不都合なノーベル経済学賞

ノーベル経済学賞というのは、「なんちゃってノーベル賞」なのである。

この「賞」は、ノーベル財団ではなくて、スウェーデン国立銀行が設立300年を記念して、かってに創設した経緯がある。
それだから、「遺書」にもないので、アルフレッド・ノーベルの子孫は認めていない。

勝手に使うなー!

ノーベルにしてノーベル賞から「疎外」された、人為的な仕組みの社会的定着の例である。
正式には、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」とか、「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」といって、「ノーベル経済学賞」とはいわないのが「筋」である。

でも、なんだか長いので、「ノーベル経済学賞」といってしまうのは、日本人のズボラな性格がそうさせている。
それに、日本人の受賞歴が、ノーベル賞のなかで、経済学賞「だけ」ない、という恨みもあるのかもしれない。

しつこいけど、「ノーベル経済学賞」は、ノーベル賞のうちに入らないけど、だ。

とはいえ、経済学者にとって、やっぱりこの賞の権威は認めざるをえないから、「欲しい」と願うのは人間の性である。
しかし、昨今のこの賞の受賞者が、アメリカ人あるいはアメリカでの研究者に偏っているのは、「経済学」が、「アメリカ経済学」になったからでもある。

日本の大学における「経済学部」が、「文系」に属するのは、かつて全盛を誇った、「マルクス経済学」を「経済学」としていたことの名残である。
たしかに、マルクス経済学は、人文学的要素すなわち、宗教に近いのであるけれど、当人たちは「科学的」と自称して、これを、「社会科学」といっていた。

その「非」科学性は、ソ連東欧の崩壊で証明されたため、大学経済学部における「拠点」と「行き場」を失ったひとたちが、「地球環境」やら「持続可能社会」とかという、「似非科学」をもって、マルクスほんらいの「非科学性」を保守することでの、妙な勢力を確保することに成功した。

でも、これは、横滑りのような「シフト」をしたので、二度と「経済学」の本流とはなり得ないところに特徴があって、それゆえに「環境学」とか「環境法学」とかいう、得体の知れぬ「学問分野」を開拓もした、涙ぐましいムダな努力もある。

前にも書いたが、早稲田大学が、経済学部の入試に数学を加えるという「英断」がニュースになるのは、数学を基礎にする世界の経済学からすればまことに不思議な現象である。

ちなみに、経済学に数学モデルを多用し、「新古典派統合(新古典派とケインズ経済学の統合)」で一世を風靡したのは、あの定番教科書『サムエルソン経済学』の著書で有名な、ポール・サミュエルソン(1970年受賞)であった。

バブル崩壊から30年。
数々の経済学賞受賞たちが、日本経済の再生モデルを提示してきたものの、どれひとつとして役に立たない不思議がある。
また、日本を経済モデルの実験場としたいという誘惑にかられた受賞者も多数いた。

アメリカ人の受賞者たちが、ソ連崩壊時の体制変換に、経済の自由化というソフト・ランディングに失敗したのは、歴史的にロシア人が自由主義経済の経験がなく、いわゆる「資本主義の精神の欠如」、という資本主義成立の基盤ともいえる大問題を無視したからであった。

これは、生まれながらにして、「資本主義の精神」をたたき込まれる、英米人を中心としたひとたちには、うっかり忘れてしまうほどに「当たり前」のことなのである。

そんなわけで、わが国の経済モデルを受賞者たちがどんなにいじろうとしてもうまくいかないのは、わが国が「なんちゃって資本主義」だからである、と書いた。

いまや、はっきりとしてきたのは、社会主義へ邁進しているのがわが国経済なので、英米の自由主義経済を基盤とする経済学が、わが国でぜんぜん役に立たないとかんがえることが合理的である。

さてそれで、2020年のノーベル経済学賞は、「オークション理論」だった。
あたらしいオークション形態もふくまれる。
ポール・ミルグロム、ロバート・バトラー・ウィルソンの両教授である。

ここに、「電波オークション」もある。
いま、世界の先進国で、電波オークションを「やっていない」のは、社会主義のわが国「だけ」になっている。

興味深いことに、わが国のテレビやラジオは、この「受賞」の「中身」を詳細に報道することも「なかった」のだ。
自分たちに「不都合」なことは、報道しない自由がある、という自主的な報道管制をここでも実施した。

あたかも、小学校からの算数や数学の授業に、電卓を使わないがごとくの、わが国の「かたくなさ」は、みずからを世界標準から遠ざけている。
ならば、ソロバン教育だろうと思うけど、これもしない。

すなわち、あらゆる科学の基礎となる、数学を苦手とする「文系」を大量生産し、それでいながら、「科学技術立国」とは、語るに落ちる。

優秀でない日本人をつくって、社会を貧困化させ、よって暴力革命を成功させたい。
ノーベル経済学賞を受賞する日本人は、永遠に出てこない。
それが、国家目標なのだからである。

神奈川県央は豚の街

東京のただのベッド・タウンに落ちぶれた横浜市には、これといって美味いものはない。

それは、横浜中心部の衰退をみれば明らかで、貿易港として栄えたかつての発信力と購買力を失ったからである。
その象徴は、全国に10カ所しかない「アップルストア」が、横浜市内に「ない」ことでわかる。

鶴見川を越えて、川崎まで行くか、川崎を通り越して東京に行くかという選択しかないのだ。
しかも、東京なら、銀座か表参道という選択肢もある。

これをいうと、ならば「誘致」しようといいだすひとがいる。
そういう発想法が、衰退を呼ぶのだとまだ気がつかない。
アップル社は、「経済原則」にしたがって出店しているのだ。
その原則に無理な力を加えることを、「介入」といって、結局はその無理がかえって衰退を促進するメカニズムになるのである。

わが国の観光地は、たいがいが「点在」ということになっている。
街の景観も、食事の名店も、点在しているのが常で、なかなか「面展開」がない。
それで、一応「横浜中華街」が、珍しくも「面」を形成している。

だから、横浜には美味いものがない、というと、かならず反論があるのは承知している。

しかしながら、経済成長を「時代の変化」と読み替えたら、いつの間に中華料理もコモディティ化した。
そこで高級店と町中華とが全国でふつうになったけど、むかしの中華街(横浜の古くからの住民は「南京町」という)を知るものからすれば、いまのあの場所は、市外からの観光客による「おすまし」の観光地になってしまった。

