能の充実で、「パブリッシング」に走った感がある。
いまでも、自治会や町内会の「回覧板」が作れますとか、あたかも「新聞」のようなとか、あるいは「ポスター」とかの、あらゆる書類作成が「出来ます」というアッピールがある。

しかしながら、それなりの文字数を書き出したり、ある程度決まった形式で図表を入れたい「論文執筆」ということになると、「テフ:Tex」を使っているひとも多くなる。
とくに、複雑な数式を書きたい「理系人」には、ワープロは忌避される。

そこで、最初から「テフ:Tex]で書くということもあるだろうけど、数式を書く機会がほとんどない、とくに「文系人」には、軽くて汎用性のある道具が使いたくなるのである。
ここでいう「汎用性」とは、マシンを選ばない、という意味だ。
ウィンドウズでも、スマートフォンでも、タブレットでも、なんでも、いつでも、どこでも書き込めたり読みたい、というニーズが強いのである。

そこで、登場するのが「エディター」である。
元はプログラマーがプログラミングをするための道具であったけれど、プログラムが書ける、という機能の中にある、「テキスト」入力ができる、が注目された。
それで、このおそろしく単機能のために、多機能のエディターを使うのである。

ワープロの多機能とエディターの多機能は、ぜんぜんちがう機能をいう。
エディターの多機能とは、多数の「プログラミング言語対応」のことをいう。
これで、とにかくテキストを書き込んで、その編集にワープロやテフを使おうが、それぞれの好みとなる。

もっと単純に、PDF出力をすればいい「だけ」ならば、「マークダウン記法」で書けば、それっぽい書類が簡単に作れるから、ワープロさえも必要ない。

つまり、選択肢が多すぎて「沼にはまる」のである。

ウィンドウズ・マシンの「定番」で「老舗」といえば、『秀丸エディター』である。
これには大変お世話になっている。
本文を書きながら、脚注も同時に書けるし、「見出し」についてのガイドもある。
文章内の階層も、「.」を行頭につければ、その数に応じた階層が6段もできる。
「..」で2段だから、「.」を6個まで使える。

これで書き上げて、仕上げでワープロに流し込むのに、「.」を置換機能で削除すれば、何も問題はなく完成する。

しかしながら、ウィンドウズ・マシンに「しか」ないアプリなので、秀丸を使いたいならパソコンを携行しないと、いつでもどこでも、にはならない。

ならばどうするか?
マイクロソフト社が無料で提供している、『Visual Studio Code』というプログラミング・エディターなら、Macでも、さらに、ウエッブでも使える。
もちろん、「テキスト入力」ができる。

さらに、「この手」のエディターは、「ファイルのバージョン管理」ができる。
プログラミングで「書き換え」た場所を確認することは、「バグ」の防止に重要な機能だからだ。
1文字でも変更したら、「別物扱い」してくれるのだ。

ただし、この機能を使うには、「Git」の仕組みと、やはり無料の『GitHub』を別途インストールして、文章ファイルを「登録」し「紐付ける」必要がある。
なので、ネット接続は必須なのだ。

ネット環境がないような場合とか、セキュアな状態を確保したい、という場合には、『Obsidian』という、オープンソースの「ノート」アプリを見つけた。
こちらは、一部が有料だけど、テキスト入力が主なら、無料の機能範囲でも十分すぎる。
それに、各トピックをつなげて、マインドマップ状の構成図も作れる。

もちろん、「マークダウン記法」にも対応していて、iPadでも使える。

なお、『Visual Studio Code』も『Obsidian』も、メニューの「日本語化」は、本体のダウンロード後に設定できる。
それぞれ、「使い方」についての解説もあるから、試してみる価値はある。

そんなわけで、「沼」の出口が見つからないのだ。

クリミアと米国と日本

170年前、ロシアに対してオスマン・トルコ、イギリス、フランス、サルデーニャ(統一前のイタリアの一部)連合軍が戦ったのが「クリミア戦争」だった。
なんと、我々が知っている「イタリア」が統一されたのは、最近の1870年だ。