つまり、地元住民のふつう、ではもうない。
もちろん、行きつけのお店はあるけれど、古くからのお店が「絶滅危惧種」になっている。
さいきんは後継者問題で廃業した店を、居抜きで経営者が交代して、あたらしい形態に変化(じつはチェーン化)している。

これを、新陳代謝といういいかたもあるけれど、街自体が「別物」になりだした。
これが、むかしを知るものの「がっかり」と「寂しさ」の原因なのだ。

それは、人生経験におけるさまざまな「想い出」があるからである。
だから、気がつけば足が遠のいて、370万横浜市民の「南京町」ではなくなった。

しかし、役人はこういうところに目をつけて、どうしたわけか「税金」を投入する。
「港」と「中華街」が、市の看板となるからである。
それでもって、たっぷり公金を投じたら、「猥雑ないかがわしさ」を喪失して、よそよそしくなったのだ。

どこもかしこも、人工的に「整備」された、コンクリートとガラスでできた「ポスト・モダン」になったのである。
この「センスの無さ」が、ほぼ全国共通の役人の価値観だから、外国人観光客のなかでも「高単価客」が、「退屈なニッポン」と評価した。

おどろくことに、それだけの公金を投じたのに衰退するのは、店が悪いと決めつけるのも役人の性なので、とうとう観光課とか、観光庁という役所が、都度都度に命令をくだす。
これを、「介入」と感じないから、どうかしているのである。

さてそれで、横浜市という田舎者たちから離れて、相鉄の電車で30分も内陸部にいけば、そこはかつての「高座郡」である。
この土地は、文明開化のかつてから養豚業が盛んだった。

高度成長で需要がたかまった豚の大量生産で、効率重視の豚種がコモディティ化したので、一念発起した高座郡の経営者たちが協力して、効率と歩留まりに劣るが美味さでは劣らないばかりか優れた豚(ヨークシャー種)を原産地のイギリスから輸入して、これを「高座豚」として増やした。

相模川の向こう側、厚木市も養豚が盛んな土地である。
たいがいの外国は、肉食ではあるけれど、「モツ(内蔵)」をそのまま人間が食べる文化は珍しい。
だから、ヨーロッパの肉屋では、まずモツは入手困難である。

われわれのふつうが通じない愉快がある。

これが、いかほどに「価値」あるものか。
そんなわけで、厚木市民のあたりまえ、「シロコロ・ホルモン」が、全国B級グルメで大賞を得たのは、例によって厚木市役所の餌食になるかと心配した。

けれども、地元の専門店は、市民の支持で営業するだけだから、動じなかった。
シロコロとは、豚の直腸部分のことで、これはこれで希少部位である。

丁寧に洗浄するのは当然だけど、炭火で炙ってみれば、ぷっくりと膨らんで、なんともいえないプチッとした食感と、脂っこくないあぶらが口内にひろがる。
この美味さは、たしかに癖になること請け合いである。

新鮮な豚が手に入る、養豚の町ならではのごちそうだ。

電車に乗って行く価値がある。
役所が無理やりつくるのとはちがう、自然体の営業が、地元民に支持されるから、その中に入って経験するのが「観光」になるのである。

常連さんたちの注文方法と、食べ方を横目に、自分で確かめる。
タレでなく、「塩」を選択すると、テーブルにある調味料セットから、自分で味付けをするのも珍しい。

納得の満足である。

電気自動車で破滅

すべては、バイデン政権になる、という「早とちり」が原因であり、世界の凡庸な指導者たちが、あろうことか「横並び」をしているという滑稽である。

国家の経営者たちが、あまりにも凡庸になった。
国民が「安穏」としているからである。

これが、21世紀の現代における世界的な危機の根本にある。

企業においても、「業界横並び」が経営者たちの安心感を生むのは、成長しないという現状の環境を「受け入れる」ことを基礎にしている。
すると、業界の順位を守ることは波風を立てないので、あたかも逆風下にあっても「順風」のような錯覚を得られて安心できるのだ。

これではまるで、犬の群れ、である。

ボスではない犬たちにとっては、たいへん居心地がいい。
しかし、ボス犬へのプレッシャーは半端なく、いかにして群れの生き残りを図るのか?という命題を一身に背負うことになる。

前頭葉が発達して、思考能力がある人間という動物の群れは、ピラミッド構造となる特徴がある。
ボスはひとりだが、サブはふたりとか、その下はさらに複数人がいて、中間管理職層を形成し、その他大勢の人民を支配する。

前頭葉が発達していないから、思考能力に欠ける犬という動物の群れは、1頭ごとに序列をつくる。
ボスも1頭で、サブも1頭、その下も1頭、つまり、中間管理職という集団は存在せず、最後の1頭がビリの立場となる。

しかし、ビリでも犬は、人間とちがって、思考能力に欠けるので、それを恥とも思わず、むしろ、群れ全部の上位者から保護されている立場でもある。
よって、気弱な性格のビリ犬にとっては、精神の安定を得られる仕組みになっている。

なので、犬の群れは、別の群れに遭遇して争いになって敗北し、群れの維持が壊れると、勝った群れに合流して、再び群れ内の序列をつくる。
すなわち、人間とちがって、「横並び」ということをしない。

だから、自己の存在意義を忘れた恥ずべき「横並び」をする人間は、ときに犬以下の存在となることがある。

電気自動車への転換、という政治キャンペーンは、35年後に電気自動車を50%にすると「宣言」した、アジアの大国をボスとした、よこしまな発想をする人間たちの「横並び」である。
地球環境とか、持続可能な社会、などというきれいごとは、よこしまな発想を覆い隠すベールでしかない。

では、このボスは、どうして電気自動車にこだわるのか?
理由はかんたんで、トヨタ自動車に逆立ちしてもかなわないことを知っているからである。
そこで、自分たちが有利となる、ルール変更を提唱したのだ。

わが国経済の要は、自動車産業であることに異論はないだろう。
その中心が、トヨタ自動車だ。
すなわち、このルール変更は、わが国経済を破綻させ、わが国国民生活の劇的貧困化から生じる破壊活動を促す、大戦略のひとつであるといえる。