「エルサレム」の統治をオスマン・トルコに要求するということを口実にして、南下を図るロシアに、連合軍が対抗したのだった。
主戦場は、黒海に突き出すクリミア半島だったけど、太平洋のカムチャツカ半島にも及んでいる。

イギリス軍に従軍して、戦傷兵の看護にあたって大活躍し、「白衣の天使」となったのは、ナイチンゲールであった。
ただし、彼女は上流階級の子女で病弱であり、実は統計学者であったから、作戦のまずさによる兵の消耗に怒って、英軍の将軍を更迭させてもいる。

その後、彼女はロンドンの自室で療養しながら、英国政界の「フィクサー」となる、という凄いひとなのだ。

クリミア半島のややこしさは、そこに住んでいる住民の「民族」にあって、基本的には「ロシア人」なのである。
「ソ連」は、連邦国家ではあったけど、所詮はモスクワ中央による属国の連邦だったから、穀倉地帯のウクライナ共和国も、「一連畜生」であった。

それで、気前のよさと自身の権力誇示のために、スターリン(本名は、イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ:ジョージア出身)によって、この半島をウクライナに「くれてやった」のだった。

ちなみに、「グルジア」が「ジョージア」になったのは、「反ロシア」という事情がある。
広大な「中央アジア」もソ連の属国であった。

最近これらの国々(トルコ、アゼルバイジャン、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスの5カ国+トルクメニスタンとハンガリー)による、「チュルク諸国機構」が誕生し、ウイグル情勢に睨みをきかせ、「一帯一路」に楔をうった。

強権で一方的な輩には、集団で対抗する、という常道だ。
だから、強権で一方的な輩は、甘言を弄して「分断」を図るのも定道である。

ウクライナというのも複雑で、首都のキエフは、かつての「ロシア帝国」の首都でもあった。
ロシアの作曲家、ムソルグスキーの代表作で元はピアノ組曲である、『展覧会の絵』(オーケストラ編曲はラヴェルによる)での『キエフの大門』こそが、「首都」の証であった。

それに、クリミア半島の西側先っちょにある、「特別市セヴァストポリ」には、軍港があって、この市はなんと2014年に「独立」して、ロシアと条約を締結した後に「併合」されている。
これをウクライナが認めないのはわかるけど、「国連」も認めていない。

いまや「逆神」と化して、人類に禍をもたらすのが「国連」になったから、「正統」なのは、セヴァストポリの方で、手順を踏んで「併合」したロシアにあるから、あたかも、「朝鮮併合」と似ているので、我が国の立場ではロシアが正しいのだけど、「国連のポチ」が外務省なので、変なことになっている。

セヴァストポリ港を手にしたロシアは、「不凍港」を得たのである。

しかし、「黒海」というのは、イスタンブールが繁栄し滅亡したように、ボスポラス海峡が「入口・出口」の内海だから、いまでもトルコが押さえている。
ついでに、中央ヨーロッパの水上交通の要である「ドナウ川」も黒海にそそぐ。

1453年、東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープル(イスタンブール)陥落の悲惨な掠奪のドラマは、攻めた側の大将が涙するほどの凄惨を極めた。

そんなわけで、反露の歴史的国民感情があるトルコが、ロシアを牽制してくれているといえるし、ロシアはトルコが邪魔でしょうがない。
そのトルコは、EU加盟をしたくてもできないが、NATOにはとっくに加盟(1952年)している。

エルドアン現大統領が、輸出のためにトルコリラの切り下げを推進したら、インフレが止まらない(20%弱)という事態になって、大揺れしている。

これを横目に、「ウクライナ疑惑」を抱えるのがアメリカの現職大統領で、「ロシアゲート疑惑」を晴らしているトランプ氏の攻勢がはじまった。
ちなみに、ウクライナ検察は、とっくにバイデン氏の子息を「起訴」しているのだ。