自動車工業会の会長である、トヨタ社長が「懸念」を表明したのは、現状技術の維持に拘泥したような話ではない。
私見をいえば、もっとハッキリと、侵略に加担するのか?というべきであったろう。

電気自動車は、自分で発電しないから、走行するには電源から電気をうけて、けっして地球環境にやさしくない電池に充電しないといけない。
すると、元の電気はどこかで発電しないといけない。
原発の必要性は、ここからやってくる。

フクシマ以来、いまは発電に火力が必要だ。
すると、電気自動車を走らせるために石油や石炭を燃やすことになる。
また、普及には全国各所に設置する「電気ステーション」のために資材を要する。

鉄やコンクリートをつくるにもエネルギーは必須だから、どこが「クリーン」なのかしれたもんじゃない。
むだな投資をさせて、産業破壊をしようというのだから、まったくどうかしている。

わが国経済に役立たずどころか、破壊工作に邁進する経済産業省は、即刻廃止すべきである。

オーストラリアが保守政権になって、アジアの大国と対立するようになったら、傲りたかぶる彼の国は、あろうことかオーストラリアに「経済制裁」と称して、石炭の輸入を止めてしまった。
彼の国の石炭調達先の最大国が、オーストラリア「なのに」である。

それで、すでに自国の三つの省で深刻な電力不足に陥った。
気温が3度以上あれば、暖房をつけてはいけない。
すさまじき「計画停電」もおこなわれているけど、冷蔵庫にいれなくても室内で用が足りることになった。

こんな状態で、電気自動車とは、漫才のシナリオを書く放送作家だって気づかない「おおボケ」だ。

それよりもなによりも、アメリカ人が覚醒してしまった。
大統領選挙で誰が勝つ、という問題をすっかり通り越して、「合衆国独立宣言」と「合衆国憲法」の危機を認識しはじめている。
その危機をつくった破壊者が誰か?もいっしょに理解しはじめたのだ。

まことに、前頭葉が発達している国民である。

彼ら国民が、「敵」を特定したことの重要性は、30年後どころではない未来の筋道を確定させている。
支配するものたちと、支配されるものたちを「分けること」も常識となった。
すなわち、敵は、支配するものたちに絞られたのだ。

ホワイトハウスには、世界から受け付ける請願制度があって、提起から1ヶ月以内に10万の電子署名を達成すると、半年以内に公式見解が示される。
オバマ政権が設けた制度だ。
これを、トランプ政権が活用している。

今月数が満たず失敗した、「日本政府への調査請願」が復活している。
Petition Title: The Japanese people want an investigation into the Japanese government
ご興味のある方は、ご確認を。

とんちんかんな総務大臣の発想

大臣になると何でもできると勘違いするのか?それとも、最初から勘違いしているのか?不明だけれど、最初からなら、「勘違い」というのかも不明だ。
近代民主主義の政治環境、三権分立があるなら、「精神異常者」に分類されることになる。

NHKの受信料徴収に、郵便局員をつかえば、営業経費のなかの徴収経費が削減できると発言した。

確かにNHKの予算は、国会承認がひつようだから、事前に総務省の窓口と協議して、OKが出てからが正式な「予算案」となって国会に提出される手順となる。

しかし、本来の「行政権」は、NHK予算の中身ではなくて、あくまでも「手順」の遵守にある。
中身は、国会で審議するものだからである。
それなのに、国会側も越権だと怒らないのは、三権分立をしらないからで、また、役人が見たなら大丈夫だと、自らの役割を放棄するのが当たり前になっている。

これが、わが国の行政権が立法権にも及んで、総務省の窓口が、予算の中身に文句をつけて修正をさせる、という越権行為をふつうだとしている理由なのである。
それで当然に窓口の親分である大臣も国会議員の身分でありながら、NHKの経営に罪の意識なく介入できるのである。

マスコミのノーチェックもあって、国民もこれを、「異常」だと認識できなくなったから、歴代の総務大臣(郵政大臣時代から)は、NHKの会長を恫喝したりして、なんだか偉ぶることができる。
まさに、時代劇の、お代官さまと悪徳商人の密談のごとくである。

国民が、「NHK問題」とおもっているのはいくつかあって、そのひとつが、戦前からある「受信料制度」であることはまちがいない。
けれども、これには、放送局としての基本的なサービスである、「放送内容への不満」も重なっているのだ。

さらに放送内容は、質と量の問題に分けることができる。
「量」とは、放送時間のことと、放送(電波)帯割当がある。
そこで、NHKでは、BS放送とBSプレミアムの統合や、AMラジオを廃止して、FMへの統合をもって対処しようとしている。

この「自己改革」で、放送経費が削減できるという。
しかし、国民の興味をひろわないのは、肝心の「質」に手をつける様子がないからである。
つまり、国民はNHKが今以上に利益をだすことを求めているわけではなく、むしろこれを、儲け主義の「欺瞞」だと感じている。

アメリカ大統領選挙報道というひとつのテーマを例にしても、NHKの報道の質は、かなり劣っており、むしろ、一方的な価値観を押しつけるプロパガンダ放送と化したから、情報リテラシーがある視聴者は、これまで以上に契約廃棄やスクランブル化を求めだしているのである。

すなわち、放送法の履行(公正さ)を遵守させる、という意味でしかない総務省の行政権を、きちんと発動せよ、というのが国民要求なのであって、どうして受信料の徴収方法を大臣がいわないといけないのかの根拠は、そもそも「法にない」のだ。

すると、この大臣発言は、NHKの経営権に対する違法行為を平然と発言した、というニュースなのである。

そして、もっと深刻なのは、郵便局員の業務にまで及んだことである。
「郵政民営化」を圧倒的に支持したのは、たしかに国民であった。
小泉政権の地滑り的大勝利りよって、郵政省がなくなっただけでなく、ほんとうに「民営化」されたのだ。

これによって、日本郵政株式会社がホールディングス会社となっている。
このホールディングス会社は「上場」したものの、政府は相変わらず30%の大株主である。
ただし、傘下だった、「かんぽ生命」と「ゆうちょ銀行」の株式は、2017年10月から完全処分=民営化された。

よって、あいかわらずホールディングス会社が100%保有する、「郵便局」と「日本郵便」についての支配権は、政府が3割を確保しているともいえる。
けれども、裏返せば、7割は民間資本なのだ。

したがって、大株主ではあるけれど、総務大臣の発言は、民間企業に対しての、明らかに「暴論」といえるものである。
日本郵政株式会社の取締役は、大臣発言に対して「大株主の意向として尊重はするが、命令はできない」とちゃんとコメントすべきである。

マスコミのチェック機能があったすこし前の時代なら、こんな大臣は、「辞任」してもおかしくない。
こんなポンコツな大臣を、解任できない内閣首班も、「任命責任」をとりたくないから、とぼけるのである。

そんなわけで、政府と民意との乖離が日を増して広がっているのがわが国の現状である。
どうして機能不全になったのか?
根本的に掘り下げることからやらないといけない。

来年以降の喫緊の課題であって、かならずや解決しなくてはならないのである。
でないと、国の最期がやってくるのだ。

「砂上の楼閣」状態。

これはすでに、「外部経営環境」の危機であるから、企業経営者ほど敏感でないと、自社が危険にさらされることになる。

歴史的な暮れの大掃除がはじまる

12月18日が期限だった、2018年9月12日の「選挙に関する大統領令」にある、国家情報長官からの「報告書」が期限通りの最終日に、大統領をはじめとする閣僚及び連邦議会に提出された。
日本時間では19日のことである。

本報告書は、今週になって官僚機構の反対からまとまらず、来年1月に提出が延期される旨のアナウンスまであったから、すさまじき情報戦の展開が、提出だけに関してもおこなわれていたことがわかる。

報告書全文は機密扱いされているようではあるが、一部がさいきん不評を買った元?保守系マスコミ「FOXニュース」で報道されている。
情報源は、カリフォルニア州選出の共和党下院小数派院内総務を務めるケビン・マッカーシー議員となっている。

それによると、民主党で今回の大統領予備選にも出馬しながら、最速で撤退を表明した、カリフォルニア州選出の連邦下院議員、エリック・スウォルエル氏への「ハニートラップ」が確認されたもようである。

ただし、この情報は、とっくに漏れていて、トラップを仕掛けた女性の履歴と行動も話題になっていたし、そもそもスウォルエル氏が務める下院諜報委員会では委員辞任を求める議論もはじまっていた。

また、同時に、民主党員のうち200人にハニトラがかけられているとの記載があるという。
これだけでも、大事件だけど、おそらく本文は、「超新星爆発級」の内容になっているはずである。

ポンペオ国務長官と、ムニューシン財務長官は、同時にそろってほぼ同じ内容をつぶやいた。
「大統領令に基づく処置の発動のため、省庁間で協議する」、と。
財務省が登場するのは、関与した者の個人財産没収に関係するからである。

すなわち、いよいよ歴史的な大掃除(ワシントンの沼の水を抜く)の開始準備の最終局面を迎えたということである。

このつぶやきの1時間後、ミラー国防長官代行はホワイトハウスで大統領との会談を経て、国防総省職員にバイデン氏側との接触を禁じ、政権移行手続きを事実上停止した。

この衝撃に、はやくも周辺情報も乱れ飛んでいて、「特別検察官」人事では、シドニー・パウエル軍事弁護士の名前があがるも、ジュリアーニ弁護士が反対しているともいう。
もはやぜんぶが情報戦の材料なので、当事者しか真実はわからない。

そして、あの忌まわしい「エプスタイン島」の曝露もはじまっている。
獄中死した富豪のジェフリー・エプスタインが「個人所有」していた、カリブ海はヴァージン諸島のリゾート、リトル・セント・ジェームズ島のことをいう。

別名、「乱交島」。

エプスタインは、その特異の性癖をもって知られ、人身売買とくに小児を相手とした性犯罪で獄にあったものが、なぜか「自殺」したことになっている。

この島への「渡航歴」が意味するのは、究極の「背徳」である。

渡航できるのは、エプスタインから招待をうけたものだけに限られるのは、個人所有ゆえの当然である。
「常連」に、ビル・クリントンの名前があるのは、島での出来事を語るのに説得力がある。

名誉毀損を得意とする無敗弁護士、リン・ウッド氏は、さいきんの連邦最高裁による責任放棄に関連して、長官のロバーツ判事に向けて、「エプスタイン島への搭乗記録に載っているジョン・ロバーツとは、あなたのことか?」とつぶやいている。

連邦最高裁長官の名誉に関する重大な発言だけど、一言も反論できないのは、よほどの「証拠」をもっているのだろう。
ネット界隈では、この島で楽しそうに海水浴をしている、本人とビル・クリントンその他がいるスナップ写真が拡散している。

さらに、本稿冒頭でリンクをつけた、以前の記事で書いた、『ゴッドファーザーⅢ』における「バチカンのスキャンダル」のような印象というのも、なんだか現実味を帯びてきたので、我ながらそら恐ろしい。
英『エクスプレス』紙の報道で、クリスマス後にローマ法王が退位するとある。もしや「島への搭乗名簿」に?

フランシスコ法王は、今年、イタリアを訪問したポンペオ国務長官の面会要請を断っていて、アジアのあの国におけるキリスト教徒弾圧を黙認しているのである。

そんなわけで、政界、官界、軍、裁判所、財界、宗教界、マスコミ、ITといった、あらゆる方面における、沼に棲まう生きものたちを徹底的に排除する大掃除は、やるやらないの議論ではなく、「いつ?」、「どうやって?」という段階に入ったのである。

省庁間の調整となれば、かなめの司法省では、バー長官の辞任日が23日なので、当日か翌日が「いつ」にあたりそうだけど、トランプ氏は1月6日の選挙人選挙の開票日に、ワシントンD.C.における集会開催を呼びかけた。
彼自身が集会を直接呼びかけたのは、これが、「初めて」なのである。

ちなみに、バー氏は「今後、家族と共に長期休暇に入る」と、辞任の辞に書いたけど、それは、カリブ海のキューバにあるグアンタナモ基地の、できたばかりの「保養地」か?
ここなら、無料で死ぬまで長期滞在できる。