このひとは、ウクライナのエネルギー大手企業の役員に名を連ねていたけれど、「裏金」によるウクライナ政界工作をやっていた、というのが起訴理由である。
さらに、オバマ時代の副大統領だったバイデン氏は、ウクライナを公式訪問した際に、当時のウクライナ大統領に米軍撤退を示唆して、息子のビジネスを援護していたという「疑惑」は、スキャンダルの火種なのである。

日本人からしたら、えらく遠い世界の話に見えるけど、とっくにグローバル化が進んでいるので、どこでどうつながっているのか?がバカにならないレベルになっている。

風が吹くと桶屋が儲かる、というのは、もう笑い話ではない。

そのバイデン氏が大統領に就任した初日に出した「大統領令」で、純石油輸出国になっていたアメリカが、中東依存の輸入国になった。
それで、アメリカならずも我が国でもガソリンをはじめとした石油製品が大幅値上げとなっている。

ところが、いまや世界最大の石油産出国は、サウジアラビアではなくて、ロシアなのだ。
再生可能エネルギーにシフトしたドイツは、天気頼みなってエネルギーが自国でまかなえなくなった。

それで、燃やすものはロシア依存になって、燃やさない電気はフランスの原子力発電所の電気を買っている。

ドイツ人は、自分ちの電気がドイツ国内の原発の電気でないことで満足するという、阿呆ぶりを世界に示して、かつての同盟国として日本政府も憧れを禁じ得ない阿呆ぶりだ。

やっぱり、プーチンが笑っているにちがいない。
そのプーチン氏の動向を、「ソ連」を引き摺ったわが国のマスコミは、報じない、という惰性をまだやっている。

日本人を棄民する日本政府

いつから日本政府は日本人を棄民するようになったのか?といえば、ずっと前からである、となる。
山田長政の時代から、本国の都合による「通達一発」で、在外の日本人は「棄民」の対象となったのだ。

師走になって、正月の一家団らんを阻止する、というのは、共産主義の「個の分断」という重要政策なのである。
ましてや、政府という「行政権力」が移動の自由を侵害するのは、明らかに「憲法違反」である。

無論、コロナとか変異種などという「ありもしない病気」を理由にすることは、最初からあり得ないし、もしも一万歩ゆずって、「感染症」としても、その「弱毒性」に鑑みれば、まったくのナンセンスなのである。

さらに、今回の「帰国阻止」の裏には、「政府の絶対性」まで見え隠れする。
命令すればなんでもできる、という「魔法」が使えると信じる組織人たちがいることを明示した。

それが、国土交通省であれ、厚生労働省であれ、はたまた入国管理の法務省であれである。
たまたま今回の「主役」にしゃしゃり出たのは、自公連立以来、ずっと公明党が握る大臣ポストである国土交通省だった。

その大臣も、事務当局の「勝手」と他人事を装い、総理も「知らなかった」と弁明した。

世の中で、「自分は知らない、聞いていない」というトップの弁明ほど、空しいものはない。
組織の長として、「無能」の証明になるのは、ビジネス界の常識だから、即刻「辞任」するのが「筋」というものだ。

すなわち、統治能力無し、ということである。

しかし、ふつうの組織なら、トップの責任と同時に当事者の責任も問われる。
当該部署に連なる「管理職」の更迭処分も、即座にとられて「当然」なのだ。

けれども、そんな動きはどこにもない。
これが、「組織ごと腐った」ことの証明だ。

端的にいえば、国土交通省航空局のことである。
この「局」の無能は、JAL倒産という「事件」でも、国民の前にさらされたけど、「当局者」たちの責任追及とおとがめは、やっぱりなにもなかった。

「行政指導」という、箸の上げ下げまでに似た事実上の詳細な命令をしておいて、リモートに失敗したら、自分たちはサッサと逃げて白を切る。
こうした人材は、どうしたら育成できるものか?を、東京大学に聞いてみたいが、きっと就職先の問題として逃げて白を切るのだろう。