用意周到がトランプ氏のやり方だから、まだまだ、ぎりぎりまで、沼の生きものたちをおびき寄せるつもりだろう。
ついうっかり勇み足をしでかした、ミッチー・マコーネル共和党上院多数党院内総務の政治生命はすでに尽きたし、戒厳令なら軍は従わないと突如表明した大将の陸軍長官と参謀長の名前も挙がった。

さてそれで、肝心の方法については、限定的戒厳令の施行が「噂」されている一方で、反乱法と大統領令の発動で十分という話もある。
法解釈の問題になるので、わたしにはわからない。
とはいえ、12月2日の重要演説から類推すれば、戒厳令ではないとかんがえる。

とにかく、壮大な「捕り物」がはじまるのは確実だ。

余波でくるのは、しっかり裏切った、わが国政権と財界・マスコミ界への影響(制裁)である。

残念でも無念でもないのが、残念なのである。

国防政策委員会委員の本

ルーマニア生まれのルトワック氏ら8人が、12月14日に「新」国防政策委員会委員に任命された。
この日は、大統領選挙の選挙人投票日でもあったので、勝利「確定」とした民主党は「新政権」に対する嫌がらせとしてこの人事を批難した。

「新」というからには「旧」がある。
11月30日に、元国務長官ヘンリー・キッシンジャー氏とマデレーン・オルブライト元国務長官を含む11人の国防政策委員会委員を解任したのだった。

「ワシントンの沼の水を抜く」という、ことごとく実行したトランプ氏の公約で、唯一残った政策を、あくまでも実施したのだと見れば、これらの人物たちは、まさに「沼」に棲息していると見られても納得がいく。
共通のキーワードとなるのは、「あの国」との関係である。

とにかく、ニクソン・ショックのひとつに数えられる、歴史的・電撃的な国交樹立は、世界を驚嘆させたことはまちがいなく、そのお膳立てをしたのがキッシンジャー氏だった。
あれから、半世紀、このひとが健在で、しかも重要ポストの国防政策委員だったことが驚きである。

オルブライト氏は、クリントン政権のときの国務長官だ。
この手の話に「性」をいうのはいかがかとおもうけど、世に「初」の女性国務長官といわれた。
もとは、チェコのプラハ生まれのユダヤ系(本人はカソリック)である。

なので、ナチスから逃れることになったのだけど、どういうわけか民主党よりのひとである。
カーター政権では「国家安全保障会議」のスタッフを務めている。
いまは、自分の財団の長として、「あの国」との関係でコンサルタントをやっていることが、さまざまな疑惑を生んでいる。

本稿で話題にするルトワック氏は、ルーマニア生まれで、母国の共産化によってイタリアに逃れ、その後イギリス国籍を得るにいたるから、少しだけオルブライト氏にダブルのだけれど、方向は真逆になっている。

「戦略」に関する現代の世界的権威のひとりだ。
こうした人物が、わが国のことをテーマにした著作があるのは、興味深い。

 

そこで、少しだけ本書に踏み込むと、わが国の戦略テーマは、「若返り」だと指摘している。
しかも、その発想の基本に、「国防は最低限の福祉」と明言している。
わざわざ書かないといけないところに、日本人への戦略がある。

なぜなら、日本人にとって、いつの間にか福祉とは、「公的年金」や「公的健康保険」あるいは「老人福祉」になってしまったからである。
もちろん、介護保険もこのなかにふくまれる。
すこし、範囲を広げれば、たとえば「財形貯蓄」や「NISA」もある。

つまり、「おカネ」に関する各種の制度だと思い込んでいる。

けれども、国家が国民に提供する福祉で、もっとも重要なことは、「安全保障」なのだ。
なにも外国のえらいひとからいわれる筋合いではないけれど、もう、わざわざいわれないと、わからなくなっている。

もっといえば、もしや「怒り出す」ひともいるかもしれない。
これを、「絶対的平和主義」といえばそれまでだけれど、「いいひと」に多くみられる現象なのが困りものなのだ。
さらに症状がすすむと、「平和憲法」を持ちだす活動家になる。

この「いいひと」たちは、こちらから手を出さない限り、周辺各国の善良な国々が悪さをするはずがない、と心から信じているか、特定の政治体制の国の属国になることが幸せなのだと信じている。
困るのは、この信仰を他人にも強要することだ。

すると、国境を堅く守る国家の行為を「わるいこと」とするので、いかんせん、安全が脅かされても放置することが「平和」になるのである。
こうしたことを勝手に信じる分には勝手だけれど、ちょっとでも実現されたら多くのひとが犠牲者になる。

だから、こうしたことを「わるいこと」としないと、国がもたない。

すると、「国」とか「国家」とかいうのが「古い」という話になって、「国境なき世界」すなわち、「グローバリズム」が正義だといいいだすのである。
そして、それが、「人類は一家」とか、「八紘一宇」とかいう、「理想」となるのだけれど、どういうわけか「それは右翼」だと否定する。

ならばなにが理想かときけば、「SDGs」とか、「持続可能な社会」という。
ぐるっと回って、180度、地平にあるという意味で「右翼」とどこがちがうのか?まったくおなじをわざわざ正反対という。

わが国が独立するにあたって、同時に発効したのが「日米安全保障条約」だった。首輪で絆(ほだ)されたのに、日米の絆(きずな)という。
過去には二度ほどの大きな反対運動があった。
「60年安保」と「70年安保」である。

60年の安保反対デモに参加したと自慢していた叔母に、安保条約のどこがまずくて反対したのかと質問したことがある。
するとあっさり、そんなもん読むわけないでしょ、と一喝された。
じゃあなんで?としつこくきいたら、「岸が嫌い」だった。

それから10年したら、発想も世代もちがうひとたちが「反対」を唱え、運動がどんどん分裂しながら過激化した。
さらに10年したら、「80年安保」なることばもなくなって、いまは、「同盟国」でおさまっている。

でも、同盟には条件があって、「自国の安全保障に真剣に向き合わない国は、アメリカにとって同盟国とは認められない」と書いているひとが、このたび国防政策委員になった。

ただ単純にアメリカが守ってくれる、ということではない。
トランプ政権が、アメリカで戦後初めて、「日本の自立」を本気で促しているのは、「アメリカ・ファースト」だからである。

日米の絆はそのままに、絆しを解除するといっているのだ。

日本がふつうの国になる機会が、戦後はじめてやってきた。
だから、反トランプが、わが国ではびこるのだ。
自立したくない。

さてはここに、どんな「戦略」があるのか?

エビデンスと政治判断の倒錯

新型コロナの対策が混迷するのはどういうことか?

それは、あんがい簡単な言語構造があるからだ。
大臣職にある政治家が、エビデンスを語り、専門家会議の医師や学者が、政策を語るからである。

この倒錯が、混迷の原因である。

医師や学者が提供すべきが、エビデンスであって、これをもとに政策を決めるのが政治家の役割である。
それが、「逆転」しているのだから、混迷するのは当然である。
ならば、なぜこんなことが発生するのか?

わが国の「体制」が、行政府を筆頭とした「官僚政治体制」になっているからである。
すなわち、あろうことか「憲法違反の体制」が完成したということだ。

近代国家の憲法とは、国民から国家・政府への命令書である。
だから、憲法を守らなければならないのは、すべての公務中の公務員である。
公務員であっても、勤務を終えたら一般人になるので、公務中に限る。

しかし、わが国の近代史は、憲法を国民が書いた、という感覚を持たずに憲法ができた。
明治憲法も、その改正という形式をとったいまの憲法もしかり、である。

だから、国民は、憲法を護り守ることの重要性を、本気で意識してはいない。

憲法を護ることには、憲法改正・修正だってふくまれる。
一字も変えてはいけない、ということが、必ずしも「護る」ということにはならないから注意がいる。
むしろ、社会の変化で憲法自体が陳腐化してしまったら、かたくなに「護る」ことが、意図的な破壊行為にもなりえるのだ。

このときに変更を要するのは、事情変更の原則、がはたらくからである。
明文憲法が修正される理由がこれだ。
イギリスのように文章化されていない憲法なら、賢人がこれをちゃんと修正するようになっている。

さて、国民の代表が議員となる。

市町村から国家まで、この仕組みになっている。
でも、ふだんのふつうの生活で、憲法は遠くにある。
だから、選ばれたひとが、突如、憲法を護り守らないといけない、となっても戸惑うのである。

それで、一夜漬けになるから、ことばだけでいえばよしになる。
こうして、ちゃんと勉強したはずの高級官僚に、議員が口で負けるから、最初から議論を挑まないで鵜呑みする。

こうして、国家で決めるべきことがぜんぶ、政治家ではなくて官僚がその任を果たすことになった。
そしてこれが、官僚たちに都合がいいのは、「決済」だけを議員にさせるので、じぶんたちは無責任になれるのである。

お決めになったのは、議員の皆さまたちです、といえばそれで済む。

つまり、無限の無責任体制というのが、官僚政治体制の特徴となるのだ。
諮問委員会のメンバーを官僚が選ぶのも、専門家がいっている、という責任の所在をつくることで、官僚の無責任な立場が維持できる。
まことに官僚にとってのすばらしい、システムなのである。

ではいったい官僚はなにをしたいのか?
それは、あらゆる公的予算のカネを、官僚が差配して使いたいのである。
カネの使い途を差配できることに、利権がうまれるからだ。

この利権を得ること、これが目的になる。

こないだ山梨県笛吹市のスーパーでみつけた、自治体指定のゴミ袋。
レジ横の「ゴールデン・コーナー」にあった。
みると、10枚入りで300円だった。
おもわず、「驚くべき利権!」といってしまった。

この発見で、この市に住んではいけないことがわかる。
吸血鬼のいる市だと、宣言文を読んだ感覚になったのである。
住宅の3割が空き家の日本一は、こうしてつくられている。

このように、国民や住民のことはどうでもいいのである。

そんなわけで、たまに「とんちんかん」な政治家が現れる。
たとえば、福岡市長がいい例になる。
このひとは、福岡市における感染者数とGO TOにおける市域への流入数との比較ができるグラフをつくらせた。

すると、素人が見ても一目瞭然の、「無関係」がみてとれる。
それで、福岡市はGO TOを継続実施すると結論づけた。
まことに合理的、みごとな思考回路で「まとも」だから、哀しいかないまのわが国では、これが「とんちんかん」になるのである。

都道府県レベルになると、だんだん狂いだして、全国でも名が通った有名知事の発言と政策は、とうてい福岡市の比較にならない「分裂症」を発症する。
しかし、狂ったことが、「正常」だと変化するのだ。

どういう理由かわからないけど、飲食店の営業時間を「自粛」させることを好むのは、おそらく、自身がなにかをしたというアリバイ工作なのだろう。
もちろん、とてつもなく害を被る、飲食店経営者や従業員たちがどうなっても、このひとたちのしったことではない。

そして、とうとう国レベルになると、完全に倒錯して、専門家会議の座長という誰だか知れないひとが、GO TOにゴーをかけたりストップさせたりする発言を、さも正義のごとく発するけれど、こんな役割も権限もあるはずがない、というひとがいなくなった。

この勝手な発言を、単に受身になって、それでは困ると、内閣の大臣が、がまんできずにエビデンスを語るのである。
そして、肝心の国会が、脳死したままでいるのだから、国民もこのまま脳死するしかない。

まったくもって、怖いものがないようになったのが国会であって内閣である。

「おきに」と「ごとに」の面倒さ

「コミュニケーションの難しさ」を感じるのは、ある程度の年齢になってからの学校や部活、それに会社という「他人がたくさんいる場所」で経験するものである。
やっと隠居の身になっても、もちろんならなくても、町内会や自治会でも、コミュニケーションの難しさを経験するから、あんがい一生のテーマなのである。

ある程度の年齢にならないうちは、コミュニケーションがとれていなくても、互いに互いの世界で満足するから気にならない。

海軍のレーダー兵だった父は、戦後一時期アメリカ軍の基地で電気工として勤務していたことがあって、アメリカの独立記念日に何度かその基地に連れて行ってもらったことがある。
父にすれば、休日の職場の祭りに家族で参加するという気分だったろう。

「日本人」という意識が希薄な幼児期なので、かすかな記憶になるけれども、会場内を運行していた機関車型の連結バスに興奮したし、初めてバーベキューを食べて、生まれてからたった数年の経験しかないのに、その生活水準の違いすぎる違いに気がついたものだ。