これらの「すそ野」に広がる、どうしようもない輩が跋扈しているのが、我が国の「病根」を構成している。
さしもの東大医学部をもってしても、治療不可能な「病根」であり、それは、「癌」より深刻な「死の病」を発症していることでもある。

この点、「自然」な経済は、そのまま「経済原則」が働いて、我が国へ向けた「帰国便」のチケット代が「高騰」したのは、予測可能な「当然」だ。
「需要と供給」という、単純かつ複雑な価格決定メカニズムは、政府の命令では動かないから、魔法も意味しない。

「全便停止」が、すぐさま「中途半端」に弛んだので、週に1便となった「貴重」が、チケットの価格を自動的に数倍(7~8倍)にしたのである。

海外旅行に団体ツアーでしか行かないひとにはわからないけど、「往復の航空券」を持っていないのか?という疑義をいうひとがいる。
いまどき「観光で海外旅行」はしないから、どうしてもの短期出張などなら、いえるけど、「政府が運行中止」を言いだした前代未聞なので、帰りの分は「払い戻し」されれば終わりだ。

ましてや、在外在住者であれば、その都度チケットを現地で購入するのがふつうである。
買ったはずのチケットが強制的に払い戻しになって、新規の倍率で「競争入札」しないと帰国できない、という事態を日本政府が「つくった」のだ。

日本行きの便を飛ばす航空会社(外国の会社も)からしたら、発券したものの払い戻しという「余計な手間」は、ばかにならないコスト増になる。
下手をすると、損害賠償を請求されてもおかしくはない。
その「原資」も税なのだから、国民には納税意欲も失せるのである。

それで、岸田首相が言った、「(感染の)様子を見ながら確実に」という言葉で、「便数の増減」を示唆してしまった。
この御仁も、自腹で飛行機単体に乗ったことがない、団体ツアーと同じ発想をして、迷惑このうえないことになることの予想も出来ないことを自白した。

「競争入札状態」になった、帰国便のチケットは、便数が増えれば「暴落」することにもなりかねない。
だから、どうするのかハッキリしない物言いは、帰国希望者からしたら、おそろしく「迷惑」な発言となる。

いったい、いつのタイミングで「買い」のボタンを押せばいいのか?
ただし、年が明けた1月の航空券は、「通常どおり」で販売されている。
だから、本当に「季節商品」と化して、「時間」が価格を決める「要素」にもなっているのだ。

例えば、毎日運行(7便)でこれまで10万円だったものが、1便となって70~80万円になったのは、実は「高騰」でもなんでもなく、プレミアムが加算されても10万円程度だから、需要増だけの「適正」ともいえる。
だから、もしも週2便となれば、あっと言う間に半値の35~40万円になると予想するのがふつうである。

でもそれが実額で40万円の違いとなれば、庶民ならハラハラドキドキものになる。
一家4人の正月休暇帰国なら、160万円が吹っ飛ぶかもしれないのだ。
しかし、「元」なら40万円で済む話だから、在住者たちが怒り心頭に発するには十分すぎる理由となる。

来年の参議院選挙で、「在外選挙投票」はどうなるのだろうか?
日本大使館、あるいは空港で、はたまた国内のどこかで、投票箱ごとすり替えるのだろうか?

はたして、こんな体たらくの政府に、それでも社員を帰国させる企業は文句を言わない。
関係する航空会社はちょっとだけ言ったけど、あとでどんな嫌がらせをされるかしれないから、だんまりを決め込んだ。
もちろん、もっと弱い立場の旅行会社は、言うに及ばず。

すなわち、日本政府こそが「反社勢力」なのであると、国民に示したのだ。

いつからか?
じつは、ずっと前からなのである。

コストコは「紙」だらけ

それなりの年会費を徴収して買い物をさせるとは、アマゾンのプライム会員と似ていると言えば似ているし、会費の額も似ている。

横浜には、市内の「金沢区」という、横須賀に近い南端の区にコストコができたのは、2004年のことで、国内第4号店だった。

ちなみに、この区は横浜市内でただひとつの「藩」である、「武蔵金沢藩」だったという由緒がある。
逆にいえば、その他はぜんぶ「天領」だから、お代官様が仕切っていた。
ただし、人口爆発は「開港後」のことなので、おおくは「地元民」ではない。

有名な「加賀」と分けるために「武蔵」をつけたが、鎌倉幕府が創建した国立図書館の「金沢文庫」を護ることを、引き続き家康から仰せつかった藩主は「文の家」である。

それ故か、市内にあっても独特の雰囲気がむかしからあって、「スーパーマーケット」を生まれて初めて経験したのも、この区にあった店である。
好きなものをカゴに入れて、レジで精算するというのは、天井からゴム紐でぶら下げた「ザル」におカネを入れていたのと大違いだった。

それに、「レジスター」が、まるでコンピュータに見えたほど、ハイカラで珍しかった。
当時のものは、コンピュータになった今とはちがう、その名の通りの「現金登録機」にすぎないが、これを知るのはおとなになってからである。

その思い出がある金沢区に、コストコが開業したのである。
当初の「驚愕」は、その圧倒的「物量」で、日本のスーパーでは考えられないキャスター・ワゴンのデカさだけでも感動ものだった。

生前の父母も、初体験では興奮冷めやらぬ「お買い物」に熱中した。
海軍の幼年兵で、駆逐艦のレーダー兵だった父は、アメリカの物量にやっぱり唖然としていた。

両親とも共通の「お気に入り」は、トイレットペーパーだった。

おとなでひと抱えしないと持てない、1パックで60巻のそれは、1400円ぐらいだった。
「高いかも」とつぶやいたら、母は即座に「メーター数の長さが違う」と、得意の暗算で、しっかり計算していたから、わたしはそれに驚いた。

日本製のとは、確かに「巻き」の大きさが違っていて、トイレのペーパー・ホルダーにやっと収まるのだけれども、ただ引っ張ったら切れてしまう。
ホルダー自体の「摩擦抵抗」があるのだ。
これを、「長さ」で単価計算して捉えていたとは、感心した。

これから、わが家のトイレは、日本製の紙を使っていない。
それにしても、わざわざアメリカから運んできて元が取れるのか?いつも不思議に思うのである。

さて、昨年のアメリカ大統領選挙以来、渡米して突撃取材をするようになった、沖縄の我那覇真子女史は、おっとりした沖縄訛りながら、確実にターゲットを追う本物のハンターのような人物だ。

その保守言動ぶりも、ベテランでもエセの仮面を容赦なく、快刀乱麻を断つがごとく剥がしまくっている。
それだから、「保守論壇」から嫌われて、排除の憂き目をみてきた。
読者には、こうしたひとがいてくれるのは、まさに「掃き溜めに鶴」なのだ。

その我那覇女史が、バイデン失策政権の失策ぶりを取材に、また渡米した。

現地で待ち構えるのは、アメリカ在住ビジネスマンの、山中泉(やまなか せん)氏である。
このひとも現地で様々な発信をしていて、とうとう本も出版し、好評ゆえに続編も準備中という。

さて、合流した二人は、さっそく山中氏の案内で、コストコに行くのである。
そこにあったのは、「スカスカの棚」だった。
品不足のため、アメリカ人がトイレットペーパーを買いだめして、より品薄になったのである。

物流が停滞して、深刻な物資不足になっているという。
その原因は、バイデン氏による国内石油開発の中止による、ガソリン高騰だけではない。
トラック運転手が、決定的に不足しているのだ、と。

沿岸部の港湾倉庫は、歴史的な「満杯」ぶりで、荷下ろしの順番を待つ船が所狭しと停泊している。
しかしながら、肝心のトラックが荷を取りに来ないのである。

これは一体どういうことか?