あまりにも、うまかった、のである。
めったに食べないから、その味がはっきりしないはずの「牛肉」を、子どもながらにたらふく食べて、シェイクを飲んだり、本物のアイスクリームが山盛りできて、溶ける速度に食べるのが間に合わず、そのへんがベシャベシャになった。

幼児たちの遊び場では、金髪の子たちと一緒に遊んだけど、どういうわけかコミュニケーションが取れていたのは、互いに母語が未完成だったからだろう。
積み木を一緒に組んで、なにかをつくって遊んだのを覚えている。

そんなわけで、翌年は、なるべくアイスクリームを注文せずに、もっぱらシェイクにしたし、バーベキューでも、選り好みをした。
父はどうして、より高級なアイスクリームを食べないか不思議がった。
でも、その量が、やっぱりという山盛りだったのである。

前年に一緒に遊んだ子たちはもう誰だかわからなかったものの、やっぱり一緒に遊んでみたら、少しだけ何を言っているのかわからなかったから、わたしの日本語が上達していたのだろう。
数年後には、完全にわからなくなって、いまに至る。

1973年から放送されたドラマ、『走れ!ケー100』をあんまり観なかったのは、基地内のバスの経験があったからだろう。

おとなになると、自分の言葉が他人に通じない、ということを経験する。
もちろん、どちらも日本人だから、言葉が通じないと、あんがいといきなり「不信感」が芽ばえることになる。
これは、日本人に「言霊」信仰が完璧に浸透していることも原因だ。

ふだんまったく意識しないから、信仰として「完璧」なのである。

だから、どんな組織内でも、不満のはじまりは、言葉が通じないことによる。
すると、これは話し手(発信者)と受け手(受信者)における、日本語能力にギャップ(どちらかが高く、どちらかが低い)があるか、あるいはどちらも低いか、となる。

どちらも低いばあいは深刻で、通じないことの理由を自分の側に認めることができないから、いちどできた溝は深まるばかりとなる。
ひとりで悩むのにガマンできなくなると、おなじ仲間が集まるという物理現象がかならず起きる。これを、「類は友を呼ぶ」という。

ここでいう、「類」は、日本語能力が低い「たぐい」のことなので、仲間ができるとエネルギーを得て、まずは内輪での愚痴大会が、そのうち自己主張をはじめて「勢力」となるものだ。
そして、相手も日本語能力が低ければ、いずれ衝突が発生する。

これを、日本語能力が高いひとが見ると、「どっちもどっち」になるのだけれども、「上司」なら、衝突前に解決すべきことになる。
ということは、日本語能力を高めないと、将来「上司」になれない。
かんたんにいえば、「出世できない」のだ。

さてそれで、こんな「問題」を解いてみよう。
・一年おきに大会が開かれる。(X年に1回)
・一年ごとに大会が開かれる。(Y年に1回)
X=?
Y=?

こたえは、
X=2
Y=1
どうだろう?
ややこしいのだ。

しかしながら、日本語の文法で明確な「決まりがない」ことにより注意がいる。

例1:「おき」⇒「ごと」
町内の行事開催が、昨今簡素化しているために、以下のような会話がある。
Aさん「この行事は、来年から2年おきに行います。」
Bさん「3年に1回ということですね?」
Aさん「いえ。2年に1回です。2年ごとに開催します。」

例2:「ごと」⇒「おき」
集合住宅の防災訓練の準備で、その実施手順を印刷して配布したなら、非常ベルの鳴らしかた、が反省会で「大紛糾」することがある。
Aさん「『5分ごとにベルを1分間鳴らしてください』って書いてありますよね。」
Bさん「はい、だから、5分に1回鳴らすんですよね?」
Aさん「いえちがいます。1分鳴らしたら5分休みます。だから、6分おきに1回鳴らすということじゃないですか!」
Bさん「えっ?」

愚直に「確認すること」が、救いの道である。

新聞を捨ててはいけない

歴史の節目を証言するのは、図書館に保存される「縮版版」ということになっている。
縮版版とは、本紙を縮版コピーしてひと月分とかに綴じた、分厚い本のようにしたものをいう。

「コピー」だからといって、編集されることはない、というのはあたらない。
むかし、日本を代表する「A新聞」の縮版版の記事が、改竄されていたことが論壇で大問題になったことがあると記憶している。

つまり、新聞社とは、あくまでも「パブリッシャー(出版社)」なのだ。
世界史の分水嶺となるアメリカ大統領選挙は、15日、選挙人投票がおこなわれて、いよいよそのステージを高めているようにみえるけど、もはや、「緊急事態」なので、平時のルールは通用しない。

その場で消えてなくなる、放送による報道とちがって、新聞には保存性がある。
わが国の新聞社は、大見出しで「確定」と書いているけど、それは、あくまでも「平時なら」という条件がつく。

そんなわけで、どんなことになるかはわからないものを、「確定」と表示するのは、ものすごくリスクがあることなのだ。
もし、ひっくり返ることが起きたら、「世紀」ではすまされない、歴史的な大誤報となって、新聞社に一大ブーメランが飛んでくる。

そこで、どんな言い訳を読者にさらすのか?が、楽しみでしかたない。
でも、縮版版を編集して、「書いていない」と惚けることもできるから、節目の新聞は保存しないといけないのだ。

選挙人投票の翌日になった15日、これからの「非常時」にふさわしい動きが重なって起きている。
・7州共和党が、州政府とは別に選挙人投票したこと
・司法長官の辞任と繰り上がり人事
・州最高裁命令による選挙投票機の調査結果における不正発覚
・連邦上院共和党院内総務による祝意

選挙人制度とは、合衆国憲法における大統領選出の手順として記載されている制度で、選挙人を選ぶのは各州議会とだけ定められている。
11月3日の、有権者投票は、議会の参考に過ぎないのである。
けれども、平時には、有権者投票の結果を議会が事務的に認定することで、決めていた。

厳密にいえば、投票集計の事務を行うのは行政府である州政府だから、州政府の結果報告を事務的に議会が認定するのだ。
しかし、前代未聞の大規模選挙不正が実施された、ということで、とっくに平時ではなくなったから、議会が州政府と対立することになった。