「コロナ対策」による、手厚い福祉政策が、「下層」とされるトラック運転手を潤わせて、労働意欲を取り上げたのだ。
家族の数にもよるけれど、月収で50~60万円に相当する「補助金」を得れば、誰だって「寝て暮らす」ことを選ぶだろう。

もちろん、「働いたら」もらえなくなるのだ。

これぞ、「福祉国家」なのである。
そして、「良かれ」が過剰になると、社会的混乱を引き起こす。
だから、社会的混乱をひきおこしたいなら、「民衆受け」する過剰な「福祉」を政策根拠にすれば、「自然と」社会混乱になって、支配層を除いてみんなで「貧乏」になるようになっている。

巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)という、古典の指摘は、現代のことかとおもえてならない。
高校教師は、漢文の授業で、「文法」ではなく、「生活哲学」として学ばせることが望ましい。

江戸の武士は、まさにこうして育ったのだ。

そんなわけで、港で待ちくたびれた船が、横浜を目指して「紙」を運んでいるかもしれない。

円安と燃料高騰で、きっと割高な値段になるにちがいないと、妄想して、山と積まれたトイレットペーパーを買ってきた。

ビジネス感覚がない「連合」

テレビを観るという習慣がないから知らなかったけど、BSテレビ東京の『日曜サロン』という番組が、突如ユーチューブのお勧めに出てきた。
そのお勧めの内容が、先週放送の女性で初めて連合会長になった芳野友子氏へのインタビューだ。

ありきたりの質問に、ありきたりの回答をしているので、ぜんぜん新味がない、という意味で「新鮮」だった。

まだこんなレベルの「インタビューが成立している」という意味である。

テロップに出る聞き手の経歴の「つまらなさ」は、かつての業界人のエリートの典型だろうから、古色蒼然としたインタビューになるのは仕方がないし、正味24分程度の長さしかないから、「切り込めない」のだろうけど。

あるいは、事前に打診して出演を決めてもらうのに、古色蒼然としたインタビューでないと、「OK」がでない事情があるのかもしれない。
だから、視聴者が感じる、聞き手への焦れったさとは、聞かれる側の意向である、ともいえるのが「インタビュー」の「インタビューたるゆえん」になる。

その意味で、聞き手の堂々とした「ありきたり」が、番組づくりには必要になって、権威づけのために「経歴」とか「肩書き」とかがいるのだ。
こうして、視聴者を「威圧する」ということになっている。

なのであんまり観たくはないけど、せっかくの「自動サジェスチョン」なので、AIの指示通り観ることにした。

労組の親方が女性になった、というのは「実力次第」ということでいえば特段の意味はないけれど、ジェンダーをいうひとほど「喜ぶ」傾向があって、さらに「女性幹部の少なさ」を嘆いたりして、「逆差別」を正当化するものだ。

このひとも似たようなことを言ったのが、大変残念で、女性の賃金格差についても、企業内の実態をこれから調査するというトンチンカンぶりだった。
「連合」と言えば大企業の労組の集団だ。
いまどき、そんな「大企業」の賃金制度で、女性差別があるものか。

むしろ、パートタイムなどの「主婦労働」における、年収の「税の壁」が、低賃金を正当化させているはずである。
もちろん、この議論には、「家庭内の家事労働」は、「無賃金=無価値」という思想がはるか前提にあることに触れることはない。

つまり、黙って「容認」しているのである。

この根本をどう「哲学」するかの議論なくして、「女性の社会進出」とか「女性の活用」というのは、あくまでも「女性」とおだてればなんとかなるという(本当は男性の)「甘え」ではないのか?
それを、女性の連合会長が言うから、まともな(=自分の頭で考えることができる)人物とは思えない。

どなたか(複数でも)の「操り人形」かと疑う理由だ。

その「根本」に話を戻すと、連合の根本問題は、会長も自ら語った「17%」という組織率の「低さ」なのだ。
ぜんぜん我が国の「労働者の代表」とはいえないし、むしろ、「ほぼ正社員で構成される」という、「エリート集団」なのである。

そこで、非正規雇用のひとたちの意見を聞くための「イベント」を開催するのだというのは、なんだかなぁ、と「異次元」のことに思える。
逆に、非正規のひとたちが「組合加入したくない」とすれば、不断の「マーケティング」をしないといけない。

「組合に加入したい」という気持に、1ミリも一般社員をさせることができないことを知っているから、「内に籠もるのか?」と疑うのだ。
すると、実は労働組合を必要のない組織だと考えるひとたちによって、労働組合のトップが構成されている、ということを告白していることになるのだ。

そんなわけだから、「一大スポンサー」なのに、支援政党から無視されるのだ。
「共産党との連携はあり得ない」といいながら、これをやる政党を責めてもせんないことだ。

それでいて、岸田政権の「新しい資本主義」を評価して、「政権と考えが近い」という。
これは一体どういう意味か?

無理やり解釈すれば、「共産主義は嫌だけど、社会主義はいい」という、いまさらの「無謀」をのたまわっている。
80年代まではなんとか「通じた」けれど、ソ連崩壊以来、こんなことを言って何になるのか?

社会主義も共産主義も、所詮は「同じ穴のムジナ」なのだと「証明」されたのである。
すなわち、おそるべき「古さ」なのだ。
若かりし彼女が労組で学習した当時の「常識」で、時間が止まっている。

むしろ、共産党と手を組み「異常」と批判された前代表の枝野氏の方が、「どうせ同じ」という現実を知っているのだ。
もっといえば、革マル派の枝野氏の方が、よほど「代々木嫌い」の「はず」なのである。

さてそれで、ドイツ社会民主党は、戦後の早い段階で、結党以来の伝統だったマルクス主義を棄てて、国民政党に脱皮した、と書いた。
ならば、連合も、社会主義を棄てて、「労働者=国民、の幸せ追求」に脱皮すべきなのである。

さすれば、岸田政権=自民党=社会主義政党との、決定的な対立軸が明確になる。
こうした「転換」ができないならば、組織率の低下を止めることも、国民から相手にされることも、即刻あきらめるべきである。

ついでにいえば、「組織率」について、丁度1年前に事務局長が「手前味噌」の統計解釈をしている。
都合のよい解釈で欺されるのが、我が国を代表する労働者集団なのかと、よりいっそう嘆かわしくなるのである。

それはあたかも、ビジネス感覚がない経営者たちによる会社経営と同じく、「破たん」という結論にしか向かわない。

これはこれで、国民の不幸なのである。

もっとちゃんとした人物は、この組織にいないのか?
それが、もっと国民の不幸なのである。

ドイツ「信号機」内閣の発足

歴史を振り返ると、時代の節目にいるときの人々は、それが時代の節目だとは気づいていない。
やっぱり、終わってから、気づくものなのである。

しかし、遠い外国に住んでいても、今回のドイツの「連立内閣」ほど、「節操のないズルズル」は、滅多にみることはできない「組合せ」なので、よくぞ「政策協定書」をまとめたものだと感心する。
時間がかかっても、その「生真面目ぶり」は、やっぱりドイツ人たちだ。

9月28日の選挙後のメルケル政権は、「暫定内閣」という状態になっていた。

2ヶ月以上かかって、ようやく「組閣」する、新政権は、得票1位の社会民主党(SPD:かつてはブラントとシュミット首相を輩出した)と、第三党の「緑の党」、それに、第四党の「自由民主党(FDP)」による、三党連立となる。

ドイツ社会民主党は、1863年に結党された、由緒ある「修正主義の政党」で、1919年には「ワイマール憲法」の制定を主導した。
この政党が、マルクス主義放棄を宣言して「国民政党」に脱皮したのは、1959年のことだから、「戦後」になってのことだった。

風前の灯火にある、我が日本の「社民党」は、マルクス主義を捨ててはいないし、そっくり入れかわった「立憲民主党」は、日本共産党と提携して総選挙を経て惨敗したら、今度は共産党と手を切るというひとが「新党首」になった。

でも、選挙前から「政調会長」という立場だったので、これからマルクス主義同士の壮絶な内輪もめがはじまるにちがいない。
この意味で、ドイツ社会民主党とは確実に、60年以上「遅れ」ている。