7州の共和党が別個に選んだというのも、これら州議会で共和党が多数を占めるからなのである。
J・F・ケネディとニクソンが争ったときの選挙で、ハワイ州議会が別個の選挙人を選んだ。それでハワイ州議会の民主党候補への投票が「得票」になったことがある。

今回この7州の票は全部で、84票となるから、議会が別個に選んだ選挙人票がどのように扱われるかによっては、「確定」どころではない事態となるのである。

なんにもしない、と評判だったバー司法長官の辞任で、司法省のトップは繰り上がり人事となった。
次官が長官代行になって、ナンバー3が次官になった。
注目されているのが、あたらしい次官なのだ。

このひとは、元は米軍の法務官にして、精鋭として定評のある空挺部隊にもいたひとだ。
米軍の法務官とは、軍法会議を取り仕切るひとだから、司法省にあっては特異の存在なのである。そして、軍法会議での、弁護人、検察、裁判官の全部を経験している。

不正を全米という大規模で行えたのは、集計機の存在なくして語れない。
その集計機を、裁判所命令で調べたら「真っ黒」だったことが判明したけど、どういうわけか結果公表をしない訴えが認められて、ずっとナイショにしていたものが、裁判所によって情報解禁になったのである。

これは、重大な事実認定がされた、ということだ。

また仮想勝利者の息子所有のPCから発覚したスキャンダルの調査も進めば、「確定」したのに、候補者不適格となることもある。

そんななか、共和党の重鎮が、沼からの息継ぎをしでかした。
このひとの夫人は、現職の連邦運輸長官だけれども、夫人の父親が経営する会社が、C国と巨大取引をしていることがわかった。

夫人とともに、掃除の対象になるやもしれぬ。

以上、これらのことは、日本の新聞に一字もないので、どういう言い訳をするのかが楽しみなのである。

だから、新聞を捨ててはいけないのだ。

可愛いパンダと醜い人たち

パンダ、ちゃんといえば、ジャイアント・パンダという珍しい動物がいるこを知ったのは、もう半世紀も前のことになる。
でも、突然この動物が沸いてくるわけもないから、ずっと昔から存在していたことは確かだ。

「地図」というものも、むかしはよく書き換わった。
けっこう頻繁に、国境が変わったからである。
もちろん、つい最近まで「国」でなかった地域がたくさんあったから、国が増えれば国境も変わる。

近代を知っているひとたちが、近代を知らないひとたちを「征服」すれば、たちまちに国境を設けないと、別の近代を知っているひとたちとの争いになることも知っているからである。
こうやって、南北アメリカ大陸やアフリカ大陸、それにユーラシア大陸で、新しい「国」が林立した。

テレビの架空の物語で、怪しい国の国名でよく使われたのが、「ローデシア」だった。
ところが、アフリカに本物の怪しい国、「ローデシア」があったから、急に使われなくなったのも、「情報化」の効果である。

ほんとうは国境があるのに、なんだかわからなくなっているのが、いわゆる「中国」という国で、いつの間にかに、歴史的な国境線の万里の長城を、地図で呑み込んで、ついでにその他の地域も呑み込んだ。
最後の王朝だという、「清国」の国境は、いまよりずっと内側にあるし、この王朝の支配民族の名前「満州族」を指した故郷の「満州」は、やっぱり知らない間に、「中国東北部」という放送用語となっている。

最後の皇帝が、日本の関東軍にかつがれて、「満州国皇帝」になったのは、ふるさとの国に帰っただけという理屈がある。
これを、「屁理屈」だという論があるけれど、どこが「屁」なのかよくわからない。

くわえて、当時の国連(「国際連盟」)から派遣された、リットン調査団の、『リットン報告書』に反発して、わが国は国際連盟をかっこよく脱退したけど、そもそも提唱者のアメリカが加盟しない国連だから、報告書を執筆した「欧州列強」の曖昧な書き方が一層不気味なのである。

腹黒い列強に、はめられたともいえるのであるけれど、なんだか恋人が痴話喧嘩をして、一方がその場を振り向かずに去るような、無邪気とも純粋ともとれるのが、わが国の「浅い」ところなのだろう。
感情的なその場、はいいけれど、後悔しきりということになる。

「力」の空白地帯には、かならず力が入りこむ。
パワーポリティクスの常識が、多民族のいる場所では、よけいに如実になるのである。

そんなわけで、パンダである。
この動物がどこに棲息しているのか?を地図でみると、なかなかの場所になる。
いわゆる、少数民族の場所にあたるから、すなおに「中国」といえるのか?

それでもって、飛行機にのせて外国へ送り込むことができるので、あんがい「便利」な動物になっている。
その愛くるしさは、人類共通の脳内処理で、「可愛い」という感情を得るからである。

供給できる数に対して、需要が大きければ、価格が上昇する。
けれども、たいへん賢いひとたちが、これを、「販売」でも、もちろん「贈与」するのでもなく、「レンタル」することにした。
「リース」でないのは、途中解約が「できる」からだ。

しかし、解約の通告は、貸した側の一方的権利なので、ここにも貸出を受ける側の、「足元をみる」という需要の高さに対する、価格以外の有利な条件も付加することに成功している。

こうして、まごうことなき、「政治利用」が行われている。

料金は、年間で、一頭あたりおとなが1億円で、貸出先で面倒をみて産まれた子どもにも、一頭あたり4千万円となっている。
これを、生体展示する動物園が負担するのか、どこのだれが負担するのかはあるけれど、きっちり請求が毎年やってくる。

さいきんは、アメリカとオーストラリアで、それぞれ契約期限が終了したけど、次がないのは、関係悪化による提供拒否がはじまっているからである。
こうして、パンダ・ファンたちをがっかりさせて、それが自国政府の「まずい手」によると責任転嫁させるプロパガンダをやるのだ。

みごとな仕掛けが、用意されている。
これを、「パンダ・外交」という。
まったくもって、パンダにはなんの罪もない。
あるのは、邪悪なひとたちがいるということだ。

わが国には、三カ所の動物園でレンタルしている。
東京・神戸・和歌山だ。
東京は北京市、神戸は天津市、和歌山は済南市が姉妹都市になっている。
パンダの生息地、四川省とは関係がない。

さては、いつまで姉妹都市をこれらの「市」と続けるのか?
これも、人間側の話である。