そうはいっても、「保守」のはずのキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)で、16年もの長期政権を牽引したのは、旧東ドイツ出身の社会主義者、メルケル氏だったから、我が国自民党政権と同様に、しっかり「左傾化」して、困ったことにSPDとの差が見えなくなった。

それが、この「混沌」の原因だろう。

連立第二勢力の「緑の党」は、当初CDUと右派、それにSPDを加えた、「保守系」が内部勢力として仕切っていたけど、70年代に過激行動で行き詰まった「左派」の入党を許したら、とうとう「乗っ取られる」という経緯がある。

環境問題専門の政党だから、いまは「左」だけど、結党からの経緯は「意外」なのである。
それでもって、ドイツの左派は、アメリカや日本とちがって「筋を通す」こともやるから、いまの「緑の党」は、「人権擁護」にも熱心なのだ。

連立第三勢力の「自由民主党(FDP)」は、我が国のしゃっきりしない自由民主党とは違って、筋金入りでバリバリの「自由主義」政党である。
こちらは、メルケル内閣でも連立を組んでいたけど、CDUの左傾化を警戒した国民が、それなりに保険をかけていたことが理由らしい。

なお、近年、金銭疑惑から2013年選挙で惨敗し、国会の全議席を失う、という驚きの事態になって、党首以下執行部が全員辞任し、党勢を「刷新した」ことで、今年の選挙で92議席を確保しての「政権復帰」になっている。

こう言う点で、日本人はドイツ人に頭があがらない。

なお、詳しいことは不明だが、同じドイツ語圏の「オーストリア学派(ウィーン学派)」の伝統的自由主義経済思想の影響を受けていると思われる。
いったい、この党の「シンクタンク」には、どんな専門家が名を連ねて「政策提言」をしているのだろうか?

以上から、この連立政権の「守備範囲」は、やたらと広い、ともいえるし、何でもあり、ともいえる。
だからどんな「政権協定書」を書き上げたのか?興味が尽きない。
残念ながら、いまのマスコミに期待はできないから、日本語で知ることは困難だろう。

まったくもって、ベルリンにいるはずの「特派員」は何をやっているのか?
いや、東京の編集部が取材しても無視するのだろう。
「魚は頭から腐る」ということわざは、そのまま「組織は頭から腐る」になって、『会社は頭から腐る』が出た。

すでに、事前情報としては、閣僚の一部が「新聞人事」で発表されている。
首班は、もちろんSPDの党首、オラフ・シュルツ氏。
外務大臣に、緑の党の党首、アンナレーナ・ベアボック氏。
財務大臣に、FDUの党首、クリスティアン・リントナー氏。

さてそれで、このお三方の政党のシンボルカラーが、赤、緑、黄色なので、「信号機内閣」とあだ名が付いた。
ドイツ経済界は、「CDU/CSU」に失望したとして、新政権に期待を表名している。

一方で、お三方の鼻息は「ある分野」でたいへん荒い。

「人権問題」を前面に、中国への懸念を表明したばかりか、香港や台湾といった琴線に触れまくっているのだ。
とくに、台湾の国際機関加盟を支持する、という発言は、台湾側も歓迎するのは当然で、大陸側の苛立ちがつのっている。

中国依存のメルケル政権からの、わかりやすい「脱却」ということだろうけど、ドイツ軍と日本の提携も視野にあると明言したから、いよいよ我が国も二度目の「NATO]に加盟を誘われるのか?

一度目は、来日したメルケル氏から誘われた安倍氏が、「丁重にお断りした」という腰抜けぶりを自慢する体たらくだけど、今度は「ハッキリ回答せよ」と、「緑の党」の女性党首がハッキリものをいえない首相に迫るかもしれない。

そういえば、我が国にも、防衛大臣経験者の「緑のおばさん」がいたけれど、アラブ好きのこのひとは、「リビアのカダフィ大佐」が病的に好きだった「緑色」をパクっただけだろうけど。